日本の感性をよみがえらせよう

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サイタニのブログの竹田恒泰著「皇族たちの真実」よりの、つづきです。

直系や近親に男系男子がない場合、たとえ遠くとも、傍系から男系男子を皇位継承者にする方法が取られるのが、不変の法則でした。

これはある意味、直系に於いて、皇位継承の皇子が幼少に無くなる、或いは若くして亡くなることなどが続いていたりする場合も多いようですから、これによってある種の遺伝的なもの、あるいは体制的なものなどが、傍系に移ることで、刷新されて、健全化する効果があったのではと、私は思います。

光格天皇は、傍系として軽んぜられているという事を幼少ながら感じ取っておられたらしく、理想的な天皇像を追い求め、それを立派に演じよう、という志を強くお持ちだったようです。光格天皇を案じた先々代の後桜町院は天皇に学問を熱心におすすめになり、その助言に従って、光格天皇はよく努力されました。一七歳では近臣の補弼を得ながら、自ら朝廷の中心となって、政務を取り仕切っておられたようです。この点も、この時代の数代の天皇とは異なっていました。

そして、この光格天皇の理想の天皇像を追求され、時には幕府にも意見を言われる姿勢が、多くの庶民の間で、天皇の権威を高めてゆき、後の大政奉還の基を築いたと思われます。



先帝の皇女を皇后に
 
光格天皇のように傍系から践祚した例は、一二四回繰り返されてきた皇位継承のドラマの中でも継体天皇、後花園天皇、そして光格天皇のわずか三例しか存在していない、いずれも皇室にとって危急存亡の秋であった。

 
ここで極めて重要な点を指摘しなくてはいけない。崩じた後桃園天皇の皇女欣子内親王が光格天皇の皇后とされたことである。これは、閑院宮出身の光格天皇と先帝との血縁を濃密にするための措置にほかならない。

 
新帝は閑院宮から擁立されたが、天皇家を置き去りにすることはなかつたのだ。皇位継承者が不在という局面で傍系から天皇を擁立したことは、皇位を男系継承させ、最も重要な伝統を守ったことになるが、一方で新帝と先帝が遠縁であるという問題を生じさせた。しかし、先帝の皇女が新帝の皇后になることにより、新帝と先帝との間の血縁を一挙に近づけることに成功した。

この方策にはモデルがあり、その先例に従ったものだった。それは継体天皇の例である。皇統断絶の危機の一つとして既に示した武烈天皇から継体天皇への皇位継承のとき、傍系の継体天皇は、武烈天皇の姉で仁賢天皇皇女に当たる手白香皇女を皇后としたことは既に述べたが、光格天皇が欣子内親王を皇后としたのは、この先例に従ったものだった。

 
ちなみに、手白香皇女は後に継体天皇の嫡子たる欽明天皇を出産したことも注目すべきである。それにより現在の天皇家の血筋は手白香皇女を通じて仁賢天皇以前から、また継体天皇の父系を通じて応神天皇以前から繋がっていることになるからだ。



祐宮が選ばれた理由

安永8年当時世襲親王家は四家あり、その中に多数の男子皇族がいた。誰を天皇にするべきかの選考を行なうに当たり、継体天皇を先例とし、先帝の皇女との婚姻が前提、もしくは優先されたと考えられる。すると侯補者はおのずとわずか数名の若年皇族に絞られることになる。

安永8年生まれの先帝の皇女との婚姻を考えると、年齢的に釣り合っている必要があり、また未婚者で、かつ宮家を継承する予定がないことが望ましい。またその頃、宮家の当主とならなかった男子皇族は出家して門跡寺院の門跡となることが慣習であったが、門跡を継いだ入道親王を還俗させるよりは、いまだ門跡を継いでいない若い皇族の中から候補者を選ぶことが優先されたと考えられる。安永8年に御桃園天皇が崩御した時の未だ門跡を継いでいない皇族男子は八方あった。


嘉禰宮(後の貞敬親王(さだよししんのう))は伏見宮当主を、また美仁(はるひと)親王は閑院宮当主をそれぞれ継承する予定があったため、この二人は候補から外されたのではないだろうか。
 
 
また、当時は幼児の死亡率が高いため、少なくとも5歳程度に育っていた方が安心できたと思われる。よって特に幼少の佳宮(よしのみや)、艶宮(つやのみや)、健宮も早い段階で候補から外されたと思われる。
 
すると、残るは閑院宮の公延(こうえん)入道親王、祐宮、そして寛宮の三方となるが、その中で祐宮が選ばれた理由は明確ではない。推論するに、公延入道親王は明和4年一1767)に仏門に入って以来だいぶ時間が経過していたことが懸念され、年齢的な問題で候補から外されたのではないだろうか。
 
 
また寛宮は安永8年3月に召し返しになっているものの、安永2(1773)にいったん梶井門跡を継いでいることが関係しているように思われる。すると、祐宮は門跡を継いでいない皇族の中で適齢であり、この条件を満たすのは祐宮一人だったことになる。
 
 
祐宮以外の侯補は既に門跡となっていたか、もしくはそれが正式に決まっていた。祐宮は将来聖護院門跡を継ぐことが予定されていたものの、その正式な手続きを済ませていなかったことが強く影響したとみえる。

ちなみに、聖護院門跡は後に弟の寛宮が継ぐことになる。さらに、祐宮が最終侯補とされたのは、四つの世襲親王家のうち、最も新しい宮家が閑院宮であったことが大きく作用している。つまり閑院宮は 天皇家から最も近い血筋を引いているのだ。したがって、初めから閑院宮は最有力侯補であったと思われる。このように、傍系から即位する皇族として祐宮が選ばれたことには必然性があった。
 
 
 
近代への礎を築く
 
 
現代人の感覚では、時の 天皇の直系が皇位を継ぐべきだととらえるだろう。しかし、生前譲位や年少天皇が認められない時代や、嫡系継承よりも兄弟継承を優先した時代もあり、皇位継承の方法は時代によって大きな違いがあったことは事実である。

だが男系継承の掟(おきて)だけはいかなる場合にも変えられることはなかった。歴史的に皇位継承の順位は大まかには次のとおりである。
 
1、嫡系男子2、庶系男子 3、男系の傍系の男子 4

中継ぎ的に男系の女子生まれる順序などにより、庶系男子が嫡系男子を差し
置いて即位した例もあるが、基本的にはこのとおりである。
 
 
直系や近親に男系男子があればそれに越したことはないが、ない場合、たとえ遠くとも、傍系から男系男子を皇位継承者にする方法が取られてきた。これが不変の法則なのである。


続く 近代への礎を築く 
 
 
光格天皇が践祚したこのとき、表面上は空位がなかったかのように繕(つくろ)われたが、実際は先帝崩御から新帝践祚までの約一か月間、天皇が不在であったことになる。このように傍系から 天皇を擁立させたということは本家が途絶えたことを意味する。
 
祐宮は傍系であるも、東山天皇の曾孫に当たるため、前出の二例と同様に皇位が異なった家系に移ったわけではないが、光格天皇への皇位継承は綱渡り的な荒技であったことは事実である。
 
傍系から即位した光格天皇は、皇統を繋いだだけでなく、我が国の近代への礎を築く天皇となるそのため、光格天皇の即位は極めて重要な意味を持っといわなければならない。
 
光格天皇は安永8年に8歳という幼さで天皇の位に就き、後に譲位するまでの38年間在位した。この在位期間は 昭和天皇の64年、明治天皇の46年に次いで三番目の長さに当たる。

光格天皇は譲位後も更に23年間院政を敷いたため、通算62年間君臨したことになり、その長さは実質的には昭和天皇に匹敵する。光格天皇は歴代の天皇の中でも特に理想的な天皇像と君主意識を明確に持ち合わせた天皇であつた。幕府の勢いに陰りが見え始め、維新への足音が聞こえ始めた時期である。
 
そして孫の孝明天皇が日本史上極めて重要な時期に 天皇として大活躍するための確固とした基盤は、既に光格天皇がつくり上げていた

光格天皇は間接的ではあるが、後の明治維新に多大なる影響を与えたのだ。 光格天皇が崩御したとき、後に孝明天皇となる孫の統仁(おさひと)親王は9歳でああったが、光格天皇の気概は確実に孫に受け継がれていた。
 
また光格天皇は崩御の後にその功績を称えて「光格天皇」という天皇号が贈られたことには注目すべきである。当時は 天皇が崩御すると院号が贈られるのみだったのだが、数百年ぶりに天皇号が贈られたことで日本中が驚かされた。
 
天皇号が贈られることの意味は、このようにさらりと書いてしまうと分かりづらいが、実はこのことは朝廷にとって、いや日本の歴史にとって大事件であった。
 
先帝が崩御あそばされた後に「昭和天皇」と天皇号が贈られたことは読者もよく知っていることだろう。このように天皇が崩御した後に「何々天皇」という天皇号が贈られるのは現在では制度として確立しているが、光格天皇が崩御した時代は、天皇は崩御後「何々院」と称されるのみであった。
 
例えば後鳥羽上皇が「後鳥羽院」、白河上皇が「白河院」といった具合であり、「何々天皇」と称されることはなかった。遡(さかのぼ)れば平安時代中期の 村上天皇以前は天皇号が贈られていた。しかしその習慣は以降約900年間の長きにわたって中断されていた。
 

光格天皇に天皇号が贈られたことは、その偉大さを象徴するものであり、光格天皇の人生の総決算となった。



今上陛下の戦後の戦い

 昨日は天皇誕生日でした。私も国旗日の丸を掲揚しましたが、パッと見た感じで、うちの町内で日の丸を揚げているところはほかになかった気がします。
日の丸を掲げたいと思う人はいるのかも知れませんが、ほとんどの家が掲げていない中で掲げるのは気おくれがして、できない人もいるのでしょう。
とはいえ、揚げている家がないのは寂しいものです。

 祭日に国旗を掲げることは本来あたり前のことでした。この慣習を復活させるには、勇気を持って少数の人が揚げ続ける運動をするしかないと思います。
 ところで、今日これほど内外に問題が山積している中、国民が心を一つにして日本を復興させ国家のゆく道を明るいものに盛り上げる努力をするための、その精神的支柱とも言うべき御存在があるとすれば、天皇陛下を於いてほかにありません。

その天皇陛下のお誕生日をお祝いする日に、国中に日の丸が飜えらないなどおかしいのではないでしょうか。私たちは、二千年の歴史の始まりから万世一系の天皇陛下を戴く日本人です。その日本人が、国旗日の丸を家々の玄関に掲げないのはおかしいと思います。

国民として日の丸を掲げにくい雰囲気を創り上げてきたのは、日教組であり、左翼言論人たちです。愛国心を悪いもののように教え、天皇陛下を尊崇することを冷ややかな目で見るようなそんな進歩的文化人を多くもてはやしたマスコミの責任です。


日本の敗戦後の占領下で、マスコミは占領軍によって利用され、占領軍の意を受けた機関となりました。以来共産主義者や、占領軍や戦後の時代に阿(おもね)る進歩的文化人たちで牛耳られ、その時の体制がいまも続いています。

松浦光修先生のコラムに、今上陛下が戦後ずっとそうした占領体制と戦ってこられたことが書いてあります。以下にその一部を転載いたします。

 
転載開始


 「仁者に敵なし」

 話を、去る十一月十二日(御在位二十年式典の時)の、東京の皇居前広場での両陛下の御尊顔に戻します。なぜ、両陛下はあれほど「我が御心すがすがし」という、ご表情でいらっしゃったのか、ということです。
それは、やはり長い“戦い”を正々堂々と戦い抜いてこられたからではないか、と思うのです。

昨年私は『日本人として知っておきたい皇室のこと』(PHP研究所)という本の中で「日本は天皇の“祈り”に護られている」という一文を書きましたが、その中でこんなことを書いています。

“占 領遺制”という毒素そのものは、占領中から何一つ除去されていません。したがって、あるいは皇室にとって戦後という時代は、戦国時代以上に厳しい時代なの かもしれません。そうであるにもかかわらず、私たちが戦後六十年以上を経た今もなお“御聖徳”をありがたく仰ぐことができるのは、なぜでしょう?それは、 ひとえに歴代天皇の並外れた御力によって、その“毒素”が“解毒”され続けてきたからなのではなおでしょうか。

私は皇室にとって今という時代は、ほんとうに「戦国時代以上」に過酷な時代だと思っています。
例えば、私たちがご即位二十年を寿いでいた時、マスコミはそれについてどのような報道をしていたか、ご存知ですか?

皇居前広場で行われた国民祭典の翌朝のNHKニュースなど、ひどいというより、犯罪的とさえいってよい内容でした。皇室に対する無礼きわまりない世論調査をして、その結果を延々とやっていたのです。
「天皇陛下が憲法で定められた象徴としての役割を果たしていると思うかと尋ねたところ、『十分に果たしている』が四十八%・・・」などとやっているのです。
皇室は政党ではありません。支持率でどうこうしてよいものではないし、またしてはいけないものです。

また、これは女性週間誌に載っていたことですが、どこかのマスコミが「将来の天皇は、愛子様がいいと思うか、悠仁様がいいと思うか」などというアンケートをやっていて、それを皇后様がご覧になって「なんということを」と、つぶやかれた、という話が伝えられています。
皇室は芸能人ではありません。

まことに無礼千万です。
たとえば、ある家の後継ぎについて、長女がいいか、長男がいいかなどと、世論調査をやって、それをマスコミが報道したら、これは明らかにプライバシーの侵害にあたるでしょうが、庶民の家にさえやってはいけないような無礼ごとを、今のマスコミは皇室に対してするのです。

今のマスコミが、ひいては戦後社会がどれだけ皇室に無礼をはたらいているのか、例をあげていけばきりがありません。
それもこれも、戦後の反天皇教育が六十年以上も続いた結果です。

しかし、両陛下はそんな時代にもひたすら耐え、耐えるというだけでなく、むしろその無礼極まりない国民に対しても、限りない愛情をそそいでこられました。考えてみれば、すごいことです。
そ れに比べてみると、私たちは甘えているのではないでしょうか。今の時代と戦い続けているうち、ともすれば私たちは「自分たちのことを、みんな解ってくれな い」などとグチをこぼしがちです。しかし、両陛下は自分たちに対して無礼な人々、攻撃的な人々にグチをこぼすこともされず。それどころか、これまでひたす ら惜しみなく愛を注いでこられたのです。

私たちには、とてもできないことです。そのような両陛下のご姿勢は、まさに「戦い」と表現せざるをえません。私たちの苦労など、両陛下のそのようなご苦労に比べたら万分の一にすぎません。

儒教の有名な経典の一つに『孟子』というものがあります。吉田松陰などが愛読していたところで知られています。
そこに、こういう言葉があります。そこに、こういう言葉があります。私は、両陛下のお姿を拝見するたびに、この言葉を思い出すのですが、それは次のとおりごく短い言葉です

仁者に敵なし

「仁」というのは、現代の言葉でいえば、「愛」にあたります。「愛あるものには、そもそも敵というものが存在しない」、つまり愛を以って、万人に対する者には敵がいない、というような意味です。
ここにある「仁」という文字、これは天皇のお名前に、あるいは男子の皇族方のお名前にしばしば使われている文字であることは、皆さんご存知の通りです。両陛下はこの言葉「仁者に敵なし」という言葉を、本当に体言されて、と私などはしばしば痛感しています。
それでは、その陛下の「戦い」はいつ始まったのでしょう。
私はすでに少年時代からはじまっていたのではないか、と思っています。 


 今上陛下の“戦い”

今上陛下は、大東亜戦争の戦闘終結の年、昭和二十年に「新日本の建設」という作文をお書きになり、それが公にされています。時に陛下は学習院初等科六年生、十一歳であらせられました。その作文には次のような一節があります。

 今上陛下、学習院初等科六年生(十一歳)の作文「新日本の建設」

「今は日本のどん底です。それに敵がどんなことをいってくるかわかりません。これからは苦しいこと、つらい事が、どの位あるかわかりません。 どんなに苦しくなっても、このどん底からはひ上がらなければなりません。・・・
今までは勝ち抜くための勉強、運動をしてきましたが、今度からは皇后陛下の御歌のように、次の世を背負って新日本建設に進まなければなりません。それも皆、私の双肩にかかっているのです。
それには、先生方、傳育官のいふ事を、よく聞いて実行し、どんな苦しさにも、たへしのんで行けるだけのねばり強さを養ひ、もつともつとしっかりして、明治天皇のやうに皆から仰がれるようになって、日本を導いていかねばならないと思ひます」   (木下道雄『側近日誌』)


ここで注目すべきは「それも皆、私の双肩にかかっているのです」「明治天皇のやうに皆から仰がれるようになって、日本を導いていかなければならない」とい う箇所です。明らかに、もうこの時点で陛下は「戦後」という時代に対する「戦い」の覚悟を、そしてその「戦い」の先頭にまず自らが立つというご決意を固め ていらっしゃることがうかがわれます。

「戦後」という時代の現実は、まるでそのご覚悟を試すかのように、厳しいものでした。占領軍は 皇室を支える法的仕組み、制度的な仕組み、経済的な仕組み、教育的な仕組みなどを、こぞって解体し、独立後もその占領軍がつくった枠組みを死守する勢力が 日本の中枢を占め、皇室解体をもくろむ政治家、言論人、教育者、官僚、学者司法関係者などが、まるでいくつもの連合艦隊を組んで襲い続けているかのような 時代だからです。

 
コラムはまだまだ続きますが、転載はここで終わりにします。
 
イメージ 1
 
 
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天皇陛下 御尊影
 
 
 
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天皇陛下、皇后陛下 御尊影
 
 
 
 
 
君が代

 
皇尊 彌榮 彌榮 彌榮
 
天長節を臣民の一人として奉祝いたします。
 
天皇陛下、皇后陛下におかせられましては、いつまでもお健やかであられることを祈念いたします。
 

 

 
畏くも天皇陛下におかせられましては、「祈る王」「祭祀王」といわれます。「地上の支配者」であるヨーロッパの国王とは異なります。
天皇陛下の大御心は御製に示されています。
「罪あらば吾れをとがめよ天津神 民はわが身の生みし子なれば」(明治天皇)
の御製に、明治天皇の国民に寄せる思いを感じ、
「我が庭の宮居に祭る神々に 世の平らぎをいのる朝々」(昭和天皇)
の御製に天皇の神々を敬う「まつり心」と平和を希求するお心を感得なされておられた。
「ふりつもる雪にたえていろかえぬ 松ぞおおしき人もかくあれ」
「日々のこのわがゆく道を正さんとかくれたる人の声を求むる」(先帝陛下)
の御製には、戦後日本の精神復興の指標と願いを実感なされておられた。この大御心は、荒んでいく日本人の魂への先帝陛下遺言でもあると思います。
今上陛下におかせられましては、国内の諸行事に行幸啓あそばされる時、宮中祭祀を先として日程を組まれておられます。「神事を先とし、他事を後にし」(順徳天皇)という天皇の「まつりごと」に対する基本姿勢は、今も皇室の伝統となっています。
皇紀2671年の歴史の中核にある万世一系の天皇陛下の精神が、今も昔も「宮中のこと、敬神が第一」(後水尾天皇)にあると感じた慶びは、何ものにも代え難いものです。
今上陛下におかせられましては、皇太子時代(小学六年)の昭和20年8月15日、栃木県の奥日光のホテルで先帝陛下の終戦の玉音放送を聴かれた。その時の心境を作文にお書きあそばされた。
今は日本のどん底です。それに敵がどんなことを言って来るかわかりません。これから苦しいこと、辛いことがどの位あるかわかりません。どんなに苦しくても、このどん底からはい上がらなければなりません。それに日本人が、国体護持の精神を堅く守って、一致して働かなければなりません。今までは、勝ち抜くための勉強、運動をしてきましたが、今度からは皇后陛下の御歌のように、次の世を背負って新日本建設に進まなければなりません。
それも皆、私の双肩ににかかっているのです。それには、先生方、傅育官のいう事をよく聞いて実行し、どんな苦しさにも耐えしのんで行けるだけのねばり強さを養い、もっともっとしっかりして明治天皇のように皆から仰がれるようになって、日本を導いていかなければならないと思います。

「次の世を背負って、新日本建設に進まなければなりません」とお書きあそばされておられます。貞明皇太后陛下が昭和一九年に全国の疎開の児童を激励あそばされた御歌「つぎの世をせおふべき身ぞたくましく 正しくのびよ里にうつりて」を引用あそばされ、戦後日本の再建を誓いあそばされたものです。
また、学習院大学に進学なされた今上陛下は、昭和28年3月3日に、昭和天皇の御名代としてイギリス女王エリザベス2世の戴冠式に御出席なさることを主目的に、米国・欧州など13カ国を7ヶ月の日程で初の外遊に出発なされたが、その時に詠まれた御歌が「荒潮のうなばらこえて船出せむ 広く見まはらむとつくにのさま」でした。
昭和五十七年八月七日に、宮内庁の記者との会見で、「日本人の忘れてはならない四つの日」として、次の四つを挙げられました。
(一)昭和二十年八月十五日終戦記念日。
(二)昭和二十年八月六日広島の原爆の日
(三)昭和二十年八月九日長崎の原爆の日
(四)昭和二十年六月二十三日沖縄戦終結の日

そして、「こういう戦争は二度とあってはいけないと強く感じます」と仰られ、先の大戦で亡くなられた戦没者及び遺族に対して「多くの犠牲者とその遺族のことを考えずにはいられません」と、叡慮を賜っています。
畏くも今上陛下におかせられましては、平成六年に硫黄島に行幸啓あそばされ、慰霊行脚をなされた。翌七年には長崎、広島、沖縄を行幸啓あそばされ、慰霊行脚の最後の締めくくりは東京都の慰霊堂でした。また、外国をご訪問される際には、必ず先帝陛下の御陵である武蔵野御陵を御参拝あそばされます。

硫黄島での戦没者慰霊祈願では、多くの犠牲者を出した箇所で慰霊をされました。そして、還幸あそばされる機上で本土へ向かうとき、その慰霊祈願された場所から天に向かって火柱が上がったそうです。それは、今上陛下が慰霊祈願された事への亡き英霊の感謝を示すかのようでした。
硫黄島には、現在自衛隊が駐屯していますが、夜になると軍靴の足音と軍馬の足音が宿舎に聞こえるのだそうです。ですから宿舎の四隅には塩が置かれたそうです。
しかし、それでも、毎晩、足音が聞こえ、止まなかったそうです。ところが、畏くも今上陛下が硫黄島を行幸啓あそばされ、慰霊を捧げあそばされ、真心を手向けられたその夜から、軍靴と軍馬の足音が聞こえなくなったそうです。畏くも今上陛下が還幸あそばされる時に、慰霊祈願あそばされた場所から天に向かって火柱が走ったのは、硫黄島に眠る戦没者二万千九百柱の御霊が機上の陛下をお見送りし、感謝の意を示めするかのようであったといいます。

畏くも今上陛下の戦没者慰霊行脚の旅は、その所々で亡き御魂を鎮められる旅であられるのです。
佐々淳行氏が「天皇ー最高の危機管理機構」と題し、(ワック出版「歴史通」五月号掲載)次のように述べられています。
三月十六日に今上陛下が国民に向けて発せられたお言葉を踏まえて、「我が日本民族は、一世紀に一回ぐらいの割合で起こる国難に直面するたびに、救国の危機管理機構=天皇によって危機を乗り越えてきた。
平時、我が国では、天皇陛下を『権威』としていただいている。しかし、一旦緩急あって非常事態に直面すると、時の政権は、天皇に『権力』をもっていただいて事態を収拾してきた。そして、体勢が安定すると、また権威に戻っていただく形を繰り返してきた。代々、天皇陛下は、神道において天と国民を結ぶ仲保者・祭祀長という立場を占めてこられたのである。」と総括された上で、我が国の天皇と他国の君主の違いを説明され、昭和天皇の戦後の全国御巡幸と御製、そして、自ら警備の任にあたった想い出を踏まえながら、皇太子時代からの今上陛下と皇后陛下のご様子を語り起こされている。
その中で、次の記述は印象的です。
昭和五十年七月十七日、沖縄解放同盟(黒ヘル)と戦旗派(赤ヘル)の過激派二人が、沖縄のひめゆりの塔の壕内に数日前から潜み、慰霊のためひめゆりの塔を訪れた皇太子ご夫妻に火炎瓶を投げつける事件があったとき、佐々氏は、警備責任者としてその現場にいた佐々氏は述べています。
「いきなり火炎ビンを投げつけられれば、男性でも後ずさりするのが一般的だろう。実際、沖縄県警は退避してしまい、残ったのは皇宮警察本部の警衛官十七名のみだった。
その時、皇太子妃(皇后陛下)は皇太子殿下(今上陛下)の前に半歩進まれ片手を殿下(陛下)の前に差し出し、身を呈して暴漢から守ろうとされたのである。
その光景は、今も私の目に焼き付いて離れない。」と・・・
このひめゆりの塔の前の皇太子ご夫妻が、今、天皇皇后両陛下として、東日本大震災の被災地を行幸啓あそばされ、破壊された被災地に向かって黙祷され、避難所を廻られてて被災者を激励された。
関東では放送されていませんが、読売テレビの「そこまで言って委員会」という番組で、話題が天皇陛下の被災地行幸啓になり、地震発生以来、陛下が為されてきたことが出演者から一通り話されると、それを聞いていた桂ざこば師匠が、感極まって泣きました。
恥ずかしながら、筆者も目頭が熱くなりました。
両陛下は、避難所の人々を親しく激励あそばされた。激励された人々の顔は皆すがすがしく、異口同音に元気を戴きました、勇気付けていただきました、と感激を語っていました。
この天皇皇后両陛下のお姿と被災地の国民の様子を見ているとき、この光景は、「日本でしかあり得ない尊い光景だ」と感じました。
北畠親房公が神皇正統記に記したように、「(万世一系の)我が国のみこのことあり。異朝にはこの類なし」とはこのことです。
日本は、一国一文明一王朝の国です。これは他国ではあり得ない誇りです。日本人にしか感じられない至福です。
 今上陛下は、被災地の人々を慰め励まし、自衛隊をはじめ救助復興にあたる組織の人員の労苦をねぎらい努力に感謝され、さらに、全国民に一致協力して復興にあたるように呼びかけられました。
これは、まさに、非常時における「統治者」として呼びかけられておられ、ここから、真の危機克服が始まってきている。このことは、世界が感嘆する紛れもない事実です。今上陛下のお言葉に直に接した被災地の人々の表情や言葉から明らかです。
 
 
「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」「天皇は神聖にして侵すへからす」
 
天壌無窮の我国の國體であられます。
 
今日、12月23日は極東軍事裁判で言われなき罪状で執行された、殉難七士の命日でもあります。起訴は先帝陛下の誕生日でありました。
日本人はこの屈辱も忘れてはならない日でもあります。
 
 
 
 



天長節です。 国旗を掲げましょう。



転載元転載元: 美しい国

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https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/1c/80/x1konno/folder/1155843/img_1155843_35998384_1?20111224043852

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良識ある日本国民の皆様には、12月23日の天皇誕生日はご存知だと考えます。

大東亜戦争終結後より、天皇陛下の御誕生日をお祝いする日を「天皇誕生日」にされて来ましたが、日本の正式呼称では「天長節」です。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/1c/80/x1konno/folder/1155843/img_1155843_35998384_2?20111224043852

天長節を日本国民として心より慶祝を申し上げ、天皇陛下の御健康、御長寿、皇室の弥栄を祈念いたします。

反日勢力による戦後教育により、天皇陛下に敬意を表さない者もいますが、首相の任命権は天皇陛下にあり、国際儀礼上の礼砲も、天皇陛下は21発、首相は19発とされて、天皇陛下こそが日本の国家元首です。

日本は、天皇陛下により幾たびもの国難を乗り越えた、世界に誇る伝統ある国です。

「世界最強の天皇陛下」(動画)http://youtu.be/lsOFxj9To-o

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/1c/80/x1konno/folder/1155843/img_1155843_35998384_3?20111224043852

天皇陛下は、祭祀を行い、日本国民が幸福であるようにと、日本国が平和であるようにと、日々祈り続けられて、御公務、海外御訪問、国賓・要人の接待等をされています。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/1c/80/x1konno/folder/1155843/img_1155843_35998384_4?20111224043852

米国オバマ大統領

昭和64年(1998年)1月7日、昭和天皇の崩御に伴い、皇太子明仁親王殿下が皇位を継承されて、1月8日、新元号「平成」が施行されました。

平成2年11月12日、天皇陛下の即位礼正殿の儀(即位の礼)、祝賀御列の儀(オープンカーでの祝賀パレード)が行われました。

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https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/1c/80/x1konno/folder/1155843/img_1155843_35998384_6?20111224043852

平成5年4月23日、歴代天皇として初の沖縄県をご訪問されて、天皇陛下、皇后陛下は、ひめゆりの搭に献花をされました。

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平成17年6月27日、戦後60年の慰霊でサイパンをご訪問、天皇陛下、皇后陛下は、多くの日本人が身を投げたバンザイクリフへ黙祷をされました。

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平成21年1月7日、天皇陛下は御在位20年を迎えられました。

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平成23年3月11日、東日本大震災で、天皇陛下、皇后陛下は、福島第一原発事故による東京電力の計画停電に合わせて、皇居・御所で自主停電を続けられました。

天皇陛下、皇后陛下は、これまでにも被災者が避難生活をしている体育館などで、被災者へのお見舞いをされる時には、いつもスリッパをお履きにならずに床に正座をされています。

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平成3年、雲仙・普賢岳噴火で、お見舞いの言葉をかけられる、天皇陛下、皇后陛下

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平成7年、阪神・淡路大震災で、被災者にお見舞いのお言葉をかけられる天皇陛下

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平成23年、東日本大震災で、お見舞いの言葉をかけられる天皇陛下、皇后陛下

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私は一民族主義者として、皇位継承を語る立場ではないと考えていますし、これまでにも万世男系護持の考えは同じでも、いろいろなご意見がありますが、本日は、女性宮家についてのみ申し上げます。

皇室典範を改正して「女性宮家の創設」とは、いつの日か、「女系天皇」の容認になる可能性は否定できないのですから、約2700年継続している男系による皇位継承を護持すべきです。

初代「神武天皇」の即位が日本の紀元で、明治憲法第一条には、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあり、皇室典範には、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定めています。

男系とは、天皇の父親が天皇、または天皇の血筋で、父親を遡っていけば、初代「神武天皇」に辿り着くことを指すのですが、約2700年継続している皇統は「万世男系」ですから、全ての天皇とは神武天皇の男系子孫になるのです。

第25代「武烈天皇」と第26代「継体天皇」とは10親等の隔たりはありますが、約200年以上遡っていけば、第15代「応神天皇」を同じくする、神武天皇の男系子孫になるので、皇位継承は皇統で万世男系を護持しています。

明治以前に女性天皇は存在しましたが、第37代「斉明天皇」の夫は「舒明天皇」ですから第38代「天智天皇」は男系、第43代「元明天皇」の夫、「草壁皇子」の父は「天武天皇」ですから第44代「元正天皇」も男系、女系継承はありません。

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大東亜戦争終結後の、「極東国際軍事裁判」(東京裁判)とは、戦勝国が敗戦国を一方的に裁くとの理不尽で、裁判との名を借りただけの、連合国による日本への復讐の儀式でした。

日本は侵略国家として断罪されて、A級戦犯「平和に対する罪」・B級戦犯「通例の戦争犯罪」・C級戦犯「人道に対する罪」として有罪判決を受け処刑された方々もいました。

当時の国際法では、B級戦犯のみが法的に有効で、A級戦犯とC級戦犯は、事後法で法的根拠がなかったのですし、そもそも日本の国内法で裁かれたことではありません。

東京裁判で被告人の起訴は1946年4月29日、昭和天皇の御誕生日に行われ、絞首刑判決の刑の執行は12月23日、当時、皇太子殿下の御誕生日(現在の天長節)に行われて、これこそが連合国による復讐の儀式の証です。

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1948年12月23日、東条英機第40代首相・板垣征四郎陸軍大将・土肥原賢二陸軍大将・松井石根陸軍大将・木村兵太郎陸軍大将・武藤章陸軍中将・広田弘毅第32代首相、7名の方々の絞首刑が執行されました。

本当の侵略者である連合国は、永遠に日本だけを侵略国家と断罪する目的で、わざと天長節に合わせて東條英機大将等七烈士の死刑を執行したのです。

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元巣鴨刑務所の刑場跡(サンシャイン東池袋中央公園)にある、東京裁判で不当に処刑された東條英機大将等七烈士、殉国烈士の慰霊碑

平成23年12月23日天長節奉祝、「天皇誕生日一般参賀要領」・「天長節奉祝日乃丸大行進」御案内、殉国七烈士追悼、「怨親平等・殉国忌 慰霊祭のご案内」・「巣鴨刑務所処刑跡追悼式ご案内」http://blogs.yahoo.co.jp/x1konno/35997201.html

12月23日は、天長節奉祝の日であり、不法な東京裁判で処刑された方々の追悼の日でもあり、日本国民は正しい歴史認識を子孫へと継承すべきです。

良識ある日本国民の皆様、12月23日の天長節についてご考慮下さい。

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転載元転載元: 近野滋之・民族主義者の警鐘

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