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姫路城の美しさを誇る姫路藩は、幕末の頃には、譜代大名の酒井家が治めていました。江戸末期には、多くの藩が負債を抱えていましたが、姫路藩も収入の四倍強に及ぶ73万両もの累積債務を抱えており、日常生活に支障を来すほどの困窮ぶりだったといいます。
この債務に悩んだ藩主忠以(ただざね)は藩政改革に、河合道臣を家老として登用しました。
河合は、質素倹約礼を布くかたわら、村々の庄屋や豪農のうち志ある者から米や麦を提供してもらい、凶作や水害、災害による飢饉に備えて、固寧倉(義倉)を設け、平素においては貯蔵された米麦を安い利息で貧農に貸し付け、生活の基礎を確保することでその安定を図るという画期的な政策を打ち出しました。
更に朝鮮人参やサトウキビなどの高付加価値な商品作物も栽培させることで、藩の収入増が図られました。
そして何よりも河合の大きな功績とされるものが、特産品の流通改革です。河合は、加古川流域で早くから栽培されていた綿花を素材とした姫路木綿が、極めて良質であることに目を付けていました。布を織る技術に優れ、薄地で柔らか、しかも白さが目立って特筆に値するものでしたが、問題は流通にありました。
大坂の問屋が介在することで、仕入れ時の買い叩きや、かなりの中間利益が吸い取られていることを知った河合は、大坂市場に見切りをつけ、藩が独占して江戸直送。江戸表で売り捌く専売権獲得を思いつきました。これは先例が無かったため事前に入念な市場調査をし、幕府役人や江戸の問屋と折衝を重ねた上、文政6年(1823年)から江戸での木綿専売に成功します。色が白く薄地で柔らかい姫路木綿は「姫玉」「玉川晒」として、江戸で好評を博しました。 また、木綿と同様に塩・皮革・竜山石・鉄製品なども専売としました。これによって藩は莫大な利益を得、道臣は27年かけて藩の負債完済を成し遂げました。 河合は、たいへん学問好きでその素養も深かったが、人間味もありました。家老とは、今の会社で言えば総務部長のような役職で人事と予算を扱います。かれは酒井家の武士たちに、
「常に藩民の模範となるように心がけろ。どういうことをして自分を役立てるかは、それぞれよく考えろ」
と言っておりました。つまり、
「姫路藩酒井家の藩士はこうあらねばならぬ」
というやかましい規範はあまり示さなかったのです。そのためにこれを誤解して、藩士の中にはそれぞれ好き勝手に生きればいいのだ、と考える者もいたのでした。多少、風紀が乱れてきた時、各セクションの責任者は河合を恨みました。
「ご家老が、規範を示さず各人勝手に生きろなどとおっしゃるから、部下がいうことを聞かなくて困る」
とぶつぶつ文句を言ったのです。このことが耳に入ると河合は各セクションに触れを出しました。。「それぞれの職場で、手に余る者は私のところへ寄越せ」。
責任者たちはよろこんで手に負えない、いわゆる”問題児”を河合のところへ送りこみました。送りこまれた連中は、河合のいうこともききません。それは、職場から追い出された屈辱感もあるし、また河合の下に入ったことで、余計目に立つからでした。城内でも、そういう連中が通るとみんな指さして嘲笑うのです。 「あいつらは、問題児なのでついに河合様の部下にさせられてしまった」
河合に預けられた問題児に、甲、乙、丙の三人がいました。河合はこの三人を集めました。
「お前たちは、今までの職場で問題児だといわれたが、いったいなにをしたのだ?」
「別に何もしません。ただ、好きなことをやらせてくれないので、上司に文句を言っただけです」
「おまえの好きなことというのはなんだ?」甲に聞きました。
「姫路の町の歴史を調べることです」と答えました。
「おまえは?」と言われて乙は答えました。
「藩がやっていることが、古くからある法規にかなっているかどうか、を調べるのが好きです」
「おまえは?」。丙に聞きました。丙はこう答えました。
「芸能が好きです」。
河合は考えました。(それぞれ特技をもっている。その特技を仕事に生かせば、いま職場でツマハジキされているこの連中も、改めてやる気を起こすだろう)。
河合は昔から姫路城の美しさに誇りを持っていました。
「城は藩の顔だ。いつまでもこの美しさを保ちたい」と希っています。しかし、城の美しさは城だけでは保てません。城下町の協力がいります。それには住民たちがその気にならなければダメです。ところが住民たちは、城の美しさにもたれかかって、ともすれば街の清掃や道路の整備の手を抜きます。河合は、 (三人に城下町を美しくする仕事をさせよう)と思い立ちました。甲には町役人たちに城や城下町の歴史を認識させ、住民へのPRをおこなわせました。乙には町役人が黙認している住民たちの、違法行為を摘発させ、これを改めさせました。町の空気がピシッと改まりました。しかしきびしいだけではダメです。町には他国の旅行者も往来します。丙には宿や酒亭での芸能指導を命じました。三人の努力は次第に実り、姫路の城下町は清潔で楽しい町に変わっていきました。 「河合様はさすがだ。手の付けられない問題児を、またうまくお使いになった」とみんな感心しました。
河合道臣は、晩年には、寸翁(すんのう)と号しました。そのため庶民からは寸翁さんと親しまれました。
河合は、文政4年(1821)、その功績によって奥山の阿保屋敷を与えられました。この地に河合は、私財を投じて、人材育成のための学校を建てたのです。論語の『知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し』に因んで、仁寿山と名付けました。
この仁寿山校に、河合は頼山陽や森田節斎、猪飼敬所などを招いて漢学・国学・医学を伝授させました。開学の精神はやがて自由に天下国家を論じる気風を生むようになり、このことによって、やがて姫路藩から、勤皇の志士が生まれていくきっかけとなりました。
参考
河合道臣 - Wikipedia
歴史の風景−播磨伝説異聞−312寸翁が馳せた夢 仁寿山校跡
問題児にも活用法がある 河合道臣 童門冬二 |
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最近テレビでも色々取り上げられているようですが、
栗城史多(くりき・のぶかず)さんという若手登山家がいます。 自分の登山をビデオカメラで撮りながら登り、登山の過程を記録し、みんながリアルに登山を感じるようにされているそうです。 その登山スタイルや情報発信の脚色性に批判もあるようですが、夢に挑戦する若者の姿に共感する人も多いのではないでしょうか。 栗城さんは、 身長162センチ、体重60キロの小さな登山家です。 子どもの頃は何も夢がなく、 何かをつかむために大学1年生の時から登山をはじめたそうです。 酸素ボンベを持たない単独エベレスト登頂に3度失敗したそうですが、 失敗して挫折しても、生と死の狭間で学んできた「生きる」という力を、 若い人たちにリアルなメッセージとして伝えています。 私はほとんど登山をやらないので、実感まではよくわかりませんが、 標高が高くなればなるほど、当然のように苦しみは増えていくそうです。 栗城さんによると、 苦しみにはふたつの特徴がある。 ひとつは闘おうとすればするほど、大きくなっていく。 苦しみと闘おうとすればするほど、その苦しみは大きくなっていく。 もうひとつは逃げようと思っていても、どこまでも追ってくる。 苦しみから逃れることはできない。 だとすれば、苦しみを受け入れよう。 苦しみに感謝 「ありがとう」 栗城 僕は空気が薄いことによって、色々な学びがあると思っています。 8000メートル級の山を登るときにどうやって登るかと言うと、それは力じゃないんです。 肉体がいくら強いと言っても筋肉は酸素がないと動かない。 筋肉がありすぎると逆に動けなくなってしまいます。「気合だ!」という人も、酸欠になるとどんどん衰えていきます。 それでは僕が何をしているかというと、「苦しみに感謝」ということを意識します。 8000メートル級で頂上付近にまで来ると、当然もの凄い苦しいわけですが、そこで僕は「ありがとう」と言ってみます。 ヒマラヤに行って分かったのは、「苦しみ」とは戦ってはいけないと。 戦うとどんどん苦しみが増幅していきます。それで「苦しみに感謝」なのです。 もうひとつは「苦しみ」は、逃げても追いかけてきます。 現実逃避をして違うことを考えて登ろうとしても全然逃げられなくて、そこで僕は苦しみと友だちになろうと思ったんです。 苦しみというものは僕を学ばせてくれたり、成長させてくれます。 それがあるから登頂したときの喜びも強いし、ありがたいことだということを判らせてくれるので、「ありがとう」と言いながら登っているんです。 そうすると呼吸が楽になってきたりします。 気がつくと一番酸素を使っているのは、脳なんですね。 登山も人生も同じ・・・学ぶことがとても多いですね。
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日本テレビは2日、朝の情報番組「ZIP!」に出演しているサモエド犬の兄弟「ZIPPEI」が、番組起用前に、声帯の部分切除を受けていたことを明らかにした。日本テレビは「番組制作上の理由ではなく、手術を番組起用の条件としたこともない」としている。 ZIPPEIは3歳の兄弟犬。昨年5月に始まった「ZIPPEIスマイルキャラバン」のコーナーで、2匹は交代で男性歌手のダイスケさんとともに全国を旅している。2匹が番組中に声を出すことがほとんどないため、ネットなどで疑問の声が上がっていた。 2匹とも手術によって声そのものは完全には失っていないが、抑えられた状態になっているという。(産経新聞) http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120202-00000646-san-ent
「ZOO動物プロ」 http://www.zoojapan.com/
日本テレビの24時間テレビはエセチャリティー番組でチャリティーマラソンはスローウォーキングだ、タレントはノーギャラでスポンサーCMも流さずに広告収入と社員が年収の1%以上を寄付すべきだ
http://blogs.yahoo.co.jp/x1konno/35380614.html
日本テレビ(1月) 全日(午前6時〜深夜0時)9.1%(1位) プライム(午後7時〜同11時)13.3%(1位) ゴールデン(午後7時〜同10時)13.4%(1位) ノンプライム(午前6時〜午後7時、午後11時〜深夜0時)7.9%(1位)http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120130-00000013-mantan-ent
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甘藷の栽培をすすめて、飢饉対策に大いに貢献し、甘藷先生と言われた青木昆陽よりも、三年も前に、甘藷で人々の飢えを救った人がいました。井戸平左衛門正明という、石見銀山を含む天領である大森(島根県西部)の代官です。
この人は、江戸の野中という家に生まれ、その後井戸家の養子となり、21歳で家督を継ぎます。表火番など歴任のあと、元禄15年(1702)より勘定役に昇進し、爾来、30年同じ勘定畑を勤務し享保6年(1721)6月5日には黄金二枚を賜っています。正明49才の頃です。
この勘定所での忠勤がみとめられたのでしょう。名江戸町奉行といわれた大岡越前守忠相の推薦で、享保16年(1731)に石見地方大森の代官に任命されました。正明60歳の時でした。
ところが、正明が赴任した直後の享保17年(1732年)、有名な江戸三大飢饉のひとつ「享保の大飢饉」が西日本一帯を襲いました。中国地方から近畿地方、四国九州まで、長雨冷夏となり、夏にはウンカとイナゴが大発生して、”大虫災”が始まりました。餓死者が三十万とか二十万とか当時の資料に書かれています。
正明の仕事は、このために飢民救済に力を注ぐことになりました。正明は部下に、
「すぐ代官所の倉を開いて、米を住民に配給しろ」と命じました。部下はびっくりしました。
「そんなことをしたら、お代官の首が飛びますぞ。まず幕府の許可を得ることが先決です」と言いました。正明は首を横に振って言いました。
「こんな遠い石見の地から幕府の許可を得ていたのでは、二ヶ月あまりかかってしまう。その間に飢えに苦しむ人々がどんどん死んでしまう。そんなことは人の道として許せない。わしが責任を取るから、米の倉を開けろ」と命じました。そこで部下は命令にしたがい倉を開けました。
飢えに苦しむ人々はもちろん喜びましたが、しかしさらに過重な年貢という負担がありました。大災害だからといって、なかなか年貢は免除されません。当座の食糧は得られたものの、それを考えると農民の気は重かったのです。
これを知った正明は、またも部下に命じます。
「今年の年貢は免除すると伝えろ」
部下は目を丸くしました。そして、
「それこそ、お代官の首が飛びますぞ。おやめください。代官所というのは、年貢を徴収するのが役割なのですから」と反対しました。しかし正明はききません。
「お前たちがやらないのなら、わしが村々に触れて歩く」と言いました。部下たちは仕方なく、むらをまわってこのことを触れました。人々はとび上がってよろこびました。
この年の4月14日、正明は養父正和の命日法要のため大森町の栄泉寺をたずねます。ここで運命的な出会いがありました。諸国修行の 途中立ち寄った僧泰永(たいえい)と遭遇したのです。 薩摩國ではサツマイモが広く栽培され、肥料も労力もいらず多収穫で痩せた土地に適合している情報を聞き、 石見地方一帯の砂地での栽培普及を決意します。
彼は直ちに江戸に対して薩摩國より大森(石見地方)へ移植のための書状をしたため、当月下旬に江戸表へ送ります。
この書状の返書が6月に届きます。その内容は幕府は正明の要請に応るもので、薩摩國は最西端にある幕府天領の地、日向國本庄まで種芋を届ける。大森藩からは、浜田港より手代伊達金三郎と僧 泰永などが種芋受け取りに船を仕立てて海路本庄へ向かいます。享保17年6月のことでありました。(泰永は下船しそのまま帰省)
この結果、種芋百斤(60Kg)は本庄川の下流、天領本庄の赤江港で大森藩に渡り、藩内に持ち帰った後、村高100石につき8本の割りで配られ植えられました。
このサツマイモ作戦の展開のさなかに、笠岡代官竹田喜左衛門の死去により、美作国窪島作右衛門と2名で代官所預かりの兼務 となります(享保17年6月2日)。また正明には一男一女の子がいましたが、長男の敬武(のりたけ)が享保17年5月26日に逝去、長女に入り婿として窪島作右衛 門長敷のニ男内蔵助を迎え世継ぎとしました。飢饉対策と、笹岡代官所の兼務、さらに身内での不幸と、そのための家督の後継の選任、実に慌ただしく忙しい日々が続きます。
そして、この飢饉における正明の行動は、幕府で大問題となります。
「事情と、井戸正明の心情はよくわかるが、しかし勝手に現場判断で代官所の米を配給したり、年貢を免除することは大罪だ」と言うのです。とりあえず罪科が決定するまで、笹岡代官所に謹慎ということになりました。
しかし結局、正明の罪科については、すべて黙認されることになりました。もしかしたら、推薦者である大岡忠相が強い態度で無罪を主張したのかもしれません。(童門冬二氏の推測)
正明は、しかし享保18年5月26日笹岡代官所にて死去しています。これは過労による病死という説と、自決であるという説がありますが、医者を呼んだ記録などがあり、おそらくは病死ではないかと思われます。
井戸正明を讃える顕彰碑は四十数ヶ所、いろいろなところに残されています。現場の判断で適切な対応をし、その責任を担う覚悟を持った人物の素晴らしさに、ただ感服するのみです。きっと腹を切る覚悟をもって行ったことでしょうが、その覚悟のできる武士が、昔はいたということです。現代の政治生命をかけると言いながら、口先だけの言葉が寒々と感じられるこの違いの大きさは、なんとも情けないものです。
その後
明治12年(1879) 井戸神社 創設 島根県大田市
明治43年(1910) 岡山県下軍事大演習の行幸に際し従四位を追贈 参考サイト・文献
笠岡遊歩 井戸平左衛門正明「現場判断で飢民を救う――井戸平左衛門」 童門冬二
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日露戦争の頃は、日本軍、さらには一般国民にも武士道の心が浸透していた時代です。明治天皇の大御心に国民全体が、一つに沿い奉っていた時代でもあります。この軍人、志士たちの礼節、道義の立派さは、世界最高ではないかと思います。そこには、尊皇の心が強ければ強いほど、道義が正しくおこなわれるという日本人の道徳のあり方が現れています。
大東亜戦争になると、武士道が少し劣化した部分もあると言われますが、一部の人はたしかにそうした部分があったにしても、それでも立派な話が多く残っていますから、GHQのプロパガンダに言われているような残虐行為がそんなにあったわけがないと思います。日本軍の規律の正しさは、先の戦争でも連合国や支那の軍に比べると、非常に立派だったという話も聞いたことがあります。
占領政策のウォーギルトインフォメーションプログラムによる自虐史観から、今こそ脱却して私たちの先人を正しく敬い先人を誇りを持って慰霊すべき時です。先人を貶めることはもうやめにしなくてはいけません。
皇化の行わるるところ節義あり
国民の間に、皇化の慈徳(いつくしび)をはっきりと自覚している時期は、たとい戦時にあっても、尊皇の道においては、かえって節義、道義がよく保たれる。これを近世の実例をして、物語らしめようと思う。
日清戦争では、自決した清国北洋艦隊の司令長官を、我がほうは礼を尽くして葬っている。日露戦争でも、乃木大将はロシア軍の旅順要塞の守将ステッセルとの会見で、露軍敗将らに帯剣を許した。乃木の惻隠の情が伺われる一コマであるが、のみならず、乃木はステッセル助命の手紙をロシア皇帝に送ってやっている。それあってのことか、乃木大将葬儀の日、モスクワの”一僧侶より”一通の香典が届けられたという。惟(おも)うに、現地の日本婦人を虎に食わせる底(てい)の露軍の蛮行非道と、日本将士の皇道は、けざやかに明暗を分けた。
乃木大将は、もう日露戦争もすんだ明治四十四年、久留米大演習の折、宿舎にあてられた真木家の居間で、座布団を使わず、正座していた。人々がしきりに勧めると大将が言うには、「ここは真木先生のお家でありますぞ。乃木などが座布団をしかれるところでありません」と。大功におごらず栄誉におぼれず、謹厳にして節倹、古武士のような人であった。ちなみに真木和泉守は、吉田松陰、平野国臣、橋本景岳と共に、維新を導いた英傑の一人で、明治維新の大方針を述べた『王制復古の大号令』の一節 「諸事、神武創業の始めに原(もと)づき」は、景岳の所論と和泉守の建白が採られた形になっている。
陸の乃木がこうなら、海の東郷の節義もうるわしかった。佐世保病院に、日本海海戦の敗将ロゼストゥエンスキーを丁重に見舞い、慰労し、全快のときに部下将兵こぞって特別船で帰国できる約束をして、安堵させた。日本政府も、ロシア兵の捕虜九万名あまりを、戦後は一兵のこらず送り返している。(それにひき較べ、ソ連は、大東亜戦争後に日本兵多数を”シベリア抑留”させたのである!)。両雄の忠節、すべて明治天皇の大御心を体してのことであることは言うまでもない。
更に義烈となり忠烈と燃え
国のため あだなす仇は くだくとも いつくしむべき ことな忘れそ
と、明治天皇は詠まれたが、慈徳は、一旦緩急あるときは義烈と燃え、己が死しても周囲を活かすこと、次のとおりである。
義和団事件を口実に条約を無視して満州に兵を入れ、露骨に朝鮮までを伺う形勢のロシアと戦ったのが日露戦争であったが、その開戦(明治三十七年二月)の日、北京から、日本の民間志士による特別任務班五組が、満蒙めざして出発した。シベリアからウラジオストクに伸びるロシアの兵站線、東清鉄道の鉄橋を爆破し、ロシア軍の後方を撹乱するのがその任務だった。その一班の中に、横川省三、沖禎介がいた。
吹雪舞う、満目蕭条(しょうじょう)たる満蒙の曠原(こうげん)をラバと馬と徒歩とで継ぎ進むこと四十余日、四百里(千五百キロ)、ようやく嫩江(のんこう)の近くまでたどりついた時、ロシア兵に捕まり、ハルピンの軍司令部に送られた。押収された機材物品から、橋梁爆破の計画はもはや蔽うべくもなかった。急ごしらえの軍事裁判での尋問・答弁である。
横川省三
沖禎介
裁: 被告の軍における階級、位階、勲等は?
横川: 軍人ではなく、無位無冠の一日本男子である。
裁: 軍人でない者が、この様な行為をなすとは思わぬが。
横川: 日本国民の一人として国を思わぬ者はない。軍籍ではないが、日本人すべて天皇陛下の赤子である。忠義をつくすのが、日本人の道である。
沖にも訊問がおこなわれた。
裁: 指揮者の姓名は?
沖: 生命にかえても、申しあげられません。
裁: それを告白するなら、刑を減じてやるが、どうか。
沖: われらは日本人である。武運つたなく捕らえられたからには、もとより死は覚悟。死を賭しても国を守る覚悟でいる者が、どうして刑死を恐れましょうや。
もちろん両人は、日本に不利となる証言は何一つしなかった。それのみか、自分たちのような決死隊が何百組と潜入しているやにほのめかしたから、ロシア側の動揺はかくせなかった。絞首刑をひるがえして銃殺刑に決定されたのは、両士の態度に畏敬の念さえおぼえた司令部側が”軍人”としての名誉をおもんぱかったからである。
刑死に臨んで横川は、郷里盛岡に残した二人の遺児に手紙を書いた。
「此の手紙と共に北京の支那銀行手形にて五百両(テール)を送る。井上敬次郎、・・・・・・等の諸君と相談の上、金に換ゆるの工夫をなすべし」
妻なきあと、二人の遺児を預けている某家の貧困を思い、金を送ってやろうと思い立ったのである。が、待てよ、と横川は考えた。五百両(テール)は特別任務用の公金である。そこで、こう書き換えた。
「・・・・・・五百両を送らんと欲したれども、総て露国の赤十字社に寄付したり」
寄付の申し出を受けたハルピン衛戍司令官ドウタン大佐は、「二人のお嬢さんに送ってさしあげなさい」と親切に慰留したが、横川は、はっきりと言い切った。
「ご厚志は忝いが、日本国においては、祖国のために一命を捨てたものの遺族に対して、天皇陛下も軍もわが同胞も、決してお見捨てになることなく、特別の礼をもって待遇してくれます。よってそのご心配はいりません」
沖も同じように所持金の五百両(テール)をロシア赤十字社へ寄付し、
「ロシア傷病兵の役に立ててください」と申し出た。
「言いのこすことは、ないか」と尋ねられたとき、沖は紙と鉛筆を求めて両親へ訣別の遺書をしたためた。その端正な書体は一字の乱れもなく、その沈着さにドウタン大佐は思わずうなった。沖は、肥前・平戸の生まれ、鎌倉の禅刹でいささか心胆を練った人である。
刑場はハルピンの東北にある小高い丘の上。諸外国の新聞記者と観戦武官が、かたずをのんで見守った。二十四人の射撃兵に”うてー”の命令を下す執行官シモーノフ大尉は、情を込めた声で、こう言ったものだ、
「愛をもって撃つのだ!」
「天皇陛下万歳!!」「大日本帝国万歳!!」 二人は力限りに叫んだ。銃口一閃・・・・・・
ときに明治三十七年四月二十一日、満州の赤い夕陽が残雪に映える午後の五時三十分。
横川省三 四十歳、沖禎介はわずかに二十九歳の生涯であった。明治天皇は、両士刑死の日付を以て勲五等と金子を授け賜わった。東京・音羽の護国寺に建つ、他の同士四人合せての【六烈士の碑】の文字「烈々の武士(もののふ)邦家の英(はなぶさ)なり」は、シベリア単騎横断で有名な福島安正将軍の撰文という。(田中正明『アジアの曙』)より要約
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