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歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。・・・
 
連合国厳命の「虚偽の歴史観と国家体制」を打破しよう
 
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高知大学名誉教授 福地惇
 
シナ共産党の対日戦略の展開は彼らの建国以降脈々と継続したから、60有余年の努力だ。
日本は「敗戦ボケ」で世界戦略も国家戦略も曖昧なまま過ごしてきたから60有余年の空白だ。
そして、経済大国になったと慢心していた時が日中共同宣言だった。それ以降およそ四半世紀で、歴代政権と国会は歴史の教訓を真剣に学ぼうとせず、国際社会の風評に押されて、シナ共産党や韓国政府の威圧に恐れて、「日本戦争犯罪国家観」を「政府見解」として公然化してしまった。
また、シナ共産党の対日戦略の推進に関与した日本人も想像以上に多かったと推測される。
従って、日本民族衰亡への頸木(くびき)は、容易には打破し難い形で国際社会のルールの中で公然化・固定化されてしまった。米国の世界制覇戦略の枠組みの中に日中摩擦の増大は配置されていると私は見るのであるが、どうであろうか。
思想的外交的敗北の蓄積を打破することは並大抵の努力ではとても出来まい。
いずれにせよ、独立主権国家を本質的には否定した占領憲法体制の清算を目指さねばならない。その前提にあの戦争の本質を自分たちの目で見直して、日本人による日本人のための国家観・歴史観を再構築しない限り、真の独立主権回復は、永久に夢幻の事案に属することになるであろう。 最後に、説明は省くが、現今の重大課題のTPP問題も実は独立主権の回復か、それともその望みを完全放棄するかの選択問題なのだということを付言しておく。
(日本戦略研究フォーラム季報掲載より)
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白人がやってきた残忍極まる植民地支配と略奪、強姦、虐殺、また支那がやってきた略奪、強姦、虐殺の歴史。 アメリカは湾岸戦争でも「赤ん坊を銃剣で」話を目撃した少女が米議会公聴会で証言し、イラク軍は獣であると言いました。しかし戦後これは作り話であると判明します。
これは、かつて第一次欧州戦争の時も「赤ん坊を云々」でドイツ軍がブリュッセルの産院を襲って妊婦を強姦し乳児室の赤ん坊を銃剣で刺したと言われ米国参戦の口実となりましたが、ドイツ敗戦後、これも作り話であると判明しました。
しかし、彼らは自分たち嘘や残虐性のことは触れずに日本には「日本軍は残虐な行為をした」とニューヨーク・タイムズが言い続け、支那も韓国も言い続けて、日本軍の悪口ならどんな嘘でも歓迎する朝日新聞が書き立てる、ついには日本の政治家もそれを認めてしまったのです。
白人、支那人は嘘を言い立てて自分たちの優位にことを運ぶことに長けております。韓国もそれを見習い日本に嘘を言い続けているのです。
そして、一番ダメなのは真実を知らずに嘘も見抜けずそれを受け入れる日本の政治家たちであり日本人自身なのです。福地先生のおっしゃる通り、「あの戦争の本質を自分たちの目で見直して、日本人による日本人のための国家観・歴史観を再構築」こそ急務であります。
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

サイタニのブログからの転載です。

この方たちが、皇族ならではの任務を命がけで行われたことは、この一連の記事で初めて知りました。国を護るために命がけの戦いをする兵士に停戦命令を伝えることは、また同じように命がけの伝達であり、天皇の真実の命令であることの証明ができなくては、兵士たちは受け入れがたかったでしょう。その為には皇族の身分が必要であり、それによって、兵士たちは停戦を納得して受け入れたのです。

竹田 恒泰著  「皇族たちの真実」より

三皇族、南方戦線に陛下の心を伝える為飛立つ

命拾いした竹田宮
 
 
閑院宮を乗せた陸軍爆撃機は福岡に一旦着陸した後に上海に向かい一泊。
翌日広東経由で仏印南部のツーランに着陸してもう一泊し、19日の午前10時
半にサイゴンに到着した。
 
宮が南方軍総司令官寺内寿一元帥に聖旨を伝達すると、寺内元帥は涙を溢れさせ、部下に体を支えられてかろうじて起立を維持している有様であつたという。このとき閑院宮も一緒に泣いたそして翌20日には昭南(しゅうなん)(日本占領時のシンガポールの呼称)に行き、海軍司令部において第十方面艦隊司令長官福留繁(ふくとめしげる)中将に同様に聖旨を伝え、サイゴン、南京、富山を経由して24日、東京に戻った。
 
一方、竹田宮は東京・立川から専用機で飛び立ち、新京へ向かい、関東軍司令部二階の広い総司令官室を埋め尽くすほどに集まった関東軍総司令官山田乙三(やまだおとぞう大将以下幕僚等に対して・昭和天皇の御決意と、そして仰せられたことをできるだけ詳しく謹んで伝達した。
 
そこには竹田宮の幼年学校の二級下の後輩で、宮の後任として新京に着任したばかりの瀬島龍三参謀の姿もあった。宮は「どんな返答が戻ってくるか、この時ほど心配したことはなかった」と後に書き残している。しかし、厳粛な空気の中、山田大将から「謹んで聖旨に沿い奉ります」との奉答を受けた。誰もが目頭に熱いものを浮かべていたという。

その晩竹田宮は山田大将の官邸に宿泊し、翌18日の朝、奉天(現在の瀋陽)に向かった。だが、新京を離陸した飛行機は間もなく故障を生じ、再度新京へ戻ることになる。幸い故障は一時間ほどで修理され、奉天に向かった。19日には新京にソ連軍が進駐することになるため、このとき速やかに修理できず、宮が新京にもう一泊することになっていたら、シベリアに抑留されていただろう。運命の分かれ道である。

奉天に着いた竹田宮は第三方面軍司令部で、昨日と同様に聖旨を伝達し、その日のうちに京城(けいじょう)(日本統治時代のソウルの呼称)に行き、朝鮮軍司令部にも同じく聖旨を伝達した。これで天皇の特使としての任務は全て終了した。

前述のように、竹田宮には東久邇宮首相からの密命があった。宮は満州国皇帝愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が通化(つうか)の山中にいることを知っていた。17日に当時不通だった電話が幸いにも通じ、翌18日午後に京城で皇帝と会う約束をしていたのだ。

ところが、京城の朝鮮軍令部で聖旨伝達が終わり、竹田宮が朝鮮総督阿部信行(あべのぶゆき)大将〔元首相〕と朝鮮軍司令官上月良夫(こうづきよしお)中将に招かれて会食をしているところへ、通化にいる皇帝から「小さな飛行機しかないので長白山脈が越えられないから、明日(19旦午後奉天に出る」との電報が来た。

このことが溥儀皇帝の運命を決することになる。これこそ「運命の悪戯」としか表現のしようがないが、もしこの日溥儀皇帝が無事に京城に到着していれば、皇帝はその日のうちに日本への亡命を果たしていたに違いない。そうなれば、極東国際軍事裁判(東京裁判)における日本の評価もまた違ったものになったと思われる。

竹田宮は新京に赴任中、溥儀皇帝とは特に親しくしていた。食事をともにすることも多く、宮が第一総軍に転任で新京を去るときには、皇帝はお忍びで宮の官舎に見送りにきたほど二人は親密だった。竹田宮はなんとか溥儀皇帝を日本にお連れしたいと強く思っていたに違いない。

竹田宮は翌日再び奉天に戻って溥儀皇帝との再会を果たそうとする。だが阿部朝鮮総督と上月朝鮮軍司令官が口を揃えて「あなたの主任務聖旨伝達の結果を一刻も早く帰って陛下に復命し、御安心を頂かれるべきではありませんか」と注意した。その言葉に竹田宮はハッと目を覚まし、直ちに東京に帰ることを決した。そしてこの一言が竹田宮に命拾いをさせることになる。

ソ連軍が満州帝国に侵攻している状況において、奉天が間もなくソ連軍に占拠されることは明白であり、奉天は京城より格段に危険な状況にあった。宮が奉天での任務を終了させて一旦京城に至っておきながら、再び奉天に戻るということは、いくら首相の密命があったとはいえ、極めて危険な行為であった。

パイロツトの壮絶な死
 
19日、やはり奉天はソ連軍に占拠され、通化から出てきた溥儀皇帝は奉天飛行場でソ連軍に身柄を拘束され、そのままシベリアに送られてしまう。竹田宮が皇帝に会うべく奉天に戻っていたら、同様の運命を辿っていたことであろう。

シベリアに抑留された溥儀皇帝は、その後昭和21年(1946)に東京裁判に証人として出廷、1950年に身柄を中国に引き渡される。1959年に特赦で出所が認められて35年ぶりに北京に戻り、北京植物園に勤務し、1967年に61歳で波乱の生涯を閉じることになる。

竹田宮が関東軍へ聖旨を伝達するに当たり、宮が中国大陸の上空に差しかかってから朝鮮半島に帰るまでの間、四機の戦闘機「隼」が編隊を組んで宮の搭乗機を終始護衛していた。その搭乗員はいずれも若く優秀なパイロットであった。
 
 
竹田宮が本国に戻るに当たって、宮は厚く礼を述べ、その一人一人と堅い握手を交わし「今後、いろいろの情勢になろうが、くれぐれも自重して、日本の再興に尽してくれ」と言って別れた。しかし、彼らは間もなく壮絶な最期を遂げることになる。四人のパイロットは奉天飛行場で翼を休めるソ連機を目撃し、奉天が既にソ連軍に占拠されていることを悟った。奉天飛行場で帰りを待っていた羽(はね)飛行団長の島田安也中佐は、そのときの様子を次のように話している。

「四機は超低空で入って来て転回し、もう一度それを繰り返してから、三度目に飛行場のど真ん中で急上昇に移った。ほぼ垂直に上りつめた四機は、なんと編隊を組んだまま、真っ逆さまに空港中央に突っ込んで自爆した」
(竹田恒徳『雲の上、下思い出話』に所収)

四人のリーダーである鎌田正邦(かまたまさくに)大尉が20歳、他の三人は21歳前後という若さだった。その壮絶な自爆を間近に見たソ連軍の指揮官は、目を丸くして驚き、側にいた日本の将校が「日本武士道には、戦いに敗れた際腹を切る習わしがある。これこそパイロットの切腹ですと答えたと伝えられている

8月20日、竹田宮は無事に帰国し復命することができた。そして南方軍に
出かけた閑院宮春仁王と、支那派遣軍に出かけた朝香宮鳩彦王も任務を終えて無事に帰還する。この事実は、8月23日付の新聞で報じられた。

「三殿下、現地へ特派聖旨、停戦の大命御伝達大本営発表〈中略〉陸軍少将春仁王を南方に、陸軍中佐孚彦王を支那に、陸軍中佐恒徳王を満州に特派、各陸海軍最高指揮官に対し夫々聖旨及停戦に関する大命を伝達せしめられたり」(『朝日新聞』昭和20年8月23日付、1面トップ)
〔「陸軍中佐孚彦王」は「陸軍大将鳩彦王」の誤り〕
 
注:4人のパイロットの御冥福を祈ります。

竹田宮三度目の御召
 
終戦の聖旨伝達はこれで終わったわけではなかった。既に述べた八・一五事件でも明らかなように、軍部の若手将校の中には日本のポツダム宣言受諾に反発する者もあり、連合国の進駐に当たり最後の抵抗を試みる動きがあった。

そして現に敵の上陸に備えてあからさまに攻撃の準備をしている部隊もあった。陸海合わせて789万人〔終戦時の残存兵員数〕の巨大な日本軍が一斉に武装解除することは実際には極めて困難なことであったのだ。

竹田宮が帰国してから2日後の8月22日、昭和天皇から竹田宮に三度目の御召があった。昭和天皇は連合軍の本土進駐のときに不心得があってはいけないと大変御心配になり、我が国最南端を守っていた福岡の陸軍航空部隊(第六航空軍)に行って、決して不心得なことをしないようによくよく自分の気持を伝えること、また宇品の陸軍船舶司令部が敵の上陸に備えて水上特攻を準備していたので、これにも自重するよう聖旨の伝達を命ぜられた。

竹田宮は直ぐに福岡、そして宇品に行って聖旨を伝達し、それぞれ矛を収めさせた。また23日には高松宮が海軍航空部隊へ出かけて行き、同じように 天皇の思召を伝達した。そして25日に高松宮、久邇宮、竹田宮の三名は御所を訪れ復命した。

8月26日は、連合国進駐軍の先遣隊が神奈川の厚木飛行場に降り立つ日だった。その日までには日本の飛行機は全て武装解除し、飛べないようにしておく必要がある。しかし厚木飛行場の相模原航空隊は命令を無視し、進駐軍を撃退すべく演習を続けていた。海軍は強い態度でこれを抑えようとするが、彼らは決死の覚悟であり、容易に言うことをきかない。

そこで時の首相東久邇宮稔彦王は 昭和天皇に高松宮の御差遺を願い出た。高松宮が直接説得することで、24日の夕方、飛行場を占拠していた強硬派の地上勤務部隊が海軍治安部隊に厚木飛行場を明け渡した。翌25日には米軍機が東京上空を盛んに飛んだため、もし厚木飛行場の武装解除が半日遅れていたら、日米の交戦状態に至った可能性もあり、非常に危険な状態だった。

天候の都合により、進駐軍先遣隊の到着は28日に延期され、マッカーサー元帥の到着も30日に順延された。マッカーサー元帥は日本に進駐軍を送り込むに当たり、相当の混乱があることを予測していた。だが、8月30日、平穏のまま、マッカーサーはサングラスを掛けてパイプを咥(くわ)えながら厚木飛行場に降り立った。

敵と向かい合っている部隊の一部は、8月15日に玉音放送で終戦が伝えられているにもかかわらず、また陸軍省や海軍省から武装解除の指令が出ているにもかかわらず、いまだ武装解除することなく、上陸する敵を迎え撃つ準備を進めていた。だが皇族が出向いて直接天皇の御心を伝えることで、彼らは初めてポツダム宮言受諾、敗戦、そして武装解除を受け入れたのだ。

この任務を遂行することができたのは皇族しかいなかった。昭和天皇は27日、天皇の特使を果たした高松宮、三笠宮、朝香宮、竹田宮、閑院宮を宮城の表拝謁間に御招きになり、御慰労をなさった〔朝香宮は体調不良につき欠席〕。この特使の任務は、混乱する最前線を転々とする極めて危険な任務であったため、ここに集まった皇族たちは生きて帰ったことの喜びを分かち合ったに違いない。
 
 

劣化

 
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歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。 
 
「自虐的政府見解」の成立過程
 
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高知大学名誉教授 福地惇
 
政府が侵略戦争を認めた代表例は、戦後50周年の日、1995(平成7)年515日の「村山談話」だと思われているが、実はその根は深い。
イメージ 3中共は日本の左翼と共謀して「対日解放謀略」を積み重ねていて、1972年の「日中共同声明」(田中角栄首相担当)で「政府見解」への芽は公式に噴き出し、10年後の教科書誤報事件で事態は深刻化して国家の教育権にまで手をいれられた。
その後も「戦後政治の総決算」を謳い文句にして登場した中曽根康弘首相は社共両党から執拗に攻められて、昭和の戦争は「侵略戦争」だったと衆議院予算委員会の場で答弁させられた。198510月のことだ。「村山談話」はその10年後なのだ。
中曽根内閣から「自社さ連立内閣」までの10年間は、反日左翼主導による「自虐的政府見解」の強化課程であり、「民主連合政府」への前進過程だったのである。
 
イメージ 4「日中共同声明」の次に続く日中間の重要な政治合意は、福田赳夫内閣の時の「日中平和友好条約」(197810月発効)である。
「(第2条)いずれもアジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても覇権は求めるべきではなく、またこのような覇権を確立しようとする他のいかなる国または国の集団による試みにも反対する」、
「(第3条)善隣友好の精神に基づき、かつ平等及び互恵並びに内政に対する相互不干渉の原則に従い、両国間の経済関係及び文化関係の一層の発展並びに両国民の交流促進」を銘記した。だが、その後のシナ共産党政権は着々と「覇権」を追求し、軍事力を増強し、日本に対する「内政不干渉」や領海・領土の侵犯行為を常態化してきたのである。
 
イメージ 519958月には「村山談話」が出たが、それを受ける形で1998(平成10)年11月、来日した江沢民国家主席と小渕恵三首相が、「平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言」を公表した。
「双方は過去を直視し歴史を正しく認識することが、日中関係を発展させる重要な基礎であると考える。日本側は1972年に日中共同声明及び1995815日の内閣総理大臣談話を遵守し、過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、これに対し深い反省を表明した。中国側は、日本側が歴史の教訓に学び、平和発展の道を堅持することを希望する。双方はこの基礎の上に長きにわたる友好関係を発展させる」とは注視すべき文章である。
「歴史カード」を切って、シナ共産党政権は「日本解体」の内堀、外堀をほぼ埋めることに成功したということである。その後の歴代首相の日本国家の尊厳と独立主権を軽視して恥じない発言の集積は、目も当てられない体たらくだ。
 
簡単に列挙しておこう。
199810月、小渕首相は、来日した韓国大統領金大中に植民地支配の痛切な反省とお詫びを表明して、ご丁寧にも「日韓共同声明」に書き込んだ。先に示した「日中共同宣言」はその1ヶ月後のものだ。
イメージ 62001(平成13)年6月、組閣後初の訪米でブッシュ大統領と会談した小泉純一郎首相は、「アメリカは日本の解放軍」だったと謝意を表したという。20022月、APEC会議出席の途次、東京に寄ったブッシュが靖国神社参拝を申し出たのに対して小泉首相・外務省は拒否した。
20054月、アジア・アフリカ会議50周年のバンドン会議で、小泉首相は世界に向けて村山謝罪談話を継承すると宣言した。郵政民営化で小泉の人気は高かったが、これもマスコミの工作が功を奏していたのだ。郵政民営化は日本国民のためのものというよりも、旧敵国の金融勢力を肥やすためのものであることは、知る人ぞ知る事実であろう。
 
イメージ 72009(平成21)年4月、民主党幹事長の鳩山由紀夫(後の首相)は「日本列島は日本人だけの所有物ではない」とテレビ討論会で発言して、さすがに物議を醸した。
しかし、国政政治家としては絶対失格の発言をした幹事長を頂く民主党が衆議院議員総選挙で自民党に圧勝し圧倒的第一党になって政権を掌握した。当時のマスコミは政権交代、政権交代の大合唱で、新しくなれば日本はよくなるとの改革・革新・進歩教そのものだった。政治家や彼らを支える日本人民衆の頭の程度はまさにここまで劣化した証拠というべきだろう
イメージ 8そして極めつけは、20104月、大訪中使節団を率いて北京入りした民主党幹事長小沢一郎は、胡錦濤主席に「こちらのお国に例えれば、解散の戦いはまだ済んでいない。来年7月に最終の決戦がある。人民解放軍でいえば、野戦の軍司令官として頑張っている」と媚びへつらった。
私は日本解放運動の前線指揮者を務めていると言ったようなもので、シナの大官は腹の底で大笑いしたことだろう。
このような最高指導者たちが、日本国家運営の衝に立ち続ける。 北方四島、竹島、尖閣諸島など我が国固有の領土が侵略、占領の危機に瀕しているにも拘らず、日本人民衆は催眠術にかかったように何の反応も見せなかった。(日本戦略研究フォーラム季報掲載より)
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」


大日本帝国憲法発布式

大日本帝国憲法は、明治天皇が天照大御神を始めとする皇祖皇宗の御神霊に向かって誓われて、始められた憲法です。だから、大日本帝国憲法は、まずはじめに告文(つげぶみ)という神々への誓いの文章があります。

これは憲法本文の上位に位置するものであり、明治天皇が、皇祖皇宗の神々に誓われたものです。

その内容は、この憲法が、古来より、ずっと伝えられてきたいわば不文の我が国のあり方を今の世に合わせて、条文として明らかにすることによって、国民(臣民)の子孫までそのあり方に従い、国民(臣民)が皆力をあわせて協力しあうように、永遠に守っていき、国の統治の基礎を強固にし、日本の国民(臣民)の喜びと幸せを増進するためにこれを制定するのであることを、神々に申し上げられます。

そしてこの憲法が、古来よりずっと伝わってきた精神を今の世に文字に表したものであり、神霊のお助けを得て、できたものであることを感謝され、明治天皇みずからが率先してこの憲法を履行され、遵守されることを誓われ、御神霊にそれを御覧になってくださいとお願いされるものです。

我国の天皇陛下の行われる政治は、古来より、常に祭りごとであり、神々の御心に沿い、その神意を実現するために行われるものであり、よって、大日本帝国憲法も、そういう厳かな敬虔な気持ちで作られ練られ、発布へと至ったものです。
これは明治のはじめの五箇条の御誓文の精神に基づくものであり、この五箇条の御誓文も神々への誓いでありました。昭和天皇がわが国の近代民主主義の始まりは五箇条の御誓文にあると言われたように、これが我が国固有の民主主義なのです。

わが国の天皇は、歴代、常に私心を排して、国のため民のためにと常に正しいあり方を行なうことを真剣に考えられ、そのために神々に誠心誠意祈られ、誓われて物事を決められます。

その伝統の上に、大日本帝国憲法が作られ交付されました。この告文のあとに、国民に向けた憲法発布の勅語があります。このように厳かな威厳に満ちた始まりの憲法を、日本国民は誇らしく、大切に守って来ました。

終戦により、占領軍に日本弱体化のアメリカ製のにわか粗製憲法を押し付けられるまで、この神代の時代からの日本のあり方に従った我が国固有の憲法は、民主的で、しかも日本文化の真髄の馨る美しい憲法として、国家のあり方を決定させてきました。



大日本帝国憲法の告文を読みやすくするためにひらがなでの現代仮名遣いで書いて見ました。


大日本帝国憲法  
 
告文(つげぶみ)


皇(すめら)朕(わ)れ謹み畏み

皇祖
皇宗の神霊に告げ白さく皇朕れ天壌無窮の宏謨(こうぼ=雄大な方針)に

循(したが)い惟神(かんながら)の宝祚(=皇位)を

承継し旧図(きゅうと=古くからの計画)を保持して

敢えて失墜すること無し

顧みるに世局の進運に膺(よ)り人文の発達に随(したが)い宜しく

皇祖
皇宗の遺訓を明徴にし典憲を成立し条章を昭示し

内は以て子孫の卒由(=したがうこと)する所と為し

外は以て臣民翼賛の道を広め永遠に遵行せしめ

益々国家の丕基(ひき=天子が国を統治するという大事業の基礎)を

鞏固にして八州民生の慶福を増進すべし

ここに皇室典範及び憲法を制定す

惟(おも)うに此れ皆

皇祖
皇宗の後裔(こうえい=子孫)に貽(のこ=遺)したまえる統治の

洪範(こうはん=模範となる大法)を

紹述(=前人の後を受け継いで述べ行なうこと)するに外ならず

而して朕が躬(みずから)に逮(およん)で[=私の時代になって]

時と倶(とも)に挙行することを得るは洵(まこと)に

皇祖
皇宗及び我が

皇考(天皇の亡父=孝明天皇)の威霊に

倚藉(いしゃ=頼ること)するに由らざるは無し

皇朕れ仰ぎて

皇祖
皇宗及び

皇考の神祐を祈り併せて朕が現在及び将来に臣民に率先し

此の憲章を履行して愆(あやま=踏み外れる)らざらむことを誓う

庶(こい)幾(ねがわ)くば

神霊此れを鑒(かんが)みたまえ[御覧ください]





 
11月16日に
西田昌司参議院議員が紹介議員となり、現行の日本国憲法が無効であるとの請願が国会で受理されました。
勿論、反日マスゴミによって、報道はされていません。
 
請願は以下のとおりです。
 
一 請願の趣旨

 
1 日本国憲法であると詐称し続けてゐる占領憲法は、GHQの軍事占領下で我が国の独立が奪はれた時期に制定されたもので、独立国の憲法として認めることはできません。
 
占領憲法第9条第2項後段の交戦権(right of belligerency)とは、アメリカ合衆国憲法に云ふ戦争権限(war powers)と同義であつて、宣戦、統帥、停戦、講和といふ一連の戦争行為を行ふことができる権限のことです。
 
ですから、交戦権がないことから戦争状態を終了させる講和行為を行ひえない占領憲法が仮に憲法であれば、我が国はサンフランシスコ講和条約によつて戦争状態を終結させ独立することができないことになります。
 
そのことからして、我が国は大日本帝国憲法第13条の講和大権によつて戦争状態を終了させて独立を回復したことになるのですから、大日本帝国憲法は現存してゐるのです。
 
 
2 つまり、占領憲法は、無効規範の転換理論を定めた大日本帝国憲法第76条第1項により、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印からサンフランシスコ講和条約に至るまでの一連の講和条約群の一つとして評価されるもので、大日本帝国憲法の下位規範として認められるものです。
 
 
3 そして、昭和44年8月1日に岡山県の奈義町議会が『大日本帝国憲法復原決議』を可決したやうに、国家にとつて他国による干渉行為がなされたときは、まづは原状回復をなすべきことが国際的にも普遍の条理であることは云ふまでもありません。

 
4 北朝鮮に拉致された被害者、ソ連(ロシア)に奪はれた北方領土、韓国に奪はれた竹島について、すべて完全な原状回復を実現することが我が国の基本方針であるとするのであれば、我が国の国法体系についても同様でなければなりません。
 

5 ましてや、ご皇室の家法である明治22年に制定された正統なる皇室典範は大日本帝国憲法などと同列の国家の最高規範であるにもかかはらず、これを廃止させた上、占領憲法下で同じ名称を付けた昭和22年の法律である皇室典範(占領典範)は、法令偽装の典型であつて、国民主権の占領憲法により、国民を主人とし天皇を家来とする不敬不遜の極みである皇室弾圧法に他なりません。
 

6 我々臣民としては、国民主権といふ傲慢な思想を直ちに放棄して、速やかに占領典範と占領憲法の無効確認を行つて正統典範と正統憲法の現存確認をして原状回復を成し遂げる必要があります。これによつて、拉致問題、領土問題、教育問題、原発問題などについても原状回復による解決が図られ、祖国の再生が実現しうるものと確信し、以下の事項を請願します。

 
二 請願事項
 
 
1 憲法問題、典範問題、拉致問題、領土問題、教育問題、原発問題などの解決のために必要な国家再生の基軸は、原状回復論でなければならないことを国会議員全員が自覚されることを求めます。
 

2 占領憲法が憲法としては無効であることを確認し、大日本帝国憲法が現存することの国会決議がなされることを求めます。
 

3 占領典範の無効を確認し、ご皇室の家法である明治典範その他の宮務法体系を復活させ、ご皇室の自治と自律を回復されることを求めます

 
岡山県奈義町(矢印部分)





奈義町議会「大日本帝國憲法復原決議」

昭和44年7月30日、地方自治法第120条に基づく議案提出。
同年8月1日決議。


提案理由

私達は下記の理由と目的により大日本帝国憲法復原決議案を提出いたします。

現行日本国憲法は、その内容に於て全く戦勝国が占領目的遂行のため、仮に憲法と称する行政管理基本法にすぎないものであることは、議員各位既に御承知の通りであります。而も制定当時の日本は無条件降伏、武装解除、丸裸であった。アメリカは不当にも国際法規を無視し、連合軍の戦力を背景に銃剣で脅迫し押付けたアメリカ製憲法であります。昭和二十七年占領目的を達成したアメリカが引揚げと同時に日本は独立したのであるから、西ドイツ同様これを廃棄し棚上げされている大日本帝国憲法を卸し復活すべきものを、そのまま二十四年間放置し今日に到ったがために大学暴動を始めとして、今や国内は収拾し難い無法状態となったのであります。此占領憲法施行のため、一君万民民本主義の日本は、主権在民の民主主義を奉ずる英、米模倣の国家形態となりながら象徴天皇を戴く、木に竹を継いだような国体を出現し、言論の自由を始めとして、思想、信教、学問、表現の自由と、個人の権利のみ優先し、国権の衰退は眼を覆うものがあります。
例えば他人の建造物を破壊する集団暴力も、国有財産たる安田講堂を破壊し国宝を破棄しても又は、都市の補装道路、或は敷石を砕き警察官を殺傷しても表現の自由と称し、これを逮捕し裁判に付するも裸体となりて公判に応ぜず、又は吾国に住居して日本の保護を受けながら、その日本を仮想敵国と公言し、日本打倒の目的を以てする朝鮮大学校を始めとして国内に小.中.高校等無慮数百の反体制教育施設も、占領憲法第二十三条「学問の自由」第十九条「思想の自由」に因り国体変革の宣伝も自由、第二十一条「表現.言論の自由」により恩師を監禁、罵詈雑言も亦自由とする。第二十四条一項では「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する」と規定して、日本国の長所たる家族制度に於ける親権を抹殺し、第二十八条「勤労者の団結権」に至っては従来非合法として取締った教員のストを最高裁の合法判決により、日教組の「教員は労働者」の主張を認める結果が出ている。その影響は直ぐに吾町の小.中学校に反映し、七月ストに教員多数が参加している。如斯万法の根元である憲法が万悪の源となって、正に日本はこの占領憲法のために身動きならぬ亡国への道を歩み続けているのであります。「革命か改憲か」と言われているのは「革命とは共産革命」のことであり、改憲とは大日本国憲法を復原し新時代に即応した改正を謂うのであります。
今にしてこのアメリカ製亡国憲法を破棄し、皇国興隆の基本である真憲法を復活せざれば悔を千歳に残すばかりでなく、共産革命を許したチェコの如く後悔しても再び自由国に復帰することは断じて不可能であるあることを覚悟せねばなりません。去る五月二日東京都九段、日本武道館に於いて、自由民主党憲法調査会主催「約二万人入場」で「自主憲法制定国民大会」が開かれ、現憲法を廃棄し自主憲法制定の宣言、決議が行なわれたが、この席には自民党憲法調査会長稲葉修、大村襄治代議士を始め、自民党より百三十名の国会議員の参加があり、全国に一大国民運動を展開する決議となったものであります。吾奈義町に於いては芦田県議、久永町長、助役、各課長、町議会議員、農協農委等の主脳者百三十数名が会員として岡山市に本部を有つ、大日本帝国憲法復原岡山県推進本部奈義支部の結成をみたのであります。国家存亡の秋、政府の改憲運動に協力し、全国市町村に魁け議決の範を示し、自主真憲法制定の名に於いて全国民の自覚を喚起し、共産革命の陰謀を破砕し、亡国の危機に直面する祖国を譲り御神勅による世界一国一家の出現を祈りながら、菊花薫る道義国家日本の再建を期する方途は、明治欽定憲法復原以外に無しと信じ、以上の理由と目的により本決議案を提出するものであります。 
議員各位には慎重御審議を賜り満場一致の御賛同を期待すると共に、御決議の上は直ちにこれを佐藤内閣総理大臣、衆.参両院議長、岡山県知事、岡山県議会議長宛発送し、県議会の議決を求め、漸次全国市町村、都道府県議会の議決運動に盛り上げ、明年六月に迫る日米安保条約改訂期前に大日本帝国憲法を復原して万法の基礎を定め祖国日本の安全を希うものであります。

以上

 
憲法は国の魂です。
この決議文は國體護持の信念に基づいて書かれています。
国家に対する切実な思いと、危機感が42年前には、自国の文化、伝統、価値観などの全てが含まれる國體を護ろうとする精神風土が確実に存在していました。この決議が何よりの証左です。

本ブログの記事、「亡国の憲法、亡国の政党」で、現在の憲法は、米国製の翻訳憲法であり、占領基本法 であり、半植民地憲法だと述べました。
また、
また米国の植民地であった、フィリピンの植民地支配の憲法をお手本としたことも述べました。
似ているのは当然です。
植民地統治で一番困ることは何でしょうか?
植民地の人々の武装決起であり、武装させないことが重要になります。

独立戦争をされては困るからです。
占領軍を追い出されては困るからです。
だから植民地憲法は、武装解除憲法となって当然なのです。

植民地には軍隊は持たせない。

当然のことです。
極東国際軍事裁判で判事として判決に際して判決文より長い1235ページの「意見書」(通称「パール判決書」)を発表し、事後法で裁くことはできないとし「全員無罪」としたラビ・ダノード・パール博士も、「日本は独立したと言っているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉が使いたければ、半独立と言ったらいい。いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観という歪められた自虐史観やアメリカナイズされたものの見方や考え方が直っていない。日本人よ日本に帰れと私は言いたい」と述べておられます。
日本国憲法は、主権を回復していない占領状態の国に施行された植民地憲法。
本来なら、主権を回復した時に、廃棄すべきでした、当時の政治家の怠慢でもあります。

植民地憲法である日本国憲法の改正について議論してどうなりますか?
魂まで占領されて奴隷思観にドップリ浸かったマゾ的状況にあります。

全てのおかしさの元は、植民地憲法にあります。


大日本帝国憲法復元決議をすれば良いのです。

現行憲法を無効にする方法は多岐にわたり存在します。
それよりも、現在の植民地憲法の異常さに、多くの国民が覚醒し、大日本帝国憲法復元決議を決議した、岡山県奈義町に続くべきです。
大きなうねりこそが、必要です。

誇り高き日本一の町、岡山県奈義町に敬意を表します。
奈義町の決議文中にある、学生運動、反日団体が今日、日本の政権を担っていることが皮肉でもありますが・・・



転載元転載元: 美しい国


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