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「美しい国」カマちゃん様のブログ記事、『(花園天皇)誠太子御書・元徳二年二月』に感銘し、これを受けて過去記事を転載致しました。
今上陛下のご意向のもとに、皇太子殿下への歴代天皇に関するご進講が始まったのは昭和52年である。この年の記者会見で、「(歴代天皇のご事跡のご進講は)殿下(今上陛下)が直接お勧めになったのですか」との問いに、陛下は、
ええ、これは皆で考えた問題ですけれども、天皇の歴史というものを、その事実というか、そういったものを知ることによって、自分自身の中に、皇族はどうあるべきかということが、次第に形作られてくるのではないかと期待しているわけです。
とお答えになっている。 それから数年を経て22歳をお迎えになった皇太子殿下は、記者会見での記者の質問「歴代の天皇についてのご事跡のご進講で最も印象に残っているのは何でしたか」に対して、次のようにお答えになった。
いままでお話を伺ったのは、第九十二代の伏見天皇までの歴代の天皇のお話しを伺って来ました。ですから歴代天皇全部のお話を伺ったのではないわけですけれども、そういうお話を伺って感じることは、歴代天皇が文化を大切にしてこられたということです。 それと、これはこの次の機会にお話を伺うことになっている花園天皇という天皇がおられるんですけれども、この天皇は先ほどの九十二代伏見天皇の皇子に当たるわけですが、その天皇がその時の皇太子である量仁(かずひと)親王、のちの光厳天皇となる人ですが、その親王に当てて書き残したものが残っているんで す。 誡太子書(太子を誡(いまし)むるの書)と呼ばれているんですが、この中で花園天皇は、まず徳を積むことの必要性、その徳を積むためには学問をしなければならないということを説いておられるわけです。その言葉にも非常に深い感銘を覚えます。
殿下は花園天皇については次にご進講を お受けになると言われているので、まだご進講をお受けになっていない天皇について自ら意欲的に学んでおられることが拝察できる。誡太子書は千四百八十九字から成る漢文だが、後醍醐天皇の御代、建武の中興の四年前に書かれたこの文書を、殿下は御祖先の声として、切実にお受けとめになったのである。 平成二十二年二月お誕生日の記者会見で、殿下はこの書について再び言及された。
花園天皇の言われる「学問」とは、単に博学になるということだけではなくて、人間として学ぶべき道義や礼義を含めての意味で使われた言葉です。私も五十歳になって改めて学ぶことの大切さを認識しています。 とお述べになった。
花園天皇の誡太子書に「余、性拙く智浅 しと雖も、粗(ほぼ)典籍を学び、徳義を成し、王道を興さんと欲するは、ただ宗廟祀りを絶たざらんが為のみ。宗廟祀を絶たざるは、宜しく太子の徳にあるべし」の一節がある。古来、祭祀は天皇第一の務めとされ、歴代天皇はその伝統を継承して今に至っている。
終戦時に、徹底抗戦を主張した、阿南大将が、鈴木首相に自決を覚悟して暇乞いの挨拶に来られたとき、鈴木首相は阿南大将の最後の心残りであるであろう「国体の護持」がなされるかどうかについて言われた。 「阿南さん、皇室は必ずご安泰ですよ、なんとなれば、今上陛下は春と秋の御先祖のお祭りを必ずご自身で、熱心におつとめになっておられますから。」 と言ったのは、単なる慰めではなかったであろう。敗戦というぎりぎりの状況下で、最後まで信じられるものは何か。 「皇室は必ずご安泰ですよ、なんとなれば、今上陛下は春と秋の御先祖のお祭りを必ずご自身で、熱心におつとめになっておられますから。」 終戦時の宰相のこの言葉は、二千年の歴史に培われた日本国民の信の結晶のように思われてならないと、ジャーナリストの打越和子氏は言っている。 日 本人にとって、日本の国を護っているのは、その時代の国民だけでなく、多くの先祖の御霊も一緒にこの国を守り支えているのだという意識があるのだ。そしてまた、皇祖皇宗の御神霊の御加護が、なによりそれに応えてくださるという信仰もあるのである。それは多分各個人の家も同様であったのであろう。その家を護 り支えているのはその現代の一代のみではない。多くの先祖の御霊が支えてくださっているという意識があり、それゆえに一層家を絶やしてはならない、先祖に顔向けが出来ないという意識が芽生えるのであろう。 そして、天皇の熱心なご祭祀のお姿に、揺らぎない神州不滅の信念を持つのは、当然であろう。 美智子皇后陛下も、ご皇室の印象を「歴代天皇が、祈りに終始していらっしゃる」と仰せられたが、この皇室の祭祀は、敗戦時にも途切れることなく続いた。まるで天界の意志を示しているかのようである。
平成の御代、天皇陛下は昭和天皇がご高齢のため制限された祭祀をすべて元に戻して継承された。「おそらく、歴代天皇の中でも特に真面目になさっていると渡辺允前侍従長は証言している。 最 近ある人から、今上陛下は石清水八幡宮に金銀の幣帛を納められたと聞いた。歴代天皇が、石清水八幡宮に幣帛を納められることはよくあるそうである。しかし金銀の幣帛を納められたことは、歴史上三回しかないという。一回目は蒙古襲来の時であり、二回目は、幕末において孝明天皇が納められた。そして今回が三回 目だという。今上陛下がいかに現代の日本に危機を感じておられるかが、ひしひしと伝わってくるようである。
ところで、渡辺允氏が以前何かの原稿 に、陛下が皇太子時代から新嘗祭についてお詠みになった御歌を示しながら、陛下は斯様に皇太子時代から祭祀にご熱心であると書いたところ、陛下がお読みになって、それはちょっと違うとおっしゃられたという。皇太子時代は祭祀を見ていたのだ、だからあのような歌が詠めたのである。天皇となってからはひたすら 祭祀に務め、一心に祭神に心を集中しているのだから、祭祀に臨む心構えは全く違う、と。
松明の火に照らされてすのこの上歩を進め行く古「いにしへ」思ひて 新嘗の祭始まりぬ神嘉殿ひちりきの音静かに流る ひちりきの音と合せて歌ふ声しじまの中に低くたゆたふ 歌声の調べ高らかになりゆけり我は見つむる小さきともしび 歌ふ声静まりて聞ゆこの時に告文読ますおほどかなる御声(みこえ) 拝を終へ戻りて侍るしばらくを参列の人の靴音繁し 夕べの儀ここに終りぬ歌声のかすかに響く戻りゆく道 (昭和45年にお読みになった連作七首)
新嘗祭は、天皇陛下が神嘉殿で新穀を皇 祖始め神々にお供えになり、神恩を感謝された後、陛下自らお召し上がりになる祭典で、毎年十一月二十三日に行われる。純白の絹の祭服をお召しの陛下が、夕の儀、暁の儀とそれぞれ二時間余りを務められる皇室の重儀である。神嘉殿の本殿で天皇が神饌を供されている間、その隣部屋ともいうべき神嘉殿の西隔殿に、 古来より皇太子だけが坐すことを許されている。西隔殿から本殿の祭祀の様子をみることは出来ない。さきの七首の御歌は、昭和天皇のご所作をお偲びになりながら西隔殿に座しておられる折のことをお詠みになったものである。
打越氏は次のように書いている。 新嘗祭の神秘的な夜が、これほど具体的 に再現された御歌はないであろう。ここに祭祀への真摯な御心が表れているのは当然である。ただこれは天皇ではなく、西隔殿に座している皇太子であるからこそ、お読みになれた御歌だったのだ。天皇の祭祀は、それほどまでに厳粛であり、しかしその境地に進むためには、ひたすら西隔殿で心耳を澄ます皇太子として の年月が必要だということではないか。 平成の皇太子も、すでに二十年、この新嘗祭の体験を積まれてきている。その事実に、粛然たる思いを禁じ得ない、と。
参考文献 「皇太子殿下、皇位継承者としてのご覚悟」 明成社編
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JJ太郎さんのブログ、『かつて日本は美しかった』からの転載です。民主政権は、韓国政府に700億ドルの支援を約束しましたが、タイ国の被害には、政府はわずか2500万円を支援することを決めたと発表しました。韓国よりもずっと親日国のタイに、雀の涙ほどのはした金で、支援などといえるものではないと思います。
14 October 2011 おさまらぬタイの洪水、親日国タイ支援をhttp://d.st-hatena.com/statics/theme/coloredleaves-red/add_rd.gif今度は日本が恩返しをする番。
タイの洪水がおさまる気配がありません。22日のNHKニュース(※1)によると、342人が死亡、240万人余りが被災と報じています。首都バンコクも浸水がはじまっており、ニュースで報じているように明日には大潮の影響でバンコク全域が浸水する可能性があります。
バンコク在住の日本人の方から頂いたメールによりますと、浸水予想地図というのが出回っており、地区により10cmから2mまで差があるとのことです。飲料水、食糧が不足しており、特に飲料水はスーパー、コンビニどこも既に売り切れ状態だそうです。生産拠点が被災し、さらに物流が麻痺していると思われるので、大変心配なところです。
遠く離れたタイですから、今は見守るしかありませんが、是非思い出していただきたいのは、東日本大震災でタイから多大な支援を頂いたことです。タイ政府は震災3日後に総額2億バーツ(約5・4億円)を支援することを決定しました。これはタイの外国に対する災害援助としては異例の額で、タイ政府は「日本は過去50年にわたりタイの開発を支援した。今回は日本がこれまでタイに示してくれた友情と連帯に応える機会である」と述べています。(※2) 日本大使館が受け取った額だけでも4億7000万バーツ(約12億3000万円)以上の義援金が寄せられたほか、医療チームを2度にわたって福島県の被災地などに派遣していただいており(※3)、毛布、非常用袋、寝袋、調理済み米の缶詰、防寒着、1本1・5リットルの水、即席めん、など大量の物資を支援していただきました。(※4)
歴史的にタイと日本は400年の友好の歴史があり、アユッタヤー王朝の親衛隊長となった山田長政は有名でしょう。近代に入り、白人国家の侵略の魔手に必死で抵抗し、独立を守ったところは日本と同じであり、昭和7年(1932年)、国際連盟が満州国を否定した際、タイは唯一棄権票を投じてくれました。大東亜戦争では日本を支持し、昭和18年(1943年)の大東亜会議ではワンワイタヤーコーン殿下(ナラーティップポンプラパン親王)にご出席いただきました。殿下は戦後、日本の国際連合に加盟においてもご尽力いただきました。また、戦後、タイは日本に貸し出したお金の値引きを了承してくれましたし、象の「ハナコ」さんを贈ってくれました。
私たち日本人はこうした友好的な国こそ大切にすべきだと思います。歴史を思い起こし、東日本大震災で受けた恩を忘れず、今度は日本がタイを支援すべきでありましょう。
ニュースソース
※2 「友情に応えるとき」 タイ、日本に異例の多額支援 http://www.newsclip.be/news/2011314_030312.html
【タイと日本の友好の歴史】
日タイ400年史 〜 山田長政 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/24673014.html
タイも近代化により独立を保った http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/24689619.html
身を殺して仁をなした日本 〜 タイから http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/24789774.html
添付画像
flood in Bangkok バンコクの冠水、洪水 ラームカムヘン2、バンナー地域 動画より http://www.youtube.com/watch?v=5XRIA22K0Bg
http://www.hiroshima-blog.com/area/banner001.jpg クリックで応援お願いします。
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JJ太郎さんのブログ、『かつて日本は美しかった』からの転載です。民主政権は、韓国政府に700億ドルの支援を約束しましたが、タイ国の被害には、政府はわずか2500万円を支援することを決めたと発表しました。韓国よりもずっと親日国のタイに、雀の涙ほどのはした金で、支援などといえるものではないと思います。
おさまらぬタイの洪水、親日国タイ支援をhttp://d.st-hatena.com/statics/theme/coloredleaves-red/add_rd.gif今度は日本が恩返しをする番。
タイの洪水がおさまる気配がありません。22日のNHKニュース(※1)によると、342人が死亡、240万人余りが被災と報じています。首都バンコクも浸水がはじまっており、ニュースで報じているように明日には大潮の影響でバンコク全域が浸水する可能性があります。
バンコク在住の日本人の方から頂いたメールによりますと、浸水予想地図というのが出回っており、地区により10cmから2mまで差があるとのことです。飲料水、食糧が不足しており、特に飲料水はスーパー、コンビニどこも既に売り切れ状態だそうです。生産拠点が被災し、さらに物流が麻痺していると思われるので、大変心配なところです。
遠く離れたタイですから、今は見守るしかありませんが、是非思い出していただきたいのは、東日本大震災でタイから多大な支援を頂いたことです。タイ政府は震災3日後に総額2億バーツ(約5・4億円)を支援することを決定しました。これはタイの外国に対する災害援助としては異例の額で、タイ政府は「日本は過去50年にわたりタイの開発を支援した。今回は日本がこれまでタイに示してくれた友情と連帯に応える機会である」と述べています。(※2) 日本大使館が受け取った額だけでも4億7000万バーツ(約12億3000万円)以上の義援金が寄せられたほか、医療チームを2度にわたって福島県の被災地などに派遣していただいており(※3)、毛布、非常用袋、寝袋、調理済み米の缶詰、防寒着、1本1・5リットルの水、即席めん、など大量の物資を支援していただきました。(※4)
歴史的にタイと日本は400年の友好の歴史があり、アユッタヤー王朝の親衛隊長となった山田長政は有名でしょう。近代に入り、白人国家の侵略の魔手に必死で抵抗し、独立を守ったところは日本と同じであり、昭和7年(1932年)、国際連盟が満州国を否定した際、タイは唯一棄権票を投じてくれました。大東亜戦争では日本を支持し、昭和18年(1943年)の大東亜会議ではワンワイタヤーコーン殿下(ナラーティップポンプラパン親王)にご出席いただきました。殿下は戦後、日本の国際連合に加盟においてもご尽力いただきました。また、戦後、タイは日本に貸し出したお金の値引きを了承してくれましたし、象の「ハナコ」さんを贈ってくれました。
私たち日本人はこうした友好的な国こそ大切にすべきだと思います。歴史を思い起こし、東日本大震災で受けた恩を忘れず、今度は日本がタイを支援すべきでありましょう。
ニュースソース
※2 「友情に応えるとき」 タイ、日本に異例の多額支援 http://www.newsclip.be/news/2011314_030312.html
【タイと日本の友好の歴史】
日タイ400年史 〜 山田長政 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/24673014.html
タイも近代化により独立を保った http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/24689619.html
身を殺して仁をなした日本 〜 タイから http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/24789774.html
添付画像
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一九七〇年十一月十二日、パリにいた私は一個の小包を受け取った。差出人は
三島由紀夫…… 私は、三島由紀夫と出会ったことがなかった。いぶかしい思いで包みを解くと、華麗な箱入りの『豊饒の海』三冊が現れた。三冊とも「竹本忠雄様 三島由紀夫」と雄勁な筆致で献辞が入れられていた。 私は、感想でも書き送らねば申し訳ないと、一日延ばしに返事を怠っていたところ、二週間後に、日本大使館から電話がかかった。電話は三島由紀夫の自刃を知らせてきて、フランスのジャーナリストが殺到して、大使館としては当事件にコメントする立場に無いので、竹本さんを紹介してもいいですかというのである。 私はフランスに住んで七年、常に日本の立場で、発言してきた。文化の「交流」なるものは、決して見かけほどには、優雅でも生やさしいものでもなく、時と場合によっては「交戦」の様相をさえ呈しうるものである。事は、文化の優雅ではなく、武の果断に関わっている。事件の真相は窺うべくもなかったが、そこに「暴力」を感じとったが最後呈されるであろうこの国の良識家の批難攻撃は、潮の遠鳴りにも似て、不安な矢ぶすまの音を遠く響かしめている。私は、自分が危い一線に立っていると感じた。 しかし、ためらいはなかった。のみならず、昂揚の気持ちが涌然として身うちに興りつつあるのを感じた。 死を決した人が、その死の決行に先んじて、わざわざ航空便で畢生の大作を一面識もない異国の日本人に送りよこしたということは、なにごとかそこに託したい念願があったればこそではなかろうか? 「分かりました……」 と、思わず答えていた。 三島由紀夫の自決の知らせを聞いて、パリで見た反応の第一は日本人画家たちだった。その中の一人の言葉は、私の胸に太釘を打ち込んだようなショックを残した。 「なんという破廉恥なことをしてくれたもんだ!」と吐き出すように言った。 「これからは、もう恥ずかしくって、フランス人と顔を合わせる事もできやしない……『豊饒の海』なんか、ありがたがって読んでいたけど、今夜、セーヌ川に持っていって、どんぶりこと捨ててしまうんだ!」 その後、もっと知的なパリ派の日本人の何人かが、「三島」の名を聞くたびに露骨に示した嫌悪の情は、けっして、この「どんぶり氏」に劣るものでもなかった。 フランス側からの反応で最初に見たのは、「ル・モンド」紙のニュースだった。 「失敗したクーデター」という見方が大半だった。「これを機会に日本の右翼が台頭してくることが恐れられている」との結語は、おそらく日本のマスコミの反応をコピーしたものであろう。 「気でも狂ったか」という佐藤首相の言葉も引用され、以後、三島事件が論じられるたびに繰り返され、事件に対する日本の世俗的見方の代表格として印象づけられていった。 そのうち日本からの詳細が届くにつれ、予想された以上に批判、ときには悪態に近い批難が、いかに世上に満ちみちているかを知った。「平和日本」の「茶の間の良識」なるものを否応なしに感じさせられた。切腹によって終結したクーデターなるものは、つまるところ「グロテスク」であり「アナクロニズムの極致」であるというのが、要するにそれら石打つ人々の嘲笑の的であるように思われた。 まして、十分な事情を知らぬ一般のフランス人のあいだで、この出来事が、当初、なによりもまず「ファナティックな暴力」として受けとられたとしても、まったく致し方のない反応というべきであったろう。そして程無く、私は全フランス注視の公開テレビ番組で、真っ向からこうした反撃に立ち向う立場に置かれた。 事件後何日目かのことだった。フランス国営テレビから電話が鳴った。毎週のレギュラー番組「文芸討論会」でミシマを取り上げたいから出席してくれというのだった。 放送当夜、私は風邪で高熱を出し、参加は諦めることにしたが、スタジオ入り三〇分前になったとき、ゆえ知らぬ力に引っ張り上げられるかのように、ガバと跳ね起きた。何のために三島由紀夫はあれほどの苦しみに耐えて死を選んだのか、との考えがよぎるや、ベッドの上に起き上がってしまっていた。そしてスタジオに駆け込んだ。 「ユキオ・ミシマの死は、単に政治的なものとして捉えられるべきではなく、われわれの文明にとって聖なるものの中心がいかに必要であるかを伝統的死の儀式にのっとって主張したものと見てしかるべきでありましょう……」 すぐ真向かいで炯々と目を光らせていたエティアンブル氏が、待ってましたとばかり噛みついて来た。 「しかし、ミシマは、結局のところ、ヒトラーの礼賛者ではなかったんですか?」 「なるほど、『わが友ヒットラー』という作品を彼は書いていますからね」と応じ、「だが、この題名は逆説なんですよ!」 相手の目をじっと視つめながら、私は切り込んだ。 「それでは、あなた方の作家、ジャン・ジュネのナチズム礼讃のほうは、いったい、どうなんですか?……」 思いがけない反撃にエティアンブル氏は不敵な面魂をびくりとさせた。そしてなにごとか呪文のように早口で口のなかでつぶやくと、こう締めくくろうとした。 「まあ、ミシマは、才能(デュ・タラン)の持主ではあるけどもね……」 どっこい、逃がさじ、と私は意を決していた。 今宵、何百万人ものフランス人がこの光景を見守っているであろう。ましてテーマは、いま話題騒然たる日本の作家ミシマであり、「ハラキリ」であり、大多数の彼らの目からすれば、さらにそれは「カミカゼ」というも同義語なのである。ただそれが、彼らの危惧する日本のファシズムの再来を意味するか否かの一点にかかっている。このままここで引き下がれば、「何だミシマとは要するにヒットラーの追随者にすぎなかったのか」との印象をもって落着してしまうだろう。 ともあれ、一歩も退かじとの決意を、そのとき私は固めていた。 そこで、こんなこともあろうかと懐に用意してきた“ウルトラC”――ただし一枚の紙片をおもむろに取り出すと、ずらりと一座を見まわして、こう言った。 「なにゆえの、このたびの、日本作家の不可解な挙であったか? ここに、ミシマの高弟である詩人、ムツオ・タカハシ(高橋睦郎)が、本放送のため、フランスの心に宛てて書いてよこした証言があります……」 私は読んだ。 「詩人はこう言っております―― 『ユキオ・ミシマの死の意義は、イエスの十字架上の死がその《受肉の完成》をもたらしたことを考えれば、おのずから明らかでありましょう……』」 一座は粛然とした。 「カトリックの国フランスの人々にはこの思想は分かってもらえるでしょう」と断って、私の畏友とする高橋氏が書き送ってきてくれた一言は、さすが有効なカウンターブローを相手にきめる上に決定的だったようである。 放送翌日に出た「パリ・テレ」紙に、次のような寸評があった。 「かんかんがくがくの、いつもの無意味な文芸討論会のなかで、昨夜、光っていたのは、あの日本人参加者のもたらした証言のみ……」 それまで7年間の滞欧生活を通じて、日本がヨーロッパと接触するその仕方について、時と共にある疑問を深めていた。 私は、接触の中心地パリにあって、ありとあらゆる祖国の文化流入と活動ぶりを見たが、そこでは「新しい日本」を打ちだそうとする外交姿勢と、文化的国際主義を旗印とする「進歩的文化人」の欧米風エリート意識がつねに大勢を制しているために、われわれ日本人の血脈中にあって否定しようのない、ある本質的特異性の面については、これを自覚し主張することを恐れ、ときにはこれを積極的に対決の白刃として繰り出すほどの勇気を欠いてきたのではないか――との疑問である。 交流の水路を往来する人士の言動を見ると、「われわれはこんなにも現代的です」と滑稽なほどにまで肩をいからせているようにさえみえる。在欧大使館が、「演武」などと聞くとアレルギー症状を起こしがちなのも、その一例である。 こんな事もあった。あるベルギー人が日本フェスティバルで武道を紹介したいから武道家を世話していただきたいと、在ベルギー大使館に頼んだところ、大使館文化部の外交官はこう答えたという「いまの日本に武道なんてありませんよ!」 こういった例は枚挙にいとまがない。 最近でこそややその風潮は改まってきたが、ヨーロッパで合気・空手・少林寺拳法などを教える日本の武芸家は、一般に、日本人側から冷飯を食わされてきたのが通例であって、彼の地の国々の大衆が三顧の礼をとってこれらの師範を奉迎する実態ときわだたしい明暗二相をなしてきたのである。ある意味で――文字通り身を張って――日本文化の発揚に勤め、かつ最大多数の碧眼の弟子たちの尊敬を集めてきた在外日本人は武道家をもって筆頭格とすると私は信じてきたくらいで、こうした日本側からの不認識にはいつも大いに憤懣をかこってきたのであった。 禅、神道に関しても同様であった。 その後、あの達磨のごとき面魂を持った永平寺の弟子丸泰仙師が渡仏して禅の実体験をフランス人にほどこし、かつこれに大成功を収めるに至って、自分の敵はフランスではなく日本にあったと嘆じたときも、まことにむべなるかなと共感を禁じえなかった。 こうした面の日本が強調されるのは困ると感ずる人がいることは、したがって明らかである。しかもどこよりも、われわれ日本人自身のあいだにいるのである。そのような反応が、終戦後、西欧的合理精神に学んだ日本の知識人の大半の姿勢を決してきた、と言っても過言ではないだろう。 こうまでしてわれわれが「古い日本」に目をつぶりたがっている謂れは何だろう。フランスの国営テレビが、制作した野心的フィルム「アンドレ・マルローとの旅日記――日本篇」が1979年にパリで試写されたときの光景が、胸によみがえる。ジャン・マリー・ドロー監督によるこのフィルムは、京都・奈良をとおって熊野の那智滝、伊勢神宮にいたるまでのマルロー最後の来日時の足跡を着実にたどることによって、マルローのいうところの「永遠の日本」と西欧精神の対話を忠実に再現せしめようとしている。 アンドレ・マルロー
私は、このように深く高雅な意図をもったフランス国民の芸術的創造性なるものを永遠に讃美してやまない者である。ちなみにこの作品は、フランスで全国放映され、三十数紙の新聞がこれに賛辞を呈するほどの注目の的となった。ところでこの試写を見終わった日本外務省の文化担当官はなんと言ったか、「新しい日本が全然出て来ませんな。まあ、新幹線が、ちらりとは出てくるけれども、……」この困惑、この激怒は、かりに口にこそ出さね、敗戦によって条件付けられた戦後日本のタブーの領域を犯すことを、誰もが大なり小なりおそれているという事実に、歴然と由来している。 三島由紀夫の自刃は、人がどのようにそれを受け取ろうと、私には、何よりもまず、このタブーの封印を一挙に切裂いた「侵犯」の行為と見えたのであった。そしてこの侵犯によって、そこの封じ込まれた日本の神聖なる恥部、もしくは恥部の神聖を白昼にさらけ出した行為という意味において、しかもこの行為の切っ先を、自己の身肉をとおして日本のみならず現代的世界の喉元に扼したという意味において、まことにもって驚天動地の「荒ぶる神」の出来事と見えたのである。 最も密やかな心奥の疑問にこたえてくれた鬼神の行動としてそれは私を震撼せしめたが、同時に、剣尖を突きつけられたヨーロッパのエスプリの側も深くこれに戦慄し、事件直後の皮相的一部の反撥をこえて、たちまちにして共感、礼讃の声々が広がっていく光景を見て、はたせるかなと感慨に打たれずにはいられなかった。 少なくとも、フランスにあっては、エティアンブル氏流の攻撃は、ほうはいとして興る讃嘆の念によって、たちどころに取って代わられていった。ときには同一人物のなかで、当初その口からほとばしった「野蛮」を非難する声が、真相を知るや、実に驚くべきことに、感動の涙にまで変化していく光景を目にしたのである。三島氏の遺言的一作『憂国』に感じた詩人、エマニュエル・ローテンの反応がそうであったように。 『パリ憂国忌』竹本忠雄著から
字数制限のため、書きなおしや省略をしました。 |

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