日本の感性をよみがえらせよう

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 江戸時代の経済発展の仕方を見れば、そして、それと西洋における植民地主義による経済発展と比較してみると、日本の国の平和的な民族性がよくわかる。その日本が大東亜戦争で、白人諸国と戦ったのである。勝者の歴史を押し付けられた日本は、日本は間違った戦争をした加害者であり、悪虐非道であり、連合諸国は正義の剣で日本を成敗したように教えられ、封建的な間違った思想の日本人に民主主義という正しい考え方を教えたように歴史では習う。歴史をきちんと調べれば、西洋列強が正義では決して無いことは一目瞭然である。それなのになぜ、欧米列強が正しいと思い込むのか、ごく最近まで人種差別で有色人種を軽蔑して人間扱いしていなかった欧米人のどこが善良で正義であるのか、いい加減に日本人は自虐史観を吹き払うべきである。

■1.自力で栄えるこの豊沃な大地■

   1850年の時点で住む場所を選ばなくてはならないなら、私が裕福であるならばイギリスに、労働者階級であれば日本に住みたいと思う。

  アメリカの歴史家スーザン・B・ハンレーの言葉である。海洋アジアの物産に対抗して、ヨーロッパが暴力的収奪によって近代世界システムを作りあげていた時に、日本はまったく別のアプローチによって、もう一つの近代文明を育てていた。これを江戸システムと呼ぶ事がある。それは庶民にとってみれば、近代世界システムの最先端、大英帝国よりも幸福な社会であった。
 
  その実態はどうだったのだろう? 19世紀後半に世界各地を旅したイギリスの女流探検家イザベラ・バードは、明治初年に日本を訪れ、いまだ江戸時代の余韻を残す米沢について、次のような印象記を残している。
 
  南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕したというより、鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人びとの所有するところのものである。・・・・・・美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。どこを見渡しても豊かで美しい農村である。

  ヨーロッパ人が、他の大陸の土地と人間を暴力的に収奪して、豊かさを手に入れたのに対し、日本人は「自力で栄えるこの肥沃な大地」を築き上げた。それはどのようなアプローチで可能だったのだろうか。

■2.木綿後進国だったヨーロッパと日本■

  前90号で紹介したように、17世紀末にインド木綿がヨーロッパで衣料革命を起こしたのだが、東アジアにおいても、それよりやや早く、同様な現象が起こっていた。そこでの木綿生産は、13世紀末の中国に始まり、14世紀末に朝鮮、15世紀末には戦国時代の日本へと、ほぼ一世紀ずつ遅れて普及した。
 
  室町時代以前の日本人の衣料は、麻であった。綿布は麻にくらべてやわらかく、保温性も良いので、特に冬季の衣料として、一般民衆にも普及した。そのため15世紀前半からの約1世紀間、日本は大量の綿布を朝鮮から輸入した。朝鮮だけではその需要に応じきれず、16世紀半ば以降からは、中国から輸入するようになった。ヨーロッパと同様、日本も木綿生産の後進国として、輸入に頼っていたのである。

■3.黄金の国ジパング■

  何も売るもののないヨーロッパは新大陸から収奪した貴金属を支払いにあてたが、日本はどうしたのだろうか。幸いな事に、戦国時代に鉱山開発が進んだ結果、日本は当時、世界有数の貴金属産出国になっていた。
 
  たとえば銀については、17世紀初頭において、日本を除く世界の年間銀産出高が39〜49万kgだったのに対し、日本の輸出高だけでも16〜20万kgに達していた。
 
  銅についても、シナでは明の時代に貨幣原料の不足を来たし、清代には日本への輸入依存を徐々に高め、18世紀初めには、ほとんど全量を日本銅に依存する状態になった。地大物博の国と呼ばれたシナも、実は貨幣経済の首根っこは日本に押さえられていた。そして日本の銅銭は、シナのみならず、アジア域内交易に広く用いられた。マルコポーロの「黄金の国ジパング」とは、あながち荒唐無稽な形容ではなかったのである。

■4.四大国際商品の国産化に成功■

  高価な輸入品を安く自給して、生活水準を高めたいと思うのは、当然の志向である。前号で紹介したように、ヨーロッパは、アフリカから移送した黒人をアメリカ大陸のプランテーションで働かせて綿花を栽培し、それをイギリスの紡績機で綿布に仕上げるという三角貿易で、綿布の自給体制を作り上げた。これが産業革命の契機となった。
 
  日本も綿布の自給を図ったが、肥沃な土地と温暖な気候に恵まれ、国内栽培が可能であった。15世紀末の戦国時代から広がった綿花栽培は、17世紀末から18世紀初頭にかけて、多肥・労働集約的な農法の開発などで発展を続け、停滞するシナ、朝鮮を凌駕するに至った。
 
  こうして、ユーラシア大陸の両端、木綿生産の最後進国であったイギリスと日本は、19世紀を迎える頃には、綿業の最先進国になっていた。
 
  海洋アジアのその他の物産についても、我が国は次々と国産化に成功した。ペリーが日本に通商を迫ったときには、近代世界システムにおける4大国際商品、すなわち木綿、砂糖、生糸、茶は、すべて自給していたのである。単なる偶然ではなく、これらの商品を自給しようという所から、近代世界システムも江戸システムも発展してきたからである。ただそのアプローチは、あまりにも対照的であった。

■5.余裕の守り■

  江戸時代初期、東南アジア各地には日本町や日本人居留地が作られ、幕府から許可を与えられた朱印船が、さかんに往来していた。1604年からの約30年間に365隻が渡航したという。このまま海洋アジアとの交易が発展すれば、我が国は江戸時代には海洋アジアの一大勢力として、国際化していたであろう。
 
  しかし、暴力的収奪を常とするヨーロッパ人の割り込みが、その発展を大きく阻害した。フィリピンのようなすぐ隣の土地がスペイン人の植民地となり、キリスト教布教を名目とした侵略性は隠しようもなかった。
 
  徳川幕府は、キリシタンを禁制とし、海外発展よりも、内政充実を選ぶ。一般にこれを「鎖国」というが、実際には、上述のように中国・朝鮮などとは活発な交易を続けており、またオランダを通じて、近代世界システムの動きに対する情報収集も怠りなかった。
 
  それらの事象が意味するものは目本の、"守り"であると同時に"余裕"である。外国の怪しげな諸勢力が侵入するのを拒絶する自由独立の意志の表現であると同時に、十七―十八世紀にかけて主権国家体制をとり始めた西欧各国と歩調を合わせ、日本が統一国家としての体制を確立せんとしていた証拠である。

■6.平和の配当による高度成長■

徳川幕府は、当初、豊臣政権の「七公三民(収入の7割を税徴収)」の税率を踏襲したのだが、それらは城下町の建設、陸路・海路の交通網整備、河川堤防の建設、新田の造成など、大規模な社会インフラ整備に使われた。そしてそれらが終わるとただちに、大減税を敢行した。四代将軍家綱の元禄の頃には、「三公七民」と逆転していた。
 
  いわば、戦国時代の後の「平和の配当」である。上述した四大商品の国産化成功ともあいまって、我が国は空前の高度成長期に突入した。江戸幕府創設の直前、1600年の日本の人口は12百万人だったのが、1721年には31百万人と2.6倍にもなった。生活水準も向上し、平均寿命が延びた。[6,p92]
 
  この間の耕地は、225万ヘクタールから296万ヘクタールへと、1.3倍となっている。1.3倍の土地で、2.6倍の人口を養っていたのだから、土地生産性は2倍となったと言える。生活水準の向上を加味すれば、それ以上だ。新大陸など他人の土地を欲しいままに占有・収奪した近代世界システムに対して、江戸システムは限られた国内の土地を最高度に活用したのである。
 
  歴史の教科書には、江戸時代に飢饉ばかりが続いたかのように記述しているが、それは江戸時代の後半、人口が3千万を超えて列島の収容能力限界に達し、また米作が北限の東北地方まで普及していた所に、気候寒冷化が襲ったためである。飢饉を階級的搾取の結果とするマルクス主義史観では、前期の高度成長も、庶民の豊かな暮らしぶりも説明できない。
 
■7.汗と知恵による勤勉革命■

  江戸システムで土地生産性が大幅に向上したのは、より多くの汗と知恵の投入の結果である。飼料のために広い土地を必要とする牛馬を減らし、人力で代替した。そのために土地や作業にあった鍬などの農具が開発された。また都市部の糞尿や生ゴミが農村に貫流されて、肥料として利用されるというリサイクルシステムを確立した。これにより衛生的な都市生活と、農業生産性向上を両立させる事ができた。
 
  さまざまな創意工夫は多くの農書にまとめられ、各地に広められた。それを読むために、一般民衆の就学率、識字率はヨーロッパ諸国に比べても段違いに高い水準となった。
 
  勤勉と教育を尊び、ものを大切にする我が国の文化特性は、江戸システムの発展を通じて、形成されたのである。ヨーロッパの産業革命(Industrial revolution)に対して、日本は勤勉革命 (Industrious revolution)を行ったと称されている。

■8.平和の海■

     春の海ひねもすのたりのたりかな
     高麗(こま)船のよらで過ぎゆく霞かな

  蕪村の句である。のどかな霞の海を朝鮮の船が行く。こちらに立ち寄ってくれたら、退屈もしのげるのに、そのままどこかに行ってしまう。日本は、朝鮮やシナ、オランダと盛んに交易はしていたが、それぞれが互いに干渉もせずに、平和裡に棲み分けていた。
 
  1637-8年の島原の乱から、1867年の大政奉還までの230年間、我が国は静謐な平和に包まれていた。しかし、ペリーの砲艦外交で近代世界システムに巻き込まれた途端、日本は日清、日露、大東亜戦争と過酷な戦争の世界に身を投じなければならなかった。
 
  230年間一度も戦争をしなかった江戸システムと、15世紀以来の500年間に、約1年8ヶ月に1回の割合で戦争をしていた近代世界システムと、両文明の本質的な違いをここに見る事ができる。

国際派日本人養成講座より転載
■1.武士道と企業犯罪■

 「武士道とは死ぬことと見つけたり」 山本常朝の「葉隠れ」の有名な一節であるが、これが武士道とは主君のためにはいつでもおのれの生命を投げ出す、という時代遅れのファナティックな生き方、という誤解を招いたようである。この一節のあとには、すぐこう続く。
    
        武道に自由を得、一生落度なく家職を仕課(しおお)すべきなり
        
  それは生死を超えた自由を得て、一生、落ち度なく家職、すなわち、奉公の勤めを成し遂げるという、武士としての理想の「生き方」を述べたものなのである。上司の命令にやむなく従って企業犯罪に加担した、などという事件が相継いでいるが、これなどは武士道から見れば、もっとも軽蔑すべき生き方だ。武士としての理想の生き方とは、どういうものか、我が父祖らの考えに耳を傾けてみよう。
    
■2.真の「忠節」とは■

 「葉隠れ」は、主君の命令に対する恭順を説いたのち、「さて気にかなはざることは、いつ迄もいつ迄も訴訟すべし」、すなわち主君の命令が自己の信念から見て理不尽だと思ったら、どこまでも「諫言」して再考を求めるべきである、とする。
    
企業犯罪を命ずるような上司には、その理不尽さを訴えなければならない。そして「主君の御心入を直し、御国家を固め申すが大忠節」、上司の誤った心構えを正して、組織をまっとうにすることこそが、大忠節である、という。かつて組織犯罪を犯した食品会社が解散の憂き目にあって、多くの罪もない従業員が路頭に迷うことがあったが、そういう事態を未然に防ぐことこそ、組織に対する「大忠節」というのは、よく理解できよう。
    
    
  しかし、主君に向かって直接、諫言を行う「直諫」では、手討ちにあう危険があり、さらには不忠者、反逆者の汚名を着せられて、子々孫々にまで不利益を及ぼす恐れもある。そんな危険を冒してまで主君に逆らうよりも、大人しくご機嫌取りしているほうが身の安全である。しかし、そういう生き方こそが「不忠者」の生き方だと、武士道では考える。一身の危険、不利益を顧みずして、藩全体のために「主君の御心入を直」すことこそ、忠節の士のなすべき事なのである。
    
■3.わが身の災難を顧みず■

  名君と呼ばれた徳川吉宗の享保改革が軌道に乗り始めた頃、吉宗自身の始めた目安箱(現在の投書箱)に、山下幸内という浪人者が一通の投書を行った。その上書は、全文、吉宗の改革の諸政策を徹底的に批判する内容のものであった。
    
  その倹約政策を「しみったれたもので、天下を治める為政者のなすことにあらず」と断じ、吉宗の鷹狩り好きに対しては「いたずらに民を酷使するのみで無益である」と指弾した。
    
  吉宗が老中以下の主だった役人を集めて、この上書を見せると、彼らは「無礼きわまる」と怒りの色をあらわにした。ところが、吉宗本人は「今の世にもなかなか面白いことを言う者がおるではないか」と言った。そして、
    
  この書面のごときは、いかにも無礼の極みではあろうが、わが身の災難を顧みず、政治の是非得失を直言してくれるのは、天下の政道のためには貴重なことだ。もしこのような者を無礼であるという理由で処罰するならば、世人はもはや物を言わなくなってしまうであろう。それこそが、幕府の政治にとって取り返しのつかない損失となってしまうのである。
吉宗はこう述べて、山内幸内に褒美銀を与えて、その直諫の志を褒め称えたのである。
       

■4.主君「押込」の義■

  しかし諫言しても、主君が聞き入れない場合は、どうなるのか? 現代のサラリーマンでは、諫言が最高度の抵抗であろうが、武士道ではもっと過激な手段があった。藩主が放蕩や暴虐だった場合、あるいは過激な改革で藩政を混乱させた場合などに、家臣団が合意をして、主君を「押込(おしこめ)」と称して拘禁し、時には隠居させてしまうのである。
    
  押込の手順も概ね、決まっていた。まず藩主に対して、家臣が諫言を行い、それが聞き入れられない場合に、家老や重臣を中心に「押込」が議される。そして一同、藩主の前に列座して、「お身持ち良ろしからず、暫くお慎みあるべし」といった定型 の文言を発して、「押込」の執行を宣言する。それとともに、家老の指揮のもとに、目付や物頭など中堅の武士が藩主の刀を取り上げて、藩主を座敷牢などに監禁する。
    
  興味深いことに、藩主は数ヶ月監禁されている間に、家臣側との面談が断続的に行われ、改心の程度がチェックされる。十分改心して、旧来の悪政を改めるだろうという見通しがついたら、藩主は解放されて、もとの地位に戻る。その際に、行状を改めて善政を行うこと、そして「押込」を執行した家臣団に報復を行わない事を誓う誓詞を提出する事が義務づけられていた。
    
  もし藩主に改心の情が見られない時には、そのまま強制的に隠居させられ、代わりに嫡子が藩主の地位につく。

■5.公共のための忠義■

  諫言や押込は、武士の忠義の対象が藩主個人ではなく、藩というより「公」的な共同体に向かっていたことを示している。そして一身の危険、災難という私的な利害を顧みずに、公のために尽くす、というのが立派な武士のあり方であった。
    
  その背景には、江戸時代を通じて発展した公共性の理念があった。徳川幕府に抱えられて、家康から4代家綱まで仕えて、儒書や史書を講じた林羅山(1583―1657)は、「天下は一人の天下にあらず。天下は天下の天下なり」と唱えた。
    
  熊沢蕃山(1619―91)は、武士は藩主から人馬を預かり、藩主は領国を将軍から預かり、将軍は天下を天から預かったものゆえに、主君の天職は「仁政を行ふ」ことであり、臣下の天職は「君を助けて仁政を行はしむる」ことであるとした。
    
  山鹿素行(1622―85)は、人君は天下万民の平和と幸福を保障するための政治的機関であり、「忠」とは主君個人に尽くすことではなく、「国家天下のために」心を尽くすことである、とした。
    
  荻生徂徠(1666―1728)は「御政務の事柄というものは上(君主、藩主)の私事にあらず、天より仰せ付けられた御職分なのである。下(家臣)たる人にても御政務の事柄に関係することに携わる限りは、その時だけは上(君主、藩主)と同役なのである。家臣として藩主に少しも遠慮する必要はないのである。」とした。
    
  ここまでくると、身分の上下は単に職制上の上下に過ぎない事になる。したがって暗愚な藩主が悪政を行っていたら、諫言、押込によってそれを正すことこそ、武士の責務である、ということになる。、武士道とは公共のために忠義を尽くす道であった。

■6.改革の抵抗勢力■

  しかし、主君への諫言といい、押込と言っても、それはあくまで政治的意見の対立であり、主君と家来のどちらが正しいのかは分からない。価値観の違いであったり、権力争いに過ぎないかもしれない。その場合は、どちらが正しいか、どう決めたらよいのだろうか? そこに出てくるのが、衆議公論である。
    
  上杉鷹山は米沢藩の藩主として、見事な藩政改革を行い、天明の大飢饉の際にも、一人も餓死者を出さなかったという業績を残しているが、その鷹山が二十歳過ぎで改革を始めたばかりの頃、上杉家の重臣7名が打ち揃って、諫言の書状を呈示して鷹山に迫ったことがあった。書状は鷹山の改革政治を批判し、改革の旗振り役だった執政・竹俣当綱一党の悪行・罪状を数え上げ、家中・領民の大半は困窮してお上の政治を恨んでいると弾劾していた。
        
    
■7.衆議公論の尊重■

  鷹山はまず監察職の大目付らを呼び出して、7重臣の書状を示して、その理非曲直を問うた。大目付らは、竹俣一党の罪状はおよそ事実を歪曲したものであり、また家中・領民とも改革を支持していると述べた。さらに組頭、物頭など、緒組の頭たちを召し出し、同じ質問をした所、彼らも同様の回答をした。
    
  こうして鷹山は家中の総意を確認した上で、7重臣を呼びだし、首謀者2名を切腹・家名断絶、残り5名を知行一部召し上げ、隠居という処罰を下した。鷹山が周到に衆議の尽くしていため、その処置には誰一人逆らうものがなかった。この事件を機に、家中の結束は強固となり、鷹山の改革政治は順調に進展していく。ちなみに後年、断絶とされた2家は再興され、5家も閉門解除の上、嫡子への家督相続、知行回復が許されている。
    
  鷹山は山鹿素行の影響を受けたと言われ、家督を譲るにあたって次代藩主に訓戒として与えた「国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれなく候」などからなる「伝国の詞」は、同時代の西洋で発達しつつあったデモクラシーに迫る近代的公共思想である。さらに鷹山の公を尊ぶ理念の基盤が、衆議公論にあった点も近代デモクラシーと似通っている。

■8.終身雇用制は武士の自立を助けた■

  戦国時代の武士は、今日の欧米のビジネスマンのようにたびたび主君を変え、少しでも自分を高く売ろうとしていた。それが17世紀の終わり頃、元禄の半ばを過ぎる頃から、多くの武士が一つの藩で一生を過ごす終身雇用制が定着していく。

  この終身雇用制は藩、すなわち共同体への忠誠心を育むと同時に、武士の藩の一員としての権利を保障し、藩主が勝手気ままに解雇することはできない仕組みを提供した。
    
  今日のように終身雇用制が崩壊して、いつリストラの憂き目に会うか分からない状態となると、社員も下手な物言いは解雇の危険につながるので、みな口をつぐんで、上司に対して言うべき事も言えなくなる。終身雇用制は、藩主の独裁権力を制約し、武士の自立性を高めて、一人一人が信ずる所を堂々と主張する権利を守るという効果をもたらした。
    
  同時に自分が一生勤める藩に対して忠誠心をはぐくみ、藩主個人よりも、藩という共同体全体に対して、忠義を尽くすという姿勢を涵養した。自立した武士が、自らの主体性のもとに、藩に献身するという武士道の姿勢は、終身雇用制によって護られていたのである。

■9.年功序列制による実力主義■

  終身雇用制と同様、藩という組織の中で定着していったのが、年功序列制であった。それはどういう家柄に生まれたか、という身分を超えて、下級身分の者でも、長年の経験と功績の積み重ねによって、出世できるという能力主義の原理を織り込んだものであった。
    
  吉宗が導入した足高(たしだか)制は、たとえば勘定奉行は3千石という基準を設け、その基準に満たない下級武士が勘定奉行に抜擢された場合は、差額分が支給されるというものであった。500石の武士なら、在任中は2千5百石が追加支給される。56人の勘定奉行のうち、千石以下の下級武士が49人、90%を占めるという人材登用効果を発揮した。
    
  この年功序列制は、能力ある下級武士にも活躍の場を与えるだけでなく、その能力評価を長年の精勤と功績に基づく客観的なものにするという特徴があった。ここでも上司の恣意的な抜擢や左遷を防ぎ、武士の自立性、主体性を高める役割を果たした。
    
  こうして江戸時代の武士は、国家公共への奉仕を使命とする公共性理念に導かれ、同時に終身雇用制や年功序列制により主君の恣意的な支配を離れて、自立・自尊の立場に立って主体的に献身を行う生き方を理想とした。その理想は、明治時代の官僚に引き継がれ、戦後は企業社会にも広まっていった。
    
  バブル崩壊とともに、押し寄せたグローバリゼーションの大波に、終身雇用制も年功序列制も押し流され、公共性の理念も失った官僚や企業人が一斉に汚職や組織犯罪に手を染めるようになったのも、当然と言えようか。
                                          国際派日本人養成講座より転載

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