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第一級のエンターティンメントであり、第一級の人間ドラマであり、第一級のミステリ映画である。
しかし。
プロの映画評論家の批評にしても、ぼくたちアマチュアの映画感想にしても、この映画を取り扱うのは、まさに地雷を踏むようなものである。
理由は三つ。
1 本作はきわめてオリジナリティーの高いミステリ映画である。したがって、細部や大元の話に直で切り込むと、即ネタバレに、致命的ネタバレになってしまう。
2 ウォンビンふんする主人公の青年が知的障害者である。ある、おバカな自称批評家は、おそらくプレスリリースそのままなぞって、「大人になっても子供の様に無垢な息子トジュン(ウォンビン)を養う母親(キム・ヘジャ)」などと書くが、これは、かなり誤りである。
まず、「子供は無垢」ではないし、知的障害者も「無垢」ではない。特に本作のウォンビンは、まったく「無垢」ではない性格と心情を、絶妙に表現してベストである、だけに、むしろかわいそうだ。
3 「韓国固有」と思われる心情が極めて微妙だ。この映画の登場人物たち韓国人は、一人残らず、自分より弱いものを差別し、精神的肉体的暴力を振るう。前に韓国の人権啓発映画オムニバスで、ことごとくその人権感覚おかしいだろ、というのを見たが、ほぼ全員の登場人物がより弱いものに「権力」を振るう本作も「異常」だ。
おそらく、韓国の映画をのぞけば、たいていの国の商業映画には(そこには北朝鮮も当然含まれる)、犯罪を描くとき、ある抑制が働くように思う。モチロン例外はあるのだが、犯罪者に「天罰」が下ったり、あるいは刑事罰が待っていたり、それを否定的に見る視点があったり、と。
犯罪者を好意的に見る映画には、もちろん例外はあるけれど、被害者が誰もいない爽快な犯罪とか、絶対的権力者をあざ笑うような犯罪とか、まあ、言葉はあれだが、愉快な犯罪だ。
ところが、本作をはじめとする韓国映画には、弱者を犠牲にする、しゃれにならない犯罪すら、否定しない傾向がある気がする。
女子高生に、貧しいクズ屋に、精神薄弱者に、決定的な肉体的暴力を振るっても、バレなきゃOKみたいな。弱い他人を犠牲にしても、自分たちさえよければ、OKみたいな。もちろんそこに苦さはあるのだが、社会的処世術として、他人の犠牲はしょうがない、という、繰り返すがおそらく、韓国の映画をのぞけば、たいていの国の商業映画には(そこには北朝鮮も当然含まれる)建前としても存在する最低の倫理観というものが感じられないのだ。
ウォンビンが放免される刑務所(正確には留置所か)の、前に友人たちが待っていて、ケーキ?を差し出して、ハッピーバースデーの替え歌で、釈放おめでとう、でケーキのろうそくを吹き消させる。「親切なクムジャさん」でも同様のシーンがあった。韓国では一般的な、あるいは、ありがちな風習なのだろうか。ここにも、犯罪に対する無邪気なまでの肯定感?が、あるように思う。日本では出所祝いをするのは、職業的やくざに限られる。素人が、するべきことでは、ない。ましてや、ケーキとは。
「母なる証明」というよりは「韓国人なる証明」というべきか。
しかし、映画はたいへん面白いのである。
ただ、おそらく、韓国以外の国でこの映画を作るとしたら、普通の国では、この映画の終わりから、話をはじめると思う。あのダウン症の青年の罪の有無を検証するなかで「母」なる存在を、浮かび上がらせるだろう。最低の倫理観があれば、そうせざるを得ないだろう。しかし、それでは、あたりきなんだよね。本作のような面白さは出せない可能性のほうが高くなるわけだ。
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