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学校で教えない歴史 31 (二・ニ六事件 不可解)
 
 
 
1936226日、二・二六事件が起きました。
この事件の詳しい内容についてここでは触れません。
ただ、1931年の三月事件からこのシリーズを書き続けて、
どうしてこのようなことが起きたのかは理解されたことと思います。
さて、この事件直後、不可解なことがありますのでいくつか書き出してみます。
・・・
 
昭和41年の『華族―昭和百年の側面史』で木戸幸一は告白しました。
二・二六事件が起こることを知っていた
僕は1カ月も前から情報をキャッチしていましたよ。今度は軍はえらいことをやる。千人くらいの人間が動くという情報なんです
当時、内大臣秘書官である木戸幸一はこのような情報を得ていたにもかかわらずそのまま放置していたのです。
 
また、この木戸幸一の息子木戸孝澄は二・二六事件が起きる前夜に級友である東宮侍従長 黒木従遠に電話をかけてこのように言いました。
今夜あたりからいよいよ決戦になるらしいぞ
黒木は親友の道明を誘い、暮夜ひそかに寮を抜け出して市ヶ谷方面へ向かったのです。
 
西園寺公望も事件を事前に知っており、事件の時には静岡県の官舎に避難していました。
事件後の314日、西園寺公望の弁護士の鵜沢総明は陸軍大臣になった寺内寿一にこのように話した。
「(西園寺)公爵は二十五日に既に二十六日の事変を知っておられたそうだ
 
伊藤章信が戦犯容疑にて巣鴨にいる時、児玉誉士夫にこう語っています。
二・二六事件の指導者の一人から重臣に通するものがあって失敗に終わった。
もしあの事件が成功しておれば日支事変はあるいは起きなかったかも知れぬ
(「われはかく戦えり」児玉誉士夫)
 
河野司編『二・ニ六事件』の特別資料中に、三月七日午前十時、第一師団参謀長舞伝男大佐が第一師団司令部において公表した口演要旨が収録されています。
それには「我国家国軍を破壊するため、第三国より資金を提供しある疑いあり」とあります。
 
 
真崎は二・ニ六事件の軍法会議に5項目の疑問点を提示して真相の究明を求めた。
その中の一つにこうあります。
昭和11710日、磯部と私は対決せらるることとなり、
私は先に入廷し磯部を待って居たが、間もなく磯部は大いにやつれ入り来り、
私にしばらくでしたと一礼するや狂気のごとく昂奮し、直ちに
彼らの術策に落ちました」と言うた。
私は直ちに頷けるものがあったけれども、故意に、徐々に彼を落ちつけて、
「術中とは何か」と問い返したれば、沢田法務官は壇上より下がり来たりて、
「其は問題外なる故触れて下さるな」と私には言い、
磯部には「君は国士なる故そんなに昂奮せざる様に」と肩を撫でて室外に連れ出し、
これだけで対決を終わった。
何のことかわからぬ。私は不思議でたまらなかった。
 
 
さて、二・ニ六事件後、統制派は世上の言論取り締まりに陰険と過酷を極めました。
新聞・雑誌の記事は厳重に検閲され、いささかも反乱将校に同情めいた記事を載せたり、
軍の発表しない機微な情報を伝えたものは片っ端から発売禁止され憲兵隊の取り調べを受けました。
多少たりとも反乱将校と親しかった者は軍人、民間人問わず残るとこなく検挙されたのです。
個人の親書も検閲を受け二・ニ六事件の消息を伝えたものはことごとく呼び出しを受け、
その出所を追及され、中には学生が二・ニ六事件の話をしていただけで私服憲兵にそれを聞かれ拘引され、その消息の出所を同学生の母親以下芋づる式に十六人まで追求検挙された事実もあって、
暗黒裁判進行中の世上は陰鬱に満ちていました。
 
二・ニ六事件の軍法会議の主任検察官である匂坂春平。
彼の書いた匂坂資料には軍首脳部では始めから反乱将校全部を死刑にする方針を決定しており、無期禁固の将校たちまで死刑にする判決予定書がありました。
幸徳秋水の明治天皇暗殺の大逆事件でさえ死刑に決定した24名のうち12名が死を減ぜられたほどであるのに・・。
 
二・二六の裁判は428日の第一回公判開始から2カ月で結審、判決処刑という異例の速さで終結した。
判決を下そうという時、突然寺内寿一陸相から各裁判長に集合命令が下り、
各裁判長に被告に対する処断の見解を質問した。
民間人を受け持っていた吉田裁判長が、
「北一輝と西田税は二・二六には直接の責任がない」と不起訴ないし執行猶予を主張すると
寺内陸相は「両人は極刑に処すべきである。両人は証拠の有無にかかわらず黒幕である」
と極刑判決を示唆した。
 
昭和2927日号の週刊読売によると、匂坂家にある二・二六調書には軍首脳部でははじめから事件に参加した将校は全員死刑の方針だったようで、予め死刑と刷り込んだ判決予定書を捧呈関係者に配布し、その判決予定に主任検察官の匂坂春平法務官も苦慮しながら死刑の判決に同意したとあります。
戦後、匂坂は自宅に閉じこもったままの生活を送り、
毎年226日の賢崇寺で行われる仏心会の法要には、
玄関に姿を見せるだけで名刺を置いて
「匂坂が来たということだけお伝えください」と言い残し退去していた。
その匂坂も昭和2998日、老衰から滅入るような往生でした。
その日はきしくも、北一輝、西田税、村中孝次、磯部浅一の四人が
東京衛戌刑務所で銃殺刑に処せられた17回忌の日でした。
・・・・・・・
 
 
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

学校で教えない歴史 30 (二・ニ六事件 青年将校を駆り立てたもの)
 
 
 
1933年の秋の頃のこと、
相沢三郎が統制派の池田純久に会った時、池田はこう言った。
若い連中がクーデターをやりたがっているようだが、やりたかったらやらしたらいいでしょう。
後の建設は我々(統制派)が引き受けますから・・
相沢は怒り、大蔵栄一にそのことを話したと大蔵栄一著『二・二六事件への挽歌』に書かれています。
 
その相沢も統制派の首領・永田鉄山を殺害し軍法会議にかけられていた。
この相沢事件の軍法会議場は第一師団司令部内で行われました。
裁判長は真崎甚三郎の腹心でもある第一師団長の柳川平助中将。
 
しかし、突然、青年将校に信望のあった柳川中将が12月に台湾軍司令官へ転任となりました。
そのため初公判は翌19361月に延期された。
後任の裁判長は新しく第一師団長となった堀丈夫(ほりたけお)中将。堀中将も親皇道派です。
すると今度は第一師団が丸ごと満州へ転出することになったのです。
 
第一師団の青年将校たちは満州に行けば維新の機会がなくなってしまう。
青年将校たちは相沢中佐を慕っていました。そして壮絶なる行動に無言の語りかけを感じていました。
どこからともなく“相沢につづけ”という声が上がった。
そして、この声に便乗して青年将校を焚きつけたのが統制派でした。
統制派軍務局員の影山は“やるならやらせて潰してしまえ”と言った。
後の二・ニ六事件の軍法会議で真崎甚三郎大将はこのような疑問を呈した。
「青年将校は相沢中佐を救うことができるとある人から騙されていた節がある」と。
 
青年将校の手にお金が渡った。
この時、青年将校側にお金を流したのではないかと、
コミンテルン工作員である白系ロシア人シロータという名前が検察文書に出ています。
 
また、二・ニ六事件の青年将校の著書には“ユダヤ”という言葉が出てきます。
彼らはこの頃すでにユダヤの陰謀を勘ぐっていたのであろうか。
そのユダヤと結託していたのが三井などの財閥であり、
その財閥に群がっていたのが政治家たちと永田はじめ軍の首脳たちであった。
さらに天皇陛下を取り巻く連中。内大臣の牧野伸顕、ユダヤの血をひく原田熊雄。
木戸幸一、西園寺公望、など陛下に群がる君側の奸。
 
皇道派は農民はじめ下級階層の生活は窮迫しているにもかかわらず、
政治家は適切な処置もせず自分たちの利殖にのみのめり込み、資本家との疑獄事件を起こして、
さらには元老や重臣、政界は天皇機関説を信じ国体明徴を明確にせずいる現状を憂い、
それに乗じて統制派で占められた軍首脳は我が国の立国の精神を解せず軍人精神に欠け、
堕落した政治家と共に皇道派排撃を画策していた。
国際連盟脱退以後、日本は孤立し対外事情は一触即発の危険があるにもかかわらず、
統制派は戦争誘発の方向に進んでいる。
しかし、現状の政界と国民の生活の実情では大戦争をするのは危険であると感じていた。
 
十一月事件以来鬱積していたものが2月下旬に第一師団が近く満州派遣を命じられたので、
「満州に行ってしまったのではどうしようもない。この機を逸したら永久に事をなす機会がない」と、
決起はやる青年将校を扇動して事件を起こさせ、事件の処罰という形で皇道派を一掃する。
そして二・二六事件を機会に陸軍統制派の政治支配は決定的になった。
その後、日本の歩む道はどうだろう。
外には永田鉄山の“支那を一度叩け”の通り支那事変(二・ニ六事件の翌年に起こる)を拡大し、
さらには大東亜戦争となり、内は国家総動員、電力国家管理、大政翼賛など社会主義的新体制になっていった。
 
二・二六事件を起こした青年将校は国家革新を行おうとした。
皇道派のいう国家革新とはまさに「維新」であって、
軍の独裁政権を樹立しようする統制派の国家革新とは本質において大きく異なっていました。
十月事件の時も橋本欣五郎一派の国家破壊計画のクーデターに対し、
皇道派青年将校は、
君等のなさんとすることはヒトラー流のクーデターであり、ソビエト流の革命であるが、
我々の志は天皇中心の維新であって革命ではない
と言って、皇道派は三月事件から統制派の破壊計画のクーデターとは袂を分かっていました。
特に統制派の幕僚たちの国家改造のためには、
陛下が許されねば短刀を突き付けてもいうことをきかせる」という言葉を平然と吐いていた。
これなどはまさに統制派の本性、国家改造の名のもとでの国体破壊であった。
 
では皇道派のいう維新とは何か?
磯部浅一の獄中手記にこのように書かれています。
「決起の真精神は大権を犯し国体をみだす君側の重臣を討って大権を守り、国体を守らんとしたのです。
ロンドン条約以来、統帥権大権干犯されること二度に及び、天皇機関説を信ずる学匪、官匪が宮中にはびこって、天皇の御地位を危うくせんとしておりましたので、たまりかねて奸賊を討ったのです。
そもそも維新ということは皇権を回復奉還することであって、
・・大義を明らかにすれば直ちに国の政経、文教全てが改まるのである。これが維新である。
藤田東湖の「大義を明にし、人心を正さば、皇道あへて興起せざるを憂えん」 
これが維新の精神であり、青年将校決起の精神であるのです・・・」
 
1936年2月26日、第一師団を中心にした将校たちは1400名以上の兵を率い二・ニ六事件を起こす。
 
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                             (磯部浅一)
 
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                        決起趣意書
 
謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり。
然るに頃来遂に不逞凶悪の徒簇出して私心我慾を恣にし至尊絶対の尊厳を藐視し僭上之れ働き万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦を呻吟せしめ随つて外侮外患日を逐うて激化す。所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。倫敦軍縮条約、並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三月事件、或は学匪共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にして、その滔天の罪悪は流血憤怒真に譬へ難き所なり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰、相沢中佐の閃発となる寔に故なきに非ず、而も幾度か頸血を濺ぎ来つて今尚些かも懺悔反省なく然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安を事とせり。露、支、英、米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲破滅に堕らしむる、火を見るより明かなり。内外真に重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮し稜威を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずして皇謨を一空せん。
恰も第一師団出動の大命渙発せられ年来御維新翼賛を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍の我等同志は、将に万里征途に登らんとして而も省みて内の亡状憂心転々禁ずる能はず。君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能くなすべし。
臣子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅沈淪を翻すに由なし、茲に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭し以つて神州赤子の微衷を献ぜんとす。
皇祖皇宗の神霊、冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを。
 
昭和十一年二月二十六日
陸軍歩兵大尉 野中四郎
外 同志一同
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

侵略を美化している。
日本の植民地政策でアジア各国へ多大な迷惑をかけた。・・・
こういう嘘を真実と思い込まされて育つと日本という国が嫌になってします。
しかし嘘は所詮、嘘です。
この嘘を日本に押し付ける国は支那、朝鮮、ソ連とそれに配慮した国です。
そして日本人の中にも日本を売るようにこの嘘を吐き続ける人間がいます。
しかし、実際は全く違うということを日本人は知るべきです。
たとえ日本人は真実を知らなくとも、当時を知るアジアから真実を語っています。
そこには過去の日本人に対する感謝の言葉とともに
今の日本人に対する不甲斐なさや苛立ちが言葉になっています。
我々はいま一度彼らの言葉に耳を傾けたい
・・・・・
 
昭和63年8月21の朝日新聞に、
「生き残ったマレーシア人五人が来日」「侵略の犠牲知ってほしい」「日本軍が行った華人虐殺」
という見出しが掲載され、
「村は燃え上がり血の海になった。泣き叫ぶ弟を日本兵は刺した。一族二十六人が殺され、自分も刀傷・・・」という記事が載りました。
日本語の読めるラジャー・ダト・ノンチック氏は目を通している途中でゲラゲラ笑い出しました。
「マレーシア人は多民族国家であって、マレー人と華人の比率は4535だ。
華人は現在も経済界の実権を握っている。だからマレー人の反華人感情は根強い。
戦争中には華人とマラヤ共産党を中心にしたマラヤ人民反日軍がゲリラ活動をしていた。
日本軍は当時マレー人を優遇し、華人の抗日ゲリラに対しては国際法でも認められている軍事行動の掃討作戦を展開した。
容共勢力は日本にもある。日本の左翼イデオロギー活動分子とマレーシアの容共華人組織が連動して朝日新聞を舞台に反日・反マレーシア活動を続けているんだよ」
 
このラジャー・ダト・ノンチック氏(マレーシアの元上院議員)の「日本の人たちへ」にはこのようにあります。
 
私たちアジアの多くの国は、日本があの大東亜戦争を戦ってくれたから独立できたのです。
日本軍は、永い間アジア各地を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、
とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に、驚異の感動と自信とを与えてくれました。
永い間眠っていた“自分たちの祖国を自分たちの国にしよう”というこころを目醒めさせてくれたのです。
私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。
敗れて逃げてゆく英軍を見たときに、今まで感じたことのない興奮を覚えました。
しかも、マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、
将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ
青少年の教育をおこなってくれたのです。
私もあの時に、マラヤの一少年として、アジア民族の戦勝に興奮し、
日本人から教育と訓練を受けた一人です。
 
私は、今の日本人にアジアへの心が失われつつあるのを残念に思っています。
これからもアジアは、日本を兄貴分として共に協力しながら発展してゆかねばならないのです。
ですから、今の若い日本人たちに、本当のアジアの歴史の事実を知ってもらいたいと思っているのです。
先日、この国に来られた日本のある学校の教師は、
「日本軍はマレー人を虐殺したにちがいない。その事実を調べにきたのだ」と言っていました。
私は驚きました。
「日本軍はマレー人を一人も殺していません」と私は答えてやりました。
日本軍が殺したのは、戦闘で戦った英軍やその英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。
そして、日本の将兵も血を流しました。
 
どうしてこのように今の日本人は自分たちの父や兄たちが遺した正しい遺産を見ようとしないで、
悪いことばかりしていたような先入観を持つようになってしまったのでしょう。
これは本当に残念なことです。
・・・・・・・
 
 
楊應吟(ようおうぎん)氏の著書「素晴らしかった日本の先生とその教育」にはこのように書かれています。
 
中国には日本から多数の民間企業が投資進出しており、中国は技術や資金など多くのものを日本から得ています。
しかし日本に対しては反日から親日に変わることは絶対にありません。
かつて2005年に「対日戦勝六十周年」のキャンペーンを全中国で反日デモを行い日本大使館や日本領事館、日本料理店や日本企業に暴力行為を行いました。
日本政府は中国政府に対して抗議を行いましたが、中国外交部は逆に「日本の対応に問題がある」として謝罪と弁償を拒否しました。
これで中国という国が自分が悪くても絶対に謝らない国であることがわかったであろうと思います。
謝れば悪いことをしたと認めることになるため、中国人は嘘をついてでも、弁解や言い訳をします。
これが日本と中国の決定的な教育の違いです。
それでも日本が必要のない謝罪を繰り返すのには全くわけのわからない怪訝さを感じます。
 
日本は終戦まで台湾を統治していましたが、その間に日支事変、大東亜戦争が勃発しましたが、
日本軍の一員として戦地に赴いた台湾人は二十万七千余人、元日本軍人として戦死した台湾の英霊は二万八千柱もありました。
私たちはかつては命を懸けて戦った兄弟であり、台湾には親日家が大勢おりました。
日本の統治時代についてすべてが正しかったとは言いませんが、功績について、良かったと我々はきちんと評価をし、感謝しているのです。
しかし、今の日本はそうした自国の歴史も親日国台湾のことも知らず、特定アジアのご機嫌をうかがうようなことばかりしています。一体、日本はどうしてしまったのでしょうか。
 
中国の潜水艦が領海を侵犯しても抗議らしい抗議が出来ず、
海底油田も中国の思うがまま、
拉致問題も北朝鮮に対して有効策を持ちません。
昔の日本であれば、中国や北朝鮮のこのような行動を絶対に許してはいなかったでしょう。
 
日本は、かつては我々を教育し、護ってくれ、国土こそ小さくともアジアの大国として欧米に対してあれだけ戦い、結果としてアジア、アフリカ諸国を独立に導きました。
あの強かった、毅然とした武士の国、あの素晴らしかった日本はどこへ行ってしまったのでしょうか。
・・・・・・・・
 
 
日本は戦争を美化しているというが、誰も美化などしていない。
それは美化ではなく“真実”なのです。
我々日本人は先人たちを誇りに思うべきです。
上に記した台湾とマレーシアの当時を知る方々がこのように言っているのです。
それとともに、“日本人はどうしたのだ?” と忠告もしてくれます。
「友好」というのはこういう国の人達のことをいうのです。
これは今から10年も20年も前の彼らの言葉ですが、今なお状況は変わっていません。
 
今の日本をみて何か感じないでしょうか。
日本の良さ、日本人の心を失っているのではないか、と感じることはないですか。
 
我々の先人たちは立派でした。
我々子孫のために、その祖国日本を護るために尊い命をも捧げて、我が国を護ってくださったのです。
このことを知れば必ずや先人たちには頭が下がり畏敬の念を抱くに違いありません。
そして、アジアの若い青年たちとともに彼らの国を白人の植民地支配から解放するために、
日本の青年たちも夢中になって戦ったのです。
正々堂々と。
その勇気と、強さと、あきらめない精神力と、ひたむきさと、まじめさと、正直さと、明るさに、
アジアの多くの青年たちは日本人を信頼し、尊敬できたからこそ、ともに命をかけて戦ったのです。
彼らがなぜ日本に感謝するのか、その意味をしっかりとかみしめたい・・・
 
 
 
 
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                                                   (ラジャー・ダト・ノンチック氏)
かつて日本人は清らかで美しかった。
 
かつて日本人は親切でこころ豊かだった。
 
アジアの国の誰にでも自分のことのように
 
一生懸命つくしてくれた。
 
何千万人もの人の中には少しは変な人もいたし、怒りんぼや、わがままな人もいた。
自分の考えをおしつけて、いばってばかりいる人だっていなかったわけじゃない。
でもその頃の日本人はそんな少しの嫌なことや不愉快さを越えて、
おおらかでまじめで希望に満ちて明るかった。
 
戦後の日本人は自分たち日本人のことを悪者だと思い込まされた。
学校も ジャーナリズムもそうだとしか教えなかったから、
まじめに自分たちの父祖や先輩は悪いことばかりした、
残酷無情なひどい人たちだったと思っているようだ。
 
だからアジアの国に行ったら、ひたすらペコペコあやまって、
“わたしたちはそんなことはいたしません”と言えばよいと思っている。
そのくせ経済力がついてきて技術が向上してくると、
自分の国や自分までが偉いと思うようになってきて、
うわべや口先では済まなかった悪かったと言いながら、
ひとりよがりの自分本位の偉そうな態度をする。
そんな今の日本人が心配だ。
 
本当にどうなっちまったんだろう日本人は。
そんなはずじゃなかったのに。
本当の日本人を知っているわたしたちは、今はいつも歯がゆくて悔しい思いがする。
自分のことや自分の会社の利益ばかり考えて、
こせこせと身勝手な行動ばかりしているヒョロヒョロの日本人はこれが本当の日本人なのだろうか。
 
自分たちだけで集まっては、自分たちだけの楽しみや贅沢にふけりながら、
自分がお世話になって住んでいる自分の会社が仕事をしているその国と国民のことを
さげすんだ眼で見たりバカにしたりする。
 
こんなひとたちと本当に仲良くしてゆけるだろうか。
どうして、どうして日本人はこんなになってしまったんだ。
(ラジャー・ダト・ノンチック「日本人よありがとう」より)
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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全国戦没者追悼式で、お言葉を賜る天皇、皇后両陛下 御尊影=15日午後、東京都千代田区の日本武道館
 
 
 
 
 
君が代
 
 
 
 
 

天皇陛下、皇后陛下 ご動静 15日 (月)

 
(宮内庁発表分)
 
 【午前・午後】
 
 両陛下 全国戦没者追悼式ご臨席(東京都千代田区・日本武道館)
 
 【午後】
 
 天皇陛下 ご執務(宮城・御所)
 
 両陛下 松本光弘・福島県警本部長から説明お受けに《東日本大震災に際しての
 
 県警の活動につき》(御所)
 
 
 

昭 和 天 皇 陛 下 と 国 民

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昭和天皇陛下、香淳皇后陛下 勤労奉仕団ご会釈 
 
 
 
GHQを驚かせた占領下の「皇居勤労奉仕」誕生秘話/高森明勅

皇居勤労奉仕。
読者のみなさんは、この言葉を耳にしたことがおありだろうか。
全国各地から多くの人々がグループを作って上京し、皇居の中で四日間、ボランティアの清掃活動を行っている。その数、平成に入ってからの実績で言えば、一年間を通じておよそ一万人。この活動のことを「皇居勤労奉仕」と呼んでいる。
  *
清掃活動はまったくの無報酬であるのはもちろん、交通費も宿泊費もすべて自己負担だ。それでも約一万人もの人々が毎年、皇居での勤労奉仕を続けている。一般にはほとんど知られていない事実だ。しかし十分、注目に値するだろう。
では、この皇居勤労奉仕はいつ、どのような経緯で始まったのか。
この点については、幸いなことに、いくつか関係者の証言が残っている。まず、昭和天皇の側近に仕えた木下道雄侍従次長(当時)の証言を紹介しよう。

時は昭和20年12月。つまり終戦の年の年末のことだ。当時、日本は言うまでもなく占領下にあった。皇居も各門にはアメリカ兵が見張りに立っているありさまだった。

その皇居自体も、外観こそ戦前と変わらぬ様子であったものの、一歩、中に入ると戦災の跡が歴然として痛々しいまでの変貌ぶりだった。木造の建造物はほとんど焼失していた。明治時代に建てられた端正雄大な宮殿も焼け落ちて礎石や瓦、レンガなどが散乱し、目も当てられない状態だった。手入れが行き届かないため、雑草があちこち伸び放題に生い茂っていた。これは皇居前広場も同様だったから、外からも一目瞭然にわかった。
そんな折、皇居の坂下門の門外に60人ばかりの青年の一団が到着した−−。

皇居の清掃奉仕を申し出た若者たち
 
この若者たちは、門衛の皇官警察官を通して、次のように申し入れたという。
「私たちは、宮城県栗原郡の各村のものでありますが、二重橋の前の広場に雑草が生い茂って、たいへん荒れている、ということを聞きましたので、草刈りやお掃除のお手伝いのため上京してきました。‥どうかお手伝いさせて下さい」と。

このことを筧素彦総務課長(当時)から電話で知らされた木下氏は、ただちに筧氏と一緒に門外で彼らと面会。その熱意に打たれて「一同の厚意に謝するとともに、遠路はるばる上京されたのだから、二重橋前もさることながら、皇居の内は人手不足のため、宮殿の焼跡には、いまだ瓦やコンクリートの破片が到るところに山積している。どうか、皇居の内にきて、それを片付けては下さらぬか、と提案したところ、この予期しない言葉に一同の喜びはたいへんなものであった」−−。
木下氏の証言によれば、皇居勤労奉仕はこのような形で始まったことになっている(同氏『皇室と国民』。)

当時の交通事情を考えると、宮城県栗原郡の地元から上京してくるだけで、大変な苦労があったはずだ。しかも終戦直後だから経済情勢は極めて悪く、食糧の入手さえ困難な状況下でのことだ。その上、皇室そのものの行く末もなお不透明だった頃である。
出獄した日本共産党の面々は虚脱した国民の前で「天皇制の打倒」を叫び、GHQは昭和天皇側近だった内大臣の木戸幸一を戦犯容疑者として捕らえ、皇族の長老、梨本宮守正王まで拘引される始末だった。

そうした中で、60人もの若者たちが意を決して上京してきたことは、じつに驚くべきことと言ってよい。ただし、木下氏の証言だとも六十人の青年グループが突然、皇居に押しかけて「手伝い」を申し出たように受けとれるが、じつはこれ以前に勤労奉仕の受け入れをめぐるやりとりがあった。
この点については筧氏の証言がある。

宮内省 総務課長の勇断
 
それによれば、ことのいきさつは以下の通りだった。
この年の11月22日、宮城県から上京してきた二人の人物が宮内省(当時)を訪れた。この時、二人に応対したのが筧氏だった。

この二人は、地元で指導的役割を果たしていた。一人は青年団運動のリーダー、鈴木徳一氏、46歳。もう一人は東久邇宮(*ひがしくにのみや)内閣の緒方竹虎国務大臣の秘書官だった長谷川竣氏(のちの衆議院議員)、33歳。彼らは現今の思想悪化を憂いつつ、なお皇室のことを思って荒れた皇居の清掃にあたりたいと願う青年男女がすでに地元に60名にもおよんでいることを告げ、勤労奉仕の許可を求めたのであった。

この熱意ある申し出に対し、筧氏はどう対応したのか。氏の証言を引用しよう。
「当時はすでに占領下にあって、ことごとに占領軍の抑圧を受けている極めて酷い事情の下にあるので、こういう申し出をされる方も命がけなら、それを受け入れる決断をする方もまた異常の覚悟を要する状態でした。(中略)これを組織による意思決定の形をとったら、(中略)万一の場合、上の方にご迷惑が及ぶことがあっては一大事であると考え(中略)一切の責任を負って自分だけの独断でやることを決意しました」(日本教文社編『皇居を愛する人々』)

かくて筧氏は、信頼するただ一人の上司にだけ打ち明け、その内諾を得るや、ただちに二人に勤労奉仕の許可を申し渡したのであった。何とも恐れ入った勇断と言うほかない。

この時、鈴木・長谷川両氏は、何の書類審査もなく即日、許可されてビックリ仰天したという。それも無理はない。ただでさえお役所仕事というのは手続きが煩雑で、時間がかかる。ましてや天皇陛下のお側近くで仕える宮内省に、まったく前例のないことを申請しようというのだから、二人とも相当に手間暇がかかることは覚悟していたはずだ。それなのにただ一回の口頭の申し入れただけで、ただちに願いが聞き届けられたのだから。


拡大する勤労奉仕にGHQが疑念
 
宮城県栗原郡の若者たちは「みくに奉仕団」と名乗った。正確には男性55名、女性7名の計62名で、団長の鈴木氏と副団長の長谷川氏を除き、ほとんどが22、3歳の若さだった。苛酷な占領下のことゆえ、彼らの行動に対しGHQがどのような対応をとるか予測がつかず、「娘っ子のうちには、両親兄弟と永い別れの水盃をかわしてきたものもいる」という(木下氏証言)。

むろん、占領当局によって拘束されるようなことはなかった。ばかりか、奉仕の初日に一同にとって思いもよらぬ感激的な場面が待っていた。みなの前に昭和天皇が姿を現されたのだ。
鈴木氏の証言を紹介する。

「奉仕はだんだん進んで正午近くになった頃です。静かだった奥御殿の石垣の上に、かすかに人の群の気配がするので、ひょっと見上げると、陛下がお立ちになって、こちらをご覧になっていられます。(中略)お付きの方が見えて、陛下がお呼びだという。私は作業衣のまま石段を上って御前にまいりますと、木下次長さんがお取次ぎで、いろいろ御下問を賜りました。(中略)やがてご政務所へお帰りになりましたが、その御後姿を拝し一同期せずして君が代を合唱しました。誰の眼にも涙がいっぱい光っていました」(前掲書)

その後、女官を伴って香淳皇后もお出ましになった。両陛下のお出ましに一同がどれほど感激したか、察するに余りあるだろう。
「みくに奉仕団」のことが各地に伝わると、我も我もと次々と奉仕団が結成され、勤労奉仕の申し出が宮内省に殺到した。何しろ翌21年には早くも188の奉仕団が名乗りをあげ、一万人余の人々が勤労奉仕に参加しているのだ。ピークは昭和26年で、何と4万人近くの国民が参加した(奉仕団は831団体)。

こうした動きに対し、GHQもさすがに疑念を抱き、背後に強力な組織があって、巨額の資金を投じ、彼らにとって良からぬ策謀をめぐらしているのではないかと、独自の調査を行ったらしい。その情報をキャッチした海外のメディアが奉仕団に取材をかけるようなこともあった。総力戦に敗れた国の君主制は第一次大戦時のドイツや第二次大戦時のイタリアのように滅びるのが通例だ。なのに日本の皇室の場合、滅びるどころか多くの国民がボランティアで皇居の清掃活動を行っている。彼らが不審に思うのも当然だ。だがもちろん、そこには何の背後関係もなかった。人々のひたむきな皇室への思いだけがあったのだ。

これまで累計 約120万人が奉仕
 
占領下から独立回復後、昭和から平成へと時代は推移しても、皇居勤労奉仕は一年の中断もなく続けられている。これまでの参加者は、昭和20年から平成19年までの累計で約120万人にも達している。

この勤労奉仕は、15名以上60名までの奉仕団を結成し、奉仕日(4日間)の半年ないし1ヶ月前までに名簿を提出して申し込めば、原則として誰でも参加することができる(詳しくは宮内庁のHP参照)。だから高校生や大学生などの奉仕団もある。

奉仕期間中の1日、やむを得ない事情がないかぎり、今も天皇・皇后両陛下から直接、お言葉をいただく機会がある。それは天皇と普通の国民が最も近づく貴重なチャンスと言ってよいだろう。


−戦にやぶれしあとのいまもなほ民のよりきてここに草とる(昭和天皇の御製)−


「SAPIO」、昭和天皇と私たち日本人の幸福な日々より
 
 
 
 

 
 
 
 
常に国民とともに、国民は皇室とともに・・これが日本のお国柄です。

皇尊 彌榮 彌榮 彌榮


天皇、皇后両陛下 萬歳  萬歳 萬歳


日本国民は(やまと民族)は皇室と共に
 
 
 
 
 

転載元転載元: 美しい国

14日、テレビ朝日で「ザ・スクープSP 玉音放送66年目の真相」をやっていた。
その中で昭和天皇の玉音放送に対しこう語りました。
 
「≪世界の大勢、亦我に利あらず、加之敵は新に残虐なる爆弾を使用して頻りに無辜を殺傷し惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。しかも尚、交戦を継続せむか、終に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延(しい)て人類の文明をも破却すべし≫ 
天皇陛下は反核・平和宣言をしたのである。・・・」
 
何と、先帝陛下は玉音放送で“反核・平和宣言”をしたのだ、と言ったのです。・・・
 
 
 
イメージ 1
 
一方、同じ日にNHKでは「NHKスペシャル 円の戦争」をやっていました。
過去のNHKのこの手の昭和の歴史に関するスペシャルは、
日本軍の良いところはやらず、軍は悪かったという固定観念のもと先人達を貶めて、
軍の悪辣さを広く国民に宣伝していこうというのがNHKのこの番組制作の目的であるのは明らかだ。
 
今回も番組の中では朝鮮や台湾を“植民地”と強調し、中華民国臨時政府などを“傀儡”と幾度も強調していました。
歴史をよく知らないで番組を見る視聴者にはこの“言葉”だけが印象に残るのではないか。
それ以上にあの暗く、陰湿なムードを演出した番組を見ているのも苦痛になり、
しまいにはチャンネルを変えてしまうのだろう。
その時に、「日本軍は本当にろくでもないなぁ」と思ってチャンネルを変えるのか、
「NHKは本当にろくでもないなぁ」と思ってチャンネルを変えるのか、では大きな違いがあるのです。
 
今回この番組では日本軍は戦費調達の為の資金を“世界で類を見ない特殊なシステムをつくり上げたと断罪した。
しかし、敵である国民党の蒋介石は米・英によって数十億ドルの資金や物資を援助されていたのだ。
敵のこの豊富な資金と物資にNHKはどのように対抗していけというのか。
断罪ばかり大きく取り上げて、日本軍の苦しさは全く考慮しない。
“戦争などしなければよかったのだ”と言いそうなNHK。
しかし、日本と支那は1918年のイルミナティとボリシェビキの日支闘争計画において戦うようになっていたのだ。
 
話はさかのぼります。
日本は日露戦争の激戦地、旅順港攻略戦で勝利しました。
その情報は満州からロスチャイルドに届きます。
日本戦勝の可能性を知ったロスチャイルドはロンドンに来た高橋是清に金を貸す約束をした。
実際にはジェイコブ・シフというユダヤ人のクーン・ローブ商会に戦時国債を売ることができたのです。
その背後で資金を提供したのがユダヤ財閥のロスチャイルドでした。
そして、彼らは日本にバルチック艦隊の大移動の詳細情報までも伝えたのです。
日本に日露戦争で勝利させて儲けて、次に日本を敗北させれば日露戦争で儲けた分の数十倍も金が儲けられる。日露戦争から第二次大戦に至る軍拡国家日本に巨大な投資をして巨大な利益をあげた。
今度はそして一気にぶっ壊す。
これが彼らの手口である。
これを見ずしてNHKは日本軍を断罪するために重箱の隅をつつき続けているとしか思えない。
特に番組では横浜正金銀行の場面である写真が写っていたが、
その写真にはモルガンと書いてあり、一緒に写っていた。
これは何を意味するのか。NHKは追求すべきではないか。・・・
 
 
 
イメージ 2
 
さて、その翌日15日にもNHKスペシャルをやっていました。
「日本はなぜ戦争へと向ったのか 戦中編 果てしなき戦線拡大の悲劇」。
“戦中編”ということで、19422月頃、つまりちょうど日本が連戦連勝から巻き返されていく頃を取上げたのです。
そして“国力数十倍のアメリカになぜ無謀な戦争を仕掛けることになったのか”というお決まりのことだ。
 
これも何も知らなければもっともだと納得してしまうかもしれない。
この“なぜ無謀な戦争を仕掛けることになったのか”というのは多くの国民は今もそう思っているかもしれない。
しかし、最近では真実の歴史が知られるようになって、
日本が仕掛けたのではなく“仕掛けられた”ということも理解されるようになりました。
日本軍を南進に方向転換させ米英戦へと仕向けたのはモスクワの手下であった。
日本を敗戦させ、その後共産主義革命によって日本を共産国家にし、
共産党が勝利した支那とソ連のこの三カ国が中心となって、アジア各国、東亜民族をも共産化して
共産主義の東亜建設を目論んでいたのです。
これはユダヤの世界を一つにするための一環であったのです。
 
番組にある通り、確かに日本軍は手を広げ過ぎてしまったのは明らかです。
当時、特に皇道派の真崎甚三郎や小畑敏四郎などはこれには大反対したが受け入れられなかった。
日米開戦の前に帝国陸軍内部の主戦派の統制派が慎重派である皇道派を追い出し、
特に現場を知らない机上の超エリートであった統制派幹部は戦争が下手であったのだ。
それは統制派主導で第二次上海事変となった時に統制派たちが苦戦に苦戦を重ねる中、
その後、皇道派の柳川平助が派遣され杭州湾から一気に攻め落として、
南京までの活路を見出したことでもわかる。
この功績を統制派は国内では柳川の名を伏せて報道した。皇道派の手柄を嫌ったのだ。
しかし、国難でもある戦争となれば皇道派も統制派もないはずですが、
東條はじめ陸軍を主導したのは最後まで統制派でした。
彼らは自ら戦争を望んで泥沼にはまっていったのだ。
統制派の軍首脳や企画院、マスコミには多くのマルキストがいました。
彼らはモスクワや支那共産党の工作にまんまと引っ掛かったのだ。
戦後、あの戦争で本当に勝利したのはソ連であったといわれています。
しかし、実際はその裏にあるユダヤ国際金融資本の儲けに貢献していったのです。
 
また、海軍の山本五十六が連合艦隊司令長官になった時、ハーバード大学ルートの情報で
「米国の海軍力は山本五十六が司令長官である間ならば日本に打って出ても勝算あり。
悪くても五分五分で決着がつくので早々に戦端を開くべきだ」と海軍側の意向が伝えられていました。
その理由は「山本はフリーメーソンの結社員だから」という。
・・・・・
 
NHKに決定的に欠けているものは何か?
愛国心だ。
国を愛さず、戦前をまるで悪の権化の如く決めつけ、先人たちの苦悩を“無能”と断罪し、
反核、反戦、平和主義路線の左翼丸出しの公共放送。
国を護るために命を捧げて戦った先人たちの無数の尊い命を、
まるで愚かで、無能で、悪者のように描き続けるNHK。
 
しかし、現在、おかしなテレビ局はNHKだけではないのだ。
冒頭のテレビ朝日もそう。
TBS、そしてフジテレビも露骨な韓国びいきだとして多くの国民から反発を買っている。
私の一番の悩みは軍は悪だと断罪しても、テレビ局を悪だと断罪するテレビ局がないということです。
・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
 
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