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東芝の会長・経団連の会長を務め、昭和56年3月から中曽根元首相から請われて臨時行政調査会(臨調)会長の任を果たした土光敏夫さんは、その質素な生活ぶりがNHKで放映され、「メザシの土光」と言われた方です。
経団連会長がそんなメザシばかり食べる質素な暮らしをするなんて変だと思われるかもしれませんが、確かに土光さんが経団連の会長をしているころの年俸は数千万円はあったそうです。 しかし年俸の多くは、土光さんのお母様が創立された女学校「橘学苑」(現在は共学)の支援にあてられていたのです。 話はさかのぼりますが、昭和15年に土光さんのお父様がお亡くなりになり、残されたお母様の登美さんが、突然「子女教育を手がける」と言い出されたそうです。 その時、お母様は既に70歳。 当然家族は反対されたようですが、『国の滅びるは悪によらずして、その愚による』と子女教育の必要性を説かれ、『私が死んだ時のお香典を生きているうちに下さい』と知人宅を回って設立のための資金を集められたそうです。 そして、戦争真っ只中の昭和17年4月に、橘女学校が創立され、初代理事長にお母様の土光登美さんが就任されました。 教育方針は、成績第1主義ではなく、『正しきものは強くあれ!』の登美さんの言葉を校訓に掲げ、自立した女性、平和社会を築く女性の輩出を願って教育が行われ始めました。 しかし、女学校を設立してわずか3年後の昭和20年、お母様が73歳で他界されます。 この時、土光さんは石川島芝浦タービンの専務で大変な激務であったそうですが、お母様の遺志を継いで二代目学園理事長に就任されました。 当初は入学者が8人という時もあったそうで、学校経営は楽ではなかったようです。 土光さんは、その後石川島播磨・東芝の重役、経団連会長になってからも、横浜鶴見区の学校から近いご自宅からJR鶴見駅まで歩き、電車に乗って会社へ通われたそうです。 自宅の応接間にエアコンはなく、夏は扇風機、冬は石油ストーブ、決して会社を私利私欲のために使わず、学校教育に力を注がれました。ご自身の生活費は月10万円と言われていました。経団連の会長がですよ・・・ 昭和六十一年、電電公社や国鉄の民営化をやり遂げた臨調は解散しましたが、その功績を認められ、土光さんは民間人では初めて生前に「勲一等旭日桐花大綬章」を受章されます。 受勲の際、土光さんが 「個人は質素に、国は豊かに」 と、おしゃったのは有名な話です。 そんな土光さんの、座右の銘は、 『日に新たに、日日に新たなり、また、日に新たなり』 という、中国古典の「大学」に出てくる言葉です。 この言葉について、土光さんは以下のようにおしゃっていたそうです。 「一日の決算は一日のうちにやる。 失敗もあるであろう。 しかし、昨日を悔やむこともしないし、 明日を思い煩うこともしない。 新たにきょうという清浄無垢な日を迎える。 ぼくはこれを銘として、毎朝 『きょうを精いっぱい生きよう』と誓い、 全力を傾けて生きるのだ。 」 昭和63年8月4日、土光敏夫さんは93歳でお亡くなりになりました。 天国から土光さんは、利権のために働く政治家、お金儲けばかりにはしる経営者、個人の主張ばかりが蔓延る今の世の有り様を見て、何とおっしゃることでしょうか・・・ |

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