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甘藷の栽培をすすめて、飢饉対策に大いに貢献し、甘藷先生と言われた青木昆陽よりも、三年も前に、甘藷で人々の飢えを救った人がいました。井戸平左衛門正明という、石見銀山を含む天領である大森(島根県西部)の代官です。
この人は、江戸の野中という家に生まれ、その後井戸家の養子となり、21歳で家督を継ぎます。表火番など歴任のあと、元禄15年(1702)より勘定役に昇進し、爾来、30年同じ勘定畑を勤務し享保6年(1721)6月5日には黄金二枚を賜っています。正明49才の頃です。
この勘定所での忠勤がみとめられたのでしょう。名江戸町奉行といわれた大岡越前守忠相の推薦で、享保16年(1731)に石見地方大森の代官に任命されました。正明60歳の時でした。
ところが、正明が赴任した直後の享保17年(1732年)、有名な江戸三大飢饉のひとつ「享保の大飢饉」が西日本一帯を襲いました。中国地方から近畿地方、四国九州まで、長雨冷夏となり、夏にはウンカとイナゴが大発生して、”大虫災”が始まりました。餓死者が三十万とか二十万とか当時の資料に書かれています。
正明の仕事は、このために飢民救済に力を注ぐことになりました。正明は部下に、
「すぐ代官所の倉を開いて、米を住民に配給しろ」と命じました。部下はびっくりしました。
「そんなことをしたら、お代官の首が飛びますぞ。まず幕府の許可を得ることが先決です」と言いました。正明は首を横に振って言いました。
「こんな遠い石見の地から幕府の許可を得ていたのでは、二ヶ月あまりかかってしまう。その間に飢えに苦しむ人々がどんどん死んでしまう。そんなことは人の道として許せない。わしが責任を取るから、米の倉を開けろ」と命じました。そこで部下は命令にしたがい倉を開けました。
飢えに苦しむ人々はもちろん喜びましたが、しかしさらに過重な年貢という負担がありました。大災害だからといって、なかなか年貢は免除されません。当座の食糧は得られたものの、それを考えると農民の気は重かったのです。
これを知った正明は、またも部下に命じます。
「今年の年貢は免除すると伝えろ」
部下は目を丸くしました。そして、
「それこそ、お代官の首が飛びますぞ。おやめください。代官所というのは、年貢を徴収するのが役割なのですから」と反対しました。しかし正明はききません。
「お前たちがやらないのなら、わしが村々に触れて歩く」と言いました。部下たちは仕方なく、むらをまわってこのことを触れました。人々はとび上がってよろこびました。
この年の4月14日、正明は養父正和の命日法要のため大森町の栄泉寺をたずねます。ここで運命的な出会いがありました。諸国修行の 途中立ち寄った僧泰永(たいえい)と遭遇したのです。 薩摩國ではサツマイモが広く栽培され、肥料も労力もいらず多収穫で痩せた土地に適合している情報を聞き、 石見地方一帯の砂地での栽培普及を決意します。
彼は直ちに江戸に対して薩摩國より大森(石見地方)へ移植のための書状をしたため、当月下旬に江戸表へ送ります。
この書状の返書が6月に届きます。その内容は幕府は正明の要請に応るもので、薩摩國は最西端にある幕府天領の地、日向國本庄まで種芋を届ける。大森藩からは、浜田港より手代伊達金三郎と僧 泰永などが種芋受け取りに船を仕立てて海路本庄へ向かいます。享保17年6月のことでありました。(泰永は下船しそのまま帰省)
この結果、種芋百斤(60Kg)は本庄川の下流、天領本庄の赤江港で大森藩に渡り、藩内に持ち帰った後、村高100石につき8本の割りで配られ植えられました。
このサツマイモ作戦の展開のさなかに、笠岡代官竹田喜左衛門の死去により、美作国窪島作右衛門と2名で代官所預かりの兼務 となります(享保17年6月2日)。また正明には一男一女の子がいましたが、長男の敬武(のりたけ)が享保17年5月26日に逝去、長女に入り婿として窪島作右衛 門長敷のニ男内蔵助を迎え世継ぎとしました。飢饉対策と、笹岡代官所の兼務、さらに身内での不幸と、そのための家督の後継の選任、実に慌ただしく忙しい日々が続きます。
そして、この飢饉における正明の行動は、幕府で大問題となります。
「事情と、井戸正明の心情はよくわかるが、しかし勝手に現場判断で代官所の米を配給したり、年貢を免除することは大罪だ」と言うのです。とりあえず罪科が決定するまで、笹岡代官所に謹慎ということになりました。
しかし結局、正明の罪科については、すべて黙認されることになりました。もしかしたら、推薦者である大岡忠相が強い態度で無罪を主張したのかもしれません。(童門冬二氏の推測)
正明は、しかし享保18年5月26日笹岡代官所にて死去しています。これは過労による病死という説と、自決であるという説がありますが、医者を呼んだ記録などがあり、おそらくは病死ではないかと思われます。
井戸正明を讃える顕彰碑は四十数ヶ所、いろいろなところに残されています。現場の判断で適切な対応をし、その責任を担う覚悟を持った人物の素晴らしさに、ただ感服するのみです。きっと腹を切る覚悟をもって行ったことでしょうが、その覚悟のできる武士が、昔はいたということです。現代の政治生命をかけると言いながら、口先だけの言葉が寒々と感じられるこの違いの大きさは、なんとも情けないものです。
その後
明治12年(1879) 井戸神社 創設 島根県大田市
明治43年(1910) 岡山県下軍事大演習の行幸に際し従四位を追贈 参考サイト・文献
笠岡遊歩 井戸平左衛門正明「現場判断で飢民を救う――井戸平左衛門」 童門冬二
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2012年01月31日
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