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国際派日本人養成講座からの転載です。
大震災では、戦前の教育勅語が理想としていた生き方が、あちこちで見られた。 井上 毅
■1.「避難して」最後まで防災放送 昨年3月11日、大地震の直後、宮城県南三陸町の防災対策庁舎から「6メートルの津波が来ます。避難してください」と冷静で聞き取りやすい女性の声で呼びかけが何度も繰り返された。 この放送で多くの町民が避難できた。しかし、放送は途中で切れた。最後の方は声が震えていたという。3階建の庁舎は津波にのまれ、鉄筋しか残らなかった。庁舎に残った職員約30人のうち、20人が殉職した。 最後まで放送を続けたのは危機管理課で防災放送担当をしていた24歳の遠藤未希さん。昨年7月に婚姻届を出し、今年の9月の披露宴に向けで楽しそうに準備をしていたという。 避難所へ逃げることができた女性(64)は、「あの放送でたくさんの人が助かった。町民のために最後まで責任を全うしてくれたのだから」と語った。 ■2.「一旦緩急アレバ義勇公ニ報ジ」 遠藤未希さんの生き様で改めて思い起こしたのは、「一旦緩急アレバ義勇公ニ報ジ」という一節である。「危急の際には、自らの義務を果たそうと、勇気をもって、公のために尽くし」というほどの意味だ。 戦前の道徳教育で中核的な役割を果たしてきた教育勅語の一節である。現在では、戦前のものはすべて軍国主義で悪いものと決めつけられて、この教育勅語も 否定され、忘れられてきたが、遠藤さんの防災放送担当として「義勇公に報」ずる生き方があったからこそ、多くの人々が救われたのである。 遠藤さんだけではない。福島第一原発事故に身を賭して対応し、「福島の英雄たち」としてスペインのアストリアス皇太子賞を受賞した自衛隊、東京消防庁、警視庁の人々、被災者支援に立ち上がったボランティアたち。みな「義勇公に報じ」た人々である。 国家の安全、国民の生活は、こういう人々の「義勇公に報」ずることで守られている、ということが、今回の大震災で明らかになった。 もう一つ、東北の人々が着の身着のまま放り出されても強い家族愛、同胞愛を持って助けあう姿が、国民全体を感動させたが、これについても、教育勅語は次のように述べている。 父母ニ孝(こう)ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相和 (あいわ)シ、朋友(ほうゆう)相信ジ、恭倹(きょうけん)己( おの)レヲ持(じ)シ、博愛衆(しゅう)ニ及ボシ、 父母に孝養をつくし、兄弟姉妹は仲良く、夫婦は仲むつまじく、友とは信じあい、自らの言動をつつしみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、 被災地の人々が身をもって示してくれたのは、まさに教育勅語が理想として説いた生き方そのものであった。 ■3.明治天皇の教育に関するご憂慮 教育勅語は明治の代表的教育家・井上毅(こわし)が中心となって起草したものだが、その動機となったのは、明治の文明開化のなかで、何でも西洋風が良いとして、伝統的な道徳が見失われつつあった当時の社会風潮に対する危機感であった。 それはちょうど、現代日本で、戦前のものはすべて封建的・軍国的だとして否定しながら、なんら新しい道徳を示せず、社会の混乱を招いているのとよく似た状況であった。 積極的な西洋文明の導入により、社会全体に、欧米を一段高く見て、日本の歴史伝統を捨てて、欧米化しなければダメだ、という風潮が蔓延していた。 当時の教育の状況について、明治天皇も憂慮されていた。天皇が地方を巡幸された時、ある学校では先進的な授業を見せようと、生徒に英語でスピーチさせた。ところが、陛下がその生徒に「その英語は日本語で何というのですか」と尋ねられても、生徒は答えられなかったという。 明治12年、明治天皇は側近であり、ご自身で師と仰がれていた元田永孚(もとだ・ながさね)に命じて『教学聖旨』という一文をまとめさせ、政府首脳にお示しになった。そこには、次のような認識が示されていた。 最近、専(もっぱ)ら知識才芸のみを重んじ、文明開化のむしろ悪いところを学び、品行を損ない、風俗を乱す者が少なくない。 その原因となっているのは、明治維新の始めにおいて陋習を破り、知識を世界に求めるとした卓見により、西洋の良い所を学び、文明開化の実を挙げたことは 良かったとしても、その反面として、仁義忠孝を後にし、いたずらに洋風を競うような状況になってしまったことである。 ■4.県知事たちの危機感 しかし、問題は簡単ではなかった。内務大臣・伊藤博文は、この『教学聖旨』への反論書ともいうべき『教育議』を提出した。儒教の「仁義忠孝」を教育の根 本に据えたのでは、信教の自由という近代政治の原則に悖(もと)ることになり、それは政府が率先してやるべきことではない、と主張したのである。 この『教育議』を書いたのは、伊藤のブレーンであり、後に教育勅語起草の中心となった井上毅だと言われている。明治天皇のお考えを示した『教学聖旨』に堂々と反論を挑むところに、当時の自由、かつ真剣な議論ぶりが窺われる。 しかし、この信教の自由の問題もあって、政府は具体的な手を打てず、事態はますます悪化していった。明治20年頃になると、米国からの留学帰りが、文部 省の中で「学士会」という党派を組織して羽振りを効かせていた。文部大臣の森有礼(ありのり)は、英語を国語にしようとまで主張していた。 教育の現場でも、小学生は少しでも数学や物理の初歩を学ぶと、たちまちその知識を誇って、大人を軽蔑するような態度をとっていた。中学生は、天下国家を論じ、校則を犯し、職員を批判し、紛争を起こす。 明治23(1890)年に開かれた地方官会議(県知事会議)では、こうした事態に対する危機感から「徳育涵養の義につき建議」が採択された。そこにはこんな危機感が表明されていた。 このままでは実業を重んじず、妄(みだ)りに高尚の議論を振り回し、年長者をバカにし、社会の秩序は乱れ、ついには国家を危うくすることにもなりかねない。 これは知育の一方のみが進み、徳育が同時に進んでいないからであって、今その救済策を講じなければ、他日必ず臍(ほぞ)をかむような悔いを残すだろう。 この建議をもって、全国の知事が打ち揃って、文部大臣に詰め寄ったものの、やはり宗教との距離をどう置くのかという問題にぶつかって、先へ進まなかった。 ■5.「これは納得できない」 このような状況をご覧になっていた明治天皇は、「徳育に関する箴言(しんげん)を編纂して、それを子供たちに教えたらどうか」と提案された。 この天皇の命を拝した文部大臣・芳川顕正(よしかわ・あきまさ)は、サミュエル・スマイルズの『自助論』を翻訳してベストセラー『西国立志編』を著した中村正直(まさなお)に、草案の作成の委嘱をした。 中村はもともと儒学者だったが、イギリス留学をきっかけにキリスト教徒に転向した人物で、作成した草案はきわめてキリスト教色の強いものだった。 これを正式な内閣案にするためには、法令上の問題がないか、法制局長官のチェックが必要だった。しかし、当時の長官・井上毅はその草案を一読して、「これは納得できない」と断固、拒絶をした。 儒教道徳を教育の根底に据えるのと同様、キリスト教に基づいた教育も、国民全体を教育する規範としては、受け入れられない、というのが、井上の考え方だった。 しかし、これが井上毅が教育勅語に関わるきっかけとなった。 ■6.「西洋に何を学べば、日本の独立を保てるか」 井上毅は天保14(1844)年12月、熊本藩の下級武士の家に生まれた。4歳で『百人一首』を全部暗記して神童ぶりを発揮した。 暗くなっても、小窓から差し込む光を頼りに本を読んでいる毅に母親が「勉強に根をつめず、暗くなったら早く寝なさい」と繰り返し注意していた。そこで毅は「ならばお母さんのご飯炊きを手伝う」と言って、暗いうちから起きて、かまどの火の明かりで本を読んでいた、という。 長じて、藩校・時習館の居寮生(藩が俊才を10名ほど選抜し、藩費で寄宿させる制度)に抜擢された。20歳の時には、熊本藩の大先輩で、当時56歳、日本を代表する論客・横井小楠に論戦を挑んだ。 開明派で「万国一体、四海同胞」を説く小楠に対して、「人類がみな兄弟と言うなら、なぜ西洋諸国は植民地支配という非人道的行為をしているのか」と堂々と論難した。 井上毅は、鎖国ではやっていけない世界情勢を認識し、近代的な軍備を急ぐ必要があると説きながらも、「万国一体」などという美辞麗句に惑わされて、我が国らしさを失っては元も子もない、と考えた。 23歳で明治維新を迎え、明治5(1872)年、司法省から抜擢されて、フランスに留学し、司法制度を学ぶ。しかし、井上には多くの留学生が陥ったよう な西洋崇拝も、一方的な日本卑下もなかった。「西洋に何を学べば、日本の独立と日本らしさを保てるか」という一点に徹して、研究したのである。 たとえば、刑法、刑事訴訟法などでの西洋の進んだ人権の考えは取り入れつつも、民法などは国民の独自の習俗、慣習に基づいたものでなければ社会が混乱する、と考えた。 帰国後、岩倉具視、伊藤博文のブレーンとなり、「日本の司法制度、裁判制度は井上毅によってつくられた」と評されるような業績を上げていく。 ■7.「法は民族精神・国民精神の発露」 明治13(1880)年から翌年にかけて、自由民権運動の高まりとともに、憲法制定や国会開設を求める運動が盛り上がった。政府内でも数年内に国会開設しようという急進派がいたが、井上毅はこれに危機感を抱き、岩倉、伊藤に漸進的な進め方を取るべきと説いた。 この結果、明治14(1881)年の秋、明治天皇の詔勅(しょうちょく)により、22年に憲法制定、翌年に国会開設という方針が示された。これを受けて伊藤博文は、モデルとなる憲法を求めて、欧米視察に出る。 伊藤がヨーロッパで師事したのが、政治・社会学の権威、ウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン教授だった。シュタイン教授は「法は民族精神・国民精神の発露」であり、国民の歴史の中から発達していくものとする歴史法学の考えを伊藤に教えた。 井上毅は国内で並行して欧米各国の憲法を慎重に比較検討しながら、具体的な憲法条文の研究を進めていたが、明治18(1885)年頃から、国史の研究に没頭し始める。 「法は民族精神・国民精神の発露」とするシュタイン教授の考えは、当然伊藤を通じて、井上毅にも伝えられていただろうし、それは日本らしさを失わずに、近代化を進めようとする井上自身の考えにも合致するものであったろう。 ■8.凄まじい国史国典研究 近代憲法の根基となるべき「民族精神・国民精神」の伝統を解明しようとする井上の勉強ぶりは凄まじいものだったと、国典研究の助手をつとめた国文学者の池辺義象(いけべ・よしかた)が回想している。 井上はこの頃から肺結核の兆しが出始めており、心配した池辺は明治19(1886)年の暮れから正月にかけて、千葉や神奈川の名所を巡る旅に連れだした。 千葉の鹿野山に登った時も、片手に書類を握って、読みながら歩く。12月の冷たい風に手が凍るように痛むと、ようやく手にしていた書類を鞄にしまい込んだ。 池辺がようやく「やれやれ、これでやっと歩くのに専念するのか」と思いきや、次の瞬間には「ところで、大国主神(おおくにぬしのかみ)のあの『国譲(ゆず)り』の故事は、一体どういうことだったろうか」と聞いてきて、池辺を驚かせた。 鎌倉に着いた時、雪も降り風も強くなっていた。井上は「大宝律令にはどんなことが書いてあったか」と池辺に質問した。池辺が「今ここに原文がありませ ん。私の記憶だけでは正確に答えられません」というと、「では今すぐにでも確かめたい。帰京予定を一日早めて、これから出発すれば今日中に東京に帰ること ができるだろう」と、雪が降り風の吹きすさぶあぜ道を駆け出した。 雪で、顔が針で刺されたように痛むにもかかわらず、藤沢まで行き、そこから人力車で横浜に出て、横浜からは汽車でその日のうちに東京に戻った。 こういう鬼気迫る国史国典研究から、井上は「民族精神・国民精神」に関する重大な発見をする。井上は、それを大日本国憲法の根幹に据え、さらにそこから教育勅語を起草するのである。 |
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(レンパン島 日本兵抑留の碑)
目に見えぬ神にむかひてはぢざるは 人の心のまことなりけり
(神様に恥じない心こそ誠です :明治天皇の御製より)
日本は大東亜戦争の開戦時に大量の敵捕虜を想定し15か所に収容施設をつくりました。
そして、英・米・蘭の将兵30万人を収容し、捕虜を管理する国の責任として彼らに寝具、衣服、食器を与えました。当時、日本人の食生活は欧米人に比べて肉類の摂取が極端に少ないものでした。 しかし、捕虜の食事はその点を配慮し、日本国民の配給を上回る特別配給を続けていました。
戦後、占領軍が日本に上陸すると直ちに捕虜キャンプに大量の食料とビタミンを届け捕虜たちを解放しました。 終戦により武装解除された軍隊は戦時捕虜ではありませんが、日本の内地に復員するまで日本将兵は事実上”捕虜”として扱われました。 しかも、その扱いは言語に絶するものでありました。
シンガポール南方のこの無人島に日本兵8万人が移動を命じられました。
ここはかつて第1次大戦でドイツ軍捕虜2000人がマラリアで全員死んだ島でした。その後もここで民間が開発をしましたがすべて失敗し、放棄されてきた島でした。
この島は蛇以外の生き物は少なくヤシの木も少ないまさに「死の島」と言われるゆえんであります。
イギリス人はこの「死の島」へ日本兵を“地獄”に追いやるために移動させたのです。
島の施設はすべて日本軍の手で建設させられました。日本軍はあり合わせの道具と自前の食料を持って、桟橋、道路、倉庫から何から何まで作らされました。
雨期に吹きさらしの甲板に積まれて到着した設営隊は、後続部隊のために掘立小屋を建てながら、約束していたイギリス軍による食料を待っていましたが、島には何も届きませんでした。
日本兵たちの1日分の米は1合5勺にされ、全員が空腹と栄養失調になっていきました。
彼らは生きるためにあらゆる動植物が食料となるのか試され、毒以外の野草は取り尽くしていました。
蛇、サソリ、ムカデ、ナメクジまで貴重な栄養源だったのです。軍医部の報告では主食のカロリーは必要量の3分の1、タンパク質は16グラムに過ぎず、餓死寸前に至ったと書いています。
最重点で取り組んだ開墾から農産物自給が進められ、食糧の生産と採集が行われました。 そして、遂に蛇もムカデも取り尽くされて絶滅してしまいました。
8万人に餓えが迫った12月8日、イギリス軍の食糧5000トンが届いたのです。しかし、この食料は熱帯で半年も貯蔵され賞味期限どころかイギリス軍で廃棄するようなものを持って来て、しかもわざと日本の記念日である12月8日まで待たせておいて、この日に日本兵に“くれてやった”のです。
イギリス、オーストラリア軍の食料は3300〜4200カロリーありましたが、日本兵はこの1食分を3食に分けて食べ、それでも今までの倍の量を食べることができたのです。
こういう過酷な状況の中でも日本兵は抵抗もなく、脱走もなく、餓死者も出さなかったのは奇跡であったといえます。命令系統が失われていたので混乱があってもおかしくありませんが、日本兵の秩序は乱れませんでした。白人が「死の島」と言った無人のジャングルを切り開き、飢餓に迫られながらも、しのいだ日本兵。あらゆるものを利用して道路、農地、井戸、貯水池、宿舎、倉庫、司令部、病院まで建設しました。塩、みそ、しょうゆ、石鹸、履物まで工夫して作っていたのです。
ついにはイギリス軍の陰険な策謀は見事に裏切られたのです。世界のどの軍隊であろうとも、敗戦後の極限状態に追い詰められながら落胆し、意気消沈し、絶望に自暴自棄になる状況でも、これだけの統率を取ることができた日本兵は天皇の軍隊、皇軍としての誇りであったといえるでしょう。
昭和20年、戦局悪化の一途の中、我が国の民需が枯渇し、「欲しがりません、勝つまでは」のもと、食べざかりの子供達までお国のためにあらゆることを我慢し、わずかな配給に列をつくって日本国民全体が飢えていた時、敵捕虜に対しての待遇は日本の将兵と同じであったのです。
敵の将兵に妻子に与える2倍の食料を供給し続けたのです。
日本国民が極度の窮乏の中でも戦時国際法は固く守られていたのです。これこそ白人社会ではあり得ない日本精神であり、武士道でもあるのです。
このことはなぜか戦後隠されたままです。
同胞を殺した憎き敵に対しても、我が先人たちの高潔なる”誠”の行いを日本人は広く知り、誇ってもいいのではないでしょうか。・・・
・・・・・・・
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井上雅夫同志社大学准教授の論文(平成19年)のつづきを転載します。
天皇様の祈り――国安かれ民安かれ
幕末の維新の時、尊皇倒幕運動が起こりました。そして日本は開国していく。その時孝明天皇様は日本の行く末を大変憂慮されました。その孝明天皇様はこんな歌を歌っておられます。
此の春は花うぐひすも捨てにけり我がなす業(わざ)ぞ国民(くにたみ)のこと (文久三年)
とお詠みになっておられます。更に少し前に、
国民(くにたみ)のやすけきことをけふここにむかひて祈る神の御前(みまえ)に (嘉永七年、安政元年)
日々日々の書につけても国民(くにたみ)のやすき文字こそ見まくほしけれ (文久三年)
国民が安らかであることを一番願っている、とおっしゃっているのです。この孝明天皇様の御気持を、当時の徳川将軍は持っていたでしょうか。維新の運動というものは、孝明天皇様の御心を皆が受け取って動いたと言われています。維新が大きな運動になり得たのも、こういう陛下のお気持ちのおかげだったのです。
当時日本が国難の時、一歩間違えば西洋の餌食になる可能性が大いにありました。それを免れたのはこの陛下のお祈りであり、維新の運動であるのです。更に、幕府は進んで大政を奉還しました。これも素晴らしいことです。大政というものは本来常に天皇様が持っておられるのですが、ここでは現実の政治をももう一度返し奉るといっているのです。しかも整然と行われた。外国ではありえないことです。やはり江戸時代でも皇室の権威がいかに高かったかを示しています。
終戦の時もそうでした。日本という国は皇室によって守られているのです。陛下が祈っておられるのはいつも「国安かれ民安かれ」なのです。
天皇様の御仁慈
ドナルド・キーンさんが「明治天皇を語る」という本を書いておられます。この本の中で言っておられるのですが、日清戦争が日本の勝利で終わった時、明治天皇は、「勝利できたのは国民すべてのお陰である。・・・日本が勝利に驕慢(きょうまん)となり理由なく相手国を侮辱するなど友好国の信頼を失うようなことがあってはならない」とおっしゃった。
これに対してキーンさんは、「これは意外な発言です。大体において、当時の王や大統領は、戦争が終わってすぐに言うのは、憎むべき敵に勝ってよかったというようなことでしょう。」と述べています。ところが明治天皇はそんなことを一言もおっしゃっていないのです。「清国とまた伝統的ないい関係を早く結べること」を望まれたのです。昨日の敵は今日の友なのです。明治天皇様の御歌の中にも、
国のためあだなす仇は砕くとも 慈しむべき事な忘れそ (明治三十七年)
敵に対しても慈愛を持て、とおっしゃっていたのです。そういうことを言う君主は他国にはいないのです。キーンさんも言っておられるように、普通なら、憎むべき敵に勝ったから良かった、と誇るのが普通です。しかもさらに明治天皇様は、日露戦争においても旅順が陥落した時、最初に言われたことは、相手の将軍である「ステッセルの武人としての名誉を大切にせよというものでした。よかったとか、素晴らしい勝利だということではなかった。敵の将軍のことを心配して」おられたのです。
さらに日露戦争後に、次のような歌を歌っておられます。
神がきに涙たむけてをがむらし かへるをまちし親も妻子も (明治三十九年)
陛下は戦いが終わったあとも、兵士を、そしてその家族のことを思っておられたのです。ある意味では勝敗のことなど思っておられないのです。そういうお気持ちを常に持っておられました。そして、こんな御製も詠んでおられます。
国のためたふれし人を惜しむにも思ふはおやのこころなりけり (明治三十七年)
戦死した人を考えると、その親がどんなに悲しんでいるかを常に考えておられるのです。決して戦争を賛美しようとか、煽ろうなどと、そんなことは微塵も考えておられないのです。それが日本の天皇様なのです。昭和天皇様も、昭和三十七年にこんな歌を歌っておられます。
忘れめや 戦の庭にたふれしは 暮らしささへし をのこなりしを
もう昭和三十七年ですから、戦争から十七年経っています。そのときでも陛下は悲しんでおられるのです。ですから日本という国は、他の国とまったく違うのです。そういう国柄なのです。
フランス人のポール・ボネさんという人が、三十年ほど前初めて日本にきた時、新年の皇居参賀を見てびっくりしていました。この国では、皆が新年を天皇陛下と共に祝っている、こんなことはヨーロッパではまずない。ヨーロッパ人が、慶びを元首と分かち合うのは、せいぜい戦争に勝ったときぐらいのものである。ところが、日本では天皇陛下と喜びを分かち合っていると。こういうことも、天皇陛下と国民の深いつながりがあるからこそなのです。
この度の悠仁親王様のご誕生でもそうでした。みんなが心から喜びました。そして親王殿下が産院からお帰りになる時も多くの人が沿道に並んでいました。ここにも皇室への自然な敬愛が表れています。グローバル化だとか日本は欧米化したらいいと思っている人もいますが、世界にない誇るべき国柄をもつ”日本”というものをしっかりと守っていくべきです。
日本ほど平和な国はない
日本という国は皇室と国民が非常に素晴らしい関係であったのみならず、古来「日本(やまと)は浦安の国」と言われたように日本ほど昔から平和な国はないのです。日本は決して好戦的ではない。日清戦争、日露戦争など、全部日本はやむを得ず戦った戦争ばかりです。
「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」という明治天皇様の御歌でも、やむを得ず戦ったことを歌っておられます。西欧では君主というものは戦いの先頭に立つ戦士王という性格が強く、そうでなければ駄目なのです。日本はそうではありません。国旗にしても国歌にしても静かで穏やかです。ヨーロッパの国旗国歌の多くは軍歌であり軍旗に由来しています。
先ほどのポール・ボネさんも、「多くの国の国家はきわめて戦闘的である・・・日本の国歌には、敵もなければ剣もない」、「君が代」が「軍国主義につながる」というのなら、フランス国歌は「どうなるのだろうと反問したい気持ちにさせられる」と言っておられます。君が代を歌っていたら戦争する気もなくなるでしょう。こんな平和な感じの国歌は世界に稀なものです。
京都御所の美しさの根源
保田與重郎先生が「京あない」という作品の中で「京都の様々な名所旧跡、人文芸術の遺品と現物を数へあげて、最後の最後に於て、何が最も京都であらうか。ためらひもなく私にいへるのは、それは御所であるといふ一言である。その美しさ、気分と雰囲気、それは京都の最高のものであるのみならず、日本の最高の美であらう。旧江戸城のの皇居と異なり、わが京の都の御所には、一重の普通の塀の他に、なんの防壁も関所もない。この無防備の王城は、世界に比類ないものともいはれた。この無防備の王城は、国初めよりつねに国民結合の精神の中心として尊崇されてきたのである。この尊崇のこころが、無防備といふ事実の原因である。そしてその無防備はわが国がらを端的にあらわしてゐる。そしてそれが御所の美しさの原因である」と書いておられます。
つまり御所の美しさは国民の皇室に対する敬愛から来るのであり、それがそこに表れているのです。このような御所とともに、平安時代の京都には里御所、里内裏というものがありました。いわば仮の御所で庶民の住む町中にあり、これを里御所といいます。そういう所だと、ますます国民と非常に近い関係にあられました。堅固で豪壮な宮殿にいて国民から本質においてかけ離れている西洋の君主とはおよそ違うのです。我々は「開かれた皇室」などという浅薄な議論に惑わされず、外国には見られない神代よりの皇室と国民の深い絆を大切にしていきたいものです。
日本において、天皇と国民が対立したという事例は、一例もありません。常に皇室は尊崇の対象であり、また天皇も、国民をわが子のように慈しまれました。天皇は一年を通じて、祭祀をとり行われ、神々に祈られます。そこには敬虔なお気持ちと、天照大御神の御神勅の精神を自らの心とするという強い信仰がおありになるのだと拝察されます。
常に「国安かれ民安かれ」と祈られる無私の御心は、御所の無防備を疑う必要もないほどに、徹底していたということだと思います。その無私の精神は、終戦後の昭和天皇のマッカーサーとの会見、及び全国ご巡幸が、なんの警備もなく無防備の中で行われたことにもよく表れています。
これほど徹底した無私の心というものが、世界の歴史上の他国の君主にあったでしょうか、日本の天皇という存在の不思議さは、日本の神秘の中の一番の神秘といえるのではないかと思います。
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井上雅夫同志社大学准教授の論文(平成19年)から転載です。
神代につながる”三種の神器”の不思議
天皇様の御位を継がれる重要な御印として”三種の神器”があります。「三種神宝(みくさのかむたから)」といいます。御剣と勾玉と御鏡の八咫鏡です。神秘なものなのです。御剣は八岐大蛇の尾から出てきた剣です。天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)です。しかもそれは今も熱田神宮の御神体でちゃんとお祀りされています。御鏡は皇大神宮(伊勢神宮)にお祀りされています。八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は天の岩戸の前におかれた真賢木の上つ枝(ほつえ)に、御鏡は中つ枝にかけられていたものです。勾玉は常に陛下のお側にあります。
我々は、合理的に考えればいろいろな考え方ができるでしょうが、やはりその不思議さに素直に感動したいものです。神代において、神様が使われた物が今ここにあるのです。これだけでもすごいことです。『古事記』を読むと、天孫御降臨の時に天照大御神様が「これの鏡は、もはらあが御魂として、あが前を拝(いわ)ふがごとくいつきまつれ」とお諭しになりました。だからまさに、天照大御神そのものとしてお祀りされているのです。
日本という国は、神話が単なる過去のものではなく、本当に現実に神様の世から続いている国なのです。そういう不思議なことは不思議なこととして大切にしていきたいものです。合理的な理屈を付ける必要はありません。
熱田神宮の天叢雲剣は、別名「草薙の剣」といいます。これは日本武尊様が草を薙られたというので「草薙の剣」といいます。その時に火打石を使われました。その火打石も熱田神宮にお祀りされています。きちんと御本殿とは別のお社にお祀りされています。だから、神代、あるいは神代に近い時代の非常に不思議な事柄が全部今、目の前に伝わっているのです。
賢所(かしこどころ)御神楽(みかぐら)は”天の岩戸のお神楽”とおなじもの
宮中三殿には掌典といわれる神官がおられます。そして女性の神官もおられます。内掌典といいます。数名の内掌典の内のお一人の高谷朝子さんが、五十七年間仕えて辞められ、最近、自分のことを書かれた「宮中賢所物語」という本を出版されました。
この内掌典さんは、昼も夜も宮中三殿で天照大御神様に仕えておられました。ですから、世間とは没交渉の生活をしておられました。そういう方は髪型も昔風の髪型なので、うっかり外に出られないというのです。言葉も平安時代の御所言葉です。そういうまったく世の中の動きとはぜんぜん異なるところで毎日、天照大御神様に仕えておられるのです。ここで日々祈っておられることは、国家の安泰と国民の安寧だけであり、皇室はご自身のことはお祈りにならないのです。これが「無私」の御祭祀の一番の特徴なのです。
日本という国が素晴らしいのは、誰も知らないような所で、毎日こんな尊い祈りが行われていることです。我々は本当に有り難い国に生れているのです。その宮中三殿の一つ賢所での大変重要なお祭りは、十二月半ばに行われる賢所御神楽だと言われています。これは天照大御神様が天の岩戸におかくれになった時に、天の岩戸の前でなされたお神楽と同じものだとされています。それがそのまま今日まで続けられているのです。
一般人である我々はそのような素晴らしい物が伝えられていることさえ知りません。しかし、このような神秘と言ってもいいようなことが、皇居の中で行われてきたのです。こんな大切なお祭りなのに、このお祭りの費用や掌典さんや内掌典さんの給料がみな陛下が私費、いわばポケットマネーから出しておられるというのですから、現在の憲法がいかにおかしいかが分かります。
つづく
古事記の神話に出てくる物が、いまなおそのままに伝えられて、三種の神器として伝わり、お祀りされていたりしていること。あるいは、古事記や日本書紀に登場される方々のうち、天上の高天原から地上に降臨された瓊瓊杵尊と、その次の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと、別名山幸彦)、そして三代目の鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)という神武天皇以前の日向三代といわれる方々は、天上ではなく地上で亡くなられたので、地上にお墓、つまり御陵がちゃんと残っていて宮内庁が現在も管理していること。もちろん初代の神武天皇から歴代の天皇の御陵もきちんと残っているということ。この不思議さに、感動を覚えない人がいるでしょうか。
神話が歴史とつながっているという日本の国、これはものすごい神秘な国柄ではないでしょうか。この神秘の国の伝統、それがずっと続いているという素晴らしさ、このことをもっと日本人は大切にしなくてはいけないと思います。万世一系という、男系継承で今上陛下の御代まで続いてきました。これを、現時点の国民の勝手な議論で変更して女系天皇を擁立したら、その時点で、この神秘の継承は終わります。
男系継承は、歴史上もいろいろ危機的なことがありましたが、それでも男系の子孫を立てて、少し離れた血筋からでもはっきりとわかっている方はいますから、その方を擁立して、万世一系を守り抜いて来ました。
現在の皇室は、GHQによって、本来は皇統を維持するための血のスペアのような家柄の皇族の方々を総て廃して一般人に降下させてしまい、直系のみを残しましたから、現在のような皇統の危機を招いてしまったのです。
これは明らかにGHQによる、日本の天皇を中心とした国柄を自然消滅させる意図で行われた政策です。当時は日本人はみな天皇陛下をお慕いして、もしも天皇を廃するようなことがあれば、占領に支障をきたし、平和に占領することなど出来なかったので、時間をかけて、日本をゆっくり弱体化させ、歴史的国家日本を自然解体させ、別の国へと変革させようとしたのです。歴史を持たない国は、弱いですから、自分たちに敵対する力は二度と持たせないようにと考えたはずです。
そのために憲法も変えさせられ、皇室典範も変えさせられ、国民主権という名の憲法のもとで、国会で決議さえすれば、どんな長い歴史をもつ伝統も自由に変えられるようにしたのです。
国民主権とは、本来は不文法と言われるその国に不可欠で大切な、過去から未来の総ての国民が守るべき決まりを、その時点の国民のみの多数決によって、簡単に廃棄してしまうことができるという制度です。だからエドモンド・バークはこの国民主権というものの怖さを指摘して、決して国民のためにならないものとして否定しています。
国民主権は、国家を国民の利益のための組合、つまり契約国家という視点で見る制度で、国民同士の契約によって、成り立つ国家であるため。契約違反だと感じれば、すぐに訴訟が起きます。そして現時点の国民の利益や考え方などによる多数決が、全てのものを、伝統も法律も変えることができるのです。それは取り返しのできないものにすら、時には容赦なく行われます。
現在の日本国憲法の前文にも、「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。(中略) これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」とあり、国民の多数決でなんでもできると書いてあるのです。
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サイタニのブログからの転載です。GHQのやったことは許せません。GHQは、日本の国体を徹底的に破壊して、二度と、連合国、特にアメリカに敵対する事のないように、国民が天皇を中心とする家族のような国柄を破壊することにしました。そのため皇室制度を衰退させることをめざして、直系以外の皇族を臣籍降下させ、皇室の財産も没収して、いずれ天皇の皇位すら保てなくなるように意図したと、考えざるを得ません。
国際法違反、ポツダム宣言違反の彼らの行為を、日本政府は独立後も、全くもとに戻すことなく、継続しています。日本は天皇を中心とする国です。この中心たる天皇を支えるあらゆる方策をとらねば、日本は日本ではなくなるかもしれません。
転載開始
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より
皇族特権の剥奪
総司令部は、皇室改革を占領政策の重要な柱として考えていた。天皇を含む皇室全体を廃止するか否かについては、総司令部だけでなく米国本国を巻き込んで大きな議論を巻き起こした。
しかし、マッカーサー元帥の強い希望があり、最終的には総司令部の手によって 天皇と皇室を廃止することはなかった。総司令部はその一方で、皇室から多くの特権を取り上げ、皇室が政治に関与することができない体制をつくり、さらには、皇室の規模を縮小させるといった皇室改革に着手した。米国は日本を高度な民主国家にすることを目指しており、そのためにはこれらの皇室改革が必要不可欠と考えたのである。
急速に皇室改革が進められる中、皇族方が最も恐れたのは、皇族としての身分を失うことだった。皇族が皇籍を離脱して臣籍に降ること、つまり皇族の身分を離れて民間人になることを「臣籍降下」といった。ただし、新憲法の発布をもって「臣籍」がなくなったため、皇族が皇族の身分を離れることは現在では「皇籍離脱」と呼んでいる。
皇族たちは大方この臣籍降下には反対の立場だったが、早い段階で臣籍降下する旨を表明した皇族もあった。終戦処理内閣の首相を務めた東久邇宮もその一人である。東久邇宮は昭和20年11月10日、新聞記者を麻布の仮御殿に招いて臣籍降下の決意を表明した。東久邇宮は記者に次のように語った。
戦争がこのような結末になったことについて私は強く責任を感じている。戦時中皇族は陛下に意見を申し上げることが禁じられていたものの、陛下に対してなんら進言申し上げることをしなかったことについて道徳的責任がある。敗戦に至ったのであれば道徳的責任を明らかにするため皇族の特遇を拝辞して平民となることを決心した。もしそうしなければ陛下に対し、また国家に対して申し訳けが立たない。首相の任を解かれた直後、木戸内大臣と石渡宮内人臣を通して陛下にお願い申し上げた。
その後は「いま暫(しばらく)く時期を待て」との御沙汰を拝したのみで今日に及んでいる。これは私一個の考えであるが、皇族は直宮に限り、あとは臣籍に降下したらよいと思う。華族も全て爵位を拝辞したらよいと思う(『朝日新聞』昭和20年11月11日付)
また竹田宮も著書で「戦前は皇族の数がかなり多かったので、この非常事態に皇室を守ってゆくためには、もっと簡素化した方がよいという考えをかねがね持っていたと記している。賀陽宮(かやのみや)も臣籍降下への決意を固めていた。宮はシンガポール陥落の時点で既に敗戦を予測し、「敗戦になれば、皇族は臣下になるのだから、覚悟するように」と子供たちに語っており、「臣籍降下は、戦争で犠牲になった多くの国民たちへの償(つぐ)いである」と賀陽宮妃敏子に話していたという。
しかし、臣籍降下論に強く反発した皇族もあった。閑院宮は臣籍降下に強く反対した一人である。後に著書で「私も、皇族には皇族としての使命も役割もあるのであって、臣籍降下のごときは、その使命を軽んじ自ら卑下して時勢におもねるものであるとして、反対した」と記している。閑院宮のほか、皇族のほとんどは臣籍降下に反対だった。 東久邇宮らの臣籍降下への動きは、これに反対する皇族たちを俄(にわか)に不安にさせた。東久邇宮の決断に対して石渡宮内人臣は「問題が重大であり、もう一度慎重にお考え下さるよう」と進言した。慌たて宮内省は11月22日、臣籍降下は勅許されないことを発表、臣籍降下騒動は落ち着いたかのように見えた。しかし、それも束の間だった。皇族たちの不安をよそに、総司令部は皇室縮小への圧力を徐々に強めてきた。
皇室財産の解体に着手したのである。総司令部は昭和20年9月22日付「降伏後における米国初期の対日方針」の中で、皇室財産についての方針を初めて明らかにした。それによると、「日本の商工業の大部分を支配した産業上及び金融上の人コンビネーションの解体を指示すべきこと」と、財閥の解体に言及した上で「皇室の財産は占領の諸目的達成に必要な措置から免除せられることはない」と、皇室財産についても財閥と同様に解体されるべきであると示したのだった。
昭和20年10月に始められた皇室財産の調査は、皇室財産解体の第一歩だった。調査は現金・土地・株式から、宝飾品や漆器に至るまで換金性のあるもの全てに及び、詳細なリストが作成された。調査を終えた総司令部は10月30日、皇室財産を発表した。
現金、有価証券、土地、森林そして建物の総額は15億9061万5500円だった。なおこの数字には美術品、宝石、金銀塊などは含まれず、また十四宮家の財産も計上されていない。11月20日、総司令部の指令により皇室財産は凍結された。総司令部の事前の承認のない限り、経常費を除く全皇室財産の取引を封鎖すること、8月15日にさかのぼり、これまでの皇室財産の移動を無効とすることなどが指令された。
総司令部は昭和21年5月23日、皇族の財産上における特権の剥奪を指示する。これまで皇族は 天皇から歳費および特別賜金を賜わり、日々の生活が保障されていた。加えて必要な邸地は 天皇から賜ることになっており、皇族付職員も宮内省から派遣され、さらに免税特権など、数々の経済的な特権も与えられていた。しかも終戦後は宮内省からの食糧配給もあり、皇族は食糧難による生活苦もある程度緩和されていただけでなく、不足していた自動車用のガソリンの特別配給も受けていた。
しかし総司令部の指令により、それらの特権が剥奪されてしまったのだ。歳費も打ち切られた。昭和22年(1947)5月3日に新憲法と同時に施行されることになる皇室経済法で新たに皇族の歳費が規定され、歳費は国庫から支出されることになった。だがこの皇室経済法は十二宮家が臣籍降下することを前提として組み立てられたもので、残る少数の皇族に対して定額を支給することになったため、皇族費の総額は著しく減額されることになった。
皇族への邸地賜与については、既に皇室財産が凍結されており、また新憲法の第八条で 天皇が財産を賜与することが禁止されたため、終戦後は行なわれなくなった。また皇族付職員については、御附武官と別当が廃止され、宮内官の人数は人きく減じられた。そして皇族の免税特権にも変更が加えられ、特別の規定がない限り皇族であっても原則課税されることになった。
総司令部の指令は皇族の立場と生活を大きく変化させた。皇族特権の剥奪、特に歳費の打ち切りは、皇族としての存在を経済的に困難にさせることになった。皇族という名目上の地位は残ったものの、これは臣籍降下を要求されたのに等しかった。
最高税率90%の財産税
皇族に対する締め付けはそれだけではなかった。占領直後から総司令部は、日本政府に対して財産税の立案を求めていた。政府は昭和20年11月16日、立案計画書を提出したが、総司令部は24日、昭和21年の最初の議会で関係法案の成立を図ること、及び皇室財産についてもこの計画から除外されてはならぬことを条件として政府案を承認した。
このことは、既に凍結してある皇室財産の大部分を、財産税によって国有化する方針を明らかにしたことを意味する。日本政府はこれに反対するも、結局受け入れられなかった。
総司令部は皇室財産を調査し、凍結した上で、莫大な財産税を課税、そしてついに新憲法の公布により、皇室財産のほぼ全てを国庫に収めさせるという大きな計画を立てていたのだ。
昭和21年9月30日、財産税法案が衆議院に提出された。同年3月3日午前零時を調査時期とし、その時点における個人所有の財産について課税するというもので、10万円未満を免税とし、累進税率が採用された。1500万円を超える財産を所有している場合は最高税率の90%が適用されることになった。
全体で約43億円の税収が見込まれた。財産税法は昭和21年10月11日に議会で可決され、11月12日に公布、20日に施行された。財産税の申告期日は昭和22年1月31日とされ、納付期限は申告期日の1か月後とされた。かくして、皇室財産は、約9割が主に物納により国庫に帰属することになったのである。
以前発表された 天皇家の財産は大きく上方修正され、評価総額は37億4712万円となり、財産税として納税された金額は33億4268万円となった。十四宮家の中で最も多額の財産税を納入したのは高松宮だった。
評価総額が1253万円で財産税は1002万円だった。その次は朝香宮で、評価総額は1067万円、財産税は844万円だった。三井、岩崎、住友などの大財閥の資産が、およそ3億円から5億円だったことと比べると、37億円を超える天皇家の財産がどれだけ大きかったかが理解できよう。
※今でも日本政府は天皇家の財産を没収したままであろう。占領憲法もそのまま、皇室典範もそのまま、日本政府は今まで何をして来たのか 日本人として情けない、占領軍(白人)に洗脳され今では洗脳された事も忘れているのか。アメリカ(白人)は今でも正義の御旗を元に次々と破壊しているのだ。以前バングラデッシュの方と話した事があるが、アメリカはその国が二度と立ち上がれなくなるまで破壊していったと聞いたことがある。。日本も目覚める時であろう。中国、北朝鮮、ロシア、韓国とならずもの国家に囲まれているのだ。(サイタニ)
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