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欺瞞の日本

 
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                          ( 守るべきは憲法9条ではなく我が祖国日本です)
 
 
歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。
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欺瞞の美辞麗句「平和と民主主義」と欺瞞の貶め言葉「邪悪な侵略戦争」
 
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                                                                               高知大学名誉教授 福地惇
 
 
あの戦争の大敗北で我が国は亡国の淵に立たされたのである。ところが、巧妙な敵国の占領支配は、狂暴な大陸侵略戦争をした日本軍国主義者が悪であり、軍国主義者を育てた日本の古い歴史が悪である。
日本国民は権力者らに騙されて無謀な戦争に駆り出された犠牲者である。それゆえに、新日本国民は「恒久の平和を念願し、・・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し、われわれの安全と生存を保持しよう」(占領憲法前文)と旧敵国に誓わされた。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」とは、欺瞞的で壮大な虚構のお笑い草だが、そう信じなければ国際社会に復帰できないかのように脅されたのである。つまり、占領憲法(軍事占領下に憲法制定はできない)によって、我が国は「亡国の淵」に立たされたまま、平和と民主主義にすがることで「新日本」として再生させて戴くが如き欺瞞的幻想に晦まされた形となった。
 
だが、「平和と民主主義」なる言葉は、連合国(戦勝国)が敗戦国日本を永久に下位国家に位置付ける手段としての「美辞麗句」の類なのだ。民族やその歴史と国民国家を軽視するこの「美辞麗句」を法源とした「占領憲法」を押し戴かされることで、真の独立回復への可能性は厳しく閉ざされたわけである。
欺瞞の上に成り立つ「憲法」を肯定するには、戦前の祖国の歴史を自己卑下し、軍国主義者が邪悪な戦争を推進したからこうなったのだと自虐する以外にない。
日本の歴史は古く長く、そして誇るべき美点も多く、あの戦争も敵国が言うような邪悪な侵略戦争ではなく、むしろ根っこから邪悪なのは敵国側だと信じ続けなければ話は別になるはずだった。しかし、占領時代は固より、所謂「独立回復」以後の長い期間、そのような主張をしようものなら、軍国主義者だとか戦争を美化する愚か者、「平和と民主主義」の新日本への道を妨害する者と非難され、異端者のレッテルを貼られ、社会の枢要な位置から排除されたのである。占領支配者は、そのような仕掛けを構築し、彼らに媚びへつらった日本人に事後を託したのだ。
 
ところで、英米の対日戦争の目的は、東アジアの勇者日本、古い歴史とまとまりある民族文化を保持する独立主権国家を壊滅し策略に嵌(は)めて戦争を誘発して、大打撃を与えた。而して、二度と再び彼らの「脅威」にならぬように巧妙な保護監察の条約で縛り、つまりは永久に彼らの支配の下に置く策略を展開した。それが占領支配で推進されたことであった。戦時国際法を完全に無視してまでも、徹底的に過酷・悪逆な軍事攻撃で日本に大打撃を与えたのは、恐怖で敵を畏怖させる、正にその為であったのであって、世界征服の野望を秘めた大陸侵略の軍国主義者を懲罰するというのは、表向きの事実を曲解した屁理屈に過ぎなかったことを我々の先達たちは悟るべきであった。
 
何時も綺麗事で自らの正体を幻惑する名人が米英連合国だったのである。本当は極度に邪悪な敵の正体を知る者はパージの運命に晒(さら)された。だから逆に敵を畏怖し本心で利敵行為をする日本人は、新しい平和と民主主義の時代を知る者として優遇された。つまり、占領権力が厳命した思想を肯定し、平和条約以降もその姿勢を取り続けた者たちが社会の枢要な位置を占拠し、そのような敵国に媚びへつらった戦後指導者に教育されて疑念を持たずに育った世代がそれに続いたのである。だから、対米英蘭支ソ戦争の大敗北から早くも60有余年が経過しても、社会的権力配置関係は基本的には米国に占領されていた時代の延長線上で、今日只今の平成時代の不本意な政治・外交・軍事・経済の状況へと立ち至っているのである。
敵の正体を知らず、己自身をも知らない戦後日本人、「戦う毎に必ず危うし」と、正に孫子の兵法に言うとおりである。(日本戦略研究フォーラム季報掲載より)
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正しい歴史を知る福地先生は、東大卒業にあたり、名門大学は紹介して頂けなかったと言います。なぜなら、当時は安保闘争真っ盛りで、左翼が幅を利かせて、“左翼でなければ人にあらず”の如く、左翼的自虐史観しか名門大学への紹介はされなかったと言います。そのため、福地先生は「お前のような右翼は島流しだ」と言われながら高知大学に送られたそうです。
 
「平和と民主主義」という欺瞞。
日本は戦後、戦争もなく平和に過ごし、経済発展も、豊かさも経験してきました。それは日本人がまじめで勤勉ということもありましょうが、やはり奇跡に近い状況であったといえます。
それが出来たのは決して「平和憲法」のお陰ではなく、日米同盟の役割はあったでしょうが、この状況が今後も続くという保証もなければ、その可能性もないのです。
であるのに、日本は今も米国の防衛を頼りにしながら、チャイナには経済や製造の役割を依存し、日本国内は近隣国の工作員やスパイを抱え込み、肝心の日本人はお国のことも領土のことも憲法も関心が薄く、今がよければ、自分さえ楽しければと、目先の安楽に身を置き、自分勝手で自己中心的な振る舞いが様々なトラブルや殺人をも招き、この国は一体この先どうなっていくのか、政治家すらその将来像を描くことが出来ずに、劣化日本に歯止めがかからないのであります。
 
日本の近隣国には人間の命を何とも思わない国があり、そういう国というのは年々軍事力を増強し、その力を背景に自分に都合のよい主張を他国に押し付けているのです。これらの国と日本はいつかは衝突することは無きにしも非ずで、ある可能性は年々高まりつつあるのは気のせいでありましょうや。
その万一のための我が国の態勢は全くの想定外の状態であり、欺瞞の「平和と民主主義」とスパイだらけの劣化した日本では、戦う前に勝負がついているのではないか、と危惧しております。
日本の周辺は敵だらけ、日本国内も敵だらけである、と気づくこともできない欺瞞の平和に、いつになったら日本人は気付くのでしょうか。世界の中で日本だけが例外であることはあり得ないのです。
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

サイタニのブログからの転載です。

終戦時の昭和天皇の御聖断により、ポツダム宣言受諾の決定が下され、その速やかな停戦を行なうために、前線に皇族の方々が派遣されます。それは日本国始まって以来の敗戦という結果を受け止めるためには、皇族の方々が、天皇の意を伝えるという方法以外に、混乱なく戦争継続中の軍隊が戈(ほこ)を収める方法が無かったからであり、それ故、皇族という立場とその任務は重いものでした。


竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より


最前線へ飛ぶ皇族たち
 
皇族男子が日本の降伏を知らされたのは昭和20812日のことだった。
午後320分、在京する皇族男子全員が宮中の御文庫附属室に呼ばれた。
 
  
高松宮、三笠宮、賀陽宮(かやのみや)(恒憲王(つねのりおう)、邦壽王(くにながおう))、久邇宮(くにのみや)、梨本宮(なしもとのみや)、 朝香宮(あさかのみや)、東久邇宮(ひがしくにのみや)、稔彦王(なるひこおう)、盛厚王(もりひろおう))、竹田宮(たけだのみや)、閑院宮(かんいんのみや)、李王垠(りおうぎん)、李鍵公(りけんこう)
の、各皇族および王公族十三方が沈痛な面持ちで身なりを正す中、 大元帥服を御召になった 昭和天皇が御出ましになり、正面の玉座に御座りになった。
そのときの 昭和天皇の御様子については、東久邇宮は「天皇陛下は、お顔の色が悪くて、たいへんにおやつれになり、非常に神経質になっておられ、胸潰るる思いがした」と記し、また竹田宮恒徳王(つねよし)は 「天皇陛下は今迄拝したことのない程に緊張された御様子」「しばらくお目にかからない間に、なんと深いご心労を宿されたことか」と後に記している。

 
「陛下の御耳に雑音を入れないため」との理由で、戦争中皇族たちは、 天皇に拝謁することが原則的に禁止されていた。昭和天皇の弟宮だけは参内することが許されていたが、秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう)は結核を患って長期間療養をしていたため、天皇の前に進むことができたのは高松宮宣仁親王(たかまつのみやのぶひとしんのう)と三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう)だけだった。

 
またそのほかの皇族が何かの機会に陛下の御目にかかることがあっても、ほかのことは一切申し上げてはいけないと侍従から注意があったという。そのため、この日呼ばれた皇族たちは久方ぶりに 天皇の謁を拝した。天皇の憔悴(しょうすい)なさった御姿を目の当たりにし、目を伏せた者も多かったという。

 
また当時侍従長であった藤田尚徳(ふじたひさのり)大将の著した『侍従長の回想』によると、昭和天皇の体重は通常17貫(約64㎏)であったが、終戦の時期には15貫(約56㎏)まで御痩せになっていらっしゃったことが分かる。藤田によるとそれは「激務と御心労、それに食事の粗末さからくるもの」だという。

 
参集した皇族たちに対し 昭和天皇から、ポツダム宣言を受諾することにした趣旨について御話があり、陛下は込み上げるものを、そっと胸に抑えておられるような御様子で、しかし、不動のご決意を込めて、しっかりと  
「私自身はどうなってもよいから、ここで戦争を止めるべきだと思う。そこで自分は 明治天皇の三国干渉当時の御心労を偲び、ポツダム宣言を受けて、戦いを止める決心をした。どうか私の心中を了解してくれ、そしてこれからは日本の再建に皆真剣に取り組んでもらいたい」(竹田恒徳『終戦秘話』

 
と御言葉を御続けになった。
それに対して最年長の梨本宮が代表して、「陛下の御英断に謹んでお従い致します。そして今後共国体の護持に全力を尽します」と奉答した。召された皇族たちは全員軍人であり、戦争が最悪の局面に達していることを承知していた。
 
このときの昭和天皇のお姿に接し、皇族たちは次のように思いを綴っている。「私は戦争及び終戦の御苦労の結果と、つくづく御同情申上げ、そしてー 何とかして、陛下の御安心のゆくようにしてあげたいーと、ひとり心に誓った」(東久邇宮稔彦王)(東久邇稔彦『私の記録』

「ふだんはむしろ女性的にさえ思えるほど、お優しい陛下が、この日本存亡の際にお示しになった、不退転のご決意を秘められた荘厳なお姿を、私は生涯忘れることができない」(竹田宮恒徳王)(竹田恒徳『雲の上、下思い出話』)

 
 
 
 
注:陛下の側に近づけなかったとあるが、真意はわからないが、当時の軍の上層部は天皇陛下をないがしろにして独断で決めていたと言う事を聞いたことがある。
結局終戦の時はさすがに自分達では決めきらなくて、天皇陛下にお伺いをたてたようである。
  

 
特使となった三皇族
 
運命の8月15日正午、日本の敗戦、そしてポツダム宣言の受諾を告げる玉音が放送された。昭和天皇の二番目の弟である高松宮と高松宮妃喜久子(きくこ)はその日の朝5時、東京を出発して御殿場にある秩父宮別邸に向かった。実の兄である秩父宮とともに玉音放送を聞くためである。この頃秩父宮は肺を患い御殿場の別邸で療養していたが、病床の兄宮がたった一人で放送を聞くことの辛さを察した高松宮は、一緒に聞くことにしたのだった。床に臥せる秩父宮を、秩父宮妃勢津子(せつこ)、高松宮、高松宮妃喜久子の三方が取り囲み、揃って玉音を拝した。両宮妃は声を上げて泣いたという。

玉音放送があった翌日の8月16日、朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこ)、東久邇宮稔彦王、竹田宮恒徳王、閑院宮春仁(かんいんのみやはるひと)の四名に、昭和天皇から突然の御召があった。東久邇宮を除いて三名は何の御用かさっぱり分からずにいた。東久邇宮を残して三名が先に、昭和天皇の御前に案内された。

天皇は14日の日と同様の緊張した面持ちで、「終戦をつつがなく行なうために、一番心配なのは現に敵と向かい合っている我が第一線の軍隊が本当にここで戈を収めてくれるという事だ。蓋(けだ)し現に敵と相対している者が武器を捨てて戦いを止めるという事は本当に難かしいことだと思う。

しかし、ここで軽挙盲動されたら終戦は水の泡となる。自分が自ら第一線を廻って自分の気持をよく将兵に伝えたいが、それは不可能だ。ご苦労だが君たちが夫々手分けして第一線に行って自分に代わって自分の心中をよく第一線の将兵に伝え、終戦を徹底させてほしい。急ぐ事だから飛行機の準備は既に命じてある。
ご苦労だがあした早朝発ってくれ(竹田恒徳『終戦秘話』)と仰せられた。
朝香宮は支那派遣軍に、竹田宮は関東軍と朝鮮軍に、そして閑院宮は南方総軍にそれぞれ 天皇の特使として終戦の聖旨を伝達しに行くことになった。
 
一人控え室に残った東久邇宮にはその直後に大命降下があり、東久邇宮内閤が誕生する。つつがく終戦させるために皇族たちがそれぞれ大役を仰せつかったのである。

皇居からの帰り道、竹田宮は思いがけない重責に緊張しながらも深く覚悟を決めていた。つい7月まで関東軍参謀として満州帝国の首都新京(満州国時代の長春の呼称)に赴任していたことから、ソ連軍と中国軍の進駐が目前に迫る現地の混乱ぶりは容易に想像がついていた。

関東軍に幕引きを命じに向かう心境は悲痛なものであったろう。竹田宮は「これは誠に大変なお役目である、果して無事に帰れるとも分からない」と思い、帰宅するとすぐに身辺の整理を始めた。するとその日の午後、内閣総理大臣に就任したばかりの束久邇宮から電語があり、赤坂離宮の組閣本部に来てほしいと言われた。

竹田宮が組閣本部に出向くと、東久邇宮首相と東郷外相から「竹田さんは満州に行くそうだが、もしできたら溥儀(ふぎ)満州国皇帝に会って、皇帝が希望されたならば、一緒に日本へ連れてきてもらいたい」と依頼されたのだ。

ただし「もちろん、あなたの本来の任務は聖旨の伝達にあるのだから、無理をしてまでとの依頼ではないのだが」とのことだった。宮は天皇からは聖旨伝達を、また首相からは満州国皇帝を亡命させることの密命を受けたのである。

朝香宮、閑院宮、竹田宮の三宮はその日の夜8時頃に朝香宮邸に参集し、現地に赴いた際の言動について打ち合わせをした。翌8月17日午前9時頃、 三宮はそれぞれ現地に向かって本土を後にした。


竹田恒泰著  「皇族たちの真実」より


 
 
 

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