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動画は是非ご視聴ください。
本年7月7日に投稿した記事の再記載です。
本日、ポール・リシャール『告日本国』 を再記載しましたが、師と仰ぐ愛国者、さくらの花びら大兄さまが、拙記事にコメントいただきました。
「日本人はよくこの言葉をかみしめて、先人の偉業を知り、これに恥じぬよう日本国のために尽くすべきです。」と・・・・・
たった一世紀前の先人は素晴らしかった。
まるで別の国のようになってしまった日本。
とても哀しく思います。
さくらの花びら大兄さまが仰せのとおり、現世の我々は恥を知り、先人の偉業を継承すべきです。
今ならまだ間に合います・・・同じ日本人のDNAが流れているのですから・・
以下本文
戦後の徹底したGHQ、反日勢力によって情報操作され、日本人が祖国を最もひどい差別、悪い国だと未だに信じている多くの国民がいます。
インターネット等の普及により、今まで我々の目に触れ無いように隠されていた事実が少しずつではありますが、明るみになっています。
米国は現在でこそ、オバマ大統領の誕生など、自由と民主主義の国、あるいは人権の擁護者のように振舞っているが、その根底は、人種差別と奴隷制度によって支えられて来た国である。人が人を犬のように鎖につなぎ、あるいは、家畜のように市場で品定めをして売買する。ヨーロッパ人が言う、キリスト教的な博愛とは、「同じ宗教を信ずる白人同士に限られた話」であり、異教徒や有色人種は、当時、博愛の対象ではなかったのです。
博愛が、全人類的博愛であれば、宗教戦争も、世界の植民地化もありえない事であったはずです。
アメリカと言う国は、歴史的に調和を欠いた国です。白人と黒人、白人とインデアン、キリスト教徒とユダヤ教徒、黒人と韓国人、韓国人と日本人、さまざまな対立と闘争が、ずっと繰り広げられてきた。また、アメリカの歴史とは、開拓の歴史であり、開拓の歴史とは、すなわち侵略の歴史なのです。
第一次大戦後、戦後処理を行った「パリ講和会議」(1919年1月18日開会)において、アメリカ全権であったウイルソン大統領は、世界秩序回復の為の、14か条を提唱。
この会議には、日本からは、西園寺公望侯爵、牧野伸顕男爵ら64人の代表団を送りました。そして日本代表団は、、「15番目の提案」をしました。それは、「国際連盟の盟約として、人種平等の原則が固守されるべき事」と言う提案でした。
当時、唯一有色人種の国家として、「五大国」と呼ばれ、先進国の仲間入りをしつつあった日本でしたが、人種的偏見によって不当に扱われるのを避ける狙いもありましたが、1919年当時としては、「人種差別を撤廃する」と言うのは非常に画期的な主張でした。
当時アメリカで人種差別と闘っていた、「全米黒人新聞協会」は、「我々黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである」、「全米1200万の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」と賞讃さえしています。
同上の動画をご覧いただいた方にはすぐ理解していただけますが、米国大統領ウイルソンは、この法案の投票結果が賛成多数となると、突如、このような重要法案は、「全会一致でなければならない」として、「不採決」を宣言し、日本の提出した「人種差別撤廃法案」を葬り去ってしまったのです。
ウイルソンは、理想的人道主義者のように言われているが、パリ講和会議が行われたのと同じ1919年には、シカゴで大規模な暴動が起きており、自分の国内の事情を優先したのです。
この頃からの白人国家の対日政策がその後、日本の運命を決めたと言っても過言ではありません。
我国が人種平等であったことは、命のビザを発給して、ユダヤ系住民を国外に逃がし、日本国内で保護した、ユダヤ人保護政策をみればお解りいただけます。
神戸で難民生活を送ったユダヤ人女性によれば、「当時あらゆる国が官僚的にユダヤ人に門戸を閉ざしていた時代に、日本政府が、ほとんど有効期限のないビザを受け入れ、長期間延長を認めた事が忘れられない。この日本政府の行為は、神戸での人道的体験とあいまって全く独特なものだった」と述べています。
また大東亜戦争終結後、植民地を取り返しに来た欧米諸国に原住民義勇軍といっしょに、彼らの独立のため戦った日本軍人もいます。
アジア諸国は、死をも恐れぬ「日本精神」で連合国と戦いぬき、白人はついにアジア人を支配する事をあきらめ、独立を勝ち得たのです。
母体である日本は傷つき、難産の末に多くの国家が、解放されたのでした。
村山談話にあるように、日本はアジア諸国を侵略し、耐えがたい悲しみと苦痛を与えた・・・ 政治家は正しい歴史認識もせず、謝罪ばかり繰り返し、日教組により、歴史教科書を通じて罪悪感だけを植え付ける教育が行われている。
これは大きな間違いである。
多くの参考文献等で明らかになっていますが、
日本が戦ったのは、アジアの国々の住民ではなく、そこを200年も支配してきた、白人国家であり、日本には植民地など存在せず、日本は、住民に学校を作って教育を与え、病院を建てたり、子供たちに予防接種をすることを始め、道路港湾、鉄道など社会資本を整備した。(「日本が現地人に現地語を禁止し日本語を強制した」と言うのは間違い。)インド、インドネシア、マレーシア、ビルマを始めとするアジア諸国では、「日本軍が独立の為に戦ってくれた」ことを忘れていない人も多い。
1955年バンドンで行われたアジア・アフリカ会議において「民族の自決」と「反植民地主義」が掲げられ、アジアで起こったドミノ倒しは、アフリカ諸国へ波及して行った。アジア独立運動に関わった人々は、「大東亜戦争が無ければ、アジア・アフリカ会議は無かった。日本はアジアの国々の独立を助け自由をもたらした」と述べています。
極東軍事裁判で多くの日本人が裁かれました。はたして、白人国家は日本を裁き、占領する資格、権利があったのでしょうか。
日本人は裁かれることなどなかったはずです。
裁いたのは、多くの植民地を失い、権益を失った白人国家の怨念ではなかったでしょうか?
元記事には、故人となられた敬天愛人大兄さまが次のようにコメントいただいております。
「今の世界のカタチを作ったのは紛れもない先人たちの血と汗の結晶です。
決してコミュニストやユダヤでありません。」と・・ 現世に生きる我々がさも、国家の主人公のように振る舞い、先人の遺産を食い散らかしているような今日、国は皇室とご先祖さまより賜ったものです。
今日の我々が作り上げたものではありません。
子孫に恥ずかしくない日本を伝えましょう・・・・
皆さんの意見をお待ちしております。
誇りを持ちましょう・・・
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2011年12月19日
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国際派日本人の情報ファイルの記事の抜粋です。現憲法を無効宣言して、一時的に帝国憲法を復活させ、その帝国憲法の改正の手続きに則って、わが国の国体にふさわしい真憲法をつくろうと提案される、「天下の無法松」氏が、次のように述べています。ところで、憲法審査会だったかの西田昌司議員の発言の動画があり、簡潔でわかりやすい意見を述べておられますので、ぜひ御視聴ください。短いですので、すぐに見られます。 西田昌司「憲法の正当性と国の成り立ちの関係」 2011.11.28」 - 西田議員のおっしゃるように、憲法を審議する前に、われわれは自分自身がどういう国民であるか、日本人とは何なのかを、日本人であることの根っこの部分をまず知ることが必要ではないでしょうか。そして憲法とは、そうした国民としての深い記憶や意識から延長した部分がないならば、国家の基本法とは言えないのではないでしょうか。 |

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サイタニのブログに竹田恒泰氏の女系天皇というものは存在しないこと、皇室の伝統ではないことを説明した文章を載せておられます。以下に転載して、現在行われている女性宮家が、女系天皇への道を開くもので、我が国の歴史(万世一系の天皇という国体)を断絶させる非常な危険なものである理由を明らかにしたいと思います。
竹田 恒泰 著 「皇族たちの真実」より
過去三回あった皇統断絶の危機
問題になるのが、残りの三例である。この三例は、皇統の危機であり、万世一系の危機であった。いずれも天皇に息子がいない上、近親に一人も男系男子がいなかった。
皇統の危機を先人たちはどのように切り抜けたのだろうか。
三例のうち一番古い例は第二十六代継体天皇、次が第一〇二代後花園天皇の例である。まずこの二例について説明する。 天皇家始まって以来の皇統の危機を繋いだのは継体天皇だった。継体天皇は先代の 武烈天皇から見ると十親等の隔たりがあり、「祖父同士がはとこ」という関係に当たる。現在の日常生活では従兄弟ですら疎遠になりがちで、はとことなると一度も会ったことがない場合が多いのではないだろうか。
しかも「祖父同士がはとこ」とはもはや他人と呼んでも差し支えないほどの遠縁である。武烈天皇には皇子がおらず、男の兄弟もいなかった。武烈天皇が崩御して天皇の後継問題が深刻化し、しばらく空位が続いた後に 三顧の礼で迎えられた男大迹王(おおどのおおきみ)が即位して継体天皇となったと伝えられている。継体天皇は応神天皇の男系の五世孫、つまり玄孫の子に当たるため、男系継承が守られたことになる。
だがこの時期に王朝の交代があったのではないかという説も存在している。しかし、それは応神天皇の五世孫であるという継体天皇の出自に疑いを示しているのみで、立証に至っていない、それどころか、継体天皇は仁賢(にんけん)天皇(武烈天皇の父)皇女の手白香皇女(たしらかのひめみこ)と結婚し、皇后としている。
しかも仁賢天皇の他の皇女である、春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)、 橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)も、それぞれ安閑(あんかん)天皇(継体天皇の第一皇子)、宣化(せんか)天皇(継体天皇の第二皇子)の皇后となつている。
したがって武烈天皇までの王朝と継体天皇からの王朝が別のものであると考えるのは不自然であろう。よって、継体天皇の即位は血筋の違う地方豪族が武力によって皇位を簒奪(さんだつ)したものではなく、祖先を同じくするふたつの皇統が、この婚姻によって再統合したと考えるべきである。私はこの時期に王朝交代はなかったとの通説は自然なものだと思う。
伏見宮家から即位 時代を下ること900年、室町時代の天皇家に二度目の皇統断絶の危機が訪れた。このときに皇統を繋いだのが後花園(ごはなぞの)天皇だつた。後花園天皇も先代の称光(しようこう)天皇から十親等の遠縁にあたる。皇子のなかった称光天皇が崩ずると父帝の後小松(ごこうまつ)上皇が伏見宮貞成(ふしみのみやさだふさ)親王の第一皇子彦仁(ひこひと)を御所に迎え入れ、践祚させた。 このときは皇統を巡り南朝と北朝で争いがあった時期であり、空位はなんとしても避けなければならないという切羽詰った事情があつたようだ。
後花園天皇は北朝第三代崇光天皇の男系の曾孫に当たるため、ここでもやはり皇位が全く別の家に渡ったわけではない。そもそも伏見宮自体が皇統を安定させるために創設された経緯もあり、また、もともと伏見宮家は、持明院統の正嫡の家柄であった。
皇位継承とは血のリレーであり、宮家とは血のリレーの伴走者であるとは評論家の大宅壮一の残した言葉であり、後花園蚕が皇統を繋いだことで、伏見宮は血のリレーの伴走者の役をよく果たしたことになる。
後桃園天皇崩御で皇統の危機
さらに時代が下ることおよそ360年、三度目の皇統断絶の危機が訪れた。江戸時代後期の安永8年(1779)10月29日、皇室は皇祖以来最大の困難に直面する。系譜上第一一八代に数えられる後桃園天皇が崩御したこの日、天皇が不在となったのだ。
本来であれば天皇の在位中に皇太子が立てられ、天皇崩御の日か、その翌日に皇太子が践祚して皇位が継承されるはずであった。しかし、後桃園天皇は幼い欣子(よしこ)内親王(後の新清和院(しんせいわいん))一人を残して22歳という若さでこの世を去ったため、皇太子となるべき皇子がいなかった。
そのうえ、天皇の近親に皇族男子が一人もいなかったため、皇位継承者不在のまま天皇崩御となり、空位が生じるに至った〔本書では現代の感覚でとらえることができるように、年齢を表記するときには数え年を使わずに満年齢で表記することにした〕。
空位が生じることは、とうてい許される事態ではない。そしてこれをこのまま放置すると、天皇家を断絶させることになる。このとき、空位を避けるために後桃園天皇の崩御はしばらく黙されることになり、その間にさまざまな策が検討された。朝廷において判断に苦慮した場合、常に先例を参考にしてきたことは既に述べたが、このときも、およそ2000年以上続く歴史を辿(たど)って皇位継承に関する先例調べが行なわれた。
既に説明した継体天皇と後花園天皇の二例が最も参考にされたことは言うまでもない。この時代、徳川幕府は絶大なる権力を持っており、皇太子を立てるにも幕府の承認を得る必要があった。朝廷は後桃園天皇がまだ存命であることにして、天皇の重体を伝え、世継ぎを誰にするか幕府と交渉を始めた。
男系維持へのこだわり
後桃園天皇が崩御したこのとき、天皇が残した子供は、崩御の年に生まれたばかりの皇女欣子内親王ただ一人だった。そのため、皇位継承の問題は深刻化した。通常、皇子がいない状態で天皇が崩御すると、天皇の兄弟、叔父、大叔父など、歴代天皇の男系の子孫が皇位を継承するのが通例となっていた。
後桃園天皇には弟の貞行(さだもち)親王〔「さだゆき」とも読む〕がいたが、宝暦10年(1760)に伏見宮を相続した後、明和9年(1772)、既にこの世を去っていた。
そのうえ、後桃園天皇の父桃園天皇は既になく、その兄弟もいなかった。もう一世代遡(さかのぼ)ると、桃園天皇の父、桜町天皇も既になく、その兄弟四方のうち、公遵入道(こうじゅんにゅうどう)親王と忠誉入道(ちゅうよにゅうどう)親王は健在であったものの、既に満57歳と満56歳という高齢だった。〔入道親王とは、親王宣下を受けた後に仏門に入った皇族のこと〕
しかも二人は仏門に降って僧侶となっており、いずれにも皇子はいなかった。つまり近親に皇位を継ぐことができる歴代天皇の男系の男子が一人もいなかったのである。
続き 男系維持へのこだわり
高齢の入道親王では次の世代を担う皇位継承者とはなり得なかった。この状況は皇統の危機が盛んに議論される平成の状況よりもさらに厳しいものである。
近親に男系男子が一人もいないのであれば、後桃園天皇が残した欣子(よしこ)内親王を女帝にすればよいと考える読者もいることだろう。欣子内親王は父親が天皇であるため、女子でありながらも男系であることに変わりがない。確かに我が国には、それまでも女帝が存在した歴史を有す。
欣了内親王が女帝となることについても問題がないかのようにみえる。しかし、その先のことを考えると、そう簡単な話ではない。もし 天皇の近親に高齢で子のいない二名の入道親王しか男系男子がいない状況で欣子内親王を女帝とした場合、皇統断絶の危機を何一つ解決したことにならない。
その女帝が末代となり、女帝の崩御で皇統断絶となるだけだ。女帝を立てるためには、条件が整っている必要がある。安易に女帝を立てることは、極めて危険なのだ。
八方十代の女帝 後桃園天皇が崩御したこのときも、女帝の先例が調べられた。皇統の歴史上、八方十代の女帝〔重祚(ちょうそ)、つまり一度退位した後に再び即位した女帝が二代あったのでこのように表現される〕が存在している。しかし、女帝となったのはいずれも、天皇の皇女など、男系の女子であり、女系たる女帝の子息が皇位を継いだことは一度もない。やはりここでも男系継承は確実に守られてきた。また、男系継承を確実なものにするため、女性は生涯独身を貫くこと、そして生涯出産しないことの不文律が存在していた。 女帝が即位後に結婚した例はなく、また同じく即位後に出産した例もない〔ただし、即位する前に皇后として出産した例はある〕。
ではなぜこのような不文律が成立していたかといえば、もし女帝の配偶者と女帝の子供がいたとすると、彼らの扱いは非常に難しく、皇位を巡って争いが生じることが予想されたからだと思われる。女帝の配偶者と女帝の子供はいない方がよかったと考えられていたのではないか。
また、後桃園天皇が崩御したときのように、皇位継承者がいない状況で仕方なく 女性が天皇になったことは一度もないことに注目しなくてはいけない。
女帝は、政治的緊張の緩和か、継嗣の成長を待っ目的で成立してきた。
それぞれの女帝がどのような背景で成立してきたか、簡単に概要を説明する。 注:今再び女性宮家なるおかしな話が出てきたが、皇室の事は皇室に任せるのが良いと思う。正しい歴史認識もなく、それ以上に2000年続いている本当の皇室の正しい歴史も知らない、者がとやかく言うものではない。「解(わか)らんもん(者)と知(し)らんもん(者)が話しても何もわからん」(サイタニ)
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