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昭和38年 靖国に参拝した米空軍士官学校士官候補生たち 御来訪感謝申し上げます。 昨日16日でお盆が終わりました。今年も靖国参拝が叶わず残念だったのですが、産経新聞系のイザブログでワシントン特派員の古森義久記者が、5年前の小泉政権時に米国の学者が産経新聞に寄稿した「小泉首相の靖国神社参拝への国際的考察」を紹介していました。靖国というと、とかく感傷的になりやすい日本人とは違い、米国人らしいあくまでも理詰めで靖国の存在意義について説いている、素晴らしい論説文です。 お読みになった方もいらっしゃると存じますが、当ブログでも引用紹介させていただきます。 ----------------------------------------------------- 【靖国参拝の考察】ケビン・ドーク 米ジョージタウン大教授 2006年05月25日 産経新聞 東京朝刊 1面 ■毎月訪れて、敬虔さ示せ 私は日本の近代史、とくにナショナリズム、民主主義、文化などを専門に研究する米国人学者として、靖国神社をめぐる論議には長年、真剣な関心を向けてきたが、自分の意見を対外的に表明することは控えてきた。靖国問題というのは日本国民にとって祖国への誇りや祖国を守るために戦没した先人への心情にかかわる微妙な課題であり、あくまで日本国民自身が決めるべき内面的な案件だと考えてきたからだ。 ところが最近、中国だけでなく米国の論者たちが外部から不適切な断定を下すようになった。だから私も日本の自主性への敬意を保ちつつ、遠慮しながらも意見を述べたいと考えるようになった。私の意見は日本の国民や指導者が自らの判断で決めたことであれば、靖国参拝をむしろ奨励したいという趣旨である。その理由を、これまでの論議でほとんど語られていない観点からの考察も含めて説明したい。 民主主義社会の基礎となる個人の権利や市民の自由は他者の尊厳への精神的な敬意が前提となる。とくに敬意を表明する相手の他者が死者となると、それを表明する側は目前の自分の生命や現世を超えた精神的、精霊的な意味合いをもこめることとなる。 死者に対しては謙虚に、その生前の行動への主観的な即断は控えめに、ということが米国でも日本でも良識とされてきた。死者を非難しても意味がないということだ。ましてその死者が祖国のための戦争で死んだ先人となると、弔意には死の苦痛を認知できる人間の心がさらに強い基盤となる。その心の入れ方には宗派にとらわれない信仰という要素も入ってくる。 以上が現在の米国でも日本でも戦没者を悼むという行為の実情だろう。小泉純一郎首相の靖国参拝もこの範疇(はんちゅう)であろう。首相自身、自分の心情を強調し、政治的、外交的な意味を否定しているからだ。それに対し外部から無理やりに政治や外交の意味を押しつけ、参拝の中止を要求することは人間の心を排除し、民主主義の基本を脅かすことになりかねない。個人の精神の保ち方や信仰のあり方が脅かされるからだ。 だから私は挑発的と思われるかもしれないが、小泉首相に年に一度よりも頻繁に、たとえば毎月でも靖国を参拝することをまじめに提案したい。そうすれば首相は反対者の多くが主張するように戦争や軍国主義を礼賛するために参拝するのではなく、生や死に対する精神、信仰の適切な応じ方を真に敬虔(けいけん)に模索するために参拝していることを明示できる。その明示の最善の方法は信仰にもっと積極的になることであり、そのために儀式上どのような祈念の形態をとるかは首相自身の権利として選べばよい。 首相は戦没者の慰霊には靖国ではなく千鳥ケ淵の無名戦士の墓のような所に参ればよいという意見もある。しかし普通、生きている人間が死者に弔意を表することには現世を超越した祈りがこめられる。信仰とはまったく無縁の世俗的な場での戦没者への追悼では遺族にとっても重要な要素が欠けてしまう。国家としての追悼として不十分となる。 米国でもアーリントン墓地での葬儀や追悼にはなんらかの信仰を表す要素がともなうことが多い。往々にしてキリスト教の牧師らが祈りの儀式を催す。葬儀が教会で行われるのも同様だ。日本でも葬儀が寺や神社で催されるのは、別に参加者が一定の宗派の信者でなくても、死者に対し精神あるいは心情からのなにかをささげるからだろう。靖国参拝も現世を超えるそうしたなにかをともなう慣行だといえる。靖国に参拝するためには神道の主義者でも信者でもある必要はないのだ。この事実は靖国参拝が特定の宗教への関与ではないことを裏づけている。宗派を超えた深遠な弔意表明とでもいえようか。 ◇ ■教皇庁も認めた「慣行」 小泉純一郎首相の靖国参拝はいまや現代の政治課題にされてしまったが、その靖国問題に少し距離をおき、歴史をさかのぼってみよう。一般に靖国をめぐる論議は戦後だけのことと思われているが、実際には戦前の一九三〇年代にも似た現象があった。三〇年代の日本といえば、多くの歴史学者は個人の自由が抑制され、とくに宗教の自由は国家神道で阻害され、なかでも日本のキリスト教徒たちの自由や権利が、靖国神社により侵されていたとみなしがちな時代である。 だが現実はそうではなかった。日本では明治憲法で保障された宗教の自由が第二次大戦中までも保たれた。戦時の日本の政界や学界では今中次麿、田中耕太郎両氏らキリスト教徒が活躍した。そんな時代の一九三二年五月、上智大学のカトリック信徒の学生たちが軍事訓練中に靖国への参拝を命じられたのを拒み、その拒否を同大学のホフマン学長も支持するという出来事があった。参拝が宗教の押し付けになりかねないという懸念からだった。 だが、東京地区のシャンボン大司教が文部省や陸軍省に参拝が宗教的行事かどうかを正式に問うたところ、「参拝は教育上の理由で、愛国心と忠誠を表すだけで、宗教的な慣行ではない」との回答を得た。これを受け、ローマ教皇庁は三六年五月に日本の信徒に向け、「靖国参拝は宗教的行動ではないため日本のカトリック信徒は自由に参拝してよい」という通達を出した。 その結果、日本のカトリック教徒は自由に靖国を参拝するようになったが、ローマ教皇庁が事実上の独立国家として日本政府の「靖国参拝は宗教的慣行ではない」という見解を尊重したことの意味は大きい。日本国民の自国への独自の価値観や愛国心をそのまま認めたということだからだ。日本という主権国家の内部での慣行への尊重だといえる。しかも、さらに重要なのは教皇庁が戦後の一九五一年にも三六年の靖国参拝に関する決定を再確認し、現在にいたっているという事実である。 戦後も敬虔(けいけん)なキリスト教徒だとされる大平正芳氏や吉田茂氏などの首相が靖国に参拝している。参拝しても神道の宗教行事への参加ではないからだ。小泉首相の参拝も同様である。私人か公人かという区分も意味がない。米国ではブッシュ大統領がキリスト教会を訪れても公私の別はだれも問わないし、それが宗教的礼拝であっても、米国内の仏教やユダヤ教、イスラム教などの信徒たちは自分たちの権利が侵害されたとはみなさない。 小泉首相の靖国参拝はA級戦犯合祀(ごうし)のために戦争の正当化となるからよくないという主張がある。私は、靖国が決してA級戦犯だけでなく、祖国の戦争のために亡くなったすべての人たちの霊をまつった神社であり、その先人たちの行動を絶対の正確さで善か悪かを判断する立場には現代の私たちはないし、戦犯とされる人の霊に弔意を表したから、その人の生前の行動すべてに賛意を表明するわけでもない、と反論したい。 生きる人間は生や死に対し謙虚でなければならないとも思う。国家の指導者に対しては、彼らのいまの政策にはいくらでも反対し、非難もできる。だが遠い過去に死んでしまった故人の行動を非難しても、もう故人は弁護はできない。死者の行動の善悪をはっきり断定できるほど、私たちが完璧(かんぺき)だとも思えない。戦没者への弔意表明に関する限り、過去の戦争の是非のような判断は未来の世代、次の世界、あるいは神に委ねることが適切だと思う。 米国では南北戦争で敗れた南軍将兵の墓地が連邦政府の資金で保存され、政府高官を含めて多数の米国人が訪れる。国立のアーリントン墓地にも一部の南軍将兵が埋葬されているにもかかわらず、歴代大統領が訪れ、弔意を表す。南軍はアメリカ合衆国に敵対して反乱し、しかも奴隷制を守るために戦った軍隊だった。 小泉首相の参拝反対への理屈をそのまま使えば、米国大統領が国立墓地に参拝することは南軍将兵の霊を悼むことになり、奴隷制を正当化することともなってしまう。だが、米国の歴代大統領も国民の大多数もそうは考えず、戦没者のすべてが子孫からの敬意を受けるに値すると判断し、実際に弔意を表するのだ。日本側でそう考えたとしても、どんな支障があるのだろうか。 ◇ ■慰霊への干渉は不当 中国政府が小泉純一郎首相の靖国神社参拝を軍国主義や戦争の美化と結びつけて非難することは あまりにも皮肉な倒錯である。 いま中国が異様なほど大規模な軍拡を進めていることは 全世界が知っている。 その軍国主義の中国が日本の首相の神社参拝をとらえて、軍国主義だと非難するのだ。 首相が神社に参拝するからその国が軍事的だという主張は 悪い冗談のようであり、 靖国をあくまで糾弾するのならもっと真剣な理由を探してほしい。 靖国参拝を軍国主義と結びつけるのは中国側の口実にすぎないのだ。中国が靖国を攻撃する背景には 政治や外交の武器にするという目的以外に、信仰や宗教を脅威とみて、反発するという現実がある。 中国政府は共産党員に主導され、共産主義者はみな公然たる反宗教の無神論者だ。 共産主義の教理上、あらゆる宗教や信仰を 本質としては認めないという立場であり、その非民主的な指針を民主主義の外国である日本に押しつけようとしているのだ。 その指針の適用の行き着く先は、市民の自由や人権の弾圧となる。 中国は日本のA級戦犯を非難するが、東条英機氏らがたとえどんな悪事を働いたとしても、毛沢東氏が自国民二千万以上を 殺したとされることに比べれば軽いだろう。 だが毛氏は死後に中国で最高の栄誉を与えられ、国民が弔意を表する。 中国が日本に対して主張する理屈に従えば 生前の「犯罪」のために弔意を表してはならないことになるのだろうが、私は中国人が毛氏の霊に弔意を表する権利を認めたい。 外部の政府や人間の関知することではないのだ。 --------------------------------------------------------- 字数制限の関係上、敬天のコメントは控えますが、平素“反靖国”を標榜する連中の主張が見事に論破されています。 ※人気ブログランキング(政治部門)に参加しています。 https://blog.with2.net/in.php?687099
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