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先日の記事「昭和天皇と和歌について」の続きとして、夜久正雄氏の昭和天皇 の和歌にかんする文章から引用しました。
今上天皇の御歌の価値について現代の歌人はどう考えているのだろうか?
斎藤茂吉は御歌について「御発想が如何にも御自由で具体的で、従来のいはゆる御製調とも、いふべきものから著しく展開していることに瞠目した」(『天皇歌集・みやまきりしま』所載の論文より)と言い、その「展開」は「すべて、終戦後の御詠に属する」と言っている。「従来のいはゆる御製調」については、「歴代天皇の御製を拝読すると、お歌柄の上に何か一貫した特質と言ったものが感ぜられるやうに思ふ」と言い、「清純とか、おほどかとか、平明とかいふやうな抽象的な言葉を以て表現される、共通したある匂ひがあるのではあるまいか」と言う。 釈迢空・折口信夫もまた、異なる見地から同一の感じをのべている。「昭和御製と宮廷ぶりの歌」という御歌論に、まず短歌のれきしについての独自の見解を述べ、「帝王の御歌」の特質についてこう述べている。「その中、不思議な程、他と異なっているのは帝王の御歌であった。歌を読むと同時に、その組みあはされた個々の題材の関係などを了解する。その先に、いち速く来るのは、外形要素――しらべが、まづ特殊だと言ふことに気のつくことである。知識でもない、権威でもない、圧力でもない、おほどかにしてあたたかに、清くしてまどかなもの、さういふ形式要素が、何よりも強く我々に響くことに心づく。 これはおそらく、我々の持ってゐる伝統的な短歌に対する直感と言ふものが、既に綜合された感覚から出発してゐて、これが宮廷ぶりだと言ふことを、一刹那無意識に感じ、瞬間に他と判別することが出来るからであらう。だから私の話は別に神話を語り、呪詞を説いてゐるのではない。論より証拠、文学史上の証拠であり事実である。次いでは科学の裏書きが出て来るはずである」と。 また近ごろ『文藝春秋』の随筆欄に木俣修氏が、「今上陛下の御歌」と題する小論を寄せ、「歴代の天皇の御製に比べて陛下の御歌にはその人間としての御感情が何のおはからいもなくいきいきと流れていて、それぞれの御歌がわれわれの身近ににぐんぐんとせまって来るような思いがする」「自由でとどこおりのない人間的な御抒情のなかにおかすことのできない位を保たせておられる御歌風こそ、天皇ぶりの昭和の新風といってよいのではなかろうかと思う」と言う。 私自身の感想を述べると、今上天皇の御歌を読むと、自分のくるしみや悲しみがとけてゆくような感じがする。われわれがいきてゆく上には、理不尽な目にあって苦しみなやむ時もあるし、どうにもならぬ悲しみに沈むこともある。そういう時、今上天皇の、殊に戦後の御歌をよむと、その御歌には、自分の苦しみよりももっとはげしい苦しみをへてきた人の息づかいが感じられ、自分の悲しみよりももっと深い悲しみがたたへられているように感じられて、自分のくるしみや悲しみが御歌の作者の大きな悲哀と苦悩とにつつまれてしまうのである。 ここに、今の世の中をもっとも深く味わい、もっとも誠実に生きておられるお方がある、とおもうと、勇気が湧くのである。 この感じ、この感じを伝えることができれば、くどくどと理屈めいたことを書く必要はない。ぼくは、ただ、この感じをたしかめようとして、御歌を研究したのである。そして、いま、この感じは自分ひとりの感傷ではない。この感じをもたらすものは、御歌の価値である、と信ずるのである。人はこれを信仰とよんで笑うかもしれない。それはそれでいいが、そのために、御歌の芸術的価値は、変わることがないものと思う。 (昭和三十四年十月十五日)
ここで、明治天皇の御製と、昭和天皇の御製の感じの違いを味わって見るために、幾つかお二人の歌を謹載いたします。
明治天皇御製
(明治42年)
おのが身のまもり刀は天にますみおやの神のみたまなりけり
湊川懐古(明治35年)
あた波をふせぎし人はみなと川神となりてぞ世を守るらむ
柱(明治42年)
橿原のとほつみおやの宮柱たてそめしより国はうごかず
書(明治43年)
いそのかみふるごとぶみは万代もさかゆく国のたからなりけり
歌(明治39年)
すなほにてををしきものは敷島のやまと詞のすがたなりけり
折にふれて(明治45年)
思はざることのおこりて世の中は心のやすむ時なかりけり
折にふれて(明治39年)
みちのべにわれを迎ふるくにたみのただしきすがた見るぞうれしき
昭和天皇御製
洞爺丸事故(昭和29年)
その知らせ悲しく聞きてわざはひをふせぐその道疾くとこそ祈れ
(昭和22年)
をちこちの民のまゐきてうれしくぞ宮居のうちに今日もまたあふ
戦いにやぶれし後の今もなほ民のよりきてここに草とる
雲仙嶽にて(昭和24年発表)
高原にみやまきりしま美しくむらがりさきて小鳥とぶなり
朝陽映島(昭和24年発表)
高どののうへよりみればうつくしく朝日にはゆる沖のはつしま
和倉にて(同上)
月かげはひろくさやけし雲はれし秋の今宵のうなばらの上に
8月15日那須にて(昭和天皇と30年)
夢さめて旅寝の床に十とせてふむかし思へばむねせまりくる
千鳥ヶ淵戦没者墓苑(昭和34年)
くにのためいのちささげしひとびとのことを思へばむねせまりくる
立山御歌碑(大正14年)
立山のそらにそひゆるををしさにならへとぞ思ふみ代のすかたも
河水清(大正15年)
広き野をながれゆけども最上川海に入るまでにごらざりけり
香川県大島療養所(昭和25年)
あな悲し病忘れて旗をふる人の心のいかにと思へば
船ばたに立ちて島をば見つつ思ふ病やしなふ人のいかにと
折にふれて(昭和22年)
老人をわかき田子らのたすけあひていそしむすがたたふとしとみし
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坂本龍馬
君が為 捨つる命は 惜しまねど 心にかゝる 国の行末 文久3年4月、坂本龍馬は、勝海舟の使いで福井藩の松平春嶽公を訪れました。目的は海軍の軍資金の調達でしたが、龍馬は、「海軍をおこし兵威を強くせよ」と説く横井小楠(よこい しょうなん)の助力を受けて、多額の軍資金を得ることができました。この時、龍馬は小楠を自宅に訪ねました。小楠は龍馬を連れ、由利公正の家を訪れました。三人は国を憂い、大いに語り合いました。その際に、龍馬が詠んだと伝えられるのが、冒頭の歌です。
君とは、当時の志士において孝明天皇です。龍馬の尊皇と愛国の思いが滲みでています。
勝海舟は、言っています。「俺は今までに天下で恐ろしい者を二人見たよ。それは、横井小楠と西郷南洲であった。……横井の思想の高調子のことは、俺などとてもはしごをかけても及ばぬと思ったことがしばしばあったよ」(『氷川清話』)
勝が畏敬するほどの人物、横井小楠は西郷・勝と並び、幕末維新の三傑と呼ぶにふさわしい巨人と言われています。
小楠は、南洲翁や勝を始め、坂本龍馬・橋本左内・木戸孝允等にも強い影響を与えました。竜馬の「船中八策」「大政奉還」は彼の案と思われていますが、もとは横井小楠のものです。維新後の日本が国是とした富国強兵も、小楠が唱えたものでした。
小楠は文化6年に熊本で生まれました。小楠が「小楠」と号したのは、楠木正成によっています。大楠公と仰がれる楠木正成は、忠義の英雄であり、武士の鑑(かがみ)、日本人の模範として、当時、最も広く尊敬された人物でした。大楠公に敬意を抱く小楠は、伝統的な精神を持った日本人でした。それと同時に、彼は類稀なる戦略的思考と国際感覚をもった日本人でもありました。
横井小楠
小楠は、形骸化してしまった儒学を痛烈に批判され、現実に根ざした学問、「実学」を説いて全国的に知られました。安政5年、49際の時に越前福井藩の松平慶永公に招かれ、藩の財政改革を指導しました。特に由利公正と共に実施した、増産した絹や生糸を長崎で売却して農民に還元するという富国策は大きな成果を挙げたのです。
文久2年、慶永公が政事総裁職という大老よりも格上のポストにつくと、そのブレーンとして幕政改革と公武合体を推進します。その後、失脚して一時、不遇の身にありましたが、小楠の偉大さを知る西郷南洲翁らから、明治政府に招かれ、制度局判事や参与に任じられたのですが、その雄大な構想を実現できぬうちに、明治2年1月、尊攘派の浪士たちによって暗殺されました。小楠の死は、出発期の近代日本にとって大きな損失となりましたが、小楠の感化を受けた人材は、その思想を受け継ぎました。
小楠は後進を育てた点でもめざましいものがありました。「五箇条の御誓文」を起草し、また新日本最初の大蔵大臣として財政政策を担当した由利公正や、明治天皇陛下の侍講で「教育勅語」の実現に関わった元田永孚(ながざね)は、小楠の弟子にあたります。また、明治憲法と教育勅語の作成に尽力した井上毅(こわし)は、晩年の小楠の話を筆録しているほどです。
彼らは、小楠の思想を、近代日本の建設に活かそうとしたのです。
近代日本の国家建設において、富国強兵は急務でした。富国強兵とは、まさに横井小楠が唱えた政策でした。
小楠の富国強兵策は、福井藩主・松平春嶽に提出した『国是三論』に論述されています。『国是三論』は、富国・強兵・士道の三論より成ります。それぞれ経済論・国防論・道徳論にあたります。そして、そのまま日本国の方針ともなるものとして書かれました。小楠はそこに、世界を念頭においた近代日本建設のグランド・デザインを描いたのです。
三論の第一である富国論は、殖産興業と通商交易の必要を論じ、民生を安定させ国を富ませる方針であり、小楠は福井藩でこれを実践し、藩に繁栄と成功をもたらしました。第二の強兵論は、列強のアジア進出のなかで、海軍の創設こそ強兵と説き、同じ島国から世界に雄飛した大英帝国に例をとり、イギリスに匹敵する海軍を創る方針を説きました。このように小楠は富国強兵を説きながら、その限界をも看破しており、さらに重要なものとして、第三に士道論を説いたのです。「士道」とは、儒学や武士道に基づく東洋的な政治道徳をいいます。小楠は、富と力を生かすために、己を修め人を治める「修己治人」の道を強調しています。
『国是三論』は、次のような言葉があります。「万国を該談するの器量ありて始めて日本国を治むべく、日本国を統摂する器量ありて始めて一国を治むべく、一国を管轄する器量ありて一職を治むべきは道理」と。その論の高邁であることは、勝海舟を感嘆させました。小楠が説いた士道論は、「富国強兵」によって国力を充実させたうえで、大義を世界に伝えるという国家目標へと高められていったのです。
幕末、攘夷の興奮が国内に満ち、多くの日本人が外国人を極度に警戒していた時、小楠は悠然とこう主張しました。「外国人もまた日本人と同じ、『天の子』ではないか。そうであれば、外国と接するには、天地仁義の大道をもってしなければならない」と説かれました。
堯舜孔子の道を明らかにし 西洋器械の術を尽くす
なんぞ富国に止まらん なんぞ強兵に止まらん
大義を四海に布かんのみ
暗殺される二年前、米国に留学する甥に、はなむけに送った、小楠の言葉です。
わが日本国は、尭舜や孔子の行った東洋古来の道徳を明らかにし、また進んで西洋の科学技術を我が物とすべきだ。新しい国家の方針は富国強兵だ。しかし、目的は富国や強兵にとどまらない。日本の使命は、充実した国力をもって、大義を世界に広めることにある・・・・・これが、小楠の堅い信念だったのです。
「西洋の学はただ事業上の学にて、心徳上の学にあらず。心徳の学無きがゆえに人情にわたることを知らず。交易談判も事実約束を詰めるまでにて、詰まるところ遂に戦争となる。戦争となりても事実を詰めてまた賞金和好となる。人情を知らば戦争も停むべき道あるべし。事実の学にて心徳の学なくしては、西洋列強戦争の止むべき日なし」と(井上毅の筆録による『沼山(しょうざん)閑話』)
小楠は晩年、上記のように語っています。
単に物質的な富や力を追求する「事実の学」でだけでは、戦争はなくならない。世界平和の実現のためには、「心徳の学」が必要だと小楠はいいます。
小楠は富国強兵を実現するとともに、国民の道徳心を高め、日本を道義国家たらしめたいと思っていたのです。そして、日本の政治を一新して、西洋に普及すれば、世界の「人情」に通じて戦争をなくすことができると、小楠は確信されていたのです。
小楠は、弟子の元田永孚に向かって、次のように抱負を漏らしたと伝えられます。「もし自分を用いる者があれば、自分は使命を奉じてまず米国を説き、一和協同を成し遂げ、その後に各国を説き、遂に世界の戦争を止めるであろう」と。
大義を世界に伝えるために、まず米国と交渉して日米の協和を実現し、それをもとに各国を説得して世界平和を実現しよう。小楠の政略は、1世紀以上も後の今日の世界をも見通していたかのようです。
日本人は、ともすると偏狭で独善的な島国根性に傾きがちですが、しかし、日本人の精神の奥底には、世界平和を実現する精神的指導原理が内在しています。四海同胞・共存共栄の精神であり、世界に通じる世界精神ともいえるものです。小楠は、真の日本精神は世界精神であることを、私たちに感じさせてくれる、偉大な先人です。
明治の日本は、小楠の建策に基づく「富国強兵」を方針として国家建設を進め、政治的独立を守り、経済的発展にも成功を納めました。また、「士道」という面では、「五箇条の御誓文」とそれに基づく「教育勅語」が、近代的な国民道徳を生み出しました。
大東亜戦争後、米国の日本弱体化政策が行われ、日本は「強兵」どころか国防自体を制限されました。また、「士道」に表れたような精神的伝統を否定され、「教育勅語」も排除されました。国民はひたすら経済的な成長をめざす「富国」中心の路線を盲進しました。確かにまじめでひたむきな勤労により、わが国はかつてない物質的繁栄を得ました。しかし、ものの豊かさに反比例するように心は貧しくなり、唯物主義・利己主義が蔓延しています。道徳の低下は目をおおうほどです。
さらに、わが国は国家の根幹をなす国防を他に依存しているため、米国から譲歩を迫られると言いなりになるしかなく、米国との経済戦争において、敗北を余儀なくされました。大東亜戦争の敗北を「第一の敗戦」とすれば、今度は金融によるマネー戦争に敗れ、「第二の敗戦」を味わっているのです。
由利公正
横井小楠の思想は、弟子の由利公正に受け継がれ、明治新政府の財政や日本の国是を示した「五箇条の御誓文」、明治天皇陛下の侍講で「教育勅語」の実現に関わった元田永孚(ながざね)に反映されていきました。
今日、日本の再建がなるかどうかの瀬戸際にいます。それには、大義に基づく精神的な建て直しが必要です。日本の再生のために、改めて先人・偉人に学ぶべきではないでしょうか? 昨今の政治家は、維新、革命と軽々しく口にしますが、近代日本を開いた英傑は、岩倉具視を除く全員が明治10年前後の紀尾井坂の変までに暗殺もしくはなんらかの理由で死亡しています。滅私奉公の精神ここにありです。
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古来より天皇と和歌との結びつきは、非常に強く、歴代天皇は、和歌を詠むことで心の修養を積まれ、和歌を詠むことで心を慰められました。昭和天皇と和歌についての二人の方のお言葉を紹介したいと思います。これは昭和四十五年の時点でのお話ですので、今上天皇とは昭和天皇のことです。
宮中三殿
■夜久正雄亜細亜大学国文学教授の言葉から
歌を作るということは、自分の心を言葉にあらわすことによって人に伝えることでありますが、同時に自らをみつめかえりみることであります。「自覚」ということです。このことは誰でもできるたやすいことのようでもありますが、実際にやってみると、実にむづかしいことであり、深い意味をもっていることがわかります。
今上天皇様は、この御修養としての歌の道を御生涯にわたってふみ行なっていらっしゃるのです。ですから、こうした御努力のあととしてのお歌は、発表されたその時々に、読む者の心をあたたかく導いてくださるお歌でしたが、さらに全体を通じて拝誦しますと、昭和五十年の国の歩みそのものが、お歌にあらわされていると思われるのです。
国の政治に労せられるお心のお歌、神々祭祀のお歌、戦死者慰霊のお歌、災害を悲しまれるお歌、各種産業御見聞のお歌、自然観賞のお歌、御家庭生活のお歌、年毎の歌会始のお歌、植林事業のお歌、国民体育大会のお歌、外国元首に対するお歌、生物学語研究のお歌等々、お歌の題材は、まことの歌の道がそうであるように人生万般にわたっております。
そうしてこうしたお歌にはもちろん天皇様の御経験が表現されているのですが、その御経験の内容は、われわれ国民の味わったこの時代の経験と本質的には変わらないものであることが、お歌を拝誦するとよくわかるのです。日本人はみな日本人として、――つまり国の運命のもとに一種の劇的な経験をしていると言うことができましょう。天皇様はそうした国民の歩みの先頭にお立ちになって、国家の運命そのものを身を以て経験されるのであります。
ですから、お歌を拝誦すると、われわれ国民の先頭に立って雄々しく歩んでゆかれる天皇様のお心が、ありがたくかなしく仰がれるのです。数ならぬ身のわれわれもまた、この天皇様のもとでこの時代を生きてきたのだ、この世を生きているのだという実感が、痛切に味わわれます。この思いが究極において日本国民の信念であり生きがいではないでしょうか。この気持は、お歌を読み味わうことによって養われ深められ強められるのであります。
今上天皇様のお気持ちのお歌の中に、こういうお歌があるのを皆さまはご存知でしょうか。「七十歳になりて」という題の昭和四十五年(1970)のお歌です。四首連作のはじめの三首を引用します。
七十(ななそぢ)の祝ひをうけてかへりみれば ただおもはゆく思ほゆるのみ
ななそぢを迎へたりけるこの朝も 祈るはただに国のたひらぎ
よろこびもかなしみも民と共にして年はすぎゆきいまはななそぢ
「よろこびもかなしみも民と共にして」――とお詠みになられる天皇様の深いお心に、われわれは何としてお答えしたらよいのでしょうか。天皇様のおよろこびとおかなしみとをしのびまつることによってわが身を正すことこそ、天皇様のお心におこたえする道ではありますまいか。国を思うことが天皇陛下のお心をしのぶことと一致するのが日本の国の国柄ではないでしょうか。お歌を読んでつくづくそう思います。
■元掌典長 甘露寺受長(かんろじをさなが)氏の言葉
思うに陛下は、歌のほかに御心を自由に現されることはないのであって、歌を通じてのみ思いのままを表現され本当の思召を述べていられる。
大正天皇は漢詩が特に御堪能で歴代中御一人と思われるほどであった。明治天皇は広く知られているように歌聖といわれた御方であったが、明治様も今上天皇もともにおほらかで平易で何人にも同感される御歌を詠まれた。明治天皇にも今上天皇にも戦後の御歌が多いのは、やはり、もの思われる感情のたかまりは国家非常の場合に多いのであろうと拝察する。
なほ今上天皇の神事に対する御態度の立派さは申すまでもないが、昭和二九年の神嘗祭には当時掌典長の私に侍従を通じて二首の御歌をお示しになった。これは神事に対する御心の深さを示されたものとして私の終生忘れ得ぬところである。
昭和天皇の御製のいくつかご紹介しておきます。
大正十年(一九歳の時の御歌)
社頭暁 とりがねに夜はほのぼのとあけそめて代々木の宮のもりぞみえゆく
ちなみに同じ年の大正天皇の同じお題の御製は
神まつるわが白妙の袖の上にかつうすれ行くみあかしのかげ
でした。
社頭雪(昭和六年) ふる雪にこころきよめて安らけき世をこそいのれ神のひろまへ
朝海(昭和八年)
天地の神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を
神苑朝(昭和十三年)
静かなる神のみそのの朝ぼらけ世のありさまもかかれとぞおもふ
迎年祈世(昭和十五年)
西ひがしむつみかはして栄ゆかむ世をこそいのれとしのはじめに
連峰雲(昭和十七年)
峯つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり
社頭寒梅(昭和二十年御歌会始)
風さむきしもよの月に世を祈るひろまへ清くうめかをるなり
折にふれて(昭和二十年)
海の外(と)の陸(くが)に小島にのこる民の上安かれとただいのるなり
松上雪(昭和二十一年)
ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ
災害地を視察したる折に(同年) 戦いのわざはひうけし国民をおもふ心にいでたちて来ぬ
わざはひをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしとぞ思ふ
靖国神社九十年祭(昭和三十四年) ここのそぢへたる宮居の神々の国にささげしいさををぞおもふ 蔵前国技館「相撲」の御製の歌碑 ひさしくもみざりしすまひひとびとと手をたたきつつ見るがたのしさ (歌碑建設の由来 昭和三十一年九月?十五日・大麻唯男謹識として次のように書かれている。 「昭和三十年五月 天皇陛下親しく蔵前国技館に行幸はじめて国民と共に本場所を御覧あらせられた 陛下は終戦時国民を想い「五内(ごだい)為ニ裂ク」と仰せられた 又日常国民の上に御心の安まる間とてもない 然るに御観覧中は椅子を進められ拍手を送られ大衆も之に和するという光景を現出したのであった 天皇が一般国民と一つになって我国の国技たる相撲を御覧になった和やかな情景は戦前では見られないことであった 陛下がかくもお喜びになったことが新聞ラジオテレビジョンによって伝えられるや国民全体はまた心の底から喜んだのである これは其時の御製であって翌年正月初めて発表されたものである 我国相撲道の発展興隆期して待つべく大日本相撲協会の光栄まことに大なりと言うべきである」) |
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大東亜戦争開戦2日目の12月10日、イギリスの東洋艦隊の旗艦(司令官搭乗)プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスがとともに撃沈した。輝かしい日本海軍の勝利でありました。
プリンス・オブ・ウェールズとは大英帝国の次期国王である皇太子の称号です。
これを早々に日本軍がやっつけてしまったのだ。
この衝撃はチャーチルは勿論のこと、全世界、特に東洋で支配されていたアジアの国々には大きな衝撃となりました。
残る3隻のイギリス駆逐艦は死に物狂いで射撃を続けている。しかし、日本軍はこの3隻の駆逐艦を見逃し、攻撃を途中でやめ、溺れている英国兵士の救出に当たったのです。
これにより、約7割を救助したのでありました。
翌日、日本軍の攻撃隊を指揮した壱岐春記大尉は海戦のあった上空を飛んで行きました。
そして、空から紅色の花束を二つ海に投げました。 ひとつは「戦死した部下の霊よ、安らかなれ」 そしてもうひとつは「戦に敗れた英国軍人の霊よ、安らかなれ」と、念じたのでした。 これぞ日本武士道の精神であります。
このマレー沖海戦は武勇でも道義でも輝かしい日本軍の世界へ誇れる戦いぶりであったのです。
日本人の伝統的な考え方、それは日本精神であります。
その考えは風土、社会、とりわけ身近に生活を共にする人たちの考え方に影響されるのです。
その中心的なものに“武士道”があります。
武士の職分は“奉公”であり、侍奉公と言いました。
また、武士に限らず徒弟や丁稚も“奉公”と言ったのです。
公に奉仕すること、社会、国に尽くすこと、みんなのために働いて責任を分担する。
武士と同じ心構えでいようということの表れであります。
武士は帯刀して武士の体面を保つ。
刀剣は武士の魂と言われる。刀がなければ戦えないからであります。
刀は武士のシンボルでありますが、それは人を斬るためのものではなかったのです。
人に刀を振り回させないためのものであった。
剣は強い人ほど抜かないものです。
心の修養で敵を威圧する、心服させる。それが真の勇者であります。
やむを得ない時以外に人を斬っては”刀が汚れる”と言った。
昔は刀を持たせてもらえるのは危険を知りそれに対処できると認められることを意味したのです。
刀を持てるのは一人前ということであります。
かつて、中学では剣道・柔道・竹刀・長刀、小学生は騎馬戦や棒倒しをやり、木刀を持てる。撃剣を習える。生徒たちは勇み立った。 しかし、まずやるのは板の間に正座をしての講義でありました。
武士の心得、弱気を助け強きを挫く、武士の情け、不時の心得、そして偉人の話を聞かされる。そして木刀を持つ前に刀を抜くなと徹底して教えられたのであります。
年長者を尊び、修身と道徳を熱心に学び、唱歌の時間にも修身を同時に学んだのです。
そして日本人は、天皇陛下を敬い、国を愛し、誇りと喜びに支えられて、情熱の意欲に満ちて国家に尽くしたのです。
世界を驚かせた日清・日露の勝利も、驚異的な発展も、ひとえに修身と武士道に支えられた若者たちが、愛国心に勇み立って邁進したお陰なのです。・・・
護国の英霊は潔く命を捧げた。
残された者たちはしっかり国を護らねば、先に散った人たちの死は無駄になる。
靖国の英霊たちよありがとう。お陰で我々は今、平和に過ごせています。
しかし、一旦危難が迫れば我々も断じて国を護ります。
立派に奉公してみせますからご安心ください。・・・
こういうことを言える日本人でありたい。
・・・・・・
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国際派日本人養成講座からの転載です。
大震災では、戦前の教育勅語が理想としていた生き方が、あちこちで見られた。 井上 毅
■1.「避難して」最後まで防災放送 昨年3月11日、大地震の直後、宮城県南三陸町の防災対策庁舎から「6メートルの津波が来ます。避難してください」と冷静で聞き取りやすい女性の声で呼びかけが何度も繰り返された。 この放送で多くの町民が避難できた。しかし、放送は途中で切れた。最後の方は声が震えていたという。3階建の庁舎は津波にのまれ、鉄筋しか残らなかった。庁舎に残った職員約30人のうち、20人が殉職した。 最後まで放送を続けたのは危機管理課で防災放送担当をしていた24歳の遠藤未希さん。昨年7月に婚姻届を出し、今年の9月の披露宴に向けで楽しそうに準備をしていたという。 避難所へ逃げることができた女性(64)は、「あの放送でたくさんの人が助かった。町民のために最後まで責任を全うしてくれたのだから」と語った。 ■2.「一旦緩急アレバ義勇公ニ報ジ」 遠藤未希さんの生き様で改めて思い起こしたのは、「一旦緩急アレバ義勇公ニ報ジ」という一節である。「危急の際には、自らの義務を果たそうと、勇気をもって、公のために尽くし」というほどの意味だ。 戦前の道徳教育で中核的な役割を果たしてきた教育勅語の一節である。現在では、戦前のものはすべて軍国主義で悪いものと決めつけられて、この教育勅語も 否定され、忘れられてきたが、遠藤さんの防災放送担当として「義勇公に報」ずる生き方があったからこそ、多くの人々が救われたのである。 遠藤さんだけではない。福島第一原発事故に身を賭して対応し、「福島の英雄たち」としてスペインのアストリアス皇太子賞を受賞した自衛隊、東京消防庁、警視庁の人々、被災者支援に立ち上がったボランティアたち。みな「義勇公に報じ」た人々である。 国家の安全、国民の生活は、こういう人々の「義勇公に報」ずることで守られている、ということが、今回の大震災で明らかになった。 もう一つ、東北の人々が着の身着のまま放り出されても強い家族愛、同胞愛を持って助けあう姿が、国民全体を感動させたが、これについても、教育勅語は次のように述べている。 父母ニ孝(こう)ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相和 (あいわ)シ、朋友(ほうゆう)相信ジ、恭倹(きょうけん)己( おの)レヲ持(じ)シ、博愛衆(しゅう)ニ及ボシ、 父母に孝養をつくし、兄弟姉妹は仲良く、夫婦は仲むつまじく、友とは信じあい、自らの言動をつつしみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、 被災地の人々が身をもって示してくれたのは、まさに教育勅語が理想として説いた生き方そのものであった。 ■3.明治天皇の教育に関するご憂慮 教育勅語は明治の代表的教育家・井上毅(こわし)が中心となって起草したものだが、その動機となったのは、明治の文明開化のなかで、何でも西洋風が良いとして、伝統的な道徳が見失われつつあった当時の社会風潮に対する危機感であった。 それはちょうど、現代日本で、戦前のものはすべて封建的・軍国的だとして否定しながら、なんら新しい道徳を示せず、社会の混乱を招いているのとよく似た状況であった。 積極的な西洋文明の導入により、社会全体に、欧米を一段高く見て、日本の歴史伝統を捨てて、欧米化しなければダメだ、という風潮が蔓延していた。 当時の教育の状況について、明治天皇も憂慮されていた。天皇が地方を巡幸された時、ある学校では先進的な授業を見せようと、生徒に英語でスピーチさせた。ところが、陛下がその生徒に「その英語は日本語で何というのですか」と尋ねられても、生徒は答えられなかったという。 明治12年、明治天皇は側近であり、ご自身で師と仰がれていた元田永孚(もとだ・ながさね)に命じて『教学聖旨』という一文をまとめさせ、政府首脳にお示しになった。そこには、次のような認識が示されていた。 最近、専(もっぱ)ら知識才芸のみを重んじ、文明開化のむしろ悪いところを学び、品行を損ない、風俗を乱す者が少なくない。 その原因となっているのは、明治維新の始めにおいて陋習を破り、知識を世界に求めるとした卓見により、西洋の良い所を学び、文明開化の実を挙げたことは 良かったとしても、その反面として、仁義忠孝を後にし、いたずらに洋風を競うような状況になってしまったことである。 ■4.県知事たちの危機感 しかし、問題は簡単ではなかった。内務大臣・伊藤博文は、この『教学聖旨』への反論書ともいうべき『教育議』を提出した。儒教の「仁義忠孝」を教育の根 本に据えたのでは、信教の自由という近代政治の原則に悖(もと)ることになり、それは政府が率先してやるべきことではない、と主張したのである。 この『教育議』を書いたのは、伊藤のブレーンであり、後に教育勅語起草の中心となった井上毅だと言われている。明治天皇のお考えを示した『教学聖旨』に堂々と反論を挑むところに、当時の自由、かつ真剣な議論ぶりが窺われる。 しかし、この信教の自由の問題もあって、政府は具体的な手を打てず、事態はますます悪化していった。明治20年頃になると、米国からの留学帰りが、文部 省の中で「学士会」という党派を組織して羽振りを効かせていた。文部大臣の森有礼(ありのり)は、英語を国語にしようとまで主張していた。 教育の現場でも、小学生は少しでも数学や物理の初歩を学ぶと、たちまちその知識を誇って、大人を軽蔑するような態度をとっていた。中学生は、天下国家を論じ、校則を犯し、職員を批判し、紛争を起こす。 明治23(1890)年に開かれた地方官会議(県知事会議)では、こうした事態に対する危機感から「徳育涵養の義につき建議」が採択された。そこにはこんな危機感が表明されていた。 このままでは実業を重んじず、妄(みだ)りに高尚の議論を振り回し、年長者をバカにし、社会の秩序は乱れ、ついには国家を危うくすることにもなりかねない。 これは知育の一方のみが進み、徳育が同時に進んでいないからであって、今その救済策を講じなければ、他日必ず臍(ほぞ)をかむような悔いを残すだろう。 この建議をもって、全国の知事が打ち揃って、文部大臣に詰め寄ったものの、やはり宗教との距離をどう置くのかという問題にぶつかって、先へ進まなかった。 ■5.「これは納得できない」 このような状況をご覧になっていた明治天皇は、「徳育に関する箴言(しんげん)を編纂して、それを子供たちに教えたらどうか」と提案された。 この天皇の命を拝した文部大臣・芳川顕正(よしかわ・あきまさ)は、サミュエル・スマイルズの『自助論』を翻訳してベストセラー『西国立志編』を著した中村正直(まさなお)に、草案の作成の委嘱をした。 中村はもともと儒学者だったが、イギリス留学をきっかけにキリスト教徒に転向した人物で、作成した草案はきわめてキリスト教色の強いものだった。 これを正式な内閣案にするためには、法令上の問題がないか、法制局長官のチェックが必要だった。しかし、当時の長官・井上毅はその草案を一読して、「これは納得できない」と断固、拒絶をした。 儒教道徳を教育の根底に据えるのと同様、キリスト教に基づいた教育も、国民全体を教育する規範としては、受け入れられない、というのが、井上の考え方だった。 しかし、これが井上毅が教育勅語に関わるきっかけとなった。 ■6.「西洋に何を学べば、日本の独立を保てるか」 井上毅は天保14(1844)年12月、熊本藩の下級武士の家に生まれた。4歳で『百人一首』を全部暗記して神童ぶりを発揮した。 暗くなっても、小窓から差し込む光を頼りに本を読んでいる毅に母親が「勉強に根をつめず、暗くなったら早く寝なさい」と繰り返し注意していた。そこで毅は「ならばお母さんのご飯炊きを手伝う」と言って、暗いうちから起きて、かまどの火の明かりで本を読んでいた、という。 長じて、藩校・時習館の居寮生(藩が俊才を10名ほど選抜し、藩費で寄宿させる制度)に抜擢された。20歳の時には、熊本藩の大先輩で、当時56歳、日本を代表する論客・横井小楠に論戦を挑んだ。 開明派で「万国一体、四海同胞」を説く小楠に対して、「人類がみな兄弟と言うなら、なぜ西洋諸国は植民地支配という非人道的行為をしているのか」と堂々と論難した。 井上毅は、鎖国ではやっていけない世界情勢を認識し、近代的な軍備を急ぐ必要があると説きながらも、「万国一体」などという美辞麗句に惑わされて、我が国らしさを失っては元も子もない、と考えた。 23歳で明治維新を迎え、明治5(1872)年、司法省から抜擢されて、フランスに留学し、司法制度を学ぶ。しかし、井上には多くの留学生が陥ったよう な西洋崇拝も、一方的な日本卑下もなかった。「西洋に何を学べば、日本の独立と日本らしさを保てるか」という一点に徹して、研究したのである。 たとえば、刑法、刑事訴訟法などでの西洋の進んだ人権の考えは取り入れつつも、民法などは国民の独自の習俗、慣習に基づいたものでなければ社会が混乱する、と考えた。 帰国後、岩倉具視、伊藤博文のブレーンとなり、「日本の司法制度、裁判制度は井上毅によってつくられた」と評されるような業績を上げていく。 ■7.「法は民族精神・国民精神の発露」 明治13(1880)年から翌年にかけて、自由民権運動の高まりとともに、憲法制定や国会開設を求める運動が盛り上がった。政府内でも数年内に国会開設しようという急進派がいたが、井上毅はこれに危機感を抱き、岩倉、伊藤に漸進的な進め方を取るべきと説いた。 この結果、明治14(1881)年の秋、明治天皇の詔勅(しょうちょく)により、22年に憲法制定、翌年に国会開設という方針が示された。これを受けて伊藤博文は、モデルとなる憲法を求めて、欧米視察に出る。 伊藤がヨーロッパで師事したのが、政治・社会学の権威、ウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン教授だった。シュタイン教授は「法は民族精神・国民精神の発露」であり、国民の歴史の中から発達していくものとする歴史法学の考えを伊藤に教えた。 井上毅は国内で並行して欧米各国の憲法を慎重に比較検討しながら、具体的な憲法条文の研究を進めていたが、明治18(1885)年頃から、国史の研究に没頭し始める。 「法は民族精神・国民精神の発露」とするシュタイン教授の考えは、当然伊藤を通じて、井上毅にも伝えられていただろうし、それは日本らしさを失わずに、近代化を進めようとする井上自身の考えにも合致するものであったろう。 ■8.凄まじい国史国典研究 近代憲法の根基となるべき「民族精神・国民精神」の伝統を解明しようとする井上の勉強ぶりは凄まじいものだったと、国典研究の助手をつとめた国文学者の池辺義象(いけべ・よしかた)が回想している。 井上はこの頃から肺結核の兆しが出始めており、心配した池辺は明治19(1886)年の暮れから正月にかけて、千葉や神奈川の名所を巡る旅に連れだした。 千葉の鹿野山に登った時も、片手に書類を握って、読みながら歩く。12月の冷たい風に手が凍るように痛むと、ようやく手にしていた書類を鞄にしまい込んだ。 池辺がようやく「やれやれ、これでやっと歩くのに専念するのか」と思いきや、次の瞬間には「ところで、大国主神(おおくにぬしのかみ)のあの『国譲(ゆず)り』の故事は、一体どういうことだったろうか」と聞いてきて、池辺を驚かせた。 鎌倉に着いた時、雪も降り風も強くなっていた。井上は「大宝律令にはどんなことが書いてあったか」と池辺に質問した。池辺が「今ここに原文がありませ ん。私の記憶だけでは正確に答えられません」というと、「では今すぐにでも確かめたい。帰京予定を一日早めて、これから出発すれば今日中に東京に帰ること ができるだろう」と、雪が降り風の吹きすさぶあぜ道を駆け出した。 雪で、顔が針で刺されたように痛むにもかかわらず、藤沢まで行き、そこから人力車で横浜に出て、横浜からは汽車でその日のうちに東京に戻った。 こういう鬼気迫る国史国典研究から、井上は「民族精神・国民精神」に関する重大な発見をする。井上は、それを大日本国憲法の根幹に据え、さらにそこから教育勅語を起草するのである。 |



