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二ヶ月に一度二ヶ月分の二冊の冊子を、知らない人がいつも持ってきます。その冊子をパラパラめくっていたら、次の記事が目につきました。今も昔も災害時の日本人は冷静で親切だったのですね。
この地震で日本人がわかった。日本人の本当の親切ということがわかった=田山花袋 出久根達郎
明治29年6月15日午後7時30分頃、三陸沖でマグニチュード8,5の海底地震があり、その四十数分後に、青森、岩手、宮城の太平洋岸に津波が押し寄せました。死者、行方不明者、約二万二千人。当時の新聞には、「三陸海嘯(かいしょう)」とあります。海嘯とは、津波のことです。
出版社「博文館」の社長の娘婿・大橋乙羽は、被災地の惨状に心を痛め(みずから現地を視察した)、義援金を集めて贈ることを決意しました。
知るかぎりの文筆家や画家に声をかけ、原稿や絵の寄贈を願いました。原稿の枚数や内容を問わない。この度の災害に関係のない文章でも構わない。ただし、締切まで五日間しかありません。依頼したのが、6月27日と28日で、締切が7月3日。5日の夜に、作家の徳田秋声と編集作業をしましたが、この時点で70余編の作品が集まりました。最終的には九枚の絵と、八十五編文章をまとめ、7月25日付で、『文芸倶楽部』臨時増刊号を発行しました。
タイトルは、「海嘯義捐小説」といいます。月刊誌『文芸倶楽部』の定価は十五銭ですが、この号に限って定価は二十銭、全額を義援金として贈りました。
寄稿に応じたのは、森鴎外や尾崎紅葉、幸田露伴、島崎藤村など、当時の大家、花形、流行作家、そして新人作家など多彩です。
樋口一葉も、「ほととぎす」というエッセイを寄せています。一葉はこの年の11月に、24歳で病没しています。亡くなる4ヶ月前の貧窮にあって、しかも重い病床から、三陸の人たちにエールと志を届けているのです。
そして一葉が密かに恋心を抱いた師の、半井桃水(なからいとうすい)も短編を寄せています。夏目漱石は熊本の五高教授で、作家デビューしていません。
後に短編「蒲団」で注目される田山花袋は、この頃は紀行文で一部に認められている若者にすぎませんでした。
「一夜のうれひ」というエッセイを書いています。眠れぬままに死を考えるというもので、明らかに三陸海嘯に触発されての内容です。
花袋は、のちに『東京震災記』という、大正12年9月1日の関東大震災のルポルタージュを出版しています。
地震当日から4ヶ月間ほどの、東京や東京近郊の様子を記録しています。歩いて、見たままを描いています。
震災3日目、四谷駅近くに停車している電車の横腹に、「朝日新聞特報」と大書され、食糧は飛行機の活動によって、大阪より送られつつある、市民諸君よ心配するな、というような意味の文章が記されてありました。すれ違う人が、「大きな揺り返しがくる」とか、「囚人が放された」とか、勝手なことをどなっていきます。不確実な情報の怖さを、花袋は記しています。
箱根や小田原方面から、続々と避難者が東海道線のレール上を歩いて東京にやって来ます。避暑に出かけていた人たちです。外国人も、まじっています。一人の外国人が着ているシャツを指さしながら、「こんなに日本人が親切とは思わなかった」と感嘆しています。裸で歩いていると、道ばたにいた見ず知らずの人が、気の毒がってシャツをくれたというのです。「日本人、えらいですな!こういう災厄に逢っても、びくともしない。決して慌てない。それに親切だ!これは私達の国ではとても見られないことです」と続けてこうした言葉を語りました。
『東京震災記』は大正13年4月に刊行されました。出版社は、かの博文館でした。
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2011年09月16日
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朝鮮式の水の飲み方を本会議場で披露する人たち。
なぜか?
何のために?
誰に見せるために?
普通に考えたら日本の国会議員であれば公の場でこういう恥ずかしいことはしないはずです。
しかし、これが現実なのです。
こういうことをして日本国民がどう思うか、考えが及ばないようです。
それほどまでに感覚がマヒしているとしか思えない。
こういうことは堂々とやっても、靖国神社への公式参拝はしない。
「国に殉じた方には敬意は当然」と言いながら、「公式参拝はしない」と表明した野田総理。
しかし、敬意とは公式参拝してこそ言える言葉ではないでしょうか。
公式参拝もしない総理が「敬意している」と口先で言っても何も伝わってくるものがありません。
総理としての自覚を欠いているとしか思えない。
政治家、特に総理になった人間は近年、靖国神社には公式参拝しない日本。 その姿勢は国が靖国に祀られた英霊たちを認めないと言っているに等しいことともいえます。
しかし、これほど冷たい仕打ちはない。
もはやA級戦犯など日本にいないことはすでに広く知れ渡っており、これは理由とはならない。
英霊たちの死を総理が、つまり日本という国が受け入れないということです。
英霊たちは誰のために、何のために、散華されたのでしょうか。
御国のために散華されたのです。
そのことを認め、国家として参拝するのが国の責任であり国の長の務めであるはずです。
総理になる者は口先だけではなく黙って行動で示してこそ日本国の総理といえます。
他国が何を言おうと毅然と参拝することが本来あるべき姿なのです。
そして、英霊がきっとお望みされている天皇陛下の御親拝こそ政治が決断すべきことです。
しかし、政治のふしだらさは冒頭の写真の通りであります。・・・
思うに、英霊たちも本当はもっと生きたかったに違いない。
妻や子供たち、父や母とともに暮らしていたかったはずです。
しかし、「国」が戦争という非常事態であり、
国がなくなるかどうかの事態であったからこそ、
「私」をすてて「公」のために自分の命を捧げたのです。
これを、好戦的であったとか、軍人が悪かった、などという人間がいますが、
国のために殉じた死者に鞭打つその姿勢は、もはや本来ある日本人の精神に反するもので、
チャイナや朝鮮の精神と同じではないかと思うところです。
英霊たちが涙をのんで潔く戦ったからこそ今の日本があることに感謝もできない。
戦わねば今の日本はなかったのは誰でも理解できるはずです。
そして、本来そこをきちんと教えるのが学校教育であるべきであると思います。
戦わねば植民地の生き地獄を味わって日本がすでに消滅していたかもしれない。
あり得ないことではなかったはずです。
我々の先輩たちはかつてアジアの植民地支配からの独立にご尽力されました。
我々日本人は、先輩のやってきた大義を忘れ、
その先輩たちを悪いやつだと批判し、散華した先輩たちを感謝することもせずに、
日本は平和憲法という名のもとに民主主義という名の社会主義と、
平和という名のひ弱で道徳観のない堕落しただらしのない国になっていることの自覚もなく
平和を謳歌していると錯覚しているのです。
チャイナがチベットや新疆を併呑した植民地主義に対しても何も言えず、
我が同胞を北朝鮮から救い出すこともできない日本。 そんな今の日本が先輩たちを、悪い、悪い、と責めることができるのか・・・ 考えて欲しい。 ・・・・・・
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靖国神社(一)では靖国神社のあらまし、靖国神社(二)では、靖国問題の根っこについて持論を述べさせていただきました。
今回は、世界から見た靖国神社について述べさせていただきたいと思います。
靖国神社(一)でも述べましたが、どこの国でも、祖国を守るために斃れた戦死者に敬意を表する場所があります。
アメリカのアーリントン国立墓地、イギリスのウェストミンスター寺院、台湾の忠烈祠、韓国の国立墓地、中国の人民英雄記念碑、インドネシアのカリバタ英雄墓地など、形は様々ですが、国民の魂のより所とも言うべき聖地になっています。
いかなる宗教を持とうとも、国のために亡くなった人々の魂を鎮める場所を求めるのは世界共通の心情であり、近代国家の成立とともに世界各国はそれぞれの伝統に基づいて戦歿者追悼の国家施設を生み出してきました。 交通手段の発達とともに外交使節や政治家の往来が活発化し、相手国を訪れた際には戦歿者追悼施設に敬意を表することが外交儀礼のひとつとして重視されるようになりました。
戦前、靖国神社も多くの外国要人、国家元首が参拝しました。
多くは欧米からの参拝でした。それはタイを除く多くの民族が、欧米の統治下にあり、独立国家ではなかったからです。
昭和六年八月二十七日、大西洋単独飛行で有名となったアメリカの飛行士リンドバーグ夫妻が、昭和七年三月二日、イギリスのリットン卿一行が参拝しています。
リットン卿一行とは、国際連盟リットン調査団のことで、我が国の満洲政策を実地に調査し、批判的な調査報告書を提出したことでよく知られていますが、我が国の行動を非難したグループでも、靖国神社には正式に参拝している事実を知る時、戦争の評価とは無関係に、戦歿者に敬意を表することが国際儀礼であることを改めて実感させられます。
昭和十六年十二月八日の大東亜戦争勃発とともに、参拝する外国要人の顔触れもがらりと変わり、我が国の同盟国の要人と、大東亜戦争を契機に欧米宗主国の軛くびきから脱し、独立を獲得し始めたアジア諸民族の代表者たちが次々と参拝しています。
大原康男著『神道指令の研究』では次のように述べています。
未曾有の敗戦の中で、敵・連合国のGHQは我が国を占領し、「再びアメリカを始めとする連合国の脅威とならないようにする」ため、我が国の諸制度に根本的な改変を加えてきた。特にGHQの中には、軍国主義・超国家主義を廃絶するという観点から、靖国神社と護国神社の廃絶を主張する者もいた。
しかし、ポツダム宣言で保障した「信教の自由」という建前はもちろん、それ以上に靖国神社・護国神社の存続を願う一般国民の願いを無視することはできず、神社の廃絶まではいかなかった。
特に神道に対して敵意丸だしの神道指令を起草したGHQの民間情報教育局(CIE)の幹部は、当初、神社の祭典は軍国主義的な行事や扇動的な説教があると思い込んでいたようであるが、終戦直後の昭和二十一年二月、靖国神社の祭典を視察した際、軍国調とはおよそかけ離れた静かで簡素な、しかも清浄な感じのものであったため、予想に反した強い印象を受け、これがきっかけとなって、靖国神社のみならず神社神道に対するGHQの認識が大きく変わったようである。
我国を侵略国として非難するためにGHQが開催した政治ショーである極東国際軍事裁判の効果もあって、国際社会において我が国は残虐な侵略国家との烙印を押さた。当然のことながら、靖国神社に対しても圧倒的なマイナス・イメージを植え付けられたのです。それでも、肉親を戦争で亡くした日本人の大多数は靖国神社に対する崇敬の思いを変えることなく、国家による靖国神社護持を強く政府に求めていきました。
しかし、GHQの政治宣伝に惑わされることなく、靖国神社を日本の公的な戦歿者追悼施設と見なす外国要人(在日米軍幹部を含む)も決して少なくはなかったのです。
神道指令の法的拘束により、日本政府は表向き靖国神社にかかわることはできなくなり、訪日する外国要人に靖国神社参拝を勧めることは難しい事態となったにも関わらず戦後、靖国神社に参拝した外国要人たちのほとんどは自ら望んで参拝してくれたのです。
その行動は外交的な儀礼にとどまらず、我が国の戦歿者に対する、特別な思いの現れとして受け止めることができます。
戦前に比較して、外国元首の参拝が少ないのは、外務省が「靖国神社は日本の公的な戦歿者慰霊施設ではない」という考えをもっているからである。実際にアメリカのアイゼンハワー大統領が参拝して日本の戦歿者に敬意を表したいと要望したのに対し、外務省が難色を示して潰れたことがあり、中国などから首相の公式参拝を批判された昭和五十四年以降は、参拝を公式日程に入れることを希望した元首級の要人に対して、外務省が婉曲的に反対しているので、元首クラスの参拝は、ほとんど実現を見ていないのが真実です。
世界各国の練習艦隊が遠洋訓練の途中、日本に立ち寄り、日本の戦歿者に敬意を表するべく靖国神社に正式参拝するケースもあります。
戦後初めて正式参拝に訪れた外国軍隊は、フランスの練習艦隊でした。
昭和三十八年二月十一日午前九時、遠洋訓練の途中、日本に立ち寄った巡洋艦ジャンヌ・ダルク号、護衛艦ビクトール・シェルシエ号の士官候補生及び乗組員百六十名は分乗したバスから降りて、神門前に整列。軍楽隊を先頭に隊列を整えて発進した。真っ白な手袋にゲートル、礼装用の剣を携え、中庭に参進。横隊に整列し、修祓の後、ジャンヌ・ダルク号艦長ストレリー大佐が本殿木階下に花輪を奉奠、この時ストレリー大佐以下全隊員軍楽隊の奏楽とともに捧げ銃をし、一分間の黙祷を捧げました。 昭和三十九年十月七日には、練習艦隊で来日中のイタリア陸海空三軍の士官候補生九十名が、ジュリオ・アンドレオツテイ国防大臣、練習艦隊司令官ダラデーネ海軍中将とともに参拝してくれました。
大東亜戦争で被害を蒙ったと主張する中国人や、欧米統治下における中間管理者としての地位を失った東南アジア諸国の一部華僑が今なお、大東亜戦争のシンボルとして靖国神社を非難していることはご存知だと思います。
しかし、
「アジア=大東亜戦争の被害者」という構図だけでは、なぜアジアの要人たちが次々に靖国神社にそれも自主的に参拝するのかは理解できないでしょう。
アジアには、中韓両国とは違った感情が存在しているのです。
昭和三十年代に入ると、大東亜戦争とその後の独立戦争を勝ち抜いて独立を達成したアジアの要人たちの参拝が増えてくる。特にビルマ(現ミャンマー)、インドネシア、タイの要人が参拝しました。
ビルマのタキン・バセイン副首相は何度も来日し、そのたびに靖国神社に参拝しています。
ASEANセンターの中島慎三郎氏によると、タキン・バセイン氏はある時、靖国神社の社頭で参拝し、涙を浮かべてこう語ったという。
「ビルマの独立のためにたくさんの日本兵が死にました。アジアが貧乏で弱いから、独立というビルマ自身の仕事を日本兵に頼みました。(インパール作戦では)二十万以上の日本兵が死去しました。いまもビルマの山野に眠っています。ビルマ人は兵隊さんに申し訳無いと思っています。ビルマ人は兵隊さんの志を忘れません。兵隊さんよ、ビルマを立派な国にするから見ていて下さい。兵隊さんが作ってくれたタイ・ビルマ(泰緬)鉄道は使っています。兵隊さん、ありがとう。」 と・・・・
ビルマは、独立運動の指導者として有名な「三十人の志士」が日本軍の鈴木敬司大佐(南機関)によって育てられた上、昭和十八年八月一日、日本軍の支援のもと独立を宣言した(国家代表バー・モウ)という経緯もあって、日本を抜きにしては独立を考えることはできない歴史を持っています。
インドネシアの政府関係者の参拝も多いのです。
三百五十年にわたってオランダに支配されたインドネシアはその間幾度となく、反オランダ独立闘争を起こしましたが、その都度制圧されていました。
それだけに、僅か七日間余りで宿敵オランダを打倒した日本軍に対する期待は熱狂的でした。そして日本軍に物資や労務を提供する代わりに、インドネシア人による軍隊(独立義勇軍=ペタ)の結成や官僚組織の確立、教育体制の整備などを日本軍の支援のもとに着々と進めました。
日本軍は降伏しましたが、二日後に独立を宣言し、再び植民地化を目論むイギリス、そしてオランダ軍と四年間にわたって激しい独立戦争を戦い抜いた。この独立戦争のために、日本軍はひそかに大量の武器や資金を提供しただけでなく、約千人(一説では二千人)の日本兵がインドネシアに残り、独立軍の一員としてオランダと戦ったと言われています。
インドネシアのサンバス少将が昭和五十年代のある時、ASEANセンターの中島慎三郎氏とともに靖国神社に参拝し、こう嘆やかれたそうです。
「アジア諸国の独立を促した大東亜戦争の勇士たちを尊敬し、その英霊に敬意を払おうと思っているのは、何も日本人だけではない。大東亜戦争はわれわれアジアにとっての独立戦争だったのであり、その意味で、靖国神社はアジア独立の聖地でもあるのだから、それにふさわしい威容を備えてほしい」
サンバス少将の訴えがいまの日本人にとって奇異に聞こえるのは、日本人のほとんどが、そもそも大東亜戦争自体は日本人だけの戦いではなかったという事実をすっかり忘れ去ってしまっているからで、当時日本人だった韓国、台湾、パラオの人々、同盟国だったタイ、フィリピン、ミャンマー、自由インド仮政府、中国の汪兆銘政権の人々が大東亜戦争をともに戦ってくれたという事実をも知らないからです。
インドネシア独立戦争の指導者の一人ブン・トモ情報相は昭和三十二年にこう述べている。
《われわれアジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人にたいして何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。インドネシアの場合は、三百五十年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏をわれわれの面前で徹底的に打ちのめしてくれた。われわれは白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。日本が敗北したとき、“これからの独立戦争は自力で遂行しなければならない。独力でやれば五十年はかかる”と思っていたが、独立は意外にも早く勝ち取ることができた。
そもそも大東亜戦争はわれわれの戦争であり、われわれがやらねばならなかった。そして実はわれわれの力でやりたかった。それなのに日本にだけ担当させ、少ししかお手伝いできず、誠に申し訳なかった。》(ASEANセンター編『アジアに生きる大東亜戦争』)
「大東亜戦争はわれわれの戦争である」と思っているからこそ、いくら連合国や中国・韓国などが大東亜戦争を侵略戦争と非難し、靖国神社を軍国主義の中心と批判しても、そして当の日本の外務省が嫌な顔をしてもなお、アジアの要人たちは靖国神社に特別の思いを寄せ続け、自ら望んで靖国神社に参拝し続けてきたのではなかったのではないでしょうか?
我が国の為政者たちは、靖国神社公式参拝を見送っても、一部の保守層から反発があるだけだと安易な思考しかありません。しかし国際的に見れば、一国の首相が靖国神社に参拝しないということは、「為政者たるものは自国の戦歿者に最大級の敬意を払うべきである」という国際常識に背を向けることであり、そうすることによって欧米諸国からもアジア諸国からも、侮りと不信感を持たれ、国際的信用も失っていることを知らねばならないし、日本の信用は先人の血によって得られていることも忘れてはならないのです。
世界の常識は日本の非常識とはこのことです。
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