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国際派日本人養成講座からの転載です。

大震災では、戦前の教育勅語が理想としていた生き方が、あちこちで見られた。

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井上 毅

■1.「避難して」最後まで防災放送

昨年3月11日、大地震の直後、宮城県南三陸町の防災対策庁舎から「6メートルの津波が来ます。避難してください」と冷静で聞き取りやすい女性の声で呼びかけが何度も繰り返された。

この放送で多くの町民が避難できた。しかし、放送は途中で切れた。最後の方は声が震えていたという。3階建の庁舎は津波にのまれ、鉄筋しか残らなかった。庁舎に残った職員約30人のうち、20人が殉職した。

最後まで放送を続けたのは危機管理課で防災放送担当をしていた24歳の遠藤未希さん。昨年7月に婚姻届を出し、今年の9月の披露宴に向けで楽しそうに準備をしていたという。

避難所へ逃げることができた女性(64)は、「あの放送でたくさんの人が助かった。町民のために最後まで責任を全うしてくれたのだから」と語った。


■2.「一旦緩急アレバ義勇公ニ報ジ」

遠藤未希さんの生き様で改めて思い起こしたのは、「一旦緩急アレバ義勇公ニ報ジ」という一節である。「危急の際には、自らの義務を果たそうと、勇気をもって、公のために尽くし」というほどの意味だ。

戦前の道徳教育で中核的な役割を果たしてきた教育勅語の一節である。現在では、戦前のものはすべて軍国主義で悪いものと決めつけられて、この教育勅語も 否定され、忘れられてきたが、遠藤さんの防災放送担当として「義勇公に報」ずる生き方があったからこそ、多くの人々が救われたのである。

遠藤さんだけではない。福島第一原発事故に身を賭して対応し、「福島の英雄たち」としてスペインのアストリアス皇太子賞を受賞した自衛隊、東京消防庁、警視庁の人々、被災者支援に立ち上がったボランティアたち。みな「義勇公に報じ」た人々である。

国家の安全、国民の生活は、こういう人々の「義勇公に報」ずることで守られている、ということが、今回の大震災で明らかになった。

もう一つ、東北の人々が着の身着のまま放り出されても強い家族愛、同胞愛を持って助けあう姿が、国民全体を感動させたが、これについても、教育勅語は次のように述べている。



父母ニ孝(こう)ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相和
(あいわ)シ、朋友(ほうゆう)相信ジ、恭倹(きょうけん)己(
おの)レヲ持(じ)シ、博愛衆(しゅう)ニ及ボシ、

父母に孝養をつくし、兄弟姉妹は仲良く、夫婦は仲むつまじく、友とは信じあい、自らの言動をつつしみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、



被災地の人々が身をもって示してくれたのは、まさに教育勅語が理想として説いた生き方そのものであった。


■3.明治天皇の教育に関するご憂慮

教育勅語は明治の代表的教育家・井上毅(こわし)が中心となって起草したものだが、その動機となったのは、明治の文明開化のなかで、何でも西洋風が良いとして、伝統的な道徳が見失われつつあった当時の社会風潮に対する危機感であった。

それはちょうど、現代日本で、戦前のものはすべて封建的・軍国的だとして否定しながら、なんら新しい道徳を示せず、社会の混乱を招いているのとよく似た状況であった。

積極的な西洋文明の導入により、社会全体に、欧米を一段高く見て、日本の歴史伝統を捨てて、欧米化しなければダメだ、という風潮が蔓延していた。

当時の教育の状況について、明治天皇も憂慮されていた。天皇が地方を巡幸された時、ある学校では先進的な授業を見せようと、生徒に英語でスピーチさせた。ところが、陛下がその生徒に「その英語は日本語で何というのですか」と尋ねられても、生徒は答えられなかったという。

明治12年、明治天皇は側近であり、ご自身で師と仰がれていた元田永孚(もとだ・ながさね)に命じて『教学聖旨』という一文をまとめさせ、政府首脳にお示しになった。そこには、次のような認識が示されていた。


最近、専(もっぱ)ら知識才芸のみを重んじ、文明開化のむしろ悪いところを学び、品行を損ない、風俗を乱す者が少なくない。

その原因となっているのは、明治維新の始めにおいて陋習を破り、知識を世界に求めるとした卓見により、西洋の良い所を学び、文明開化の実を挙げたことは 良かったとしても、その反面として、仁義忠孝を後にし、いたずらに洋風を競うような状況になってしまったことである。


■4.県知事たちの危機感

しかし、問題は簡単ではなかった。内務大臣・伊藤博文は、この『教学聖旨』への反論書ともいうべき『教育議』を提出した。儒教の「仁義忠孝」を教育の根 本に据えたのでは、信教の自由という近代政治の原則に悖(もと)ることになり、それは政府が率先してやるべきことではない、と主張したのである。

この『教育議』を書いたのは、伊藤のブレーンであり、後に教育勅語起草の中心となった井上毅だと言われている。明治天皇のお考えを示した『教学聖旨』に堂々と反論を挑むところに、当時の自由、かつ真剣な議論ぶりが窺われる。

しかし、この信教の自由の問題もあって、政府は具体的な手を打てず、事態はますます悪化していった。明治20年頃になると、米国からの留学帰りが、文部 省の中で「学士会」という党派を組織して羽振りを効かせていた。文部大臣の森有礼(ありのり)は、英語を国語にしようとまで主張していた。

教育の現場でも、小学生は少しでも数学や物理の初歩を学ぶと、たちまちその知識を誇って、大人を軽蔑するような態度をとっていた。中学生は、天下国家を論じ、校則を犯し、職員を批判し、紛争を起こす。

明治23(1890)年に開かれた地方官会議(県知事会議)では、こうした事態に対する危機感から「徳育涵養の義につき建議」が採択された。そこにはこんな危機感が表明されていた。


このままでは実業を重んじず、妄(みだ)りに高尚の議論を振り回し、年長者をバカにし、社会の秩序は乱れ、ついには国家を危うくすることにもなりかねない。

これは知育の一方のみが進み、徳育が同時に進んでいないからであって、今その救済策を講じなければ、他日必ず臍(ほぞ)をかむような悔いを残すだろう。


この建議をもって、全国の知事が打ち揃って、文部大臣に詰め寄ったものの、やはり宗教との距離をどう置くのかという問題にぶつかって、先へ進まなかった。


■5.「これは納得できない」

このような状況をご覧になっていた明治天皇は、「徳育に関する箴言(しんげん)を編纂して、それを子供たちに教えたらどうか」と提案された。

この天皇の命を拝した文部大臣・芳川顕正(よしかわ・あきまさ)は、サミュエル・スマイルズの『自助論』を翻訳してベストセラー『西国立志編』を著した中村正直(まさなお)に、草案の作成の委嘱をした。

中村はもともと儒学者だったが、イギリス留学をきっかけにキリスト教徒に転向した人物で、作成した草案はきわめてキリスト教色の強いものだった。

これを正式な内閣案にするためには、法令上の問題がないか、法制局長官のチェックが必要だった。しかし、当時の長官・井上毅はその草案を一読して、「これは納得できない」と断固、拒絶をした。
儒教道徳を教育の根底に据えるのと同様、キリスト教に基づいた教育も、国民全体を教育する規範としては、受け入れられない、というのが、井上の考え方だった。

しかし、これが井上毅が教育勅語に関わるきっかけとなった。


■6.「西洋に何を学べば、日本の独立を保てるか」

井上毅は天保14(1844)年12月、熊本藩の下級武士の家に生まれた。4歳で『百人一首』を全部暗記して神童ぶりを発揮した。

暗くなっても、小窓から差し込む光を頼りに本を読んでいる毅に母親が「勉強に根をつめず、暗くなったら早く寝なさい」と繰り返し注意していた。そこで毅は「ならばお母さんのご飯炊きを手伝う」と言って、暗いうちから起きて、かまどの火の明かりで本を読んでいた、という。

長じて、藩校・時習館の居寮生(藩が俊才を10名ほど選抜し、藩費で寄宿させる制度)に抜擢された。20歳の時には、熊本藩の大先輩で、当時56歳、日本を代表する論客・横井小楠に論戦を挑んだ。

開明派で「万国一体、四海同胞」を説く小楠に対して、「人類がみな兄弟と言うなら、なぜ西洋諸国は植民地支配という非人道的行為をしているのか」と堂々と論難した。

井上毅は、鎖国ではやっていけない世界情勢を認識し、近代的な軍備を急ぐ必要があると説きながらも、「万国一体」などという美辞麗句に惑わされて、我が国らしさを失っては元も子もない、と考えた。

23歳で明治維新を迎え、明治5(1872)年、司法省から抜擢されて、フランスに留学し、司法制度を学ぶ。しかし、井上には多くの留学生が陥ったよう な西洋崇拝も、一方的な日本卑下もなかった。「西洋に何を学べば、日本の独立と日本らしさを保てるか」という一点に徹して、研究したのである。

たとえば、刑法、刑事訴訟法などでの西洋の進んだ人権の考えは取り入れつつも、民法などは国民の独自の習俗、慣習に基づいたものでなければ社会が混乱する、と考えた。

帰国後、岩倉具視、伊藤博文のブレーンとなり、「日本の司法制度、裁判制度は井上毅によってつくられた」と評されるような業績を上げていく。


■7.「法は民族精神・国民精神の発露」

明治13(1880)年から翌年にかけて、自由民権運動の高まりとともに、憲法制定や国会開設を求める運動が盛り上がった。政府内でも数年内に国会開設しようという急進派がいたが、井上毅はこれに危機感を抱き、岩倉、伊藤に漸進的な進め方を取るべきと説いた。

この結果、明治14(1881)年の秋、明治天皇の詔勅(しょうちょく)により、22年に憲法制定、翌年に国会開設という方針が示された。これを受けて伊藤博文は、モデルとなる憲法を求めて、欧米視察に出る。

伊藤がヨーロッパで師事したのが、政治・社会学の権威、ウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン教授だった。シュタイン教授は「法は民族精神・国民精神の発露」であり、国民の歴史の中から発達していくものとする歴史法学の考えを伊藤に教えた。

井上毅は国内で並行して欧米各国の憲法を慎重に比較検討しながら、具体的な憲法条文の研究を進めていたが、明治18(1885)年頃から、国史の研究に没頭し始める。

「法は民族精神・国民精神の発露」とするシュタイン教授の考えは、当然伊藤を通じて、井上毅にも伝えられていただろうし、それは日本らしさを失わずに、近代化を進めようとする井上自身の考えにも合致するものであったろう。


■8.凄まじい国史国典研究

近代憲法の根基となるべき「民族精神・国民精神」の伝統を解明しようとする井上の勉強ぶりは凄まじいものだったと、国典研究の助手をつとめた国文学者の池辺義象(いけべ・よしかた)が回想している。

井上はこの頃から肺結核の兆しが出始めており、心配した池辺は明治19(1886)年の暮れから正月にかけて、千葉や神奈川の名所を巡る旅に連れだした。

千葉の鹿野山に登った時も、片手に書類を握って、読みながら歩く。12月の冷たい風に手が凍るように痛むと、ようやく手にしていた書類を鞄にしまい込んだ。

池辺がようやく「やれやれ、これでやっと歩くのに専念するのか」と思いきや、次の瞬間には「ところで、大国主神(おおくにぬしのかみ)のあの『国譲(ゆず)り』の故事は、一体どういうことだったろうか」と聞いてきて、池辺を驚かせた。

鎌倉に着いた時、雪も降り風も強くなっていた。井上は「大宝律令にはどんなことが書いてあったか」と池辺に質問した。池辺が「今ここに原文がありませ ん。私の記憶だけでは正確に答えられません」というと、「では今すぐにでも確かめたい。帰京予定を一日早めて、これから出発すれば今日中に東京に帰ること ができるだろう」と、雪が降り風の吹きすさぶあぜ道を駆け出した。

雪で、顔が針で刺されたように痛むにもかかわらず、藤沢まで行き、そこから人力車で横浜に出て、横浜からは汽車でその日のうちに東京に戻った。

こういう鬼気迫る国史国典研究から、井上は「民族精神・国民精神」に関する重大な発見をする。井上は、それを大日本国憲法の根幹に据え、さらにそこから教育勅語を起草するのである。


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サイタニのブログからの転載です。GHQのやったことは許せません。GHQは、日本の国体を徹底的に破壊して、二度と、連合国、特にアメリカに敵対する事のないように、国民が天皇を中心とする家族のような国柄を破壊することにしました。そのため皇室制度を衰退させることをめざして、直系以外の皇族を臣籍降下させ、皇室の財産も没収して、いずれ天皇の皇位すら保てなくなるように意図したと、考えざるを得ません。
国際法違反、ポツダム宣言違反の彼らの行為を、日本政府は独立後も、全くもとに戻すことなく、継続しています。日本は天皇を中心とする国です。この中心たる天皇を支えるあらゆる方策をとらねば、日本は日本ではなくなるかもしれません。



転載開始
 

竹田恒泰著   「皇族たちの真実」より
 

皇族特権の剥奪 

総司令部は、皇室改革を占領政策の重要な柱として考えていた。天皇を含む皇室全体を廃止するか否かについては、総司令部だけでなく米国本国を巻き込んで大きな議論を巻き起こした。
 
しかし、マッカーサー元帥の強い希望があり、最終的には総司令部の手によって 天皇と皇室を廃止することはなかった。総司令部はその一方で、皇室から多くの特権を取り上げ、皇室が政治に関与することができない体制をつくり、さらには、皇室の規模を縮小させるといった皇室改革に着手した。米国は日本を高度な民主国家にすることを目指しており、そのためにはこれらの皇室改革が必要不可欠と考えたのである。

急速に皇室改革が進められる中、皇族方が最も恐れたのは、皇族としての身分を失うことだった。皇族が皇籍を離脱して臣籍に降ること、つまり皇族の身分を離れて民間人になることを「臣籍降下」といった。ただし、新憲法の発布をもって「臣籍」がなくなったため、皇族が皇族の身分を離れることは現在では「皇籍離脱」と呼んでいる。
 
皇族たちは大方この臣籍降下には反対の立場だったが、早い段階で臣籍降下する旨を表明した皇族もあった。終戦処理内閣の首相を務めた東久邇宮もその一人である。東久邇宮は昭和20年11月10日、新聞記者を麻布の仮御殿に招いて臣籍降下の決意を表明した。東久邇宮は記者に次のように語った。

戦争がこのような結末になったことについて私は強く責任を感じている。戦時中皇族は陛下に意見を申し上げることが禁じられていたものの、陛下に対してなんら進言申し上げることをしなかったことについて道徳的責任がある。敗戦に至ったのであれば道徳的責任を明らかにするため皇族の特遇を拝辞して平民となることを決心した。もしそうしなければ陛下に対し、また国家に対して申し訳けが立たない。首相の任を解かれた直後、木戸内大臣と石渡宮内人臣を通して陛下にお願い申し上げた。
 
 
その後は「いま暫(しばらく)く時期を待て」との御沙汰を拝したのみで今日に及んでいる。これは私一個の考えであるが、皇族は直宮に限り、あとは臣籍に降下したらよいと思う。華族も全て爵位を拝辞したらよいと思う(『朝日新聞』昭和20年11月11日付)

また竹田宮も著書で「戦前は皇族の数がかなり多かったので、この非常事態に皇室を守ってゆくためには、もっと簡素化した方がよいという考えをかねがね持っていたと記している。賀陽宮(かやのみや)も臣籍降下への決意を固めていた。宮はシンガポール陥落の時点で既に敗戦を予測し、「敗戦になれば、皇族は臣下になるのだから、覚悟するように」と子供たちに語っており、「臣籍降下は、戦争で犠牲になった多くの国民たちへの償(つぐ)いである」と賀陽宮妃敏子に話していたという。

しかし、臣籍降下論に強く反発した皇族もあった。閑院宮は臣籍降下に強く反対した一人である。後に著書で「私も、皇族には皇族としての使命も役割もあるのであって、臣籍降下のごときは、その使命を軽んじ自ら卑下して時勢におもねるものであるとして、反対した」と記している。閑院宮のほか、皇族のほとんどは臣籍降下に反対だった。

東久邇宮らの臣籍降下への動きは、これに反対する皇族たちを俄(にわか)に不安にさせた。東久邇宮の決断に対して石渡宮内人臣は「問題が重大であり、もう一度慎重にお考え下さるよう」と進言した。慌たて宮内省は11月22日、臣籍降下は勅許されないことを発表、臣籍降下騒動は落ち着いたかのように見えた。しかし、それも束の間だった。皇族たちの不安をよそに、総司令部は皇室縮小への圧力を徐々に強めてきた。

 
皇室財産の解体に着手したのである。総司令部は昭和20年9月22日付「降伏後における米国初期の対日方針」の中で、皇室財産についての方針を初めて明らかにした。それによると、「日本の商工業の大部分を支配した産業上及び金融上の人コンビネーションの解体を指示すべきこと」と、財閥の解体に言及した上で「皇室の財産は占領の諸目的達成に必要な措置から免除せられることはない」と、皇室財産についても財閥と同様に解体されるべきであると示したのだった。


昭和20年10月に始められた皇室財産の調査は、皇室財産解体の第一歩だった。調査は現金・土地・株式から、宝飾品や漆器に至るまで換金性のあるもの全てに及び、詳細なリストが作成された。調査を終えた総司令部は10月30日、皇室財産を発表した。

 
現金、有価証券、土地、森林そして建物の総額は15億9061万5500円だった。なおこの数字には美術品、宝石、金銀塊などは含まれず、また十四宮家の財産も計上されていない。11月20日、総司令部の指令により皇室財産は凍結された。総司令部の事前の承認のない限り、経常費を除く全皇室財産の取引を封鎖すること、8月15日にさかのぼり、これまでの皇室財産の移動を無効とすることなどが指令された。


総司令部は昭和21年5月23日、皇族の財産上における特権の剥奪を指示する。これまで皇族は 天皇から歳費および特別賜金を賜わり、日々の生活が保障されていた。加えて必要な邸地は 天皇から賜ることになっており、皇族付職員も宮内省から派遣され、さらに免税特権など、数々の経済的な特権も与えられていた。しかも終戦後は宮内省からの食糧配給もあり、皇族は食糧難による生活苦もある程度緩和されていただけでなく、不足していた自動車用のガソリンの特別配給も受けていた。

 
しかし総司令部の指令により、それらの特権が剥奪されてしまったのだ。歳費も打ち切られた。昭和22年(1947)5月3日に新憲法と同時に施行されることになる皇室経済法で新たに皇族の歳費が規定され、歳費は国庫から支出されることになった。だがこの皇室経済法は十二宮家が臣籍降下することを前提として組み立てられたもので、残る少数の皇族に対して定額を支給することになったため、皇族費の総額は著しく減額されることになった。

 
皇族への邸地賜与については、既に皇室財産が凍結されており、また新憲法の第八条で 天皇が財産を賜与することが禁止されたため、終戦後は行なわれなくなった。また皇族付職員については、御附武官と別当が廃止され、宮内官の人数は人きく減じられた。そして皇族の免税特権にも変更が加えられ、特別の規定がない限り皇族であっても原則課税されることになった。

 
総司令部の指令は皇族の立場と生活を大きく変化させた。皇族特権の剥奪、特に歳費の打ち切りは、皇族としての存在を経済的に困難にさせることになった。皇族という名目上の地位は残ったものの、これは臣籍降下を要求されたのに等しかった。

最高税率90%の財産税
 
 
皇族に対する締め付けはそれだけではなかった。占領直後から総司令部は、日本政府に対して財産税の立案を求めていた。政府は昭和20年11月16日、立案計画書を提出したが、総司令部は24日、昭和21年の最初の議会で関係法案の成立を図ること、及び皇室財産についてもこの計画から除外されてはならぬことを条件として政府案を承認した。

 
このことは、既に凍結してある皇室財産の大部分を、財産税によって国有化する方針を明らかにしたことを意味する。日本政府はこれに反対するも、結局受け入れられなかった。
 
総司令部は皇室財産を調査し、凍結した上で、莫大な財産税を課税、そしてついに新憲法の公布により、皇室財産のほぼ全てを国庫に収めさせるという大きな計画を立てていたのだ。
 
昭和21年9月30日、財産税法案が衆議院に提出された。同年3月3日午前零時を調査時期とし、その時点における個人所有の財産について課税するというもので、10万円未満を免税とし、累進税率が採用された。1500万円を超える財産を所有している場合は最高税率の90%が適用されることになった。

 
全体で約43億円の税収が見込まれた。財産税法は昭和21年10月11日に議会で可決され、11月12日に公布、20日に施行された。財産税の申告期日は昭和22年1月31日とされ、納付期限は申告期日の1か月後とされた。かくして、皇室財産は、約9割が主に物納により国庫に帰属することになったのである。


以前発表された 天皇家の財産は大きく上方修正され、評価総額は37億4712万円となり、財産税として納税された金額は33億4268万円となった十四宮家の中で最も多額の財産税を納入したのは高松宮だった。
 
 
 
評価総額が1253万円で財産税は1002万円だった。その次は朝香宮で、評価総額は1067万円、財産税は844万円だった。三井、岩崎、住友などの大財閥の資産が、およそ3億円から5億円だったことと比べると、37億円超える天皇家の財産がどれだけ大きかったかが理解できよう







    ※今でも日本政府は天皇家の財産を没収したままであろう。占領憲法もそのまま、皇室典範もそのまま、日本政府は今まで何をして来たのか 
日本人として情けない、占領軍(白人)に洗脳され今では洗脳された事も忘れているのか。アメリカ(白人)は今でも正義の御旗を元に次々と破壊しているのだ。以前バングラデッシュの方と話した事があるが、アメリカはその国が二度と立ち上がれなくなるまで破壊していったと聞いたことがある。。日本も目覚める時であろう。中国、北朝鮮、ロシア、韓国とならずもの国家に囲まれているのだ。(サイタニ)
 
    
姫路城の美しさを誇る姫路藩は、幕末の頃には、譜代大名の酒井家が治めていました。江戸末期には、多くの藩が負債を抱えていましたが、姫路藩も収入の四倍強に及ぶ73万両もの累積債務を抱えており、日常生活に支障を来すほどの困窮ぶりだったといいます。

この債務に悩んだ藩主忠以(ただざね)は藩政改革に、河合道臣を家老として登用しました。


河合は、質素倹約礼を布くかたわら、村々の庄屋や豪農のうち志ある者から米や麦を提供してもらい、凶作や水害、災害による飢饉に備えて、固寧倉(義倉)を設け、平素においては貯蔵された米麦を安い利息で貧農に貸し付け、生活の基礎を確保することでその安定を図るという画期的な政策を打ち出しました。

更に朝鮮人参やサトウキビなどの高付加価値な商品作物も栽培させることで、藩の収入増が図られました。

そして何よりも河合の大きな功績とされるものが、特産品の流通改革です。河合は、加古川流域で早くから栽培されていた綿花を素材とした姫路木綿が、極めて良質であることに目を付けていました。布を織る技術に優れ、薄地で柔らか、しかも白さが目立って特筆に値するものでしたが、問題は流通にありました。


大坂の問屋が介在することで、仕入れ時の買い叩きや、かなりの中間利益が吸い取られていることを知った河合は、大坂市場に見切りをつけ、藩が独占して江戸直送。江戸表で売り捌く専売権獲得を思いつきました。
これは先例が無かったため事前に入念な市場調査をし、幕府役人や江戸の問屋と折衝を重ねた上、文政6年(1823年)から江戸での木綿専売に成功します。色が白く薄地で柔らかい姫路木綿は「姫玉」「玉川晒」として、江戸で好評を博しました。


また、木綿と同様に塩・皮革・竜山石・鉄製品なども専売としました。これによって藩は莫大な利益を得、道臣は27年かけて藩の負債完済を成し遂げました。
 
河合は、たいへん学問好きでその素養も深かったが、人間味もありました。家老とは、今の会社で言えば総務部長のような役職で人事と予算を扱います。かれは酒井家の武士たちに、

「常に藩民の模範となるように心がけろ。どういうことをして自分を役立てるかは、それぞれよく考えろ」

と言っておりました。つまり、

「姫路藩酒井家の藩士はこうあらねばならぬ」

というやかましい規範はあまり示さなかったのです。そのためにこれを誤解して、藩士の中にはそれぞれ好き勝手に生きればいいのだ、と考える者もいたのでした。多少、風紀が乱れてきた時、各セクションの責任者は河合を恨みました。

「ご家老が、規範を示さず各人勝手に生きろなどとおっしゃるから、部下がいうことを聞かなくて困る」

とぶつぶつ文句を言ったのです。このことが耳に入ると河合は各セクションに触れを出しました。。「それぞれの職場で、手に余る者は私のところへ寄越せ」。

責任者たちはよろこんで手に負えない、いわゆる”問題児”を河合のところへ送りこみました。送りこまれた連中は、河合のいうこともききません。それは、職場から追い出された屈辱感もあるし、また河合の下に入ったことで、余計目に立つからでした。城内でも、そういう連中が通るとみんな指さして嘲笑うのです。


「あいつらは、問題児なのでついに河合様の部下にさせられてしまった」

河合に預けられた問題児に、甲、乙、丙の三人がいました。河合はこの三人を集めました。

「お前たちは、今までの職場で問題児だといわれたが、いったいなにをしたのだ?」

「別に何もしません。ただ、好きなことをやらせてくれないので、上司に文句を言っただけです」

「おまえの好きなことというのはなんだ?」甲に聞きました。

「姫路の町の歴史を調べることです」と答えました。

「おまえは?」と言われて乙は答えました。

「藩がやっていることが、古くからある法規にかなっているかどうか、を調べるのが好きです」

「おまえは?」。丙に聞きました。丙はこう答えました。

「芸能が好きです」。

河合は考えました。(それぞれ特技をもっている。その特技を仕事に生かせば、いま職場でツマハジキされているこの連中も、改めてやる気を起こすだろう)。

河合は昔から姫路城の美しさに誇りを持っていました。

「城は藩の顔だ。いつまでもこの美しさを保ちたい」と希っています。しかし、城の美しさは城だけでは保てません。城下町の協力がいります。それには住民たちがその気にならなければダメです。ところが住民たちは、城の美しさにもたれかかって、ともすれば街の清掃や道路の整備の手を抜きます。河合は、


(三人に城下町を美しくする仕事をさせよう)と思い立ちました。甲には町役人たちに城や城下町の歴史を認識させ、住民へのPRをおこなわせました。乙には町役人が黙認している住民たちの、違法行為を摘発させ、これを改めさせました。町の空気がピシッと改まりました。しかしきびしいだけではダメです。町には他国の旅行者も往来します。丙には宿や酒亭での芸能指導を命じました。三人の努力は次第に実り、姫路の城下町は清潔で楽しい町に変わっていきました。


「河合様はさすがだ。手の付けられない問題児を、またうまくお使いになった」とみんな感心しました。

河合道臣は、晩年には、寸翁(すんのう)と号しました。そのため庶民からは寸翁さんと親しまれました。


河合は、文政4年(1821)、その功績によって奥山の阿保屋敷を与えられました。この地に河合は、私財を投じて、人材育成のための学校を建てたのです。論語の『知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し』に因んで、仁寿山と名付けました。

この仁寿山校に、河合は頼山陽や森田節斎、猪飼敬所などを招いて漢学・国学・医学を伝授させました。開学の精神はやがて自由に天下国家を論じる気風を生むようになり、このことによって、やがて姫路藩から、勤皇の志士が生まれていくきっかけとなりました。


参考

河合道臣 - Wikipedia

歴史の風景−播磨伝説異聞−312寸翁が馳せた夢 仁寿山校跡

問題児にも活用法がある  河合道臣   童門冬二
藷の栽培をすすめて、飢饉対策に大いに貢献し、甘藷先生と言われた青木昆陽よりも、三年も前に、甘藷で人々の飢えを救った人がいました。井戸平左衛門正明という、石見銀山を含む天領である大森(島根県西部)の代官です。
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この人は、江戸の野中という家に生まれ、その後井戸家の養子となり、21歳で家督を継ぎます表火番など歴任のあと、元禄15年(1702)より勘定役に昇進し、爾来、30年同じ勘定畑を勤務し享保6年(1721)6月5日には黄金二枚を賜っています。正明49才の頃です。

この勘定所での忠勤がみとめられたのでしょう。名江戸町奉行といわれた大岡越前守忠相の推薦で、享保16年(1731)に石見地方大森の代官に任命されました。正明60歳の時でした。

ところが、正明が赴任した直後の享保17年(1732年)、有名な江戸三大飢饉のひとつ「享保の大飢饉」が西日本一帯を襲いました。中国地方から近畿地方、四国九州まで、長雨冷夏となり、夏にはウンカとイナゴが大発生して、”大虫災”が始まりました。餓死者が三十万とか二十万とか当時の資料に書かれています。

正明の仕事は、このために飢民救済に力を注ぐことになりました。正明は部下に、

「すぐ代官所の倉を開いて、米を住民に配給しろ」と命じました。部下はびっくりしました。

「そんなことをしたら、お代官の首が飛びますぞ。まず幕府の許可を得ることが先決です」と言いました。正明は首を横に振って言いました。

「こんな遠い石見の地から幕府の許可を得ていたのでは、二ヶ月あまりかかってしまう。その間に飢えに苦しむ人々がどんどん死んでしまう。そんなことは人の道として許せない。わしが責任を取るから、米の倉を開けろ」と命じました。そこで部下は命令にしたがい倉を開けました。

飢えに苦しむ人々はもちろん喜びましたが、しかしさらに過重な年貢という負担がありました。大災害だからといって、なかなか年貢は免除されません。当座の食糧は得られたものの、それを考えると農民の気は重かったのです。
これを知った正明は、またも部下に命じます。

「今年の年貢は免除すると伝えろ」
部下は目を丸くしました。そして、

「それこそ、お代官の首が飛びますぞ。おやめください。代官所というのは、年貢を徴収するのが役割なのですから」と反対しました。しかし正明はききません。

「お前たちがやらないのなら、わしが村々に触れて歩く」と言いました。部下たちは仕方なく、むらをまわってこのことを触れました。人々はとび上がってよろこびました。

この年の4月14日、正明は養父正和の命日法要のため大森町の栄泉寺をたずねます。ここで運命的な出会いがありました。諸国修行の 途中立ち寄った僧泰永(たいえい)と遭遇したのです。 薩摩國ではサツマイモが広く栽培され、肥料も労力もいらず多収穫で痩せた土地に適合している情報を聞き、 石見地方一帯の砂地での栽培普及を決意します。

彼は直ちに江戸に対して薩摩國より大森(石見地方)へ移植のための書状をしたため、当月下旬に江戸表へ送ります。

この書状の返書が6月に届きます。その内容は幕府は正明の要請に応るもので、薩摩國は最西端にある幕府天領の地、日向國本庄まで種芋を届ける。大森藩からは、浜田港より手代伊達金三郎と僧 泰永などが種芋受け取りに船を仕立てて海路本庄へ向かいます。享保17年6月のことでありました。(泰永は下船しそのまま帰省)

この結果、種芋百斤(60Kg)は本庄川の下流、天領本庄の赤江港で大森藩に渡り、藩内に持ち帰った後、村高100石につき8本の割りで配られ植えられました。


しかし、作付けの時期が7月だったので遅過ぎたため、多くの芋は育ちませんでした。ただわずかに邇摩郡福光村(現・大田市温泉津町福光)の老農であった松浦屋与兵衛のみが種 芋を収穫することに成功しました。その後、サツマイモは石見地方を中心に救荒作物として栽培されるようになり多くの飢餓から領民を救うことになりました。そのため、井戸正明は人々から、”いも代官”と呼ばれるようになりました。


このサツマイモ作戦の展開のさなかに、笠岡代官竹田喜左衛門の死去により、美作国窪島作右衛門と2名で代官所預かりの兼務 となります(享保17年6月2日)。また正明には一男一女の子がいましたが、長男の敬武(のりたけ)が享保17年5月26日に逝去、長女に入り婿として窪島作右衛 門長敷のニ男内蔵助を迎え世継ぎとしました。飢饉対策と、笹岡代官所の兼務、さらに身内での不幸と、そのための家督の後継の選任、実に慌ただしく忙しい日々が続きます。

そして、この飢饉における正明の行動は、幕府で大問題となります。

「事情と、井戸正明の心情はよくわかるが、しかし勝手に現場判断で代官所の米を配給したり、年貢を免除することは大罪だ」と言うのです。とりあえず罪科が決定するまで、笹岡代官所に謹慎ということになりました。

しかし結局、正明の罪科については、すべて黙認されることになりました。もしかしたら、推薦者である大岡忠相が強い態度で無罪を主張したのかもしれません。(童門冬二氏の推測)

正明は、しかし享保18年5月26日笹岡代官所にて死去しています。これは過労による病死という説と、自決であるという説がありますが、医者を呼んだ記録などがあり、おそらくは病死ではないかと思われます。

井戸正明を讃える顕彰碑は四十数ヶ所、いろいろなところに残されています。現場の判断で適切な対応をし、その責任を担う覚悟を持った人物の素晴らしさに、ただ感服するのみです。きっと腹を切る覚悟をもって行ったことでしょうが、その覚悟のできる武士が、昔はいたということです。現代の政治生命をかけると言いながら、口先だけの言葉が寒々と感じられるこの違いの大きさは、なんとも情けないものです。



その後
明治12年(1879) 井戸神社 創設 島根県大田市
明治43年(1910) 岡山県下軍事大演習の行幸に際し従四位を追贈

参考サイト・文献

笠岡遊歩 井戸平左衛門正明

「現場判断で飢民を救う――井戸平左衛門」 童門冬二

日本人の尊皇と道義

日露戦争の頃は、日本軍、さらには一般国民にも武士道の心が浸透していた時代です。明治天皇の大御心に国民全体が、一つに沿い奉っていた時代でもあります。この軍人、志士たちの礼節、道義の立派さは、世界最高ではないかと思います。そこには、尊皇の心が強ければ強いほど、道義が正しくおこなわれるという日本人の道徳のあり方が現れています。
大東亜戦争になると、武士道が少し劣化した部分もあると言われますが、一部の人はたしかにそうした部分があったにしても、それでも立派な話が多く残っていますから、GHQのプロパガンダに言われているような残虐行為がそんなにあったわけがないと思います。日本軍の規律の正しさは、先の戦争でも連合国や支那の軍に比べると、非常に立派だったという話も聞いたことがあります。
占領政策のウォーギルトインフォメーションプログラムによる自虐史観から、今こそ脱却して私たちの先人を正しく敬い先人を誇りを持って慰霊すべき時です。先人を貶めることはもうやめにしなくてはいけません。
 
皇化の行わるるところ節義あり
国民の間に、皇化の慈徳(いつくしび)をはっきりと自覚している時期は、たとい戦時にあっても、尊皇の道においては、かえって節義、道義がよく保たれる。これを近世の実例をして、物語らしめようと思う。
日清戦争では、自決した清国北洋艦隊の司令長官を、我がほうは礼を尽くして葬っている。日露戦争でも、乃木大将はロシア軍の旅順要塞の守将ステッセルとの会見で、露軍敗将らに帯剣を許した。乃木の惻隠の情が伺われる一コマであるが、のみならず、乃木はステッセル助命の手紙をロシア皇帝に送ってやっている。それあってのことか、乃木大将葬儀の日、モスクワの”一僧侶より”一通の香典が届けられたという。惟(おも)うに、現地の日本婦人を虎に食わせる底(てい)の露軍の蛮行非道と、日本将士の皇道は、けざやかに明暗を分けた。
乃木大将は、もう日露戦争もすんだ明治四十四年、久留米大演習の折、宿舎にあてられた真木家の居間で、座布団を使わず、正座していた。人々がしきりに勧めると大将が言うには、「ここは真木先生のお家でありますぞ。乃木などが座布団をしかれるところでありません」と。大功におごらず栄誉におぼれず、謹厳にして節倹、古武士のような人であった。ちなみに真木和泉守は、吉田松陰、平野国臣、橋本景岳と共に、維新を導いた英傑の一人で、明治維新の大方針を述べた『王制復古の大号令』の一節 「諸事、神武創業の始めに原(もと)づき」は、景岳の所論と和泉守の建白が採られた形になっている。
陸の乃木がこうなら、海の東郷の節義もうるわしかった。佐世保病院に、日本海海戦の敗将ロゼストゥエンスキーを丁重に見舞い、慰労し、全快のときに部下将兵こぞって特別船で帰国できる約束をして、安堵させた。日本政府も、ロシア兵の捕虜九万名あまりを、戦後は一兵のこらず送り返している。(それにひき較べ、ソ連は、大東亜戦争後に日本兵多数を”シベリア抑留”させたのである!)。両雄の忠節、すべて明治天皇の大御心を体してのことであることは言うまでもない。
 
 

更に義烈となり忠烈と燃え
国のため あだなす仇は くだくとも  いつくしむべき ことな忘れそ
と、明治天皇は詠まれたが、慈徳は、一旦緩急あるときは義烈と燃え、己が死しても周囲を活かすこと、次のとおりである。
義和団事件を口実に条約を無視して満州に兵を入れ、露骨に朝鮮までを伺う形勢のロシアと戦ったのが日露戦争であったが、その開戦(明治三十七年二月)の日、北京から、日本の民間志士による特別任務班五組が、満蒙めざして出発した。シベリアからウラジオストクに伸びるロシアの兵站線、東清鉄道の鉄橋を爆破し、ロシア軍の後方を撹乱するのがその任務だった。その一班の中に、横川省三、沖禎介がいた。
吹雪舞う、満目蕭条(しょうじょう)たる満蒙の曠原(こうげん)をラバと馬と徒歩とで継ぎ進むこと四十余日、四百里(千五百キロ)、ようやく嫩江(のんこう)の近くまでたどりついた時、ロシア兵に捕まり、ハルピンの軍司令部に送られた。押収された機材物品から、橋梁爆破の計画はもはや蔽うべくもなかった。急ごしらえの軍事裁判での尋問・答弁である。
イメージ 1 







横川省三 




イメージ 2









沖禎介



裁: 被告の軍における階級、位階、勲等は?
横川: 軍人ではなく、無位無冠の一日本男子である。
裁: 軍人でない者が、この様な行為をなすとは思わぬが。
横川: 日本国民の一人として国を思わぬ者はない。軍籍ではないが、日本人すべて天皇陛下の赤子である。忠義をつくすのが、日本人の道である。
沖にも訊問がおこなわれた。
裁: 指揮者の姓名は?
沖: 生命にかえても、申しあげられません。
裁: それを告白するなら、刑を減じてやるが、どうか。
沖: われらは日本人である。武運つたなく捕らえられたからには、もとより死は覚悟。死を賭しても国を守る覚悟でいる者が、どうして刑死を恐れましょうや。
もちろん両人は、日本に不利となる証言は何一つしなかった。それのみか、自分たちのような決死隊が何百組と潜入しているやにほのめかしたから、ロシア側の動揺はかくせなかった。絞首刑をひるがえして銃殺刑に決定されたのは、両士の態度に畏敬の念さえおぼえた司令部側が”軍人”としての名誉をおもんぱかったからである。
刑死に臨んで横川は、郷里盛岡に残した二人の遺児に手紙を書いた。
「此の手紙と共に北京の支那銀行手形にて五百両(テール)を送る。井上敬次郎、・・・・・・等の諸君と相談の上、金に換ゆるの工夫をなすべし」
妻なきあと、二人の遺児を預けている某家の貧困を思い、金を送ってやろうと思い立ったのである。が、待てよ、と横川は考えた。五百両(テール)は特別任務用の公金である。そこで、こう書き換えた。
「・・・・・・五百両を送らんと欲したれども、総て露国の赤十字社に寄付したり」
寄付の申し出を受けたハルピン衛戍司令官ドウタン大佐は、「二人のお嬢さんに送ってさしあげなさい」と親切に慰留したが、横川は、はっきりと言い切った。
「ご厚志は忝いが、日本国においては、祖国のために一命を捨てたものの遺族に対して、天皇陛下も軍もわが同胞も、決してお見捨てになることなく、特別の礼をもって待遇してくれます。よってそのご心配はいりません」
沖も同じように所持金の五百両(テール)をロシア赤十字社へ寄付し、
「ロシア傷病兵の役に立ててください」と申し出た。
「言いのこすことは、ないか」と尋ねられたとき、沖は紙と鉛筆を求めて両親へ訣別の遺書をしたためた。その端正な書体は一字の乱れもなく、その沈着さにドウタン大佐は思わずうなった。沖は、肥前・平戸の生まれ、鎌倉の禅刹でいささか心胆を練った人である。
刑場はハルピンの東北にある小高い丘の上。諸外国の新聞記者と観戦武官が、かたずをのんで見守った。二十四人の射撃兵に”うてー”の命令を下す執行官シモーノフ大尉は、情を込めた声で、こう言ったものだ、
「愛をもって撃つのだ!」
「天皇陛下万歳!!」「大日本帝国万歳!!」 二人は力限りに叫んだ。銃口一閃・・・・・・
ときに明治三十七年四月二十一日、満州の赤い夕陽が残雪に映える午後の五時三十分。
横川省三 四十歳、沖禎介はわずかに二十九歳の生涯であった。明治天皇は、両士刑死の日付を以て勲五等と金子を授け賜わった。東京・音羽の護国寺に建つ、他の同士四人合せての【六烈士の碑】の文字「烈々の武士(もののふ)邦家の英(はなぶさ)なり」は、シベリア単騎横断で有名な福島安正将軍の撰文という。(田中正明『アジアの曙』)より要約


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