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11月16日に
西田昌司参議院議員が紹介議員となり、現行の日本国憲法が無効であるとの請願が国会で受理されました。 勿論、反日マスゴミによって、報道はされていません。 請願は以下のとおりです。
一 請願の趣旨
1 日本国憲法であると詐称し続けてゐる占領憲法は、GHQの軍事占領下で我が国の独立が奪はれた時期に制定されたもので、独立国の憲法として認めることはできません。
占領憲法第9条第2項後段の交戦権(right of belligerency)とは、アメリカ合衆国憲法に云ふ戦争権限(war powers)と同義であつて、宣戦、統帥、停戦、講和といふ一連の戦争行為を行ふことができる権限のことです。
ですから、交戦権がないことから戦争状態を終了させる講和行為を行ひえない占領憲法が仮に憲法であれば、我が国はサンフランシスコ講和条約によつて戦争状態を終結させ独立することができないことになります。
そのことからして、我が国は大日本帝国憲法第13条の講和大権によつて戦争状態を終了させて独立を回復したことになるのですから、大日本帝国憲法は現存してゐるのです。
2 つまり、占領憲法は、無効規範の転換理論を定めた大日本帝国憲法第76条第1項により、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印からサンフランシスコ講和条約に至るまでの一連の講和条約群の一つとして評価されるもので、大日本帝国憲法の下位規範として認められるものです。
3 そして、昭和44年8月1日に岡山県の奈義町議会が『大日本帝国憲法復原決議』を可決したやうに、国家にとつて他国による干渉行為がなされたときは、まづは原状回復をなすべきことが国際的にも普遍の条理であることは云ふまでもありません。
4 北朝鮮に拉致された被害者、ソ連(ロシア)に奪はれた北方領土、韓国に奪はれた竹島について、すべて完全な原状回復を実現することが我が国の基本方針であるとするのであれば、我が国の国法体系についても同様でなければなりません。
5 ましてや、ご皇室の家法である明治22年に制定された正統なる皇室典範は大日本帝国憲法などと同列の国家の最高規範であるにもかかはらず、これを廃止させた上、占領憲法下で同じ名称を付けた昭和22年の法律である皇室典範(占領典範)は、法令偽装の典型であつて、国民主権の占領憲法により、国民を主人とし天皇を家来とする不敬不遜の極みである皇室弾圧法に他なりません。 6 我々臣民としては、国民主権といふ傲慢な思想を直ちに放棄して、速やかに占領典範と占領憲法の無効確認を行つて正統典範と正統憲法の現存確認をして原状回復を成し遂げる必要があります。これによつて、拉致問題、領土問題、教育問題、原発問題などについても原状回復による解決が図られ、祖国の再生が実現しうるものと確信し、以下の事項を請願します。 二 請願事項
1 憲法問題、典範問題、拉致問題、領土問題、教育問題、原発問題などの解決のために必要な国家再生の基軸は、原状回復論でなければならないことを国会議員全員が自覚されることを求めます。 2 占領憲法が憲法としては無効であることを確認し、大日本帝国憲法が現存することの国会決議がなされることを求めます。 3 占領典範の無効を確認し、ご皇室の家法である明治典範その他の宮務法体系を復活させ、ご皇室の自治と自律を回復されることを求めます 岡山県奈義町(矢印部分)
奈義町議会「大日本帝國憲法復原決議」昭和44年7月30日、地方自治法第120条に基づく議案提出。
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2012年01月15日
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1881年3月のことです。
ハワイ王国のカラカワ王は世界一周旅行の途上で日本の横浜港に到着しました。 日本の海軍軍楽隊はハワイの国歌「ハワイの国民」を演奏して出迎えたのです。王は思いがけない日本側のもてなしと、異国の地で自身が作詞した国歌を聴かされた事に感じ入って、涙を流した。
カラカワ王は日本人通訳を連れて密かに明治天皇との会見を願い出たのです。特別列車で皇居に向かう途中、港も鉄道も白人ではなく日本人が運用されているのを見て感激しました。これはハワイでは白人がいたるところで独占していたからでした。
カラカワ王はこのような心づくしと独立した誇りある日本を見て、日本と同盟を結んで白人支配から独立しようと思ったのでした。
明治天皇と会見したカラカワ王は、日本の伝統文化と近年の国家的隆盛を賞賛した後、ハワイ王国の内憂外患の窮状を述べ、日本に対してハワイの人口減少を日本人移民の実現したいこと、王位を継がせる姪のカイウラニ王女と日本皇族の山階宮定麿親王との婚約を申し入れました。 明治天皇もこの申し出には驚かれ、即答せずに後日返答する旨を伝えました。
我が国としては明治維新後まもなく、米国と対抗する力のないため、明治天皇はカラカワ王に特使を派遣して婚姻の議は「日本の皇室にはそのような前例がないこと」「米国の勢力圏に立ち入るのを好ましくないと判断」したことを理由に辞退されたのでした。
しかし、移民については1885年に実現しました。ホノルルに到着した日本移民のために歓迎会が催され、カラカワ王自身も参加し、日本酒を振る舞い、ハワイ音楽やフラダンス、相撲大会でもてなしたのです。
しかし、ハワイの米国人たちはカラカワ王の動きを封じるために新憲法を起草し、白人武装集団の圧力のもと承認の署名を行うようカラカワ王に突き付けました。この中には王の政治的行為は全て議会の承認を必要とし、多くのハワイやアジア人を選挙から排除するものでした。銃剣でカラカワ王に署名させたこの憲法は「銃剣憲法」と呼ばれました。 1891年、カラカワ王が病死すると、実妹のリリウオカラニ女王が即位しました。 女王は選挙権を貧しい島民にも与える憲法改正を発表し、イオラニ宮殿前では数千人のハワイ人が集まって女王支持のデモを行いました。
しかし、白人側はこれを機に一気に王制打倒に動き出しました。
米国公使スティーブンスは「血に飢えた、そして淫乱な女王が恐怖の専制王権を復活させようとしている」というデマで訴え、「米国人市民の生命と財産を守るために」と言ってホノルル港に停泊中の米軍艦「ボストン」の海兵隊を上陸させて女王を退位させたのです。
ここにハワイ王国は消滅し、ハワイ共和国が樹立され、頃あいを見て米国は併合しようとしました。
しかし、ここで思わぬことが起きました。
「浪速」の艦長は東郷平八郎です。後に日本海海戦を指揮して世界に勇名を馳せた名提督であります。東郷平八郎は、「武力でハワイ王制を倒す暴挙が進行している。我々は危険にさらされた無辜の市民の安全と保護に当たる」と宣言しました。この市民の中には米国市民も入っていました。
「浪速」は3ヶ月ハワイに留まった後、いったん帰国、一年後に再び姿を現しました。ハワイ共和国大統領から「建国一周年」を祝う礼砲を要請してきましたが、東郷艦長は「その理由を認めず」と拒絶しました。するとホノルル軍港の各国軍艦も東郷にならいました。世界の新聞は「ハワイ王朝の喪に服するような静寂の一日に終わった」と伝えました。
ハワイ人の間では日本の軍艦が味方してくれたという話が語り継がれ、子供に「トーゴー」と名づけたり、ある地域では「ナニワ(浪速)」が「ありがとう」の意味で使われたりしたという。・・・
浪速
金剛
かつて日本という国は強くて正義感ある国でした。
しかし、現在の日本はどうだろう。
1月14日、我が領土である北方領土に視察した玄葉外務大臣は自国領土であるのに遠くから眺めるだけで島に近づくこともできず、以前の前原外相の北方領土視察も遠くから見ているだけでした。同じく1月4日、尖閣諸島付近ではチャイナ漁船監視船が接続水域に入ってきました。尖閣付近では頻繁に起きていますが、我が国は注意をして様子をうかがっているだけであります。
竹島は韓国が我がもの顔で構造物を作り続け、日本政府は韓国や在日に気づかって「不法占拠」とも言えず、それが更なる挑発行為となり、ついには韓国日本大使館前に従軍慰安婦像を置く行為にもつながっているのです。
戦前が全ていいというわけではありません。戦前にも幣原喜重郎のような軟弱外交もありましたが、やはりその時も多くの日本人の犠牲を伴ってきた歴史的事実があります。
国の護りというのは自分たちの「手」と「命」で護らねばなりません。自国の護りを他国に依存する愚行は戦前にはありません。
きっと自衛隊の中にも東郷提督に劣らぬ立派な方はいるであろう。ただ、今の日本はそういう人物が表に出てこられない土壌があることが残念であります。
かつて日本には東郷平八郎のような堂々とした立派な提督がいたことを誇りに思い、今のダメな日本を変えて行こうじゃありませんか。
「私は戦場で三十年、『生きる』意味を真剣に考えた。戦前、人々は『命を惜しむな』と教えられ、死を覚悟して生きた。戦後、日本人は『命を惜しまなければいけない』時代になった。何かを“命懸け”でやることを否定してしまった。覚悟をしないで生きられる時代は、いい時代である。だが、死を意識しないことで日本人は『生きる』ことをおろそかにしてしまってはいないだろうか。・・」
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植民地というご認識を払拭すべき。
日本が台湾を統治することになったのは明治28年(1895年)4月17日に締結された下関条約によるものです。 台湾は1626年、スペインが台北北部および北東部一帯を占領し、植民地にしていました。1642年、オランダがスペインを攻撃し勝利し、今度はオランダの植民地となります。一方、大陸では明国が清国に滅ぼされて、郭成功軍が台湾に逃れてきて、オランダ軍を撃破し、大陸反攻基地として経営を開始しました。 郭成功が死去すると息子の郭経が跡を継ぎますが、1683年、清国に滅ぼされてしまいます。清国は郭王朝を滅ぼすと台湾を一度放棄しますが、オランダの脅威に備えて、消極的支配を行いました。 消極的支配なので、「三年一小反」「五年一大乱」という具合に住民の反乱が絶えないぐらい悪辣な略奪統治でした。その後、明治7年(1874年)の日本の台湾出兵、明治17年(1884年)のフランス軍上陸があり、清国は台湾の重要性に気がつき、積極的建設政策に転換しましたが、日清戦争によって下関条約が結ばれ、日本の領土となったのです。 台湾の日本統治が決まると台湾の有力者らは「台湾民主国」を立上げ日本に抵抗します。台北城はは二万の守備。清国兵は5万。日本軍は台湾内の不穏な動きをキャッチし、近衛師団は上陸地点を変更し、陸路で港制圧に向かい、民主国軍と交戦になります。数は劣勢の日本軍ですが、民主国軍は烏合の衆であり、訓練された近衛師団とでは勝負にならず、民主国軍は交戦して敗れると、総統も将軍もさっさと本国へ逃亡してしまいます。そして残された兵士達は台北城内で略奪や放火、婦女暴行を繰り広げることになります。 早い話「台湾民主国」は支那人が築いた財産を守ろうとしていたというだけで民衆のためのものではなく、民衆は清国兵士たちの暴行を食い止めるべく日本軍へ使者を出し、台北へ手引きします。日本軍は清国兵を掃討し、降伏した兵は大陸へ送還しました。 こうして日本の台湾統治がスタートするわけですが、日本国内では台湾を「植民地」として扱うか「内地延長」として扱うか議論が活発に行われており、「内地延長型」が統一見解となり、その後の政策、医療制度、国土改造、産業開発、治水、交通整備、教育制度、等々にきちんと表れています。したがって台湾は植民地ではありません。 「台湾人と日本精神」の著者、蔡焜燦(さい こんさん)氏(台湾人)によると「公学校(小学校)で習ったことは、台湾は樺太と朝鮮と同様に日本の領土であり、台湾が植民地であるなどという話しを耳にした記憶がない」「”植民地”という言葉は戦後になって出てきたものだと私は理解している」と著書で述べています。おそらくは戦後になって占領軍が日本人に罪の意識を持たせ、白人の植民地支配を非難できないようにする目的があり、「植民地」と言い出したと思われます。朝鮮半島も「植民地だった」という人がいますが、日台韓を分離させ、白人に刃向わないようにさせるデバイド・アンド・ルールも適用したと言えます。 参考文献 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著) 小学館文庫「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」―日本人よ胸をはりなさい 蔡 焜燦(著) 参考サイト WikiPedia「日本統治時代(台湾)」 添付画像 高雄州庁(PD) http://image.with2.net/img/banner/c/banner_1/br_c_1650_1.gif 応援お願いします。
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