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三島由紀夫氏の哲学の続きです。
共産党の非暴力は本物か 三島由紀夫氏は、共産党がソフト・ムードで、社会の下積みになっている民衆の中にこまかく丁寧に接触してそれを愛撫し、暴力など絶対使わないような顔をし、国家権力こそ暴力であるとみとめさせようとしていることを次の如く述べているのである。―― 『彼らは国家権力を暴力装置と規定し、機動隊を階級敵と規定し、彼らの規定によって権力自体は、すべて膨大な、革命を抑圧している暴力機構と考えられる。 そして、いわゆる無意識な、無関心な一般大衆の目にとっては、三派全学連の無秩序な暴力だけが、あるいは暴力団の暴力だけが暴力とうつり、自分たちを守りに出ている武装集団の自衛隊や警察は暴力とうつらないような心理構造を持っていると説明される。 その大衆の暴力否定が、あるいは三派全学連にむけられていることを共産党は望むのであろう。そして、暴力がほんとうに民衆の目に正義にうつるまで、暴力を民衆に向けることを望まないであろう。(これが民青系全学連の擬似警察機能の擬態である。) そして、暴力否定が終極的に革命を支持するものであることを最もよく知っているのは、革命勢力、特に共産党なのである。共産党は最後の革命に手段としての暴力を十分容認するが、その暴力が民衆の支持を得るまでは差し控える、ということを知っている。』(文化防衛論) 以上の意味は、共産党が、“暴力を否定する”というきわめて平和主義的擬装のもとに、相手を“国家暴力につながる者”という言いがかりをつけて、相手を巧みに否定する行動を取るのだということを指摘しているのである。 いわゆる“平和運動”の如きはそれである。社会党の非武装中立論なども、私はそれと同じ立場にあると考える。 国境を認めない創価学会の“地球民族主義”なども同じである。これらの主義又は思想には、国家の国境確保の愛国心というものはないのである。 国家は国境なくしては存在しない。従って国境を衛るための力なくして、単に、理想的平和主義の空想や、ただのアイディアだけの“地球民族主義”では国を衛ることはできないのである。 創価学会の地球民族主義を背景にして成立している公明党が、日本の国境を衛るための軍備や、安保体制を軍国主義化だと罵る中共の周恩来にお辞儀をしに往ったのは、彼らの思想経路から考えれば当然のことなのである。 戦う力の否定は国家否定につながる それゆえ三島由紀夫氏は次の如くいうのである。―― 『国家は力なくしては国家たり得ない。国家は一つの国境の中において存立の基礎を持ち、その国境の確保と、自己が国家であることを証明する方法としては、その国家の領土の不可侵性と、主権の不可侵性のために力を保持せざるを得ないことは、最近のチェコの例を見ても明らかであろう。』(文化防衛論) 国家は一つの理想をもち、意思を持ち、感覚をもっていて周囲の状況を感じ取り、それに対応する力をもつ有機体又は生命体なのであるから、それが生命体即ち一種の“人格的存在”としてその生命を保持して行くためには、“人格”としての人間に皮膚があって、外界と一線を画して、一定の形や容貌を備えているが如く、国家には国境がなければならないのである。 また皮膚を越えて内部に侵入して来る病菌やヴィールスに対してはそれを撃滅するための、白血球にも比すべき、自衛隊や、国防軍や、警察機動隊がなければならないのである。 ところが侵入者側と内通して内部の破壊工作を行なうことに興味を感ずる“革命者”側はこれらの自衛隊とか警察隊とかを、国家権力の手先としての“暴力機構”だと言いがかりをつけて、国家権力をこれら暴力機構の総元締であると解釈し、「平和に背く暴力機構」は全面的に排撃すべきものであるという論理をもって、創価学会の池田大作氏の如き「国家は諸悪の根源である」という結論に到達するのである。 それゆえに、三島由紀夫氏は、 『暴力否定が国家否定につながることは、実に見やすい論理である』 というのである。 “暴力”に対するハッキリした定義を私はまだ読んだことはないが、私が仮に定義するならば、それは「“物質的な力”又は“権力”という無形の圧力によって人間の自由を縛るもの、又は人間の自由を破壊するもの」ということになると思う。 それゆえに人が完全な自由を享受し又は完全な自由を生活するためには、人間の自由に何らかの統制を加える「国家」というものは“暴力の主体”だとみとめられることになるのである。 それゆえにあらゆる形の暴力を否定することはついに国家を否定することになる。そして国家を“暴力機構”として否定することは、ついに国家を滅亡に導いて行くことになるのである。 いま日本では革新系連合政権の成立をねらって、その連合の成果の籠手しらべとして、先般の選挙戦に於いて社会・民社・公明の共闘による連合推薦の候補が三県に於いて上位で当選したのであるが、もし革命政権の準備過程として容共連合政権が日本に成立したならば、その結果はどうなるかということを一般国民は、ほとんど知らないのであって、単にそれが、政権の交代を意味する位に軽く考えている人が多いのである。 しかし、これについて三島由紀夫氏は次のように言っている。―― 『もし革命勢力、ないし容共政権が成立した場合に、たとえたった一人の容共的な閣僚が入っても、もしこれが警察権力に手をおよぼすことができれば、たちまち警察署長以下の中堅下級幹部の首のすげかえを徐々に始め、あるいは若い警官の中に細胞をひそませ、警察を内部から崩壊させるであろう。 そのような形で次に行われる選挙は干渉選挙になることは明らかであり、これは1948年のチェコにおける共産クーデターに到る成り立ちがよく示している。 彼らは政権の一端でも握れば、これをいつも共産政権へのワン・ステップとして利用することに全力を上げるであろう。 社会党はケレンスキー内閣の哀れな役割を負わなければならないであろう。 そして、全アジア諸国において容共政権が容共政権のままとどまった例はないのである。 容共政権は共産党一党独裁への準備段階として徹底的に利用され、むしろこのような緩慢な移行の方が、急激な武力革命による移行よりも彼らの歓迎するところである。……したがって共産勢力と行政権とをほんのちょっと連結させれば、そこで何が起こるかは、チェコの二千語宣言がよく証明している。そうなったときには遅いのであり、……反革命の立場は、現在の時点における民衆の支持や理解をあてにすることはできない。 われわれは先見し、予告し、先取りし、そして、民衆の非難、怨嗟、罵倒をすら浴びながら、彼らの未来を守るほかはないのである。』(文化防衛論) このままでは日本は滅びる 日本国家及び日本人の未来を先見して、その運命を衛るのが予言的愛国者の役目であり、青年は勿論あらゆる愛国者たる諸君の役目であらねばならぬのである。三島由紀夫氏はそれについて次の如く言うのである。 『さらに正確に言えば、われわれは彼らの未来を守るのではなく、彼らがなお無自覚でありながら、実は彼らを存在せしめている根本のもの、すなわち、わが歴史・文化・伝統を守るほかはないのである。 これこそは前衛としての反革命であり、前衛としての反革命は世論、今や左も右も最もその顔色をうかがっている世論の支持によって動くのではない。 われわれは先見によって動くのであり、あくまで少数者の原理によって動くのである』と。 この三島氏の言葉の中で注目しなければならないのは、「彼らがなお無自覚でありながら、実は彼らを存在せしめている根本のもの、すなわち、わが歴史・文化・伝統を守るほかはないのである」という一節である。 予言者的愛国者は「実は彼らを存在せしめている根本のもの」――すなわち「実相」を守るのである。「わが歴史・文化・伝統を守る」というのは、偶然的な文化や人種の交流によって生じた歴史や文化や伝統を守るのではないのである。日本人は日本の歴史と文化と伝統との中に生れ、その中に育ってきたのである。 諸君はどこの国ともわからぬ国籍不明の歴史と文化と伝統の中に育って来たのではないのである。 換言すれば諸君は日本の国に根をおろし、日本の国の生命を吸収して、日本の国の生命の顕現として今此処に生きているのである。それが諸君の生命の実相である。 そして、その日本国は何処から生れたのであるかというと天照大御神の「豊葦原の瑞穂の国は世々わが子孫の王たるべき地なり」の神勅よりして生れたのである。 ここに神よりいでたる永遠不磨無窮の日本国家の“中心帰一原理”の根元を見出すのである。 わが歴史・文化・伝統を存在せしめている根本のもの――それを愛してそれを護持するために生命を棄てる――これこそ自己の生命が日本国家の中心生命たる天照大御神の御生命と一体となるのである――三島由紀夫氏はこの意味の愛国心を、単に机上で論ずるだけでなく、革命の進行状況を厳密に見張って、今の時点に於いて日本国民の精神を自覚せしめなかったら、日本国は滅びてしまうという先見のもとにあの壮烈なる行動に出たのであった。 三島由紀夫氏はその「今の時点」が近づきつつあることを、学生騒動がエスカレートして新宿駐車場の焼打事件当時にあらわれた市民が、学生と一緒になって投石等の暴動に参加した市民のモッブ(暴徒)化に見たのである。それについて三島氏はいっている。 『われわれは新宿動乱でモッブ化がどのような働きをするかつぶさに見た。あのモッブ化は日本の何物かを象徴している。あのモッブ化こそは、日本の、自分の生活を大切にしながら刺戟を期待し、変化を期待する民衆の何物かを象徴している。』 「変化を期待する民衆の何物かを象徴する」というのは自民党の保守政治に倦きて来た国民が、むしろ革命という大変化さえも起こればよいと期待するような不安定な状態にあるという意味である。 それゆえに、もうこのまま放置しておいたら此の歴史と文化と伝統のある日本国は滅びてしまう危機感で三島氏は、「もうこれ以上待つことは出来ない」といったのである。 氏ははじめ自衛隊に期待していたけれども、氏が自衛隊に体験入隊してみて直接知ったところでは立派な青年は中にあったが、自衛隊員の多くは国を衛る忠誠心よりも、むしろサラリーマン化していることに絶望した。 氏は大衆は自分について来てくれないことを痛感した。 それで氏はいうのである。 『われわれは自分の中の少数者の誇りと、自信と、孤立感にめげないエリート意識を保持しなければいけない』(以上文化防衛論)と。 |

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