日本の感性をよみがえらせよう

PC不調と、私事雑用多忙のため停止させて頂きます。

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

誇りを取り戻す

イメージ 5
18813月のことです。
ハワイ王国のカラカワ王は世界一周旅行の途上で日本の横浜港に到着しました。
日本の海軍軍楽隊はハワイの国歌「ハワイの国民」を演奏して出迎えたのです。王は思いがけない日本側のもてなしと、異国の地で自身が作詞した国歌を聴かされた事に感じ入って、涙を流した。
カラカワ王は日本人通訳を連れて密かに明治天皇との会見を願い出たのです。特別列車で皇居に向かう途中、港も鉄道も白人ではなく日本人が運用されているのを見て感激しました。これはハワイでは白人がいたるところで独占していたからでした。
カラカワ王はこのような心づくしと独立した誇りある日本を見て、日本と同盟を結んで白人支配から独立しようと思ったのでした。
明治天皇と会見したカラカワ王は、日本の伝統文化と近年の国家的隆盛を賞賛した後、ハワイ王国の内憂外患の窮状を述べ、日本に対してハワイの人口減少を日本人移民の実現したいこと、王位を継がせる姪のカイウラニ王女と日本皇族の山階宮定麿親王との婚約を申し入れました。
明治天皇もこの申し出には驚かれ、即答せずに後日返答する旨を伝えました。
我が国としては明治維新後まもなく、米国と対抗する力のないため、明治天皇はカラカワ王に特使を派遣して婚姻の議は「日本の皇室にはそのような前例がないこと」「米国の勢力圏に立ち入るのを好ましくないと判断」したことを理由に辞退されたのでした。
しかし、移民については1885年に実現しました。ホノルルに到着した日本移民のために歓迎会が催され、カラカワ王自身も参加し、日本酒を振る舞い、ハワイ音楽やフラダンス、相撲大会でもてなしたのです。

しかし、ハワイの米国人たちはカラカワ王の動きを封じるために新憲法を起草し、白人武装集団の圧力のもと承認の署名を行うようカラカワ王に突き付けました。この中には王の政治的行為は全て議会の承認を必要とし、多くのハワイやアジア人を選挙から排除するものでした。銃剣でカラカワ王に署名させたこの憲法は「銃剣憲法」と呼ばれました。

1891
年、カラカワ王が病死すると、実妹のリリウオカラニ女王が即位しました。
女王は選挙権を貧しい島民にも与える憲法改正を発表し、イオラニ宮殿前では数千人のハワイ人が集まって女王支持のデモを行いました。
しかし、白人側はこれを機に一気に王制打倒に動き出しました。
米国公使スティーブンスは「血に飢えた、そして淫乱な女王が恐怖の専制王権を復活させようとしている」というデマで訴え、「米国人市民の生命と財産を守るために」と言ってホノルル港に停泊中の米軍艦「ボストン」の海兵隊を上陸させて女王を退位させたのです。
ここにハワイ王国は消滅し、ハワイ共和国が樹立され、頃あいを見て米国は併合しようとしました。
しかし、ここで思わぬことが起きました。
 
イメージ 1アジアの小国と思っていた日本が軍艦を差し向けてきたのです。巡洋艦「浪速」、コルベット級「金剛」がホノルル港に入り、ハワイ王国乗っ取りの戦艦「ボストン」をはさむように投錨しました。
「浪速」の艦長は東郷平八郎です。後に日本海海戦を指揮して世界に勇名を馳せた名提督であります。東郷平八郎は、「武力でハワイ王制を倒す暴挙が進行している。我々は危険にさらされた無辜の市民の安全と保護に当たる」と宣言しました。この市民の中には米国市民も入っていました。
「浪速」は3ヶ月ハワイに留まった後、いったん帰国、一年後に再び姿を現しました。ハワイ共和国大統領から「建国一周年」を祝う礼砲を要請してきましたが、東郷艦長は「その理由を認めず」と拒絶しました。するとホノルル軍港の各国軍艦も東郷にならいました。世界の新聞は「ハワイ王朝の喪に服するような静寂の一日に終わった」と伝えました。
ハワイ人の間では日本の軍艦が味方してくれたという話が語り継がれ、子供に「トーゴー」と名づけたり、ある地域では「ナニワ(浪速)」が「ありがとう」の意味で使われたりしたという。・・・
 
 
イメージ 2
                                                              浪速
 
 
イメージ 3
                            金剛                            
 
 
かつて日本という国は強くて正義感ある国でした。
しかし、現在の日本はどうだろう。
114日、我が領土である北方領土に視察した玄葉外務大臣は自国領土であるのに遠くから眺めるだけで島に近づくこともできず、以前の前原外相の北方領土視察も遠くから見ているだけでした。同じく14日、尖閣諸島付近ではチャイナ漁船監視船が接続水域に入ってきました。尖閣付近では頻繁に起きていますが、我が国は注意をして様子をうかがっているだけであります。
竹島は韓国が我がもの顔で構造物を作り続け、日本政府は韓国や在日に気づかって「不法占拠」とも言えず、それが更なる挑発行為となり、ついには韓国日本大使館前に従軍慰安婦像を置く行為にもつながっているのです。
戦前が全ていいというわけではありません。戦前にも幣原喜重郎のような軟弱外交もありましたが、やはりその時も多くの日本人の犠牲を伴ってきた歴史的事実があります。
国の護りというのは自分たちの「手」と「命」で護らねばなりません。自国の護りを他国に依存する愚行は戦前にはありません。
きっと自衛隊の中にも東郷提督に劣らぬ立派な方はいるであろう。ただ、今の日本はそういう人物が表に出てこられない土壌があることが残念であります。
かつて日本には東郷平八郎のような堂々とした立派な提督がいたことを誇りに思い、今のダメな日本を変えて行こうじゃありませんか。
 
イメージ 4小野田寛郎元少尉の著書のこの一文をこの記事の最後としたい。
「私は戦場で三十年、『生きる』意味を真剣に考えた。戦前、人々は『命を惜しむな』と教えられ、死を覚悟して生きた。戦後、日本人は『命を惜しまなければいけない』時代になった。何かを“命懸け”でやることを否定してしまった。覚悟をしないで生きられる時代は、いい時代である。だが、死を意識しないことで日本人は『生きる』ことをおろそかにしてしまってはいないだろうか。・・」
 
・・・・・・・・
 
 *人気ブログランキング(歴史部門)に参加しています。
      ここをポチッとご協力お願い申し上げます。
 

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

植民地というご認識を払拭すべき。



 日本が台湾を統治することになったのは明治28年(1895年)4月17日に締結された下関条約によるものです。
 台湾は1626年、スペインが台北北部および北東部一帯を占領し、植民地にしていました。1642年、オランダがスペインを攻撃し勝利し、今度はオランダの植民地となります。一方、大陸では明国が清国に滅ぼされて、郭成功軍が台湾に逃れてきて、オランダ軍を撃破し、大陸反攻基地として経営を開始しました。
 郭成功が死去すると息子の郭経が跡を継ぎますが、1683年、清国に滅ぼされてしまいます。清国は郭王朝を滅ぼすと台湾を一度放棄しますが、オランダの脅威に備えて、消極的支配を行いました。

 消極的支配なので、「三年一小反」「五年一大乱」という具合に住民の反乱が絶えないぐらい悪辣な略奪統治でした。その後、明治7年(1874年)の日本の台湾出兵、明治17年(1884年)のフランス軍上陸があり、清国は台湾の重要性に気がつき、積極的建設政策に転換しましたが、日清戦争によって下関条約が結ばれ、日本の領土となったのです。

 台湾の日本統治が決まると台湾の有力者らは「台湾民主国」を立上げ日本に抵抗します。台北城はは二万の守備。清国兵は5万。日本軍は台湾内の不穏な動きをキャッチし、近衛師団は上陸地点を変更し、陸路で港制圧に向かい、民主国軍と交戦になります。数は劣勢の日本軍ですが、民主国軍は烏合の衆であり、訓練された近衛師団とでは勝負にならず、民主国軍は交戦して敗れると、総統も将軍もさっさと本国へ逃亡してしまいます。そして残された兵士達は台北城内で略奪や放火、婦女暴行を繰り広げることになります。
 早い話「台湾民主国」は支那人が築いた財産を守ろうとしていたというだけで民衆のためのものではなく、民衆は清国兵士たちの暴行を食い止めるべく日本軍へ使者を出し、台北へ手引きします。日本軍は清国兵を掃討し、降伏した兵は大陸へ送還しました。

 こうして日本の台湾統治がスタートするわけですが、日本国内では台湾を「植民地」として扱うか「内地延長」として扱うか議論が活発に行われており、「内地延長型」が統一見解となり、その後の政策、医療制度、国土改造、産業開発、治水、交通整備、教育制度、等々にきちんと表れています。したがって台湾は植民地ではありません。

 
「台湾人と日本精神」の著者、蔡焜燦(さい こんさん)氏(台湾人)によると「公学校(小学校)で習ったことは、台湾は樺太と朝鮮と同様に日本の領土であり、台湾が植民地であるなどという話しを耳にした記憶がない」「”植民地”という言葉は戦後になって出てきたものだと私は理解している」と著書で述べています。おそらくは戦後になって占領軍が日本人に罪の意識を持たせ、白人の植民地支配を非難できないようにする目的があり、「植民地」と言い出したと思われます。朝鮮半島も「植民地だった」という人がいますが、日台韓を分離させ、白人に刃向わないようにさせるデバイド・アンド・ルールも適用したと言えます。



参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 小学館文庫「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」―日本人よ胸をはりなさい 蔡 焜燦(著)
参考サイト
 WikiPedia「日本統治時代(台湾)」

添付画像
 高雄州庁(PD)

http://image.with2.net/img/banner/c/banner_1/br_c_1650_1.gif 応援お願いします。
http://www.hiroshima-blog.com/area/banner001.jpg お手数ですがこちらもよろしくお願いします。
 
 

転載元転載元: 電脳工廠・兵器(武器,弾薬)庫

変わらぬ日本

 
日本の劣化を象徴する日教組はじめ反日左翼団体、朝日新聞などのマスコミ、自国の国益より支那朝鮮に配慮する愚かな政治家たち、そして文部省。彼らは反日支那人江沢民の来日をおもねるが如く、現状の日本の教育を最前線で憂う愛国者 福地惇先生の発言を槍玉にあげ、更迭したのです。
この事件に関して福地先生が最も尊敬する西尾幹二先生が199812月にこのように書いております。
・・・・・
 
調査官更迭は仕組まれた罠 文部省だけが軽挙妄動した
 
イメージ 1
評論家 西尾幹二
  
江沢民氏来日に照準
文部省の主任教科書調査官 福地惇氏が「近隣諸国条項」を批判したとして1126日更迭処分された事件には、従軍慰安婦問題と同様に再び左翼に仕組まれた明確な罠が読みとれる。問題が生じてから処分までが余りに短い。おおよそ23日なのである。
待ってましたとばかりに急いで処分した文部省幹部ないし文部大臣その人が左翼体質である可能性はきわめて高い。
問題発言の載った会員制月刊誌「MOKU」9月号が最初に人の目に触れたのは、版元によると9月初旬である。左翼関係者が問題化を目論んだのはいつかは分からないが、すぐに問題化せず、時期を待っていたのには理由がある。江沢民来日に照準を合わせるためであった。
共同配信記事1123日付を見て、それだけのことで有馬文相は24日に記者会見を行い、間髪を入れず「厳正に対処したい」と返答。
『朝日』に文相記者会見の記事が載ったのが24日夕刊であり、出版労連など6団体が福地解任の要請書を提出したのが25日である。その25日にかねて予定した通り江沢民が日本に来た。
25日と26日の『赤旗』に一連の関聯記事がのり、26日夕方に更迭処分が発表された。
電光石火の勢いである。まるで呼吸を合わせているかの如き素早さである。
不思議なのは文相が、出版労連など左翼6団体が文部省に要請書をまだ出してもいない前の日に、どこでどういう仕掛けがあったか、あわてて「厳正処分」を口走り、その通りにしたことである。背後に左翼の動きがあって、理科系で人文思想のない(あるいは最初から左翼に好意的な)文相がシナリオ通りに行動した、ということか、それとも江沢民訪日の生贄に身内を捧げることで文部省が内閣に忠誠心を示そうとしたか、のいずれかであろう。ばかげた話である。なぜなら小渕内閣は今回可能な限り中国の圧力に屈しまいと努力し、外相も私の見る限り日本の利益を守るために良くやったという印象だからである。ひとり文部省だけが軽挙妄動した。やらないでもいいことをやった。内閣の中で突出したことをやって、むしろ内閣を傷つけた。そして、日本国民を侮辱した。国民はこの大臣のしたことをしっかり覚えておこう。
 
日本人は悪魔か外道か
いわゆる「近隣諸国条項」は昭和57年の教科書誤報事件をきっかけに設けられるなど、成立過程に疑問があり、これの廃棄が今後保守政権内部で、中韓両国の内政干渉を排除するためにどうしても必要な案件になるであろう。
しかし今さしあたり、この条項は存在するのである。すなわち「わが国と近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いにあたっては、国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていること」というくだりである。が、それを仮に認めるとしても、福地氏の雑誌発言は言論の自由の範囲にあり、どう考えても同条項に違反するものには読めない。
「近隣諸国条項」は近隣への「必要な配慮」をうたっているだけで、近隣諸国は正義の化身、日本は悪魔か外道という「全面屈服」を書けと言っているものではない。ところが現行教科書が文面においても、イラストにおいても、日本人を悪魔か外道のように描く、行き過ぎた誇張に堕している
ことを、われわれは実証してきた。
 
良識的認識の範畴
福地氏は現行小学校教科書が、「ほとんど戦争に対する贖罪のパンフレットなんです。それで、侵略戦争を二度としないようにするためには、どうしたらいいかということが最後の結びになっている。僕はちょっと気が滅入りました。あの戦争はよかったとはいえませんが、わけありでああいうことになったわけで、日本だけが悪いという感じで書かれると、子供たちが本当にどういう気持ちがするだろうかと思いますね」と述べているが、氏は現行教科書が「近隣への配慮」を越えて「全面屈服」となっていることを批判しただけで、なんら近隣諸国条項に違反していない。
「贖罪のパンフレット」という言葉がいけないということだが、それは低劣な教科書の実態をおおい隠して、検定制度は立派にやっているとのみせかけの権威を守りたい文部省の言いがかりにすぎない。
今の歴史教科書の下劣さが政治パンフレット以下ですらあることは、文部官僚諸氏が文部省を離れて、一私人の常識に立ち還れば、残念ながら一人として例外なく認めざるを得ない処であろう。
福地氏が「わけありでああいうことになった」と戦争を説明した内容は、仮に日本というものがなくて、中国と朝鮮だけだったら、東アジアはどうなっていたか、に関連して、中国はロシアとイギリスに上手に分割されたのではないか、日本の中国進出には、そういうことを阻止した面もあった、というリアリスティックな判断に終始している。これは左翼歴史家を除く、今日の近現代史家の大半が所有する良識的認識の範畴に入るといっていい。
 
こういう立派な現実思考の歴史家を追い落とすことで、このレベルの人物が調査官を志さなくなり、今後の検定内容がさらに劣化することを私は最も恐れている。しかもそれが文部省の左翼迎合競争の虚栄に発するとしたら何をかいわんやである。
昭和57年当時「近隣諸国条項」の成立に抵抗し、首相官邸に反抗した気骨ある先輩文部官僚を少しは見習ったらどうなのであろう。(にしお かんじ)
 
 
この事件からすでに14年。日本は変わらず・・・
 
・・・・・
  *人気ブログランキング(歴史部門)に参加しています。
      ここをポチッとご協力お願い申し上げます。
 

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

イメージ 1
 
 
歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。
まずは福地先生の小論文を読んで頂いた後に、今回は福地先生に関わる重大なある事実をお話ししなければなりません。・・・
 
 
教科書誤報事件は偶発事件だったのか
 
イメージ 2
                                                  
高知大学名誉教授 福地惇
 
日本を永久に抑え込みたい旧敵国は、日本の近隣諸国をも巧みに利用する策略をしてきた可能性が高いと私は見ている。一種の「以夷制夷」戦略の実行である。それと思しき事例は多数に上るが、紙幅の関係で、日支関係における歴史認識問題を取り上げよう。
1982(昭和57)年6月下旬に突発した教科書誤報事件は、今では多くの人々の記憶からは薄らいでいるのだが、実に怪しく重大な事件であった。
時あたかも、高度経済成長で経済力を付け、エズラ・F・ボーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(1979=昭和54年)で持ち上げられ、強国に復興できたと国民の多くが自信を回復していた時期である。この事件は、歴史教科書問題で一見大した問題とは思えなかったが、事態はこうだった。
この年、教科書出版各社が文部省の検定審査に提出した高騰歴史教科書はいずれもあの戦争を「日本軍が華北に侵略」と記述したが、それを検定調査段階で文部省が「侵略」を「進出」に書き換えさせた、と有力新聞各社が大々的に報道した事件であった。
新聞報道直後の文部省の調査で、その事実はなく、「誤報」であったと直ちに判明したが、シナ共産党、韓国政府の異常で猛烈な日本政府非難が沸騰してしまった。北京政府は、書き換えは日中共同声明の精神に違反すると厳重抗議してきた。韓国政府もこれに倣った。日本の左翼はもちろん大いに同調した。狼狽した鈴木善幸内閣はシナ共、韓国と左翼の攻勢に屈した。「侵略戦争で多大なご迷惑をおかけしました、教科書の内容を歴史の事実に遭うように直させますのでお許しください」と降参したのだった。謝罪証文として教科書検定基準に「近隣のアジア諸国と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」との文言が追加された。所謂『近隣諸国条項』である。時の内閣官房長官は、後の首相宮沢喜一である。近隣諸国の威圧に屈して「降参」すれば、その後はかなりの確率で立身出世できるのである。その事例は多数に上る。
実は、前年(昭和56年)の衆参同日選挙で自民党は圧勝して、経済成長で国民の自信も大いに回復してきたところで、同党は長らく問題にされていた左翼偏向歴史教科書の改善対策に前向きで取り組むことを決定していた。大いに注目すべき事実である。しかし、この騒動で自民党の歴史教科書改善政策は棚上げを余儀なくされただけではなく、謝罪の政府見解と『近隣諸国条項』、で再び取り上げるのは困難な事案に化してしまったのだ。
歴史教科書問題が異常なのは、「家永三郎教科書裁判」が象徴していた。戦前を悪しざまに叙述し過ぎると文部省検定は家永本を不合格とした。これをネタに家永と左翼反日運動団体や運動家が教科書検定は憲法違反だと訴訟を起こし、何と32年間(昭和40年〜平成9年)も係争が続いた異常さだった。日本の左翼がその主導者だが、一連の事態の背後に北京共産党政府や韓国政府の対日かく乱工作がなかったと言い切れるだろうか。
1982年の教科書誤報事件も、日本の左翼マスコミと北京やソウルの対日工作機関との連携による謀略の臭いがするのだが、当時の政権や国会、そして関係当局は真剣にこの問題の背景に探りを入れたのだろうか。かくして、今では政界も言論界も学会もこんな問題は大したことではなかったかのように、忘れたようなふりをしている。シナ共産党や韓国政府が「歴史カード」を縦横に活用して、教育問題への内政干渉や対日威圧外交を堂々と展開し始めたのは、この事件が大きな契機だったのである。
(日本戦略研究フォーラム季報掲載より 画像は福地先生から頂きました)
・・・・・・
 
 
福地先生は高知大学教授を経てから文部省の歴史教科書の検定にあたる主任教科書調査官(日本史担当)に就任なされました。
そして問題の平成109月、福地先生は会員制月刊誌「MOKU」(黙出版)の平成108910月号の「西郷隆盛と勝海舟」をテーマにした座談会を行い、その座談会で教科書検定基準の「近隣諸国条項」を批判したとして、福地先生は主任教科書調査官の更迭処分を受けました。
しかし、その内容が処分を受けるべき内容であるのか皆さんにも読んで頂きたく以下に掲載いたします。この時の出席者は福地先生と外交評論家で元駐タイ大使の岡崎久彦氏、お茶の水女子大名誉教授の勝部真長氏の三氏です。(以下敬称略)
 
岡崎 「…戦後は平和主義だからよくて、戦前は帝国主義だからけしからんというわけですね。ああいう歴史観というのは直らないですかね」
福地 「ちょっと無理ですね。私は今年の四月から文部省の教科書調査官になったんですが、平成十年度は小学校の社会科で六年生から日本史が入っていまして、それを読むと、近代史が幕末から現代までの半分ぐらいあって、ほとんど戦争に対する贖罪(しょくざい)のパンフレットなんです。
…僕はちょっと気が滅入りました。あの戦争はよかったとはいえませんが、わけありでああいうことになったわけで、日本だけが悪いという感じで書かれると、子供たちが本当にどういう気持ちがするだろうかと思いますね」
岡崎 「現代のモラルを過去の歴史にあてはめて考えるということをやめるということにならないのかな。文部省の中でそれを正面から取り上げてもだめですか」
福地 「難しいですね。というのは、政府がそういう方針で、鈴木内閣の宮沢官房長官の教科書問題のとき以来、歴代首相がずっと謝っていますからね。しかも、教科書検定のときに、近隣諸国条項というのがあって、日本は侵略戦争をして悪かったと書いていないとまずいんです。そういうがんじがらめの体制になっていますから。教科書を書く人が、戦前から戦後の日本というものをあまり貶(おとし)めて書きたくないと思っても、それができないわけです…」
岡崎 「日本がいなかったら、おそらく清国とイギリスの同盟でしょうね」
福地 「同盟にいけるまで中国が立ち上がったかどうか。あそこは蒋介石、毛沢東が出てくるまでは四分五裂ですからね。ロシアとイギリスに上手に分割されたんじゃないですか」
岡崎 「そうですね。黄河流域と揚子江流域の間あたりで分割された可能性がありますね」
福地 「日本の中国進出には、そういうことを阻止した面もあったわけです。ところが、小学校六年生の社会科の教科書には、南京大虐殺を匂わせる記述が必ず入らないといけない状態になっています。上海事変から南京攻略まで、写真入りでかなり詳しく書いてあって、非戦闘員である中国の婦女子、あるいは無辜(むこ)の民を凌辱したと書いてあるわけです。戦争ですから、そういうこともあったでしょうが、そういうことばかりを教科書で子供たちに教えている国というのはないと思いますね」
「世界大戦の悲劇が強烈だっただけに、日本は戦争というものに対してアレルギーになり過ぎたんですね。すべて戦争は悪ということになってしまった。…戦争というのはいいものじゃないですが、やむにやまれぬ状況での戦争なんです。自分たちの母国を守りたいというのは人類の本能で、それは二十一世紀になっても変わらないと思うんですね。ところが、日本の戦後教育は、その本能が間違いだとずっといってきている。それで日本は生き残っていけるんでしょうか」
「戦後の歴史学というのは、現代のフィルターをかけて、そこに合わせ過ぎちゃっているんですね。当時の人はなにを思って、なにをやっていたのか。似たような言葉でいっているんだけれども、その言葉そのものの概念がかなり違うわけです」・・・・・
 
この福地先生のご発言は全くその通りであり、何も問題などありません。
近隣国から付け入られる近隣諸国条項こそ問題なのであります。
この月刊誌が出た時は何も騒がれずにいました。しかしその6ヵ月後、江沢民が来日するに当たり共同通信がこの座談会を配信し、朝日新聞を筆頭にマスコミが騒ぎ出したのです。
すると元東大教授である有馬文部大臣は「実にけしからん発言だ」と言って福地先生を更迭しました。文部省は福地先生を文書による厳重注意処分にした上で教科書調査官を解任し初等中等教育局付にしたのです。
 
これに対し反日左翼団体はこのような声明を出しました。
 
昨年11月に一連の不穏当な言動によって教科書調査官を解任された福地惇氏が、今年4月1日付をもって初等中等教育局視学官に任命された。私たちは、検定中の申請本の内容を一方的に公表して守秘義務に違反した福地氏を、文部省が視学官という重要な職に任命したことに抗議する。
私たちは、福地氏がすでに表明しているような、政府の公式見解とも矛盾し、国際的にも通用しない特異な歴史観にもとづいて、視学官としての立場から地方教育行政や教育実践研究などを指導したり、学習指導要領の伝達講習にあたったりするのであれば、その弊害はきわめて大きいものとなることを危惧するものである。
私たちは、福地氏が視学官としての業務を行うにあたって、公務員として当然守るべき日本国憲法の平和・民主主義の原則とその原点である侵略戦争の反省の立場を堅持することを求めるものである。また文部省は、すべての文部省職員が、日本国憲法・教育基本法の原則に立ってその業務を行うよう、指導を徹底すべきである。 私たちは、上記の当然のことが実行されるよう、ひきつづき監視を強めることをここに表明する。
                                                                                    1999年4月23日 
                                                                                           「教科書に真実と自由を」連絡会 
                                                                                            子どもと教科書全国ネット21   
                                                                                           日本出版労働組合連合会     
                                                                                            歴史教育者協議会         
 
 
以上の経緯、皆さんはどのように思われたでしょうか。
 
・・・・・・
 
  *人気ブログランキング(歴史部門)に参加しています。
      ここをポチッとご協力お願い申し上げます。
 

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

イメージ 1
 
 
「天皇制」という言葉を使っている人がいます。また、ある意図をもって使っている人もいます。
しかし、日本人として、この「天皇制」という言葉は使うべきでないでしょう。
『天皇制という呼称を使うべきではない理由』という谷沢永一氏の著書があります。
ここから一部抜粋して記事とさせて頂きます。・・・・・
 
世には、皇室に反感を抱いている方もある程度は見かけます。
その方々の信念を尊ぶこと決してやぶさかではありません。
単に見解の相違として袂を分かつのみに終わります。
しかし、皇室を敬愛することひとかたならぬ人なのに、事情をご存知ないものだから、胸中に崇信の念を持ちながら、「天皇制」という呼称を無意識で、何の気なしに使っておられる方々が少なくありません。
 
「天皇制」という言葉はもともと日本にはない言葉であります。
この言葉をはじめて使ったのは1922年(大正11年)1122日、コミンテルンが日本の労働者階級に呼びかけた次のような挨拶でありました。
「武力干渉と天皇制の政府とに対する日本の広範な労働者大衆の益々高まりゆく憤激の結果であった」
このソ連のコミンテルンというのは、世界共産主義革命の実現を目的とする共産主義者の国際組織であり、日本に対しては天皇を否定し”制度”にして解体することを目論んでいました。
 
そして、大正12315日の日本共産党の秘密会議で討議された革命運動の行動綱領にはじめて「天皇制」と書き込まれたのであります。
この呼称を共産党は決して外部に漏らしませんでしたが、昭和8年前後の一時期だけ非合法のプロパガンダに用いましたが、さっぱり効果はなかったのです。
共産党員でない日本の一般国民は、昭和201020日の『赤旗』第一号に「我々の目標は天皇制を打倒して」と記されるのを見るまで「天皇制」という言葉があることも知らなかったのです。
我が国は日本神話の天地開闢(てんちかいびゃく)以来、「天皇制」という不敬な呼び方を使ったことはありませんでした。日本人が言い出したのは昭和の戦後以降であります。使わせようとしたのは共産主義者や左翼の我が国体破壊を目論んだ連中でありました。それを何も知らない国民は自然と使うようになってしまったのであります。
 
これを見てもわかる通り、この「天皇制」という言葉はソ連共産党が指導して、世界革命を目指すコミンテルンによる造語であり、共産主義の天皇抹消の闘争目標である「天皇制打倒」、「天皇制廃止」と言いきる時に使われた言葉であり、天皇陛下を罵り、辱しめ、貶め、いやしめ、憎むための言葉であります。
天皇陛下は制度によっているものでもなく、機構に属しているものでもありません。我が日本の国体そのものであります。ゆえに「天皇制」という呼称は事実に即していない間違いであります。
しかし、保守の振りをした転向者は、この「天皇制」は使うことは間違いではないと言います。決して惑わされることないように注意したい。
 
我が国の皇統が確立して以来、天皇という尊称は揺るぎなく一貫して続いているのです。
『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』、『続日本紀』、いずれも等しく、天皇(すめらみこと)、または天皇(てんのう)と読み慣わしていました。
北畠親房は『神皇正統記』の冒頭に、「大日本者神国也。天祖(あまつみおや)・・・・」と記し、皇統一系、皇胤一種である伝統は唐天竺(からてんじく)よりも優れた文化を保持している事実を強調しており、天皇を崇敬することは日本人として途絶えぬ本性であったわけであります。
天皇陛下を、そして皇室を「天皇制」などと天皇抹殺を意図した共産党、コミンテルンの悪意に基づく呼び方は二千年を通じてどこにも見当たらないのであります。
 
我が国は天皇陛下と申し上げる以外、他に呼称はあり得ません。
真っ当な日本国民はこの言葉の意味することを理解し、断じて「天皇制」という言葉を用いるべきではありません。
 
 
イメージ 2
 
 
・・・・・・・・・
   *人気ブログランキング(歴史部門)に参加しています。
      ここをポチッとご協力お願い申し上げます。
 
 

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

開く トラックバック(1)


.
さざんか
さざんか
女性 / B型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(19)
  • 敬天愛人
  • 近野滋之
  • pritomo
  • たけし
  • うまやど
  • エンゼル
友だち一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
お肉、魚介、お米、おせちまで
おすすめ特産品がランキングで選べる
ふるさと納税サイト『さとふる』

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事