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先日の記事「昭和天皇と和歌について」の続きとして、夜久正雄氏の昭和天皇 の和歌にかんする文章から引用しました。
今上天皇の御歌の価値について現代の歌人はどう考えているのだろうか?
斎藤茂吉は御歌について「御発想が如何にも御自由で具体的で、従来のいはゆる御製調とも、いふべきものから著しく展開していることに瞠目した」(『天皇歌集・みやまきりしま』所載の論文より)と言い、その「展開」は「すべて、終戦後の御詠に属する」と言っている。「従来のいはゆる御製調」については、「歴代天皇の御製を拝読すると、お歌柄の上に何か一貫した特質と言ったものが感ぜられるやうに思ふ」と言い、「清純とか、おほどかとか、平明とかいふやうな抽象的な言葉を以て表現される、共通したある匂ひがあるのではあるまいか」と言う。 釈迢空・折口信夫もまた、異なる見地から同一の感じをのべている。「昭和御製と宮廷ぶりの歌」という御歌論に、まず短歌のれきしについての独自の見解を述べ、「帝王の御歌」の特質についてこう述べている。「その中、不思議な程、他と異なっているのは帝王の御歌であった。歌を読むと同時に、その組みあはされた個々の題材の関係などを了解する。その先に、いち速く来るのは、外形要素――しらべが、まづ特殊だと言ふことに気のつくことである。知識でもない、権威でもない、圧力でもない、おほどかにしてあたたかに、清くしてまどかなもの、さういふ形式要素が、何よりも強く我々に響くことに心づく。 これはおそらく、我々の持ってゐる伝統的な短歌に対する直感と言ふものが、既に綜合された感覚から出発してゐて、これが宮廷ぶりだと言ふことを、一刹那無意識に感じ、瞬間に他と判別することが出来るからであらう。だから私の話は別に神話を語り、呪詞を説いてゐるのではない。論より証拠、文学史上の証拠であり事実である。次いでは科学の裏書きが出て来るはずである」と。 また近ごろ『文藝春秋』の随筆欄に木俣修氏が、「今上陛下の御歌」と題する小論を寄せ、「歴代の天皇の御製に比べて陛下の御歌にはその人間としての御感情が何のおはからいもなくいきいきと流れていて、それぞれの御歌がわれわれの身近ににぐんぐんとせまって来るような思いがする」「自由でとどこおりのない人間的な御抒情のなかにおかすことのできない位を保たせておられる御歌風こそ、天皇ぶりの昭和の新風といってよいのではなかろうかと思う」と言う。 私自身の感想を述べると、今上天皇の御歌を読むと、自分のくるしみや悲しみがとけてゆくような感じがする。われわれがいきてゆく上には、理不尽な目にあって苦しみなやむ時もあるし、どうにもならぬ悲しみに沈むこともある。そういう時、今上天皇の、殊に戦後の御歌をよむと、その御歌には、自分の苦しみよりももっとはげしい苦しみをへてきた人の息づかいが感じられ、自分の悲しみよりももっと深い悲しみがたたへられているように感じられて、自分のくるしみや悲しみが御歌の作者の大きな悲哀と苦悩とにつつまれてしまうのである。 ここに、今の世の中をもっとも深く味わい、もっとも誠実に生きておられるお方がある、とおもうと、勇気が湧くのである。 この感じ、この感じを伝えることができれば、くどくどと理屈めいたことを書く必要はない。ぼくは、ただ、この感じをたしかめようとして、御歌を研究したのである。そして、いま、この感じは自分ひとりの感傷ではない。この感じをもたらすものは、御歌の価値である、と信ずるのである。人はこれを信仰とよんで笑うかもしれない。それはそれでいいが、そのために、御歌の芸術的価値は、変わることがないものと思う。 (昭和三十四年十月十五日)
ここで、明治天皇の御製と、昭和天皇の御製の感じの違いを味わって見るために、幾つかお二人の歌を謹載いたします。
明治天皇御製
(明治42年)
おのが身のまもり刀は天にますみおやの神のみたまなりけり
湊川懐古(明治35年)
あた波をふせぎし人はみなと川神となりてぞ世を守るらむ
柱(明治42年)
橿原のとほつみおやの宮柱たてそめしより国はうごかず
書(明治43年)
いそのかみふるごとぶみは万代もさかゆく国のたからなりけり
歌(明治39年)
すなほにてををしきものは敷島のやまと詞のすがたなりけり
折にふれて(明治45年)
思はざることのおこりて世の中は心のやすむ時なかりけり
折にふれて(明治39年)
みちのべにわれを迎ふるくにたみのただしきすがた見るぞうれしき
昭和天皇御製
洞爺丸事故(昭和29年)
その知らせ悲しく聞きてわざはひをふせぐその道疾くとこそ祈れ
(昭和22年)
をちこちの民のまゐきてうれしくぞ宮居のうちに今日もまたあふ
戦いにやぶれし後の今もなほ民のよりきてここに草とる
雲仙嶽にて(昭和24年発表)
高原にみやまきりしま美しくむらがりさきて小鳥とぶなり
朝陽映島(昭和24年発表)
高どののうへよりみればうつくしく朝日にはゆる沖のはつしま
和倉にて(同上)
月かげはひろくさやけし雲はれし秋の今宵のうなばらの上に
8月15日那須にて(昭和天皇と30年)
夢さめて旅寝の床に十とせてふむかし思へばむねせまりくる
千鳥ヶ淵戦没者墓苑(昭和34年)
くにのためいのちささげしひとびとのことを思へばむねせまりくる
立山御歌碑(大正14年)
立山のそらにそひゆるををしさにならへとぞ思ふみ代のすかたも
河水清(大正15年)
広き野をながれゆけども最上川海に入るまでにごらざりけり
香川県大島療養所(昭和25年)
あな悲し病忘れて旗をふる人の心のいかにと思へば
船ばたに立ちて島をば見つつ思ふ病やしなふ人のいかにと
折にふれて(昭和22年)
老人をわかき田子らのたすけあひていそしむすがたたふとしとみし
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天皇
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古来より天皇と和歌との結びつきは、非常に強く、歴代天皇は、和歌を詠むことで心の修養を積まれ、和歌を詠むことで心を慰められました。昭和天皇と和歌についての二人の方のお言葉を紹介したいと思います。これは昭和四十五年の時点でのお話ですので、今上天皇とは昭和天皇のことです。
宮中三殿
■夜久正雄亜細亜大学国文学教授の言葉から
歌を作るということは、自分の心を言葉にあらわすことによって人に伝えることでありますが、同時に自らをみつめかえりみることであります。「自覚」ということです。このことは誰でもできるたやすいことのようでもありますが、実際にやってみると、実にむづかしいことであり、深い意味をもっていることがわかります。
今上天皇様は、この御修養としての歌の道を御生涯にわたってふみ行なっていらっしゃるのです。ですから、こうした御努力のあととしてのお歌は、発表されたその時々に、読む者の心をあたたかく導いてくださるお歌でしたが、さらに全体を通じて拝誦しますと、昭和五十年の国の歩みそのものが、お歌にあらわされていると思われるのです。
国の政治に労せられるお心のお歌、神々祭祀のお歌、戦死者慰霊のお歌、災害を悲しまれるお歌、各種産業御見聞のお歌、自然観賞のお歌、御家庭生活のお歌、年毎の歌会始のお歌、植林事業のお歌、国民体育大会のお歌、外国元首に対するお歌、生物学語研究のお歌等々、お歌の題材は、まことの歌の道がそうであるように人生万般にわたっております。
そうしてこうしたお歌にはもちろん天皇様の御経験が表現されているのですが、その御経験の内容は、われわれ国民の味わったこの時代の経験と本質的には変わらないものであることが、お歌を拝誦するとよくわかるのです。日本人はみな日本人として、――つまり国の運命のもとに一種の劇的な経験をしていると言うことができましょう。天皇様はそうした国民の歩みの先頭にお立ちになって、国家の運命そのものを身を以て経験されるのであります。
ですから、お歌を拝誦すると、われわれ国民の先頭に立って雄々しく歩んでゆかれる天皇様のお心が、ありがたくかなしく仰がれるのです。数ならぬ身のわれわれもまた、この天皇様のもとでこの時代を生きてきたのだ、この世を生きているのだという実感が、痛切に味わわれます。この思いが究極において日本国民の信念であり生きがいではないでしょうか。この気持は、お歌を読み味わうことによって養われ深められ強められるのであります。
今上天皇様のお気持ちのお歌の中に、こういうお歌があるのを皆さまはご存知でしょうか。「七十歳になりて」という題の昭和四十五年(1970)のお歌です。四首連作のはじめの三首を引用します。
七十(ななそぢ)の祝ひをうけてかへりみれば ただおもはゆく思ほゆるのみ
ななそぢを迎へたりけるこの朝も 祈るはただに国のたひらぎ
よろこびもかなしみも民と共にして年はすぎゆきいまはななそぢ
「よろこびもかなしみも民と共にして」――とお詠みになられる天皇様の深いお心に、われわれは何としてお答えしたらよいのでしょうか。天皇様のおよろこびとおかなしみとをしのびまつることによってわが身を正すことこそ、天皇様のお心におこたえする道ではありますまいか。国を思うことが天皇陛下のお心をしのぶことと一致するのが日本の国の国柄ではないでしょうか。お歌を読んでつくづくそう思います。
■元掌典長 甘露寺受長(かんろじをさなが)氏の言葉
思うに陛下は、歌のほかに御心を自由に現されることはないのであって、歌を通じてのみ思いのままを表現され本当の思召を述べていられる。
大正天皇は漢詩が特に御堪能で歴代中御一人と思われるほどであった。明治天皇は広く知られているように歌聖といわれた御方であったが、明治様も今上天皇もともにおほらかで平易で何人にも同感される御歌を詠まれた。明治天皇にも今上天皇にも戦後の御歌が多いのは、やはり、もの思われる感情のたかまりは国家非常の場合に多いのであろうと拝察する。
なほ今上天皇の神事に対する御態度の立派さは申すまでもないが、昭和二九年の神嘗祭には当時掌典長の私に侍従を通じて二首の御歌をお示しになった。これは神事に対する御心の深さを示されたものとして私の終生忘れ得ぬところである。
昭和天皇の御製のいくつかご紹介しておきます。
大正十年(一九歳の時の御歌)
社頭暁 とりがねに夜はほのぼのとあけそめて代々木の宮のもりぞみえゆく
ちなみに同じ年の大正天皇の同じお題の御製は
神まつるわが白妙の袖の上にかつうすれ行くみあかしのかげ
でした。
社頭雪(昭和六年) ふる雪にこころきよめて安らけき世をこそいのれ神のひろまへ
朝海(昭和八年)
天地の神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を
神苑朝(昭和十三年)
静かなる神のみそのの朝ぼらけ世のありさまもかかれとぞおもふ
迎年祈世(昭和十五年)
西ひがしむつみかはして栄ゆかむ世をこそいのれとしのはじめに
連峰雲(昭和十七年)
峯つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり
社頭寒梅(昭和二十年御歌会始)
風さむきしもよの月に世を祈るひろまへ清くうめかをるなり
折にふれて(昭和二十年)
海の外(と)の陸(くが)に小島にのこる民の上安かれとただいのるなり
松上雪(昭和二十一年)
ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ
災害地を視察したる折に(同年) 戦いのわざはひうけし国民をおもふ心にいでたちて来ぬ
わざはひをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしとぞ思ふ
靖国神社九十年祭(昭和三十四年) ここのそぢへたる宮居の神々の国にささげしいさををぞおもふ 蔵前国技館「相撲」の御製の歌碑 ひさしくもみざりしすまひひとびとと手をたたきつつ見るがたのしさ (歌碑建設の由来 昭和三十一年九月?十五日・大麻唯男謹識として次のように書かれている。 「昭和三十年五月 天皇陛下親しく蔵前国技館に行幸はじめて国民と共に本場所を御覧あらせられた 陛下は終戦時国民を想い「五内(ごだい)為ニ裂ク」と仰せられた 又日常国民の上に御心の安まる間とてもない 然るに御観覧中は椅子を進められ拍手を送られ大衆も之に和するという光景を現出したのであった 天皇が一般国民と一つになって我国の国技たる相撲を御覧になった和やかな情景は戦前では見られないことであった 陛下がかくもお喜びになったことが新聞ラジオテレビジョンによって伝えられるや国民全体はまた心の底から喜んだのである これは其時の御製であって翌年正月初めて発表されたものである 我国相撲道の発展興隆期して待つべく大日本相撲協会の光栄まことに大なりと言うべきである」) |
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井上雅夫同志社大学准教授の論文(平成19年)のつづきを転載します。
天皇様の祈り――国安かれ民安かれ
幕末の維新の時、尊皇倒幕運動が起こりました。そして日本は開国していく。その時孝明天皇様は日本の行く末を大変憂慮されました。その孝明天皇様はこんな歌を歌っておられます。
此の春は花うぐひすも捨てにけり我がなす業(わざ)ぞ国民(くにたみ)のこと (文久三年)
とお詠みになっておられます。更に少し前に、
国民(くにたみ)のやすけきことをけふここにむかひて祈る神の御前(みまえ)に (嘉永七年、安政元年)
日々日々の書につけても国民(くにたみ)のやすき文字こそ見まくほしけれ (文久三年)
国民が安らかであることを一番願っている、とおっしゃっているのです。この孝明天皇様の御気持を、当時の徳川将軍は持っていたでしょうか。維新の運動というものは、孝明天皇様の御心を皆が受け取って動いたと言われています。維新が大きな運動になり得たのも、こういう陛下のお気持ちのおかげだったのです。
当時日本が国難の時、一歩間違えば西洋の餌食になる可能性が大いにありました。それを免れたのはこの陛下のお祈りであり、維新の運動であるのです。更に、幕府は進んで大政を奉還しました。これも素晴らしいことです。大政というものは本来常に天皇様が持っておられるのですが、ここでは現実の政治をももう一度返し奉るといっているのです。しかも整然と行われた。外国ではありえないことです。やはり江戸時代でも皇室の権威がいかに高かったかを示しています。
終戦の時もそうでした。日本という国は皇室によって守られているのです。陛下が祈っておられるのはいつも「国安かれ民安かれ」なのです。
天皇様の御仁慈
ドナルド・キーンさんが「明治天皇を語る」という本を書いておられます。この本の中で言っておられるのですが、日清戦争が日本の勝利で終わった時、明治天皇は、「勝利できたのは国民すべてのお陰である。・・・日本が勝利に驕慢(きょうまん)となり理由なく相手国を侮辱するなど友好国の信頼を失うようなことがあってはならない」とおっしゃった。
これに対してキーンさんは、「これは意外な発言です。大体において、当時の王や大統領は、戦争が終わってすぐに言うのは、憎むべき敵に勝ってよかったというようなことでしょう。」と述べています。ところが明治天皇はそんなことを一言もおっしゃっていないのです。「清国とまた伝統的ないい関係を早く結べること」を望まれたのです。昨日の敵は今日の友なのです。明治天皇様の御歌の中にも、
国のためあだなす仇は砕くとも 慈しむべき事な忘れそ (明治三十七年)
敵に対しても慈愛を持て、とおっしゃっていたのです。そういうことを言う君主は他国にはいないのです。キーンさんも言っておられるように、普通なら、憎むべき敵に勝ったから良かった、と誇るのが普通です。しかもさらに明治天皇様は、日露戦争においても旅順が陥落した時、最初に言われたことは、相手の将軍である「ステッセルの武人としての名誉を大切にせよというものでした。よかったとか、素晴らしい勝利だということではなかった。敵の将軍のことを心配して」おられたのです。
さらに日露戦争後に、次のような歌を歌っておられます。
神がきに涙たむけてをがむらし かへるをまちし親も妻子も (明治三十九年)
陛下は戦いが終わったあとも、兵士を、そしてその家族のことを思っておられたのです。ある意味では勝敗のことなど思っておられないのです。そういうお気持ちを常に持っておられました。そして、こんな御製も詠んでおられます。
国のためたふれし人を惜しむにも思ふはおやのこころなりけり (明治三十七年)
戦死した人を考えると、その親がどんなに悲しんでいるかを常に考えておられるのです。決して戦争を賛美しようとか、煽ろうなどと、そんなことは微塵も考えておられないのです。それが日本の天皇様なのです。昭和天皇様も、昭和三十七年にこんな歌を歌っておられます。
忘れめや 戦の庭にたふれしは 暮らしささへし をのこなりしを
もう昭和三十七年ですから、戦争から十七年経っています。そのときでも陛下は悲しんでおられるのです。ですから日本という国は、他の国とまったく違うのです。そういう国柄なのです。
フランス人のポール・ボネさんという人が、三十年ほど前初めて日本にきた時、新年の皇居参賀を見てびっくりしていました。この国では、皆が新年を天皇陛下と共に祝っている、こんなことはヨーロッパではまずない。ヨーロッパ人が、慶びを元首と分かち合うのは、せいぜい戦争に勝ったときぐらいのものである。ところが、日本では天皇陛下と喜びを分かち合っていると。こういうことも、天皇陛下と国民の深いつながりがあるからこそなのです。
この度の悠仁親王様のご誕生でもそうでした。みんなが心から喜びました。そして親王殿下が産院からお帰りになる時も多くの人が沿道に並んでいました。ここにも皇室への自然な敬愛が表れています。グローバル化だとか日本は欧米化したらいいと思っている人もいますが、世界にない誇るべき国柄をもつ”日本”というものをしっかりと守っていくべきです。
日本ほど平和な国はない
日本という国は皇室と国民が非常に素晴らしい関係であったのみならず、古来「日本(やまと)は浦安の国」と言われたように日本ほど昔から平和な国はないのです。日本は決して好戦的ではない。日清戦争、日露戦争など、全部日本はやむを得ず戦った戦争ばかりです。
「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」という明治天皇様の御歌でも、やむを得ず戦ったことを歌っておられます。西欧では君主というものは戦いの先頭に立つ戦士王という性格が強く、そうでなければ駄目なのです。日本はそうではありません。国旗にしても国歌にしても静かで穏やかです。ヨーロッパの国旗国歌の多くは軍歌であり軍旗に由来しています。
先ほどのポール・ボネさんも、「多くの国の国家はきわめて戦闘的である・・・日本の国歌には、敵もなければ剣もない」、「君が代」が「軍国主義につながる」というのなら、フランス国歌は「どうなるのだろうと反問したい気持ちにさせられる」と言っておられます。君が代を歌っていたら戦争する気もなくなるでしょう。こんな平和な感じの国歌は世界に稀なものです。
京都御所の美しさの根源
保田與重郎先生が「京あない」という作品の中で「京都の様々な名所旧跡、人文芸術の遺品と現物を数へあげて、最後の最後に於て、何が最も京都であらうか。ためらひもなく私にいへるのは、それは御所であるといふ一言である。その美しさ、気分と雰囲気、それは京都の最高のものであるのみならず、日本の最高の美であらう。旧江戸城のの皇居と異なり、わが京の都の御所には、一重の普通の塀の他に、なんの防壁も関所もない。この無防備の王城は、世界に比類ないものともいはれた。この無防備の王城は、国初めよりつねに国民結合の精神の中心として尊崇されてきたのである。この尊崇のこころが、無防備といふ事実の原因である。そしてその無防備はわが国がらを端的にあらわしてゐる。そしてそれが御所の美しさの原因である」と書いておられます。
つまり御所の美しさは国民の皇室に対する敬愛から来るのであり、それがそこに表れているのです。このような御所とともに、平安時代の京都には里御所、里内裏というものがありました。いわば仮の御所で庶民の住む町中にあり、これを里御所といいます。そういう所だと、ますます国民と非常に近い関係にあられました。堅固で豪壮な宮殿にいて国民から本質においてかけ離れている西洋の君主とはおよそ違うのです。我々は「開かれた皇室」などという浅薄な議論に惑わされず、外国には見られない神代よりの皇室と国民の深い絆を大切にしていきたいものです。
日本において、天皇と国民が対立したという事例は、一例もありません。常に皇室は尊崇の対象であり、また天皇も、国民をわが子のように慈しまれました。天皇は一年を通じて、祭祀をとり行われ、神々に祈られます。そこには敬虔なお気持ちと、天照大御神の御神勅の精神を自らの心とするという強い信仰がおありになるのだと拝察されます。
常に「国安かれ民安かれ」と祈られる無私の御心は、御所の無防備を疑う必要もないほどに、徹底していたということだと思います。その無私の精神は、終戦後の昭和天皇のマッカーサーとの会見、及び全国ご巡幸が、なんの警備もなく無防備の中で行われたことにもよく表れています。
これほど徹底した無私の心というものが、世界の歴史上の他国の君主にあったでしょうか、日本の天皇という存在の不思議さは、日本の神秘の中の一番の神秘といえるのではないかと思います。
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井上雅夫同志社大学准教授の論文(平成19年)から転載です。
神代につながる”三種の神器”の不思議
天皇様の御位を継がれる重要な御印として”三種の神器”があります。「三種神宝(みくさのかむたから)」といいます。御剣と勾玉と御鏡の八咫鏡です。神秘なものなのです。御剣は八岐大蛇の尾から出てきた剣です。天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)です。しかもそれは今も熱田神宮の御神体でちゃんとお祀りされています。御鏡は皇大神宮(伊勢神宮)にお祀りされています。八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は天の岩戸の前におかれた真賢木の上つ枝(ほつえ)に、御鏡は中つ枝にかけられていたものです。勾玉は常に陛下のお側にあります。
我々は、合理的に考えればいろいろな考え方ができるでしょうが、やはりその不思議さに素直に感動したいものです。神代において、神様が使われた物が今ここにあるのです。これだけでもすごいことです。『古事記』を読むと、天孫御降臨の時に天照大御神様が「これの鏡は、もはらあが御魂として、あが前を拝(いわ)ふがごとくいつきまつれ」とお諭しになりました。だからまさに、天照大御神そのものとしてお祀りされているのです。
日本という国は、神話が単なる過去のものではなく、本当に現実に神様の世から続いている国なのです。そういう不思議なことは不思議なこととして大切にしていきたいものです。合理的な理屈を付ける必要はありません。
熱田神宮の天叢雲剣は、別名「草薙の剣」といいます。これは日本武尊様が草を薙られたというので「草薙の剣」といいます。その時に火打石を使われました。その火打石も熱田神宮にお祀りされています。きちんと御本殿とは別のお社にお祀りされています。だから、神代、あるいは神代に近い時代の非常に不思議な事柄が全部今、目の前に伝わっているのです。
賢所(かしこどころ)御神楽(みかぐら)は”天の岩戸のお神楽”とおなじもの
宮中三殿には掌典といわれる神官がおられます。そして女性の神官もおられます。内掌典といいます。数名の内掌典の内のお一人の高谷朝子さんが、五十七年間仕えて辞められ、最近、自分のことを書かれた「宮中賢所物語」という本を出版されました。
この内掌典さんは、昼も夜も宮中三殿で天照大御神様に仕えておられました。ですから、世間とは没交渉の生活をしておられました。そういう方は髪型も昔風の髪型なので、うっかり外に出られないというのです。言葉も平安時代の御所言葉です。そういうまったく世の中の動きとはぜんぜん異なるところで毎日、天照大御神様に仕えておられるのです。ここで日々祈っておられることは、国家の安泰と国民の安寧だけであり、皇室はご自身のことはお祈りにならないのです。これが「無私」の御祭祀の一番の特徴なのです。
日本という国が素晴らしいのは、誰も知らないような所で、毎日こんな尊い祈りが行われていることです。我々は本当に有り難い国に生れているのです。その宮中三殿の一つ賢所での大変重要なお祭りは、十二月半ばに行われる賢所御神楽だと言われています。これは天照大御神様が天の岩戸におかくれになった時に、天の岩戸の前でなされたお神楽と同じものだとされています。それがそのまま今日まで続けられているのです。
一般人である我々はそのような素晴らしい物が伝えられていることさえ知りません。しかし、このような神秘と言ってもいいようなことが、皇居の中で行われてきたのです。こんな大切なお祭りなのに、このお祭りの費用や掌典さんや内掌典さんの給料がみな陛下が私費、いわばポケットマネーから出しておられるというのですから、現在の憲法がいかにおかしいかが分かります。
つづく
古事記の神話に出てくる物が、いまなおそのままに伝えられて、三種の神器として伝わり、お祀りされていたりしていること。あるいは、古事記や日本書紀に登場される方々のうち、天上の高天原から地上に降臨された瓊瓊杵尊と、その次の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと、別名山幸彦)、そして三代目の鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)という神武天皇以前の日向三代といわれる方々は、天上ではなく地上で亡くなられたので、地上にお墓、つまり御陵がちゃんと残っていて宮内庁が現在も管理していること。もちろん初代の神武天皇から歴代の天皇の御陵もきちんと残っているということ。この不思議さに、感動を覚えない人がいるでしょうか。
神話が歴史とつながっているという日本の国、これはものすごい神秘な国柄ではないでしょうか。この神秘の国の伝統、それがずっと続いているという素晴らしさ、このことをもっと日本人は大切にしなくてはいけないと思います。万世一系という、男系継承で今上陛下の御代まで続いてきました。これを、現時点の国民の勝手な議論で変更して女系天皇を擁立したら、その時点で、この神秘の継承は終わります。
男系継承は、歴史上もいろいろ危機的なことがありましたが、それでも男系の子孫を立てて、少し離れた血筋からでもはっきりとわかっている方はいますから、その方を擁立して、万世一系を守り抜いて来ました。
現在の皇室は、GHQによって、本来は皇統を維持するための血のスペアのような家柄の皇族の方々を総て廃して一般人に降下させてしまい、直系のみを残しましたから、現在のような皇統の危機を招いてしまったのです。
これは明らかにGHQによる、日本の天皇を中心とした国柄を自然消滅させる意図で行われた政策です。当時は日本人はみな天皇陛下をお慕いして、もしも天皇を廃するようなことがあれば、占領に支障をきたし、平和に占領することなど出来なかったので、時間をかけて、日本をゆっくり弱体化させ、歴史的国家日本を自然解体させ、別の国へと変革させようとしたのです。歴史を持たない国は、弱いですから、自分たちに敵対する力は二度と持たせないようにと考えたはずです。
そのために憲法も変えさせられ、皇室典範も変えさせられ、国民主権という名の憲法のもとで、国会で決議さえすれば、どんな長い歴史をもつ伝統も自由に変えられるようにしたのです。
国民主権とは、本来は不文法と言われるその国に不可欠で大切な、過去から未来の総ての国民が守るべき決まりを、その時点の国民のみの多数決によって、簡単に廃棄してしまうことができるという制度です。だからエドモンド・バークはこの国民主権というものの怖さを指摘して、決して国民のためにならないものとして否定しています。
国民主権は、国家を国民の利益のための組合、つまり契約国家という視点で見る制度で、国民同士の契約によって、成り立つ国家であるため。契約違反だと感じれば、すぐに訴訟が起きます。そして現時点の国民の利益や考え方などによる多数決が、全てのものを、伝統も法律も変えることができるのです。それは取り返しのできないものにすら、時には容赦なく行われます。
現在の日本国憲法の前文にも、「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。(中略) これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」とあり、国民の多数決でなんでもできると書いてあるのです。
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サイタニのブログからの転載です。
終戦直 前に、皇族が戦地に飛んで、昭和天皇の停戦の御心を伝えられましたが、終戦後も自由に動けない昭和天皇かわりに、歴代天皇陵をすべて回って敗 戦の御報告と日本復興の御加護をお祈りするようにと、昭和天皇から命ぜられます。
これもやはり皇族でしかできないお役目です。日本は祭祀の国なのです。日 本は、国でも個人の家でも、古来より、先祖の祀りを大切にしてきた文化の国柄なのです。だから敗戦という未曽有の出来事においては、なおさら、これは大事 なこ とであったと思います。
竹田 恒泰著 「皇族たちの真実」より 歴代天皇陵御代拝
終戦の混乱もやや落ち着きかけた10月10日、昭和天皇は御自ら伊勢神宮に御参りになった。終戦を御報告されたことと思われる。その後11月29日には皇族男子に三度目の御召があり、昭和天皇は七名の皇族に、ある御使い御命ぜられた。
「百二十三に及ぶ歴代天皇の御陵に親しく自分がお参りしたいのだが、それはとても今の状態では出来ない。神武(じんむ)天皇の畝傍(うねび)陵と明治天皇の桃山陵と大正天皇の多摩陵とこの三ツの御陵には自分でご報告をし請願をするが、あとの百二十の歴代天皇の御陵には、ご苦労だが君達が手分けをして代参してくれ」(竹田恒徳『終戦秘話』)
そのお使いとは、山陵(さんりょう)御差遣、つまり歴代天皇陵への御代拝だった。昭和天皇からは、戦争のこのような終戦は自分の不徳の致すところであり、それを謝り、日本の今後の復興に対して御加護を祈るように、そして今回の皇族の御代拝で国民と皇室との結びつきをより深めることを希望する、との御話があった。
御陵が集中している京都へ出かけたのは高松宮だった。宮は12月2日から4日間をかけて、京都中の御陵をくまなく訪れ、御代拝した。分刻みで多くの御陵を御代拝する様子は『高松宮日記』に記されている。そして高松宮は関西地区、三笠宮は九州地区、朝香宮は大阪地方、東久邇宮若宮(盛厚(もりひろ)王)は京都地方、竹田宮は四国と淡路島、閑院宮は奈良地方を、また賀陽若宮(邦壽王)も特使として
山稜〔天皇の御稜〕を回った。
昭和天皇は御自ら、また親族から勅使を御立てになり、終戦という国の大事を、先祖である歴代天皇の御陵に御報告なさり、これからの日本の行く末を護っていただくように御請願なさった。
歴代天皇は天皇の先祖であると同時に、皇族にとっても先祖であり、このときに皇族が御代拝をしたことは意味深い。そして、皇族が手分けをして全国の御陵を訪れたことは、終戦の早い段階で 天皇の行幸があったのと近い効果があったはずだ。
例えば高松宮はこの御差遣に際して京都と大阪で数多くの病院や行政機関などを訪問し、また各界の要人と会談した。
このとき昭和天皇は「皇族は朕(ちん)と民衆との間に在りて、此の点に充分尽力ありたき」と仰せられた。終戦の混乱期において天皇の分身として身軽に動き回ることができたのは皇族しかいなかった。この時期に皇族はさまざまな役割を担ったが、その中でも取り分け、外地及び内地への聖旨伝達と山陵御差遣は、皇族であってはじめて遂行できる極めて重要な任務である。
そして、敗戦国の武装解除が無血で完了したことは、人類史上極めて異例なことであり、その上で皇族たちは絶大なる役割を担ったことになる。
注:これを見ると、今言われている女性宮家創設はやはり無理ではないか、女性が代拝出来る日は限られるからである。皇族を復帰させるのが皇室を安定させることであり、しいては日本が繁栄するのである。(皇室の事は皇室が決めるのが一番良いと思う) (皇室が安定することが日本繁栄に何故繋がるかは、このブログを最初から読んで頂いた方にはお解かりでしょうが、途中からの方にはいずれ再び書きたいと思う。皇室が無くなったら日本は滅びると思って頂きたい。それほど重要な事である。) サイタニ |






