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 青木昆陽

古今東西偉人伝の中の青木昆陽についてのお話です。

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明和六年(1769)、「イモ先生」というあだ名で知られていた青木昆陽のところへ、突然訪ねてきた人があった。年の頃は五十近い、立派な人である。
この人は、名前を前野良沢といって、豊前国(いまの大分)の中津藩(後に福沢諭吉が出たところ)の医者であった。
良沢は、かねてから、なんとかしてオランダ語を習って、オランダの医者の本が読めるようになりたいものだと、そればかり考えていた。
「西洋の医学を勉強したい――」というのが、良沢の念願であったのだ。
だが、その頃の日本は、鎖国時代であったから、オランダ語の手ほどきをしてくれる人など、いるわけがなかった。
「西洋の本を読むことは、禁止する」という、幕府のきびしいおきてがあったからだ。
こうして、ひとり焦っている良沢の耳に、
「昆陽先生は、オランダ文字の読み方を知っていなさる――」という、人の噂がはいった。
「しめた!あの人なら!」と、良沢は天にものぼる心持ちで、さっそく江戸へ出てきて、青木昆陽を訪ねたのだった。
昆陽はその頃、もう七十二歳という老人で、からだもだいぶ弱っていた。
「せっかく苦心して覚えたオランダ語の知識も、自分が死んでしまえば、そのままになってしまう――」
そう思うと、さびしい気がした。
そこへ、思いもかけず、良沢という熱心な人が現れたのだ。昆陽がどんなに喜んだか、想像がつくというものだ。
昆陽は、大事にとっておいたオランダ語の単語帖を持ってきて、自分の知っている限りのことを、すっかり良沢に教えた。
オランダ語の知識としては、それはじつに貧しいものであった。だが、それは彼が、言葉に言えない苦労をして、身につけたものであった。
「ありがとうございました。この御恩は決して忘れません。」
良沢は、心から感謝して、昆陽と別れた。
年ごろの重荷をおろして、気のゆるみが出たのであろうか。その年の十月十二日、昆陽は、静にこの世をさった。
思えば、きわどい二人の出会いであったといえよう。
青木昆陽は、呼び名を文蔵といった。江戸の日本橋の、魚屋のせがれであった。
子供の頃から、本を読むのが好きだったので、親もあきらめて、学問をさせてやることにした。
昆陽は大喜びで、京都へ出かけていった。そして、その頃有名な学者であった、伊藤東涯に師事した。
東涯は、仁斎の子で、父に劣らない立派な学者であった。その学校を堀川塾といった。
昆陽は、堀川塾でみっちり勉強して、江戸へ帰ってきた。そして、少しづつ弟子をとりながら、勉強を続けていた。
この人はまた、たいそう親孝行な人であった。父が病気になったので、夜の目も寝ずに看病した。
父親は、看病の甲斐もなく、亡くなった。昆陽はふかく悲しみ、三年のあいだ、寺参りのほかは外へ出ることなく、ひたすら父の喪をつとめた。
つづいて、母が亡くなった。昆陽は、こんども、三年の喪をつとめた。
こうして昆陽は、父と母との喪をつとめ、あわせて六年のあいだ、家に閉じこもって、両親の冥福を祈ったのであった。
そのころ将軍は、八代目の徳川吉宗であった。
吉宗は、紀州家から入って、将軍になった人で、なかなか立派な人物であった。大岡裁判で有名な大岡越前守忠相を、江戸の町奉行に選んだのも、吉宗であった。そして、政治をよくすることに、力を尽くした。
たまたま、昆陽の住んでいた町の地主に、加藤枝直という、学問のある人がいた。この人は、ふかく昆陽の人となりに敬服して、
「青木という人は、じつに立派な人だ」と言っていた。
その枝直が、越前守の下役になった。そこで越前守の耳にも、昆陽のことが入った。
「それほどの人物なら、天下のために大いに働いてもらわなくては――」
と、忠相は思った。そこで、枝直を通して、
「何か、考えていることがあるなら、遠慮なく申し出るように」と言ってやった。
昆陽は、かねてから、サツマイモのことを研究していた。
ある時、島流しになった罪人たちが、食物に不自由をして餓死するものが多いということを、昆陽は耳にした。そして、すぐにサツマイモのことを思い出した。
「あのイモなら、どんな荒地にでも育つから、飢饉の時にも、大いに人助けになる」
昆陽は、そう思った。サツマイモを国々に広めて、不運な人のいのちを救いたいと思ったのだ。
そして、今の千葉県の幕張村に、イモの種を植えて、実地に作り方を研究してみたのであった。
だから、越前守からのお達しを受けて、昆陽は、すっかり喜んだ。
「やっとサツマイモを拡める機会が来た!」
そこで、前から書いておいた『蕃薯考』という論文を、越前守に差し出して、
「ぜひ御一読下されたく」と、申し出た。
越前守は、それを読んで、たいそう感心した。そこで、すぐに将軍吉宗に、お目にかけた。吉宗も感心して、
「いかにもよい意見だ。すぐさまサツマイモの栽培を始めよう」と、言った。
さっそく昆陽に、命令がくだった。場所は、小石川の白山の、薬園ということに、決った。薬園というのは、薬草を栽培する所で、これがいまの小石川の植物園である。
一方、吉宗は、昆陽の書いた『蕃薯考』と、サツマイモの種とを、全国に送って、各地で栽培に励むよう、命令した。
これが享保二十年(1735)のことであったが、昆陽が望んでいたように、サツマイモは、その年のうちに、日本各地に植えられるようになった。
そのおかげでどんな飢饉の時にも、餓死する人がでなくなった。
江戸などでは、ふかし芋や、焼き芋が、盛んになった。子供も、大人も、安くてうまいサツマイモに、舌鼓を打った。
しまいには、おイモといえば、サツマイモのことをいうようにまで、国民の親しみぶかい食べ物になった。
サツマイモで大きな手柄を立てた昆陽は、幕府に召し出されて、扶持(いまで言えば俸給)をもらうようになった。
そして、だんだん取り立てられて、書物奉行にまで出世した。
書物奉行というのは、いまで言えば、国会図書館長といったところである。
もともと本の好きな昆陽のことであったから、書物奉行になると、幕府の書庫にあった珍しい本を整理したり、地方の民家や社寺に埋もれていた貴重な文書を探し集めたり、数々の立派な仕事をした。
これは、いまでいう資料編集の仕事であった。昆陽は、国会図書館長の仕事と、資料編集所長の仕事を、いっしょにやってのけたのであった。
幕府の書庫には、オランダの本もあった。
「これが読めたら、どんなにか日本のために役立つだろうに――」と昆陽は残念に思った。
そのころ将軍吉宗も、オランダの天文の本を見て、その図がじつに精密なのに感心していた。そこで、昆陽のことを聞くと、これまでの禁止を解いて、
「オランダの学問をしてもよろしい」と、許しを与えた。
昆陽は大喜びで、すぐさま長崎の出島にあるオランダ屋敷へ出かけて、オランダ語を習ったのである。
それが、前野良沢に伝えられ、やがて多くの優れた蘭学者を生むことになったのだ。
昆陽のお墓は、目黒不動にある。正面には、「甘藷先生墓」の五字が刻んである。昆陽は、顔にあばたがあった。あばたのことをいもといったので、両方をかけて、「イモ先生」と呼ばれて、市民に親しまれていたのであった。

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 しかし彼は、サツマイモだけでなく、蘭学の生みの親でもあったのだ。
 

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転載させて頂きます。

応援&今日の傑作 ポチ凸

2011/2/11(金) 午後 1:02 hito 返信する

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hito様、
転載、傑作いつもありがとうございます。

2011/2/11(金) 午後 1:27 [ さざんか ] 返信する

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有り難いお話をありがとうございました。
世の女性たち(女性は大概サツマイモが好きである)に青木昆陽のお墓参りをさせるべきです^^

傑作

2011/2/11(金) 午後 3:52 [ 敬天愛人 ] 返信する

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傑作ポチ^ 転載させて頂きます、

2011/2/11(金) 午後 5:01 [ 鳥海 ] 返信する

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敬天愛人様
確かに、サツマイモを普及させていただいたお礼を申し上げにお墓参りしたいものですね。昆陽神社というのもあるそうですから、皆、サツマイモのおかげを有りがたく感じているのですね。
傑作ありがとうございます。

2011/2/11(金) 午後 9:26 [ さざんか ] 返信する

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エンヤス様
傑作、転載ありがとうございます。

2011/2/11(金) 午後 9:30 [ さざんか ] 返信する

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コメントのしようが無い程、素晴らしい人物伝です。
このお話は幼き子供達から大人まで全員が知るべきです。

ある意味、官僚の手本足る人物なのではないでしょうか。

大傑作!

2011/2/12(土) 午後 2:39 ジョウジ 返信する

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