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益良雄とその妻

維新回天の大英傑、真木和泉守保臣と妻睦子、同じく娘小棹のお話です。書物より転載です。

 

外にはロシア、アメリカ、イギリスの黒船が侵略の牙をむいて襲いかかり、うちには国論が二分して果てしなく激突し、わが日の本の国は歴史始まって以来の危機に直面していた。このとき真木和泉守とその一族郎党は、九州の一角、不知火の筑紫の野に蹶起して祖国救出の急に赴いたのである。かかる狂瀾怒涛のとき、この英傑の妻と娘とは如何に身を処し、如何に生きたであろうか。

 

睦子が真木家に嫁いだのは天保二年、二十九歳のときである。夫和泉守保臣は十歳年下の十九歳であった。結婚して七年目の天保九年、二人は手を携えて肥前の小浜や長崎に遊んだことがある。それは睦子にとって、生涯忘れがたく嬉しい旅であった。二人が伴れだって歩いていると、道行く人が互いに顔を見合わせて「お相撲さんが芸者を伴れて歩いていなさるばい」と言った。旅から帰った和泉守が家人にそれを語ると、みんながさもありなんとばかり大笑いした。

 和泉守は父の左門に似て堂々たる体格だった。身の丈五尺八寸、筋肉隆々として肩は仁王のように隆起し、角張った顔の色は赤銅のように黒かった。口と鼻と耳が特に大きく、眼光炯炯として世の常の男ではなかった。それに髪を総髪に結び前の方を引きつめていたのである。妻の睦子は背が高くてすらりとした姿だった。美貌で年よりもずっと若く見えた。路傍の人が二人を相撲取りと芸者に見立てたのは、そうした外貌からであった。
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 睦子は老いてもなお美しさを残していたらしい。明治の世になって、久留米の大手門外にある桜の馬場で馬術の試合があった。馬術の名人が出場するというので大ぜいの観衆が集った。睦子は娘の小棹と一緒にそのなかにいた。すると、そばにいた顔見知りの人が、一首の狂歌を詠んで披露した。みんなが、それを聞いて拍手喝采したという。

 

 顔は雪、すがたは花と 見つれども ばばの桜と 人は言ふなり

 

 色はあくまでも白く、咲く花のにおうように美しいけれども、年が年だから人は姥桜という。その姥桜が桜馬場(婆々)に立ってござっしゃるというのだった。

 睦子は久留米瀬下庄屋町、石原与左衛門という富豪の娘であるが、後に叔父の久留米藩士、栗生一左衛門の養女になり、彼女はこの栗生家から真木家に嫁いだのである。

 真木家は代々久留米水天宮の神職で、和泉守はその第二十二代であった。水天宮のいわれは人の知るとおり、安徳天皇が壇ノ浦の海底に身を沈め給うたことにある。それは寿永四年三月のことで、二位の尼時子は幼帝を抱いて海に身を投じたのであった。

 

 今ぞ知る 御裳川の 流れには 波の下にも 都ありとは

 

 海の底にも帝の住み給う都ありとはという悲痛極まりないこの歌は、時子の辞世だったが、このときわれもまたわだつみの都にお伴し奉らばやと願ってやまぬ一人の女官がいた。その名を伊勢といい、清盛在世中に夫人時子に仕え、清盛の娘建礼門院が高倉天皇の中宮になるや、中宮に従って宮中につとめた人である。時子は伊勢の願いを許さず、そなたは遁れて幼帝の亡きあとを弔えよと、言葉を尽くして諭した。

 主命もだし難く、伊勢女は泣く泣く壇ノ浦を脱出し、のがれのがれて筑後のくにをさすらい、葦の葉の生い茂る筑後川のほとり鷺野原にたどりつき、ひそかに安徳天皇と高倉中宮の御霊を祀り、かつ二位の尼の霊をなぐさめた。そこに平家一門の平右忠(たいらのすけただ)なる人が訪ねてきて伊勢女のあとを継いだ。これが水天宮の起こりで、和泉守はこの右忠から数えて第二十二代、現在にいたってもなお断絶せずに真木家がこの神社の神職を継いでいる。

 境内に維新の大忠臣、真木和泉守の銅像と新しく建てられた立派な記念館があり、筑後川の流れのほとり、鬱蒼と生い茂る老楠は年ごとに神さびてこよなく美しい。

 睦子は富豪の出身で、なかなかに気性が強かったけれども、夫和泉守にたいしては従順で全身をささげて仕えた。母の柳子をはじめ二人の姉、三人の弟とも円満だった。女中のおくま、たのえ、おたみに対しても温かく情け深くて、良縁をさがしてそれぞれに嫁がせた。

 結婚して三年目の天保五年の正月、睦子は長男麟太を生み、翌六年十一月に、二男時次郎を生み、同八年九月三男彦三郎を生み、真木家は喜びにつつまれた。しかるに長男と三男とは流行の疱瘡を病んで幼死し、真木夫妻は深い悲しみに打ち沈んだのであった。

 天保十年十月、真木家にはじめての女の子が生れた。これが長女の小棹である。それから同十四年九月、四男菊四郎が生れた。二男時次郎は後に主馬と称して水天宮の神職を継ぎ、四男菊四郎は父和泉守に従って国事に奔走して暗殺され、後に従四位を贈られたが、二人とも波瀾万丈、転変極まりない生涯だった。

 睦子は全身全霊をささげて母と夫に仕え、二男一女の養育につとめた。一方、真木家の家風は、先祖代々にわたって御歴代の天皇に仕えまつることを中心とするものであった。殊に和泉守は幼い頃に父に授けられた『絵本楠公記』を読んで深く感動し、長ずるに及んで毎年五月二十五日には必ず楠公祭を行ったのである。どんなに切迫した事態のなかでも、どんな場所に身を置こうとも、彼はこの日の楠公祭をやめたことはない。その楠公精神の骨髄は、われ一人の忠義をはるかに超えて一族忠に殉ずるという一点にあった。睦子は夫和泉守を通じて、この真木家の精神に親しんだのである。このことは後の真木一族の殉忠に照らして非常に重大なことで、それが一朝一夕のものでなく父祖伝来の志として長養されたわが国の魂そのものだったことを思わねばならない。

 

 すめる世も 濁れる世にも 湊川 絶えぬ流れの 水や汲ままし

 

 これは天保十年、和泉守二十七歳の作である。楠公一族を慕ってやまぬ彼の魂は、やがて妻睦子とその家族の心にしみわたって行った。

 和泉守の実弟、大鳥居啓太も真木外記もともに、神祭るむかしの手振りを伝え護る神職であった。この一門の家風が睦子にも子供たちにも深い感化を及ぼし、やがて彼等の血肉になったのだと思われる。

 嘉永五年、和泉守は志を同じくする藩士とともに藩政の改革を策して成らず、捕えられて、それぞれ処罰された。これを「久留米藩嘉永の大獄」という。吟味の末和泉守は水天宮の神職を罷め、久留米城下から四里ほどのところにある下妻郡水田村の実弟、大鳥居啓太の家に幽閉されることになった。大鳥居啓太はこの水田村の天満宮の神職であったので、その住居は天満宮の境内にあった。

 藩の俗論党を退け、勤王派を持って藩政を布こうとする和泉守の志は挫折し、彼は藩の厳重な監視のもとで、家族と別れて実弟の家に起居し、やがてその近くに小さい家を建てて、これを山梔窩(くちなしのや)と名づけ、ただ一人で暮らした。

 ふみ見れば 思ひ合はする ことぞ多き 昔もかかる ためしありけり

 

 睦子は今はしばしの面会も叶わなくなった夫の消息を大鳥居家の人から伝え聞き、こぼれる涙を払いつつ、ながい歳月にわたって真木の家を護った。「昔もかかるためしありけり」という夫の嘆きは、同時にまた不退転の心を示す限りない励ましでもあった。

 和泉守の幽閉は嘉永五年から文久二年まで、じつに十年間に及んだ。四十歳から五十歳までである。

 水田天満宮の境内に、和泉守の幽居山梔窩が在りし日のまま復元され、四畳半と四畳の二間だけの南向きのかやぶき平屋建てで、在りし日の大忠臣のたたずまいがしのばれる。
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 この小さいあばら家が、やがて九州のみならず日本全土における勤王志士の密議の中心になったのだ。この部屋で、和泉守の『経緯愚説』も『大夢記』も成った。この『大夢記』こそは吉田松陰とほとんど時を同じくして、初めて堂々と倒幕を論じた維新回天の大文章であったのだ。ひそかに近隣の青年が集ってきて和泉守の門下生となり、彼の脱藩するに及んでは勇躍して京都にのぼり、師とともに大阪天王山にいのち散るのだ。これら青年たちが威儀を正して学んだのもこの部屋だ。

 その間に安政の大獄があり、桜田門外の変があり、天下はいよいよ真木和泉守の出現を求めた。西郷隆盛が沖永良部島にながされたとき「おいどんがおらんでも、真木先生のいるかぎり日本は大丈夫でごわしょう」といったとおり、いまや和泉守は風雲に乗じて驚天動地の大業に立つべき日が近づいた。

 時は文久二年の二月十二日、脱藩を決意した和泉守は、妻睦子および娘小棹と最後の訣別をすべく夜半ひそかに山梔窩を出た。道には残雪がまだらに、ほの白く光っていた。十年の心労は睦子の風貌をどう変えているのであろうか。小棹はどのように成人しているのだろうか。思いにふけりつつ和泉守は残雪をふんで、かねて打合せた面会の場所、三潴郡(みぬまごおり)本村上野へと急いだ。

                        

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大山の峰の岩根に埋めにけりわが年月の日本(やまと)だましひ

真木和泉守の辞世です・・・
日本人として胸にせまるものがあります。

傑作

2011/6/11(土) 午後 7:08 アメブロにタイトル同じで移行。

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天王山での自刃の最後は、本当に胸にせまる感じがしますね。
命をかけて国を護ろうとする心が、日本を本当に護ってきたのだと思うと、今回の震災でも、自衛隊の方々の姿が多くの日本人を目覚めさせたように、日本を導くのは真心しかないことを思いますね。
そしてなにより陛下の真心に、日本人は目覚めさせられるのでしょう。幕末の孝明天皇の御心、そしてそれに応じた志士たちが日本を護ったように、今の日本も陛下と、それに応える人々しかありませんね。
傑作ありがとうございます。

2011/6/12(日) 午前 11:44 [ さざんか ]

読ませて頂きました。

傑作○です。

2011/6/13(月) 午後 5:41 近野滋之

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こんの様
傑作ありがとうございます。

2011/6/16(木) 午前 1:29 [ さざんか ]


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