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学校で教えない歴史 31 (二・ニ六事件 不可解)
1936年2月26日、二・二六事件が起きました。
この事件の詳しい内容についてここでは触れません。
ただ、1931年の三月事件からこのシリーズを書き続けて、
どうしてこのようなことが起きたのかは理解されたことと思います。
さて、この事件直後、不可解なことがありますのでいくつか書き出してみます。
・・・
昭和41年の『華族―昭和百年の側面史』で木戸幸一は告白しました。
「二・二六事件が起こることを知っていた」
「僕は1カ月も前から情報をキャッチしていましたよ。今度は軍はえらいことをやる。千人くらいの人間が動くという情報なんです」
当時、内大臣秘書官である木戸幸一はこのような情報を得ていたにもかかわらずそのまま放置していたのです。
また、この木戸幸一の息子木戸孝澄は二・二六事件が起きる前夜に級友である東宮侍従長 黒木従遠に電話をかけてこのように言いました。
「今夜あたりからいよいよ決戦になるらしいぞ」
黒木は親友の道明を誘い、暮夜ひそかに寮を抜け出して市ヶ谷方面へ向かったのです。
西園寺公望も事件を事前に知っており、事件の時には静岡県の官舎に避難していました。
事件後の3月14日、西園寺公望の弁護士の鵜沢総明は陸軍大臣になった寺内寿一にこのように話した。
「(西園寺)公爵は二十五日に既に二十六日の事変を知っておられたそうだ」
伊藤章信が戦犯容疑にて巣鴨にいる時、児玉誉士夫にこう語っています。
「二・二六事件の指導者の一人から重臣に通するものがあって失敗に終わった。
もしあの事件が成功しておれば日支事変はあるいは起きなかったかも知れぬ」
(「われはかく戦えり」児玉誉士夫)
河野司編『二・ニ六事件』の特別資料中に、三月七日午前十時、第一師団参謀長舞伝男大佐が第一師団司令部において公表した口演要旨が収録されています。
それには「我国家国軍を破壊するため、第三国より資金を提供しある疑いあり」とあります。
真崎は二・ニ六事件の軍法会議に5項目の疑問点を提示して真相の究明を求めた。
その中の一つにこうあります。
昭和11年7月10日、磯部と私は対決せらるることとなり、
私は先に入廷し磯部を待って居たが、間もなく磯部は大いにやつれ入り来り、
私にしばらくでしたと一礼するや狂気のごとく昂奮し、直ちに
「彼らの術策に落ちました」と言うた。
私は直ちに頷けるものがあったけれども、故意に、徐々に彼を落ちつけて、
「術中とは何か」と問い返したれば、沢田法務官は壇上より下がり来たりて、
「其は問題外なる故触れて下さるな」と私には言い、
磯部には「君は国士なる故そんなに昂奮せざる様に」と肩を撫でて室外に連れ出し、
これだけで対決を終わった。
何のことかわからぬ。私は不思議でたまらなかった。
さて、二・ニ六事件後、統制派は世上の言論取り締まりに陰険と過酷を極めました。
新聞・雑誌の記事は厳重に検閲され、いささかも反乱将校に同情めいた記事を載せたり、
軍の発表しない機微な情報を伝えたものは片っ端から発売禁止され憲兵隊の取り調べを受けました。
多少たりとも反乱将校と親しかった者は軍人、民間人問わず残るとこなく検挙されたのです。
個人の親書も検閲を受け二・ニ六事件の消息を伝えたものはことごとく呼び出しを受け、
その出所を追及され、中には学生が二・ニ六事件の話をしていただけで私服憲兵にそれを聞かれ拘引され、その消息の出所を同学生の母親以下芋づる式に十六人まで追求検挙された事実もあって、
暗黒裁判進行中の世上は陰鬱に満ちていました。
二・ニ六事件の軍法会議の主任検察官である匂坂春平。
彼の書いた匂坂資料には軍首脳部では始めから反乱将校全部を死刑にする方針を決定しており、無期禁固の将校たちまで死刑にする判決予定書がありました。
幸徳秋水の明治天皇暗殺の大逆事件でさえ死刑に決定した24名のうち12名が死を減ぜられたほどであるのに・・。
二・二六の裁判は4月28日の第一回公判開始から2カ月で結審、判決処刑という異例の速さで終結した。
判決を下そうという時、突然寺内寿一陸相から各裁判長に集合命令が下り、
各裁判長に被告に対する処断の見解を質問した。
民間人を受け持っていた吉田裁判長が、
「北一輝と西田税は二・二六には直接の責任がない」と不起訴ないし執行猶予を主張すると
寺内陸相は「両人は極刑に処すべきである。両人は証拠の有無にかかわらず黒幕である」
と極刑判決を示唆した。
昭和29年2月7日号の週刊読売によると、匂坂家にある二・二六調書には軍首脳部でははじめから事件に参加した将校は全員死刑の方針だったようで、予め死刑と刷り込んだ判決予定書を捧呈関係者に配布し、その判決予定に主任検察官の匂坂春平法務官も苦慮しながら死刑の判決に同意したとあります。
戦後、匂坂は自宅に閉じこもったままの生活を送り、
毎年2月26日の賢崇寺で行われる仏心会の法要には、
玄関に姿を見せるだけで名刺を置いて
「匂坂が来たということだけお伝えください」と言い残し退去していた。
その匂坂も昭和29年9月8日、老衰から滅入るような往生でした。
その日はきしくも、北一輝、西田税、村中孝次、磯部浅一の四人が
東京衛戌刑務所で銃殺刑に処せられた17回忌の日でした。
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