スーダン日記

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3−1.JICA事務所の設置
 第2章で述べたように、2005年には、首都ハルツームの国際協力省に事業を調整するための専門家を派遣し、2006年から、南部スーダン・ジュバで徐々に事業が立ち上がり始めていた。だがスーダンにはまだ「在外事務所」が設置されていないため、事業を進める上で必要な先方政府との打ち合わせや安全対策などは、本部アフリカ部の担当者が東京から出張するか、あるいは地域を管轄する『ケニア事務所』と当時ケニアに設置されていた『東南部アフリカ地域支援事務所』が必要に応じてスーダンに出張するなどの対応をしていた。

 当時スーダン政府、特に南部スーダン政府(GOSS)は出来上がって間もなく、省庁の体制も全くと言っていいほど整っていなかった。仮に事前にアポイントメントを取っていても相手側の重要人物に会うことが出来なかったり、文書1つ書いてもらうにも日参する必要があり、事業を進めるための調整や手続きには困難を極めた。また、当時のジュバは内戦後まもなく治安状況にも不安があり、日々情報収集をする必要があった。実際に、2006年12月には、SPLAの兵士が給与の未払い問題に抗議するためにジュバの街中でデモをする騒ぎがあり、多くの外国人スタッフが国外に脱出するような事件が発生した。治安状況も安定しない最前線で、JICA事業を展開する以上、やはりJICA職員が常駐する事務所を設置する必要は、内部からも上がっていたが、事務所設置の意思決定や所長となる管理職の人選ができないまま、時間が経過していた。

 JICAは正式な「在外事務所」設置に先立ち、2006年10月、阿久津謙太郎職員を企画調査員として、ハルツームに派遣し、ホテルの会議室を間借りして、フールド・オフィスを設置した。フィールド・オフィスはいわゆるJICA事務所として相手側政府と合意文書に署名したり、公式な文書を出す権限はないが、南北両政府との連絡調整やプロジェクト・日本からの調査団の支援などを行なうことにより、迅速かつ円滑に事業展開が可能となる。

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 あわせて、ジュバにもフィールド・オフィスを設置したが、2006年段階では人員上ジュバには、JICA職員を配置できず、出張者の宿舎(ベッド1つ)兼作業場所(机1つ)のようなものであった。当時はこのコンテナも1泊200ドル(食事付)もしたのである。
 
 2006年の年末頃まではテントホテルとテントの事務所であったことを考えると、格段の進歩であった。
                                         ジュバ・フィールドオフィス(2007年)
 
 
 
東南部アフリカ地域支援事務所
 2003年の緒方理事長の就任以降、アフリカへの事業を大幅に増やすことになった。しなしながら、20か国程度に存在した各国の『JICA事務所』も人数が少なく、新しい事業を発掘するだけの余力がなかった。
2004年頃からアフリカ各国のJICA事務所の人数を増やし始めたが、新しい分野の事業を発掘するためには、人数増だけでなく、例えば、水や保健など専門的な知識を持ったスタッフの配置が不可欠だったが、3,4人ぐらいの規模の事務所では、カバーできる範囲が限られていた。そこで、アフリカ地域には、3か所の『地域支援事務所』が設置され、分野の専門家がそれぞれ数名ずつ常駐し、アフリカ各国での新規事業発掘に大きな役割を果たした。(私がガーナに駐在した時も、例えばHIV/AIDSの事業を開始するにあたって、HIV/AIDSの専門家に何度もナイロビから来てもらって、プロジェクトの形成を支援していただいた。)
 
 2005年当時、対アフリカ事業を増やすため、東南部アフリカ地域支援事務所がナイロビに設置されており、寺西義英所長、南部所員の他各分野の専門家や現地スタッフがいた。
 当時ジュバに入るには、ナイロビ-ジュバ便が、ハルツーム-ジュバの国内線よりもずっと安定しており、多くの援助機関がナイロビの事務所から事業をバックアップしていた。また、SPLMやGOSS幹部も家族をナイロビに残している人も多く、頻繁に出入りしていた。その地の利を生かして、SPLMのナイロビ事務所と早い段階からコンタクトを取り、情報収集や現地調査のアレンジを依頼するなど、事業を全面的にバックアップした。スーダン支援国会合の直後の2005年5月には、UNHCR-JICA共催によりナイロビで、南部スーダン政府関係者や援助機関関係者を対象として、「紛争終結後の復興・再統合」をテーマにしたワークショップ開催したほか、同年11月には、南部スーダン関係者をルワンダに招聘して、ルワンダの復興支援の経験を南部スーダン関係者に紹介した。また、2006年以降ジュバで事業が始まってからは、物資の調達や安全情報の収集などでも大きな役割を果たした。

 初期の立ち上げに大変役に立ったSPLMナイロビ事務所とのパイプの維持や南部スーダンの事業開始の後方支援に尽力した南部所員は、健康状態を崩し、2006年3月ナイロビで帰らぬ人となってしまった。もし、彼がさらに南部スーダンの事業に関わっていたら、もっといろいろな事業が早く展開できたと思うと悔やまれてならない。ここに敬意を表し、特記したい。
第3章 スーダン事務所の再開
 
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日本の7倍という広大な南北スーダンを担当するスーダン事務所開設時の人員は、
わずかに3名。ハルツーム事務所の整備ですら、大変な苦労続きだった。
 
 
3章では、私が赴任当時(20077月)の頃を振り返ってみたい。

 
2−5.職業訓練の立ち上げ
街の労働者は全部外国人
 和平が訪れ復興事業や関連ビジネスが一気に入ってきたジュバ。しかし、そこで働く労働者は、ホテル、レストラン、運転手、商店などいたるまでほとんどが外国人である。一方でスーダン人は職業につけず失業状態であった。
 
 その原因は、内戦中に南部スーダンに残った人たちは、ほとんど教育らしい教育を受けておらず、特に英語ができないことであった。また、彼らはサービス業というものに接した経験がなく、ビジネスが入ってきても雇用されないのだ。国内外から帰還した人たちは、一応の教育は受けられているものの実際に職を得るためのスキルがなかった。
 
 失業者の増加は社会の不安や治安の悪化にもつながる。JICAが2005年のプロジェクト形成調査を行った際、職業訓練の強化についても、南部スーダン側と合意したプロジェクトのひとつであった。
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■20年の眠りから覚めた職業訓練センター
 ジュバ職業訓練センター(MTC)は、第1次内戦終結後の1973年に建設されて以来、スーダン政府の職業訓練徒弟制度協議会(SCVTA)の1センターと位置付けられていた(その後一時期州政府に移管) 。
 
 カリキュラムは、北部のセンターと同じく8年制小学校の卒業生を対象にした3年コースで、1年目が基礎訓練、2年目が各科に分かれた訓練、3年目は企業内訓練となっており、アラビア語で教育を行っていた。
 
 オヒデ前校長によれば、「70年代当時はジュバでの就職の他、ハルツームに行く生徒もいたが、それらをふくめると職業訓練を終了すればそれなりに就職もあった」という。1983年の第2次内戦が始まってから、1991年ぐらいまでは何とか訓練が続いていたが、(北スーダンの)政府が人件費以外の予算を全てカットしたため、訓練は中止となった(同じ南部スーダンでも、マラカルの職業訓練センターは予算が配布され、CPAまで活動が継続した)。第2次内戦が始まった頃の校長は、現在のジョングレイ州の州知事のクオル氏であったが、彼を含めて何人かの指導員は、戦闘に参加するためにMTCを退職し、ブッシュに入ったという 。
 ジュバMTCでは、授業が中止されてからは、一部外部から頼まれた短期訓練もあったが、樹の下で一日を過ごすだけの日々が多かったという。SCVTAのムスタファ局長によれば、「MTCの指導員の中には、同じ学校で学んだ指導員もいて面識もあり、内戦中もSCVTAとしては、指導員訓練(TOT)など何度も企画したが、財務省が訓練コース実施の予算を頑としてつけなかった」と悔しがる。徐々にワークショップの機材が陳腐化し、軍に持ち去られた機材も多かったという。こうした状況は、2005年のCPA締結を迎えてもそのまま変わらなかった。JICAは、2005年のプロジェクト形成調査の時から、このMTCに着目し、職業訓練プロジェクトを実施するべくGOSSと協議していたが、GOSS側の担当省庁がなかなか決まらず、結局、労働・人的資源省に決まり、プロジェクトが開始されるまでには約1年を要した。

 2006年9月に開始された「南部スーダン基礎的技能・職業訓練プロジェクト強化計画(通称:SAVOT)」の専門家チームを率いたのは、山本幸生専門家だった。山本氏は、「まずMTCの再開に向けて、指導員と話し合いをしようとしたが、全然乗ってこなかった。20年も樹の下に居て何もしてなかったら、やる気までなくしていた。このカルチャーを変えることは容易でないと思った」とMTCの第一印象を語っている。
 プロジェクトは、まず20年近く授業をやってこなかった指導員の先生方の再訓練(TOT)から開始した。自動車、電気、建設、木工など8科の先生方を順番に、隣国ウガンダの首都カンパラにあるナカワ職業訓練センターに派遣して、訓練を受けてもらった。同時に、ナカワの指導員にはジュバに来てもらってカリキュラム作りなども支援してもらった。このナカワ職業訓練センターは、JICAが10年以上の技術協力を行って体制強化したセンターで、今では、自分たちが日本人に習ったことを南部スーダンに教えることが出来るようになっていた。両国は文化的にも近いため、コミュニケーションはスムーズに行った。
 
 開発途上国でも先に発展した国から、南スーダンのような後発の国に対して支援する形を「南南協力」と呼んでいる 。この南南協力は、先行している国が周辺国に対する支援にも位置付けられ、彼らのモチベーションが上がることや、受け手の方も隣国に対するライバル意識からやる気を出す(あの国でできるなら自分たちでもできる)という効果もあり、JICAではいろいろな形で、「南南協力」を推進している。山本氏は、「協力1年目は眠ったセンターを揺り起こして準備を行う仕事で終わってしまった」と語る。
 
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2−4.緊急支援のパイロット事業(その2)
■ムヌキ地区給水計画
 もうひとつのパイロット事業は、ジュバ北西部の住宅地であるムヌキ地区の給水事業だった。この地区は1970年代に宅地開発されていたが、内戦の影響もあり、2007年当時はまだ空地も目立ったが、間もなく始まる難民・国内避難民の帰還に備えて、インフラの整備が急がれていた。
 
今は住宅密集地(高級住宅街)であるが、2007年当時は、一面の原っぱに木造のバラックがまばらに見られた程度だった。南部スーダンの初期の事業では、こうした人のあまり住んでいない地域に、「国内外からの避難民のためのインフラの建設をするというものが多く、僕は大いに戸惑った。「インフラさえ整備されれば、すぐにも人は戻ってくる」というのだが、人のいないコミュニティに井戸を掘る事業にはあまり積極的にはなれなかった。結果的には、1〜2年のうちに人口も倍増し、南部政府の説明は正しかったのだが。。。

イメージ 1 これも想定外の出来事が頻発し、困難なものとなった。当時は、浄水場の整備も開始されておらず、ほとんどの住民は、民間業者がナイル川からタンクローリーで運んで来た水をバケツ単位で購入するか、あるいは遠くの井戸まで水汲みに行くというのが一般的であった。
 
 そこで同地区に6本の井戸を掘削して、地区全体(計画人口約2,300人)に給水するという計画であった。ところが、いざ掘削した井戸の水質は劣悪で、WHO基準を超える砒素が含まれていた。砒素除去装置をつけることは技術的には可能だが、フィルターの交換や使用済みフィルターの処理の問題など後の維持管理や環境問題に大きな不安を残す。
  
 地元コミュニティからは、どうしても使えないなら、飲料水でなく、洗濯や家畜用に活用したいという強い要望はあったが、万が一にも人体に影響があってはならないということで、井戸は放棄することになった。事業を放棄すれば、その時点ですでに完成していた配水タンクやパイプライン、公共水栓も無駄になってしまうため、他の援助機関による事業により1年以内に浄水場から引かれる送水管に接続できるようにパイプを延長して、2007年7月に相手に引き渡し、事業を終了した。
 
2−4.緊急支援のパイロット事業(その1)
■ナイル川の河川交通
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 スーダンにおける白ナイル川の河川交通は蒸気船が出現した19世紀頃から非常に重要で、エジプトやスーダンのナイル川中流にダムができるまでは、地中海からナイル川を遡上して、直接ジュバにいたるルートが使われていた。ジュバの上流側は浅瀬があり急流になっているため、ジュバより上流には大型の船は航行できない。そのため、大型船の終点であるジュバに街が建設されたとされている。現在は、ダムが建設されたため、コスティ(ハルツームの上流250キロ)からジュバの約1200キロの区間で河川交通が使われている。この区間の標高差は100mもなく平坦なため、ナイル川は蛇行し、一帯がスッドと呼ばれる大湿地が形成されている。
 
 この湿地帯に道路を建設するためには膨大な予算が必要であるため、2011年の現在でもハルツームとジュバを直線的に結ぶ道路はなく、白ナイル川の西側を大きく迂回するルートが使われている。しかし、これも南部スーダン領内はすべて未舗装である。このコスティ−ジュバ間を航行する船は、バージ(台船)を4艙ほど横に連結し、それをタグボートで押して航行する貨物船が主流であった。
 
 貨物船のコスティ−ジュバ間の所要時間は、概ね上り2週間、下り10日の時間を要するとのことだ。最近ではより速度の速い客船も出てきているとのことだ。
 
建設工事と脅迫事件
 緊急支援調査では、目に見える援助の具体化のため、『パイロット事業』が実施された。その一つが、「ジュバ河川港」であった。当時使われていたジュバの河川港は、ジュバ市内の白ナイル河の河畔にあったが、特に土木工事を行って整備されたものでなく、自然の河岸に船(バージ)をぶつけるか乗り上げて着岸して、マンゴーの樹に係留し、板を渡して人の乗降及び人力での荷役を行なう原始的なもので、人力で下せないコンテナや重量物は、取り扱いができなかった
 
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 今回のパイロット事業では、この一部に桟橋(35m幅)と小型のクレーン(1.5t)を建設し、併せて、港にいたる約600mのアプローチ道路の改善も行ない、物流の改善を図るものだ。施設自体はシンプルなものだが、南部スーダンでの事業は予想以上に困難なものだったようだ。
 
 プロジェクトでは河川港の建設予定地の測量や設計作業を進めると同時に、実際に施工してくれる業者が必要だ。2006年当時、ジュバで建設業者は非常に限られており、こうした河川港の桟橋を作った経験のあるような会社はいなかった。
 
 河川港は重量物を積み下ろしする施設であることから、安全性や品質の確保が重要である。また、復興支援で日本の顔を見せるためにも、是非日本の建設会社に工事を請け負ってもらいたいと関係者は願っていたが、なかなかジュバでの仕事に関心を持ってくれる日本の業者が少なく関係者は入札まではらはらした。
 
 入札の結果、アーバン利根(株)が受注したが、同社のプロジェクトマネージャー菅二郎氏は、「このような紛争終結地で工事を請け負うというのは非常に治安面及びコスト面からもリスクが高く、内々にお声がけがあった時に一旦は社内でお断りする方向で固まりかけたが、再度のお声掛けを受けて結局応札することにした」と語る。当時はまたウガンダとの国境地帯には、GOSSに対する反政府勢力「神の抵抗軍」(LRA)が展開しており、菅氏は「必要な資機材を輸送するルートもコンゴ民との国境に近いカヤまで大きく迂回する必要があり、舗装道路がない南部スーダン領内を200キロ以上も物資輸送するのは、多大なコストとリスクを伴った」という。

 アーバン利根は、日本人の技術者3名とタイ人の技術者20人からなる体制で工事に臨んだ。菅氏は、「南スーダンで仮に熟練労働者を見つけることが出来ても、人件費が高い(経験者は月1000ドル以上要求)割には働かない。タイの技術者なら、月700ドル程度の賃金で勤勉に働くので、タイから技術者を連れてきた」という。
 
 さて、関係者の努力もあり、事業開始後の約半年後の2006年9月には早くも資機材が到着し、いよいよ着工というところで、それまで政府が問題ないとしていた土地(マンゴー林)を借りていた使用者が土地を明け渡さないと主張し出した。さらに悪いことに、「工事を継続するならば日本人を殺害する」という脅迫状が送りつけられてきた。また、土地の使用者が軍人を使って土地に立ち入らせないように見張っていた。「いくら急ぎの復興支援事業でも、殺人予告があったのでは、止めざるを得なかった」と菅野祐一課長は振り返る。このあと工事は2007年4月まで約6か月間中断されることになった。
 

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