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サイタニのブログの続きです。
竹田 恒泰著 「皇族たちの真実」より 戦死した皇族たち
これまで終戦を完成させるために皇族たちが重要な役割を担ったことを紹介してきた。だが、太平洋戦争中に命を落とした皇族もあったことを忘れてはいけない。戦争という国の大事において皇族は命を落として当然であるというのは明治天皇の思召であり、男子皇族は全員軍人となることが義務づけられていた。
これが「ノーブレス・オブリージュ」、つまり王族や貴族などの特権階級は普段好遇されているからこそ、いざ国の大事となれば最も危険な任務に就くべきだというヨーロッパの発想にほかならない。だが太平洋戦争中皇族は特別扱いされ、極力危険な任務に就かせないように力が働いていたことも事実である。しかし、その中にあって自ら危険な任務に就くことを求めて軍部と対立した皇族、そして実際に戦場に命を散らした皇族もいた。
〔殲滅戦を指揮して玉砕した音羽(おとわ)正彦侯爵〕
音羽正彦侯爵は朝香宮鳩彦王の第二王子で、明治天皇の第八皇女である允子(のぶこ)内親王を母とする。次男であったため昭和11年(1936)に臣籍降下して、音羽侯爵家を創設していた。音羽侯爵は既に皇族の身分を離れていたため、正確には皇族ではなく「元皇族」であるが、皇族として生まれ育ったことには変わりない。また音羽侯爵は、朝香家の現当主、朝香誠彦の叔父に当たる。
音羽侯爵は戦前より軍艦「陸奥」に乗り組み、副砲長兼分隊長として活躍し、海軍砲術学校高等科学生としてもっぱら砲術の研究に当たり、同校を卒業した後は第一線に配属されることを希望し、昭和18年(1943)11月にはウェーキ島に、次いで同年12月にはマーシャル諸島方面部隊参謀に補せられた。そして翌昭和19年2月6日のクエゼリン島の激戦において自ら陣頭に立ち最後の突撃を敢行し、ついに壮絶なる戦死を遂げた。戦死後に海軍少佐に昇進。
〔米軍機と交戦して戦傷死を遂げた伏見博英(ふしみひろひで)伯爵〕
伏見博英伯爵は伏見宮博恭(ひろやす)王の第四王子として生まれた。母は最後の将軍徳川慶喜の第九女経子(つねこ)である。昭和11年に海軍少尉に任官すると同時に臣籍降下して、由緒ある「伏見」の名と伯爵の位を賜わった。伏見伯爵は、昭和18年8月下旬に、南太平洋方面で飛行機に搭乗して作戦要務遂行中に、敵機と交戦して重傷を負い、その後8月26日に戦傷死した。
太平洋戦争中に海軍大尉として第三連合通信隊司令部付として蘭印スラバヤに赴任したが、搭乗機がインドネシアのセレベス島(スラウェシ島の別称)南部ボネ湾の上空で米軍機に遭遇、追尾され撃墜された。戦死後に海軍少佐に昇進。伏見伯爵は、伏見家の現在の当主である伏見博明の叔父に当たる。
〔飛行機事故で戦死した北白川宮永久王(きたしらかわのみやながひさおう)〕
北白川宮永久王は、北白川宮能久(よしひさ)親王の第三王子である成久王を父、明治天皇の第七皇女の房子(ふさこ)内親王を母として、明治43年(1910)2月29日に誕生した。そのとき父の成久王は既に亡く、その第一王子である永久王は、若くして北白川宮の当主になった。永久王は学習院初等科から陸軍幼年学校、そして陸軍士官学校へ進学し、父の成久王と同じ近衛野砲連隊に入って、野砲兵学校、そして陸軍大学へ進学した。昭和15年(1940)3月9日に中国に派遣されて、駐蒙(ちゅうもう)軍参謀となるが、約半年後に
内蒙古戦線での演習中に飛行機事故に遭った。陸軍大尉だった永久王は戦死後に陸軍少佐に昇進した。
永久王は軍神とされ、その死を讃える歌が作られた。永久王の第一王子である道久(みちひさ)王は昭和12年(1937)の生まれなので、3歳で北白川宮家を継ぐ。現在は伊勢神宮の大宮司を務めている。
北白川宮が「悲劇の宮様」といわれるのは、親子三代続けて海外で戦死または事故死しているからである。永久王の祖父に当たる第二代当主の能久親王(筆者の高祖父に当たる)は、明治28年(1895)、陸軍中将、近衛師団長として日清戦争後の台湾平定において戦病死した。また、永久王の父で第三代当主の成久王は大正12年(1923)4月1日にフランスのパリ郊外で自動車事故によって薨去となっている。
特別扱いされた皇族軍人
男子皇族は全員軍人となることが原則とされ、実際に戦場で命を散らした皇族があったことをこれまで述べてきた。だが実際には皇族を危険な任務から遠ざける傾向があったことも確である。皇族を弾丸が飛び交う前線に配置することには抵抗があったのだ。 大正天皇の第三皇子で昭和天皇の弟宮に当たる高松宮宣仁親王は、学習院を経て海軍兵学校、海軍大学校に進み、砲術学校普通科学生課程を終了後、戦艦「比叡」に乗り組んでいた。しかし高松宮は周囲から常に特別扱いされ、自ら望むことは何もやらせてもらえず、その悔しい思いを、22歳の昭和2年(1927)8月28日の日記に次のように記した。
「行くと云つて『では願ひます』とすら云はれたことがない。まして『殿下に』と呼んでたのまれたことはない。そんなに私は何にをするにも能力がないのかしら。「する」と云つてさしてもらへたことはこの一月何んにもない。『比叡』の中にすんでる油虫と大差なし。もう『さしてもらひ度ひ』とは云ふまい。そう云ふのは自惚れなんだらう。』
また別紙には次のような戯れ歌が書かれている。
「私は比叡の油虫/立派なお部屋に/納って/たらふく食ったら/ちょろ々と/ふざけ散らして/毎日を/遊んで暮す有様は/他人が見れば羨めど/我身となれば徒食の/辛さに苦労の益す許り/早く私も人並みに/比叡のために働いて/大きな顔して開歩して/愉快な日々を送りたし。」 何もやらせてもらえない自分を「比叡の油虫」と表現するところに、ユーモアセンスのある高松宮らしさが湊み出ている。ここから若き高松宮の青春の一ぺージを垣間見ることができる。
していた。この頃、上海周辺で日本軍と中国軍が本格的な戦闘に突入し、両軍に多大なる犠牲者を生むに至ったのだが、そのとき高松宮は自らが中央の安全な場所で勤務をしていることを嫌い、前線に赴くことを希望した。高松宮は戦闘の実態を見聞しておくことが絶対必要であること、そして国民の危険をただ座視するのは皇族として好ましくないことなどを、中国行きを希望する理由として自らの日記に記している。
昭和12年(1937)夏、高松宮は少佐として軍令部第四部(通信)に勤務 ところが宮内省はこれに反対、木戸幸一宗秩寮(そうちつりょう)総裁〔当時。宗秩寮は旧宮内省の一部局で、皇族・華族などに関する事務を司った〕と海軍次官山本五十六中将〔当時〕、そして昭和天皇も同じくこれに反対し、高松宮は中国行きを断念することになる。
反対の理由は、そのとき兄宮の秩父宮は外遊中で日本を留守にしており、また弟宮の三笠宮はまだ若いため、もし昭和天皇に万一のことがあった場合、高松宮に摂政になってもらわなければ困るということだった。
高松宮は昭和12年9月11日の日記に、「海軍にゐてコノ機会を逃した事だけで、私は今までの私の、何のために海軍にイヤイヤながら在籍してゐるのかと云ふ、唯一の手がかりを失つた様な悲しさを覚える。益々私の海軍にゐることの有名無実さを感じられる」と極度の落胆ぶりを記した。 高松宮の憤りはまだ続く。昭和17年(1942)夏、宮はアリューシャン列島のキスカ島の視察を希望するが、やはり嶋田繁太郎海相と軍令部次長伊藤整一少将らに反対され、またしても望みは実現しない。高松宮はこのときも日記に「全く統率上生ける屍なり」(昭和17年8月30日付)と書き残した。当時多数の男子皇族がいたが、秩父宮、高松宮、三笠宮の三方については 昭和天皇の弟宮であるということで、ほかの皇族軍人に比べてより特別に扱われていたと見える。
また昭和12年9月に伏見宮博義(ひろよし)王(海軍大佐一が第三駆逐艦隊司令として駆逐艦「島風(しまかぜ)」に乗艦していたところ、上海方面で負傷したとの報せを受け、高松宮は「結構な出来事なり。〈中略〉これで皇族も戦死傷者の中に算へられる帖面ヅラとなり、よろし」(『高松宮日記』昭和12年9月26日付)と記した。
「宮田参謀」という偽名
一方、竹田宮恒徳王も皇族として特別扱いされることに抵抗した一人である。父恒久王が日露戦争に従軍したとき、馬ですぐ隣をすんでいた南部利祥(としなが)少尉〔旧盛岡藩主南部伯爵家当主〕が敵弾を受けて戦死した。恒徳王は弾雨の中から生還したこの話を父から聞かされて育ったのだった。恒久王は日本に凱旋した後、家に南部少尉の写真を飾って祀っていたという。
恒徳王は昭和13年(1938)5月30日に陸軍大学校を卒業して、日中戦線の第一線の中隊長を志願したが実現せず、満州ハイラルの騎兵十四連隊第三中隊長に任命された。竹田宮は光子妃を伴い、モンゴルに繋がるホロンバイルの大草原へと赴任し、間もなく黄河北岸にある帰徳付近に進んだが、このとき前線への出勤を前にして、竹田宮だけ内地〔日本国内のこと〕に戻す動きがあった。納得できなかった宮は東京にいる陸軍省の人事局長と電話で激しく口論した末に、希望が受け入れられ、中隊長として戦地に赴くことになった。
かくして竹田宮は第一線に立つことになったのだが、戦闘に加わるならば皇族の身分を隠した方がよいということになり、「竹田宮」をひっくり返し、「竹」を「武」に替えて「宮田武」という名前を使うことにした。以降、竹田宮の隊は「宮田中隊」と呼ばれ、また参謀になってからは「宮田参謀」で通した。
日本軍の中でもごく一部の特定の者以外は宮田参謀が皇族の竹田宮であることは知らなかったという。ここで竹田宮は初めて敵弾をくぐる経験をする。そして後に「初めて自分に向けて弾が飛んできたときの気持ちは全くいいものではなかった」と語った。
昭和17年、フィリピンの米軍はバターン半島へ撤退し、マッカーサー司令部はコレヒドール要塞に立てこもっていた。そのとき宮田参謀は数人の参謀とともにプロペラ機でバターン半島からコレヒドール上空を飛んで戦況を視察したのだが、終戦後、恒徳が連合国最高司令官総司令部(通称GHQ、以下「総司令部」という)情報部長のウィロビー少将に会って「はじめまして」と挨拶をすると、ウィロビー少将は「はじめてではない」と一言い、恒徳が納得のいかない顔をすると、少将は「1942年(昭和17年)の初めに、あなたは飛行機でコレヒドールの上空を飛んだでしょう。その飛行機には赤い吹き流しがついていた。そのときあなたに会いましたよ」と言って笑った。
確かに宮田参謀が乗った飛行機には味方から撃たれないように赤い吹き流しがつけられていた。当時竹田宮は一貫して「宮田参謀」で通していたのだが、竹田宮=宮田参謀ということはかなり早い段階で米軍には知られていたということだ。竹田宮は終戦になってから、当時の米軍の諜報活動の凄さを思い知らされたのだった。
ウィロビー少将は続けた。「マッカーサー元帥は、エンペラーのお使いがここまで飛んできたということは、日本軍がもうはっきりと自信を持ってきた証拠だとみて、フィリピンを捨てて、豪州に退く決心をしたのだ」と言う。マッカーサー元帥は、ただの一参謀として視察に来た竹田宮を、皇族としてお使いに来たと理解したのだった。竹田宮がコレヒドール上空を飛んだ数日後にマッカーサー元帥は潜水艦でコレヒドールを脱出している。
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サイタニのブログからの転載です。
終戦直 前に、皇族が戦地に飛んで、昭和天皇の停戦の御心を伝えられましたが、終戦後も自由に動けない昭和天皇かわりに、歴代天皇陵をすべて回って敗 戦の御報告と日本復興の御加護をお祈りするようにと、昭和天皇から命ぜられます。
これもやはり皇族でしかできないお役目です。日本は祭祀の国なのです。日 本は、国でも個人の家でも、古来より、先祖の祀りを大切にしてきた文化の国柄なのです。だから敗戦という未曽有の出来事においては、なおさら、これは大事 なこ とであったと思います。
竹田 恒泰著 「皇族たちの真実」より 歴代天皇陵御代拝
終戦の混乱もやや落ち着きかけた10月10日、昭和天皇は御自ら伊勢神宮に御参りになった。終戦を御報告されたことと思われる。その後11月29日には皇族男子に三度目の御召があり、昭和天皇は七名の皇族に、ある御使い御命ぜられた。
「百二十三に及ぶ歴代天皇の御陵に親しく自分がお参りしたいのだが、それはとても今の状態では出来ない。神武(じんむ)天皇の畝傍(うねび)陵と明治天皇の桃山陵と大正天皇の多摩陵とこの三ツの御陵には自分でご報告をし請願をするが、あとの百二十の歴代天皇の御陵には、ご苦労だが君達が手分けをして代参してくれ」(竹田恒徳『終戦秘話』)
そのお使いとは、山陵(さんりょう)御差遣、つまり歴代天皇陵への御代拝だった。昭和天皇からは、戦争のこのような終戦は自分の不徳の致すところであり、それを謝り、日本の今後の復興に対して御加護を祈るように、そして今回の皇族の御代拝で国民と皇室との結びつきをより深めることを希望する、との御話があった。
御陵が集中している京都へ出かけたのは高松宮だった。宮は12月2日から4日間をかけて、京都中の御陵をくまなく訪れ、御代拝した。分刻みで多くの御陵を御代拝する様子は『高松宮日記』に記されている。そして高松宮は関西地区、三笠宮は九州地区、朝香宮は大阪地方、東久邇宮若宮(盛厚(もりひろ)王)は京都地方、竹田宮は四国と淡路島、閑院宮は奈良地方を、また賀陽若宮(邦壽王)も特使として
山稜〔天皇の御稜〕を回った。
昭和天皇は御自ら、また親族から勅使を御立てになり、終戦という国の大事を、先祖である歴代天皇の御陵に御報告なさり、これからの日本の行く末を護っていただくように御請願なさった。
歴代天皇は天皇の先祖であると同時に、皇族にとっても先祖であり、このときに皇族が御代拝をしたことは意味深い。そして、皇族が手分けをして全国の御陵を訪れたことは、終戦の早い段階で 天皇の行幸があったのと近い効果があったはずだ。
例えば高松宮はこの御差遣に際して京都と大阪で数多くの病院や行政機関などを訪問し、また各界の要人と会談した。
このとき昭和天皇は「皇族は朕(ちん)と民衆との間に在りて、此の点に充分尽力ありたき」と仰せられた。終戦の混乱期において天皇の分身として身軽に動き回ることができたのは皇族しかいなかった。この時期に皇族はさまざまな役割を担ったが、その中でも取り分け、外地及び内地への聖旨伝達と山陵御差遣は、皇族であってはじめて遂行できる極めて重要な任務である。
そして、敗戦国の武装解除が無血で完了したことは、人類史上極めて異例なことであり、その上で皇族たちは絶大なる役割を担ったことになる。
注:これを見ると、今言われている女性宮家創設はやはり無理ではないか、女性が代拝出来る日は限られるからである。皇族を復帰させるのが皇室を安定させることであり、しいては日本が繁栄するのである。(皇室の事は皇室が決めるのが一番良いと思う) (皇室が安定することが日本繁栄に何故繋がるかは、このブログを最初から読んで頂いた方にはお解かりでしょうが、途中からの方にはいずれ再び書きたいと思う。皇室が無くなったら日本は滅びると思って頂きたい。それほど重要な事である。) サイタニ |
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歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。
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「敗戦国体制」護持という迷夢 占領統治のためにねつ造された歴史
高知大学名誉教授 福地惇
言うまでもなく、現代日本の国家基本法は日本国憲法と教育基本法である。
この基本法の出自には重大な疑惑が塗り込められており、これを護持する政治姿勢に大問題が存在している。
結論を先に述べれば、現行の国家基本法は今次大戦の勝利者である米国軍人の最高司令官が本国政府の意向さえ軽視して、ポツダム宣言という国際的協約を踏み躙り、奸策を弄して被占領国日本に理不尽に下賜したものである。
これは敗戦国日本を半永久的に「属国的な半国家」に抑え込む施策であり、日本の国家・国民のためのものではない。それ故に私は、現在の国家体制を「敗戦国体制」と呼び、この体制を善美で正しいとする観念を「敗北主義イデオロギー」と称する。
「敗戦国体制」の特徴は、第一に歴史の正当性を担う「国体」を最低限容認したかの如く装いながら、実際はそれを形骸化して、我が国の歴史の中心に連綿として存在する国家統合の基軸である天皇を、あたかも“選挙王”のごとくに貶めた点である(憲法第一章第一、四条)。
第二に、主権国家の国防権を実質的に剥奪され、国の安全保障を独自に担保できない奇形な状態に固定した点である(憲法第九条)。
講和条約締結後の我が国の政治は、不覚にも「敗戦国体制」の根幹=「日本国憲法・教育基本法」を自ら不磨の大典として押し戴き、護持してきた。
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小泉純一郎首相は2003年9月の自民党総裁選挙で「小泉構造改革で日本を蘇らせる」と熱心に主張した。「蘇らせる」とは仮死状態に陥った者を蘇生させることである。
では一体我が国はいつ、何を原因として、いかなる「仮死状態」に陥ったのか。
小泉首相はそれについては何も説明しない。対立候補の亀井静香氏は、「小泉首相が訪米してブッシュ大統領と会談した際に、米国の日本占領統治に触れて、日本を解放してくれて有難うと感謝したと伝えられるが、それは間違った歴史認識であり国政の最高責任者としての見識を疑う」と批判した。
亀井氏の小泉批判は正しい。しかるにその正しい批判は、世間からはさほど注目も評価もされなかった。なぜか。
ポレミック(挑発的)な表現を用いれば、我々日本人の多くが意識の奥底で自らを“負け犬”だと納得しているのではないか。侵略戦争を行った軍国主義の時代に比べれば、平和と民主主義の戦後が正常なのだと思い込んでいるのではないか。だが私に言わせれば、先の大戦を侵略戦争と決めつける“戦後の常識”の方が異常なのである。
日露戦争以降の我が国は、シナ大陸に条約や協定に基づく多くの権益・利権を有し、貿易も活発で大陸各地に活動する在留邦人も多かった。日支関係は密接だったが、第一次大戦後になって、シナ大陸において急速に頭角を現してきた蒋介石政権との複雑な利害と感情の対立が絶えなくなった。
ここで私は、当時の日支関係の背後の存在した事態悪化要因を指摘しておきたい。
第一は、蒋介石の背後にシナ共産党が、さらにその背後にコミンテルンが潜伏してアジア共産化の野望をたくましくしていたことである。彼らは“漁夫の利”を狙ってシナ全土撹乱戦略=抗日救国運動を煽りに煽り、抜き差しならぬ困難な情勢へ日支両国を追い込んだ。
第二は、米国の支那政策と我が国の大陸権益との摩擦・衝突である。1899(明治32)年、米国はフィリピンを獲得して東アジアへの関心を高め、出遅れたシナ大陸分割競争に参入しようと「門戸開放・機会均等」(国務長官ジョン・ヘイの声明)なるシナ政策の推進を開始した。それ以降、日本やロシアの既得権益との摩擦が始まる。次いで大統領ウィルソンの「自由主義」による世界新秩序が以降から、第一次大戦後のワシントン会議におけるシナに関する九カ国条約に至り、「門戸開放主義」は列強の承認事項となって我が国の大陸政策を強く制約するに至った。同時に米国の圧力で日英同盟は日英米仏の四カ国条約にすり替えられ、解消させられた。第一次大戦を契機に国力・勢威の順位は英米から米英に転じた。米国は大戦で甚だしく疲弊した英国を自陣営に引きずり込んだのである。米国の世界新秩序外交がシナの「門戸開放・機会均等」の原則を以って、我が国のシナ外交を撹乱・制約し、ついには松岡洋右外相の勢力均衡論による米国の行動掣肘(せいちゅう)という読み違いの日独伊三国同盟へと走らせた。これが米国の日本完全敵視への直接的な契機となったことは言うまでもない。こうした事態の推移は、国際情勢の趨勢の読み違えによる近衛文麿=松岡外交の重大な失敗であり、大きな国際政治の流れから言えば米国の独善的理想主義外交の勝利だったといえる。
第三は、第二の延長線上の事態だが、混迷するシナ大陸情勢に苦闘する日本の弱点に乗じた米国が、英国を引きこんで蒋介石政権を軍事的・外交的に支援、軍需物資を大量援助して日支事変正常化を妨害したことである(この間の経緯に関しては中村粲氏の『大東亜戦争への道』に詳しい)。
ともあれ、当時の我が国にシナ大陸全土制圧の野望はなく、日露戦争の勝利や第一次大戦で獲得した権益保全に精一杯で、したがって必死に蒋介石政権や米国政府との和解工作に腐心していたにもかかわらず、一方で日独伊三国同盟の締結という米国の日本敵視を決定づける最悪の外交カードを選択したことで、さらなる苦境に追い込まれた。こちらの苦境を見透かしたルーズベルトは米国の東アジア政策への我が国の屈従を求め、最後には経済封鎖を断行した。
このように多くの要素が重なり合ったことで、日本は最終的に国家としての自衛・独立のため、南方に石油資源を求めて進出し、対米英への宣戦布告に踏み切ったのである。見落とせないのは昭和4(1929)年9月に始まった世界大恐慌の後、欧米列強がブロック経済圏の強化に邁進したことである。国土狭小で資源小国の我が国にとっては、こうした世界情勢に対応する“やむを得ない運動”だったのである。
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平成17年11月に発刊された国際的数学者、藤原正彦氏の『国家の品格』(新潮新書)は発行部数265万部を超えるベストセラーとなりました。 アメリカの「論理万能主義」を批判し「だめなものはだめ」と主張。グローバリズムなどを真っ向から否定し、自国の伝統や美意識などを重んじることを説いた著書でした。 国際的数学者として知られる藤原氏は、これらの本で、いま日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、「国家の品格」を取り戻すことだと説いています。 藤原氏が武士道に関して述べた意見に焦点を合わせて、21世紀に求められる武士道精神について括りとします。 「広辞苑」では品格とは、、「品位、気品」をいう。「品位」とは、「人に自然にそなわっている人格的価値」、「気品」とは「どことなく感じられる上品さ。けだかい品位」をいいます。 人物を対象にした言葉であり、国家に対しては普通用いません。 しかし、国民一人一人に品格があってこそ、国民全体に品格が備わり、それがその国家に品格をもたらし、国家とは、日本人のことであり、その一員としての一人一人の品格が問われているのです。 藤原氏の父は、小説家、気象学者として名高い新田次郎氏です。 藤原正彦氏が武士道精神を持つようになったのは、氏の受けた家庭教育による。 「私にとって幸運だったのは、ことあるごとにこの「武士道精神」をたたき込んでくれた父がいたことでした」と氏は『国家の品格』に書いています。 「父は小学生の私にも武士道精神の片鱗を授けようとしたのか、『弱い者が苛められていたら、身を挺してでも助けろ』『暴力は必ずしも否定しないが、禁じ手がある。大きい者が小さい者を、大勢で一人を、そして男が女をやっつけること、また武器を手にすることなどは卑怯だ』と繰り返し言った。問答無用に私に押し付けた。義、勇、仁といった武士道の柱となる価値観はこういう教育を通じて知らず知らずに叩き込まれていったのだろう」 氏は、特に卑怯を憎むことを、心に深く刻み、 「父は『弱い者がいじめられているのを見てみぬふりをするのは卑怯だ』と言うのです。私にとって『卑怯だ』と言われることは『お前は生きている価値がない』というのと同じです。だから、弱い者いじめを見たら、当然身を躍らせて助けに行きました」と書いている。 家庭において父親から武士道の精神を植え付けられた藤原氏は、その後、今日にいたるまで、武士道精神を自分の心の背骨とし、武士道に対する理解は、拙稿「武士道とは(中)」でも記述していますが、その多くを新渡戸稲造の名著『武士道』に依っています。 「武士道には、慈愛、誠実、正義や勇気、名誉や卑怯を憎む心などが盛り込まれているが、中核をなすのは『惻隠の情』だ。つまり、弱者、敗者、虐げられた者への思いやりであり、共感と涙である」と・・・ 氏は論理だけでは世の中はうまくいかない、論理よりもむしろ「情緒」を育むことが必要だと述べ、また、それとともに、人間には、一定の「精神の形」が必要だと説いています。 氏は、次のように書いています、「論理というのは、数学でいうと大きさと方向だけ決まるベクトルのようなものですから、座標軸がないと、どこにいるのか分からなくなります。人間にとっての座標軸とは、行動基準、判断基準となる精神の形、すなわち道徳です。私は、こうした情緒を含む精神の形として『武士道精神』を復活すべき、と20年以上前から考えています」と。 国際的な数学者であり、歴史家や思想家でもない藤原氏が、このように言うところに、驚きと同時に強い説得力があります。 明治維新によって、身分としての武士は消滅しました。その後の武士道精神の変遷を、武士道精神の中核を「惻隠の情」と理解する視点から、藤原氏は次のように述べています。 「かつて我が国は惻隠の国であった。武士道精神の衰退とともにこれは低下していったが、日露戦争のころまではそのまま残っていた」 日露戦争での水師営での会見で、乃木将軍が敗将ステッセルに帯剣を許したこと、日本軍は各地にロシア将校の慰霊碑や墓を立てたこと、松山収容所では、ロシア人捕虜を暖かく厚遇したことなどを列挙しています。 「日本人の惻隠は大正末期にはまだ残っていたようである」 その実例として、氏は、第1次大戦後、ポーランド人の援助要請に応え、日本人が極東に残されたポーランド人孤児765名を救済したことを挙げています。 先祖であり先輩である明治・大正の日本人は、異国の人々の身の上を、わがことのように思いやり、親切このうえなく心を尽くした。まだほとんど外国人と接する機会のなかった時代であるのに、国際親善・国際交流の鑑のような行動を、人情の自然な発露として行っています。 こうした日本人の精神を、藤原氏は、武士道に重点を置いて、武士道精神と呼んでいます。 氏は、武士道は「昭和のはじめごろから少しづつ衰退し始め」、大東亜戦争の戦後は「さらに衰退が加速された」と述べています。我国の大陸進出については、氏と筆者では大きく見解の相違があり、歴史認識の誤りもみられますが、ここでは触れないでおきます。 アメリカは占領期間、日本弱体化のためにさまざまな政策を行なった。「たった数年間の洗脳期間だったが、秘匿でなされたこともあり、有能で適応力の高い日本人には有効だった。歴史を否定され愛国心を否定された日本人は魂を失い、現在に至るも祖国への誇りや自信をもてないでいる」 「戦後は崖から転げ落ちるように、武士道精神はなくなってしまいました。しかし、まだ多少は息づいています。いまのうちに武士道精神を、日本人の形として取り戻さなければなりません」 皆さんご存じのように、GHQから押し付けられた占領憲法により、主権独立国家として不可欠な国防を大きく制限されています。 憲法上、国民には、国防の義務がなく、「一旦緩急あれば、義勇公に奉じ」という文言のある教育勅語は、教科書から取り除かれ、国家が物理的に武装解除されただけでなく、日本人は精神的にも武装解除されました。結果、日本人は自ら国を守るという国防の意識さえ失ないました。 武士道とは、本来、武士の生き方や道徳・美意識をいうものです。武士とは、武を担う人間である。武を抜きにして、武士道は存立しえません。 自衛のための武さえ制限され、自己の存立を他国に依存する状態を続けている日本人が、急速に武士道精神を失ってきたのは当然の帰結です。 根本的な原因は、占領憲法にあります。占領憲法が、日本人から武士道精神を奪っているのです。この問題を抜きにして、武士道精神の衰退は論じられません。 氏は、武士道精神の中核は「惻隠の情」だとし、「弱い者いじめ」に見て見ぬふりをせず、卑怯を憎む心を強調し、氏のいうような武士道精神に照らすなら、例えば北朝鮮による同胞の拉致に対し、日本人及び日本国は、どのように行動すべきか、中国のチベット侵攻や台湾への強圧に対し、どのように考えるべきでしょうか。 これらの問題は、単なる道徳論では論じられず、日本という国の現状、自分たち日本人のあり様を、国際社会の現実を踏まえて論じる必要があるだろう。やはり、「この国の形」を決める憲法に帰結する事柄なのです。 市場原理主義について、次のように藤原氏は述べています。 「市場原理に発生する『勝ち馬に乗れ』や金銭至上主義は、信念を貫くことの尊さを粉砕し卑怯を憎む精神や惻隠の情などを吹き飛ばしつつある。人間の価値基準や行動基準までも変えつつある。人類の築いてきた、文化、伝統、道徳、倫理なども毀損しつつある。人々が穏やかな気持ちで生活することを困難にしている。市場原理主義は経済的誤りというのをはるかに越え、人類を不幸にするという点で歴史的誤りでもある。苦難の歴史を経て曲がりなりにも成長してきた人類への挑戦でもある。これに制動をかけることは焦眉の急である」と・・・ 本ブログでも再三再四述べてきましたが、我国は誇り高い「道義国家」でした。 氏のいう「品格ある国家」とは、従来、道義国家といわれてきたものに近い。道義国家とは、人類普遍的な道徳を理念とする国家を指します。 力や富の追求ではなく、精神的な価値の実現を目標とする国家です。 氏は、この道義にあたるものとして、武士道精神を提示しています。 かつて武士道精神は、日本人に品格を与えていました。日本人が精神的に向上することは、わが国に「国家の品格」を生み出し、「品格ある国家」は、周囲に道徳的な感化を与える。こうした発想は、武士道に融合した儒教が理想とした王道や徳治に通じるものです。 氏の主張を掘り下げるならば、東洋の政治思想や、それを最もよく体現したわが国の皇室の伝統に思いをいたすことになるだろう。武士道は、発生期から尊皇を本質的要素とし、またわが国の国柄は、皇室の存在を抜きにとらえることが出来ないことを指摘しておきたい。 「政治や経済をどう改革しようと、そしてそれが改善につながったとしてもたかだか生活が豊かになるくらいで、魂を失った日本の再生は不可能である。いまできることは、時間はかかるが立派な教育を子供たちにほどこし、立派な日本人をつくり、彼らに再生を託すことだけである。 教育とは、政治や経済の諸事情から超越すべきものである。人々がボロをまとい、ひもじい思いをしようと、子供たちだけには素晴らしい教育を与える、というのが誇り高い国家の覚悟と思う」と氏は述べています。 「武士道精神の継承に適切な家庭教育は欠かせない」とも、氏は書いています。氏自身が、父親から武士道精神を教え込まれたものでした。家庭における父から子へ、親から子へという武士道精神の継承があってこそ、学校教育、社会教育はその効果を発揮すると願ってやまないのです。
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剣道袴
剣道袴には、前に五本の襞(ひだ)があります。 剣道をされた方々はご存知だと思いますが、これは「五倫五常」の道を諭したものとされています。五倫五常の道とは、 五つの基本的な人間関係を規律する五つの徳目 君臣の義・・・君臣は 義 を重んじ 父子の親・・・父子は 親 しみ 夫婦の別・・・夫婦は 別(分け合い) 長幼の序・・・長幼は 序 を守り 朋友の信・・・朋友は 信 じあうこと 五常とは、人が常に守るべき五つの徳目 「仁」・・・仁義・真実・まこと・誠意 「義」・・・正しいすじみち・義理・すじ 「礼」・・・礼儀 「智」・・・知恵・知恵・認識 「信」・・・信義・誠・確信・信ずる また、後ろの一本の襞(ひだ)は男子として二心のない誠の道を示したものです。 五倫五常の教えを理解し、厳しい修行を重ね、自然に礼儀作法が身につけ、高い精神的境地にまで至ったのが「武士」であり、「武士道」です。 拙稿、武士道とは(上)でも述べましたが、武士道は、わが国固有の思想であり、日本人の精神的特徴がよく表れています。わが国は古来、敬神崇祖、忠孝一本のお国柄です。そこに形成されたのが、親子一体、夫婦一体、国家と国民が一体の日本の精神です。日本の精神の特徴は、武士道において、皇室への尊崇、主君への忠誠、親や先祖への孝養、家族や一族の団結などとして表れています。そして、勇気、仁愛、礼節、誠実、克己等の徳性は、武士という階級を通じて、見事に開花しました。 しかし、明治維新によって近代化が進められていくに従い身分としての武士の消滅とともに武士道が廃れ始めました。 その時代に、武士道について、書物をまとめ、世界に紹介した人物がいます。それが、五千円札の肖像ともなっている新渡戸稲造氏(にとべ・いなぞう)です。 新渡戸氏が著書『武士道』を書くきっかけとなったのは、ベルギーの学者に日本のことを質問されことに始まります。 「あなたがたの学校では宗教教育というものがないというのですか」。新渡戸氏は返答に困りました。 教授は驚いて聞きました。「宗教がないとは! いったいあなたがたは、どのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」。と・・ キリスト教が文明の基礎となっている欧州では、道徳は宗教を元にしたものであり、宗教なしに道徳教育など考えられないのです。しかし、日本にはそれに代わるものがある、それは武士道だと新渡戸氏は思い至りました。そして明治32年、英文で『武士道』を書きました。原題は、“Bushido, the Soul of Japan”、つまり『武士道――日本の魂』だと・・
新渡戸氏は、本書で武士道こそ日本人の道徳の基礎にあるものだということを、欧米人に知らしめたのです。
新渡戸氏は武士の子でした。幕末の文久2年盛岡藩士(現岩手県盛岡市の家に生まれ、武家の家庭教育を受け、海外に出て活躍した国際的日本人でした。
名著『武士道』で新渡戸氏は、武士道を詳細に綴っています。まず新渡戸氏は、「武士道は、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華である」と説き起こし、武士道の淵源・特質、民衆への感化を考察しています。武士道とは、いろいろな徳から成っています。
以下、各項目から、内容の一部を抜粋します。
武士道の渕源」から 「武士道は『論語読みの論語知らず』的種類の知識を軽んじ、知識それ自体を求むべきで無く叡知獲得の手段として求むべきとし実践窮行、知行合一を重視した」
※「義」から・・「義は武士の掟の中で最も厳格なる教訓である。武士にとりて卑劣なる行動、曲がりたる振舞程忌むべきものはない」
※「勇、敢爲堅忍の精神」から・・「勇気は義の為に行われるのでなければ、徳の中に数えられるに殆ど値しない。孔子曰く『義を見てなさざるは勇なきなり』と」
※「仁、即惻隠(そくいん)の心」から・・「弱者、劣者、敗者に対する仁は、特に武士に適しき徳として賞賛せられた」
※「礼」から・・「作法の慇懃鄭重(いんぎんていちょう)は、日本人の著しき特性にして、他人の感情に対する同情的思い遣(や)りの外に表れた者である。それは又、正当なる事物に対する正当なる尊敬を、従って、社会的地位に対する正当なる尊敬を意味する」
※「誠」から・・・「信実と誠実となくしては、礼儀は茶番であり芝居である。…『武士の一言』と言えば、その言の真実性に対する十分なる保障であった。『武士に二言はなし』二言、即ち二枚舌をば、死によって償いたる多くの物語が伝わっている」
※「名誉」から・・・「名誉の感覚は、人格の尊厳ならびに価値の明白なる自覚を含む。… 廉恥心は、少年の教育において、養成せられるべき最初の徳の一つであった。『笑われるぞ』『体面を汚すぞ』『恥づかしくないのか』等は非を犯せる少年に対して正しき行動を促す為の最後の訴えであった」
※「忠義」から・・・「シナでは、儒教が親に対する服従を以って、人間第一の義務となしたのに対し日本では、忠が第一に置かれた」
※「武士の教育及び訓練」から・・・「武士の教育に於いて守るべき第一の点は、品性を建つるにあり。思慮、知識、弁論等、知的才能は重んぜられなかった。武士道の骨組みを支えた鼎足は、知・仁・勇であると称せられた」
※「克己」から・・・「克己の理想とする処は、心を平らかならしむるにあり」
以上のように、武士道は多くの徳によって成り立っており、高い精神性をもつものだったことを、新渡戸氏は説いています。
そしてそれが武士だけでなく、日本人全体の道徳の基礎となっていることを新渡戸氏は述べています。 当時、日本は明治維新を成し遂げ、アジアで初めての近代国家として、国際社会で注目されていました。しかし、当時欧米では日本人の精神面・道徳性についてはほとんど知られていませんでした。そうした欧米の知識人に向けて、新渡戸氏は、武士道こそが「日本の活動精神、推進力」であり、「新しい日本を形成する力」であることを伝えようとしました。そして、次のように書いています。 「維新回天の嵐と渦の中で、日本という船の舵取りをした偉大な指導者たちは、武士道以外の道徳的教訓をまったく知ることのない人であった。近代日本を建設した人々の生い立ちをひもといてみるとよい。伊藤、大隅、板垣ら現存している人々の回想録はいうまでもなく、佐久間、西郷、大久保、木戸らが人となった跡をたどってみよ。彼が考え、築き上げてきたことは、一に武士道が原動力となっていることがわかるだろう」と。力説されています。 それと同時にこの明治維新によって、社会的な階級としての武士は消滅したことも記しています。西洋文明や科学技術の導入によって、日本は新しい国に大きく生まれ変わりつつありました。しかし、新渡戸氏は、武士道は不滅であり、必ずや新たな形で生き続けることを確信していました。 「武士道は一つの独立した道徳の掟としては消滅するかもしれない。しかしその力はこの地上から消え去ることはない。その武勇と文徳の教訓は解体されるかもしれない。しかしその光と栄誉はその廃虚を超えて蘇生するにちがいない。あの象徴たる桜の花のように、四方の風に吹かれたあと、人生を豊かにする芳香を運んで人間を祝福し続けるだろう。何世代か後に、武士道の習慣が葬り去られ、その名が忘れ去られるときが来るとしても、『路辺に立ちて眺めやれば』、その香りは遠く離れた、見えない丘から漂ってくることだろう」と新渡戸氏は書いています。 現代日本では、武士道に現れたような道徳心は廃り、日本人から香り高い精神性は、消えうせたかに思われます。 武士道は、「日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華」と新渡戸氏は述べ、説いています。
武士道の精神を忘れ去ってしまったならば、日本人は精神的に劣化していくばかりでしょう。
21世紀において、日本が大転換の時を迎えている今、現世の我々は、新渡戸氏の言葉に耳を傾け、武士道に現れた精神的伝統を取り戻すべき時に立っていると思います。
四民平等・廃藩置県等の政策が断行され、武士階級の消滅とともに、それまでの武士道そのものは担い手がなくなりました。しかし、近代国家建設を進める過程で、武士の道徳は全国民のものになり、国民皆兵によって、それまでは武士だけのものだった「武」の役割が、国民に広く共有されました。国を護る、主君を護るという意識が普及し、武士道が国民の道徳となりました。これらは教育勅語や軍人勅諭に顕著に表れています。 大東亜戦争後、日本は連合国によって軍事的に武装解除され、さらにGHQの占領政策によって、精神的にも武装解除がされました。 GHQは武士道に関する書籍や映画等を禁じ、西郷南洲翁に関する本すら出版できなかったのです。 占領にともない、国民には国防の義務がなくなり、国防の意識すら奪われました。私は、こうして占領期から本格的に武士道の精神が失われ出し、戦後の占領憲法と日教組教育の下で、ますます失われています。 日本や日本的なものを守るという意識そのものが低下し、日本人は、北方領土、竹島、尖閣等の領土を侵されても鈍感になり、自国の文化を奪われても抗議すらできないような、無抵抗・無気力の状態になり下がっていると思います。武士道を失った日本人は、アメリカ・中国・韓国等の圧力に対して、自己を保つことすらできないで、右往左往しています。こうした状態が続けば、日本は亡国に陥り、日本人は荒海を漂流するに至るでしょう。 武士道精神の復活を実現するには、「精神の形」だけでなく、「この国の形」を論じる必要があります。 投稿文字数に限りがありますので、次回続きを述べてみたいと思います。 続く・・・
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