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平成17年11月に発刊された国際的数学者、藤原正彦氏の『国家の品格』(新潮新書)は発行部数265万部を超えるベストセラーとなりました。 アメリカの「論理万能主義」を批判し「だめなものはだめ」と主張。グローバリズムなどを真っ向から否定し、自国の伝統や美意識などを重んじることを説いた著書でした。 国際的数学者として知られる藤原氏は、これらの本で、いま日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、「国家の品格」を取り戻すことだと説いています。 藤原氏が武士道に関して述べた意見に焦点を合わせて、21世紀に求められる武士道精神について括りとします。 「広辞苑」では品格とは、、「品位、気品」をいう。「品位」とは、「人に自然にそなわっている人格的価値」、「気品」とは「どことなく感じられる上品さ。けだかい品位」をいいます。 人物を対象にした言葉であり、国家に対しては普通用いません。 しかし、国民一人一人に品格があってこそ、国民全体に品格が備わり、それがその国家に品格をもたらし、国家とは、日本人のことであり、その一員としての一人一人の品格が問われているのです。 藤原氏の父は、小説家、気象学者として名高い新田次郎氏です。 藤原正彦氏が武士道精神を持つようになったのは、氏の受けた家庭教育による。 「私にとって幸運だったのは、ことあるごとにこの「武士道精神」をたたき込んでくれた父がいたことでした」と氏は『国家の品格』に書いています。 「父は小学生の私にも武士道精神の片鱗を授けようとしたのか、『弱い者が苛められていたら、身を挺してでも助けろ』『暴力は必ずしも否定しないが、禁じ手がある。大きい者が小さい者を、大勢で一人を、そして男が女をやっつけること、また武器を手にすることなどは卑怯だ』と繰り返し言った。問答無用に私に押し付けた。義、勇、仁といった武士道の柱となる価値観はこういう教育を通じて知らず知らずに叩き込まれていったのだろう」 氏は、特に卑怯を憎むことを、心に深く刻み、 「父は『弱い者がいじめられているのを見てみぬふりをするのは卑怯だ』と言うのです。私にとって『卑怯だ』と言われることは『お前は生きている価値がない』というのと同じです。だから、弱い者いじめを見たら、当然身を躍らせて助けに行きました」と書いている。 家庭において父親から武士道の精神を植え付けられた藤原氏は、その後、今日にいたるまで、武士道精神を自分の心の背骨とし、武士道に対する理解は、拙稿「武士道とは(中)」でも記述していますが、その多くを新渡戸稲造の名著『武士道』に依っています。 「武士道には、慈愛、誠実、正義や勇気、名誉や卑怯を憎む心などが盛り込まれているが、中核をなすのは『惻隠の情』だ。つまり、弱者、敗者、虐げられた者への思いやりであり、共感と涙である」と・・・ 氏は論理だけでは世の中はうまくいかない、論理よりもむしろ「情緒」を育むことが必要だと述べ、また、それとともに、人間には、一定の「精神の形」が必要だと説いています。 氏は、次のように書いています、「論理というのは、数学でいうと大きさと方向だけ決まるベクトルのようなものですから、座標軸がないと、どこにいるのか分からなくなります。人間にとっての座標軸とは、行動基準、判断基準となる精神の形、すなわち道徳です。私は、こうした情緒を含む精神の形として『武士道精神』を復活すべき、と20年以上前から考えています」と。 国際的な数学者であり、歴史家や思想家でもない藤原氏が、このように言うところに、驚きと同時に強い説得力があります。 明治維新によって、身分としての武士は消滅しました。その後の武士道精神の変遷を、武士道精神の中核を「惻隠の情」と理解する視点から、藤原氏は次のように述べています。 「かつて我が国は惻隠の国であった。武士道精神の衰退とともにこれは低下していったが、日露戦争のころまではそのまま残っていた」 日露戦争での水師営での会見で、乃木将軍が敗将ステッセルに帯剣を許したこと、日本軍は各地にロシア将校の慰霊碑や墓を立てたこと、松山収容所では、ロシア人捕虜を暖かく厚遇したことなどを列挙しています。 「日本人の惻隠は大正末期にはまだ残っていたようである」 その実例として、氏は、第1次大戦後、ポーランド人の援助要請に応え、日本人が極東に残されたポーランド人孤児765名を救済したことを挙げています。 先祖であり先輩である明治・大正の日本人は、異国の人々の身の上を、わがことのように思いやり、親切このうえなく心を尽くした。まだほとんど外国人と接する機会のなかった時代であるのに、国際親善・国際交流の鑑のような行動を、人情の自然な発露として行っています。 こうした日本人の精神を、藤原氏は、武士道に重点を置いて、武士道精神と呼んでいます。 氏は、武士道は「昭和のはじめごろから少しづつ衰退し始め」、大東亜戦争の戦後は「さらに衰退が加速された」と述べています。我国の大陸進出については、氏と筆者では大きく見解の相違があり、歴史認識の誤りもみられますが、ここでは触れないでおきます。 アメリカは占領期間、日本弱体化のためにさまざまな政策を行なった。「たった数年間の洗脳期間だったが、秘匿でなされたこともあり、有能で適応力の高い日本人には有効だった。歴史を否定され愛国心を否定された日本人は魂を失い、現在に至るも祖国への誇りや自信をもてないでいる」 「戦後は崖から転げ落ちるように、武士道精神はなくなってしまいました。しかし、まだ多少は息づいています。いまのうちに武士道精神を、日本人の形として取り戻さなければなりません」 皆さんご存じのように、GHQから押し付けられた占領憲法により、主権独立国家として不可欠な国防を大きく制限されています。 憲法上、国民には、国防の義務がなく、「一旦緩急あれば、義勇公に奉じ」という文言のある教育勅語は、教科書から取り除かれ、国家が物理的に武装解除されただけでなく、日本人は精神的にも武装解除されました。結果、日本人は自ら国を守るという国防の意識さえ失ないました。 武士道とは、本来、武士の生き方や道徳・美意識をいうものです。武士とは、武を担う人間である。武を抜きにして、武士道は存立しえません。 自衛のための武さえ制限され、自己の存立を他国に依存する状態を続けている日本人が、急速に武士道精神を失ってきたのは当然の帰結です。 根本的な原因は、占領憲法にあります。占領憲法が、日本人から武士道精神を奪っているのです。この問題を抜きにして、武士道精神の衰退は論じられません。 氏は、武士道精神の中核は「惻隠の情」だとし、「弱い者いじめ」に見て見ぬふりをせず、卑怯を憎む心を強調し、氏のいうような武士道精神に照らすなら、例えば北朝鮮による同胞の拉致に対し、日本人及び日本国は、どのように行動すべきか、中国のチベット侵攻や台湾への強圧に対し、どのように考えるべきでしょうか。 これらの問題は、単なる道徳論では論じられず、日本という国の現状、自分たち日本人のあり様を、国際社会の現実を踏まえて論じる必要があるだろう。やはり、「この国の形」を決める憲法に帰結する事柄なのです。 市場原理主義について、次のように藤原氏は述べています。 「市場原理に発生する『勝ち馬に乗れ』や金銭至上主義は、信念を貫くことの尊さを粉砕し卑怯を憎む精神や惻隠の情などを吹き飛ばしつつある。人間の価値基準や行動基準までも変えつつある。人類の築いてきた、文化、伝統、道徳、倫理なども毀損しつつある。人々が穏やかな気持ちで生活することを困難にしている。市場原理主義は経済的誤りというのをはるかに越え、人類を不幸にするという点で歴史的誤りでもある。苦難の歴史を経て曲がりなりにも成長してきた人類への挑戦でもある。これに制動をかけることは焦眉の急である」と・・・ 本ブログでも再三再四述べてきましたが、我国は誇り高い「道義国家」でした。 氏のいう「品格ある国家」とは、従来、道義国家といわれてきたものに近い。道義国家とは、人類普遍的な道徳を理念とする国家を指します。 力や富の追求ではなく、精神的な価値の実現を目標とする国家です。 氏は、この道義にあたるものとして、武士道精神を提示しています。 かつて武士道精神は、日本人に品格を与えていました。日本人が精神的に向上することは、わが国に「国家の品格」を生み出し、「品格ある国家」は、周囲に道徳的な感化を与える。こうした発想は、武士道に融合した儒教が理想とした王道や徳治に通じるものです。 氏の主張を掘り下げるならば、東洋の政治思想や、それを最もよく体現したわが国の皇室の伝統に思いをいたすことになるだろう。武士道は、発生期から尊皇を本質的要素とし、またわが国の国柄は、皇室の存在を抜きにとらえることが出来ないことを指摘しておきたい。 「政治や経済をどう改革しようと、そしてそれが改善につながったとしてもたかだか生活が豊かになるくらいで、魂を失った日本の再生は不可能である。いまできることは、時間はかかるが立派な教育を子供たちにほどこし、立派な日本人をつくり、彼らに再生を託すことだけである。 教育とは、政治や経済の諸事情から超越すべきものである。人々がボロをまとい、ひもじい思いをしようと、子供たちだけには素晴らしい教育を与える、というのが誇り高い国家の覚悟と思う」と氏は述べています。 「武士道精神の継承に適切な家庭教育は欠かせない」とも、氏は書いています。氏自身が、父親から武士道精神を教え込まれたものでした。家庭における父から子へ、親から子へという武士道精神の継承があってこそ、学校教育、社会教育はその効果を発揮すると願ってやまないのです。
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2012年01月21日
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剣道袴
剣道袴には、前に五本の襞(ひだ)があります。 剣道をされた方々はご存知だと思いますが、これは「五倫五常」の道を諭したものとされています。五倫五常の道とは、 五つの基本的な人間関係を規律する五つの徳目 君臣の義・・・君臣は 義 を重んじ 父子の親・・・父子は 親 しみ 夫婦の別・・・夫婦は 別(分け合い) 長幼の序・・・長幼は 序 を守り 朋友の信・・・朋友は 信 じあうこと 五常とは、人が常に守るべき五つの徳目 「仁」・・・仁義・真実・まこと・誠意 「義」・・・正しいすじみち・義理・すじ 「礼」・・・礼儀 「智」・・・知恵・知恵・認識 「信」・・・信義・誠・確信・信ずる また、後ろの一本の襞(ひだ)は男子として二心のない誠の道を示したものです。 五倫五常の教えを理解し、厳しい修行を重ね、自然に礼儀作法が身につけ、高い精神的境地にまで至ったのが「武士」であり、「武士道」です。 拙稿、武士道とは(上)でも述べましたが、武士道は、わが国固有の思想であり、日本人の精神的特徴がよく表れています。わが国は古来、敬神崇祖、忠孝一本のお国柄です。そこに形成されたのが、親子一体、夫婦一体、国家と国民が一体の日本の精神です。日本の精神の特徴は、武士道において、皇室への尊崇、主君への忠誠、親や先祖への孝養、家族や一族の団結などとして表れています。そして、勇気、仁愛、礼節、誠実、克己等の徳性は、武士という階級を通じて、見事に開花しました。 しかし、明治維新によって近代化が進められていくに従い身分としての武士の消滅とともに武士道が廃れ始めました。 その時代に、武士道について、書物をまとめ、世界に紹介した人物がいます。それが、五千円札の肖像ともなっている新渡戸稲造氏(にとべ・いなぞう)です。 新渡戸氏が著書『武士道』を書くきっかけとなったのは、ベルギーの学者に日本のことを質問されことに始まります。 「あなたがたの学校では宗教教育というものがないというのですか」。新渡戸氏は返答に困りました。 教授は驚いて聞きました。「宗教がないとは! いったいあなたがたは、どのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」。と・・ キリスト教が文明の基礎となっている欧州では、道徳は宗教を元にしたものであり、宗教なしに道徳教育など考えられないのです。しかし、日本にはそれに代わるものがある、それは武士道だと新渡戸氏は思い至りました。そして明治32年、英文で『武士道』を書きました。原題は、“Bushido, the Soul of Japan”、つまり『武士道――日本の魂』だと・・
新渡戸氏は、本書で武士道こそ日本人の道徳の基礎にあるものだということを、欧米人に知らしめたのです。
新渡戸氏は武士の子でした。幕末の文久2年盛岡藩士(現岩手県盛岡市の家に生まれ、武家の家庭教育を受け、海外に出て活躍した国際的日本人でした。
名著『武士道』で新渡戸氏は、武士道を詳細に綴っています。まず新渡戸氏は、「武士道は、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華である」と説き起こし、武士道の淵源・特質、民衆への感化を考察しています。武士道とは、いろいろな徳から成っています。
以下、各項目から、内容の一部を抜粋します。
武士道の渕源」から 「武士道は『論語読みの論語知らず』的種類の知識を軽んじ、知識それ自体を求むべきで無く叡知獲得の手段として求むべきとし実践窮行、知行合一を重視した」
※「義」から・・「義は武士の掟の中で最も厳格なる教訓である。武士にとりて卑劣なる行動、曲がりたる振舞程忌むべきものはない」
※「勇、敢爲堅忍の精神」から・・「勇気は義の為に行われるのでなければ、徳の中に数えられるに殆ど値しない。孔子曰く『義を見てなさざるは勇なきなり』と」
※「仁、即惻隠(そくいん)の心」から・・「弱者、劣者、敗者に対する仁は、特に武士に適しき徳として賞賛せられた」
※「礼」から・・「作法の慇懃鄭重(いんぎんていちょう)は、日本人の著しき特性にして、他人の感情に対する同情的思い遣(や)りの外に表れた者である。それは又、正当なる事物に対する正当なる尊敬を、従って、社会的地位に対する正当なる尊敬を意味する」
※「誠」から・・・「信実と誠実となくしては、礼儀は茶番であり芝居である。…『武士の一言』と言えば、その言の真実性に対する十分なる保障であった。『武士に二言はなし』二言、即ち二枚舌をば、死によって償いたる多くの物語が伝わっている」
※「名誉」から・・・「名誉の感覚は、人格の尊厳ならびに価値の明白なる自覚を含む。… 廉恥心は、少年の教育において、養成せられるべき最初の徳の一つであった。『笑われるぞ』『体面を汚すぞ』『恥づかしくないのか』等は非を犯せる少年に対して正しき行動を促す為の最後の訴えであった」
※「忠義」から・・・「シナでは、儒教が親に対する服従を以って、人間第一の義務となしたのに対し日本では、忠が第一に置かれた」
※「武士の教育及び訓練」から・・・「武士の教育に於いて守るべき第一の点は、品性を建つるにあり。思慮、知識、弁論等、知的才能は重んぜられなかった。武士道の骨組みを支えた鼎足は、知・仁・勇であると称せられた」
※「克己」から・・・「克己の理想とする処は、心を平らかならしむるにあり」
以上のように、武士道は多くの徳によって成り立っており、高い精神性をもつものだったことを、新渡戸氏は説いています。
そしてそれが武士だけでなく、日本人全体の道徳の基礎となっていることを新渡戸氏は述べています。 当時、日本は明治維新を成し遂げ、アジアで初めての近代国家として、国際社会で注目されていました。しかし、当時欧米では日本人の精神面・道徳性についてはほとんど知られていませんでした。そうした欧米の知識人に向けて、新渡戸氏は、武士道こそが「日本の活動精神、推進力」であり、「新しい日本を形成する力」であることを伝えようとしました。そして、次のように書いています。 「維新回天の嵐と渦の中で、日本という船の舵取りをした偉大な指導者たちは、武士道以外の道徳的教訓をまったく知ることのない人であった。近代日本を建設した人々の生い立ちをひもといてみるとよい。伊藤、大隅、板垣ら現存している人々の回想録はいうまでもなく、佐久間、西郷、大久保、木戸らが人となった跡をたどってみよ。彼が考え、築き上げてきたことは、一に武士道が原動力となっていることがわかるだろう」と。力説されています。 それと同時にこの明治維新によって、社会的な階級としての武士は消滅したことも記しています。西洋文明や科学技術の導入によって、日本は新しい国に大きく生まれ変わりつつありました。しかし、新渡戸氏は、武士道は不滅であり、必ずや新たな形で生き続けることを確信していました。 「武士道は一つの独立した道徳の掟としては消滅するかもしれない。しかしその力はこの地上から消え去ることはない。その武勇と文徳の教訓は解体されるかもしれない。しかしその光と栄誉はその廃虚を超えて蘇生するにちがいない。あの象徴たる桜の花のように、四方の風に吹かれたあと、人生を豊かにする芳香を運んで人間を祝福し続けるだろう。何世代か後に、武士道の習慣が葬り去られ、その名が忘れ去られるときが来るとしても、『路辺に立ちて眺めやれば』、その香りは遠く離れた、見えない丘から漂ってくることだろう」と新渡戸氏は書いています。 現代日本では、武士道に現れたような道徳心は廃り、日本人から香り高い精神性は、消えうせたかに思われます。 武士道は、「日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華」と新渡戸氏は述べ、説いています。
武士道の精神を忘れ去ってしまったならば、日本人は精神的に劣化していくばかりでしょう。
21世紀において、日本が大転換の時を迎えている今、現世の我々は、新渡戸氏の言葉に耳を傾け、武士道に現れた精神的伝統を取り戻すべき時に立っていると思います。
四民平等・廃藩置県等の政策が断行され、武士階級の消滅とともに、それまでの武士道そのものは担い手がなくなりました。しかし、近代国家建設を進める過程で、武士の道徳は全国民のものになり、国民皆兵によって、それまでは武士だけのものだった「武」の役割が、国民に広く共有されました。国を護る、主君を護るという意識が普及し、武士道が国民の道徳となりました。これらは教育勅語や軍人勅諭に顕著に表れています。 大東亜戦争後、日本は連合国によって軍事的に武装解除され、さらにGHQの占領政策によって、精神的にも武装解除がされました。 GHQは武士道に関する書籍や映画等を禁じ、西郷南洲翁に関する本すら出版できなかったのです。 占領にともない、国民には国防の義務がなくなり、国防の意識すら奪われました。私は、こうして占領期から本格的に武士道の精神が失われ出し、戦後の占領憲法と日教組教育の下で、ますます失われています。 日本や日本的なものを守るという意識そのものが低下し、日本人は、北方領土、竹島、尖閣等の領土を侵されても鈍感になり、自国の文化を奪われても抗議すらできないような、無抵抗・無気力の状態になり下がっていると思います。武士道を失った日本人は、アメリカ・中国・韓国等の圧力に対して、自己を保つことすらできないで、右往左往しています。こうした状態が続けば、日本は亡国に陥り、日本人は荒海を漂流するに至るでしょう。 武士道精神の復活を実現するには、「精神の形」だけでなく、「この国の形」を論じる必要があります。 投稿文字数に限りがありますので、次回続きを述べてみたいと思います。 続く・・・
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拙稿、「日本人とは」でも述べていますが、武士は侍とも書きます。もののふともいいます。 またその語源は天孫降臨された皇祖ニニギノミコトより前に天孫降臨されたとされるニギハヤヒミコトを祖とし、大和朝廷では国の軍事氏族として活躍した、物部氏(もののべうじ)とされてます。
侍=その文字が示すとおり、もともと高貴な人に侍り、その身辺警護が仕事でした。役目柄、要人より華美な振る舞いは許されず、常に死を覚悟していなければなりませんでした。このことが質実剛健な精神構造を生み出し、支配階級となったあとも、「武士道」として武家社会の規範になっていきます。
武士という階級が為政者として台頭してきたのは、平安時代の後期、現在NHK大河ドラマの主人公「平清盛」が最初とされています。
12世紀末には、源頼朝が鎌倉に幕府を開きました。この時から約700年間、わが国では武士が政権を担う時代が続きました。戦士の階級が国を治めるという歴史は、シナや朝鮮には見られない、わが国独特のものです。それゆえに、この数世紀の間に武士が創りあげた生き方や価値観は、日本独自の思想といえます。それが、武士道です。
世界的にも類を見ない日本の武士の特徴を考えると、まず源氏が清和天皇を、平氏が桓武天皇を祖とするように、由緒ある武士は、皇室を祖先にもっています。皇室から分かれた貴族が、京の都を離れて地方の役職を任命され、そこで軍人として働くようになったのが、武士の由来です。それゆえ、源平の時代から徳川幕府最後の征夷大将軍徳川慶喜公まで、武士は天皇陛下に権威を感じ、それを侵すことなく、逆に自分の権力の拠り所として仰いできました。本来、皇室から分かれた貴族の出身であるところに、武士の第一の特徴があります。
武家政権の祖とされる、平氏・源氏の2つの氏族は、前にも述べていますが、どちらも天皇の後裔(こうえい)でした。だが、一度皇籍を離れ、臣下となった以上は、国全体の支配者にはなっても、天皇になることはできなかった。この原則は殆どの場合どの政権にも遵守されました。平清盛は平安末期の日本の権力者であり、白河天皇の落胤と目されていました。しかし、平氏の一員に迎えられて臣下となったため、不適格者となっており、あえて皇位を手に入れようとはしなかった。
戦国大名も、天皇の王朝に取って代わるなどという発想を度外視しただけでなく、天皇の王朝に皹を入れることも避けようとした。天皇のお墨付きを欲してやまない戦国大名は、誰もがそれぞれの天皇志望者を押し立てて皇統に亀裂を生じさせても全く不思議でなかったが、そのようなことはしなかった。朝廷の官位官職を手に入れようと、互いに張り合うようになった。修理大夫や衛門佐といった大いなる威厳を意味するこれらの官職は、天皇だけが授けうるものだったのです。 室町幕府の第3代将軍・足利義満は、天皇に取って代わって自分の王朝を開こうとした唯一の人物です。
強引な権力者となり、支配を国中に及ぼし、南北朝時代に幕を閉じた。将軍職を退いても太政大臣となり、国政を続、生母を亡くした後小松天皇の母代わりとして、皇族出身でない自分の妻の日野康子を「准母(じゅんぼ)」に指名したり、こうして、義満は天皇の継父に相当することとなり、死後「太上法皇(出家した太上天皇の尊称)」と呼ばれることができる資格を手に入れました。
応永8年、明国と国交を樹立し、明の皇帝から「日本国王」の称号を受領しましたた。これにより、征夷大将軍の地位にある人物が皇位に最も近づきました。しかし、応永15年の義満の死に、義満の野望は潰えました。後継者の誰一人として義満の野望を繰り返そうとはしませんでした。
義満の野望を妨げたのは、天皇でも征夷大将軍でもなく「ありえないことだ」という強力な暗黙の合意があったことです。
天皇は神々に位(神階)を、神社に格(社格)を付与し、高位の僧職者に位階と称号(僧位)を授与していた。将軍や国土にも、その健勝と繁栄を祈る存在であったのです。天皇は死者を神格化でき、また神格を取り消すことができる存在であったのです。
徳川家康は後水尾天皇に、豊臣秀吉が死後与えられていた神格を取り消すよう要望し、翌年、家康自身が死ぬと、天皇は彼の生前の要望を受け容れて、家康を神格化しました。家康が東照宮に、秀吉が豊国神社に祀られているのも、天皇陛下の存在なしにはありえないことなのです。
これらは王朝の簒奪を繰り返してきた世界各国のどこの国にもありえないことであり、自分の権力・精神の拠り所として仰いできました。 昨今論じられている、皇統、女性宮家が臣下によって論じられることなどありえないことでした。 武士はまた、土地に密着した為政者であることです。平安時代後期、辺境の防衛に当たった武士たちは、年月を経るうちに、その土地に定着し、自ら土地を開墾して、私営の田畑を営むようになりました。こうして開墾領主となった武士は、「一所懸命」に領地を守り、広げ、受け継ぎ、競合しながら、巨大な集団へと成長していきました。やがて、武士は、土地と領民を所有する為政者となりました。そして、皇室の伝統と、儒教の政治道徳に学んで、領地・領国の経営に努めたのです。 皇室から分かれた貴族の出身、戦闘のプロフェッショナル、土地に密着した為政者―――は、それぞれ尊皇・尚武・仁政という徳目に対応します。
こうした特徴と徳目をもつ武士たちは、平安後期から鎌倉・室町・戦国の時代を通じて、独自の倫理と美意識を生み出しました。江戸時代に入って、それが一層、自覚的に表現されることになりました。これが、今日いうところの武士道です。
わが国は江戸時代に、徳川家康が朱子学を幕府の教学としました。武士達は、外来の儒教を単に摂取するだけでなく、これを孔孟に戻って掘り下げて研究し、同時にこれに日本独自の解釈を加えました。武士道は、この日本化した儒教を中心に、理論化・体系化がなされ、江戸時代には幕藩体制の下、平和な秩序が確立され、戦闘者としての武士の役割は、無用のものとなりました。それゆえ、武士たちは、自己の存在意義を問い、武士のあるべき姿を強く意識するようになりました。武士道が思想として錬成されたのは、そうした背景があったからです。
冒頭に書いたように、武士道は、日本固有の思想であり、日本人の精神的特徴がよく表れています。わが国は古来、敬神崇祖、忠孝一本の国柄です。そこに形成されたのが、親子一体、夫婦一体、国家と国民が一体の日本精神です。日本精神の特徴は、武士道において、皇室への尊崇、主君への忠誠、親や先祖への孝養、家族的団結などとして表れています。そして、勇気、仁愛、礼節、誠実、克己等の徳性は、武士という階級を通じて、見事に開花し、向上しました。日本精神は、約700年の武士の時代に、武士道の発展を通じて、豊かに成長・成熟したのです。
明治維新は、武士道の発揮によって成し遂げられました。近代国家の建設の中で、身分としての武士は武士自らが幕を降ろしました。しかし、国民国家の形成を通じて、武士道は国民全体の道徳となりました。大東亜戦争後、武士道は、失われつつありますが、今なお日本精神の精華として、日本人の精神的指針たるべきものであり続け、今日も武士道の精神の復活が望まれているのです。
次回は武士道とは何かを考察してみたいと思います。 続く・・・
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日露戦争直前の『戯画 公園の各国児童』
(解説文)
朝日太郎(日本のこと) 「おい露助、清吉の油断に付込んで饅頭(満州のこと)を盗もうとは何事だ、さあ早く返してしまえ!」
露助 「つべこべ言うな、生意気な野郎だ。俺の身体の大きいのが見えんか」 仏次 「露助君、そっと僕にも分けてくれたまへ」 独一 「仏次君、君が貰ったら僕にも分けるんだよ」 米蔵 「これは面白い。露助のやつ強そうなことを言っているが、朝日にヤラレルんじゃないかな」 英子 「露助の顔の憎らしいこと、有夫サン、その艦を太郎さんに上げなさいよ」 有夫 「そうだ、早くやろう」(アルゼンチンより巡洋艦日進、春日を購入) 韓坊 「太郎兄ちゃん恐いよ」 清吉 「グウ・・」 ・・・・・・・・・
日本人がいちばん輝いていたのはいつごろであっただろうか。
高度成長期か、否。 それとも大東亜戦争を戦った時か、否。
それは日露戦争がはじまる前から終わる頃までだと思うのです。
日露戦争後は日本人にゆるみが感じられますが、その前までは全く違いました。
この日露戦争はロシアはもちろんチャイナも学校で教えない、というよりも歴史に“ない”のです。
そして肝心の日本でも大事な部分をほとんど教えていません。
先達が祖国の危機に瀕して勝つ望みの薄い戦にひとつになり勝ち抜いた栄光に満ちた時代を知ることなしに、どうして日本人として生きてゆく喜びを味わえるのだろうか。・・
東ヨーロッパのことわざにこういう言葉があります。
「ロシアの隣国になるほど不運なことはない」。
現在の日本に当てはめればロシアの他にチャイナ、韓国、北朝鮮というところでありましょう。
日本はいい国だが近隣国に恵まれない、まこと不運であります。・・
明治33年、ロシアの大軍が満州支配を目指して黒竜江を超えて南下します。
その時、ロシアは黒竜江の東岸であるブラゴウェシチェンスクにおいて、三千人の支那人を一人残らず駆り立てて、全員を黒竜江に突き落とすという大虐殺を行ったのです。
この時、ブラゴウェシチェンスクにいた帝国陸軍の石光真清の日記にはその状況がよく書かれています。
これを知った日本人は怒り、同じ東洋の民族がこんなにむごたらしく扱われている、それを黙って見ていられようかと国民感情は沸騰し、我が国危うしとして正義の戦としてロシアとの戦いを決意していくのです。
同じように現在までに、チャイナが内モンゴル、チベット、ウィグルにおいて大虐殺しておりますが、これを知った日本人は所詮他国の事よと国民感情は冷めており、それがやがて我が国に対して降りかかってくる危機感だとは全く感じていないのです。
当時、明治大帝ご自身による陸軍大演習の御統監、昭憲皇太后までもが軍艦に乗り込まれて海軍将兵の士気を鼓舞されたことをみても、日本の軍隊の強さが皇室のお心遣いの賜物であるといえます。
現在の日本では天皇陛下が自衛隊を直接鼓舞することは一切ありませんが、一旦緩急あれば命を惜しむことない自衛官にとってこのことがどれほど励みになるか、目に浮かぶほどであります。
明治天皇は戦争だけはお避けになりたかったのですが、
あえて決断を下さねばならなかった明治大帝の御気持ちが偲ばれるお言葉があります。
事乃一蹉跌を生ぜば 朕何を以てか祖宗に謝し、臣民に対するを得んと、すなわち涙さんさんとして下る
失敗することがあれば、我が高祖皇宗(御始祖と歴代天皇)の神霊に何とお詫びを申し上げ、我が子のごとく慈しむ国民に対してどうして顔向けが出来ようかと苦しみ、涙が流れるばかりである。
この戦より御食事がおすすみにならず、八年後に明治大帝は御隠れなるのですが、
明治大帝の御心労のほどが如何ばかりだったかが偲ばれます。
・・・・・・
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国際派日本人養成講座からの転載です。
■1.「私は必ず法戦には勝ってみせる。判決は御勝手にだ」■ 戦争末期に米軍はB29によって本土爆撃した。その中には日本軍に撃墜され、パラシュート降下した搭乗員が少なからずいた。岡田資(たすく)元陸軍中将は、東海軍管区司令官として降下搭乗員38名を「無差別爆撃を行った戦争犯罪人」として処刑した。 連合軍側はこれを「捕虜の不法処刑」とし、昭和23年1月、岡田中将以下の責任を問う裁判が、横浜の連合軍軍事裁判所において始まった。 岡田中将は、「米軍の不法を研究するに従い、之は積極的に雌雄を決すべき問題であり、わが覚悟において強烈ならば、勝ち抜き得るものである」としてこの裁判を「法戦」と称した。武力では負けても、正義を賭けた法の上での戦いを続ける、という覚悟である。 「法戦は身の防衛に非ず、部下の為也、軍の最後を飾らんことを」。岡田中将は処刑の判断責任はすべて自分にあるとして、一緒に起訴された19名の部下たちを救おうとした。さらに、搭乗員の処刑は「無差別爆撃を行った戦争犯罪人」への処置として正当であったことを立証して「軍の最後を飾らん」ことを願った。岡田中将は、次のように家族への手紙に認めている。 私は必ず法戦には勝ってみせる。判決は御勝手にだ、之は米軍にても都合のある事ゆゑ。 ■2.フェザーストン博士■ 法戦に立ち向かう岡田中将に、力強い味方が現れた。主任弁護人を務めるフェザーストン法学博士であった。博士は50歳近い、恰幅の良い、巨躯をダブルの背広に包み、穏やかな笑顔で話す紳士だった。博士は弁護人として、被告を弁護することに全力を傾けた。その公正な姿勢は日本人に深い感銘を与えた。 博士は、まず米軍の爆撃が民間人に対する無差別攻撃として戦争犯罪にあたることを立証しようとした。 検察側は、名古屋の軍需産業の70パーセントは市内に散在する下請け工場であり、民間人への無差別攻撃には当たらない、と主張した。 博士は「証拠無しにものを言うのはやめて貰いたい」として、当時の軍需管理局の管理者二人を呼んで、証言をさせた。二人は、下請け工場は住宅地区とは別の工場地帯にあったこと、市内の家内工業では軍需生産は一切行われていなかったことを明らかにした。 ■3.逃げまどう女子どもたちを狙った米機■ 次いで博士は、空襲の被害者を何人も法廷に呼んで、無差別攻撃だった事を明らかにした。そのうちの一人に神戸市で孤児院の院長をしていたの水谷愛子さんがいた。昭和20年3月17日夜の神戸空襲の模様を次のように語った。 夜11時頃に警戒警報が鳴り、照明弾が落ちて、あたりは真昼のように明るくなった。他の機が焼夷弾を落とし、孤児院の建物にも火がついた。子どもたちを連れて、水谷さんは近くの親和女学院に避難した。 しかし山から降りて来た人が、「ここ、危ないで」と言います。そこで子どもたちを下の宇治川の宇治橋に連れて行きました。みなを橋の下に入れましたが、人で一杯です。・・・焼夷弾がまたあたりに落ち始め、火を消すのに大わらわでした。幾組かの母子が焼死しました。 照明弾で真昼のように明るくなれば、逃げまどう子どもたちの姿もはっきり見えたはずである。米機が女子どもと知りつつ、焼夷弾を落としたのは明らかだった。 日本人弁護人の記録によれば、この時、法廷は「しーん」と静まりかえったらしい。 ■4.大量殺戮を狙う爆撃の残虐性■ フェザーストン博士は、無差別爆撃について、岡田中将の意見を聞いた。中将は、軍人らしく爆撃の具体的な方法を詳しく論じた。 まず爆撃予定地を包囲的に爆撃して炎上させ、それからさらに幾つかの爆撃地区に分割し、住民がそこの地区から逃げ出さないように、焼夷弾、小型爆弾、機銃掃射をまぜて全員殺戮の方法をとった。その残虐性を、岡田中将は指摘した。 この方法は、昭和20年3月10日、東京の江東地区で行われ、一晩で10万人近い死者を出した。名古屋市でも同じ方法がとられ、5月14日の最大規模の爆撃では、市の北部80パーセントが焼失し、死傷者948名、全焼2万3千余軒、罹災者は6万5千人近くに及んでいる。 映画「明日への遺言」で岡田中将を演じる藤田まことさん
フェザーストン博士は、岡田中将への尋問で、こう聞いた。 問: すると搭乗員は戦犯容疑者になりますが、無差別爆撃の違法性について、どうお考えですか。 答: 彼等がどんな命令を受けていたか、私にわかるわけがありません。しかし彼等は事実上無差別爆撃を行ったのであるから、その行為において、非合法である。 問: 彼等を戦犯容疑者として扱ったことについて、何か言うことはありませんか。 答: 降下搭乗員を捕虜として扱わず、戦犯容疑者として扱うのは、上司の示達です。そして私自身爆撃の実情を見て、正しいと信じました。 ■5.脅迫の宣伝ビラ■ 岡田中将は、米空軍がその非人道性を自覚しながら爆撃を行っていた証拠として、米軍が投下した宣伝ビラを挙げた。検事との間で次のような尋問が展開された。 問: 証人(岡田中将)は・・・航空機がばらまいた宣伝ビラのことを言った。これは日本国民を脅かすためだと言うが、これから始まる爆撃のきびしさの警告ではないのか。 答: ・・・ビラのあるものには、焔を吹く家や、子供が右往左往して親を捜し求める絵がかいてあった。「こわければ戦争をやめろ」と文句がついていた。ほかのものには、もっと口汚い諷刺が書いてあった。これは避難警告ではなく脅迫である。 問: このビラを運んだ搭乗員が事実上、戦争犯罪を犯したと言ったが、戦意喪失をくわだてたのが戦争犯罪か。 答: そうではない。このビラを運んだ搭乗員、もしくはサイパンの基地で、それを読んだ者も、当時の日本への爆撃方法が、非人道的であることを自覚していただろう、という意味だ。 問: 搭乗員はアメリカ空軍の命令によって、それを日本で撒いたとは思わないか。搭乗員が自分でビラを作って撒いたとでも思ったのか。 ■6.「人道に反するのを自覚していたかどうか」■ 検事は、爆撃が非人道・非合法であった事については、もはや争うことを諦めてしまったようだ。しかし、その責任は無差別爆撃を命令したアメリカ空軍にあり、実行した搭乗員にはない、その搭乗員を戦争犯罪者として処刑したのは不法であるとする論法をとった。この論法を岡田中将は、次のように一蹴した。 答: ビラ撒きは、最初のB29爆撃と同時にはじまっていた。誰がビラを刷ったか、問題ではない。その絵に描かれていることが、人道に反するのを自覚していたかどうかということである。そして事実、その行為を犯した。問題は爆撃を実行したということだ。 搭乗員も無差別爆撃の残虐性、非人道性を自覚しながら、実行したのなら、「単に命令に従っただけだから無罪」とは言えなくなる。 無差別爆撃が戦争犯罪であると追求する岡田中将と、命令を実行しただけの搭乗員は無罪だと弁護する検事の論戦は、あたかも原告と被告の立場が逆転したような趣となった。 こうした尋問を通じて、米空軍が無差別爆撃という戦争犯罪を犯したのだ、という事実は法廷の前で明らかにされていった。 岡田中将の法戦は勝ちつつあった。 ■7.すべての責任をとる■ 岡田中将の法戦には、もう一つの目的があった。部下たちを救うことである。処刑の命令を誰が出したか、が問題になった時、フェザーストン博士は岡田中将にこう尋問した。 問: 6月28日頃、11人の搭乗員が略式手続きで処刑された時、あなたが命令を出した憶えがありますか。 答: 覚えています。 フェザーストン博士は「命令書か、口頭か」と問い、中将が「口頭です」と答えると、さらに「その時、使った言葉を覚えていますか」と聞いた。ここではっきり「処刑を命じた」と答えられては、中将の責任は逃れられなくなる。弁護人としては、曖昧な答えを期待していた。ところが、岡田中将はこう断言した。 私は大西(大佐)に言った。(略式手続きを取るという 大西大佐の)説明はよくわかった。処刑するよりしようがないようだ。処刑しろ。いま思い出しました。「なるべく早く」という言葉を使った、と思う。 また処刑は、軍刀による斬首で行われた。それを立案した伊藤少佐と、その実行を命じた米丸副官を救うべく、岡田中将はこう弁護した。 私は職務上、結論だけを命ずる。実行の具体的手段は、部下が考案する慣習です。従って、伊藤ケースにおける軍刀使用も伊藤法務少佐が立案し、米丸副官が命じ、ということになる。・・・従って、軍刀使用の命令が米丸から出たにしても、その実質において司令官が言いつけたのと同じである。 こうした態度から、岡田中将がすべての責任を取ろうとしていることが、誰の目にも明らかになってきた。 ■8.法廷への感謝■ 部下をかばうために、すべての責任を負ってしまう岡田中将の態度は、検察側の心も動かしていた。中将の尋問の終わりに、次のような質問をして、刑を軽減する最後のチャンスを与えた。 問: さて6月26日に伊藤少佐が(調書を持って)あなたの部屋に来たときに、搭乗員が有罪で、死刑に処すべきだ、とのヒントを出したのはどっちですか。伊藤があなたからヒントを得たか、あなたが伊藤からヒントを得たか。 答: ヒントは誰から与えられたものではない。私が自分で考えて、自分にヒントを与えたのです。 岡田中将は検察から与えられたチャンスも返上した。そして最後に自ら発言の許可を求めた。 市ヶ谷のA級戦犯法廷においても、当横浜法廷における他のB・C級ケースにおいても、われわれはこれほど自分の感情を述べる機会を与えられなかった。米空軍の内地爆撃問題に就いては、被告から十分に言う機会が与えられなかった。この点において極めて寛大な処置を執ってくれたのは、此の法廷が初めてであると思う。・・・ 日本人同胞も此の寛大なる法廷の状況を、間もなく聞くでしょう。そして感謝の気持ちを持つであろう。その感謝の気持ちは、両民族、米国を兄とし日本を弟としての心からの結合に非常なる役割をするものであると思う。 ■9.静かな微笑■ 昭和23年5月19日、判決が下された。岡田中将は死刑の判決を、頷きながら聞いた。「判決は御勝手にだ、之は米軍にても都合のある事ゆゑ」と言ったように、本国の手前、有罪判決を行い、後はケース毎に減刑処置を行う、というのが、「米軍の都合」だった。 果たして岡田中将の助命嘆願が殺到した。かつて宮付武官として仕えた秩父宮や、その他の身内や関係者ばかりでなく、フェザーストン博士や、検事、そして判決を下した5人の裁判委員のうちの2人までから嘆願書が寄せられた。岡田中将は、人々の厚意に感謝しつつも、「日本軍人らしく日本軍隊らしく終始せる」事を祈っており、情けをかけられる事を好まなかった。 一方、部下たち19名は大西大佐の終身刑から、最も軽い者でも10年の刑が宣告された。岡田中将はスガモ・プリズンで処刑を待つ間にも、「部下には罪はない、刑を軽減してほしい」との請願を続けた。結局、10年の刑を受けた13名は、翌年3月に釈放され、他の人々も大西大佐の昭和33年釈放を最後に、すべて社会復帰が許された。「部下を救う」という岡田中将の第2の目的も果たされたのである。 スガモ・プリズンでは、岡田中将は30人ほどの青年死刑囚を相手に「必ず減刑になるから」と励まし、将来の日本を背負って立つよう、自らの信仰する日蓮宗をもって教育した。 昭和24年9月15日夜10時、死刑執行のための呼び出し人が岡田中将の独房にやってきた。すべてを自分の責任と証言した中将には、減刑の余地がなかったようだ 青年死刑囚たちは連れ出される岡田中将の姿を見て、「アッ」と声をあげた。中将は一言「君達は来なさんなよ」と言った。「閣下、後は御心配なく」の声に「うむ」。中将の静かな微笑に無限の慈悲を感じたという。 |
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