日本の感性をよみがえらせよう

PC不調と、私事雑用多忙のため停止させて頂きます。

歴史

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

市中の山居  千利休

 私の家に、二ヶ月に一度、ある団体が毎月発行する機関冊子を二ヶ月分づつ持ってくる人がいる。さっさと受け取って、直ぐ帰ってもらう。悪いことは書いてないのだが、読む気は起きずに、ただパラパラと見ていると、どちらかというと保守系のようで、渡部昇一氏の文章が載っていたりする。さらに歴史人物の逸話がかならず二種類くらい書いてあって、特に竜門冬二氏のかかれたものがなかなか面白くて、毎回そこだけは、読むことにしている。そして面白いものは頁をちぎって保存した。
だいぶ時間が立っているので、転載しても構わないのではと思い、一つ紹介したいと思う。


市中の山居 ―― 千利休
童門冬二

 天下人になった織田信長が、堺の町に関心を持ったことがある。この町は大名がいなくて、三十六人の商人が合議制で市政を運営していたからだ。ある日信長は堺の町に出かけていった。三十六人衆のひとり千利休という商人が応対をした。しかし信長はこの千利休が、「すぐれた茶人」だということをきいていた。そこで利休に、
「わしに一杯振舞ってはもらえぬか」
 と頼んだ。利休は承知し、敷地内にある粗末な茶室「市中の山居」に案内した。
「わたくしは亭主(もてなす人)をつとめますので先に部屋にはいります。天下人様(信長)は、そこからお入りください」
 といって茶室の壁にある入口を示した。信長は眉を寄せた。
「こんなに狭くては立ったまま入れぬが」
「では、腰をお折りくださいませ」
「刀を差したまま入れぬが」
「では、お供にお渡しください」
 にべもない。武士だったら怒るところだが、探究心の旺盛な信長は、(わしに、ここまで大口を叩くこいつの根性はなんなのだ?)と逆にその態度に興味を抱いた。刀を渡し、身を屈めて入ると、利休はすでに湯を沸かして待っていた。
「お潜(くぐ)りになりましたな」
「ああ、頭をぶつけた」
「それはお気の毒」
 利休はこんなことをいった。
「これは“にじり口”と申しまして、ここをお抜けになったことで、あなたは天下人ではなくなりました」
「どういう意味だ?」
「にじり口を通り抜けることによって茶に志を持つ者はだれでも平等な人間になります。今のあなた様はただの織田信長様でございます」
「……」
 信長は沈黙し、鋭い眼で利休を凝視した。心の中で葛藤が起った。信長はバカではない。利休の言葉の意味がよくわかった。同時に、(これが茶道の真髄なのだ)と感じた。その真髄を極めた利休は相手が天下人でもビクともしない。信長は感動した。(そうか、茶道は人間をこのように変えるのだ)
 信長には悩みがあった。それは、日本人の価値観が土地至上主義であったからである。そのため部下の給与も全部土地で支給されていた。しかし国土には限界がある。天下統一の暁に、果たしてすべての部下に配分できるだけの土地がこの国にあるだろうか。また、「土地を最大の価値観とすると、しがみつきの根性が湧いて、人間は前に進めなくなる」と、発展を妨げる要因としてもとらえていた。だから、土地に変わる新しい価値観を模索していたのである。
 信長は、「土地の代わりはこれだ」と思い至った。新しい価値観とは、すなわち“文化”である。国民のくらしの中に、文化という付加価値を加えようと思い立った。
 安土城に戻ると、まず重役陣の給与を土地から茶碗などの茶器に変えた。やがて、部下たちも「土地より、茶器をもらったほうが自分のステータスが上がる」と価値観を変えていった。
 これが広く浸透すると、埋もれていた芸術家や職人がいっせいに職を得た。“雇用の創出”である。住宅・食物・衣服などがどんどん変容し、日本人の多くが文化を生活の中に取り入れた。これが“安土文化”で、多くの人が仕事を得、同時に消費力も高まった時代だ。安土文化は日本の歴史の中でも数少ない“経済の高度成長”をもたらした。
 



 
イメージ 1
                           (飛砂に埋もれた家)
 
栗田定之丞
 
日本海方面の海岸では、秋の末から春先にかけて、海から烈(はげ)しい風がよく吹きます。
そのために、砂の多い海岸では、広い広い砂山が出来ている所もあります。
今の秋田県の海べの村々では、その風がことに烈しく、吹寄せた砂のために、
昔は家も田畑もうずめられ、くらしの立たなくなる家も、たくさんありました。
 
ある年、栗田定之丞という人が、その地方の砂留役となりました。
定之丞は、先ず村々を見て廻りましたが、海べは、見とおしもきかない程の広い砂山でした。
「これだけの砂をどうして防ぐことが出来よう」とただ驚きあきれるばかりでした。
けれども又、これから後、この砂山が田畑をうずめ、百年も二百年も、
村々が苦しめられどおしに苦しめられることを思うと、じっとしてはいられない気がしました。
「よし、戦場に出たつもりで根(こん)限り風や砂と戦ってみよう。」とかたく決心をしたのでした。
 
そこで、これまで砂留に骨折った年よりを呼んで、いろいろ話をきき、
ここに先ずぐみややなぎなどを植え、いくらか砂がしまったところで、
松の苗木を植えることにしました。
そうして又季節を考え、植え方にくふうをして、寒中、それもなるべく風の吹く日をえらんで、
人々を呼集めて仕事をさせました。
風の吹く日には、砂の吹寄せられる方向がよくわかりますから、
風上の方に、かやのたばなどで風よけをして砂を防ぎ、
そのかげに、最初はぐみややなぎの枝をささせましたら、皆芽をふくようになりました。
そこで、さらに松の苗木を植えさせました。定之丞は、此の方法で仕事を進めて行きました。
 
ところが、人々は、風の吹く寒い日に働くのがつらいのと、
うまく松林になるかどうかということが心配なのとで、なかなか定之丞のいうことをききません。
定之丞は、子供をさとすようにやさしく道理を言いきかせ、その上自分から先に立って働きました。
朝は、夜の明けないうちから仕事場につめかけ、
夜は、人々を帰らせた後まで居残って明日の仕事のくふうをしました。
時には、冷たい砂の上にふして、風の当りぐあいをたしかめたこともあります。
やがて村の人々も定之丞の熱心に動かされて、仕事がはかどり、
たくさんの苗木を植込むことが出来ました。
それが次第に大きくなって、ついに立派な松林になりました。
 
定之丞は二十余年の間、引続き方々で、砂留の事に骨を折りました。
そのために、風や砂の心配がなくなって、麦・粟などの畑もところどころに開け、
又しょうろや、はつたけも生えるようになりました。
この地方の人々はその恩をありがたく思い、定之丞のために栗田神社という社を建てて、
今日まで年々のお祭をいたします。
 
社は今の秋田市の町はずれにあります。
そこから見渡す海べには、定之丞が三百万本を植込んだという松原が続いて、
青々とした美しい色をたたえています。
(第四期(昭和九年)・巻四より)
・・・・・・・・・・・ 
 
イメージ 3
 
江戸時代の秋田藩は米や木材や金銀などに恵まれて農民の生活を潤していた。
しかし日本海側は季節風が砂を運んで、田畑を埋めてしまう被害が耐えなかった。
佐竹家の家中であった栗田定之丞は、
「植林砂防を思いついたが、どのようにして森林をつくるか」と、砂留役という職名にしてもらった。
その半生を砂防植林に注いだが、定之丞のすることに藩も農民も冷淡だった。
「砂を留めて林にすれば薪にもなるし、堆肥にも役立つ。
なによりも命の種の田畑が砂にうずめられなくてすむ」
そこで定之丞はひとり私費を投じて、砂に強いグミやヤナギを自分で植えた。
一冬が過ぎ現場に戻ってくると、植えた物はすべて砂に埋没しているか枯死していた。
砂は、飛び、走り、何もかも呑み込んでいく。
飛砂の現象を把握するために、寒中にムシロをかぶって砂丘で寝ることもあった。
海岸を巡視していた定之丞は、砂の中にわずかな緑の葉がを見つける。
それは彼が植えた一株のグミであった。その周囲には波に打ち上げられた枯木一本に、
古ゾウリが1つ引っかかっていた。古ゾウリが飛砂を防ぎ根付くことが出来たと知る。
それからグミやネムの木を植え、次の段階で黒松の植林に成功を収め「衝立工の技術」が体系化された。
農民たちは定之丞の物狂いを当初いやがり、「火の病(やまい)つきて死ねよ」と罵ったという。
定之丞は「耳にも懸(か)」けなかったという。
純粋な狂気というべきものが、麗しき「風の松原」と豊かな田畑を与えた。
村人たちもその熱意にうたれ全村をあげて協力して、
植栽されたクロマツは300万株に及び成功をみるに至った。
日本海に沿って14キロメートルも続く「風の松原」の基である。
それは定之丞の没後の天保3年に完成した。
(司馬遼太郎著「街道をゆく29」)
 
イメージ 2
                            (風の松原)
 
 
イメージ 4
                                (栗田定之丞)
・・・・・・ 
 
 
 
                さくらの花びらへの応援お願いします。
                  歴史ブログランキングのクリックをお願い致します。
                          ↓ ↓ ↓ ↓ 
                https://blog.with2.net/in.php?1248574
 

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

野村望東尼(のむら ぼうとうに)
 
 
元治元年十一月、福岡平尾の山荘を訪れた二人の武士があった。
一人は筑前藩の勤皇家として知られた月形洗蔵(つきがたせんぞう)。
いま一人は、このあたりに見かけない武士であるが、
その丈の高さと男らしい振る舞いとが、ひどく人目を引く。
庭で落ち葉をかき集めていた老尼が、目ざとくこれを見つけて、
「月形様、ようこそおいでくださいました」
といいながら、柴折戸(しおりど)まで出迎えた。洗蔵は、
「今日は、めずらしいお客を案内いたしました。長州の高杉氏です」
と紹介した。そこで、高杉はていねいにあいさつをした。
老尼は、先に立って二人を座敷に案内する。座についた洗蔵は、
「お願いがあって、まかり出ました。と申すのは、この高杉晋作殿が、藩中佐幕派の圧迫を受け、
当地へ身を寄せられました。ついては、とかく城下は人目にふれやすいので、
ぜひともこちらのお力にすがりたいと考えて参ったのであります」
と、老尼に頼んだ。
 
山荘の主(あるじ)野村望東尼(ぼうとうに)は、若い時から、夫新三郎の感化を受けて、
勤皇の志に厚く、夫の死後髪をおろして尼(あま)となってからは、
特に志士たちに力添えをするため、必死になって働いたのである。
望東尼を慈母(じぼ)のように慕う者は多く、山荘はいつも諸国の志士たちの集り場所に選ばれた。
晋作が、ここに案内されたのも、実はそのためであった。
 
ふと目を移すと庭先の木立の中に、小さな祠(ほこら)がある。
建武の忠臣、楠木正成を祀っているという望東尼の説明を聞かされて、
晋作は奥ゆかしいものを感ぜずにはおられなかった。
ここに手厚く、もてなされている間、朝夕顔を合わせ、言葉をかわすにつけても、
男も及ばない女丈夫の魂にふれては、いよいよ心服するばかりであった。
望東尼は、晋作から時勢について教えを受け、深く事態を知り、いっそう勤皇の志をかためたのである。
 
小倉まで来ていた薩摩の西郷隆盛を晋作にあわせるようにしたのも望東尼であった。
この時、晋作におくった歌に、
 
くれないの大和錦もいろいろの糸まじえてぞあやはおりける
 
もののふの大和心をより合わせただひとすじの大綱にせよ
 
とある。
山荘での会見で、二英雄の意気があって、
勤皇倒幕の実をあげる薩長連合の力強い大綱が用意されたのである。
 
ある日のこと、一通の手紙を受け取った晋作は、望東尼の前に座して、
急いで帰国する旨を告げた。望東尼は、
「今こそ、あなたのお働きになる時です。こんなこともあろうと存じて、着物をととのえておきました」
と、あらかじめ仕立てておいた着物に、羽織、じゅばんまで取りそろえて、差し出した。
晋作が感動したのは言うまでもない。
 
明治の大御代(おおみよ)の開ける少し前、こうしたやさしい女の力が、
どれだけ新しい日本をつくりあげるのに役立ったか、計り知れないものがある。
男まさりの望東尼は、決して女らしさを忘れる人ではなかった。
玄界灘の一孤島姫島(ことうひめしま)に捕らわれの身となった時も、
女の身だしなみは、身を清く保ち、かたちをくずさないものだといって、
着物などもさっぱりしたものをつけ、きちんと座って、筆をとったり、紙細工に工夫を凝らしたりした。
 
志士の母ともいわれる野村望東尼は、勤皇のために倒れた人たちを弔うの念から、
自分の小指を切って、その血で経文をうつしたこともある。
また、慶応三年九月、倒幕のため薩長連合軍が進発するのを見送った後、
「最後の御奉公をしなければ」と、かたく心に誓い、
宮市の天満宮にこもって、勝利の祈願をこめ、十七日間の断食をしたこともある。
女の身ながら、勤皇の精神にもえた望東尼の一生は、なんという輝かしいことであろう。
平尾山荘は、今もなお人々の心を励ましているのである。
(第五期(昭和十六年)・初等科修身四より)
 
 
 
 
イメージ 1
                     (野村望東尼の住んでいた平尾山荘)
 
 
 
イメージ 2
                          (野村望東尼 胸像)
 
 
 
・・・・・・
 
                   さくらの花びらへの応援お願いします。
                  歴史ブログランキングのクリックをお願い致します。
                          ↓ ↓ ↓ ↓ 
             https://blog.with2.net/in.php?1248574
 
 
 
 

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

明治時代から学ぶ

イメージ 2
 
 
明治時代から学ぶ
 
明治375月、日露戦争の戦地でのこと。
歩兵第三連隊の第八中隊でロシアの捕虜の見学者を募ったところ、
あまり兵卒が希望しませんでした。
不思議に思った中隊長自ら問い質してみると、
金子亀作という一等卒がこう答えました。
「自分は在郷のときは職人であります。軍服を着てからは日本の武士であります。
どこのどういう人かは知りませぬが、武士であるものが敵ながら運拙く捕虜となって
彼方此方と引廻され、見世物にされること、さだめて残念至極でありましょうと察せられ、
気の毒でたまりませんから自分は見学に行って捕虜を辱めたくはありません」
この金子一等卒の心ばえに感動した中隊長は
「全く同感である。武士は相身互い、ゆえに捕虜見学に行かないことに決定する」
と申し伝えました。
見学を希望した兵卒達も、金子の言葉を聞いてハッと我に返って、
言われて見ればそうだったとたちまち同意しました。
これは、皆がそうしたものを心の底に持っていたからこそでした。
 
 
また、
当時日本軍はロシア軍の後方かく乱のため、ロシア国境近くの鉄道を爆破せんとして
捕らえられた横川省三、沖禎介の二人は自ら銃殺刑を望み、
所持金の全てをロシアの赤十字に寄付すると申し出て、
並みいる武官を感動させました。
二人のこの堂々とした態度は当時のフランス、スイス、支那の新聞にも載り、
世界の人々に感銘を与えました。
処刑の執行官であったシモーノフ大尉は、昭和912月、横川の遺族を盛岡に訪ね、
遺児に対面して号泣したといいます。
 
 
そして、明治天皇。
日露戦争の開戦から終戦までの約2年間、明治天皇はほとんど宮中からお出になられず、
戦地の状況をたとえ深夜であろうが報告するように指示されました。
そして戦地の兵士を思いやる歌を多く詠まれました。
開戦と同時に明治天皇は戦地の兵士たちを思い、ストーブを取り外されて、
いかに冷え込む時でも手あぶりしかお使いになられませんでした。
 
しぐれして 寒き朝かな 軍人すすむ 山路は 雪やふるらむ
 
夏にはどんなに暑くても軍服をお脱ぎにならず、団扇も一切お使いにならずに
御学問所で休憩もなく政務を執り続けられました。
 
暑しとも いはれざりけり 戦の場に あけくれたつ 人思へば
 
日露戦争の戦死者は八万八千余柱にのぼりましたが、
明治天皇は戦死者の写真と名簿のすべてに目を通されたといいます。
日露戦争を勝利に導いた東郷元帥も、乃木大将も、黒木大将も、大山大将も
みな「陛下の御威徳によって勝つことが出来た」と述べています。
 
 
イメージ 1
・・・・・・・・・・・・・
 
 
                                          さくらの花びらへの応援お願いします。
                  歴史ブログランキングのクリックをお願い致します。
                          ↓ ↓ ↓ ↓ 
                                   https://blog.with2.net/in.php?1248574
 
 
 

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

平清盛と白拍子たち

 NHKの大河ドラマが平清盛という話を聞き、昔やはり大河ドラマで『新平家物語』というのをやっていたのを思い出した。その時も、平清盛を美化して主人公にしていて、なんかおかしな気がしたのを覚えている。まあ見ようによってはいろんな解釈もあるから、そういうものかなと思っていたが、今回は、またも平清盛を主人公にして、更に、天皇をまるで韓国が呼ぶように、この国の王だとかいう言い方をしているらしく、しかも清盛という主人公に対する悪役として描いているらしい。NHKは、日本人の歴史観を書き換えようとしているのかとも思う。

 ところで、かつて『新平家物語』をやっていた頃に書かれたエッセイがあるので、ご紹介したい。平清盛の人間性を、『平家物語』がどのように書いているかが判る。

嵯峨の山里
――祇王祇女と仏御前――

田中忠雄


  月更け 風をさまって後

 心のおくを 尋ぬれば

 仏も昔は凡夫なり

 われらも おもへば仏なり

 いづれも仏性 具せる身を

 隔つるのみこそ おろかなれ

 

この歌は、むかし白拍子と呼ばれた舞姫の祇王が、入道相国清盛のやかたで歌った今様である。

祇王の歌う今様は、秋の夜の鈴虫のように澄んだ声で、並みいる人々のあわれをさそったのであった。

けれども、この歌詞は、身分いやしき白拍子の歌う歌とは思われぬほど凛としている。やはりあの秋の夜のしじまにすだく鈴虫のように、張りがあって凛としているのだ。

夜もふけて月が中天に懸かり、風がおさまって、あたりが静かになったとき、気を落ち着けて、しみじみと心の奥をたずねると、仏ももとは我らと同じく迷える凡夫であった。我ら凡夫も、やがては仏となるべき身である。なべての人はみな仏性をそなえて生れてきたのだ。それだのに、いかなれば、かくも愛と憎しみに隔てられるのであろうか。愚かなるかな、世の人の為すわざよ。

この歌は祇王祇女のあわれな物語をつづった『平家物語』の一節にしるされている。

(中略)

テレビの「新平家物語」では清盛を大へん美化して描いてあるが、もとの『平家物語』には、次のような書き出しになっている。――

 

入道相国(しょうこく)は一天四海を掌(たなごころ)に握って心驕(おご)り、世の謗(そし)りをも憚(はばか)らず、京の都に聞えた美人の白拍子祇王を西八条の宿所に引き入れ、その母とぢと妹の祇女を美邸に棲(す)まわせ、月々莫大な金品を与えた。これを羨む人々は、祇王祇女の富貴にあやかるため、子弟の名前に争って「祇」の字をつけた。(ただし、『平家物語』には義王義女となっているので、義一とか儀徳という名前にしたと記されている)

 

しかし、一方に祇王祇女の今をときめく栄華を嫉む者があり、名前や文字で運命が変ったりするものかとあざわらった。「果報は、ただなに事も、生れがらにてこそあれ」と彼らは言うのであった。「生れがら」とは、「生れながら」ということで、生れながらに人の運命は定まっているので、努力したとて何にもならないという意味である。

世のため人のため、これということもなく、一躍して忽ち栄華を極めるような身分になる者があると、世の常の人は、人間は努力しても無駄だと思うようになること、平家の古も昭和の代も、人心はすこしも変らないのであろうか。

祇王が京の人々の羨望や嫉妬のなかで栄華を極めて三年ほどした頃、「仏」という名のあでやかな白拍子が現われた。この仏御前は加賀の国の出身ということで、京の男どもは、これほどあでやかで美しい遊女(あそびめ)はまたとあるまいと騒いだという。

あるとき、仏御前は車に乗って西八条の清盛の屋敷へ行き、「太政大臣が嬌名(きょうめい)隠れなき妾(わらわ)を招き給はぬこそうらめしけれ」と叫んだ。清盛はこの騒ぎを聞いて烈火の如く怒ったが、祇王はもとのわが身に引きあてて人ごとと思えず、この白拍子をかばって清盛にとりなした。

最愛の寵姫がとりなしたので、清盛も機嫌をなおし、仏御前を召し寄せ、なんぞ今様など、ひとつ歌ってみよやと命じた。このとき仏御前の歌った今様は、まことにめでたく優美で、清盛はすっかり気に入ったのである。

 

 君をはじめて みる時は

 千代も経ぬべし 姫小松

 御前の池なる 亀岡に

 鶴こそ群れて あそぶめれ

 

清盛が感じ入って、次には舞を所望し、「いざ、鼓うちめせ」と侍女たちに言った。仏は十六歳だったが、「みめ、かたち、ならびなく、髪のかがり、舞すがた、こゑよく、ふしも上手なれば」並みいる人の魂を奪うのであった。

清盛は「いらいらしき人」……気の早い人だったので、いきなり仏を抱いて内なる寝所に入ろうとした。

仏御前の申すよう、「祇王御前のとりなしにて召されしものを、そのやうになされて憚り多く候。まこと妾に思召あらば、後日召され候へかし」

清盛はこれを聞き入れたが、「但し祇王に憚るか、其儀ならば祇王を出(いだ)さめ」と言った。そなたが祇王に気兼ねするようなら、祇王を追い出すまでのことよというのだ。仏御前は、それをおしとどめ、妾はお召に応じてときどき参りますゆえ、祇王を追い出し給うな、それでは気がとがめてなりませぬと言う。しかし、清盛は聞き入れなかった。『平家物語』の文章は、この権力者にたいして強く抗議しているのである。

こうして祇王は、「三とせがあひだ住みなれし、障子のうちをいづるにぞ、名残もをしく悲しくて、甲斐なき涙ぞ流れける」……彼女は泣く泣くわが部屋の障子に一首の歌を書き残して去って行った。

 

 萌え出(いず)るも 枯るるもおなじ 野辺の草

 いづれは秋に あはで果つべき

 

萌え出る野辺の草も、いずれは秋に出会って枯れゆくときがあるものぞという、あわれな歌であった。

祇王は西八条から暇が出たというので、いざや彼女を呼びよせ遊ばんとて、文や使いをもって招く者が多かったが、祇王はそれに応じなかった。

かくてその年も暮れて春になる頃、清盛は寵姫の仏御前が「つれづれげ」に見え退屈してふさいでいるらしいので、彼女を慰めるために祇王を招いた。祇王はたとえ命をとられても、これには応じない決心だったけれども、応じなければどんなとがめがあるやも知れないと母親が泣いて諫めるので、妹の白拍子、祇女を伴って心ならずも車を西八条へ走らせた。

行ってみると、二人ははるか下座におかれて、仏御前を慰めるため、今様一つ歌えとの命令であった。無念の涙をおさえつつ、このとき祇王の歌った今様が「月更け、風をさまって後、心のおくを尋ぬれば、仏も昔は凡夫なり。われらもおもへば仏なり。いづれも仏性具せる身を、隔つるのみこそおろかなれ」というのであった。おのおの仏性を持ちながら、好きと嫌いで調和できないこの世を嘆いたのであったが、同時にそれは入道相国にたいする全身の抗議だったのである。

このことあって後、祇王と祇女は母とよくよく話し合い、ついに菩提心を発して三人とも丈なすみどりの黒髪を切って尼になり、ひそかに嵯峨の奥なる山ざとに身をかくした。ときに祇王は二十一、祇女は十九、母は四十五歳であった。

 

 かくて春過ぎ、夏立ちぬ。秋の初風立ちぬれば、星あひの空ながめつつ、あまの渡(と)わたる梶の葉に、おもふことかく此(ころ)なれや。ものおもはざらん人だにも、くれ行く秋の夕べはかなしかるべし。いはんや、ものおもふ人の心のうち、おしはかられて、あはれなり。西の山の端にかかる日をみては、あれこそ西方の浄土にてあん(る)なれば、いつかわれらも彼の所に生れ、ものをおもはですごすらん。これにつけても、昔のことの、わすられで、つきせぬものはなみだなり。

折しも竹のあみ戸を、ほとほととたたくひとがあった。秋の夜も暮れて、のきばにすだく虫のこえごえ、ともしびのかすかなるなかで、親子三人が相寄って仏の御名をとなえているときであった。

竹のあみ戸をおしひらき、訪う人は誰ぞと尋ねる。問われし人が、かついだきぬをとると、これなん、昔の仏御前の髪を切った姿であった。

「祇王さま、あなたの御慈悲で妾は栄華を得ましたが、あなたが追われたまいしことは、明日はわが身のうえかと思い、あなたの書き残された歌、いずれは秋にあわで果つべきの文字を眺め暮らしておりました。年月とともにこの思いはいやまさり、ついに暇を乞いましたが許されず、こうしてやかたをのがれて、ここまで辿り着きました。妾のために世をわびて、草のいおりに住みたまうおんもとさまを慕い、たずねたずねてようように参りました。お許しくださいませ」

仏御前は、こう言って、さめざめと泣くのであった。このとき彼女は十七だったと記されている。

祇王と祇女は、仏御前のけなげな志に感動して、「わたくしどもは、こうして御仏につかえながらも、折りにふれ都のことが思いだされ、空を仰いで嘆くこともありますのに、あなたはまだお若くて、そのいさぎよい決心とは、わたしどもこそ恥ずかしい。仮の世の恩讐は、いまは露ほどもありませぬ。よろしかったら、いつまでもこの草のいおりにとどまって四人一緒に仏の道をならいましょう」と、二人こもごもいたわり励ました。

入道相国は仏御前を失って狼狽し、ただちにその行方を追わせたが、その姿は杳(よう)としてわからなかった。「仏はあまりに、みめよかりつれば、天狗がとりたるにこそ」と言って、彼はついに断念したという。

 

祇王祇女の墓は、いまもこの地に残っていて、今なおここを訪れる者が多い。私も京都に住んでいた頃、新婚の妻と一緒にこのあたりを歩き、松風の音を聞きながら、石に腰かけて、『平家物語』の美しくもまた悲しい物語を語り合った。いやしい遊女ながら、どこか一点きりりとしたところがあって、全身で権勢に抗議した昔の女性が、こよなくなつかしく思われるのである。



.
さざんか
さざんか
女性 / B型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(19)
  • 夕日の丘
  • 敬天愛人
  • 朱雀
  • 地蔵
  • 敬天愛人
  • うまやど
友だち一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事