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こんにちは、ゲストさん
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今年の石原都知事の靖国参拝の時の動画です。
私は、日本人でありながら、自虐的な歴史観をもって、自分の国と国民を侮辱し、自国の国益に反することをする人を、反日日本人と呼ぶこととします。恐らく世界広しといえど、自分自身が生を受け、育んでくれた国を、こともあろうか、体制転覆を願い、国を売り渡そうとしている政党・政治家が跋扈うしているのは、我国だけでしょう。
他国であれば、「スパイ」「人民の敵」「売国奴」などとして厳しい制裁を受けるでしょう。
しかし、我国だけは、反日日本人のパラダイスとなっています。
しかも、反日日本人を集めた寄り合い所帯の政党が政権を担っている有様です。政権交代後の民主党内閣は2代続けて、政権担当能力のなさを露呈しました。今月初めに発足した新内閣も、一定の支持を得てはいますが、与党の執行部、新閣僚の布陣を見るに前内閣とさほど変わりはなく、いつまで我国の政治の迷走は続くのか、不安であります。
一体この人たちは、どのようにして誕生したのでしょうか。私は、主に四つの淵源があると考えています。
1.占領政策の協力者
2.社会・共産主義者
3.進歩的文化人
4.日教組
1.占領政策の協力者
遡ること60年以上も前、我国を占領した占領軍は、優秀で、勇敢な我国が二度と刃向わないように、占領政策を行いました。
しかも、日本人の中から占領政策に協力する、反日的な日本人を生み出しました。余り日本国民の中では知られていませんが、その一部は、民間検閲の中から生まれ、占領時代、連合国総司令部の民間検閲支隊(CCD)は、日本の言論活動を厳しく検閲しました。検閲のためには、日本語に堪能な者が多数必要ですが、米国内にはほとんどいませんでした。そこで、占領後の日本で、日本人でありながら、日本人を検閲する協力者を募りました。彼らなくしては、世界史に類のない巧妙な検閲体制はあり得ませんでした。
、「検閲員に応募してCCD入りした人々の当初の動機は、ほとんどが経済的なものであったにちがいない。当時の日本人はまず飢えをしのがねばならず、そのためには自己の能力を最大限に利用しなければならなかったからである」。と江藤淳氏は語っています。
戦後、世界的に食糧事情が悪化し、昭和21年5月9日、社会主義者らの扇動により、宮城(皇居)前で飯米獲得人民大会が開かれ、25万人が参加したと伝えられているほど、食糧がなかったのです。
しかし、食糧が不足したのは、全国民同じであったはずです。
占領軍の手先となって日本人を検閲する日本人となったのは、滞米経験者、大学教授、外交官の古手、英語に自信のある男女の学生などであり、エリートでありました。これらの人々に対してCCDは高給を提供しました。しかし、、給金は日本政府によって国民の税金から支払われました。連合国軍は、日本国民に言論統制や検閲の存在を隠し、新聞、雑誌、映画等の検閲が行われていることを知られないようにしました。そのため、検閲者となった日本人は報酬を手にしたときから、被検閲者である他の日本人の眼に触れない「闇の世界」に属する者となり先人、同胞を裏切ったのです。
当時、CCDに勤務した者は5千人余り、翻訳通訳機関で勤務した者も合わせると1万人以上にのぼるとみられています。
勿論、彼らの手によって、20万人以上の愛国者が公職追放されたのは言うまでもありません。
CCDに勤務した人々が、後に地方自治体の首長、会社役員、大学教授、著名な著名なジャーナリスト、マスコミ関係者になったことは、公然の秘密になっていますが、誰一人として経歴にCCDの勤務の事実を記載している人はいません。
我身可愛さから、国を売り、多くの同胞を裏切ったのですから・・
投稿文字数に制限がありますので、次回は2.社会・共産主義者について述べたいと思います。
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平成の国難を乗り超えるもの
日本の偉人、先人の生き方に学ぶ 日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦 イラク学生が讃嘆する日本の歴史 東日本大震災によって、菅政権の無能、無策、無責任が明らかとなり、復興の光
は見えず日本の威信は益々低下しています。
しかし、わが国は素晴らしい歴史、伝統、文化を有し、先人達はこれまで幾つもの 大きな国難を克服してきました。今こそこの先人の生き方に学び、日本人としての
自信と誇りを回復すべき時です。
今春、竹田恒泰氏が「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」という本を 上梓(じょうし)しました。世界三三カ国、約四万人の世論調査で、日本が最も評価
されたその理由を探って書かれた素晴らしい本です。
私が特に感銘した箇所がありました。竹田さんがイラクに行った時、「日本大好き」 と話しかけてきた学生がいました。その理由は「明治維新」だというのです。他の
学生に聞いても明治維新を知っていました。その学生はさらに日露戦争の勝利を
讃嘆し、最後に大東亜戦争についてこう言うのです。
「米国に攻め込まれた国はたくさんある。しかし、あの米国に攻め込んだのは後
にも先にも日本だけだった。結果は残念だったが、わずか数年で国際社会に
復帰し、東京オリンピック、高度経済成長を経て、屈指の経済大国にのしあがった
、日本の歴史は驚嘆に値する」
世界で一番人気のある日本を世界がどのように見ているのか、その模範解答の 一つがこのイラク学生の言葉です。日本の歴史、伝統、文化の素晴らしさに
驚き、とりわけ近代日本の歴史に感嘆しているのです。
日本が世界的に貢献した事が三つあります。明治維新、日露戦争、大東亜戦
争です、日本は数百年に及ぶ欧米列強の植民地支配を打破して終了させ、人種
的平等を持たらし、アジア、アフリカの有色民族を解放独立させたではないかと
いうのです。
このイラク学生の結論がまた凄い。日本の本質をズバリこう指摘するのです。 「日本人が天皇の下に一つに結束する姿が美しく、そしてうらやましい」
これが日本を見る世界の目なのです。
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野村望東尼(のむら ぼうとうに)
元治元年十一月、福岡平尾の山荘を訪れた二人の武士があった。
一人は筑前藩の勤皇家として知られた月形洗蔵(つきがたせんぞう)。
いま一人は、このあたりに見かけない武士であるが、
その丈の高さと男らしい振る舞いとが、ひどく人目を引く。
庭で落ち葉をかき集めていた老尼が、目ざとくこれを見つけて、
「月形様、ようこそおいでくださいました」
といいながら、柴折戸(しおりど)まで出迎えた。洗蔵は、
「今日は、めずらしいお客を案内いたしました。長州の高杉氏です」
と紹介した。そこで、高杉はていねいにあいさつをした。
老尼は、先に立って二人を座敷に案内する。座についた洗蔵は、
「お願いがあって、まかり出ました。と申すのは、この高杉晋作殿が、藩中佐幕派の圧迫を受け、
当地へ身を寄せられました。ついては、とかく城下は人目にふれやすいので、
ぜひともこちらのお力にすがりたいと考えて参ったのであります」
と、老尼に頼んだ。
山荘の主(あるじ)野村望東尼(ぼうとうに)は、若い時から、夫新三郎の感化を受けて、
勤皇の志に厚く、夫の死後髪をおろして尼(あま)となってからは、
特に志士たちに力添えをするため、必死になって働いたのである。
望東尼を慈母(じぼ)のように慕う者は多く、山荘はいつも諸国の志士たちの集り場所に選ばれた。
晋作が、ここに案内されたのも、実はそのためであった。
ふと目を移すと庭先の木立の中に、小さな祠(ほこら)がある。
建武の忠臣、楠木正成を祀っているという望東尼の説明を聞かされて、
晋作は奥ゆかしいものを感ぜずにはおられなかった。
ここに手厚く、もてなされている間、朝夕顔を合わせ、言葉をかわすにつけても、
男も及ばない女丈夫の魂にふれては、いよいよ心服するばかりであった。
望東尼は、晋作から時勢について教えを受け、深く事態を知り、いっそう勤皇の志をかためたのである。
小倉まで来ていた薩摩の西郷隆盛を晋作にあわせるようにしたのも望東尼であった。
この時、晋作におくった歌に、
くれないの大和錦もいろいろの糸まじえてぞあやはおりける
もののふの大和心をより合わせただひとすじの大綱にせよ
とある。
山荘での会見で、二英雄の意気があって、
勤皇倒幕の実をあげる薩長連合の力強い大綱が用意されたのである。
ある日のこと、一通の手紙を受け取った晋作は、望東尼の前に座して、
急いで帰国する旨を告げた。望東尼は、
「今こそ、あなたのお働きになる時です。こんなこともあろうと存じて、着物をととのえておきました」
と、あらかじめ仕立てておいた着物に、羽織、じゅばんまで取りそろえて、差し出した。
晋作が感動したのは言うまでもない。
明治の大御代(おおみよ)の開ける少し前、こうしたやさしい女の力が、
どれだけ新しい日本をつくりあげるのに役立ったか、計り知れないものがある。
男まさりの望東尼は、決して女らしさを忘れる人ではなかった。
玄界灘の一孤島姫島(ことうひめしま)に捕らわれの身となった時も、
女の身だしなみは、身を清く保ち、かたちをくずさないものだといって、
着物などもさっぱりしたものをつけ、きちんと座って、筆をとったり、紙細工に工夫を凝らしたりした。
志士の母ともいわれる野村望東尼は、勤皇のために倒れた人たちを弔うの念から、
自分の小指を切って、その血で経文をうつしたこともある。
また、慶応三年九月、倒幕のため薩長連合軍が進発するのを見送った後、
「最後の御奉公をしなければ」と、かたく心に誓い、
宮市の天満宮にこもって、勝利の祈願をこめ、十七日間の断食をしたこともある。
女の身ながら、勤皇の精神にもえた望東尼の一生は、なんという輝かしいことであろう。
平尾山荘は、今もなお人々の心を励ましているのである。
(第五期(昭和十六年)・初等科修身四より)
(野村望東尼の住んでいた平尾山荘)
(野村望東尼 胸像)
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