日本の感性をよみがえらせよう

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歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。・・・
 
連合国厳命の「虚偽の歴史観と国家体制」を打破しよう
 
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高知大学名誉教授 福地惇
 
シナ共産党の対日戦略の展開は彼らの建国以降脈々と継続したから、60有余年の努力だ。
日本は「敗戦ボケ」で世界戦略も国家戦略も曖昧なまま過ごしてきたから60有余年の空白だ。
そして、経済大国になったと慢心していた時が日中共同宣言だった。それ以降およそ四半世紀で、歴代政権と国会は歴史の教訓を真剣に学ぼうとせず、国際社会の風評に押されて、シナ共産党や韓国政府の威圧に恐れて、「日本戦争犯罪国家観」を「政府見解」として公然化してしまった。
また、シナ共産党の対日戦略の推進に関与した日本人も想像以上に多かったと推測される。
従って、日本民族衰亡への頸木(くびき)は、容易には打破し難い形で国際社会のルールの中で公然化・固定化されてしまった。米国の世界制覇戦略の枠組みの中に日中摩擦の増大は配置されていると私は見るのであるが、どうであろうか。
思想的外交的敗北の蓄積を打破することは並大抵の努力ではとても出来まい。
いずれにせよ、独立主権国家を本質的には否定した占領憲法体制の清算を目指さねばならない。その前提にあの戦争の本質を自分たちの目で見直して、日本人による日本人のための国家観・歴史観を再構築しない限り、真の独立主権回復は、永久に夢幻の事案に属することになるであろう。 最後に、説明は省くが、現今の重大課題のTPP問題も実は独立主権の回復か、それともその望みを完全放棄するかの選択問題なのだということを付言しておく。
(日本戦略研究フォーラム季報掲載より)
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白人がやってきた残忍極まる植民地支配と略奪、強姦、虐殺、また支那がやってきた略奪、強姦、虐殺の歴史。 アメリカは湾岸戦争でも「赤ん坊を銃剣で」話を目撃した少女が米議会公聴会で証言し、イラク軍は獣であると言いました。しかし戦後これは作り話であると判明します。
これは、かつて第一次欧州戦争の時も「赤ん坊を云々」でドイツ軍がブリュッセルの産院を襲って妊婦を強姦し乳児室の赤ん坊を銃剣で刺したと言われ米国参戦の口実となりましたが、ドイツ敗戦後、これも作り話であると判明しました。
しかし、彼らは自分たち嘘や残虐性のことは触れずに日本には「日本軍は残虐な行為をした」とニューヨーク・タイムズが言い続け、支那も韓国も言い続けて、日本軍の悪口ならどんな嘘でも歓迎する朝日新聞が書き立てる、ついには日本の政治家もそれを認めてしまったのです。
白人、支那人は嘘を言い立てて自分たちの優位にことを運ぶことに長けております。韓国もそれを見習い日本に嘘を言い続けているのです。
そして、一番ダメなのは真実を知らずに嘘も見抜けずそれを受け入れる日本の政治家たちであり日本人自身なのです。福地先生のおっしゃる通り、「あの戦争の本質を自分たちの目で見直して、日本人による日本人のための国家観・歴史観を再構築」こそ急務であります。
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

サイタニのブログからの転載です。

この方たちが、皇族ならではの任務を命がけで行われたことは、この一連の記事で初めて知りました。国を護るために命がけの戦いをする兵士に停戦命令を伝えることは、また同じように命がけの伝達であり、天皇の真実の命令であることの証明ができなくては、兵士たちは受け入れがたかったでしょう。その為には皇族の身分が必要であり、それによって、兵士たちは停戦を納得して受け入れたのです。

竹田 恒泰著  「皇族たちの真実」より

三皇族、南方戦線に陛下の心を伝える為飛立つ

命拾いした竹田宮
 
 
閑院宮を乗せた陸軍爆撃機は福岡に一旦着陸した後に上海に向かい一泊。
翌日広東経由で仏印南部のツーランに着陸してもう一泊し、19日の午前10時
半にサイゴンに到着した。
 
宮が南方軍総司令官寺内寿一元帥に聖旨を伝達すると、寺内元帥は涙を溢れさせ、部下に体を支えられてかろうじて起立を維持している有様であつたという。このとき閑院宮も一緒に泣いたそして翌20日には昭南(しゅうなん)(日本占領時のシンガポールの呼称)に行き、海軍司令部において第十方面艦隊司令長官福留繁(ふくとめしげる)中将に同様に聖旨を伝え、サイゴン、南京、富山を経由して24日、東京に戻った。
 
一方、竹田宮は東京・立川から専用機で飛び立ち、新京へ向かい、関東軍司令部二階の広い総司令官室を埋め尽くすほどに集まった関東軍総司令官山田乙三(やまだおとぞう大将以下幕僚等に対して・昭和天皇の御決意と、そして仰せられたことをできるだけ詳しく謹んで伝達した。
 
そこには竹田宮の幼年学校の二級下の後輩で、宮の後任として新京に着任したばかりの瀬島龍三参謀の姿もあった。宮は「どんな返答が戻ってくるか、この時ほど心配したことはなかった」と後に書き残している。しかし、厳粛な空気の中、山田大将から「謹んで聖旨に沿い奉ります」との奉答を受けた。誰もが目頭に熱いものを浮かべていたという。

その晩竹田宮は山田大将の官邸に宿泊し、翌18日の朝、奉天(現在の瀋陽)に向かった。だが、新京を離陸した飛行機は間もなく故障を生じ、再度新京へ戻ることになる。幸い故障は一時間ほどで修理され、奉天に向かった。19日には新京にソ連軍が進駐することになるため、このとき速やかに修理できず、宮が新京にもう一泊することになっていたら、シベリアに抑留されていただろう。運命の分かれ道である。

奉天に着いた竹田宮は第三方面軍司令部で、昨日と同様に聖旨を伝達し、その日のうちに京城(けいじょう)(日本統治時代のソウルの呼称)に行き、朝鮮軍司令部にも同じく聖旨を伝達した。これで天皇の特使としての任務は全て終了した。

前述のように、竹田宮には東久邇宮首相からの密命があった。宮は満州国皇帝愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が通化(つうか)の山中にいることを知っていた。17日に当時不通だった電話が幸いにも通じ、翌18日午後に京城で皇帝と会う約束をしていたのだ。

ところが、京城の朝鮮軍令部で聖旨伝達が終わり、竹田宮が朝鮮総督阿部信行(あべのぶゆき)大将〔元首相〕と朝鮮軍司令官上月良夫(こうづきよしお)中将に招かれて会食をしているところへ、通化にいる皇帝から「小さな飛行機しかないので長白山脈が越えられないから、明日(19旦午後奉天に出る」との電報が来た。

このことが溥儀皇帝の運命を決することになる。これこそ「運命の悪戯」としか表現のしようがないが、もしこの日溥儀皇帝が無事に京城に到着していれば、皇帝はその日のうちに日本への亡命を果たしていたに違いない。そうなれば、極東国際軍事裁判(東京裁判)における日本の評価もまた違ったものになったと思われる。

竹田宮は新京に赴任中、溥儀皇帝とは特に親しくしていた。食事をともにすることも多く、宮が第一総軍に転任で新京を去るときには、皇帝はお忍びで宮の官舎に見送りにきたほど二人は親密だった。竹田宮はなんとか溥儀皇帝を日本にお連れしたいと強く思っていたに違いない。

竹田宮は翌日再び奉天に戻って溥儀皇帝との再会を果たそうとする。だが阿部朝鮮総督と上月朝鮮軍司令官が口を揃えて「あなたの主任務聖旨伝達の結果を一刻も早く帰って陛下に復命し、御安心を頂かれるべきではありませんか」と注意した。その言葉に竹田宮はハッと目を覚まし、直ちに東京に帰ることを決した。そしてこの一言が竹田宮に命拾いをさせることになる。

ソ連軍が満州帝国に侵攻している状況において、奉天が間もなくソ連軍に占拠されることは明白であり、奉天は京城より格段に危険な状況にあった。宮が奉天での任務を終了させて一旦京城に至っておきながら、再び奉天に戻るということは、いくら首相の密命があったとはいえ、極めて危険な行為であった。

パイロツトの壮絶な死
 
19日、やはり奉天はソ連軍に占拠され、通化から出てきた溥儀皇帝は奉天飛行場でソ連軍に身柄を拘束され、そのままシベリアに送られてしまう。竹田宮が皇帝に会うべく奉天に戻っていたら、同様の運命を辿っていたことであろう。

シベリアに抑留された溥儀皇帝は、その後昭和21年(1946)に東京裁判に証人として出廷、1950年に身柄を中国に引き渡される。1959年に特赦で出所が認められて35年ぶりに北京に戻り、北京植物園に勤務し、1967年に61歳で波乱の生涯を閉じることになる。

竹田宮が関東軍へ聖旨を伝達するに当たり、宮が中国大陸の上空に差しかかってから朝鮮半島に帰るまでの間、四機の戦闘機「隼」が編隊を組んで宮の搭乗機を終始護衛していた。その搭乗員はいずれも若く優秀なパイロットであった。
 
 
竹田宮が本国に戻るに当たって、宮は厚く礼を述べ、その一人一人と堅い握手を交わし「今後、いろいろの情勢になろうが、くれぐれも自重して、日本の再興に尽してくれ」と言って別れた。しかし、彼らは間もなく壮絶な最期を遂げることになる。四人のパイロットは奉天飛行場で翼を休めるソ連機を目撃し、奉天が既にソ連軍に占拠されていることを悟った。奉天飛行場で帰りを待っていた羽(はね)飛行団長の島田安也中佐は、そのときの様子を次のように話している。

「四機は超低空で入って来て転回し、もう一度それを繰り返してから、三度目に飛行場のど真ん中で急上昇に移った。ほぼ垂直に上りつめた四機は、なんと編隊を組んだまま、真っ逆さまに空港中央に突っ込んで自爆した」
(竹田恒徳『雲の上、下思い出話』に所収)

四人のリーダーである鎌田正邦(かまたまさくに)大尉が20歳、他の三人は21歳前後という若さだった。その壮絶な自爆を間近に見たソ連軍の指揮官は、目を丸くして驚き、側にいた日本の将校が「日本武士道には、戦いに敗れた際腹を切る習わしがある。これこそパイロットの切腹ですと答えたと伝えられている

8月20日、竹田宮は無事に帰国し復命することができた。そして南方軍に
出かけた閑院宮春仁王と、支那派遣軍に出かけた朝香宮鳩彦王も任務を終えて無事に帰還する。この事実は、8月23日付の新聞で報じられた。

「三殿下、現地へ特派聖旨、停戦の大命御伝達大本営発表〈中略〉陸軍少将春仁王を南方に、陸軍中佐孚彦王を支那に、陸軍中佐恒徳王を満州に特派、各陸海軍最高指揮官に対し夫々聖旨及停戦に関する大命を伝達せしめられたり」(『朝日新聞』昭和20年8月23日付、1面トップ)
〔「陸軍中佐孚彦王」は「陸軍大将鳩彦王」の誤り〕
 
注:4人のパイロットの御冥福を祈ります。

竹田宮三度目の御召
 
終戦の聖旨伝達はこれで終わったわけではなかった。既に述べた八・一五事件でも明らかなように、軍部の若手将校の中には日本のポツダム宣言受諾に反発する者もあり、連合国の進駐に当たり最後の抵抗を試みる動きがあった。

そして現に敵の上陸に備えてあからさまに攻撃の準備をしている部隊もあった。陸海合わせて789万人〔終戦時の残存兵員数〕の巨大な日本軍が一斉に武装解除することは実際には極めて困難なことであったのだ。

竹田宮が帰国してから2日後の8月22日、昭和天皇から竹田宮に三度目の御召があった。昭和天皇は連合軍の本土進駐のときに不心得があってはいけないと大変御心配になり、我が国最南端を守っていた福岡の陸軍航空部隊(第六航空軍)に行って、決して不心得なことをしないようによくよく自分の気持を伝えること、また宇品の陸軍船舶司令部が敵の上陸に備えて水上特攻を準備していたので、これにも自重するよう聖旨の伝達を命ぜられた。

竹田宮は直ぐに福岡、そして宇品に行って聖旨を伝達し、それぞれ矛を収めさせた。また23日には高松宮が海軍航空部隊へ出かけて行き、同じように 天皇の思召を伝達した。そして25日に高松宮、久邇宮、竹田宮の三名は御所を訪れ復命した。

8月26日は、連合国進駐軍の先遣隊が神奈川の厚木飛行場に降り立つ日だった。その日までには日本の飛行機は全て武装解除し、飛べないようにしておく必要がある。しかし厚木飛行場の相模原航空隊は命令を無視し、進駐軍を撃退すべく演習を続けていた。海軍は強い態度でこれを抑えようとするが、彼らは決死の覚悟であり、容易に言うことをきかない。

そこで時の首相東久邇宮稔彦王は 昭和天皇に高松宮の御差遺を願い出た。高松宮が直接説得することで、24日の夕方、飛行場を占拠していた強硬派の地上勤務部隊が海軍治安部隊に厚木飛行場を明け渡した。翌25日には米軍機が東京上空を盛んに飛んだため、もし厚木飛行場の武装解除が半日遅れていたら、日米の交戦状態に至った可能性もあり、非常に危険な状態だった。

天候の都合により、進駐軍先遣隊の到着は28日に延期され、マッカーサー元帥の到着も30日に順延された。マッカーサー元帥は日本に進駐軍を送り込むに当たり、相当の混乱があることを予測していた。だが、8月30日、平穏のまま、マッカーサーはサングラスを掛けてパイプを咥(くわ)えながら厚木飛行場に降り立った。

敵と向かい合っている部隊の一部は、8月15日に玉音放送で終戦が伝えられているにもかかわらず、また陸軍省や海軍省から武装解除の指令が出ているにもかかわらず、いまだ武装解除することなく、上陸する敵を迎え撃つ準備を進めていた。だが皇族が出向いて直接天皇の御心を伝えることで、彼らは初めてポツダム宮言受諾、敗戦、そして武装解除を受け入れたのだ。

この任務を遂行することができたのは皇族しかいなかった。昭和天皇は27日、天皇の特使を果たした高松宮、三笠宮、朝香宮、竹田宮、閑院宮を宮城の表拝謁間に御招きになり、御慰労をなさった〔朝香宮は体調不良につき欠席〕。この特使の任務は、混乱する最前線を転々とする極めて危険な任務であったため、ここに集まった皇族たちは生きて帰ったことの喜びを分かち合ったに違いない。
 
 

劣化

 
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歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。 
 
「自虐的政府見解」の成立過程
 
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高知大学名誉教授 福地惇
 
政府が侵略戦争を認めた代表例は、戦後50周年の日、1995(平成7)年515日の「村山談話」だと思われているが、実はその根は深い。
イメージ 3中共は日本の左翼と共謀して「対日解放謀略」を積み重ねていて、1972年の「日中共同声明」(田中角栄首相担当)で「政府見解」への芽は公式に噴き出し、10年後の教科書誤報事件で事態は深刻化して国家の教育権にまで手をいれられた。
その後も「戦後政治の総決算」を謳い文句にして登場した中曽根康弘首相は社共両党から執拗に攻められて、昭和の戦争は「侵略戦争」だったと衆議院予算委員会の場で答弁させられた。198510月のことだ。「村山談話」はその10年後なのだ。
中曽根内閣から「自社さ連立内閣」までの10年間は、反日左翼主導による「自虐的政府見解」の強化課程であり、「民主連合政府」への前進過程だったのである。
 
イメージ 4「日中共同声明」の次に続く日中間の重要な政治合意は、福田赳夫内閣の時の「日中平和友好条約」(197810月発効)である。
「(第2条)いずれもアジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても覇権は求めるべきではなく、またこのような覇権を確立しようとする他のいかなる国または国の集団による試みにも反対する」、
「(第3条)善隣友好の精神に基づき、かつ平等及び互恵並びに内政に対する相互不干渉の原則に従い、両国間の経済関係及び文化関係の一層の発展並びに両国民の交流促進」を銘記した。だが、その後のシナ共産党政権は着々と「覇権」を追求し、軍事力を増強し、日本に対する「内政不干渉」や領海・領土の侵犯行為を常態化してきたのである。
 
イメージ 519958月には「村山談話」が出たが、それを受ける形で1998(平成10)年11月、来日した江沢民国家主席と小渕恵三首相が、「平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言」を公表した。
「双方は過去を直視し歴史を正しく認識することが、日中関係を発展させる重要な基礎であると考える。日本側は1972年に日中共同声明及び1995815日の内閣総理大臣談話を遵守し、過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、これに対し深い反省を表明した。中国側は、日本側が歴史の教訓に学び、平和発展の道を堅持することを希望する。双方はこの基礎の上に長きにわたる友好関係を発展させる」とは注視すべき文章である。
「歴史カード」を切って、シナ共産党政権は「日本解体」の内堀、外堀をほぼ埋めることに成功したということである。その後の歴代首相の日本国家の尊厳と独立主権を軽視して恥じない発言の集積は、目も当てられない体たらくだ。
 
簡単に列挙しておこう。
199810月、小渕首相は、来日した韓国大統領金大中に植民地支配の痛切な反省とお詫びを表明して、ご丁寧にも「日韓共同声明」に書き込んだ。先に示した「日中共同宣言」はその1ヶ月後のものだ。
イメージ 62001(平成13)年6月、組閣後初の訪米でブッシュ大統領と会談した小泉純一郎首相は、「アメリカは日本の解放軍」だったと謝意を表したという。20022月、APEC会議出席の途次、東京に寄ったブッシュが靖国神社参拝を申し出たのに対して小泉首相・外務省は拒否した。
20054月、アジア・アフリカ会議50周年のバンドン会議で、小泉首相は世界に向けて村山謝罪談話を継承すると宣言した。郵政民営化で小泉の人気は高かったが、これもマスコミの工作が功を奏していたのだ。郵政民営化は日本国民のためのものというよりも、旧敵国の金融勢力を肥やすためのものであることは、知る人ぞ知る事実であろう。
 
イメージ 72009(平成21)年4月、民主党幹事長の鳩山由紀夫(後の首相)は「日本列島は日本人だけの所有物ではない」とテレビ討論会で発言して、さすがに物議を醸した。
しかし、国政政治家としては絶対失格の発言をした幹事長を頂く民主党が衆議院議員総選挙で自民党に圧勝し圧倒的第一党になって政権を掌握した。当時のマスコミは政権交代、政権交代の大合唱で、新しくなれば日本はよくなるとの改革・革新・進歩教そのものだった。政治家や彼らを支える日本人民衆の頭の程度はまさにここまで劣化した証拠というべきだろう
イメージ 8そして極めつけは、20104月、大訪中使節団を率いて北京入りした民主党幹事長小沢一郎は、胡錦濤主席に「こちらのお国に例えれば、解散の戦いはまだ済んでいない。来年7月に最終の決戦がある。人民解放軍でいえば、野戦の軍司令官として頑張っている」と媚びへつらった。
私は日本解放運動の前線指揮者を務めていると言ったようなもので、シナの大官は腹の底で大笑いしたことだろう。
このような最高指導者たちが、日本国家運営の衝に立ち続ける。 北方四島、竹島、尖閣諸島など我が国固有の領土が侵略、占領の危機に瀕しているにも拘らず、日本人民衆は催眠術にかかったように何の反応も見せなかった。(日本戦略研究フォーラム季報掲載より)
 
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