|
35年くらい前の雑誌からの転載記事です。江戸時代の松代藩の家老恩田木工についてのエッセイですが、この恩田木工という政治家の非常に誠実な人柄には、現代の政治家との違いが大きすぎて、これを読んだ後に現代を振り返ると、おそらく今の日本で政治が何かを成功させることは何も出来ないであろうと思ってしまいます。
岩波文庫の「日暮硯(ひぐらしすずり)」は恩田木工の業績を記録した極めて短い小冊子にすぎないが、彼の政治家的人間像があざやかに描きだされていて、むかしはかかる政治家のありけるよと感歎せずにはいられない。 時は九代将軍徳川家重の頃、信州松代藩は藩主真田信安の政治がルーズで悪臣がはびこり、贈収賄が横行し、そのうえ千曲川の洪水が打ちつづき、地震の被害も大きく、財政は極度に窮乏していた。信安の子幸弘が松代十万石を継いだとき、まだ十三歳の少年だった。しかし、この藩主がずば抜けて英明だったので、十六歳のとき、恩田木工を登用して藩政の改革と財政の立て直しを断行せしめた。このとき木工は藩の重役の末席にあり、まだ三十九歳だったが、この人物を見込んで藩政を一任し縦横に腕をふるわせたのは名君の器量というべきであった。 藩主幸弘は恩田木工登用の腹をかため、江戸表にて親族会議を開いて承服せしめ、然る後早飛脚をもって重臣らを非常招集し、その際恩田木工を必ず同道せよとの命令を発した。 この評定の場で幸弘は、自分も若いし恩田も若いので、汝ら老臣の協力が必要であると言って、一同を納得させた。このとき恩田は、この大任には堪え難いと答えて辞退申し上げたが、幸弘の言うには、「わが藩の窮乏は幕府に知れわたっており、たとえ汝の力及ばずして財政の立て直しができなくても、汝の失態にはならぬ。この際、辞退に及ぶは不忠というものであろうぞ」と。 そこで恩田は一大決心をして、「この役をつとめるには、ここにお集まりの重役や御親類が私の申すことにたいし、そうではないと異議を言われてはなにもできませんゆえ、拙者の申すことに背くまじきことを書付で提出願いたい。そのかわり拙者に不忠の儀があれば重罪に処していただく旨の誓紙をお渡しする」と提案し、藩主の前でこれを実行した。 恩田が信州に帰って、第一にやったことは何であったか。藩政は紊乱(びんらん)し、百姓一揆が頻発し、この時代にはめずらしい下級武士の同盟罷業まで起こっているまっただ中で、彼は先ず何から手をつけようとするのか。 親類及び家の子郎党を一人残らず集めて、ことの次第を述べ「このような大任なれば、一同是非なきことと覚悟されたい。すなわち、先ず拙者の女房には暇をつかわすゆえ、直ちに実家に帰るがよい。次に子供は勘当するゆえ、いずれへなりとも立ちのくがよい。なお、親類は以後義絶するゆえ、さよう心得てもらいたい。最後に家来どもには残らず暇をくれるゆえ、どこへ奉公しても勝手である」と申しわたした。 親類衆は合点せず、「御内儀、子供衆、家来などに、いかなる不届きがあって暇つかわされ候や」と詰め寄った。 「いや、不届きは全くない、けれども、これから拙者のなさんとすることに邪魔になるから離別するのでござる」 「木工どのには狂気なされたか。たとえ破滅寸前の当藩とはいえ、大任を仰せつかっただけで何の不始末もないのに親類を義絶し、女房を離別し、子供を勘当し、家来に暇を出し、以後はただ一人で暮らす所存とは、いよいよ以て狂気の沙汰でござる」 「いや、狂気してはおりません。ただ役職にたいして邪魔になるだけのこと。一人になったあとは、誰か召使いをやとって暮らすことに致しましょう」 このとき、恩田夫人が口を開いて、次のように言った。彼女は松代藩の家老、望月治部左衛門の娘である。 「主人の役職に邪魔ということなら、離別はやむを得ません。ただ、どのようなことで邪魔になるかをお話くださいませ。それを得心させていただいたら、私は覚悟いたします。さもないと、親許へ帰ったとき、何と申してよいかわかりません。子供にも、わけを話して、そのうえで勘当してくださいませ」 彼女は、こう言って涙を流した。 「わけを話したとて一同得心はすまいと思ったので、何も言わぬが決心だったが、そのように言うなら、打ち明けましょう。拙者は以後、どのような事情が生じても、虚言(うそ)は決して言わぬことにしました。それを先ず藩の内外に宣言せねばなりません。ところが、私に最も近い女房、子供、親類、家来が虚言を一つでも言ったら、あれを見よ、木工の申せしことも、今までの通り信頼できぬと言われるにきまっております。そんなことでは、改革など思いも及ばぬことゆえ、つらいけれども義絶の決心をしました」 「もうすこしわかるようにといわれるなら、たとえばわが家では毎日飯と汁だけ食べるつもり、また着物は今まであるものが使えなくなったら全て木綿にするつもり、そうなれば、みなみな少しは虚言を言って、こっそり何か食べたかろうし、なにか木綿以外のものも着たいだろう。虚言を言わぬことは、なかなかむつかしく、常人にはとてもできぬことでござる」 このとき夫人が言われるには、「そんなら、以後虚言は決して言わず、飯と汁以外は食べず、木綿以外は着ないことにすれば、離別しないでも御政治向きの邪魔にならないでしょうか」 「それが出来たら、邪魔にはならぬ」 「そんなら、私どもはそれを必ず実行します」 「いやいや、考えてみるがよい、家来どもに暇を出したら、自分で水を汲み習い、自分で飯を炊かねばならなくなるぞ」 「はい、私は今日からそれをいたします」 「そうまで言うてくれるなら、女房を去る理由はない。しかし、子供はそうはいくまいから、立ち去るがよい。路銀は相応にやるから、当分は困らぬ」 「御父上様、私も虚言は言わず、決してかげでうまいものを食べたりしません。どうぞ勘当は御許しください」 さて、家来たちの申すよう、「私共も決して虚言を言わないことに致します。飯と汁とだけではいやだと言って暇をいただいたとあっては、どこへ行っても使ってくれるところはありません。どうぞ御慈悲を以て、今まで通りお抱(かか)えくださいませ」 「それ程に申してくれるなら、今まで通り働いてもらい、給金も従来の通りにする」 「いいえ、給金はいただかなくても、食べるものさえいただけば結構でございます。着物は持っておりますし、着れなくなったら旦那さまの古着なりとも拝領いたしますから。御困窮のことは私どもも知っておりますから、御給金はいただきません」 「それには及ばぬぞ。拙者の知行は千石だ。飯と汁だけにすれば不如意はなく、残りは御上に差しあげるだけだ。その方どもも、妻子を養わねばなるまい。給金は受け取ってもらわねばならぬ」 ここにおいて、家来たちは涙を流して喜び、「重々有り難き仕合せに存じ奉り候」と起請申し上げた。 かくて親類の人々も「木工どのがそれほどのご決意なら、わが家でもその通りにいたす」と言った。これに対して木工が言うには、「それはありがたい。それなら義絶せずとも相すむ。しかし、御家内まで飯と汁だけにせずとも、ただ虚言さえおやめになったら拙者の邪魔にはなりません」そこで一同は「それはまことに忝(かたじけ)なく存じ奉る」と言って、すべての合意が成り立ったのである。 この一段の終わりに「右の通り、江戸より帰国すると直ちに自分の親類を最初に堅められしは、前代未聞の賢人なり」とある。 政治的大改革を断行せんとするに当たって、先ず自己及び近親の生活の姿勢を堅めたのだ。これは東西古今を通じて変わることのない第一義である。 その堅め方がきびしくて容易に実行できることではないので、上に述べたような話し合いが必要だったのである。 自分に最もきびしく、ついで妻子、親族、家来の順にきびしく、しかもその中に愛情がにじみでているのがわかる。 今の政治家のように、国民にさきがけて、お手盛りで歳費を値上げし、通信料金が高くなるとおのれたちだけ勝手に大幅に手当を増額したのでは、政治にならない。それは政治ではなく商売だ。しかし、商売なら商売の厳しさがあって、そんな一人よがりのやり方では繁盛はしないものである。すると、昨今の政治家の姿勢たるや、商売よりも遥かに低級だということになる。 えらくなるにつれて、一家一門を今をさかりと繁栄させる。それはなかば公然と、なかばこっそりと裏に回って工作される。こうしたことは政治屋たちを脛(すね)に傷のある人間にする。すでに脛に傷のある人間だ。どうして国民に向かって厳しいことが言えよう。だからこそ、国民の低次元の要求にこびへつらって、人気をかせぐだけの存在にならざるを得ないのだ。実体がそうでありながら、口先で改革を叫ぶのだから、喜劇とやいわん、戯画とやいわん、全く以て鼻持ちならぬとはこのことである。 その内に国民の方もそれに馴れて、政治とはそうしたものだと思い、いっそ政治屋どもを使って低級な利己的欲望に奉仕させてやろうとするようになる。こうなると、やがて行き詰まって精神は荒廃し、不平不満は渦を巻き、正直な者は困窮し、自暴自棄になった者どもが暴走するようになる。 虚言を言わないということを以て、第一としたのは、改革者として素晴らしいことであった。できもせぬことを公約して、政治屋どもは大衆を騙してきたのである。あの頃の真田藩では年貢を取り立てても焼け石に水だったので、一年先の年貢を取り立て、それでも足りないので二年先の年貢まで取り立てた。そうして、そのたびに、必ず返却すると誓った。それはすべて、できないことだったので、最初から騙しておったのである。二年も三年も年貢を前納した者は、泣き寝入りするか、後ろへ廻ってこっそりリベートを要求するかのどちらかである。これを断ち切るには、虚言を言わないことを身を以て実行するほかはない。 改革のエネルギーは、嘘つきからは出てこない。恩田木工は、それを知り抜いていたのだ。「前代未聞の賢人なり」とあるが、この賢人は、実に当たり前のことを当り前に実行して、先ず足元から堅め、いざ政治の大改革という着手のときには、身辺に後ろ指をさされるようなことが一点もないように堅めておいたのであった。 こうしておいて、それから老職、役人を招集して、次第に改革の準備にとりかかる。なにしろ脛に傷のある者どもだから、改革がどう断行されるか、そのとき我が保身の術はどうすればよいかと緊張の極にある。その中に恩田木工は乗り込んで行く。 つづく
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2011年10月10日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]



