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盧溝橋事件から74年 北京・抗日戦争記念館の入館者5倍に

毎日中国経済 7月8日(金)17時39分配信
【新華社毎日電訊】 7月7日は盧溝橋事件(七七事変)から74周年となる記念日だ。同日、北京市にある中国人民抗日戦争記念館の入館者数は、通常の約1000人から5倍の5000人余りに急増。団体客も45を数えた。

7日は開館前の朝8時の段階から入場券売り場に長い列ができ、駐車場もほぼ満車となった。

(翻訳 尚蕾/編集翻訳 恩田有紀)

そう言えば7月7日って盧溝橋事件のあった日だった。
日本の間違った歴史教育では「日中戦争は盧溝橋事件から始まった」と嘘が教え込まれる。
さらに、それは軍部の暴走であると刷り込まれる。
これ、みんな嘘ですからw
 
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盧溝橋事件とは、1937年7月7日夜、演習中の日本軍に銃弾が撃ち込まれた事から端を発して、日本軍と宋哲元軍閥の29軍が小競り合いを起こした事件を指します。
日本軍は義和団事件の北京議定書に従って、北平(北京)に駐屯していましたが、1937年7月7日1930より夜間の塹壕戦の訓練を行うため、135人の兵士が護身用に実弾30発を持つだけで、宛平県城の北側の演習場に向かいました。2230頃数発の実弾射撃を受け、演習を中止し兵を集合させ牟田口軍司令官との間で善後策を検討しているところ、0325に再び射撃を受けたので一木大隊長は支那軍に対して反撃した。
その後、9日になって、盧溝橋事件現地協定(松井・秦徳純停戦協定)が成立、停戦になりました。
その協定には、
  1. 第二九軍代表ハ日本軍二対シ遺憾ノ意ヲ表シ且責任者ヲ処分シテ将来責任ヲ以テ再ヒ斯ノ如キ事件ノ惹起ヲ防止スルコトヲ声明ス
  2. 中国軍ハ豊台駐屯日本軍ト接近シ過キ事件ヲ惹起シ易キヲ以テ盧溝橋城廓及龍王廟二軍ヲ駐メス保安隊ヲ以テ其治安ヲ維持ス
  3. 本事件ハ所謂藍衣社共産党其他抗日系各種団体ノ指導二胚胎スルコト多キニ鑑ミ将来之カ対策ヲナシ且ツ取締ヲ徹底ス

    以上各項ハ悉ク之ヲ承諾ス
と記されています。
1、については謝罪の方法も記せず、責任者も特定せず、宋哲元の自主裁量に任せる部分も多く、極めて寛大な条文です。
2、については29軍は城外には兵は居ないと言い張ったのに、実際は支那兵が居た事から立場が悪くなっていまったんですね。
で、問題なのが3です。
唐突に藍衣社とか共産党とかが出てくるわけです。
これは、日本軍と宋哲元軍閥の間に「真犯人は共産党だ」という共通した認識があったという事です。
事実1950年12月9日の『人民日報』では、
「劉少奇配下の抗日救国学生隊が『盧溝橋事件』を仕組む」
この共産党主導説は、事件直後から出ています。『読売新聞』は、1937年7月15日付けで、「随所に出没して爆竹をならす」策動者がいたことを報じています。更に、この犯人を「共産党人民戦線派」としている。この報道は爾後、共産党北方局とつながる清華大学生が逮捕されたことにより裏付けられている。
と書かれています。
はっきり言っておきますが、爆竹を銃声と聞き間違えたり、増してや爆竹が鳴ったのを攻撃されたと言い募り支那軍に攻めかかったなどと言っている人は、頭がパーですw
きっと、頭の中にあるのは糠みそですねえ
 
弾丸というのは空気中を飛んでくるので必ず飛翔音がします。元帝国陸軍の私のオヤジが言うには「ヒューヒューと聞こえている内は安全だ。足元でプスプスいい出したら自分が狙われている」と教えてくれました。
また、敵軍の銃撃の音と味方の銃撃の音はしっかり教育されるので聞き間違える事は無いとも言っています。
夜襲の時に迷わないようにするためです。
だから爆竹を鳴らしたからといって銃撃を受けたと誤認する事はあり得ません。
また、爆竹を名目に攻めかかって行くなどと言い始めるに至っては、アホとしか言いようがありません。
なぜなら、当時北支に駐屯していた日本軍は五千人。対する宋哲元軍閥は六万人だからです。
いくらバカでも五千人で六万人に勝てるとは思わないでしょう。
日本は結局北支に3個師団増派しますが、到着までに一カ月掛かっています。1937年8月13日までは平時編成でしたから、時間が掛かりました。そういう事も高級将校なら知っていた筈ですから、益々日本軍謀略説は成り立たないのです。
日教組あたりがこんな寝言を言ってきたら、鼻で笑ってやりましょうねw
北支に三個師団増派したので、バランス・オブ・パワーの均衡が保たれ、その後北支は平穏になりました。
しかし、上海では相変わらず手薄だったので、蒋介石は同方面で日本に戦争を仕掛けてきたのです。
 
さて、共産党謀略説というのは最も有力な説だと思います。
藍衣社(本によっては青シャツ党と記されている)というのは蒋介石のテロ団体ですが、共産党の工作員が浸透していました。
共産党は国民党と日本軍を戦わせ、漁夫の利を得る事を企んでいました。事実、日華事変から大東亜戦争中にも共産党軍は殆ど戦わず、国民党と日本軍の戦いを見ていただけでした。
後に国民党軍も殆ど戦わなくなりました。共産党の目論見に気がついたからでしょう。国民党を応援していたアメリカのウェデマイヤー将軍は大いに失望したそうです。
 
真実を知る人は、上の様な新聞記事など噴飯ものでしかありませんね。
歴史カードはもう役に立たないのですが、支那人とは滑稽です。
 
 

転載元転載元: 日本核武装講座

日の丸と君が代

 戦国の世を統一した秀吉も、信長も、将軍家の権力の府である幕府を敢えて作らなかったのは、皇室への尊崇の念からであったと書いてある古い雑誌があった。幕府は源氏の血筋でないと作れないという話を山岡荘八だったかの小説で読んだ気もするけれど、あるいは、秀吉などはそのような気持ちもあったのかとすこし思う。その雑誌の記事を読んでみた。
 
 学校の教育方針の大綱を示した学習指導要領に、国旗の掲揚と国歌の斉唱が明記されたのは、ごく近年のことである。
 「…祝日の意義を理解させるとともに、国旗を掲揚し国歌を斉唱させることがのぞましい」がそれ。近頃の建国記念の日に反対派が叫ぶ“一連の右傾化”の背景には、このことがある。
 日の丸が国旗として布告されてからは、百三十年にすぎないが、日の丸そのものの歴史は遥かに古く、天武天皇の大宝元年(701年)に朝賀の儀に用いられたことが『続日本紀』に見える。国旗制定の当初は、軒端に「日章雛形を連ねるなど、濫用の気味があるとて、「御祭日御祝日に限り」差し許すといった盛行ぶりであった。
 現在日教組は、日の丸は肯定するが、「君が代」には反対とか。そして、新しい“国民の手による国民の歌”を作ろう、という。「君が代」は君(天皇)一人の繁栄を謳ったもので国民感情の反映ではない、という考えらしい。
 戦国の世を統一した秀吉も、信長も、将軍家の権力の府である幕府を敢えて作らなかったのは、皇室への尊崇の念からであった。秀吉の前の室町時代は下克上で、皇室が式微の極に達したといわれるのであるが、こういう時代、世間の人々の意識の反映は文学によく表れる。猿楽の能を例にとると、それは室町将軍が初めて観る以前に社寺と一般民衆が支えてきたもの。謡曲『弓八幡』は、「御代も栄ゆる男山」の登場歌で始まるが、シテの老翁もこう謡う――
「君が代は千代に八千代にさざれ石の、巖となりて苔のむす、松の葉色も常盤山、緑の空ものどかにて、君安全に民敦(あつ)く……」
 御代を讃え、一君万民一つ日本国をうたった謡曲は数多い。『御裳濯』(みもすそ)『高砂』『武生島』『白鬚』…またこの時代の琵琶の曲『蓬来山』にも「君が代」がある。
 室町時代の前の鎌倉時代にも、白拍子は「君が代」を歌って、舞った。更に古い平安時代に成立した『古今集』に、“読人知らず”の「君が代」が歌われているのはあまりにも有名。
 なお遡ると、興福寺の延年舞は、山伏たちが大和吉野を始め陸奥(みちのく)にまで広めたが、その中にも「君が代」がある。
 日本の歴史は、何回かの幕府政治、専断、武断を経て来たが、その節目やピンチに、己一己では治め難く天皇の治徳を借りてきた。膝下の日本だけではなく外国人さえも。マッカーサーの占領統治にそれを見る。天皇を排除することで起るであろう擾乱に、マ元帥は思い至ったのである。
 天皇は“国民が養っている”“国民感情の圏外にある”どころか、事実はその逆である。因みに統計上、国歌「君が代」に“不快感を感じる”は3%(昭和49年「共同」の調査)
 何事も、“昔は昔、今は今”?滅相もない。昔を――舌頭だけで――いとも簡単にちょん切れるのも、“昔あっての今”でこそ。


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昭和天皇陛下 御尊影
 
 
 
わが庭の そぞろありきも 楽しからず 
 
         わざはひ多き 今の世を思へば
 
 
※昭和五十八年年頭の御製です。
総ての臣民に対し、御慈しみの心をもって接せられ、私心(わたくしごころ)を一切現わされるこ との無い 畏くも昭和天皇陛下が「わざはひ多き世」と御詠みあそばされました。
俗に言う「災い」としては、「戦争」「天変地異」「不景気」などが挙げられますが、この御製を詠まれた当時、戦後四十年近くも 平和が続き、
今年3月に東日本を襲った東日本大震災ほどの大きな災害もなく、景気も好況を呈していました。
陛下にこのような御歌を御詠みいただく程の事件は、何も考えられません。
 それにも拘らず「わざはひ」とお詠みになられたのは、天変地異や不景気などとは比較にならない 大きな「災い」である「精神の荒廃」について深く 大御心を痛められたが故と推察致します。
この荒廃の根本原因はマッカーサーが命じて作らせた占領基本法である現行憲法(と称するもの) です。
憲法は国の魂です。近年目を覆いたくなるような、政治の迷走、拝金主義に走った犯罪、尊属殺人など枚挙すればきりがありません。
すべて、個の尊重への偏重による占領憲法を原因としております。
 

 
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清水澄(しみず・とおる)博士肖像、自決ノ辞
 
 
昭和22年9月25日、最後の枢密院議長となった清水博士は、熱海錦ヶ浦の断崖から身を投じられた。享年80歳でした。
大日本帝国憲法下の天皇陛下の忠臣として、自らの生涯を全うする決意であられた博士は、占領憲法発布の同年5月3日屈辱の日に意を決せられ、密かに上掲画像の「自決ノ辞」に認められ、自室の机の引き出しに隠されたのです。
 
発見された博士の亡骸は、モーニング姿の正装、左手に数珠を巻き、口を真一文字に結び、両手の拳はしっかりと腰に当てられ、まさに古武士の大往生の風貌であったと言われています。
 
占領軍は武力を背景とし、国際法の精神を無視し、占領者の都合のいい植民地憲法を速成させ、新憲法として押し付ける暴挙のでたのです。
昭和22年5月3日は、日本人による、日本人の為の「大日本帝国憲法」が、日本人の総意に基づくことなく廃止せられた屈辱、国辱の日であることを、やまと民族たる日本人は決して忘れてはならないでしょう。
 
終戦を境に、占領軍に媚びを売り、戦争には反対だった、我國の政治に疑問を感じていた、戦争に負けていい國になったなどと、臆面もなく宗旨替えする破廉恥な日本人、敗戦利得希望者が各界に声を挙げた。
敗戦利得者の多くは他界しているが、その後継者、追従者が今尚、生き続け一昨年政権を搾取しました。
戦後手中にした、敗戦利得を保持するため、今も政界、マスコミ界、学会、において活動し、国民を騙し、国益を損じているのです。
 
東宮御用掛、宮内省御用掛として、先帝陛下にお仕えされた清水博士には、占領憲法は耐え難いものであったことでしょう。
博士が予測されたとおり、かってのお国柄とは似ても似つかぬ国に変わり果ててしまった今日の日本。
昨日記事にしました、「誇り高き日本一の町、岡山県奈義町」の中で、昭和44年「大日本帝国憲法復原決議を紹介しましたが、まだこの頃は戦前世代の方々が国を憂い、行く末を修正しようとされていました。
 
冒頭の先帝陛下の御製を賜った昭和58年には、世代変わりが進み、この異常な植民地、占領憲法を異常とさえ思わぬようになっていたのです。
 
 
わが庭の そぞろありきも 楽しからず 
 
         わざはひ多き 今の世を思へば
 
 
先帝陛下は、変わってしまったお国柄、民族の精神の荒廃を「わざはひ」と詠まれたものと推察することは容易です。
 
我々こころある臣民は、博士の遺志を継ぎ「大日本帝国憲法」を復原し、占領憲法の呪縛を解かねばなりません。
そして、敗戦利得者の後継、追従者を駆逐せねばなりません。
 
 
 
 
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清水澄博士の墓(青山霊園)
 
 
 
最後に博士の大往生の折り、ポケットに入っていた遺書、辞世ともいえる
 
 
 
 
「われ楚の名臣屈原にならって自決し幽界より國體を護らん」
 
 
尊い御心を胸に刻みたい。
 
 
 
 

転載元転載元: 美しい国

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益良雄とその娘

前回の続きです。

 文久二年二月十二日の夜、真木和泉守は幽閉の地、水田村を出て残雪の道を本村上野へと急いだ。再会期し難き妻子と訣別し、かつは後事を托するためであった。すでに藩の密偵が和泉守脱藩の恐れありとして、ひそかにその動静を窺っていたので、妻子との面会の場所は、慎重に打合せてあったのである。

 まず次男主馬(しゅめ)を、ひそかに水田の幽居に呼んで、「汝は父にかわって水天宮神職の家を護れ。しかしわが脱藩するときは、藩は真木家の神職を取りつぶすやもしれぬ。このことを覚悟して、最後まで汝の母に孝養を尽くせ。またもし、京都に一大変動が生じたならば、汝はわが藩を説いて勤王のさきがけたらしめ、有馬藩主に随って上洛せよ」と言い残した。思うに、主馬はあまり身体が強健でなかったので、このことも考慮した上での父の遺命であった。

 また実弟の真木外記を招いて、上野にある外記の家を妻子との永訣の場所と決めた。老齢の母、柳子(りゅうこ)とも最後の別れをしたかったが、久留米水天宮のわが家のある城下に入ることは監視のきびしい中では叶わず、万一捕吏などが襲ったら老いの身に受ける衝撃が心配でならないので、ついに母との面会を断念し、実弟登のいる太宰府天満宮の小野加賀の家に母を移して後難を避けることに決した。

 末子、菊四郎は父に従って脱藩し、天朝にいのちを捧げる。さらに、実弟、水田天満宮の神職、大鳥居啓太は三男の管吉と甥の宮崎土太郎とを従えて和泉守よりもさきに逃亡して京都にのぼる。なぜというに、大鳥居啓太は兄、和泉守の身柄を藩命によって預っている者であり、その兄が法を破って脱藩することを許したとなれば、処刑されることは火を見るより明らかであるから、神職の仕事にかこつけて一足先に脱出して京都に赴き、兄の上洛を待ってともに義挙に加わることに決意したのであった。

 その他、十数年のあいだに和泉守のもとで学んだ門下生の青年たちが、目立たぬように脱出して、三々五々京都にのぼり、薩摩の藩主、島津久光が大軍をひきいて上洛する日に備えることとした。その軍のなかに和泉守の一行も加わるという手筈になっていたのである。

 薩摩の勤王派とは十分の連絡がとれていた。しかも、京都の田中河内介が青蓮院宮の密旨を奉じて島津久光に向かって倒幕の命を伝えることになっていたのである。いよいよ時が来たのだ。宮様の密旨を奉じた田中河内介は途中、久留米水天宮を過ぎ、和泉守に密旨の趣を伝えることになっている。いよいよ倒幕の時が来たのだ。一族郎党、天朝のため忠に殉ずべき時がきたのだ。万般の準備はすでに成った。いまや、当面の問題は監視のきびしい有馬藩をいかにして脱出するかという一点だけである。

 和泉守は無量の感慨を胸に秘めて、妻睦子と娘小棹の待つ上野の真木外記の家へ向かった。

 夜道に残雪が点々と光っている。あたりに気を配りながら和泉守は行く。一歩は尊く、一歩は嬉しく、さらに一歩は悲しい。天朝のためと思えばこの一歩は限りもなく尊い。勇躍して国の危機に身を挺すると思えば今踏み出すこの一歩は限りなくも嬉しい。そうして、君が代の安けかりせば愛する者とのかような生別もなかろうものを、刈菰の乱れし世を思うにつけて、この一歩は限りなくも悲しい。

 

 外記の家では、かねて打合せた通り睦子と小棹が待っていた。じつに久しぶりの対面であった。「わが志はかねて汝らのよく知るところである。いまわれらの為さんとするのは、幕府を倒してわが国を神武の古えに復(かえ)すにあり、事成らざる時は、恐らくはわれらは磔刑に処せられ、その罪は九族に及ぶであろう。このことを、汝らはしかと覚悟しなければならぬ」

 和泉守の目に、きらりと光るものがこぼれおちた。わが身の幽閉されて以来、十年のあいだ、妻の労苦はいかばかりであったか。そうして今ここに会う一夜が、今生の別れになるかも知れないのである。

 ありがたいことに、妻は夫のかねての志をよく知っていた。主馬や菊四郎の口ぶりから、およその覚悟もできていた。少しも取り乱した様子を見せず、しずかに首をうなだれて、彼女は涙をこらえた。そこには、わが日の本の夫婦というものの、魂の限りなく美しいつながりがあった。

「よいか、罪が九族に及んで辱めを受けるようなことがあれば、女とはいえ代々神に仕える真木家の者であることを忘れず、いさぎよく自害するがよい。真木家に伝わる左文字吉光の短刀おのおの一振を汝らに授ける。これをふところにして、身を処すがよい」

 睦子は、ただ黙ってうなずいた。

「啓太は一足先に出発する。菊四郎はわしが伴れて先ず薩摩に入り、ついで京都へのぼって倒幕の義挙を決行する。再会は期し難い。心して、菊四郎と別れを惜しんでくれよ」

 このとき菊四郎は数え年の十九歳だった。睦子は夫だけでなく、最愛のわが子をも失う覚悟をしなければならなかった。我らの先哲古人がどれほど高い魂の位にいたかは、まことに思いも及ばぬほどである。維新回天のため家を出た志士たちの中には、親や妻子に何ごとも語らず、心のうちに泣いてひそかに別れた者も多いが、わが真木一族はそういう別れ方ではなかった。さすがに楠公祭を絶やしたことのない真木家であった。楠公一族と同じように、天朝にいのちを捧げることは、ただ一個の益良雄の志ではなくて一家一門全ての志だったのである。

 このとき小棹は、喜びを顔いっぱいに輝かして、「お父様、お父様の御出陣を祝って、はなむけの一首をさしあげます」と言い、しずかに次のように詠みあげた。

 

 あづさ弓 春はきにけり ますらをの 花のさかりと 世はなりにけり

 

 和泉守は莞爾としてうなずいた。いかにも嬉しそうであった。これ以上のはなむけは、世にあるべしとも思えないのであった。狂瀾怒涛の国難に、いまや天下の益良雄たちが、あちらにもこちらにも競い立ち、万朶の桜が咲き出すように、わが父を先頭に「花のさかりと、世はなりにけり」というのだ。なんというけなげな乙女の心であろう。

 その夜は上野の外記の家に妻子三人は泊った。夜が明けると、和泉守は睦子に向かって、次のように言った。

 「もしわれらの義挙が孤立無援、ついに失敗すると聞いたら、小棹とともに家伝の秘書を抱いて南にのがれよ。南は肥前、肥後及び薩摩である。ここには多くのわが同志がひそんでいる。彼らに向かって、わが年月の孤忠をうったえて天下の志気を鼓舞せよ。かろがろしくいのちを捨てるのみが道ではない」

 こうして言葉に尽くし難い悲壮な妻子との一夜は終り、和泉守は水田に帰って行った。妻と娘は、これ今生の最後の夫の、父の姿かと、遠ざかり行く和泉守を見送った。

 越えて十六日、それは和泉守が捕吏のかこみを破って白昼堂々と久留米藩を脱出した日であるが、平野次郎国臣が連絡のために久留米水天宮に現れた。主馬が応接した。

「父、和泉守は本日逃亡、薩摩に向かいました」と主馬が言うと、平野次郎は喜色満面、「時がきた」と言って天を仰いだ。

「平野殿、妹の小棹がこんな歌を詠んで、父和泉守におくりました」

 主馬はこう言って、「あづさ弓 春はきにけり ますらをの 花のさかりと 世はなりにけり」の一首を示した。

 平野次郎は、はらはらと涙を流した。そうして紙と筆とを乞い、次の二首を真木家にとどめて立ち去ったのである。

 

 ますらをの 花さく世とし なりぬれば この春ばかり 楽しきはなし

 

 数ならぬ 深山桜も 九重の 花の盛りに 咲きはおくれじ

 

 思うに平野次郎は、しばしば真木家を訪ねて天下のことを議するうち、いつしか小棹と相思の仲になっていた。しかし、二人はついに心の中を打ちあける機会とてなく、やがて平野は生野の義挙に捕えられ、京都六角の獄において獄卒に惨殺されるのである。

 

 見よや人 あらしの庭の もみぢ葉は いづれ一葉も 散らずやはある

 

 これが平野の辞世であった。あわれに、はかない二人の恋であった。

 

 薩摩の大阪藩邸、いわゆる二十八番長屋は、後に勤王の志士の集合の場所になったが、ある日和泉守を中心に志士たちが倒幕の方策を議している最中、薩摩の志士、有馬新七がつと立ち上がって、「真木先生の御息女より、只今たよりが届いて候」と言って、「あづさ弓 春はきにけり ますらをの……」と朗々と詠みあげた。一座の志士はこれを聞いて感動し、しばし言葉もなかったと伝えられている。有馬新七は平野次郎からこの歌を伝え聞いていたのだ。

 ちなみに、この一首は土佐の志士、宮地宜蔵の編した『歎泣和歌集』に「父の門出を送る」と題して収められ、わが日の本の乙女のけなげさを讃えて後代に伝えた。

 あはれ、あしびきの、やまとのくにの、妻と乙女は、すめろぎに、仕えまつると、いさみ立ち、わがやをあとに、いでてゆく、ますらたけをを、ことほぎて、花さく世とぞ、たたえつつ、かなしみにたへ、くすしくも涙をおさえたのであった。

 かくて、この日、二月十二日、和泉守の実弟、大鳥居啓太は、さきにしるしたように三男管吉と甥の宮崎土太郎を従えて、和泉守に先立つこと四日、京都をさして水田天満宮のわが家をあとに旅立った。兄和泉守と生死をともにせんと悲壮な決意を以て、妻の琴柱(ことじ)と子供らと永い別れを告げたのであった。



益良雄とその妻

維新回天の大英傑、真木和泉守保臣と妻睦子、同じく娘小棹のお話です。書物より転載です。

 

外にはロシア、アメリカ、イギリスの黒船が侵略の牙をむいて襲いかかり、うちには国論が二分して果てしなく激突し、わが日の本の国は歴史始まって以来の危機に直面していた。このとき真木和泉守とその一族郎党は、九州の一角、不知火の筑紫の野に蹶起して祖国救出の急に赴いたのである。かかる狂瀾怒涛のとき、この英傑の妻と娘とは如何に身を処し、如何に生きたであろうか。

 

睦子が真木家に嫁いだのは天保二年、二十九歳のときである。夫和泉守保臣は十歳年下の十九歳であった。結婚して七年目の天保九年、二人は手を携えて肥前の小浜や長崎に遊んだことがある。それは睦子にとって、生涯忘れがたく嬉しい旅であった。二人が伴れだって歩いていると、道行く人が互いに顔を見合わせて「お相撲さんが芸者を伴れて歩いていなさるばい」と言った。旅から帰った和泉守が家人にそれを語ると、みんながさもありなんとばかり大笑いした。

 和泉守は父の左門に似て堂々たる体格だった。身の丈五尺八寸、筋肉隆々として肩は仁王のように隆起し、角張った顔の色は赤銅のように黒かった。口と鼻と耳が特に大きく、眼光炯炯として世の常の男ではなかった。それに髪を総髪に結び前の方を引きつめていたのである。妻の睦子は背が高くてすらりとした姿だった。美貌で年よりもずっと若く見えた。路傍の人が二人を相撲取りと芸者に見立てたのは、そうした外貌からであった。
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 睦子は老いてもなお美しさを残していたらしい。明治の世になって、久留米の大手門外にある桜の馬場で馬術の試合があった。馬術の名人が出場するというので大ぜいの観衆が集った。睦子は娘の小棹と一緒にそのなかにいた。すると、そばにいた顔見知りの人が、一首の狂歌を詠んで披露した。みんなが、それを聞いて拍手喝采したという。

 

 顔は雪、すがたは花と 見つれども ばばの桜と 人は言ふなり

 

 色はあくまでも白く、咲く花のにおうように美しいけれども、年が年だから人は姥桜という。その姥桜が桜馬場(婆々)に立ってござっしゃるというのだった。

 睦子は久留米瀬下庄屋町、石原与左衛門という富豪の娘であるが、後に叔父の久留米藩士、栗生一左衛門の養女になり、彼女はこの栗生家から真木家に嫁いだのである。

 真木家は代々久留米水天宮の神職で、和泉守はその第二十二代であった。水天宮のいわれは人の知るとおり、安徳天皇が壇ノ浦の海底に身を沈め給うたことにある。それは寿永四年三月のことで、二位の尼時子は幼帝を抱いて海に身を投じたのであった。

 

 今ぞ知る 御裳川の 流れには 波の下にも 都ありとは

 

 海の底にも帝の住み給う都ありとはという悲痛極まりないこの歌は、時子の辞世だったが、このときわれもまたわだつみの都にお伴し奉らばやと願ってやまぬ一人の女官がいた。その名を伊勢といい、清盛在世中に夫人時子に仕え、清盛の娘建礼門院が高倉天皇の中宮になるや、中宮に従って宮中につとめた人である。時子は伊勢の願いを許さず、そなたは遁れて幼帝の亡きあとを弔えよと、言葉を尽くして諭した。

 主命もだし難く、伊勢女は泣く泣く壇ノ浦を脱出し、のがれのがれて筑後のくにをさすらい、葦の葉の生い茂る筑後川のほとり鷺野原にたどりつき、ひそかに安徳天皇と高倉中宮の御霊を祀り、かつ二位の尼の霊をなぐさめた。そこに平家一門の平右忠(たいらのすけただ)なる人が訪ねてきて伊勢女のあとを継いだ。これが水天宮の起こりで、和泉守はこの右忠から数えて第二十二代、現在にいたってもなお断絶せずに真木家がこの神社の神職を継いでいる。

 境内に維新の大忠臣、真木和泉守の銅像と新しく建てられた立派な記念館があり、筑後川の流れのほとり、鬱蒼と生い茂る老楠は年ごとに神さびてこよなく美しい。

 睦子は富豪の出身で、なかなかに気性が強かったけれども、夫和泉守にたいしては従順で全身をささげて仕えた。母の柳子をはじめ二人の姉、三人の弟とも円満だった。女中のおくま、たのえ、おたみに対しても温かく情け深くて、良縁をさがしてそれぞれに嫁がせた。

 結婚して三年目の天保五年の正月、睦子は長男麟太を生み、翌六年十一月に、二男時次郎を生み、同八年九月三男彦三郎を生み、真木家は喜びにつつまれた。しかるに長男と三男とは流行の疱瘡を病んで幼死し、真木夫妻は深い悲しみに打ち沈んだのであった。

 天保十年十月、真木家にはじめての女の子が生れた。これが長女の小棹である。それから同十四年九月、四男菊四郎が生れた。二男時次郎は後に主馬と称して水天宮の神職を継ぎ、四男菊四郎は父和泉守に従って国事に奔走して暗殺され、後に従四位を贈られたが、二人とも波瀾万丈、転変極まりない生涯だった。

 睦子は全身全霊をささげて母と夫に仕え、二男一女の養育につとめた。一方、真木家の家風は、先祖代々にわたって御歴代の天皇に仕えまつることを中心とするものであった。殊に和泉守は幼い頃に父に授けられた『絵本楠公記』を読んで深く感動し、長ずるに及んで毎年五月二十五日には必ず楠公祭を行ったのである。どんなに切迫した事態のなかでも、どんな場所に身を置こうとも、彼はこの日の楠公祭をやめたことはない。その楠公精神の骨髄は、われ一人の忠義をはるかに超えて一族忠に殉ずるという一点にあった。睦子は夫和泉守を通じて、この真木家の精神に親しんだのである。このことは後の真木一族の殉忠に照らして非常に重大なことで、それが一朝一夕のものでなく父祖伝来の志として長養されたわが国の魂そのものだったことを思わねばならない。

 

 すめる世も 濁れる世にも 湊川 絶えぬ流れの 水や汲ままし

 

 これは天保十年、和泉守二十七歳の作である。楠公一族を慕ってやまぬ彼の魂は、やがて妻睦子とその家族の心にしみわたって行った。

 和泉守の実弟、大鳥居啓太も真木外記もともに、神祭るむかしの手振りを伝え護る神職であった。この一門の家風が睦子にも子供たちにも深い感化を及ぼし、やがて彼等の血肉になったのだと思われる。

 嘉永五年、和泉守は志を同じくする藩士とともに藩政の改革を策して成らず、捕えられて、それぞれ処罰された。これを「久留米藩嘉永の大獄」という。吟味の末和泉守は水天宮の神職を罷め、久留米城下から四里ほどのところにある下妻郡水田村の実弟、大鳥居啓太の家に幽閉されることになった。大鳥居啓太はこの水田村の天満宮の神職であったので、その住居は天満宮の境内にあった。

 藩の俗論党を退け、勤王派を持って藩政を布こうとする和泉守の志は挫折し、彼は藩の厳重な監視のもとで、家族と別れて実弟の家に起居し、やがてその近くに小さい家を建てて、これを山梔窩(くちなしのや)と名づけ、ただ一人で暮らした。

 ふみ見れば 思ひ合はする ことぞ多き 昔もかかる ためしありけり

 

 睦子は今はしばしの面会も叶わなくなった夫の消息を大鳥居家の人から伝え聞き、こぼれる涙を払いつつ、ながい歳月にわたって真木の家を護った。「昔もかかるためしありけり」という夫の嘆きは、同時にまた不退転の心を示す限りない励ましでもあった。

 和泉守の幽閉は嘉永五年から文久二年まで、じつに十年間に及んだ。四十歳から五十歳までである。

 水田天満宮の境内に、和泉守の幽居山梔窩が在りし日のまま復元され、四畳半と四畳の二間だけの南向きのかやぶき平屋建てで、在りし日の大忠臣のたたずまいがしのばれる。
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 この小さいあばら家が、やがて九州のみならず日本全土における勤王志士の密議の中心になったのだ。この部屋で、和泉守の『経緯愚説』も『大夢記』も成った。この『大夢記』こそは吉田松陰とほとんど時を同じくして、初めて堂々と倒幕を論じた維新回天の大文章であったのだ。ひそかに近隣の青年が集ってきて和泉守の門下生となり、彼の脱藩するに及んでは勇躍して京都にのぼり、師とともに大阪天王山にいのち散るのだ。これら青年たちが威儀を正して学んだのもこの部屋だ。

 その間に安政の大獄があり、桜田門外の変があり、天下はいよいよ真木和泉守の出現を求めた。西郷隆盛が沖永良部島にながされたとき「おいどんがおらんでも、真木先生のいるかぎり日本は大丈夫でごわしょう」といったとおり、いまや和泉守は風雲に乗じて驚天動地の大業に立つべき日が近づいた。

 時は文久二年の二月十二日、脱藩を決意した和泉守は、妻睦子および娘小棹と最後の訣別をすべく夜半ひそかに山梔窩を出た。道には残雪がまだらに、ほの白く光っていた。十年の心労は睦子の風貌をどう変えているのであろうか。小棹はどのように成人しているのだろうか。思いにふけりつつ和泉守は残雪をふんで、かねて打合せた面会の場所、三潴郡(みぬまごおり)本村上野へと急いだ。

                        

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