いまや、凡庸なるアート映画作家と化したテレンス・マリック監督の、それなりに見ごたえのある作品。
一言で言えば、<母なる地球>と<ぼくのおかあさん>は、とっても美しいが(神の創造物のように)、<ぼくのお父さん>と<ぼく>の<人間関係>は、耐えられないくらい、ウザいよ、という映画(笑)。
ま、はっきり言って、ビッグバン〜地球成型〜火の時代から水の時代へ〜アメーバから恐竜へ〜人間発生、という<壮大>な<地球生成史>と、20〜21世紀のブラッド・ピット=ショーン・ペン親子の、あまりに<卑小>な親子葛藤劇がカット・バックされる、まあ、トンでも映画。
大量のCG映像(一部かなり陳腐<チープ>なものもあり)と僻地荒野のリアル映像をミックスしてでっち上げた、地球生成史と、その落ちとも言うべき、ちんけな父・息子の葛藤。このミックスジュース二本立て。
水と油といえばいいか。壮大なる苦し紛れ。
おそらく、最初の発想としては(推定)かの、G.W.グリフィス「イントレランス」の現代版を目指したと思しい(のではないか)。
「イントレランス」は、古代ローマ時代から、現代(製作当時の20世紀前半)までの、各時代をミックスして(時制を交互に交差して)描いた超大作。これを、地球生成以前から21世紀の現在まで、スケールアップ、そのいろいろの時代を描こうとしたのだろうが、いかんせん予算が。
おそらく<カルトゲージツ派>テレマリとしては、精一杯の予算(製作に主演格ブラッド・ピットが参加)ゆえ、CG創世記と、ブラッド・ピット一家のみのスケールになったと、推測。
結果、やはり、この<水と油>は、唐突に過ぎた。
しかも、あまり、面白くない。
CGプラス実写の<地球創世記>は、それなりに美しいが、ありきたり。まるで、科学ドキュメンタリーのTV講座のような凡庸さ。しかも、ヴィデオ撮りだからさ、画面にコクがない。
いっぽうの父子葛藤のドラマは。
頑固オヤジと、それに反発・嫌悪する思春期少年の、葛藤なんて、あまりに当たり前すぎて、面白くもなんともない。ぼく自身も、それは充分に体験してきたので(笑)描写の浅さが、丸わかり。
思うに。
父親の息子教育は、ほぼ、失敗するようにできているのだ(笑)。
母親の息子・娘教育は、おおむね、言語教育、日常のしつけ、に尽きると思う。とにかく、物心もない頃から話しかけ、話しかけ、スキンシップし、食べ物と愛情を与え続ける、いわば奉仕者。しかも、おおむね、フルタイム。子供の生存するための根源を形作る。
つまり、母親は、自分が、ごくふつうの日常生活をおくれれば、それがイコール、子供の教育となる。自分の生活をふつうに見せることで、母親の、教育パートは、ある意味、完結する。
しかるに父親は(笑)。子供の生存に必要な根源的なもの(乳〜食べ物、言葉、しつけなどの行動規範、情緒育成)を与えること、母親にはるかに劣る。
さらにキャラ的には、幼い子供(乳児〜幼児〜前期少年)が、男性よりも女性に親近感をいだくのは、当然のことだろうし。自分と同じ、柔らかな存在だから。
しかも、母親は、子供に<人生の理想的規範>を、教えるだけで、事足りる。たぶん。
しかし、父親は、ことに息子に対しては、<人生の理想>を教えるだけでは、足りない。<過酷な社会競争>という<現実社会の醜い裏の面への対策>をも、教えねばならん。少なくとも、この映画のブラッド・ピットは、それを実行している。「母親はお前たちに善人になれ、と教えているだろうが、いい人、善人は、単に、強者に利用される弱者だ」
むろん、父親も娘に対しては、<キビしい現実>など、教えはしないだろうが。息子に対してだけは・…。
成人の父親と、幼い子供(乳児〜幼児〜前期少年)との間には、絶対的な格差がある。幼い子供にとっては、神にも等しい存在だ。
母親は、教育者であると同時に、奉仕者の面も持つ。一種の仲間意識があるはずだ。
しかし、父親は、あくまでも<上から目線>の<保護者>、子供にとっては、まったく理解不能な<現実の裏の面>を押し付けてくる<神的存在>、いや、醜い裏の現実を示唆することからすれば、それはもはや<神>ではなく、<悪魔>だろう。この映画の三人の息子たちも、父ブラッド・ピットを、時には、そういう目で、見ている。
幼い子供にとっては<絶対的・生命的・根源的な自分の同伴者>である母親の考えは、甘い、お前の将来に害をなす軟弱な考えだ、と父親は教えなければならない。善人であることは、弱者だ、と。
幼い子供にとっての絶対的アイドル、母親の考えは、捨てろ、と子供に迫るのだ。
ところが、その父親といえば。
むろん、完全な人間ではない。ぼくやあなたと同じ、ふつうの人間である。
仕事や、社会に鬱屈を抱えている。この映画のピットも、仕事上は、挫折続きという設定。本当はミュージシャンになりたかったのに、今は平凡なサラリーマン。
神ならぬ、ふつうのダメ人間が、幼い子供に対しては、その力量の差から、絶対の<神>を演じざるを得ない。しかも、母親と違い、<いいこと>だけでなく、<悪いこと(に対処する方法=それは、必然的に自分も悪いことをしなければ生きてはいけない)>も、教えなければ、いけない。神ならぬ凡庸な人間が、この二律背反することをどうして、両方教えられるというのだ。
さらに言えば、母親は、おおむね一般論として、フルタイムで子供と向かい合う。
父親は、社会に出て、仕事をして、金を稼ぐのが、メイン。
父親は、子供に対して、パートタイムで、<神>を演じることを、求められているのだ!
<神様業>など、おそらくフルタイムで働いても、至難のはず(笑)。それをパートタイムの片手間仕事で、<神>を演じよ、と。これ、フツーの人間には、とても不可能でしょ(笑)。
おまけに。
思春期の少年なんて、はっきりいって感情のモンスタアでしょ。モノゴコロついて、既成の価値観には、嫌悪。なんだか得体の知れないもやもや感もマックス。この映画でも、むやみと弱い弟をいじめ、よその成人女性の家に無断侵入し、下着を盗む。
価値観を押し付けてくる父親など、ぼくがもっと幼い頃には<絶対の権力者>として服従していたけれども、なんだ、ぼくに知恵がついてきたら(笑)ダメな薄汚いオヤジじゃないの。言ってることが、前と違うじゃないの。言ってることと、やってることが違うじゃないの。
近親憎悪、思春期特有の絶対的正義への盲目的信仰、とたんに、父親の、あまりの卑小さが、鼻についてくる。そして、自分のまた卑小な、性的妄想に悶々して、しかし、この悶々は、父親にも母親にも、ばれてはいかん。この卑小ないやらしさは、まさか母親から遺伝したものではなかろう、とすれば同じ男の父親から、ぼくの、この、いやらしい悶々は、受け継いだのだ。この悶々は、父親に由来するものなのだ。
<フツーのダメ人間>たる父親と、<最悪の感情モンスタア>たる息子が、思春期には、<神とその使徒>と、して、向かい合うのだ。ああ、これでうまくいくのは、片方か双方が、よほどの人格者でなければ(笑)。
父親もダメ人間(幼い子供に対しては、パートタイムで、絶対的神と、絶対的悪魔を、演じなければ、ならない)息子もダメ人間、ああ、これでは、成功する確率は、限り無くゼロ、やな。いや、もちろん成功した父子関係を築く人たちも、いるんだろうけどね。
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