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学校で教えない歴史 34(二・ニ六事件 真崎甚三郎大将)
 
 
戦後、真崎甚三郎大将のことを軍の障害物として追放した張本人である寺内寿一は南方戦線に病没し、
杉山元も自決して果てた。
東條、板垣以下戦争指導者のことごとくが戦争犯罪人として連合国の獄舎に拘禁されました。
統制派のやってきた結末が日本の敗戦でありました。
皮肉にも以前よりまして皇道派であった真崎大将への訪問客のいずれもが異口同音に
「閣下の予見された通りでした」と付け加えることを忘れなかったといいます。
 
戦前から一貫して真崎大将は「支那に手を出すな」でした。
特に世界赤化の理想への邁進は真に恐るべきものと警告し、国内の左翼の横行と右翼の跳梁を戒め、
日本はソ連への警戒を強めるべきと考えていました。
しかし、統制派はこのことを利用し「真崎はソ連と戦争したがっている」と流したのです。
全く根も葉もないデマであった。しかしこれを信じたのがソ連を怖れる宮中、財閥でありました。
 
山口富永氏は著書でこう書いています。
「昭和史を対象として物を書いてきている多くの著述家、殊に二・ニ六事件を取り扱ってきている人々の多くが戦時中、体制派にあって物を言っていた朝日新聞の軍事記者・高宮太平の流れをくんだ松本清張、その流れの下にあった高橋正衛、以下半藤一利、秦郁彦というような人々とその見解を異にする」
山口氏はこれら物書きの二・ニ六史観は統制派寄りで、
真崎大将を二・ニ六事件の黒幕で青年将校への裏切り者と描いてそれを主流としているという。
しかし山口氏はそれは全く違うと反論したうえで、
「大体、社会主義陣営の人は統制派好みで皇道派嫌いという傾向である」と言い切っています。
 
二・ニ六事件当日、真崎大将と陸相官邸に向かう車に同乗していた金子桂憲兵は、
「車が高橋是清大蔵大臣私邸前を通過する時、兵士によって踏み荒らされた雪中の足跡をみた真崎大将は『これは赤の仕業だ』と言った」、とあります。赤とは統制派を指しています。
この金子憲兵は「真崎大将が青年将校に激励された」と定説になっている、
「お前たちの気持ちはヨオック分かっている」ということについて、
「真崎大将はそんなことを言ったのではない。『何という馬鹿なことをやったのだ』と叱りつけた」
と証言しています。
しかし、この事実を大谷敬二郎隊長に報告しているが全部削除されたというのであります。
ほとんどの物書きによって真崎が事件に関与したとされた。
しかし、真崎は事件後の裁判で無罪であります。
元々事件への関与などないのですから当然の結果でした。
にもかかわらず”真崎を処刑せい”と言っていたのが寺内寿一(当時陸軍大臣)でありました。
真崎の拘束は統制派の支那事変への邪魔をされないがためのものだったのが本当のところではないか。
 
では真崎甚三郎はどのような人物であったのか、
次の文章にこそ真崎甚三郎という人物、教育者・真崎の真髄がうかがえます。
少々長いですが田崎末松著『評伝真崎甚三郎』から引用させていただきます。
・・・
岡田芳政少尉は大正135月、士官学校を御賜で卒業した親任少尉である。
原隊である歩兵第八連隊(大阪)で初年兵教育を命ぜられてハリ切っていた。
初年兵を受け入れた中隊では、まず新兵の一人一人を呼んで入隊についての宣誓書に記名捺印させていたのであるが、唯一人、どうしてもそれを承諾しない新兵がいた。
その説得に延々三時間を費やしていたのである。連隊本部ではこの宣誓書の捺印が全部終了したことを師団司令部に報告することによって恒例の初年兵入隊の行事は一切完了することになっている。
ところが岡田少尉の所属する第十中隊からは午前中にくるはずの完了報告が午後二時になっても到達しないので、まだかまだかの矢の催促。
岡田少尉は焦慮しながらも、士官学校で鍛えられた精神でもってすれば、これくらいなことは必ず説得できるという信念を持って辛抱強く説き続ける。
だが、この新兵はアナーキスト系の要注意人物で、はじめから計画的であった。だから二人の会話は平行線をたどりながら延々三時間にも及んでいるのである。
その時である。荒々しくドアをおしあけて一人の古参中尉が飛び込んできた。
「まだ押さんのか」と言いながら、くだんの兵隊の胸ぐらをつかんだと見るや、やにわに腰投げでもって床にたたきつけた。途端「ハイ。わかりました」と起き上った兵隊は簡単に捺印した。
一瞬の出来事である。唖然としたのは岡田少尉である。
誠心誠意、皇軍の使命から説くこと三時間、それでもなお説得することが出来なかった一人の新兵の心が、一瞬の暴力によって、いとも簡単に屈服せしめられたというこの眼前の事実。
幼年学校から士官学校と七年間にわたって体得した軍人精神、自他共に微動だにしない堅確なものと信ぜられていたこの信念に対する懐疑と挫折感とが電流のように彼の胸元をつらぬいた。
期待が大きかっただけに失望もまた大きい。
 
こうしてしばらくの間、将校として味わった失意の初体験をかみしめていたとき、あることが天啓のようにひらめいた。
「諸子は将校として一人だちの勤務をするときには、さまざまな困難に遭遇することであろう。そしてそれは、この士官学校において習得した軍事知識や体験だけでは解決し得ない多くの要素を含んでいることであろう。そのためには、諸子はさらにより広く深く学ばなければならない。・・・一層の努力を要望する。もし、考えあぐねるような悩みや困難にぶつかった場合には、いつでも本官を訪ねるがよい・・・。」
卒業の際に餞けとして語られた士官学校本科長・真崎少将の言葉である。
彼は矢も楯もたまらず、三日間の休暇を得て東京四谷信濃町にある真崎少将宅を訪れた。
 
やがて帰宅した真崎は、軍服も脱がず彼の前に腰をおろすや、例の吶々(とつとつ)とした調子で諄々として諭すように説いた。
「貴官の当面の悩みである宣誓書についてであるが、そもそも兵役に服するということは、日本においては国民の権利であり義務でもある。この当然な権利であり義務である入隊に際して宣誓書をとるなどということは理にあわない話である。これは市井の浮浪者や博徒どもを徴募した鎮台当時の遺物である。実質的には何ら意味も価値もないのである。入隊のため営門に入るときがすなわちその権利と義務の完全な履行ということになる。自分が陸軍省軍事課員であったころ、この無用の慣習を廃止すべく、いくたびか上司に建言したが、その都度、老将軍たちの反対にあって今日にいたっている。このことはなにも意に介するほどのことではない。だが、重要なことは、部下を心服せしめる指揮掌握の根源として統率の本義ということである」
ここで真崎は膝を正してあらためて語り始めた。
「教育というものは被教育者の美点を発見してやることである。教育者は、被教育者の地位に身を置かなければ教育は出来ない。教官が怒ってしまうようでは兵隊の教育が出来るだろうか。・・・日本の軍隊教育は、ドイツの直訳移入ではいけないのだ。ドイツの操典によると、初年兵の第一期の検問期間は、徹底的に兵隊の欠点を指摘せよということになっている。しかしだ。国民性の異なるドイツのやり方をしては教育の効果はあがらぬ。ドイツの国民は合理性、理論的の国民であるが、日本の国民性は感情的であるから、徹底的に欠点を指摘してはならない。むしろ美点を指摘すべきである。かりに、教育には有形の教育と無形の教育があるとして、剣術とか武術とかいうような有形の教育において欠点を指摘するのはよいとしても、無形の教育、心の面まで立ち入って欠点のみを指摘したならば決して効果はあがらぬ。・・・兵営で朝夕点呼を行うのは人員を掌握するがためではない。そんなことは既に掌握されておらねばならぬことであって、点呼のときには、兵員の健康状態、精神状態等を知ることに注意をすべきものだ。逃亡兵の出る心配のあるような軍は皇軍ではない。初年兵の中には教官をだまして教練をサボるようなものもあるだろうが、知らぬふりをしてサボらせておくがよい。人間というものは、三回と人をだませるものではない。・・・」
 
真崎の話は、さらに彼独自の国体観から発する、軍隊内務における命令服従と責任についての見解を、文字通り夜を徹して語り続けた。
外はいつしか白んだ。牛乳配達や新聞配達の通る音がしはじめた。
「お客様はお疲れでございましょう」朝食を運んできた信千代夫人の声によって中断されるまで、彼の話はとどまることはなかった。
一新品少尉に対する将軍のこの真剣なる態度。岡田少尉はすっかり感動して心服してしまった。
これが教育者真崎の一面である。一人岡田に対するだけではない。
昭和二年八月、第八師団長として弘前に栄転するまでの四カ年を将校生徒の教育のために心血をそそいだのである。
・・・・・
 
真崎が陸軍大学校に入校して在学中に日露戦争が起きました。
そのため歩兵第四十六連隊中隊長として出征しました。
真崎は戦功により尉官としては最高の功四級金鵄勲章を授けられました。
しかし、真崎はこの戦功のことについては家人に何一つ語りませんでした。
ただ、戦争を体験した結果「戦争はするべきものではない」としみじみ語っていたという。
とくに瞬間の間に斃れていく部下や同僚の死を前にして、生命のはかなさを嘆じ、
そこから「人間というものはいつでもはっきりした死生観をもつべきだ」と悟ったという。
 
その真崎大将が二・ニ六事件で収監されて間もなくのことであります。
真崎大将の信千代夫人ら家族がそれぞれの手紙や歌を送ってきました。
その中に小学校の二年か三年であった五女の喜久代の一首がありました。
君のため国のためにと つくす人を うたがい見れば後悔をする
純真な幼児のこの歌の中にこそ、
君国奉公の精神を刻み込んできた真崎大将の真の姿を見る思いであります。
 
 
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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ご遺骨が語る大東亜戦争の真実
                                                                                                       チャンネル桜キャスター
                                                                                                        戦後ジャーナリスト
                                                                                    佐波優子
日本将兵の真実の声
 
私は遺骨収集をする中で、これまで学校で習ってきた自虐史観による日本将兵
の悪いイメージが少しずつ払拭されていきましたが、それでもなお、心の中で
葛藤があり、将兵の方々に
 
 
「私はご遺骨を目の当たりにして、日本兵は、死してなお日本を守る精神に溢れ
ているように感じるのですが、実際のところ、どうだったのでしょうか」とよく尋
ました。するとほとんどの将兵の方々が「あなたの言うとおり、まさにそうだった」
とお答えになり、こう言われるのでした。
 
 
「自分も戦争に行く前は、自己中心的でわがまま、死ぬのも絶対厭(いや)
だった。自分の夢や楽しみを追う現在の若者と何ら変わらない人間であった
。でも、実際に戦争に行き、敵の銃弾が飛んでくると、まるで自分の背後に
両親や妻や子がいるような感じになる。自分がここで、この銃弾を防がなけ
れば本当に家族死んでしまい、日本が亡くなってしまう。
 
 
自分がこの銃弾を受け止めて、家族や日本のいのちが救われるならば、
死んでもいいと思うようになった。戦地に行くと自然とそう思うようになった。
 
 
これが真実である」。こうした将兵の真実の声に耳を傾け、歴史の研究を深め、
遺骨収集を続ける中で、ご遺骨の死に際の状態が、正に日本軍は侵略ではなく、
祖国を守るための戦いであった確かな証拠であると確信するようになりました

転載元転載元: サイタニのブログ

皇室を「王家」と呼ぶNHK
 
平成24年(2013年)のNHK大河ドラマは「平清盛」に決定したようですが、その公式HP http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/ の記述は目を疑います。
 
まず、主演の松山ケンイチが演ずる平清盛の紹介文では、平氏と対立する(?)皇室を「王家」と表記し、文末は「王家との長い闘いが始まる。」と結んでいます。
 
また、後白河天皇(松田翔太)の紹介では、
「王になるはずのない男が、この国最強の王になった。」

鳥羽上皇(三上博史)の項では、
「この王の死をもって、全ての秩序が失われた」

と、天皇や上皇を「王」と表記しているのです。


また、その「闘い」「最強」「秩序(の崩壊)」などの表記からは、平清盛を(現代の)国民に見立て、その前に立ちはだかる「(悪役)王家」像をつくり出そうとしている意図がうかがえます。

我が国の歴史を真摯に見つめると、権力闘争があろうとも、国民と皇室がともに支え合って国をまとめてきた「君民共治」の伝統は明らかです。

しかし、このHPには、その伝統を否定しようとする意図が満ち満ちているのです。
 
 
NHKは、「日王」と呼ぶ韓国マスコミと同列か?
 
我が国の「天皇」を「日王」「王」と呼ぶのは、韓国や北朝鮮マスコミの専売特許です。
 
アジアでの「王」とは、中国皇帝の「冊封体制」に組み込まれた周辺諸国の統治者という意味で、その地位は中国皇帝の臣下です。
すなわち、「王」であると言うことは、支那王朝を宗主国として戴く国家体制(国体)であることを表します。
 
歴史的に支那王朝に朝貢し、属国に甘んじてきた朝鮮の李氏王朝の呼称は間違いなく「朝鮮王」です。

しかし、我が国は、7世紀ごろには「天皇」という称号を対外的にも使用し、支那の「冊封体制」から独立しました。
有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙」という当時の国書や、日本独自の元号(大化)の使用がそれを表しています。


韓国や北鮮は、かつての宗主国支那の皇帝と同格を意味する「天皇」という呼称を日本が遣うことを嫌い、彼らは我が国の歴史を貶める蔑称として「日王」と呼びます。
 
 ちなみに、日本で「日本国王」と言えば、時代が下がって室町幕府の三代将軍足利義満が名乗ったことで有名です。
あくまで武家政権の長が、対外貿易の権益独占のために使用した呼称でしかないのですが、あくまで「天皇」の臣下である征夷大将軍が「日本国王」なのですから、「天皇」が「王」であるはずがありません。


それを、素人でも分かるような時代考証を抜きにして、皇室を「王家」、天皇や上皇を「王」と表現する
NHKには、公共放送としての資格などありません。
そればかりか、中国や韓国に媚びへつらい、我が国の歴史を冒涜し、我が皇室を蔑視する意図があるとしか言いようがありません。
 
 
それも、国民から受信料を徴収していながら、そのお金で国体を辱めているのです。
ましてや国民的関心が高く、生きた教材として家庭で子どもたちが歴史を学ぶことができる「大河ドラマ」でそれをしようと言うのですから、その悪質さは測り知れません。

 
健全な日本国民は、我が国の国体を辱めるNHKの悪質さを見逃してはなりません。
宮内庁や政府には、NHKの悪質さを見逃さず、表現を訂正させる「厳しい指導」を求めなければなりません。

それだけでなく、スペシャル番組 japanデビューで「反日台湾」像を捏造するなど、同じようなことを繰り返すNHKそのものの「解体」を、真剣な国民的議論にするべきです。


転載元転載元: 公立中学校教員のブログ

 割腹自決というと、三島由紀夫氏を直ぐに思い浮かべるが、最近ある人の話から、大東塾の影山正治氏のことを思い出した。名前は昔聞いた記憶はあったがあまり存じ上げてはおらず、元号法制化の運動を頑張っておられたくらいしか記憶になかった。この影山正治氏が、昭和五十四年(1979年)元号法制化の法案が参議院で決着するかどうかというときに、その祈願を込めて、自らの身を玉串と捧げて、割腹自決された話を最近になって知った。
 当時、国民の大多数が元号の法制化を願っていたが、革新政党やキリスト教徒が反対しており、予断を許さない状態だった。昭和天皇はお年を召されてきており、法制化が遅れれば、万が一の時には、長く続いた日本の元号の伝統が絶たれる可能性さえあった。それは天皇国日本の崩潰をもたらすことを、愛国者たちはみな懸念していた。日本の元号を廃し、キリスト教歴の西暦のみを使用するというのは、まさに日本人の魂が失われて行く感があった。
 元号法制化の決定がなされる直前の五月二十五日に、大東塾塾長の影山正治氏は、次のような辞世の歌を残して割腹自決された。
 
 一死以て元号法制化の実現を熱祷しまつる
 
民族の本(もと)ついのちのふるさとへ はやはやかへれ戦後日本よ
 
身一つをみづ玉串とささげまつり 御代を祈らむみたまらとともに
 
この日五月二十五日は、忠臣楠木正成公の命日ということで、勤王の志士の集団として、大東塾では、楠公祭日ということだった。この日を選んで、元号法制化のために一身を瑞玉串として捧げられたのであった。
 聞くところによると、影山正治氏の父、影山庄平翁は、大日本帝国が惨めな敗戦の日を迎えてから十日目の八月二十五日に、代々木原頭で大東塾塾生とともに十四名で、皇居に向かって割腹自殺をされたそうである。これは代々木公園内に烈士十四名の碑が、その場所に置かれているようである。
 
 その庄平翁の辞世の和歌はつぎのものである。
 
    清く捧ぐる吾等十四の皇魂誓って無窮に皇城を守らむ


こんとんをひらきて今や大地の始発の時と祈り行くなり


國うれふやたけ心のきはまりて静かなるかも神あかるとき


戦いつかれて、精神的に肉体的に疲弊困憊していた日本全国の国民は、大きな衝撃を受けて奮い立ったということである。この時、長男であった影山正治氏は、まだ戦地におられたそうである。きっと、この父庄平翁の自刃は、ずっと影山正治氏の心の中にあって、自分もまた自刃の時を待っておられたのかも知れない。
 そして、五月二十五日に、大楠公の命日であり、また父庄平翁の割腹自殺された八月二十五日と同じ二十五日という日を好機到来の日として、皇国日本へ、身を捧げられたのではないかと思う。
そして、その年五十四年六月六日元号法制化は実現し元号法が制定された。


学校で教えない歴史(二・ニ六事件 番外編)
「ビルマの悲風」 〜誇り高き男 小川三郎〜
 
 
二・ニ六事件で連座した中に小川三郎という熊本男児がいました。
まったく語られることのない日本男児をこのまま消すのは惜しいと思い、ここに記しておきます。
・・・・・
 
大東亜戦争でシンガポールが陥落する直前、
タイのバンコクに岩畔機関(いわくろきかん)という特務機関ができました。
その機関はインド義勇軍を組織して対インド独立工作を進めるというのが主な任務でした。
その機関員に小川三郎という少佐が配属されてきました。
 
機関長の岩畔豪雄大佐がその考課表を見ると、
「陸士第三十八期生卒業 序列が尻から二番目 二・二六事件に連座して停職六カ月」
という豪の者で、機関長はどんなポストに使うべきか一寸迷っていました。
 
ある晩、夕食のとき、機関長は単刀直入に小川少佐に聞いてみた。
「君は陸士の卒業序列が尻から二番だがあまり勉強しなかったんだろう」と言うと、
小川少佐はすかさず「実に残念でたまりません」と答えた。
機関長はてっきり勉強もしてみたが不成績に終わって残念だという風に、ごく普通の解釈をした。
ところがそうではなかった。
「私は陸士卒業の時、ぜひビリで卒業したいと努めたが、惜しくも念願がはずれて、尻から二番に止まり実に残念無念でした。ビリの卒業というのはなかなか難事中の難事ですね」
と笑って答え、さすがに剛腹の機関長も呆気にとられた。
 
 
 
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                            (チャンドラ・ボース)  
大東亜戦争が進んでインドの志士チャンドラ・ボースをドイツから迎えてインド義勇軍の首領とし、小川中佐はその連絡に任じていました。
当時、インパール作戦後のビルマの日本軍は戦勢利あらず、後退に後退を重ねていました。
サルウィン河畔に踏みとどまっていたチャンドラ・ボーズに対し小川中佐は言った。
「早く後方の国境山脈まで退られよ」
とすすめたが、何といっても聞き入れぬので、これ以上やせ我慢すべきではないと諌めた。
するとボースは言った。
「約100名の女子義勇軍をラングーンに残していながら男の自分だけがどうしておめおめ後退できるか」
小川中佐はこれに応じて
「わかった。私も日本人だ。日本軍人だ。誓って私が責任を以て女子義勇軍を救出し、貴方の膝下に連れ帰るから安心して後退せられよ」
と言うなり方面軍の後方担当参謀のところにやって来て
「最小限4台のトラックを融通してくれ」と頼んだ。参謀は1台もないという。
何とか工面してくれと迫ったがない袖は振れぬという。
小川中佐は厳然として
「ない袖を振るのが参謀の真の役割だ。ある袖を振るのなら誰でもできる」
続いて言った。
「自分はインドのボース首領に誓ったのだ。ラングーンに残された女子義勇軍は日本人の面目にかけても断じて救出すると。今度の大戦はあるいは敗戦の破局を迎えるかもしれぬが、たとえどんな、どん底に陥っても日本人は嘘をつかなかった。どんな逆境に立っても日本の軍人は最後まで信頼できるとのイメージをインドの人たちに残して死にたい。形の上の戦争ではたとえ敗れても心の上の戦争では敗れておらぬ証拠を世界の人々に示すべき絶好の機会だ。4台のトラックはこのため何とかしてくれ」
と熱情をこめて言い放った。
 
黙々としてその言葉を聞いていた参謀は何も言わず、
どこからか4台のトラックを工面してきました。
小川中佐は喜んでこれを受け取るとまっしぐらに包囲化の首都に駆けつけて無事、女子義勇軍約80名を救出し、ボース首領の手元に連れてきました。
その後、小川中佐は南ビルマの戦闘で戦死した。
 
インパール作戦はまれにみる凄惨な戦いでした。
退却の戦闘で最も困難とされるのは「しんがり部隊」の行動です。
その困難である「しんがり」を自ら買って出たのが小川でした。
退却する友軍を安全な地帯まで後退させるため、小川は幾多の困苦欠乏に耐え、
苦心惨憺の結果、その任務を十分に果たし得たのです。
もうこれで大丈夫、と思われる地点までたどり着いた時、小川は突然、踵(きびす)を返して、
今来た方向に逆行して、ついに消息を絶ってしまいました。
・・・・・
 
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私達の同窓にこんな誇り高い男がいたと言うだけでも肩身の広い感じがする。
たとえ日本の陸軍が滅びても、また熊本幼年学校はなくなっても、
こんな物語だけは後の世にぜひ残しておきたいものである。
日本の中にこんな考えの男がいたことを永久に残したいものである。
(大蔵栄一)
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