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武士道とは(上)


拙稿、「日本人とは」でも述べていますが、武士は侍とも書きます。もののふともいいます。
またその語源は天孫降臨された皇祖ニニギノミコトより前に天孫降臨されたとされるニギハヤヒミコトを祖とし、大和朝廷では国の軍事氏族として活躍した、物部氏(もののべうじ)とされてます。
侍=その文字が示すとおり、もともと高貴な人に侍り、その身辺警護が仕事でした。役目柄、要人より華美な振る舞いは許されず、常に死を覚悟していなければなりませんでした。このことが質実剛健な精神構造を生み出し、支配階級となったあとも、「武士道」として武家社会の規範になっていきます。
武士という階級が為政者として台頭してきたのは、平安時代の後期、現在NHK大河ドラマの主人公「平清盛」が最初とされています。
12世紀末には、源頼朝が鎌倉に幕府を開きました。この時から約700年間、わが国では武士が政権を担う時代が続きました。戦士の階級が国を治めるという歴史は、シナや朝鮮には見られない、わが国独特のものです。それゆえに、この数世紀の間に武士が創りあげた生き方や価値観は、日本独自の思想といえます。それが、武士道です。
世界的にも類を見ない日本の武士の特徴を考えると、まず源氏が清和天皇を、平氏が桓武天皇を祖とするように、由緒ある武士は、皇室を祖先にもっています。皇室から分かれた貴族が、京の都を離れて地方の役職を任命され、そこで軍人として働くようになったのが、武士の由来です。それゆえ、源平の時代から徳川幕府最後の征夷大将軍徳川慶喜公まで、武士は天皇陛下に権威を感じ、それを侵すことなく、逆に自分の権力の拠り所として仰いできました。本来、皇室から分かれた貴族の出身であるところに、武士の第一の特徴があります。
武家政権の祖とされる、平氏・源氏の2つの氏族は、前にも述べていますが、どちらも天皇の後裔(こうえい)でした。だが、一度皇籍を離れ、臣下となった以上は、国全体の支配者にはなっても、天皇になることはできなかった。この原則は殆どの場合どの政権にも遵守されました。平清盛は平安末期の日本の権力者であり、白河天皇の落胤と目されていました。しかし、平氏の一員に迎えられて臣下となったため、不適格者となっており、あえて皇位を手に入れようとはしなかった。
戦国大名も、天皇の王朝に取って代わるなどという発想を度外視しただけでなく、天皇の王朝に皹を入れることも避けようとした。天皇のお墨付きを欲してやまない戦国大名は、誰もがそれぞれの天皇志望者を押し立てて皇統に亀裂を生じさせても全く不思議でなかったが、そのようなことはしなかった。朝廷の官位官職を手に入れようと、互いに張り合うようになった。修理大夫や衛門佐といった大いなる威厳を意味するこれらの官職は、天皇だけが授けうるものだったのです。
室町幕府の第3代将軍・足利義満は、天皇に取って代わって自分の王朝を開こうとした唯一の人物です。
強引な権力者となり、支配を国中に及ぼし、南北朝時代に幕を閉じた。将軍職を退いても太政大臣となり、国政を続、生母を亡くした後小松天皇の母代わりとして、皇族出身でない自分の妻の日野康子を「准母(じゅんぼ)」に指名したり、こうして、義満は天皇の継父に相当することとなり、死後「太上法皇(出家した太上天皇の尊称)」と呼ばれることができる資格を手に入れました。
応永8年、明国と国交を樹立し、明の皇帝から「日本国王」の称号を受領しましたた。これにより、征夷大将軍の地位にある人物が皇位に最も近づきました。しかし、応永15年の義満の死に、義満の野望は潰えました。後継者の誰一人として義満の野望を繰り返そうとはしませんでした。
義満の野望を妨げたのは、天皇でも征夷大将軍でもなく「ありえないことだ」という強力な暗黙の合意があったことです。
天皇は神々に位(神階)を、神社に格(社格)を付与し、高位の僧職者に位階と称号(僧位)を授与していた。将軍や国土にも、その健勝と繁栄を祈る存在であったのです。天皇は死者を神格化でき、また神格を取り消すことができる存在であったのです。
徳川家康は後水尾天皇に、豊臣秀吉が死後与えられていた神格を取り消すよう要望し、翌年、家康自身が死ぬと、天皇は彼の生前の要望を受け容れて、家康を神格化しました。家康が東照宮に、秀吉が豊国神社に祀られているのも、天皇陛下の存在なしにはありえないことなのです。
これらは王朝の簒奪を繰り返してきた世界各国のどこの国にもありえないことであり、
自分の権力・精神の拠り所として仰いできました。
昨今論じられている、皇統、女性宮家が臣下によって論じられることなどありえないことでした。

武士はまた、土地に密着した為政者であることです。平安時代後期、辺境の防衛に当たった武士たちは、年月を経るうちに、その土地に定着し、自ら土地を開墾して、私営の田畑を営むようになりました。こうして開墾領主となった武士は、「一所懸命」に領地を守り、広げ、受け継ぎ、競合しながら、巨大な集団へと成長していきました。やがて、武士は、土地と領民を所有する為政者となりました。そして、皇室の伝統と、儒教の政治道徳に学んで、領地・領国の経営に努めたのです。
 皇室から分かれた貴族の出身、戦闘のプロフェッショナル、土地に密着した為政者―――は、それぞれ尊皇・尚武・仁政という徳目に対応します。

こうした特徴と徳目をもつ武士たちは、平安後期から鎌倉・室町・戦国の時代を通じて、独自の倫理と美意識を生み出しました。江戸時代に入って、それが一層、自覚的に表現されることになりました。これが、今日いうところの武士道です。
わが国は江戸時代に、徳川家康が朱子学を幕府の教学としました。武士達は、外来の儒教を単に摂取するだけでなく、これを孔孟に戻って掘り下げて研究し、同時にこれに日本独自の解釈を加えました。武士道は、この日本化した儒教を中心に、理論化・体系化がなされ、江戸時代には幕藩体制の下、平和な秩序が確立され、戦闘者としての武士の役割は、無用のものとなりました。それゆえ、武士たちは、自己の存在意義を問い、武士のあるべき姿を強く意識するようになりました。武士道が思想として錬成されたのは、そうした背景があったからです。
 
冒頭に書いたように、武士道は、日本固有の思想であり、日本人の精神的特徴がよく表れています。わが国は古来、敬神崇祖、忠孝一本の国柄です。そこに形成されたのが、親子一体、夫婦一体、国家と国民が一体の日本精神です。日本精神の特徴は、武士道において、皇室への尊崇、主君への忠誠、親や先祖への孝養、家族的団結などとして表れています。そして、勇気、仁愛、礼節、誠実、克己等の徳性は、武士という階級を通じて、見事に開花し、向上しました。日本精神は、約700年の武士の時代に、武士道の発展を通じて、豊かに成長・成熟したのです。

明治維新は、武士道の発揮によって成し遂げられました。近代国家の建設の中で、身分としての武士は武士自らが幕を降ろしました。しかし、国民国家の形成を通じて、武士道は国民全体の道徳となりました。大東亜戦争後、武士道は、失われつつありますが、今なお日本精神の精華として、日本人の精神的指針たるべきものであり続け、今日も武士道の精神の復活が望まれているのです。

次回は武士道とは何かを考察してみたいと思います。

続く・・・

転載元転載元: 美しい国

日本が輝いていた訳

 
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                  日露戦争直前の『戯画 公園の各国児童』
(解説文)
朝日太郎(日本のこと) 「おい露助、清吉の油断に付込んで饅頭(満州のこと)を盗もうとは何事だ、さあ早く返してしまえ!」
露助 「つべこべ言うな、生意気な野郎だ。俺の身体の大きいのが見えんか」
仏次 「露助君、そっと僕にも分けてくれたまへ」
独一 「仏次君、君が貰ったら僕にも分けるんだよ」
米蔵 「これは面白い。露助のやつ強そうなことを言っているが、朝日にヤラレルんじゃないかな」
英子 「露助の顔の憎らしいこと、有夫サン、その艦を太郎さんに上げなさいよ」
有夫 「そうだ、早くやろう」(アルゼンチンより巡洋艦日進、春日を購入)
韓坊 「太郎兄ちゃん恐いよ」
清吉 「グウ・・」
・・・・・・・・・  
  
日本人がいちばん輝いていたのはいつごろであっただろうか。
高度成長期か、否。 それとも大東亜戦争を戦った時か、否。
それは日露戦争がはじまる前から終わる頃までだと思うのです。
日露戦争後は日本人にゆるみが感じられますが、その前までは全く違いました。
 
この日露戦争はロシアはもちろんチャイナも学校で教えない、というよりも歴史に“ない”のです。
そして肝心の日本でも大事な部分をほとんど教えていません。
先達が祖国の危機に瀕して勝つ望みの薄い戦にひとつになり勝ち抜いた栄光に満ちた時代を知ることなしに、どうして日本人として生きてゆく喜びを味わえるのだろうか。・・
 
東ヨーロッパのことわざにこういう言葉があります。
「ロシアの隣国になるほど不運なことはない」。
現在の日本に当てはめればロシアの他にチャイナ、韓国、北朝鮮というところでありましょう。
日本はいい国だが近隣国に恵まれない、まこと不運であります。・・
 
明治33年、ロシアの大軍が満州支配を目指して黒竜江を超えて南下します。
その時、ロシアは黒竜江の東岸であるブラゴウェシチェンスクにおいて、三千人の支那人を一人残らず駆り立てて、全員を黒竜江に突き落とすという大虐殺を行ったのです。
この時、ブラゴウェシチェンスクにいた帝国陸軍の石光真清の日記にはその状況がよく書かれています。
これを知った日本人は怒り、同じ東洋の民族がこんなにむごたらしく扱われている、それを黙って見ていられようかと国民感情は沸騰し、我が国危うしとして正義の戦としてロシアとの戦いを決意していくのです。
同じように現在までに、チャイナが内モンゴル、チベット、ウィグルにおいて大虐殺しておりますが、これを知った日本人は所詮他国の事よと国民感情は冷めており、それがやがて我が国に対して降りかかってくる危機感だとは全く感じていないのです。
 
当時、明治大帝ご自身による陸軍大演習の御統監、昭憲皇太后までもが軍艦に乗り込まれて海軍将兵の士気を鼓舞されたことをみても、日本の軍隊の強さが皇室のお心遣いの賜物であるといえます。
現在の日本では天皇陛下が自衛隊を直接鼓舞することは一切ありませんが、一旦緩急あれば命を惜しむことない自衛官にとってこのことがどれほど励みになるか、目に浮かぶほどであります。
 
明治天皇は戦争だけはお避けになりたかったのですが、
あえて決断を下さねばならなかった明治大帝の御気持ちが偲ばれるお言葉があります。
 
事乃一蹉跌を生ぜば 朕何を以てか祖宗に謝し、臣民に対するを得んと、すなわち涙さんさんとして下る
失敗することがあれば、我が高祖皇宗(御始祖と歴代天皇)の神霊に何とお詫びを申し上げ、我が子のごとく慈しむ国民に対してどうして顔向けが出来ようかと苦しみ、涙が流れるばかりである。
 
この戦より御食事がおすすみにならず、八年後に明治大帝は御隠れなるのですが、
明治大帝の御心労のほどが如何ばかりだったかが偲ばれます。
 
・・・・・・ 
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

国際派日本人養成講座からの転載です。

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■1.「私は必ず法戦には勝ってみせる。判決は御勝手にだ」■


戦争末期に米軍はB29によって本土爆撃した。その中には日本軍に撃墜され、パラシュート降下した搭乗員が少なからずいた。岡田資(たすく)元陸軍中将は、
東海軍管区司令官として降下搭乗員38名を「無差別爆撃を行った戦争犯罪人」として処刑した。

連合軍側はこれを「捕虜の不法処刑」とし、昭和23年1月、岡田中将以下の責任を問う裁判が、横浜の連合軍軍事裁判所において始まった。


岡田中将は、「米軍の不法を研究するに従い、之は積極的に雌雄を決すべき問題であり、わが覚悟において強烈ならば、勝ち抜き得るものである」としてこの裁判を「法戦」と称した。武力では負けても、正義を賭けた法の上での戦いを続ける、という覚悟である。


「法戦は身の防衛に非ず、部下の為也、軍の最後を飾らんことを」。岡田中将は処刑の判断責任はすべて自分にあるとして、一緒に起訴された19名の部下たちを救おうとした。さらに、搭乗員の処刑は「無差別爆撃を行った戦争犯罪人」への処置として正当であったことを立証して「軍の最後を飾らん」ことを願った。岡田中将は、
次のように家族への手紙に認めている。

私は必ず法戦には勝ってみせる。判決は御勝手にだ、之は米軍にても都合のある事ゆゑ。


■2.フェザーストン博士■


法戦に立ち向かう岡田中将に、力強い味方が現れた。主任弁護人を務めるフェザーストン法学博士であった。博士は50歳近い、恰幅の良い、
巨躯をダブルの背広に包み、穏やかな笑顔で話す紳士だった。博士は弁護人として、被告を弁護することに全力を傾けた。その公正な姿勢は日本人に深い感銘を与えた。

博士は、まず米軍の爆撃が民間人に対する無差別攻撃として戦争犯罪にあたることを立証しようとした。


検察側は、名古屋の軍需産業の70パーセントは市内に散在する下請け工場であり、民間人への無差別攻撃には当たらない、と主張した。


博士は「証拠無しにものを言うのはやめて貰いたい」として、当時の軍需管理局の管理者二人を呼んで、証言をさせた。二人は、下請け工場は住宅地区とは別の工場地帯にあったこと、市内の家内工業では軍需生産は一切行われていなかったことを明らかにした。


■3.逃げまどう女子どもたちを狙った米機■


次いで博士は、空襲の被害者を何人も法廷に呼んで、無差別攻撃だった事を明らかにした。そのうちの一人に神戸市で孤児院の院長をしていたの水谷愛子さんがいた。昭和20年3月17日夜の神戸空襲の模様を次のように語った。


夜11時頃に警戒警報が鳴り、照明弾が落ちて、あたりは真昼のように明るくなった。他の機が焼夷弾を落とし、孤児院の建物にも火がついた。子どもたちを連れて、水谷さんは近くの親和女学院に避難した。


しかし山から降りて来た人が、「ここ、危ないで」と言います。そこで子どもたちを下の宇治川の宇治橋に連れて行きました。みなを橋の下に入れましたが、人で一杯です。・・・焼夷弾がまたあたりに落ち始め、火を消すのに大わらわでした。幾組かの母子が焼死しました。


照明弾で真昼のように明るくなれば、逃げまどう子どもたちの姿もはっきり見えたはずである。米機が女子どもと知りつつ、焼夷弾を落としたのは明らかだった。


日本人弁護人の記録によれば、この時、法廷は「しーん」と静まりかえったらしい。


■4.大量殺戮を狙う爆撃の残虐性■


フェザーストン博士は、無差別爆撃について、岡田中将の意見を聞いた。中将は、軍人らしく爆撃の具体的な方法を詳しく論じた。


まず爆撃予定地を包囲的に爆撃して炎上させ、それからさらに幾つかの爆撃地区に分割し、住民がそこの地区から逃げ出さないように、焼夷弾、小型爆弾、機銃掃射をまぜて全員殺戮の方法をとった。その残虐性を、岡田中将は指摘した。


この方法は、昭和20年3月10日、東京の江東地区で行われ、一晩で10万人近い死者を出した。名古屋市でも同じ方法がとられ、5月14日の最大規模の爆撃では、市の北部80パーセントが焼失し、死傷者948名、全焼2万3千余軒、罹災者は6万5千人近くに及んでいる。


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映画「明日への遺言」で岡田中将を演じる藤田まことさん


フェザーストン博士は、岡田中将への尋問で、こう聞いた。


問: すると搭乗員は戦犯容疑者になりますが、無差別爆撃の違法性について、どうお考えですか。


答: 彼等がどんな命令を受けていたか、私にわかるわけがありません。しかし彼等は事実上無差別爆撃を行ったのであるから、その行為において、非合法である。


問: 彼等を戦犯容疑者として扱ったことについて、何か言うことはありませんか。


答: 降下搭乗員を捕虜として扱わず、戦犯容疑者として扱うのは、上司の示達です。そして私自身爆撃の実情を見て、正しいと信じました。


■5.脅迫の宣伝ビラ■


岡田中将は、米空軍がその非人道性を自覚しながら爆撃を行っていた証拠として、米軍が投下した宣伝ビラを挙げた。検事との間で次のような尋問が展開された。


問: 証人(岡田中将)は・・・航空機がばらまいた宣伝ビラのことを言った。これは日本国民を脅かすためだと言うが、これから始まる爆撃のきびしさの警告ではないのか。


答: ・・・ビラのあるものには、焔を吹く家や、子供が右往左往して親を捜し求める絵がかいてあった。「こわければ戦争をやめろ」と文句がついていた。ほかのものには、もっと口汚い諷刺が書いてあった。これは避難警告ではなく脅迫である。


問: このビラを運んだ搭乗員が事実上、戦争犯罪を犯したと言ったが、戦意喪失をくわだてたのが戦争犯罪か。


答: そうではない。このビラを運んだ搭乗員、もしくはサイパンの基地で、それを読んだ者も、当時の日本への爆撃方法が、非人道的であることを自覚していただろう、という意味だ。


問: 搭乗員はアメリカ空軍の命令によって、それを日本で撒いたとは思わないか。搭乗員が自分でビラを作って撒いたとでも思ったのか。


■6.「人道に反するのを自覚していたかどうか」■


検事は、爆撃が非人道・非合法であった事については、もはや争うことを諦めてしまったようだ。しかし、その責任は無差別爆撃を命令したアメリカ空軍にあり、実行した搭乗員にはない、その搭乗員を戦争犯罪者として処刑したのは不法であるとする論法をとった。この論法を岡田中将は、次のように一蹴した。


答: ビラ撒きは、最初のB29爆撃と同時にはじまっていた。誰がビラを刷ったか、問題ではない。その絵に描かれていることが、人道に反するのを自覚していたかどうかということである。そして事実、その行為を犯した。問題は爆撃を実行したということだ。


搭乗員も無差別爆撃の残虐性、非人道性を自覚しながら、実行したのなら、「単に命令に従っただけだから無罪」とは言えなくなる。


無差別爆撃が戦争犯罪であると追求する岡田中将と、命令を実行しただけの搭乗員は無罪だと弁護する検事の論戦は、あたかも原告と被告の立場が逆転したような趣となった。


こうした尋問を通じて、米空軍が無差別爆撃という戦争犯罪を犯したのだ、という事実は法廷の前で明らかにされていった。 岡田中将の法戦は勝ちつつあった。


■7.すべての責任をとる■


岡田中将の法戦には、もう一つの目的があった。部下たちを救うことである。処刑の命令を誰が出したか、が問題になった時、フェザーストン博士は岡田中将にこう尋問した。


問: 6月28日頃、11人の搭乗員が略式手続きで処刑された時、あなたが命令を出した憶えがありますか。


答: 覚えています。


フェザーストン博士は「命令書か、口頭か」と問い、中将が「口頭です」と答えると、さらに「その時、使った言葉を覚えていますか」と聞いた。ここではっきり「処刑を命じた」と答えられては、中将の責任は逃れられなくなる。弁護人としては、曖昧な答えを期待していた。ところが、岡田中将はこう断言した。


私は大西(大佐)に言った。(略式手続きを取るという 大西大佐の)説明はよくわかった。処刑するよりしようがないようだ。処刑しろ。いま思い出しました。「なるべく早く」という言葉を使った、と思う。


また処刑は、軍刀による斬首で行われた。それを立案した伊藤少佐と、その実行を命じた米丸副官を救うべく、岡田中将はこう弁護した。


私は職務上、結論だけを命ずる。実行の具体的手段は、部下が考案する慣習です。従って、伊藤ケースにおける軍刀使用も伊藤法務少佐が立案し、米丸副官が命じ、ということになる。・・・従って、軍刀使用の命令が米丸から出たにしても、その実質において司令官が言いつけたのと同じである。


こうした態度から、岡田中将がすべての責任を取ろうとしていることが、誰の目にも明らかになってきた。


■8.法廷への感謝■


部下をかばうために、すべての責任を負ってしまう岡田中将の態度は、検察側の心も動かしていた。中将の尋問の終わりに、次のような質問をして、刑を軽減する最後のチャンスを与えた。


問: さて6月26日に伊藤少佐が(調書を持って)あなたの部屋に来たときに、搭乗員が有罪で、死刑に処すべきだ、とのヒントを出したのはどっちですか。伊藤があなたからヒントを得たか、あなたが伊藤からヒントを得たか。


答: ヒントは誰から与えられたものではない。私が自分で考えて、自分にヒントを与えたのです。


岡田中将は検察から与えられたチャンスも返上した。そして最後に自ら発言の許可を求めた。


市ヶ谷のA級戦犯法廷においても、当横浜法廷における他のB・C級ケースにおいても、われわれはこれほど自分の感情を述べる機会を与えられなかった。米空軍の内地爆撃問題に就いては、被告から十分に言う機会が与えられなかった。この点において極めて寛大な処置を執ってくれたのは、此の法廷が初めてであると思う。・・・


日本人同胞も此の寛大なる法廷の状況を、間もなく聞くでしょう。そして感謝の気持ちを持つであろう。その感謝の気持ちは、両民族、米国を兄とし日本を弟としての心からの結合に非常なる役割をするものであると思う。



■9.静かな微笑■


昭和23年5月19日、判決が下された。岡田中将は死刑の判決を、頷きながら聞いた。「判決は御勝手にだ、之は米軍にても都合のある事ゆゑ」と言ったように、本国の手前、有罪判決を行い、後はケース毎に減刑処置を行う、というのが、「米軍の都合」だった。


果たして岡田中将の助命嘆願が殺到した。かつて宮付武官として仕えた秩父宮や、その他の身内や関係者ばかりでなく、フェザーストン博士や、検事、そして判決を下した5人の裁判委員のうちの2人までから嘆願書が寄せられた。岡田中将は、人々の厚意に感謝しつつも、「日本軍人らしく日本軍隊らしく終始せる」事を祈っており、情けをかけられる事を好まなかった。


一方、部下たち19名は大西大佐の終身刑から、最も軽い者でも10年の刑が宣告された。岡田中将はスガモ・プリズンで処刑を待つ間にも、「部下には罪はない、刑を軽減してほしい」との請願を続けた。結局、10年の刑を受けた13名は、翌年3月に釈放され、他の人々も大西大佐の昭和33年釈放を最後に、すべて社会復帰が許された。「部下を救う」という岡田中将の第2の目的も果たされたのである。


スガモ・プリズンでは、岡田中将は30人ほどの青年死刑囚を相手に「必ず減刑になるから」と励まし、将来の日本を背負って立つよう、自らの信仰する日蓮宗をもって教育した。


昭和24年9月15日夜10時、死刑執行のための呼び出し人が岡田中将の独房にやってきた。すべてを自分の責任と証言した中将には、減刑の余地がなかったようだ


青年死刑囚たちは連れ出される岡田中将の姿を見て、「アッ」と声をあげた。中将は一言「君達は来なさんなよ」と言った。「閣下、後は御心配なく」の声に「うむ」。中将の静かな微笑に無限の慈悲を感じたという。








日本人が知るべき事実

 
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                      (「戦後引き揚げ者の記録」より)
 
 
戦後60有余年、今も日本に対して、「日本兵は侵略戦争をして、略奪、強姦、虐殺で多くのアジアの人たちを苦しめた」と言われています。
しかし、かつて植民地で多くの奴隷を持ち、その民族を愚民化し、掠奪と強姦を喜びとしてきたのは、今、日本を悪く言っている国々であります。
また、チャイナのように所謂「南京大虐殺」というでっち上げを声高に叫んで、当時、支那にいた多くの日本人女性が強姦、虐殺された済南事件や通州事件などは隠し、さらにはロシアの日本人女性400名余りが自決するに追いやった極めて悲惨な麻山事件も日本人には知られていません。
この「日本は侵略国家」というまやかしの言葉こそ、日本の被害を覆い隠す役割を果たしているのです。
 
第二次世界大戦でソ連軍はドイツ領に入ると率先して強姦を兵士にやらせました。
ドイツ全土で約200万人の女性がソ連軍に強姦されました。産院を兼ねた修道院ダーレムハウスでは修道女、妊婦、その付き添いの女性まですべてが犯されました。統計のあるベルリンでは13万人が犯され、92000人が市内の二つの病院で手当てを受けました。そのうち2万人が不法妊娠して中絶手術をしたが2000人が出産したとあります。
このソ連は、終戦間際から日本女性に対しても多くの強姦、虐殺をしてきました。(その一例が上の画像)
 
戦後、日本に進駐した米軍が最初に要求したのが女でした。
性の要求に対して花街などの女性が身を挺身して米国兵の相手をしていましたが、米兵は日本政府の用意した慰安所だけでは足りず、一般の民家に押し入って“女”を漁っていたのでした。
押し入った米兵は民家の家人をも暴行し、殺したケースもあり、米軍の占領期間に殺された日本人は2536人に上り、その中には強姦に絡むものが多かったといいます。
 
そして今、韓国では日本兵による性の奴隷として従軍慰安婦なる作り話が騒がれています。
しかし、韓国がベトナムに派兵した1965年〜1973年の間、韓国軍は残忍なやり方で女性をレイプしてから殺し、またライタイハン(ベトナムでの韓国兵によるレイプで出来た混血に対し「敵国の子」として迫害されてきた)という問題も起こし、ベトナムでは「韓国兵に会ったら死に出会ったも同然だ」という証言もあるのです。
アメリカに住んでいるヨーコ・カワシマ・ワトキンスさんが書いた「ヨーコ物語」という著書があります。ヨーコ・カワシマ・ワトキンスさんは11歳だった時、朝鮮半島で終戦を迎え、家族とともに日本へ引揚げる際に、多くの同胞が朝鮮人に襲われ、強姦され、虐殺される場面に行き合わせ、その事実を書いた本です。この本はアメリカほぼ全州の中学校で副読本として採用されていましたが、2006年に在米韓国人が「歴史の歪曲」「朝鮮人を残忍な民族のように偽って描いた」と騒ぎだし、その騒ぎはアメリカ全土に広がり、当時73歳だった彼女が記者会見に引きずり出され、怒号の中でつるしあげられ、謝罪を求められたのです。その後、この本は副読本から外されてしまいました。
現在、日本では敗戦直後の日本人避難民の対しての暴漢の多さはソ連人だと思い込んでいますが、実際は半分以上が朝鮮人であり、日本人に対してソ連軍よりひどいことをしてきたのは朝鮮人であり、その残忍さはこの本を読むとよくわかるといわれています。
しかし、この本は日本では出版されていません。韓国では売られていましたが都合の悪い部分は削られていました。
現在の日本のテレビ局の極端な韓国寄り、つくられた韓流、韓国人の強姦の多さ(通名で隠されている)、日本政府の韓国贔屓など、間違った韓国人への認識へのくさびとして、今の日本にこそ、過去の事実に学ぶべく、このような本を日本語に訳し、広く日本人に広めるべきであります。
 
 
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                  (日本の学校で副読本にすべき「ヨーコ物語」)
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

昭和天皇陛下 御尊影
 
 
 
わが庭の そぞろありきも 楽しからず 
 
         わざはひ多き 今の世を思へば
 
 
※昭和五十八年年頭の御製です。
総ての臣民に対し、御慈しみの心をもって接せられ、私心(わたくしごころ)を一切現わされるこ との無い 畏くも昭和天皇陛下が「わざはひ多き世」と御詠みあそばされました。
俗に言う「災い」としては、「戦争」「天変地異」「不景気」などが挙げられますが、この御製を詠まれた当時、戦後四十年近くも 平和が続き、
今年3月に東日本を襲った東日本大震災ほどの大きな災害もなく、景気も好況を呈していました。
陛下にこのような御歌を御詠みいただく程の事件は、何も考えられません。
 それにも拘らず「わざはひ」とお詠みになられたのは、天変地異や不景気などとは比較にならない 大きな「災い」である「精神の荒廃」について深く 大御心を痛められたが故と推察致します。
この荒廃の根本原因はマッカーサーが命じて作らせた占領基本法である現行憲法(と称するもの) です。
憲法は国の魂です。近年目を覆いたくなるような、政治の迷走、拝金主義に走った犯罪、尊属殺人など枚挙すればきりがありません。
すべて、個の尊重への偏重による占領憲法を原因としております。
 

 
清水澄(しみず・とおる)博士肖像、自決ノ辞
 
 
昭和22年9月25日、最後の枢密院議長となった清水博士は、熱海錦ヶ浦の断崖から身を投じられた。享年80歳でした。
大日本帝国憲法下の天皇陛下の忠臣として、自らの生涯を全うする決意であられた博士は、占領憲法発布の同年5月3日屈辱の日に意を決せられ、密かに上掲画像の「自決ノ辞」に認められ、自室の机の引き出しに隠されたのです。
 
発見された博士の亡骸は、モーニング姿の正装、左手に数珠を巻き、口を真一文字に結び、両手の拳はしっかりと腰に当てられ、まさに古武士の大往生の風貌であったと言われています。
 
占領軍は武力を背景とし、国際法の精神を無視し、占領者の都合のいい植民地憲法を速成させ、新憲法として押し付ける暴挙のでたのです。
昭和22年5月3日は、日本人による、日本人の為の「大日本帝国憲法」が、日本人の総意に基づくことなく廃止せられた屈辱、国辱の日であることを、やまと民族たる日本人は決して忘れてはならないでしょう。
 
終戦を境に、占領軍に媚びを売り、戦争には反対だった、我國の政治に疑問を感じていた、戦争に負けていい國になったなどと、臆面もなく宗旨替えする破廉恥な日本人、敗戦利得希望者が各界に声を挙げた。
敗戦利得者の多くは他界しているが、その後継者、追従者が今尚、生き続け一昨年政権を搾取しました。
戦後手中にした、敗戦利得を保持するため、今も政界、マスコミ界、学会、において活動し、国民を騙し、国益を損じているのです。
 
東宮御用掛、宮内省御用掛として、先帝陛下にお仕えされた清水博士には、占領憲法は耐え難いものであったことでしょう。
博士が予測されたとおり、かってのお国柄とは似ても似つかぬ国に変わり果ててしまった今日の日本。
本ブログの拙稿、「誇り高き日本一の町、岡山県奈義町」の中で、昭和44年「大日本帝国憲法復原決議を紹介しましたが、まだこの頃は戦前世代の方々が国を憂い、行く末を修正しようとされていました。
 
冒頭の先帝陛下の御製を賜った昭和58年には、世代変わりが進み、この異常な植民地、占領憲法を異常とさえ思わぬようになっていたのです。
 
 
わが庭の そぞろありきも 楽しからず 
 
         わざはひ多き 今の世を思へば
 
 
先帝陛下は、変わってしまったお国柄、民族の精神の荒廃を「わざはひ」と詠まれたものと推察することは容易です。
 
我々こころある臣民は、博士の遺志を継ぎ「大日本帝国憲法」を復原し、占領憲法の呪縛を解かねばなりません。
そして、敗戦利得者の後継、追従者を駆逐せねばなりません。
 
 
 
 
清水澄博士の墓(青山霊園)
 
 
 
最後に博士の大往生の折り、ポケットに入っていた遺書、辞世ともいえる
 
 
 
 
「われ楚の名臣屈原にならって自決し幽界より國體を護らん」
 
 
尊い御心を胸に刻みたい。
 

転載元転載元: 美しい国


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