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2011年08月28日
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学校で教えない歴史(二・ニ六事件 番外編)
「ビルマの悲風」 〜誇り高き男 小川三郎〜
二・ニ六事件で連座した中に小川三郎という熊本男児がいました。
まったく語られることのない日本男児をこのまま消すのは惜しいと思い、ここに記しておきます。
・・・・・
大東亜戦争でシンガポールが陥落する直前、
タイのバンコクに岩畔機関(いわくろきかん)という特務機関ができました。
その機関はインド義勇軍を組織して対インド独立工作を進めるというのが主な任務でした。
その機関員に小川三郎という少佐が配属されてきました。
機関長の岩畔豪雄大佐がその考課表を見ると、
「陸士第三十八期生卒業 序列が尻から二番目 二・二六事件に連座して停職六カ月」
という豪の者で、機関長はどんなポストに使うべきか一寸迷っていました。
ある晩、夕食のとき、機関長は単刀直入に小川少佐に聞いてみた。
「君は陸士の卒業序列が尻から二番だがあまり勉強しなかったんだろう」と言うと、
小川少佐はすかさず「実に残念でたまりません」と答えた。
機関長はてっきり勉強もしてみたが不成績に終わって残念だという風に、ごく普通の解釈をした。
ところがそうではなかった。
「私は陸士卒業の時、ぜひビリで卒業したいと努めたが、惜しくも念願がはずれて、尻から二番に止まり実に残念無念でした。ビリの卒業というのはなかなか難事中の難事ですね」
と笑って答え、さすがに剛腹の機関長も呆気にとられた。
(チャンドラ・ボース)
大東亜戦争が進んでインドの志士チャンドラ・ボースをドイツから迎えてインド義勇軍の首領とし、小川中佐はその連絡に任じていました。
当時、インパール作戦後のビルマの日本軍は戦勢利あらず、後退に後退を重ねていました。
サルウィン河畔に踏みとどまっていたチャンドラ・ボーズに対し小川中佐は言った。
「早く後方の国境山脈まで退られよ」
とすすめたが、何といっても聞き入れぬので、これ以上やせ我慢すべきではないと諌めた。
するとボースは言った。
「約100名の女子義勇軍をラングーンに残していながら男の自分だけがどうしておめおめ後退できるか」
小川中佐はこれに応じて
「わかった。私も日本人だ。日本軍人だ。誓って私が責任を以て女子義勇軍を救出し、貴方の膝下に連れ帰るから安心して後退せられよ」
と言うなり方面軍の後方担当参謀のところにやって来て
「最小限4台のトラックを融通してくれ」と頼んだ。参謀は1台もないという。
何とか工面してくれと迫ったがない袖は振れぬという。
小川中佐は厳然として
「ない袖を振るのが参謀の真の役割だ。ある袖を振るのなら誰でもできる」
続いて言った。
「自分はインドのボース首領に誓ったのだ。ラングーンに残された女子義勇軍は日本人の面目にかけても断じて救出すると。今度の大戦はあるいは敗戦の破局を迎えるかもしれぬが、たとえどんな、どん底に陥っても日本人は嘘をつかなかった。どんな逆境に立っても日本の軍人は最後まで信頼できるとのイメージをインドの人たちに残して死にたい。形の上の戦争ではたとえ敗れても心の上の戦争では敗れておらぬ証拠を世界の人々に示すべき絶好の機会だ。4台のトラックはこのため何とかしてくれ」
と熱情をこめて言い放った。
黙々としてその言葉を聞いていた参謀は何も言わず、
どこからか4台のトラックを工面してきました。
小川中佐は喜んでこれを受け取るとまっしぐらに包囲化の首都に駆けつけて無事、女子義勇軍約80名を救出し、ボース首領の手元に連れてきました。
その後、小川中佐は南ビルマの戦闘で戦死した。
インパール作戦はまれにみる凄惨な戦いでした。
退却の戦闘で最も困難とされるのは「しんがり部隊」の行動です。
その困難である「しんがり」を自ら買って出たのが小川でした。
退却する友軍を安全な地帯まで後退させるため、小川は幾多の困苦欠乏に耐え、
苦心惨憺の結果、その任務を十分に果たし得たのです。
もうこれで大丈夫、と思われる地点までたどり着いた時、小川は突然、踵(きびす)を返して、
今来た方向に逆行して、ついに消息を絶ってしまいました。
・・・・・
私達の同窓にこんな誇り高い男がいたと言うだけでも肩身の広い感じがする。
たとえ日本の陸軍が滅びても、また熊本幼年学校はなくなっても、
こんな物語だけは後の世にぜひ残しておきたいものである。
日本の中にこんな考えの男がいたことを永久に残したいものである。
(大蔵栄一)
・・・・・・
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学校で教えない歴史 31 (二・ニ六事件 不可解)
1936年2月26日、二・二六事件が起きました。
この事件の詳しい内容についてここでは触れません。
ただ、1931年の三月事件からこのシリーズを書き続けて、
どうしてこのようなことが起きたのかは理解されたことと思います。
さて、この事件直後、不可解なことがありますのでいくつか書き出してみます。
・・・
昭和41年の『華族―昭和百年の側面史』で木戸幸一は告白しました。
「二・二六事件が起こることを知っていた」
「僕は1カ月も前から情報をキャッチしていましたよ。今度は軍はえらいことをやる。千人くらいの人間が動くという情報なんです」
当時、内大臣秘書官である木戸幸一はこのような情報を得ていたにもかかわらずそのまま放置していたのです。
また、この木戸幸一の息子木戸孝澄は二・二六事件が起きる前夜に級友である東宮侍従長 黒木従遠に電話をかけてこのように言いました。
「今夜あたりからいよいよ決戦になるらしいぞ」
黒木は親友の道明を誘い、暮夜ひそかに寮を抜け出して市ヶ谷方面へ向かったのです。
西園寺公望も事件を事前に知っており、事件の時には静岡県の官舎に避難していました。
事件後の3月14日、西園寺公望の弁護士の鵜沢総明は陸軍大臣になった寺内寿一にこのように話した。
「(西園寺)公爵は二十五日に既に二十六日の事変を知っておられたそうだ」
伊藤章信が戦犯容疑にて巣鴨にいる時、児玉誉士夫にこう語っています。
「二・二六事件の指導者の一人から重臣に通するものがあって失敗に終わった。
もしあの事件が成功しておれば日支事変はあるいは起きなかったかも知れぬ」
(「われはかく戦えり」児玉誉士夫)
河野司編『二・ニ六事件』の特別資料中に、三月七日午前十時、第一師団参謀長舞伝男大佐が第一師団司令部において公表した口演要旨が収録されています。
それには「我国家国軍を破壊するため、第三国より資金を提供しある疑いあり」とあります。
真崎は二・ニ六事件の軍法会議に5項目の疑問点を提示して真相の究明を求めた。
その中の一つにこうあります。
昭和11年7月10日、磯部と私は対決せらるることとなり、
私は先に入廷し磯部を待って居たが、間もなく磯部は大いにやつれ入り来り、
私にしばらくでしたと一礼するや狂気のごとく昂奮し、直ちに
「彼らの術策に落ちました」と言うた。
私は直ちに頷けるものがあったけれども、故意に、徐々に彼を落ちつけて、
「術中とは何か」と問い返したれば、沢田法務官は壇上より下がり来たりて、
「其は問題外なる故触れて下さるな」と私には言い、
磯部には「君は国士なる故そんなに昂奮せざる様に」と肩を撫でて室外に連れ出し、
これだけで対決を終わった。
何のことかわからぬ。私は不思議でたまらなかった。
さて、二・ニ六事件後、統制派は世上の言論取り締まりに陰険と過酷を極めました。
新聞・雑誌の記事は厳重に検閲され、いささかも反乱将校に同情めいた記事を載せたり、
軍の発表しない機微な情報を伝えたものは片っ端から発売禁止され憲兵隊の取り調べを受けました。
多少たりとも反乱将校と親しかった者は軍人、民間人問わず残るとこなく検挙されたのです。
個人の親書も検閲を受け二・ニ六事件の消息を伝えたものはことごとく呼び出しを受け、
その出所を追及され、中には学生が二・ニ六事件の話をしていただけで私服憲兵にそれを聞かれ拘引され、その消息の出所を同学生の母親以下芋づる式に十六人まで追求検挙された事実もあって、
暗黒裁判進行中の世上は陰鬱に満ちていました。
二・ニ六事件の軍法会議の主任検察官である匂坂春平。
彼の書いた匂坂資料には軍首脳部では始めから反乱将校全部を死刑にする方針を決定しており、無期禁固の将校たちまで死刑にする判決予定書がありました。
幸徳秋水の明治天皇暗殺の大逆事件でさえ死刑に決定した24名のうち12名が死を減ぜられたほどであるのに・・。
二・二六の裁判は4月28日の第一回公判開始から2カ月で結審、判決処刑という異例の速さで終結した。
判決を下そうという時、突然寺内寿一陸相から各裁判長に集合命令が下り、
各裁判長に被告に対する処断の見解を質問した。
民間人を受け持っていた吉田裁判長が、
「北一輝と西田税は二・二六には直接の責任がない」と不起訴ないし執行猶予を主張すると
寺内陸相は「両人は極刑に処すべきである。両人は証拠の有無にかかわらず黒幕である」
と極刑判決を示唆した。
昭和29年2月7日号の週刊読売によると、匂坂家にある二・二六調書には軍首脳部でははじめから事件に参加した将校は全員死刑の方針だったようで、予め死刑と刷り込んだ判決予定書を捧呈関係者に配布し、その判決予定に主任検察官の匂坂春平法務官も苦慮しながら死刑の判決に同意したとあります。
戦後、匂坂は自宅に閉じこもったままの生活を送り、
毎年2月26日の賢崇寺で行われる仏心会の法要には、
玄関に姿を見せるだけで名刺を置いて
「匂坂が来たということだけお伝えください」と言い残し退去していた。
その匂坂も昭和29年9月8日、老衰から滅入るような往生でした。
その日はきしくも、北一輝、西田税、村中孝次、磯部浅一の四人が
東京衛戌刑務所で銃殺刑に処せられた17回忌の日でした。
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