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歴史

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国際派日本人養成講座からの転載です。
現地での取材もせず、一方的に想像力を働かせて描いた史実、一体彼らにとって歴史とはなんなんでしょうか。
しかもそうした捏造によって、貶められる人々に対して、どのように思っているのでしょうか。

転載開始

史実として否定されても、いまだにプロパガンダとして生き延びる「住民自決命令」神話。


■1.米軍情報をもとに書かれた『鉄の暴風』


『鉄の暴風』は座間味島での集団自決に関しては、守備隊長・梅澤裕少佐が住民に自決を命じた後、こう行動したと伝えている。

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最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降、隊長梅沢少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

県立沖縄資料編集所主任専門員の経歴を持つ大城将保(おおしろ・まさやす)氏は、この記述に関して次のような指摘をしている。

__________
梅沢少佐は今なお健在であって、明らかに事実誤認である。それよりも気になるのは、「梅沢少佐のごとき」とか「朝鮮人慰安婦らしきもの」といった文章のアヤに執筆者の主観が濃厚に出ていて実証精神を疑わしめるところがある点である。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

さすがに『鉄の暴風』第9版では、この事実誤認の一節は完全に削除されている。しかし、なぜ、このような事実誤認がなされたのか、その経緯は『鉄の暴風』の特殊な性格を明らかにしている。

座間味島での戦闘で敵弾を受けて重傷を負った森井芳彦少尉は、部隊本部の防空壕で一人の補助看護婦から手当を受けていた。だが、助かる見込みがなかったため、その補助看護婦は「森井少尉が死ぬなら私もお供する」と語り、ほかの兵士を外に出した後で自決した。

ちなみに、この女性は朝鮮人慰安婦だったが、戦争が始まるとともに補助看護婦として従軍していたのだった。梅澤隊長の部下であった関根清氏は、二人が壕に残る場面を確認しており、手記にこう書いている。

__________
戦闘下、本部の壕を捜索した米軍により、自決していた二人を発見、少尉の階級章を、少佐と見まちがい、丁重に遺体を収容したのが伝わったものと思われます。
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『鉄の暴風』の執筆者は、現地調査もせずに、米軍から提供された情報をそのまま使って、机上で「住民自決命令」の神話を創作していたのである。


■2.神話の一人歩き

『鉄の暴風』が創作した「住民自決命令」神話は、昭和34(1959)年の沖縄タイムス編集局長・上地一史氏らによる『沖縄戦史』以降、様々な歴史書・戦記に繰り返し引用されていった。

なかでも熱心だったのは岩波書店で、昭和40(1965)年の『沖縄問題二十年』(中野好夫、新崎盛暉著)、昭和43(1968)年の『太平洋戦争』(家永三郎著)、昭和45年(1970)年には大江健三郎の『沖縄ノート』と、立て続けに関連本を出版している。

たとえば、家永三郎の『太平洋戦争』の昭和43(1965)年初版には、次のように書かれている。

__________
沖縄の慶良間列島渡嘉敷島守備隊長の赤松隊長は、米軍の上陸に備えるため、島民に食糧を供出して自殺せよと命じ、従順な島民329名は恩納河原でカミソリ・斧・釜などを使い集団自殺をとげた。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

これでは軍が食糧を確保するために島民に「自殺」を命じ、「従順な」島民がその命令通り、自殺したということになる。「軍国主義に盲従して自殺した愚かな島民」と見なされては、亡くなった人々も浮かばれまい。


■3.「渡嘉敷島にも何度も足を運び、島民の人たちに多数会いました」


「住民自決命令」神話の一人歩きに異を唱えたのが、昭和48(1973)年に出版された曽野綾子氏の『ある神話の背景』だった。この著書がそれまでと大きく違う点は、曽野氏自身の次の発言に現れている。

__________
もとより私には特別な調査機関もありません。私はただ足で歩いて一つ一つ疑念を調べ上げていっただけです。本土では赤松隊員に個別に会いました。・・・

渡嘉敷島にも何度も足を運び、島民の人たちに多数会いました大江氏は全く実地の調査をしていないことは、その時知りました。
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当時は、集団自決の現場に立ち会った村や軍の関係者が多く生存していた。曽野氏はその一人ひとりに直接会い、話を聞いた。赤松隊長の副官・知念朝睦氏が軍命令を明確に否定し、また安里喜順・元巡査が「赤松氏は自決命令など出していない」と証言したのも、曽野氏による直接取材によってであった。

集団自決の現場を知る人々は、曽野氏の取材によって、ようやく真実を語る機会を与えられたのだった。


■4.つき崩された「住民自決命令」神話


沖縄県の戦史研究家、戦記作家たちは、曽野氏の実地調査を支持した。先に発言を引用した県立沖縄資料編集所の大城将保氏は、曽野氏の『ある神話の背景』は、「同書(『鉄の暴風』)の記述の誤りを逐一指摘しているが、ほとんど指摘の通りである」と指摘している。

また仲程昌徳(なかほど・まさのり)氏は著書『沖縄の戦記』でこう述べている。

__________
ルポルタージュ構成をとっている本書で曽野が書きたかったことは、いうまでもなく、赤松隊長によって、命令されたという集団自決神話をつき崩していくことであった。

そしてそれは、たしかに曽野の調査が進んでいくにしたがって疑わしくなっていくばかりでなく、ほとんど完膚なきまでにつき崩されて、「命令」説はよりどころを失ってしまう。すなわち、『鉄の暴風』の集団自決を記載した箇所は、重大な改訂をせまられたのである。
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家永三郎もさすがにプロの歴史家としてこうした動向を無視できず、『太平洋戦争』の平成14(2002)年に岩波現代文庫から出た版では、先に引用した箇所を次のように書き換えている。

__________
島民329名が恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い凄惨な集団自決をとげたのも、軍隊が至近地に駐屯していたことと無関係とは考えられない。
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負け惜しみたっぷりの口調であるが、史実なしに推定でものを言えるのは、せいぜいこの程度であろう。『沖縄問題二十年』も絶版となった

曽野氏の実地調査に基づく追求は、「住民自決命令」神話のひとり歩きを止めたのである。


■5.大江氏と岩波書店を相手に訴訟


しかし、こうした動向の中で、大江の『沖縄ノート』だけは改訂されることもなく、版を重ねていった。また教科書にも「軍命令で集団自決」などといまだに書かれていた。

この事態に、平成17(2005)年、座間味島の元守備隊長・梅澤裕氏と、渡嘉敷島守備隊長の赤松嘉次氏(昭和55年死去)の弟・秀一氏が、大江氏と出版元の岩波書店に対して、『沖縄ノート』の出版差し止めと損害賠償3千万円の支払いを求めて、大阪地裁に提訴した。赤松氏は手記にこう書いていた。

__________
私には大学にいっている娘がある。この事件を知って「お父ちゃんは軍人やった。軍人なら、住民を守るのが義務じゃないか」と私に質問したことがある。・・・

いまさら弁解がましく当時のことを云々するのは本意ではないが、沖縄で“殺人鬼”なみに悪し様に面罵され、あまつさえ娘にまで誤解されるのは、何としてもつらい。
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沖縄で“殺人鬼”なみに面罵されたというのは、昭和45(1970)年3月、渡嘉敷島での合同慰霊祭に出席するために沖縄を訪れた際に、空港で抗議の洗礼を受けたことを指す。

また、これは自分たちだけの問題ではなく、教科書に、軍の命令・強制という記述が堂々とまかり通っていることを知って、日本の子供たちの将来にかかわる問題なので、裁判に訴えようと決意した、という。


■6.「自決命令については、その真実性が揺らいだといえるが」


平成20(2008)年3月、大阪地裁は二人の訴えを退け、さらに高裁、最高裁も上告を棄却した。

高裁判決では、「その後公刊された資料等により、控訴人梅澤及び赤松大尉の(中略)直接的な自決命令については、その真実性が揺らいだといえるが、本件各記述やその前提とする事実が真実でないことが明白になったとまではいえない」というものであった。

この判決の論理は異様である。たとえば、あなたが大江の本で「人殺し」呼ばわりされて、家庭や職場でひどい目にあったとする。

そこで大江を訴えたとしたら、被告である大江側が「人殺し」呼ばわりが正当であることを証明しなければならない。大江氏がそれを証明できなければ、根拠もなく「人殺し」呼ばわりしたということになり、賠償責任が生ずる。「人殺し」呼ばわりされた被害者のあなたが、人殺しでないことを証明する責任はない。

裁判所がこんな倒錯した論理を使ってまでも、大江側を無罪としたのは、ノーベル賞作家への配慮が裁判官を萎縮させたからだ、との見方も出ている。

ただ事実関係については、高裁判決においても、隊長命令は「証拠上、断定できない」としている。史実として「証拠上、断定できない」のであれば、「日本軍が住民自決命令を出した」などという記述は、少なくとも教科書において許されることではない。

この裁判の過程で、文科省も、歴史教科書での本事件の記述に関して、「軍が命令したかどうかは明らかとはいえない」との検定意見をつけ、各教科書で、軍の命令で住民が自決したとの断定的な記述は、不十分ながらも訂正されていった。


■7.反対集会の参加者数では事実を抑えこめない

こうした動きに抵抗の狼煙をあげたのは、やはり沖縄タイムスだった。平成19(2007)年の1年間だけで、100本以上もの「住民自決」関連の記事を掲載した。社を上げて神話を護ろうとした感がある。

同年9月29日には、沖縄県宣野湾市で教科書検定に関する抗議集会で開かれ、朝日新聞が一面トップで「『集団自決強制』削除、沖縄11万人抗議」と報道した。

この報道に、当時の福田首相は「随分たくさん集まったね。沖縄県民の気持ちは私も分かりますよ」と発言。これを受けて、文科省も「(訂正申請が)出てきたら、真摯に対応したい」と教科書各社に訂正申請を促すような発言までした。

実際の参加者は沖縄県警の推定で4万人強、集会写真によるカウントでは2万人程度とされている。それを「11万人」と報道するあたりに、事実をねじ曲げても主張を通そうとする、神話の創作者たちと同じ姿勢が垣間見える。

いずれにせよ、「住民自決命令」が事実でないことを地道に検証しようしてきた曽野氏以降の動きを、マスコミと数の力で抑えこもうとしたのである。

一つの出来事が実際にあったかという問題は、曽野氏が丹念に当事者の話を聞いて回ったように、あくまで事実調査をもとに追求すべきであり、反対集会の参加者数で決まるものではない。


■8.プロパガンダを見破る力


以上、「住民自決命令」という神話が、どう創作・流布され、またそれを疑う人々がどう戦ってきたか、経緯を辿ってきた。史実としては、すでに歴史家の家永三郎氏が負け惜しみたっぷりながらも、自著において軍命令説を撤回した点から見ても、ほぼ決着がついた、という所であろう。

残る問題は、教科書や様々な出版物を通じて、長年流布されてきた「住民自決命令」というプロパガンダから、いかに多くの国民が目覚めるか、ということである。

そのプロパガンダの象徴が、大江健三郎の『沖縄ノート』である。60年以上前の神話をそのまま流布し、その後の多くの証言者の言い分も、また実地研究の進展も一切黙殺して、堂々と版を重ねているのは、さすがにノーベル賞作家である。自説を撤回した歴史家などとは格が違う、というところか。

逆に言えば、この『沖縄ノート』は、戦後、長らくわが国を支配してきた左翼プロパガンダの記念碑的作品なのだ。

こうした作品は末永く版を重ねてもらい、学校の総合学習などで曽野氏の『ある神話の背景』と読み比べてみれば、生徒たちも事実を追求する歴史研究と、虚構に基づくプロパガンダとの違いを、実例を通じて学ぶことができるだろう。

国民が自らの意思をもって政治的選択を行うという自由民主主義体制を守るには、国民一人ひとりがプロパガンダを見破る力を鍛えなければならない。

(文責:伊勢雅臣)




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■1.沖縄戦「住民自決命令」裁判

『鉄の暴風』(沖縄タイムス、朝日新聞社、昭和25(1950)年刊)は記している。

__________
 地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は「持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った汎(あら)ゆる食料を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間の死を要求している」ということを主張した。

これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛憤した。
__________

映画でも見ているようなドラマチックな場面であるが、ここに登場する知念少尉は、後に次のように証言している。

__________
 渡嘉敷島に、将校会議を開く地下壕は存在しませんでしたね。作り話ですよ。沖縄タイムスは嘘ばかり書くから、私は読んでいませんよ。
__________

知念氏は『鉄の暴風』を書いた沖縄タイムスから、一度も取材されたことがない、として、「私が赤松隊でただ一人の沖縄出身者ということで、きっと同情心から、想像して書いたのでしょうね」と言う。そして住民自決という「軍命」があったことを真っ向から否定した

こういう本から、「住民自決命令」という神話が一人歩きして、教科書に載るまでになってしまったのだが、本号では、この沖縄タイムスの「見てきたような嘘」を、誰がどのような過程で創作したのか、を追ってみたい。


■2.「思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた」

その前に『鉄の暴風』が描く「見てきたような嘘」を、もう一つ、見ておこう。住民自決の「軍命」が伝えられ、実行された場面である。

__________
恩納河原(おんながわら)に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。

「こと、ここにいたっては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから全員玉砕する」というのである。(中略)

住民たちは死場所を選んで、各親族同志が一塊(かたまり)り塊り(原文のママ)になって、集まった。手榴弾を手にした族長(ママ)や家長が「みんな笑って死のう」と悲壮な声を絞って叫んだ。一発の手榴弾の周囲に、二、三十人が集まった。

住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。

手榴弾は、あちこちで爆発した。轟然(ごうぜん)たる不気味な響音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にして、−−男、女、子供、嬰児(えいじ)−−の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻(あび)叫喚の光景が、くりひろげられた。

死にそこなった者は、互いに棍棒で、うち合ったり、剃刀(かみそり)で、自らの頸部(けいぶ)を切ったり、鍬(くわ)で、親しいものの頭を、叩き割ったりして、・・・
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■3.「あなたたち非戦闘員は生きられる限り生きてくれ」

実際に地元の駐在巡査として村民と行動を共にし、赤松大尉と接触もあった安里(あざと)喜順氏は、沖縄タイムスに反論の手紙を出した。
__________
私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論(もちろん)自決場所のことも一々始終わかってをります。あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。責任者として天地神明に誓い、真実を申し上げます。・・・

『鉄の暴風』が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せられて驚いた程であります。その時にはすでに遅く、全国に販売されてをったようです。

それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した而(しか)も責任ある私達に調査もされず刊行されたこと私の一生甲斐(原文のママ)の痛恨の極みであります。沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べられたことは今もって一度もございません。

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安里氏によれば、赤松隊長に村民の避難場所について尋ねたところ、「作戦の邪魔にならない、部隊近くのどこか安全なところに避難させておったらいいでしょう。我々は死んでもいいから最後まで戦う。あなたたち非戦闘員は生きられる限り生きてくれと答えた。

ところが集まった村の幹部たちは動揺しており、自決した方が良い、ということになった。自決が始まったが、手榴弾の使い方が分からない、あるいは不発弾も多く、生き残った村民たちが部隊の陣地になだれ込み、銃を貸してくれ、と頼んだ。部隊はこの要請を拒否。そこに米軍の迫撃砲が撃ち込まれ、5,60人が死亡。それを見て皆われに返った。

赤松隊長は自決の知らせに驚き、「早まったことをしてくれた」と嘆いたという。米軍が上陸すると、赤松隊長は軍の食料の半分を民間と分け、安里氏はその分配に立ち会った。「部隊は最後まで頑張る。あなたがたは、このあるだけを食べて、あとは蘇鉄(そてつ)でも食べて生きられるだけ生きなさいと言った。


■4.米軍軍政の御用新聞として創刊された沖縄タイムズ

現場に居合わせた知念氏にも安里氏にも取材することなく、いかにも見てきたような光景を創作した、この沖縄タイムスとはどんな新聞なのか。

発端は、終戦前の昭和20(1945)年7月に遡る。軍政の敷かれた沖縄で、米軍の命令で「ウルマ新報」という新聞が創刊された。

創刊に関わった高良一氏は「米軍によって軍政府の情報課に引っぱられ、新聞をやれといわれた。しかし、米軍の宣伝をする新聞を創るとスパイ扱いされるからご免だと思ったが、断ると銃殺されるかもわからず、否応なかった」と語っている。

ところが同社社長に瀬長亀次郎氏が就任すると、米軍との関係が悪化。ウルマ新報の代わりとして、米軍が協力を約束して発行を認可したのが、沖縄タイムスだった。

同紙の創刊は、昭和23(1948)年7月1日だが、その紙面のトップには米軍幹部のメッセージが掲げられている。その一つとして、軍政府情報部長R・E・ハウトン大尉は、こう述べている。

__________
沖縄タイムスが沖縄人民の情報、時事並びに軍民両政府から発せられる司令や命令を報道することは軍政府の要望するところである。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

その下に、高嶺朝光社長の次のような創刊の辞が掲載されているのだが、この位置関係が、米軍との関係を示している。

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吾々はアメリカの暖かい援助のもとに生活している、この現実を正しく認識することはとりも直さずアメリカの軍政に対する協力であり、また、これが沖縄を復興する道である。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

当初は2ページ立てのガリ版刷りで、週2回の発行だったが、軍からの用紙の補給が困難という理由で、第14号以降「本紙は軍命により」として週1回に変更している。新聞社としても用紙の補給を米軍に頼っていたわけで、まさに「吾々はアメリカの暖かい援助のもとに生活している」と生殺与奪の権を握られていたのである。

こうして米軍の軍政下で、御用新聞として創刊されたのが沖縄タイムスだった。


■5.「沖縄人は虐げられてきたのだ」

米軍侵攻時、沖縄県民がいかに祖国日本のために戦ったかは、「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後生特別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲという沖縄根拠地隊司令官・大田實海軍中将の言葉で言い尽くされている。

この沖縄を米軍軍政で統治するためには、県民を心理的に日本国そのものから切り離さねばならない。そのために米第10軍司令部内の情報部は、沖縄戦を前にして心理作戦チームを編成し、情報収集を開始した。

この一環として、ハーバード大学のアルフレッド・トッツア教授は「琉球列島の沖縄人・日本の少数集団」という心理作戦を立案し、次のように提言している。

__________
 沖縄人は虐げられてきたのだという意識を高め、沖縄人は、日本人全体と対応する個別の民族であるというアイデンティティーを強調する趣旨の宣伝懐柔策が成功をおさめるだろう。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

この心理作戦に基づき、情報部は沖縄での空中散布用に570万枚ものリーフレットを印刷した。そこにはこんな文面があった。

__________
皆さんの家はこわされたり、畑や作物は踏み潰され又元気盛りの青年は殺され、沖縄の人は皆口に言えぬ苦労をしています。内地人はみなさん達に余計な苦労をさせます。・・・

日本兵が沖縄の人々を殺したり住家をこわしている事は皆さん達に明らかでしょう。この戦争は、皆さんたちの戦争ではありません。唯(ただ)貴方達は、内地人の手先に使われているのです。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■6.「国境を民族を、超えた米軍の人類愛」

「日本兵が沖縄の人々を殺したり」というプロパガンダに呼応して、企画されたのが『鉄の暴風』だった。この本の監修を担当した常務の豊平良顕(とよひら・りょうけん)氏は、「高嶺社長以下全社員の熱意によつて、沖縄タイムズ創刊当初より戦記刊行が企てられ、、、」と、経緯を綴っている。

その中に「沖縄戦記の刊行をタイムス社が承ったことは、、、」という一節があるが、「承る」とは「上位者から命令などを『受け』『いただく』の意」(大辞泉)である。その上位者とは米軍と考える他はない。とすれば『鉄の暴風』の執筆は米軍の命令だったことになる。

さらに豊平氏は、こうも述べている。

__________
 なお、この動乱(沖縄戦)を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境を民族を、超えた米軍の人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更生第一歩を踏み出すことができた。われわれは、そのことを特筆した。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「更生」とは「前科者の更生」というように使われる。「米軍のヒューマニズム、人類愛によって、今まで内地人に虐げられてきた沖縄人は正しい道に戻った」という認識である。

ちなみに作家ジョージ・ファイファーは『天王山−沖縄戦と原子爆弾』で米軍による沖縄でのレイプ事件の被害者を1万人以上と推定しているが、米軍の「人類愛」を謳いあげる沖縄タイムスでは、当然、このような事実は闇から闇に葬られたことであろう。


■7.「また聞きのまた聞き」から創作された光景

こうした方針のもとに『鉄の暴風』は二人の執筆者によって、昭和24年(1949)春から、取材3ヶ月、執筆3ヶ月という短期間で仕上げられ、同年11月に脱稿。その後、原稿を英訳して、米軍政府に出版許可を求めた。

結局、米軍政府の許可が降りたのは、脱稿から7ヶ月もたった昭和25(1950)年6月15日だが、許可が長引いたのは、時の軍政長官シーツ少将が読み始めて「これは面白い」と手元に長い間、置いていたからだという。このシーツ少将は、『鉄の暴風』の出版広告に「沖縄人必読の良書」と最大限の賛辞を送っている。

さて、この「必読の良書」は、記者二人が取材3ヶ月で400字詰め原稿用紙750枚ほどを書き上げただけに、筆者の一人、太田良博氏自身が自ら言うように「まったく突貫工事」だった。

冒頭で「知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛憤した」という一節を紹介したが、知念氏自身が「作り話ですよ」と指摘した点については、太田氏は「あの場面は、決して私が想像で書いたものではなく、渡嘉敷島の生き残りの証言をそのまま記録したにすぎない」と弁解している。

太田氏は渡嘉敷島の集団自決について取材した人物として二人を挙げているが、一人は事件当時、南方にいて現場を目撃していない。もう一人は座間味島の村助役・山城安二郎で座間味島の自決場面は目撃していても、渡嘉敷島の自決は見ていない。

太田氏は、現場を見ていない二人の証言から、「また聞きのまた聞き」によって「悲憤のあまり、慟哭し」というようないかにも見てきたような情景描写を、当人に取材もせずに創作したのである。

「住民自決命令」は、事実を正確に記録しようというジャーナリズムでなく、沖縄を日本から分断しようとする米軍の方針に忠実に従ったプロパガンダの産物であった。




取り戻すこと

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                          (教育勅語奉読)
 
日本の歴史というと、「戦前は悪かった」という一方で、「いいことばかりあった」ように思うのも大きな間違いでしょう。実際は全て美談のようなことはありません。当然よくない時も過ごしてきたのです。
しかし、日本を誇りに思えるのはその「よくない時」から立ち直ることができるということです。
今回も前回に続き中西輝政氏の著書から引用し、数回引用した最後としたいと思います。
・・・・・・・
 
人は平時が続くと、変化に対する反応が遅くなります。
とりわけ、本来、変化を好まない傾向がある日本人は、状況は変化しているのに平時のものの見方、考え方を変えられず、気付いた時には取り返しがつかないほど社会が荒廃していた、という事態に陥りがちです。
 
明治維新は、日本人だからできた「無血革命」だと言われますが、実際は相当な犠牲を払っています。戊辰戦争では何万という人命が失われましたし、三百年続いた徳川の世が全否定されたことで、社会では大きな悲劇もたくさん生まれ、物理的、精神的な文化的遺産もゴミのように捨て去られました。
明治維新は起こるべくして起こった社会変革ではありましたが、黒船来航以降の変化、諸藩の動きや考え方の変化に幕府がもっと早く、柔軟に対応していたら、犠牲は最小限に抑えられ、もっとスムーズな社会変革が可能だったのではないかと思えてなりません。
 
結果的に、急激に社会が変わることになり、その中で日本本来の良さも失われてしまいました。
ほんの一例ですが、アメリカのボストン美術館には日本の優れた仏教芸術が数多く展示されています。維新期の「廃仏毀釈運動」で日本人が仏教を排斥したために、膨大な仏教芸術が海外に流出したのです。それまで大切に育ててきた文化まで無造作に捨て去ってしまったのですから、やはり明治維新は行き過ぎた社会変革だったと言わざるを得ません。
 
教育にしても同様のことが言えます。明治天皇は非常に優れたバランス感覚の持ち主で、西洋の技術を取り入れることを指示する一方、日本人本来の精神性はくれぐれも失わないように、とつねづね言っていました。
ところが為政者たちは「文明開化」をスローガンにして、日本の良さを顧みず、何でも西洋化しようとしました。明治天皇はたびたび「詔書」を出し、日本人には日本人にふさわしい教育をすべしと繰り返し自ら主張されましたが、当時の文部省は素知らぬ顔です。そんな江戸時代の封建性の名残のような教育など日本の近代化の邪魔になるだけだ、というのが彼らの考え方でした。
 
しかし、その一方で、人々のモラルは低下し、明治初期の日本では社会の風紀が大きく乱れました。例えば小学生の子供が休み時間にたばこを吸っている。お巡りさんが大道で平気で博打をする。勤め人が昼間から酒を持って歩いている。男女の性道徳も前の時代に比べ著しく乱れ始めました。明治十年から二十年ごろ、日本の社会はそこまで荒廃していたのです。
そのころ来日した外国人は日本への失望感をあらわにしています。『インド人も怠惰だったけれど、日本人はそれに輪をかけてひどい』と書き残しているイギリス人もいます。当時のイギリスは産業革命の最中で、国民全体が大変勤勉だった頃ですから、なおさら日本人の堕落ぶりがひどく映ったのでしょう。
 
こんな状態が続き、明治二十年ごろになると、さすがに国政を担う人々も方向性を誤っていることに気付き始めました。急速に西洋化が進む一方で社会のあまりの荒廃に危機感を募らせた人々、特に上からは明治天皇から一部の政治家や、当時「国粋派」と呼ばれて時に危険視されていた学者たちが立ち上がりました。そうした努力の一環として打ち出されたのが「教育勅語」(明治二十三年)でした。
しかし、こうした「上からの動き」と併せて、実は地方から、そして庶民の間からも自発的な教育やモラルの改善運動が起こってきました。そして日本人全体が社会の近代化の大切さを踏まえつつも、自分たちがかつて持っていた文化に対する誇りを取り戻し始めました。
ここから日本は立ち直りますが、幕末から明治までに失われたものの大きさを考えると、変化への対応の遅さがつくづく悔やまれます。
 
好むと好まざるとに関わらず時代は変化していきます。そうした変化には合わせてゆかねばなりません。
その上で「変化にはコストがかかる」という視点から、そのバランス・シートを考えてみる必要があります。
この時、日本人にとって特に大切なのは決して情緒的に反応せず、あくまで冷静かつ合理的な姿勢に徹することです。「それ行けドンドン」や「石橋を叩いても渡らない」というのは、いずれも堕落、精神の劣化です。
・・・・・
 
やはり教育というのは大きいと思います。戦後、日本の教育は荒廃し続けていると言います。
特にモラルや道徳、日本のよき精神を教えないことが、日本社会に大きな影響を与えていることは明らかです。
日本人に「個人主義」や「自由」、「権利」などというものはあわないものだと思っています。
日本人の優れた面はもちろん個人の力というのもあるでしょうが、大きく発揮されるのはやはり集団行動にあると思います。その根幹は日本人の規律の正しさ、自分より他人をいたわり、互いに思いやり、そしてともに行動する時に大きな力となる。そこには自分勝手な自由や権利の主張などあり得ないのです。
西洋人と日本人は違います。グローバルという言葉に釣られて何でも国際基準にする必要などないではありませんか。なぜなら、それ以上に日本人と日本という国は優れた、素晴らしいものを本来は持っているからです。
 
 
・・・・・・・・・
 
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回天とお母さん

“嗚呼特別攻撃隊”という悲しい歌がある。
「特攻」と言うと飛行機による陸・海軍のことと思っている日本人が多いかもしれない。
しかし、海の「特攻」があったのを忘れてはいけない。
・・・
 
終戦直後、日本の海軍・陸軍代表がマニラに招致され、進駐に関する打ち合わせが開かれた。
この時、米軍のサザーランド参謀長が真っ先に口にしたのは、
「回天(かいてん)はまだ海上に残っているか」
ということでした。
これに対し我が軍は、
「回天を積んだ潜水艦7隻が残っている」と言うと、
「それは大変だ、即刻降伏を伝達せよ」と促したという。
日本海軍は昭和206月以降、“回天”が戦果を挙げていることは知っていたが、
アメリカ側がこれほど恐れていたとは日本側もびっくりした。
 
戦後、アメリカ海軍に「これだけは日本に及ばなかった」と言わしめた優秀なもの。
それが“酸素魚雷”、つまり“九三式魚雷”でありました。
通常動力の魚雷は排気の水泡が海面に現れるものですが、
九三式魚雷は酸素を動力とするため航跡が見えなかったのであります。
 
この酸素動力を最初に着想したのはフランス海軍でしたが爆発の危険が多くて放棄した。
次にイギリス海軍が作ったが、やはり爆発が頻発に起こり断念した。
それを日本が研究し、多少の事故はあったが朝熊利英中将、岸本鹿子治少将らがよく研鑽し、
ついに安全な高圧酸素魚雷を発明したのです。
これは皇紀2593年に出来たので“九三式”と名付けられた。
この功績により朝熊と岸本は天皇陛下から旭日中綬章、勲二等瑞宝章が授けられたのです。
 
しかし、戦争に入ると主戦兵器が飛行機に変わってしまったため艦隊同士の決戦がなくなり、
この高性能の魚雷は日本にとって宝の持ち腐れとなってしまった。
 
日本のソロモン海戦での敗勢に血を燃やしていた黒木中尉と仁科少尉は、
日本海軍のホープであったこの九三式魚雷が各鎮守府の兵器庫に積まれたままであったの見た。
そして、この魚雷を改装して一人乗りの人間魚雷をつくり百発百中の戦果を上げようと考えた。
それは真珠湾攻撃の際の特殊潜行艇とは比較にならない命中率と破壊力を有するものとなった。
 
この兵器ははじめ“救国兵器”と呼ばれ、
ついで“〇六(マルロク)”と呼ばれ、
後に“回天”と呼ばれた。
そして、この人間魚雷の志願者は後を絶たなかったという。
 
潜水艦に回天6基を積んで出撃し、敵の接近を確かめて回天を用意する。
搭乗員は回天に乗り込み、ハッチを閉めて母艦と絶縁する。
潜水艦長は電話で情報を伝えながら敵艦に近寄り、最善と思われるところで発進する。
回天はエンジンを動かし2000メートルに1回の割合で潜望鏡を露出し、観測しながら進む。
そして敵艦500メートルのところで突撃進路を決定し、
深度4メートル前後で全速で突入、100%敵が知らない間に爆発して敵を轟沈した。
 
この回天の戦績は大本営も連合艦隊司令部も頭を下げざるを得なかった。
終戦までの3カ月間に、油槽船・輸送船15隻、巡洋艦2隻、駆逐艦5隻、水上機母艦1隻、艦種不明6隻を撃沈、他に2隻大破させた。
この回天は常に奇襲において100%の破壊力を示したので米海軍に大いなる脅威を与えていた。
特に原爆を搭載したあのインディアナポリス号を撃沈させたことは日本国民の溜飲を下げた。
 
回天に乗って出撃した一兵曹が母に宛てた手紙に、
「私が死んだら、誰がお母さんを養ってくれるのかと思うと胸が詰まります。
しかし、お母さんは僕の出征の時に、お国のために立派に死んでおくれと言われました。
あの停車場のお母さんの言葉を思い出して、僕はこれから決死の出撃をします。
どうぞお元気にお暮らし下さい」
伊三六潜水艦の副長が、彼の遺書を見て一言激励しようとしたときは、
もう彼の回天は発進されていた。
今はただその回天が敵船団の大物を爆沈する轟音を待つのみであった。
間もなく轟音が震撼し、大火柱を見た。
副長は急いで部屋に戻り、この遺書を見て、もう一度涙を流した。・・・
 
海軍の戦死者の合計は409千人を超えていた。
その心は皆、この兵曹と同じであったろう。
彼らは戦争になった以上は祖国を護ろうとして身命をなげうったのである。
一に愛国の赤誠に身を挺したのだ。
 
海の特攻“回天”にて大きな戦績を残した98名(整備員などを含めると145人)の英霊がいます。
「七生報国」の白鉢巻きを頭に巻き、出撃していった若き兵士たち。
男子は困ったときや困難にうち当ると母を頼りたくなるものである。
母というのはそういうところがあるものだ。
 
彼らもこの歌を口ずさみ、お母さんを思い、
そして天皇陛下万歳と、お国のために散華していったのでありましょう。
・・・・・・
 
 
 
 
 
 
一、 祖国を後にはるばると 太平洋の浪枕 幾夜仰いだ星月夜 ああ故郷の山や河
 
二、 許して下さいお母さん 黙って別れたあの夜の せつない思い必勝を 固く誓った僕でした
 
三、 わがまま言った僕ですが 今こそ征きます参ります 靖国神社へ参ります さらば母さんお達者で
 
四、 師走八日の朝まだき 僕は特別攻撃隊 男子の本懐今日の日よ 待っていましたお母さん
 
五、 天皇陛下万歳と 叫んだはるか海の底 聞いて下さいお母さん 遠いハワイの真珠湾
 
 
 
・・・・・・・
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

 鈴木重成は鈴木正三の弟であるが、島原・天草の乱の時に、鎮圧の総大将松平信綱の部下として戦い、乱は寛永十五年春に鎮圧された。そして天草はその後幕府の直轄地となり、初代天草の代官に、鈴木重成が任命された。重成はすぐに「島の復興」計画を立てた。この時に、「農民の心の復興も大切だ」と、兄の鈴木正三に精神的指導を頼んだ。

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/dc/041a46d3e2fcc561b9ba6f699ba63e2e.jpg
鈴木重成

激戦の続いた天草は、住む人も少なく荒廃の極みにあった。そこで正三と重成は、農村組織を再興し、他地域からの移民を受け入れ、またキリシタンによって破壊された寺社の復興に努めた。正三の属する曹洞宗の寺院だけで32寺が建立された。またそれ以外の宗派にも「布教勝手たるべし」と、伝教の自由を保障したので、広く仏教が行き渡ることとなった。

いかにも正三らしいのは、キリスト教の教義を批判した「破吉利支丹(は・キリシタン)」を著し、自ら筆写して各寺院に納めた事である。

その中には、こんな一節もある。

破して言う、デウス、天地の主にして、国土、万物を作り出したまうならば、何としてそのデウス、今まで無量の国々を捨ておいて、出世したまわざるや。

本当に全知全能というなら、なぜ今頃、のこのこと日本に現れて来たのか。キリストの教えに帰依せずに死んだ人は地獄に堕ちると言うが、キリシタンが日本に伝わる前に亡くなった日本人はどんな善人でも地獄に堕ちるというのも、全能の神らしからぬ手落ちではないか。

日本の神仏の教えのように、生きとし行けるものは、すべて「神の分け命」であるとか、仏様から億分の一の「仏性」を与えられている、という方が、現代の遺伝子理論にも親近性があり、よほど合理的だろう。

また正三は、キリシタンは奇特(奇跡)を尊び、これで民衆をたぶらかすとして、

破して言う、奇特なること尊きならば、魔王を尊敬すべし。この国の狐狸も奇特をなす。・・・経にいわく。三世の諸仏を供養せんより、一箇無心の道人を供養せんにはしかじと説きたまえり。仏道修行の人は、この道を学ぶなり。さらに奇特を用うることなし。

奇跡を尊ぶというなら、魔王や狐狸も奇跡を行う。仏道修行は、一心に道を求める人を供養する道を学ぶ。万人が自らの職業に打ち込むことで、自身に内在する仏性を開発するのが、仏行である。別に奇跡など持ち出す必要もない。中世的なキリスト教信仰に対する正三の近代的合理性に基づく批判である。

正三が天草を去った後、法兄として尊敬していた名僧・中華珪法が後を継いで、17年も仏法復興の仕事を続けた。その赴任の直後、代官重成の配慮によって反乱者を含む犠牲者の供養碑が建てられることになり、その碑文を中華珪法が撰んだ。その碑文の最後には、次のような一節がある。

仏様の前では、敵だ味方だ、賊軍だ官軍だなどと、そういったものはいっさいない。死んでから先まで何の罪があるか。そんなものは何もない。

異教徒を殺害し、その寺社や墓を破壊することが神に奉仕する道であるとしたキリシタンの教えよりもはるかに近代的な考え方である。(もっとも、現代でも、靖国神社に「A級戦犯」を祀ることを怒る前近代的感情を持つ近隣諸国もあるようだが。)

鈴木重成は、また天草が元は唐津藩主寺沢家の飛地で幕府はこの土地に四万石の査定を行なっていたのだが、この石高が高く査定されすぎているのではと思い始め、過去にさかのぼって天草等の年貢関係の書類を調べた。どう調べても、とても四万石の査定は高すぎる。重成は村役人たちと相談した結果、
「たとえ天領となっても四万石の年貢は島民には納めきれない。半減してもらうように陳情しよう」
と思い立った。重成はしばしば江戸に行き幕府に願い出た。しかし幕府の対応は冷ややかだった。幕府にしても、「天草島の年貢の査定は過重であった」と認める訳にはいかない。そんなことをすれば、同じような状況にあるほかの天領からドッと陳情が押し寄せてくるにちがいない。その処理も面倒だがそれ以上に、
「幕府の査定は間違っていた」ということは口が裂けても言えない。いきおい重成へのあしらいは冷ややかで、あからさまに迷惑がった。しかし島民の困窮を思えば引き下がる訳にはいかない。何年も陳情活動をつづけた。かつての主人松平信綱にも頼んだ。信綱は今は老中筆頭である。重成にすれば主人がそこまでえらくなっているのだから何とか口をきいてくれると思ったが、逆だった。老中筆頭の立場で、幕府の年貢額は間違いであった、とは絶対に言えない。やがて重成は幕府の首脳部を見限り心を決する。それは、
「自分の死をもって、この嘆願の目的を貫こう」ということである。承応二年(1653年)十月十五日、鈴木重成はその嘆きを遺書に残して自刃した。

重成の思いに心動かされた幕閣の重臣がいたのであろう。本来ならば、お上の意向に逆らったものとして、お家断絶にされても仕方がない所であるが、重成の死は病死として扱われ、その子の重祐(しげすけ)が家督を相続することを許された。

しかし、重祐はまだ23歳で、問題の多い天草の代官を継ぐのは荷が重すぎるので、無難な大和の代官に任ぜられた。かわりに選ばれたのが、正三の実子ながら、その出家の後、重成の養子となっていた47歳の重辰である。

ところが重辰は2百石の家禄で天草の代官にするには格が低すぎる。そこで重辰はしばらく京都の御所造営などを任され、5百石に加増された上で、天草の第2代代官に任ぜられた。この間、2年間、天草の代官は空席とされていたという。なんとも周到かつ温情あふれる措置ではないか。

重辰は養父・重成の悲願を受け継いで、幕府に年貢半減の上申を繰り返し、ついに万治2(1659)年にその許可を得た。養父・重成と実父・正三が天草に赴いた年から数えて、実に17年後である。

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天草の人々は、「自分たちの暮らしがあるのは、鈴木様のお陰」として、島内の各地に鈴木大明神とか、鈴木塚を設けて祀った。さらに正三・重成・重辰を祭神として、天草地方最大の境域を持つ鈴木神社を造営したのである。一時期は、この神社の分社が島内に三十いくつもあったという。それほど重成の、「島民を思う誠実さ」が人々の心を打ったのである。お坊さんである鈴木正三が、神様として神社に祀られているのも、いかにも日本らしくて面白い。

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転載及び引用元
国際派日本人養成講座
童門冬二 「年貢半減を願って自刃―――鈴木重成」



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