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鈴木重成は鈴木正三の弟であるが、島原・天草の乱の時に、鎮圧の総大将松平信綱の部下として戦い、乱は寛永十五年春に鎮圧された。そして天草はその後幕府の直轄地となり、初代天草の代官に、鈴木重成が任命された。重成はすぐに「島の復興」計画を立てた。この時に、「農民の心の復興も大切だ」と、兄の鈴木正三に精神的指導を頼んだ。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/dc/041a46d3e2fcc561b9ba6f699ba63e2e.jpg 鈴木重成 激戦の続いた天草は、住む人も少なく荒廃の極みにあった。そこで正三と重成は、農村組織を再興し、他地域からの移民を受け入れ、またキリシタンによって破壊された寺社の復興に努めた。正三の属する曹洞宗の寺院だけで32寺が建立された。またそれ以外の宗派にも「布教勝手たるべし」と、伝教の自由を保障したので、広く仏教が行き渡ることとなった。 いかにも正三らしいのは、キリスト教の教義を批判した「破吉利支丹(は・キリシタン)」を著し、自ら筆写して各寺院に納めた事である。 その中には、こんな一節もある。 破して言う、デウス、天地の主にして、国土、万物を作り出したまうならば、何としてそのデウス、今まで無量の国々を捨ておいて、出世したまわざるや。 本当に全知全能というなら、なぜ今頃、のこのこと日本に現れて来たのか。キリストの教えに帰依せずに死んだ人は地獄に堕ちると言うが、キリシタンが日本に伝わる前に亡くなった日本人はどんな善人でも地獄に堕ちるというのも、全能の神らしからぬ手落ちではないか。 日本の神仏の教えのように、生きとし行けるものは、すべて「神の分け命」であるとか、仏様から億分の一の「仏性」を与えられている、という方が、現代の遺伝子理論にも親近性があり、よほど合理的だろう。 また正三は、キリシタンは奇特(奇跡)を尊び、これで民衆をたぶらかすとして、 破して言う、奇特なること尊きならば、魔王を尊敬すべし。この国の狐狸も奇特をなす。・・・経にいわく。三世の諸仏を供養せんより、一箇無心の道人を供養せんにはしかじと説きたまえり。仏道修行の人は、この道を学ぶなり。さらに奇特を用うることなし。 奇跡を尊ぶというなら、魔王や狐狸も奇跡を行う。仏道修行は、一心に道を求める人を供養する道を学ぶ。万人が自らの職業に打ち込むことで、自身に内在する仏性を開発するのが、仏行である。別に奇跡など持ち出す必要もない。中世的なキリスト教信仰に対する正三の近代的合理性に基づく批判である。 正三が天草を去った後、法兄として尊敬していた名僧・中華珪法が後を継いで、17年も仏法復興の仕事を続けた。その赴任の直後、代官重成の配慮によって反乱者を含む犠牲者の供養碑が建てられることになり、その碑文を中華珪法が撰んだ。その碑文の最後には、次のような一節がある。 仏様の前では、敵だ味方だ、賊軍だ官軍だなどと、そういったものはいっさいない。死んでから先まで何の罪があるか。そんなものは何もない。 異教徒を殺害し、その寺社や墓を破壊することが神に奉仕する道であるとしたキリシタンの教えよりもはるかに近代的な考え方である。(もっとも、現代でも、靖国神社に「A級戦犯」を祀ることを怒る前近代的感情を持つ近隣諸国もあるようだが。) 鈴木重成は、また天草が元は唐津藩主寺沢家の飛地で幕府はこの土地に四万石の査定を行なっていたのだが、この石高が高く査定されすぎているのではと思い始め、過去にさかのぼって天草等の年貢関係の書類を調べた。どう調べても、とても四万石の査定は高すぎる。重成は村役人たちと相談した結果、 「たとえ天領となっても四万石の年貢は島民には納めきれない。半減してもらうように陳情しよう」 と思い立った。重成はしばしば江戸に行き幕府に願い出た。しかし幕府の対応は冷ややかだった。幕府にしても、「天草島の年貢の査定は過重であった」と認める訳にはいかない。そんなことをすれば、同じような状況にあるほかの天領からドッと陳情が押し寄せてくるにちがいない。その処理も面倒だがそれ以上に、 「幕府の査定は間違っていた」ということは口が裂けても言えない。いきおい重成へのあしらいは冷ややかで、あからさまに迷惑がった。しかし島民の困窮を思えば引き下がる訳にはいかない。何年も陳情活動をつづけた。かつての主人松平信綱にも頼んだ。信綱は今は老中筆頭である。重成にすれば主人がそこまでえらくなっているのだから何とか口をきいてくれると思ったが、逆だった。老中筆頭の立場で、幕府の年貢額は間違いであった、とは絶対に言えない。やがて重成は幕府の首脳部を見限り心を決する。それは、 「自分の死をもって、この嘆願の目的を貫こう」ということである。承応二年(1653年)十月十五日、鈴木重成はその嘆きを遺書に残して自刃した。 重成の思いに心動かされた幕閣の重臣がいたのであろう。本来ならば、お上の意向に逆らったものとして、お家断絶にされても仕方がない所であるが、重成の死は病死として扱われ、その子の重祐(しげすけ)が家督を相続することを許された。 しかし、重祐はまだ23歳で、問題の多い天草の代官を継ぐのは荷が重すぎるので、無難な大和の代官に任ぜられた。かわりに選ばれたのが、正三の実子ながら、その出家の後、重成の養子となっていた47歳の重辰である。 ところが重辰は2百石の家禄で天草の代官にするには格が低すぎる。そこで重辰はしばらく京都の御所造営などを任され、5百石に加増された上で、天草の第2代代官に任ぜられた。この間、2年間、天草の代官は空席とされていたという。なんとも周到かつ温情あふれる措置ではないか。 重辰は養父・重成の悲願を受け継いで、幕府に年貢半減の上申を繰り返し、ついに万治2(1659)年にその許可を得た。養父・重成と実父・正三が天草に赴いた年から数えて、実に17年後である。 http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/b8/55356c27e4ec09e46c46cf07484ef814.jpg http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/82/bbe34f57ce8b2d6133da9d5866038ff7.jpg 天草の人々は、「自分たちの暮らしがあるのは、鈴木様のお陰」として、島内の各地に鈴木大明神とか、鈴木塚を設けて祀った。さらに正三・重成・重辰を祭神として、天草地方最大の境域を持つ鈴木神社を造営したのである。一時期は、この神社の分社が島内に三十いくつもあったという。それほど重成の、「島民を思う誠実さ」が人々の心を打ったのである。お坊さんである鈴木正三が、神様として神社に祀られているのも、いかにも日本らしくて面白い。 http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/19/a1615bae3d6e8e87b007a92eaa529f7e.jpg 転載及び引用元 国際派日本人養成講座 童門冬二 「年貢半減を願って自刃―――鈴木重成」 |
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2011年10月22日
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和文化が子供達の感性を育てる
ある不登校の女子高生が、偶然にも触れた茶道によって、段々と心が落ち着いてくると
、人との関わりもスムーズになったという例があります。
脳科学から見た子供の発達では、様々な場面で、子供の脳を測定し、その活性度を 見るのですが、茶道を幼稚園児に学ばせると、脳の前頭前野に、良い影響を及ぼす
ことが証明されています。
また小学生の子供の和太鼓練習の中で、特徴的なことは、最初に太鼓を叩く子供に
続いて、次の子がその音に合わせて太鼓を叩く、つまり共鳴して「共感性」が育つ
ということです。
最近では、重度の障害児に対して和太鼓の指導を施し、太鼓の音に手が動き出し、 段々と脳が活性化していったという例があります。
子どもたちの「感性」を育てる時、心に落ち着きを持たせ、人間性知性の育成や、 共感性を育むという面で、日本の伝統文化は、大変に役立つのです。
「三つ子の魂 百までも」 「しっかり抱いて 下に降ろして 歩かせる」 岡潔(おか きよし)が「日本人は心の民族」と言ったようにこの国の人々は、心や
情緒といったものを大切にしてきたのに、それがどんどん崩壊している事が、近年
相次いで起きています。その意味で教育基盤そのものを、どうやって変えていくのか
という事を今、考えていく必要があるのではないでしょうか。
親が親らしくなくなってしまえば、子供は「優しさ」を学ぶチャンスを失う事に
なります。「育む」という字は「羽で含む」というのが語源で、親鳥が子供を抱きしめる
愛着によって、心が育つという事なのです。まず親に対する
一番目のメッセージは、「しっかり抱いて下に降ろして歩かせる」が子供への
関わり方の基礎基本だという事です。
二番目は「脳には臨界期がある」ということ。 三番目、は千利休の残した「守破離(しゅはり)」という言葉です。 子供は一番信頼出来る大人に甘え、依存して、やがては反抗しながら自立していきます
。この甘えて依存するという段階が愛着で、「三つ子の魂、百までも」と言ってきたのです。また「しっかり抱いて下に降ろして歩かせる」という意味は、「しっかり抱く」という
段階は「愛着」で、「下に降ろす」は「分離」、そして「歩かせる」は「自立」でこれが
子供の発達過程なのです。
しかし家庭で抱きしめられる事がないのに、学校で思いやりを持ちましょう、
人権を尊重しましょうと言われても、右の耳から左の耳へと抜けるだけなのです。 今、日本の子供達は、十分に親に甘える事が出来ないし依存出来ない、それから
反抗出来なくなっている子供が増えています。それは昔から比べると、母性的な
関わり、父性的な関わりを持つ事の出来るお父さんやお母さんが少なくなってきて
いることが影響しています。
また脳の臨界期とは、三歳までに脳細胞は六割程度が完成してしまうということで、
「三つ子の魂、百までも」という諺が、最先端の科学によって再発見されたのです。 日本人が古くから言ってきた知恵というのは、実は脳科学の問題提起と繋がって いるのです。その意味で日本の伝統、子育ての知恵というものを、創造的に再発見
する事も課題なのではないかと思います。
千利休の残した「守破離(しゅはり)」についてですが、形から入って躾をすると
いう事が、教育界では、押し付けだとか、強制になるという方もいますが、
歴史文化の中で受け継がれてきたもの、形の奥にある心に気付かせる事が大切な ポイントなのではないでしょうか。
「規矩作法、守り尽くして破るとも、離るるとても本を忘るな」、 「離れる」という段階が自分らしさや個性、創造性の段階なのです。 戦後は個性尊重と言ってきましたが、そのベースとなるものは「守」なのです。
日本の伝統文化には、「形」というものが貫いています。茶道、華道、剣道、柔道と 「道」の付くものは、最初に形の継承から始めますが、それは子供の興味関心で
選択する事は出来ないのです。「俺流で受身は嫌だ」と思っても、それは無理な話で、
必ず基本の型というものを継承しなければならない、これが教育の出発点
なのです。
家庭においても、形の継承である「躾」というものを、親がしっかりと教えなくては
ならない。「身を美しくする」というのは形から入る訳ですが、その形を守り、
破り、そして形から離れる・・・というのが本当の個性や創造性なのです。
続く
高橋史朗先生講演より
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金剛力士 「阿形」(法隆寺)
金剛力士の役割は、寺院などの境内を守るために忿怒(ふんど)の形相で門の前に立ち悪などの出入りを防いでおり、もともと1体でしたが、門の両脇におくことで2体になり、そこから「仁王」と名が付けられたと考えられています。
この仁王は、正面から見て左側が「吽形の像」と呼ばれ、右側が「阿形」と呼ばれます。これは、阿はア行の始まりで、吽は「ん」のことで、最初と最後、つまり始まりと終わりを意味しています。阿形像は今まさに仏敵を威嚇攻撃している様を表現しており、吽形の方は仏敵が襲ってくるまでの小休止で休めの姿勢と言われています。
阿吽(あうん)とは、上述のように、阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされた。2人の人物が呼吸まで合わせるように共に行動しているさまを阿吽の呼吸、阿吽の仲などとも言います。
金剛力士 「吽形」(法隆寺)
筆者は、金剛力士の記事を紹介しているのではありません。
筆者が政治を見る形相(形相)が金剛力士の面(おもて)になっているのです。
今日の読売新聞に、「福島の仮設世帯、7割 仕事してない」の記事に忿怒(ふんど)しているのです。
以下にその記事を引用します。
震災と東京電力福島第一原発事故で、福島県内の仮設住宅で暮らす世帯のうち、家計を支える立場にありながら仕事に就いていない人が7割近くに上ることが20日、県の調査で明らかになった。 先日、祖国「日本」、故郷「福島」を愛し、国を憂い、志半ばにして逝去された、筆者が師とも仰いだ敬天愛人大兄の絶筆、「月日だけがいたずらに過ぎて行く」の中で、荒廃してしまった政治家の資質、国の怠慢さを憂い、風評被害に苦しみ、死活問題となっている「福島」の現状を、切実に訴えておられました。
上記の読売新聞の引用記事がそれを語っています。
ガラクタに等しい民主党政権震災後何をやってきたでしょうか?
いたずらに時間を浪費し、権力闘争に明け暮れ、政権にしがみつく保身しかしてこなかったのではないでしょうか?
「復興、復興」と掛け声だけで、アクセルを踏もうともせず、今やらなくてもいいことばかりに重心をおいているのではないでしょうか?
被災地、とりわけ福島の被災者の方々は、家族を失い、職を失い、収入を絶たれ、家を失い、原発周辺の方々は先祖伝来の田畑まで失ったのも同然の状態です。
敬天愛人大兄は、記事の中で「7ヶ月経っても、何も変わらない」と嘆いておられました。
「7ヶ月経っても、何も変わらない」ことは、これから先急転直下、事態がいきなり好転することなど到底望めるはずもないでしょう。
辛抱強い、被災地の皆さんの「気力」も限界があるでしょう・・・
いづれ、生活資金、事業資金も枯渇してくるでしょう。
東北の皆さんだから、暴動やデモが起きないといっても過言ではありません。
政治の怠慢により、今後被災地に起きることは、政府民主党による「人災」です。
国難である時だからこそ、愚か者たちに政治を任せてはならないのです。
筆者は、阪神淡路大震災を経験し、兄弟が被災しましたが、明らかに「復興」の歩みが遅すぎます。メディアは東電を叩き、本質を報道しようともしませんが、責任は政府にあるのです。今の政府なら、素人でもやれます。同胞を護ろうという意欲、意識すら感じられません。
国民はもっと怒るべきです。金剛力士のように・・
そして、阿吽(あうん)の呼吸で政治のできる人材に国を託さなくては、国は再生しないでしょう。
憚りながら、民主党は傾城傾国(けいせいけいこく)の政権です。
交代せねば、まさに「亡国」です。
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教育勅語
明治23年(1890年)10月30日121年前の10月30日、明治天皇陛下より「教育ニ関スル勅語」が渙発されました。
荒廃した今日の日本社会、およそ日本人の政党ではないのではないかと疑いたくなる民主党政権の横暴、国民、権力と化したマスコミ、東日本大震災後の風評被害、すべて戦後教育の歪みであります。
素晴らしい人材を輩出し、崇高な精神を誰もが持ちえた戦前の日本と戦後日本を考え、教育勅語の日を迎えるにあたり、今一度、教育についてご考慮いただけたらと思う次第です。
また、「教育勅語の日」の復活を強く願うものであります。
以下明治神宮HPより引用
引用終わり
明治天皇陛下による「教育ニ関スル勅語」は戦前まで日本国民の精神を培った教育基本法ですが、これは明治天皇陛下が新たに決めたものでもなく日本古来からの伝統であり教訓をこれを普遍的に続く道徳であるとして、明治天皇陛下みずからも努力して実践しようではないかと国民に呼びかけているものであり、陛下が一方的に国民に押し付けたものではありません。
戦後敗戦国となった日本は連合国に「教育勅語」を廃棄・失効させられ、これに代わって日本人の魂を狂わせ、戦後の教育や社会が悪化・堕落するように周到に仕掛けてあった社会科教育などの占領政策である。
現在の70歳以下の国民は戦後の教育で育ち現在の教育に何ら矛盾を感じないのです。
戦前は社会科という教科はなく、「修身・地理・歴史」という教科で学びました。
連合国は日本の精神の強さ、気品ある国柄を恐れ、再軍備し再び米国に立向かわないよう教育の場から「骨抜き」にしてしまったのです。
占領期間はわずかな期間で終わりましたが、占領政策に関しては倍の年数をかけています。
なぜなら、占領政策は「魂の原爆」となって、二度と米国に刃向かわないよう属国とし、日本の戦後60年の間、社会や教育悪化に深刻な影響を及ぼす骨抜き政策だったのです。
教育勅語こそ、先祖代々・明治以来百年の父祖の精神、品格ある国家と品格ある日本国民を生んだ大本だったのです。 連合国は、日本人を恐れ「教育ニ関スル勅語」を恐れたのです。
現在連合国の罠にまんまと嵌り、もがき苦しんでいます。
お国柄を忘れた夢遊病者のように・・・・
朕(ちん)惟(おも)ふに 我が皇祖皇宗(こうそこうそう) 国を肇(はじ)むること宏遠(こうえん)に 徳を樹(た)つること深厚(しんこう)なり 我が臣民(しんみん) 克(よ)く忠に克く孝に 億兆(おくちょう)心を一(いつ)にして 世々(よよ)厥(そ)の美を濟(な)せるは 此(こ)れ我が国体(こくたい)の精華(せいか)にして 教育の淵源(えんげん)亦(また)実に此(ここ)に存す
爾(なんじ)臣民(しんみん) 父母に孝に 兄弟に友に 夫婦相(あい)和し 朋友(ほうゆう)相信じ 恭儉(きょうけん)己れを持し 博愛衆に及ぼし 學を修め業(ぎょう)を習ひ 以(も)って智能を啓発し 徳器(とくき)を成就(じょうじゅ)し、進んで公益を広(ひろ)め 世務(せいむ)を開き 常に国憲を重んじ国法に遵(したが)ひ 一旦緩急あれば義勇公に奉じ 以って天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運(こううん)を扶翼(ふよく)すべし 是(かく)の如(ごと)きは 独(ひと)り朕が忠良の臣民たるのみならず 又以って爾祖先の遺風を顕彰(けんしょう)するに足らん
斯(こ)の道は 実に我が皇祖皇宗の遺訓にして 子孫臣民の倶(とも)に遵守すべき所 之(これ)を古今に通じて謬(あやま)らず 之を中外(ちゅうがい)に施(ほどこ)して悖(もと)らず 朕爾臣民と倶(とも)に挙々服膺(けんけんふくよう)して咸(みな)其(そ)の徳を一(いつ)にせんことを庶(こ)ひ幾(ねが)う
明治二十三年十月三十日
御 名 御 璽
園児達の教育勅語の暗誦が素晴らしい動画です。
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