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■1.日本の近代資本主義の源泉■
西欧が2百年を費やした近代資本主義社会の構築を、日本がわずか百年足らずで成し遂げた原動力はどこにあったのか、の研究が、インド哲学・仏教研究の国際的な権威である中村元博士と経済学者の大野信三博士によって進められた。 社会・経済学者マックス・ウェーバーは「西洋資本主義のシステムは、キリスト教の一宗派である清教の『どのような職業も神の召命である』とする職業倫理と、禁欲的・合理的な経済倫理によって支えられている」との学説を立て、これが広く受け入れられていた。 そして両博士が、日本の近代資本主義の源泉として発見したのが、江戸時代初期の禅僧・鈴木正三(しょうさん)であった。 ■2.なぜ他人と自己、生と死という対立があるのか■ 正三は天正7(1579)年、三河の国の足助(あすけ)庄の地侍の家に生まれた。信長が倒れる3年前であった。 少年時代に、近所のお寺で僧の講話を聞く事がほとんど唯一の学問だったようだ。 天正18(1590)年、正三が12歳の年に、鈴木一党は家康の関東移封に従って、上総の塩子に移住した。 ある日の夜もふけたころ、自宅の犬がしきりに吠えてい る。戸外に出てみると、別に変わったこともない。その時、 晴れた夜空を仰いで、正三はしみじみといった。 一天平等にしてなんの差別もないのに、われわれ人間に は、なぜ他人と自己、生と死というようなことがあるのか。自己と他人との対立を超越し、生と死の対立を打破して、大自在の境地を得たい。その導きとなる教えは仏法をおいて他にはない。 ■3.「衆生の恩」■ しかし、正三は、俗世を離れて一人悟りを求める、というような生き方は選ばなかった。 慶長5(1600)年、22歳の正三は初陣として、関ヶ原を目指して徳川秀忠の軍に加わった。さらに36歳の時には大坂冬の陣、翌年の夏の陣に参加した。この間、足助の庄の地に2百石を拝領する旗本に取り立てられた。秀忠軍の先陣として、白兵戦や鉄砲攻撃などの修羅場をくぐり抜け、軍功をたてたものと思われる。 天下統一を果たすと、徳川幕府は元号を元和(げんな)と改めて、一国一城令、武家諸法度、禁中並公家諸法度、寺院諸法度などを制定し、平和な国づくりのための布石を次々と打っていった。 この頃、正三は旗本として大坂城を警護する仕事についていたが、その自由時間に最初の著作『盲安杖』をまとめた。「盲人の安心のための杖」という意味である。これは、儒学を信奉する同僚から「仏法は世法に背く(仏法は隠遁などを奨励して世を良くすることにつながらない)」と言われたので、その反論としてまとめたものである。 正三は、この中で天地の恩、師の恩、国王の恩、父母の恩と並んで「衆生の恩」もあると説いている。衆生の恩とは「農人の恩、諸職人の恩、衣類紡績の恩、商人の恩、一切の所作、互いに相助け合っている恩」と説明し、この事を理解して、諸人とわけへだてなくつき合うべきだと説いている。 諸人が日常生活を営めるのも、農民が米を作ってくれたり、職人が衣服を作ってくれたり、商人がそれらを流通してくれるからであり、「一切の所作(すべての仕事)」が「互いに相助け合って」世の中が成り立っている、という考え方である。 こうした「仏法」なら、世法を正しく導くものであろう。正三の志もそこにあった。この思想が世間を導けば、平和な社会が到来し、「他人と自己」「生と死」の対立という矛盾も和らいでいくだろう。 この『盲安杖』は、徳川時代を通じて庶民大衆の修養の参考書としてかなり流布したという。 ■4.「己をすてて大利に至る」■ 旗本として大坂城を警護するなどという仕事は、当時の社会にあってはエリートの地位であって、安楽な一生が保証されていた。しかし、正三の自らの思想がそれを許さなかった。第2代将軍・秀忠を中心とする江戸幕府が築きつつあった新しい平和な社会の建設に、自由な思想家として貢献していこうという志を抱いたのである。 元和6(1620)年、正三は42歳にして、武士の身分を捨て、禅僧として出家した。正三研究の第一人者神谷満雄博士は、その動機について、こう述べている。 それは今後、君恩に報いるための実践的な仏法興隆と、仏教倫理によって民衆を教化することを治国の基本におくという壮大な事業への参画・推進を生涯にわたる自らの「天職」として、実践していこうとする決意であった。 幕府には、自らの出家を「曲事(まがこと)と思召めさば、御成敗あれ」と切腹覚悟で届け出た。それを聞いた老中が将軍に「ふと道心を起し候」と報告した所、秀忠は「それは道心というではない。隠居じゃまでよ」と答えた。「出家」でなく「隠居」とされたことによって、養子の重長が正三の跡目を継ぐことができた。 秀忠は、関ヶ原以来20年も仕えてきた正三の人となりをよく知って、その出家の志を見通していたのかも知れない。 『盲安杖』には、「小利を捨てて大利にいたれ」という項目があり、「いたれる人は、誠のために身命をなげうって、名利にとどまらず、己をすてて大利に至る」と説いていた。正三はそれを実行したのである。 ■5.士農工商のそれぞれの役割■ この後、正三は大和の法隆寺など各地を巡り、高僧に教えを乞うたり、自らの思想を説いて回った。寛永8(1631)年、53歳の正三は紀州の熊野を訪れ、和歌山の加納氏邸で武士に法話を行い、求めに応じて『武士日用』を書いた。「日用」とは、「毎日使うもの」という意味で、武士としての生き方をさりげない形で説いた。 これに続いて正三は、『農人日用』『職人日用』『商人日用』を書き上げ、あわせて『四民日用』とした。「士農工商」といえば、我々はすぐに身分差別制度と短絡してしまうが、正三は、それぞれが異なる社会的な役割を持って、社会を成り立たせていると考えた。『職人日用』には、以下の一節がある。 鍛冶番匠をはじめとして、諸職人なくしては、世界の用いる所、調うべからず。武士なくして世治まるべからず。農人なくして世界の食物あるべからず。商人なくして世界の自由、成るべからず。 鍛冶屋などの職人がいなくては、世の中は様々な道具を調えることができない。武士なくしては世の中の秩序が保てない。農民がいなくては食べ物が得られない。商人がいなくては、様ざまなものを自在に流通させることができない。こうして諸々の職業がお互いに助け合って、世の中が成り立っている、と。 ■6.「何の事業もみな仏行なり」■ 四民が互いに助け合って世の中を支えている姿に、正三は「何の事業もみな仏行なり」として「仏行」そのものだと見なした。たとえば『農民日用』ではこう説いている。 それ、農人と生を受けしことは天より授けたまわる世界養育の役人なり。さればこの身を一筋に天道に任せたてまつり、かりにも身のためを思わずして、まさに天道の奉公に農業をなし、五穀を作り出して仏陀神明を祭り、万民の命をたすけ、虫類などにいたるまで施すべしと大誓願をなして、ひと鍬ひと鍬に、南無阿弥陀仏、なむあみだ仏と唱え、一鎌一鎌に住して、他念なく農業をなさんには、田畑も清浄の地となり、五穀も清浄食となって、食する人、煩悩を消滅するの薬なるべし。 (農民と生まれたことは、天から任命されて世界を養う役人となるということである。したがって自分の身を一筋に天道に任せて、かりそめにも自分の事を考えず、天道への奉公として農業をなし、五穀を作って仏陀神明を祭り、万民の命を助け、虫類などに至るまで施しを行おうと大誓願をなして、一鍬入れる毎に、南無阿弥陀仏と仏を唱え、一鎌毎に心を入れて、一心に農業に勤しめば、田畑も清浄の地となり、五穀も清浄の食べ物となって、食べる人の煩悩を消滅させる薬になる。) 「仏行」とは、俗世間を出家した僧侶のみが行う宗教的行事ではなく、一般人が自らの仕事に打ち込む、その日常生活そのものにあるとした。 ■7.商人の志■ さらに、その「仏行」は世のため人のためでなく、自分自身に内在する仏性を引き出すための「修業」に他ならない、と。『商人日用』では、こう説いている。 その身をなげうって、一筋に国土のため万民のためと思い入れて、自国のものを他国に移し、他国のものをわが国に持ち来りて・・・山々を越えて、身心を責め、大河小河を渡って心を清め、漫々たる海上に船をうかぶる時は、この身を捨てて念仏し、一生はただ浮世の旅なる事を観じて、一切執着を捨て、欲をはなれ商いせんには、諸天これを守護し、神明利生を施して、得利もすぐれ、福徳充満の人となる。 (その身を捧げて、一筋に国土のため万民のためと決心して、自国の物産を他国に売り、他国の物産をわが国に買い入れて・・・山々を越えて心身を鍛え、大河小河を渡って心を清め、満々たる海上に船を浮かべる時は、この身を思わずして念仏を唱え、一生はただ浮世の旅である事を悟って、一切の執着を捨て、欲を離れて商いをするには、諸天が商いを守護し、神の明らかな徳で助けてくれるので、利益もあがり、徳の豊かな人になる。) 物を右から左に流すだけで利潤を得るなどと、蔑まれていた商人たちの中にも、これを読んで、自らの職業に励むことが、自己を高め、充実した人生への道だと知って、いよいよ事業に励む人も少なくなかったであろう。 士農工商と職業こそ違えど、人はみな心中に仏性を持っているのであり、自らの職業に打ち込むことで、その仏性を開発し、世のため人のために尽くせる、という考え方は、人間はすべて平等である、という近代的な人間観につながっていた。 ■8.「一筋に正直の道」」■ 商人にとって、商売に精進することが「仏行」であるとすれば、そこから得られる利潤をどう考えるのか? 武家上がりの正三は、剛毅果断にも次のように説いた。 売買せん人は、まず得利の増すべき心づかいを修行すべし。その心づかいと言うは他の事にあらず。身命を天道になげうって、一筋に正直の道を学ぶべし。 (売買をしようとする人は、まず利益を増す心づかいを修業すべきである。その心づかいとはほかでもない。身命を天道に捧げて、一筋に正直の道を学ぶべきである。) 商売が「仏行」である以上、まず利益が上がるように心づかいを学ぶべきだと言う。それも人を騙して利益を上げよう、と言うのではなく、「一筋に正直の道」を踏み外さずに利益を増すよう学ぶべきだ、という。 現代でも耐震偽装やらで人を騙して巨利を上げた事件があったが、こうした輩があまりに多くては世の中が立ちゆかない。「一筋に正直の道」こそ、信用や契約など近代産業社会を支える基盤なのである。 ■9.近代資本主義社会の構築を成し遂げた原動力■ 正三の主張は、わが国でもっとも早く商業利潤の倫理的正当性を説いたもので、これが約百年後に開花する石門心学に流れ込んで、「商人の利潤は武士の俸禄と同じく、正当な報酬である」と主張されるようになった。石門心学はその最盛期には、全国34藩に180カ所もの講舎が作られ、大々的にその教えを広めた。 江戸期の商人や職人たちはこうした思想を学んで、自らの仕事が単に収入を得るための手段ではなく、自己を高め世の中に尽くす「道」であると考えることで、生き甲斐をもって日々の仕事に取り組む事ができた。さらにそれが「一筋に正直の道」でなければならないという教えは、約束を守る、信用を重んずる、など近代社会の基盤の確立につながった。 ちなみに正三の同時代の宗教改革指導者ジャン・カルヴァンは、職業を神から与えられたものであるとし、商業利潤を認めて、中小商工業者から多くの支持を得ていた。近代商工業の思想的幕開けは、西欧と日本とでほぼ同時期に起こった。 西欧諸国が2百年を費やした近代資本主義社会の構築を、明治以降の日本がわずか百年足らずで成し遂げた原動力は、正三の思想から生じたのである。 |
歴史
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一同が村に帰って百姓たちを集め、このたびの御改革はこれこれしかじかと伝えるや、どの村でも大へんな喜びで、あの無法な年貢取り立ての役人どもが今後一人もやって来ないだけでもどれほど助かるかわからないのに、恩田木工さまは決してうそは言わぬと誓いをお立てなされ、たびたびの苦役も取りやめにすると仰せられたからには、恩田様を切腹させてはならぬぞと一決した。明年、明後年の年貢まで取り立てられたものも、ここは我慢して帳消しにし、以後は催促されずともきちんと納めることにしようというのである。
次には、今まで役人のした悪事、その他道理に合わぬことを書き付けにして、密封したうえで差し出せとの沙汰である。皆々小躍りして喜び、永年の意趣を晴らすはこの時とばかり、書いたり書いてもらったりして差し出し、恩田様が年貢のことで御心配であろうから、早々に参上して全て承服の旨申しあげようということになった。「誠に闇の夜に月の出でたるここち、胸の曇も晴れて、これより行く末安楽になるべしと、悦びいさまぬ者こそなかりけり」とある。 名主、長百姓などが藩の役所に行って、仰せ出された趣きは百姓一人のこらず承服にて、御政道にお困りなら二年分でも納めたいとの申し出を伝えた。恩田木工は、その申し出が御前に達したらどんなに御喜びであろうと落涙して、それには及ばぬと言った。 このあたりの機微は、真心の通じ合う消息である。いかほど声を大きくして国民のため、人民のため、苦しむ者のため、と言っても、今の世の政治家のように実は人気取りの票集めであっては、みんなが肌で知っているのだ。 そのとき恩田は、次のように述べた。――さて、家業油断なく精をだすべし。これをおろそかにする者は天下の大罪だ。精を出して余力があったら、どんな楽しみをしてもよい。浄瑠璃、三味線もよいし、賭博でもかまわぬ。賭博は日本中どこでも御法度だから、これを商売にするものがいたら処罰せねばならぬが、ただの慰みにするぶんには人にかくれてやらずとも堂々とやってよい。 もう一つ言いたいことがある。よく聞いてくれよ。神や仏の信仰がない者には、とかく災難が多い。もし安楽を願うなら、神仏を心から信仰して現当二世(現在と未来)の安楽を祈るがよい。拙者がこう言っておったと、みんなに伝えてくれよ。 藩主・真田幸弘は、報告を受けて大いに喜び、恩田に向かって財政立て直しの見込みが立ったのは汝の大功、「金石に銘すべき忠勤なり」と言った。 次には百姓たちの書き付け(護符)を、どう処理したものか。恩田はこれは拙者の見るべきものでない、殿さまが密々に御覧になるものだと申し渡した。後になって、あの不正事件はどう裁いてくれるなどという葛藤の発生を未然に防いだのである。 幸弘はこれを見て驚いた。これほどの収賄や結託や強要や暴圧があるのかと、恩田にも見せて対策を問うた。このときの恩田の答えは非常に面白い。面白いばかりでなく、後代にわたって大光明を放つ金言である。 ――かような悪事を働くには、よほどの器量がなくてはなりませぬ。この器量を善い方に使えば、ひとかどの御用に立つ者であります。なかには死罪にもすべき不届き者もおりますが、思うにこれは使いよう次第で善にも悪にも強くなるものゆえ、わが君はこれらの者どもを召しだされて、随分とお顔をやわらげ、このたび木工に政道の儀を申しつけたが、一人では行き届くまいから、その方どもは以後木工と肌を合せて木工を助ける相役を勤めよと仰せつけて下さい、と。 それはゆくゆく汝の害毒になるやも知れぬぞと幸弘は言ったが、恩田は是非にとお願いして実行してもらった。すると、これらの不届き者はこっそり集まって、本日殿さまからじきじきに恩田殿の相役を仰せつかったのは恩田殿の取り計らいであろう。護符をご覧になった以上、重き罪はまぬがれぬところ、この頃は夜も眠れなかったのに、それをとりなして下されたは恩田殿にちがいない。かくなる上は、心を入れ替え、恩田殿の羽翼となって忠勤を尽くすよりほか生きる道はござらぬ、と話し合った。 これより、恩田木工の相役たちは、よからぬ頼みごとや相談を持ち込む者があっても、これに加われば身の破滅と思い、一切受け付けなくなったので、恩田が目を光らせなくても、役所では「盗人はなくなりけり」とある。 慰みには博打も構わぬと言って万事をゆるめ、窮屈らしいことは全く申し渡さなかったが、自分と家族や家来たちは身を堅く保ち、隠れて贅沢するようなことは一度もなく、学問と武芸に励み、そのあいだ怠りなく神仏にお詣りした。また、藩主幸弘も文武の二道を専らにし、神仏への信仰に心の喜びを体得した。これがいつしか藩の気風となり、誰が教えるということもなく、幼少の子供まで文武二道に励むようになって、頽廃した人心が次第に改まった。 その頃になって、藩士の子弟のために学問と武芸と娯楽の非常に均衡のとれた時間割ができあがって、非行に走る青少年がいなくなったのである。為政者が自己を抜きにしてどんなに熱心に教育施設や教育体系を整備しても、それは仏作って魂入れずの徒労に終ることを恩田は知り抜いていたのである。 その頃ギャンブルといえば博打で、それにまつわる斬った張ったや一家の離散が絶えないのであった。恩田は時期を見てお触れを出し「藩の許しで慰みのため博打をやり、敗けて難儀に及ぶ者は、お救いくださるに付き遠慮なく申し出よ」と言った。その申し出を吟味して、勝負の相手を確かめ、勝ったものを呼び出して、博打で得た金子は全て敗けた者に返せと命じた。それは平にご容赦をと歎願したら、恩田が言うには、さてはその方どもは博打を商売にしておったか、そうではあるまい、慰みなら許されると知ってやったことであろう、さすれば、さんざん慰んだ筈だから、金子は返却するのが当り前である。それを返却せぬとあらば、天下の法度に基づき厳罰に処するほかないぞ、と。 これよりして、一般庶民は博打に興味がなくなった。勝った金を使ってしまい、返済に困る者が多くいたので、それでは却って損だというのだった。こうして松代藩には、紙一枚でも賭けて勝負する者はいなくなったといわれる。敗けて損した者が進んで役所に助けを求めるので、勝っても儲けることができず、何々組などという暴力団を作る抜け穴がなくなったのである。 『日暮硯』には詳説されていないが、恩田木工の業績として特筆すべきは、山野荒蕪地の開拓や養蚕の奨励を始め、多方面にわたる事業を興し、五年を経ずして藩の財政を立て直し、進んで繁栄の基礎をつくりあげたことである。 彼は家老職恩田木工民清の子、享保二年の生れで、宝暦五年に藩政改革の大任を背負ったときには三十九歳であった。そして見事に大任を果たして退き、宝暦十二年に世を去ったが、このとき四十七歳の若さだった。病気重しと聞いて、領民は各所に集まって平癒を祈り、江戸では目黒の不動尊で水垢離をした。その上下挙げての祈願も空しく世を去ったときには、正月というのに門松などを取り去り、謡ものや鳴りものも誰いうとなく取りやめ、領内がひっそりとしてしまったという。藩士の書いた文書に「むかし物語には聞きしが、かくばかり人の慕いつきしを見たることは、此時はじめなりけり」と書いてある由だ。 次のような逸話も『日暮硯』に記されている。――あるとき公儀(幕府)の命令で公儀の御役を勤めることになった。江戸の藩邸から、この勤めを果たすには二千両を持参されたいと言ってきた。 松代藩では、だれが二千両を持って行くかということで評定があった。このとき、恩田の「相役二人」というから、多分さきの護符で槍玉にあがった不届き者だったと思われるが、この二人が進み出て、われら両人が江戸へ行って勤めを果たすと申し出た。 出発に際し、両人が言うには、よく勘定しまするに、この勤めに二千両はかからぬ。恐らく千三百両でこと足りる筈でござる、と。恩田のいわく、公儀の役目に、出費を吝(おし)んでけちけちしてはならぬ。金は存分に使うがよい。但し、公儀以外のことには節約して、江戸詰めの役人と心をあわせて万事首尾よくお勤めするがよい、と。このとき恩田は腹の中で、にっこりしたことであろう。なにしろ藩の金をうまくかすめ取った経験のある二人だ。いわば銭勘定の名人(エキスパート)に相違ない。だから二千両はかからぬと見込んだのである。両人は江戸へ行って幕府の役目を立派にやりとげ、見込んだ通り千三百両使って残りの七百両を持って信州松代藩に帰任した。恩田は藩主幸弘に進言して、二人を大いに称美し、おのおの百両を褒美として与え、江戸藩邸の協力者たちにも褒美として総額三百両を送った。それでも、なお二百両が残ったわけである。こうして役人たちも昼夜、かげひなたなく精を出して一段と忠勤を励むようになったという。うまくごまかして得をしても、内心びくびくして暮らさねばならない。それよりも正直に努力して大いに面目をほどこす方がどんなに嬉しいことか。 『日暮硯』の末尾の近くに次のような一部があり、神仏への信仰が彼の教養の一つだったことをうかがうことが出来る。 「木工殿は政道に心を用ふるのみならず、信心を第一にして、公(藩主真田幸弘)にも勧め、自身にもなほもって神仏を信仰して、平日帰依僧を招き供養して、先祖の追福厚く祈り、自身にも日課念仏を勤め、後生菩提のみを願ふこと、目前希代の賢仁なり」 ここに「後生菩提」とあることに注意しよう。文字の意味は死後の悟りということで、一般には死んで極楽浄土へ往生するというほどの意味である。この教養は広く一般庶民に浸透していたもので、それが人に見られずとも悪を造らず、人に知られずとも善を作すという日常の道徳とも深く結びついていた。しかし、権力の座にある者は、当面する問題の処理に追われる内に、いつしかこの教養を見失うことが多い。『日暮硯』が恩田を讚歎して「目前希代の賢仁なり」と言ったのは、そのためであったろう。 前世、現世、来世の教養はいわば人間の息を長くするものである。現代のように現世だけの教養が横行すると、先祖の恩も子孫への願いも失われ、ただ現世の世渡りだけに専念することになる。政治家の場合には、父祖の志を継いでこれを後代に伝えようとする心がなくなり、国家百年の大計はおろか、十年後のことすら念頭になく、「国益」などと称して実はその場その場の算盤勘定で政策を進める。極言すれば、「後は野となれ山となれ」である。そのために後代に至って災害が生じても、そのときはもう、俺はこの世におらんのだし、あの世なんてないのだから、そこまで気を配るのは馬鹿げているのだ。現代の日本の政治ほど息の短くなった時代は、いまだかつてないのである。 政治と宗教が分離した。それは、両者が血で血を洗う争いを続けたヨーロッパの生んだものである。わが国では、元来そんなものは不必要だった。 たとえ政治と宗教が分離しておっても、「政治家」と宗教とは分離すべきでない。宗教と政治が分離したので、いつのまにやら政治家と宗教までも分離したのが今の姿である。息が短く、その場限りの、出たとこ勝負の政治家が充満するようになったのはそのためである。 支那の古典に「小官は多く律を思う」という言葉がある意訳すると、木っ葉役人はみんな法律のことだけを思う、ということだ。ところが、今では小官だけでなく、大官もそうだし、議員もそうだ。それが庶民の末にまで波及し、俺の入院した病院の待遇が悪いのは、文化的生活を保証した憲法に違反するというふうで、何でも法に訴えて争うことになった。おかげで、法文解釈に明け暮れる小官、弁護士などがこの世の春の花盛りである。 しかし、それにもかかわらず、人の心の奥底には、神仏を求めてやまぬ本性がある。恩田木工の時代は経済の窮乏、天災地変、世相の頽廃、政府の苛斂(かれん)、賭博の横行、役人の収賄で手のつけようもないほどだった。しかも、この人が名君に抜擢されて改革に身命を打ち込むと、五年にして見事に浄化され再建されたのである。そこには祈りを絶やさぬ政治があり、そこに神仏の加護があった。 恩田木工の墓
恩田木工の生家
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35年くらい前の雑誌からの転載記事です。江戸時代の松代藩の家老恩田木工についてのエッセイですが、この恩田木工という政治家の非常に誠実な人柄には、現代の政治家との違いが大きすぎて、これを読んだ後に現代を振り返ると、おそらく今の日本で政治が何かを成功させることは何も出来ないであろうと思ってしまいます。
岩波文庫の「日暮硯(ひぐらしすずり)」は恩田木工の業績を記録した極めて短い小冊子にすぎないが、彼の政治家的人間像があざやかに描きだされていて、むかしはかかる政治家のありけるよと感歎せずにはいられない。 時は九代将軍徳川家重の頃、信州松代藩は藩主真田信安の政治がルーズで悪臣がはびこり、贈収賄が横行し、そのうえ千曲川の洪水が打ちつづき、地震の被害も大きく、財政は極度に窮乏していた。信安の子幸弘が松代十万石を継いだとき、まだ十三歳の少年だった。しかし、この藩主がずば抜けて英明だったので、十六歳のとき、恩田木工を登用して藩政の改革と財政の立て直しを断行せしめた。このとき木工は藩の重役の末席にあり、まだ三十九歳だったが、この人物を見込んで藩政を一任し縦横に腕をふるわせたのは名君の器量というべきであった。 藩主幸弘は恩田木工登用の腹をかため、江戸表にて親族会議を開いて承服せしめ、然る後早飛脚をもって重臣らを非常招集し、その際恩田木工を必ず同道せよとの命令を発した。 この評定の場で幸弘は、自分も若いし恩田も若いので、汝ら老臣の協力が必要であると言って、一同を納得させた。このとき恩田は、この大任には堪え難いと答えて辞退申し上げたが、幸弘の言うには、「わが藩の窮乏は幕府に知れわたっており、たとえ汝の力及ばずして財政の立て直しができなくても、汝の失態にはならぬ。この際、辞退に及ぶは不忠というものであろうぞ」と。 そこで恩田は一大決心をして、「この役をつとめるには、ここにお集まりの重役や御親類が私の申すことにたいし、そうではないと異議を言われてはなにもできませんゆえ、拙者の申すことに背くまじきことを書付で提出願いたい。そのかわり拙者に不忠の儀があれば重罪に処していただく旨の誓紙をお渡しする」と提案し、藩主の前でこれを実行した。 恩田が信州に帰って、第一にやったことは何であったか。藩政は紊乱(びんらん)し、百姓一揆が頻発し、この時代にはめずらしい下級武士の同盟罷業まで起こっているまっただ中で、彼は先ず何から手をつけようとするのか。 親類及び家の子郎党を一人残らず集めて、ことの次第を述べ「このような大任なれば、一同是非なきことと覚悟されたい。すなわち、先ず拙者の女房には暇をつかわすゆえ、直ちに実家に帰るがよい。次に子供は勘当するゆえ、いずれへなりとも立ちのくがよい。なお、親類は以後義絶するゆえ、さよう心得てもらいたい。最後に家来どもには残らず暇をくれるゆえ、どこへ奉公しても勝手である」と申しわたした。 親類衆は合点せず、「御内儀、子供衆、家来などに、いかなる不届きがあって暇つかわされ候や」と詰め寄った。 「いや、不届きは全くない、けれども、これから拙者のなさんとすることに邪魔になるから離別するのでござる」 「木工どのには狂気なされたか。たとえ破滅寸前の当藩とはいえ、大任を仰せつかっただけで何の不始末もないのに親類を義絶し、女房を離別し、子供を勘当し、家来に暇を出し、以後はただ一人で暮らす所存とは、いよいよ以て狂気の沙汰でござる」 「いや、狂気してはおりません。ただ役職にたいして邪魔になるだけのこと。一人になったあとは、誰か召使いをやとって暮らすことに致しましょう」 このとき、恩田夫人が口を開いて、次のように言った。彼女は松代藩の家老、望月治部左衛門の娘である。 「主人の役職に邪魔ということなら、離別はやむを得ません。ただ、どのようなことで邪魔になるかをお話くださいませ。それを得心させていただいたら、私は覚悟いたします。さもないと、親許へ帰ったとき、何と申してよいかわかりません。子供にも、わけを話して、そのうえで勘当してくださいませ」 彼女は、こう言って涙を流した。 「わけを話したとて一同得心はすまいと思ったので、何も言わぬが決心だったが、そのように言うなら、打ち明けましょう。拙者は以後、どのような事情が生じても、虚言(うそ)は決して言わぬことにしました。それを先ず藩の内外に宣言せねばなりません。ところが、私に最も近い女房、子供、親類、家来が虚言を一つでも言ったら、あれを見よ、木工の申せしことも、今までの通り信頼できぬと言われるにきまっております。そんなことでは、改革など思いも及ばぬことゆえ、つらいけれども義絶の決心をしました」 「もうすこしわかるようにといわれるなら、たとえばわが家では毎日飯と汁だけ食べるつもり、また着物は今まであるものが使えなくなったら全て木綿にするつもり、そうなれば、みなみな少しは虚言を言って、こっそり何か食べたかろうし、なにか木綿以外のものも着たいだろう。虚言を言わぬことは、なかなかむつかしく、常人にはとてもできぬことでござる」 このとき夫人が言われるには、「そんなら、以後虚言は決して言わず、飯と汁以外は食べず、木綿以外は着ないことにすれば、離別しないでも御政治向きの邪魔にならないでしょうか」 「それが出来たら、邪魔にはならぬ」 「そんなら、私どもはそれを必ず実行します」 「いやいや、考えてみるがよい、家来どもに暇を出したら、自分で水を汲み習い、自分で飯を炊かねばならなくなるぞ」 「はい、私は今日からそれをいたします」 「そうまで言うてくれるなら、女房を去る理由はない。しかし、子供はそうはいくまいから、立ち去るがよい。路銀は相応にやるから、当分は困らぬ」 「御父上様、私も虚言は言わず、決してかげでうまいものを食べたりしません。どうぞ勘当は御許しください」 さて、家来たちの申すよう、「私共も決して虚言を言わないことに致します。飯と汁とだけではいやだと言って暇をいただいたとあっては、どこへ行っても使ってくれるところはありません。どうぞ御慈悲を以て、今まで通りお抱(かか)えくださいませ」 「それ程に申してくれるなら、今まで通り働いてもらい、給金も従来の通りにする」 「いいえ、給金はいただかなくても、食べるものさえいただけば結構でございます。着物は持っておりますし、着れなくなったら旦那さまの古着なりとも拝領いたしますから。御困窮のことは私どもも知っておりますから、御給金はいただきません」 「それには及ばぬぞ。拙者の知行は千石だ。飯と汁だけにすれば不如意はなく、残りは御上に差しあげるだけだ。その方どもも、妻子を養わねばなるまい。給金は受け取ってもらわねばならぬ」 ここにおいて、家来たちは涙を流して喜び、「重々有り難き仕合せに存じ奉り候」と起請申し上げた。 かくて親類の人々も「木工どのがそれほどのご決意なら、わが家でもその通りにいたす」と言った。これに対して木工が言うには、「それはありがたい。それなら義絶せずとも相すむ。しかし、御家内まで飯と汁だけにせずとも、ただ虚言さえおやめになったら拙者の邪魔にはなりません」そこで一同は「それはまことに忝(かたじけ)なく存じ奉る」と言って、すべての合意が成り立ったのである。 この一段の終わりに「右の通り、江戸より帰国すると直ちに自分の親類を最初に堅められしは、前代未聞の賢人なり」とある。 政治的大改革を断行せんとするに当たって、先ず自己及び近親の生活の姿勢を堅めたのだ。これは東西古今を通じて変わることのない第一義である。 その堅め方がきびしくて容易に実行できることではないので、上に述べたような話し合いが必要だったのである。 自分に最もきびしく、ついで妻子、親族、家来の順にきびしく、しかもその中に愛情がにじみでているのがわかる。 今の政治家のように、国民にさきがけて、お手盛りで歳費を値上げし、通信料金が高くなるとおのれたちだけ勝手に大幅に手当を増額したのでは、政治にならない。それは政治ではなく商売だ。しかし、商売なら商売の厳しさがあって、そんな一人よがりのやり方では繁盛はしないものである。すると、昨今の政治家の姿勢たるや、商売よりも遥かに低級だということになる。 えらくなるにつれて、一家一門を今をさかりと繁栄させる。それはなかば公然と、なかばこっそりと裏に回って工作される。こうしたことは政治屋たちを脛(すね)に傷のある人間にする。すでに脛に傷のある人間だ。どうして国民に向かって厳しいことが言えよう。だからこそ、国民の低次元の要求にこびへつらって、人気をかせぐだけの存在にならざるを得ないのだ。実体がそうでありながら、口先で改革を叫ぶのだから、喜劇とやいわん、戯画とやいわん、全く以て鼻持ちならぬとはこのことである。 その内に国民の方もそれに馴れて、政治とはそうしたものだと思い、いっそ政治屋どもを使って低級な利己的欲望に奉仕させてやろうとするようになる。こうなると、やがて行き詰まって精神は荒廃し、不平不満は渦を巻き、正直な者は困窮し、自暴自棄になった者どもが暴走するようになる。 虚言を言わないということを以て、第一としたのは、改革者として素晴らしいことであった。できもせぬことを公約して、政治屋どもは大衆を騙してきたのである。あの頃の真田藩では年貢を取り立てても焼け石に水だったので、一年先の年貢を取り立て、それでも足りないので二年先の年貢まで取り立てた。そうして、そのたびに、必ず返却すると誓った。それはすべて、できないことだったので、最初から騙しておったのである。二年も三年も年貢を前納した者は、泣き寝入りするか、後ろへ廻ってこっそりリベートを要求するかのどちらかである。これを断ち切るには、虚言を言わないことを身を以て実行するほかはない。 改革のエネルギーは、嘘つきからは出てこない。恩田木工は、それを知り抜いていたのだ。「前代未聞の賢人なり」とあるが、この賢人は、実に当たり前のことを当り前に実行して、先ず足元から堅め、いざ政治の大改革という着手のときには、身辺に後ろ指をさされるようなことが一点もないように堅めておいたのであった。 こうしておいて、それから老職、役人を招集して、次第に改革の準備にとりかかる。なにしろ脛に傷のある者どもだから、改革がどう断行されるか、そのとき我が保身の術はどうすればよいかと緊張の極にある。その中に恩田木工は乗り込んで行く。 つづく
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二ヶ月に一度二ヶ月分の二冊の冊子を、知らない人がいつも持ってきます。その冊子をパラパラめくっていたら、次の記事が目につきました。今も昔も災害時の日本人は冷静で親切だったのですね。
この地震で日本人がわかった。日本人の本当の親切ということがわかった=田山花袋 出久根達郎
明治29年6月15日午後7時30分頃、三陸沖でマグニチュード8,5の海底地震があり、その四十数分後に、青森、岩手、宮城の太平洋岸に津波が押し寄せました。死者、行方不明者、約二万二千人。当時の新聞には、「三陸海嘯(かいしょう)」とあります。海嘯とは、津波のことです。
出版社「博文館」の社長の娘婿・大橋乙羽は、被災地の惨状に心を痛め(みずから現地を視察した)、義援金を集めて贈ることを決意しました。
知るかぎりの文筆家や画家に声をかけ、原稿や絵の寄贈を願いました。原稿の枚数や内容を問わない。この度の災害に関係のない文章でも構わない。ただし、締切まで五日間しかありません。依頼したのが、6月27日と28日で、締切が7月3日。5日の夜に、作家の徳田秋声と編集作業をしましたが、この時点で70余編の作品が集まりました。最終的には九枚の絵と、八十五編文章をまとめ、7月25日付で、『文芸倶楽部』臨時増刊号を発行しました。
タイトルは、「海嘯義捐小説」といいます。月刊誌『文芸倶楽部』の定価は十五銭ですが、この号に限って定価は二十銭、全額を義援金として贈りました。
寄稿に応じたのは、森鴎外や尾崎紅葉、幸田露伴、島崎藤村など、当時の大家、花形、流行作家、そして新人作家など多彩です。
樋口一葉も、「ほととぎす」というエッセイを寄せています。一葉はこの年の11月に、24歳で病没しています。亡くなる4ヶ月前の貧窮にあって、しかも重い病床から、三陸の人たちにエールと志を届けているのです。
そして一葉が密かに恋心を抱いた師の、半井桃水(なからいとうすい)も短編を寄せています。夏目漱石は熊本の五高教授で、作家デビューしていません。
後に短編「蒲団」で注目される田山花袋は、この頃は紀行文で一部に認められている若者にすぎませんでした。
「一夜のうれひ」というエッセイを書いています。眠れぬままに死を考えるというもので、明らかに三陸海嘯に触発されての内容です。
花袋は、のちに『東京震災記』という、大正12年9月1日の関東大震災のルポルタージュを出版しています。
地震当日から4ヶ月間ほどの、東京や東京近郊の様子を記録しています。歩いて、見たままを描いています。
震災3日目、四谷駅近くに停車している電車の横腹に、「朝日新聞特報」と大書され、食糧は飛行機の活動によって、大阪より送られつつある、市民諸君よ心配するな、というような意味の文章が記されてありました。すれ違う人が、「大きな揺り返しがくる」とか、「囚人が放された」とか、勝手なことをどなっていきます。不確実な情報の怖さを、花袋は記しています。
箱根や小田原方面から、続々と避難者が東海道線のレール上を歩いて東京にやって来ます。避暑に出かけていた人たちです。外国人も、まじっています。一人の外国人が着ているシャツを指さしながら、「こんなに日本人が親切とは思わなかった」と感嘆しています。裸で歩いていると、道ばたにいた見ず知らずの人が、気の毒がってシャツをくれたというのです。「日本人、えらいですな!こういう災厄に逢っても、びくともしない。決して慌てない。それに親切だ!これは私達の国ではとても見られないことです」と続けてこうした言葉を語りました。
『東京震災記』は大正13年4月に刊行されました。出版社は、かの博文館でした。
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サイタニのブログからの転載です。幕末が非常な国難であったことは、日本人は自国の歴史としてもっと認識しなくてはいけないでしょう。単に学校で習った知識で、ペリーの軍艦を見てびっくりした日本が右往左往して、末期症状をあらわしていた幕府を不平をもった下級武士が倒したというように思っている人もあるようです。
しかし当時世界の情報はけっこう正確に日本に入ってきており、支那がアヘン戦争でイギリスにやられた話や、植民地にされたアジアの国々の情報などがもたらされていて、武士たちは危機感を抱いていたのです。孝明天皇はこの国難を非常に憂慮されて、石清水八幡宮に行幸して祈願されましたが、その際元冦以来、二度目の金銀の御幣を奉納されました。それほど、危機感は切迫したものだったのです。(ちなみに三度目の金銀の御幣奉納は今回の震災後に、今上陛下が奉納されました)
そんな国難に、NHKが放送した坂本龍馬像のような民主的な開明主義の龍馬,そのような維新の志士たちで、本当に乗りきれたでしょうか。もしかすれば、自分の国が植民地にされかねないという時に、狡猾な西洋列強が日本を狙っていると考える時に、西洋的な自由平等を掲げた民主主義、その思想が個人を大切にする素晴らしい思想だというだけで、国家を救うことができるでしょうか。
吉田松陰も多くの志士も、もちろん龍馬も、自分が捨石として死んだとしてもこの国を守りたいという強い愛国心が志士たちの心を結集させたからこそ、維新はほとんど内乱に陥ることなく達成できたのです。この志士たちの心を結集させ、更に幕府側さえも、大政奉還に応じる気持ちにさせたものこそ、尊王愛国の思想です。
転載開始 平成の国難を乗り超えるもの
日本の偉人、先人の生き方に学ぶ 日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦 尊皇愛国人ー坂本龍馬
私はよく維新の志士の一人、坂本龍馬をとりあげます。龍馬は昨年のテレビでも
大変な人気でしたが、NHKの創る坂本龍馬像は、当世風坂本龍馬、民主主義
者龍馬、開明主義者龍馬になっています。これは大間違いです。
坂本龍馬の本当の姿はそんな所にはありません。
龍馬の本当の精神は尊皇愛国です。龍馬の真面目をあらわす言葉は、
次の手紙の中にあります。
この数ならぬ我々なりと、何とぞして今上(きんじょう)様(孝明天皇)の御心を 安めたてまつらんとの事、御案内の通り朝廷というものは国(土佐藩)よりも
父母よりも大事にせんならんというはきまりものなり
すごい言葉です。何よりも大切なお父さん、お母さん、そして当時侍にとって
全ての全てであったお国、藩ですが、それらと比較を絶して大切なご存在が、
天皇・ご皇室であるというのです。
この天皇、ご皇室を戴いて、龍馬は祖国日本を守り抜くために、いのちを
捧げたのです。
その坂本龍馬が一番尊敬した人物は楠木正成です。維新の志士達は例外なく
楠木正成を尊敬しました。また龍馬は、和歌をこよなく愛し自ら詠んでいます。
「新葉和歌集」が座右の書だったのです。
この「新葉和歌集」は、後醍醐天皇をはじめ吉野朝方の天皇と、吉野朝に尽くした
臣下達の赤誠の和歌集です。この新葉和歌集の代表的名歌が、編者でもある
後醍醐(ごだいご)天皇の皇子宗良(みこむねなが)親王の歌です。
君のため世のため何か惜しからむすててかひあるいのちなりせば 天皇陛下のため、この日本の国のため、自分のいのちを捧げることこそ自分の
本望、本懐であるということを歌ったのです。
これが坂本龍馬の心であり、同時に維新の志士達の心であったのです。
本当の日本人の心です。
天皇・ご皇室を上に戴き仰ぐ天皇国日本を守り抜く。この精神のある限り 平成の危機も必ずや乗り超える事が出来ると確信いたします。
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