サイタニのブログからの転載です。終戦時の昭和天皇の御聖断により、ポツダム宣言受諾の決定が下され、その速やかな停戦を行なうために、前線に皇族の方々が派遣されます。それは日本国始まって以来の敗戦という結果を受け止めるためには、皇族の方々が、天皇の意を伝えるという方法以外に、混乱なく戦争継続中の軍隊が戈(ほこ)を収める方法が無かったからであり、それ故、皇族という立場とその任務は重いものでした。竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より
最前線へ飛ぶ皇族たち
皇族男子が日本の降伏を知らされたのは昭和20年8月12日のことだった。
午後3時20分、在京する皇族男子全員が宮中の御文庫附属室に呼ばれた。 高松宮、三笠宮、賀陽宮(かやのみや)(恒憲王(つねのりおう)、邦壽王(くにながおう))、久邇宮(くにのみや)、梨本宮(なしもとのみや)、 朝香宮(あさかのみや)、東久邇宮(ひがしくにのみや)、稔彦王(なるひこおう)、盛厚王(もりひろおう))、竹田宮(たけだのみや)、閑院宮(かんいんのみや)、李王垠(りおうぎん)、李鍵公(りけんこう)
の、各皇族および王公族十三方が沈痛な面持ちで身なりを正す中、 大元帥服を御召になった 昭和天皇が御出ましになり、正面の玉座に御座りになった。
そのときの 昭和天皇の御様子については、東久邇宮は、「天皇陛下は、お顔の色が悪くて、たいへんにおやつれになり、非常に神経質になっておられ、胸潰るる思いがした」と記し、また竹田宮恒徳王(つねよし)は 「天皇陛下は今迄拝したことのない程に緊張された御様子」「しばらくお目にかからない間に、なんと深いご心労を宿されたことか」と後に記している。
「陛下の御耳に雑音を入れないため」との理由で、戦争中皇族たちは、 天皇に拝謁することが原則的に禁止されていた。昭和天皇の弟宮だけは参内することが許されていたが、秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう)は結核を患って長期間療養をしていたため、天皇の前に進むことができたのは高松宮宣仁親王(たかまつのみやのぶひとしんのう)と三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう)だけだった。
またそのほかの皇族が何かの機会に陛下の御目にかかることがあっても、ほかのことは一切申し上げてはいけないと侍従から注意があったという。そのため、この日呼ばれた皇族たちは久方ぶりに 天皇の謁を拝した。天皇の憔悴(しょうすい)なさった御姿を目の当たりにし、目を伏せた者も多かったという。
また当時侍従長であった藤田尚徳(ふじたひさのり)大将の著した『侍従長の回想』によると、昭和天皇の体重は通常17貫(約64㎏)であったが、終戦の時期には15貫(約56㎏)まで御痩せになっていらっしゃったことが分かる。藤田によるとそれは「激務と御心労、それに食事の粗末さからくるもの」だという。
参集した皇族たちに対し 昭和天皇から、ポツダム宣言を受諾することにした趣旨について御話があり、(陛下は込み上げるものを、そっと胸に抑えておられるような御様子で、しかし、不動のご決意を込めて、しっかりと)
「私自身はどうなってもよいから、ここで戦争を止めるべきだと思う。そこで自分は 明治天皇の三国干渉当時の御心労を偲び、ポツダム宣言を受けて、戦いを止める決心をした。どうか私の心中を了解してくれ、そしてこれからは日本の再建に皆真剣に取り組んでもらいたい」(竹田恒徳『終戦秘話』)
と御言葉を御続けになった。 それに対して最年長の梨本宮が代表して、「陛下の御英断に謹んでお従い致します。そして今後共国体の護持に全力を尽します」と奉答した。召された皇族たちは全員軍人であり、戦争が最悪の局面に達していることを承知していた。
このときの昭和天皇のお姿に接し、皇族たちは次のように思いを綴っている。「私は戦争及び終戦の御苦労の結果と、つくづく御同情申上げ、そしてー 何とかして、陛下の御安心のゆくようにしてあげたいーと、ひとり心に誓った」(東久邇宮稔彦王)(東久邇稔彦『私の記録』
「ふだんはむしろ女性的にさえ思えるほど、お優しい陛下が、この日本存亡の際にお示しになった、不退転のご決意を秘められた荘厳なお姿を、私は生涯忘れることができない」(竹田宮恒徳王)(竹田恒徳『雲の上、下思い出話』)
注:陛下の側に近づけなかったとあるが、真意はわからないが、当時の軍の上層部は天皇陛下をないがしろにして独断で決めていたと言う事を聞いたことがある。
結局終戦の時はさすがに自分達では決めきらなくて、天皇陛下にお伺いをたてたようである。
特使となった三皇族
運命の8月15日正午、日本の敗戦、そしてポツダム宣言の受諾を告げる玉音が放送された。昭和天皇の二番目の弟である高松宮と高松宮妃喜久子(きくこ)はその日の朝5時、東京を出発して御殿場にある秩父宮別邸に向かった。実の兄である秩父宮とともに玉音放送を聞くためである。この頃秩父宮は肺を患い御殿場の別邸で療養していたが、病床の兄宮がたった一人で放送を聞くことの辛さを察した高松宮は、一緒に聞くことにしたのだった。床に臥せる秩父宮を、秩父宮妃勢津子(せつこ)、高松宮、高松宮妃喜久子の三方が取り囲み、揃って玉音を拝した。両宮妃は声を上げて泣いたという。
玉音放送があった翌日の8月16日、朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこ)、東久邇宮稔彦王、竹田宮恒徳王、閑院宮春仁(かんいんのみやはるひと)の四名に、昭和天皇から突然の御召があった。東久邇宮を除いて三名は何の御用かさっぱり分からずにいた。東久邇宮を残して三名が先に、昭和天皇の御前に案内された。
天皇は14日の日と同様の緊張した面持ちで、「終戦をつつがなく行なうために、一番心配なのは現に敵と向かい合っている我が第一線の軍隊が本当にここで戈を収めてくれるという事だ。蓋(けだ)し現に敵と相対している者が武器を捨てて戦いを止めるという事は本当に難かしいことだと思う。
しかし、ここで軽挙盲動されたら終戦は水の泡となる。自分が自ら第一線を廻って自分の気持をよく将兵に伝えたいが、それは不可能だ。ご苦労だが君たちが夫々手分けして第一線に行って自分に代わって自分の心中をよく第一線の将兵に伝え、終戦を徹底させてほしい。急ぐ事だから飛行機の準備は既に命じてある。
ご苦労だがあした早朝発ってくれ(竹田恒徳『終戦秘話』)と仰せられた。 朝香宮は支那派遣軍に、竹田宮は関東軍と朝鮮軍に、そして閑院宮は南方総軍にそれぞれ 天皇の特使として終戦の聖旨を伝達しに行くことになった。
一人控え室に残った東久邇宮にはその直後に大命降下があり、東久邇宮内閤が誕生する。つつがく終戦させるために皇族たちがそれぞれ大役を仰せつかったのである。
皇居からの帰り道、竹田宮は思いがけない重責に緊張しながらも深く覚悟を決めていた。つい7月まで関東軍参謀として満州帝国の首都新京(満州国時代の長春の呼称)に赴任していたことから、ソ連軍と中国軍の進駐が目前に迫る現地の混乱ぶりは容易に想像がついていた。
関東軍に幕引きを命じに向かう心境は悲痛なものであったろう。竹田宮は「これは誠に大変なお役目である、果して無事に帰れるとも分からない」と思い、帰宅するとすぐに身辺の整理を始めた。するとその日の午後、内閣総理大臣に就任したばかりの束久邇宮から電語があり、赤坂離宮の組閣本部に来てほしいと言われた。
竹田宮が組閣本部に出向くと、東久邇宮首相と東郷外相から「竹田さんは満州に行くそうだが、もしできたら溥儀(ふぎ)満州国皇帝に会って、皇帝が希望されたならば、一緒に日本へ連れてきてもらいたい」と依頼されたのだ。
ただし「もちろん、あなたの本来の任務は聖旨の伝達にあるのだから、無理をしてまでとの依頼ではないのだが」とのことだった。宮は天皇からは聖旨伝達を、また首相からは満州国皇帝を亡命させることの密命を受けたのである。
朝香宮、閑院宮、竹田宮の三宮はその日の夜8時頃に朝香宮邸に参集し、現地に赴いた際の言動について打ち合わせをした。翌8月17日午前9時頃、 三宮はそれぞれ現地に向かって本土を後にした。
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より |
天皇
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竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より
なぜ男系継承にこだわったか
毎月7日間天皇が不在になる
時代と共に 天皇のあり方は変化しているが、古代から現在まで変わらないところがあるとすれば、それは、天皇は神事を行なう存在であるということだ。具体的には毎年正月に行なわれる四方拝(しほうはい)、秋の新嘗祭(にいなめさい)などの大祭をはじめとし、天皇は日々数々の神事を行なうため、多忙を極める。
神事は 天皇の最も重要な役割の一つである。「政」と書いて「まつりごと」と読ませるように、神事は政治の重要な要素と観念されてきた。
ところが、古代から現在に至るまで、「月のさわり」、つまり生理中の女性は全ての神事にかかわることが厳しく禁止されてきた。なぜならば、朝廷において出産と死、そして生理は「穢れ」として忌み嫌われてきたからである。そのため、皇子が誕生する場合でも宮中を稜さないために、御所の外での出産が義務づけられてきた。また出産の場面に立ち会った人も稜れを受けたとして、一定期間宮中への参内を禁止されたほどの徹底ぶりである。
明治以降、出産を稜れとして憚(はばか)らないことが決められたが、生理と人の死については、いまだに稜れであるとされている。祖母の竹田光子から伝え聞いた話によると、曾祖母の竹田宮昌子内親王(明治天皇の皇女)は当主の竹田宮恒久王が神事を行なうに当たり、毎日その準備を手伝っていたが、自らが生理期間中は決して神殿に近づこうとせず、また女性の職員たちにも、各々生理期間中は神事に一切かかわってはいけないと厳しく監視していたという。
したがって、もし女性が 天皇になった場合、1か月のうち、およそ7日間は神事を行なえないことになる。日々行なわれる神事が滞ることになるばかりか、万一、生理と元日や新嘗祭などが重なった場合、重要な神事を中止または延期しなくてはいけない事態に陥る。延期しても差し支えない神事であればよいが、元日の四方拝や秋の新嘗祭などは、その日の決められた時間に行うからこそ意味があるものであり、延期させること自体が趣旨に反するため、事実上中止を余儀なくされることになる。
古くは関白や女官、また現代では皇族や侍従などが御代拝をすることはできても、それが続くと 天皇の尊厳に影響することにもなる。また四方拝や大嘗祭(だいじょうさい)などの重要な神事は御代拝が許されず、天皇自ら行なわなければいけないものとされてきた。
江戸時代には明正天皇と後桜町天皇の二方の女帝があったが、その時期、宮中祭祀は不十分にしか行なわれなかった。例えば、数ある宮中祭祀のうち毎年元日に行なわれる四方拝は最も重要なものとされるが、明正天皇と後桜町天皇の代にこの四方拝は行なわれていない。
戦国時代から江戸期にかけて多くの宮中祭祀が中断を余儀なくされたものの、この四方拝だけはほとんど中断することなく続けられてきた。それにもかかわらず女帝の間、四方拝は中止されていたのである。また 天皇が即位して最初に行われる新嘗祭は大嘗祭と呼ばれ、天皇一代一回限りの重要な神事とされている。応仁の乱以降中断していた大嘗祭が再興されたのは江戸初期の東山天皇の代であったため、それ以前に即位した明正天皇の代に大嘗祭は行なわれなかった。
また後桜町天皇は大嘗祭を行なったものの、その時期については女帝特有の配慮がされた。つまり、新嘗祭、大嘗祭は11月の2回目の卯の日か3回目の卯の日に行なわれることになっているのだが、天皇が「月のさわり」に入っていた場合は大嘗祭を行なうことができないため、初めの卯の日である11月8日と決めた上で、万一天皇が「月のさわり」となったら、次の卯の日である20日に変更するという配慮がされたのである。
ちなみに後桜町天皇の大嘗祭は予定通り8日に行なわれた。しかし後桜町天皇は、その後毎年行なわれる新嘗祭に一度も出ていない。このように、女帝は本質的には 天皇の役を果たすことはできないのである
女帝の困難性
次に、出産に関する困難について述べる。本来女帝はいったん即位したら生涯独身を強制され、また生涯出産が禁止される不文律があったとみえるが、もし女系の 天皇が認められ、女帝が出産することが許されたとしても、女帝が出産することについては大きな問題があることを指摘しなくてはいけない。
つまり、出産の前後は 天皇としての職務を行なうことができず、その間 天皇が事実上不在となってしまう。しかも、天皇は子沢山であることが望まれるため、出産は繰り返されることが期待されるが、出産のたびに長期間 天皇不在となってしまうことは問題である。
重要な神事にたびたび 天皇が欠席することがあれば、天皇の権威に影響を及ぼすことになる。天皇に求められるのは神事だけではない。天皇の役割を全うしようとすると出産ができず、また多くの出産をしようとすると 天皇の役割を全うすることができなくなる。
これはつまり、より多くの出産と、天皇の役割の両方を一人に求める ことは、完全に矛盾することを意味する。もし無理にこれを求めれば一人の女性に過度な負担をかけることになり、どちらも中途半端にならざるを得ない。
さらに、出産自体が危険であることも無視できない。近年は医療が進歩し、出産のリスクは軽減されつつあるが、近世以前において出産は母子ともに死と隣り合わせだった。『孝明天皇紀』や『明治天皇紀』などの記録を眺めていても、出産に際して母子ともに死亡するといった記事にしばしば出会う。出産の都度 天皇を死の危険に晒(さら)すことは、皇統の維持を不安定にさせることになる。
ここで、女性は死の危険にあってもよいといっているわけではないことに注意していただきたい。男性と女性では生理的な違いがあることは紛れもない事実であり、役割が異なっていると指摘しているに留まる。
例えば、現在の日本において女性が総理大臣になったとしよう。そして彼女が在任中にいきなり出産をすると言い出したら、日本国民全員が困ることになるだろう。出産をするのは自由だが、少なくとも総理を 退任した後にしてほしいという議論が起こるのは必至だ。
また総理大臣は本人の意思でいつでも退任することができるが、女帝の場合は譲位しても上皇となるわけで、一生その立場から逃れることができず、現代では譲位すら認められない。
したがって女性が天皇になることは、頻繁に天皇不在を生じさせるだけでなく、皇統の維持を女帝の出産に頼ることで、女帝自身を頻繁に晒すことになる。そのために皇位は男系の男子が継承しなければいけないものであると認識されてきた。
女帝の困難性はそれだけではない。天皇の配偶者には複数の皇子女を儲けることが求められるため、もし女性が 天皇になると、天皇が皇后を兼務するのと同じことになり、それは一人に無理な負担をかけることになる。天皇が激務であると同時に、天皇の配偶者も激務である。
古代より男性が 天皇となってきたが、これは男性と女性で効率的に役割の分担をしていた結果であるともいえよう。一人の女性に天皇としての役割を求めつつも、複数の皇子女を出産して育て上げることまでも求めるなら、それは無理というものだ。
したがって特殊な事情で女性が 天皇となった場合も、皇太子が実質的に、天皇の職務を遂行するなどの措置が取られてきた。そして 天皇の配偶者は複数置かれることが原則とされていたため、実質的には一人の 男性と複数の女性によって役割を分担してきたことになる。
次に、女帝を立てた場合、女帝の結婚相手については大きな問題があることを指摘しなくてはならない。そもそも女帝は生涯独身でいなければいけない不文律があったが、もし女系の天皇を認めて、女帝も結婚しなければいけないとしても、女帝もしくは女性皇太子の 結婚相手を探すのは事実上不可能である。女帝の配偶者になる人物は 相応の格が求められるが、近親をのぞいて相応の候補は存在しない。
解答は先例にあり
ヨーロッパでは、各国の王家の間で姻戚関係が頻繁に結ばれてきた。女性皇太子と諸外国の王子であれば釣り合いが取れる。
有名なところでは、例えばフランスのルイー6世に嫁いだマリー・アントワネットはハプスブルク家(オーストリア)の出身であった。このように王家の間の婚姻は現在に至っても頻繁に繰り返されている。
現在の英国女王のエリザベスニ世の夫のエジンバラ公は、ギリシャ王家のグリュツクスブルク家出身である。
しかし、日本の場合、天皇に外国出身の配偶者がつき、その子供が皇位に就いたことはただの一例もない。昭和22年に施行された現行の日本国憲法の第一条に
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」
と明記されているが、皇祖から現在に至るまで、時代によって 天皇の役割は変化しつつも、変わらないものがあるとすれば、それは、天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であり続けたということである。
したがって、天皇の配偶者が外国人であっては、天皇は日本の象徴にならない。よって天皇の配偶者は外国人であってはならないことになる。
そのため、日本はヨーロッパと違い、近隣諸国の王家の王子を女帝の配偶者に迎え入れることは全く以って不可能である。
日本とヨiロッパは背景が異なっているのだ。外国の王室から日本の皇室に縁談話が持ち込まれたことがあるが、これは不調に終わった。
明治14年にハワイ国王のカラカウア王が来日して明治天皇と会談したとき、カラカウア王は姪のカイウラニ一当時5歳)と山階宮定麿(やましなのみやさだまろ)王一当時13歳、海軍兵学校在学)との縁談を申し込んだ。カラカウア王は、この縁談を成立させることでハワイが米国に併合されるのを防ぐことができると考えていたと思われる。
しかし、明治天皇は書簡にて、定麿王は既に結婚相手が決まっていることを理由にこの縁談話を断った。だが実際の理由は、この縁組が欧米の反感を買うことになり、また皇族が外国人と結婚することは日本の伝統から大きく逸脱することになるからである。
カイウラニは王位継承者であったが、明治28年(1895一、ハワイ王国は滅亡した。また、北白川宮能久親(きたしらかわのみやよしひさ)王はドイツ留学中にドイツ貴族の娘と結婚したが、後に無理やり離婚させられている。
続く 日本の天皇という存在がヨーロッパの王室と違うのは祭祀王であるところですが、このたくさんの祭祀を行うには、確かに女性天皇ではかなり無理があるようです。 現在でも、天皇陛下はご多忙をきわめ、祭祀や御公務で、毎日のスケジュールは分刻みのような所があります。ブログ「美しい国」にはそんな天皇陛下の日々のお勤めの数々が紹介されていますが、年間数多くある祭祀に加え、各地各イベントへの訪問、各国大使や来日した重要人物との謁見などがほとんど毎日あります。肉体的精神的な疲労も大きいのではと思われるようなお仕事が多いです。それに加えて、震災豪雨の被災地訪問もあります。
もし仮に女性天皇が認められたとして、天皇としてのお勤めに加えて、母親としてお子様の育児なども手がけるとしたら、あまりにも負担が大きすぎる気がします。更には女性の生理出産と言った部分でも、やはり、女性天皇では、どうしても天皇のお勤めを全うできない部分が出てくるようです。
ところで記事中にフランスのブルボン王朝の話が出てきますが、ブルボン王朝というのは、日本の皇室と同じく、厳格な男系継承でした。ヨーロッパにも男系継承にこだわった王家があったのですね。
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サイタニのブログからの転載です。
皇位の万世一系というのが、男系継承をさすものであるのは天皇の歴史を少し学んだ人ならば知っていることです。神話の時代から、皇位は、一系の男系からのみ、天皇を出しているのです。ここで女系を認めたら、皇室以外の男系の家系からの男子が皇位を継ぐことになり、万世一系は終りを告げます。
竹田氏がおっしゃっているように、2000年続いたこの男系の伝統を簡単に変えることは、これを守り続けた先人を粗末にするものです。それはもはや天皇ではないと言うのは、正しいことだと思います。それは明らかに、別のもの、新しい王朝が始まったというべきです。
神話によれば、天皇すなわち日嗣の皇子の始まりは、天照大御神と須佐之男命が子供を産み合って、須佐之男命に謀反の心がないことを証しされたことから始まります。
須佐之男命が腰に佩いておられた十握剣を天照大神にお渡しになり、天照大御神が天の真名井でそれをすすいで噛み砕いて吹き棄てられた霧から生れたのが三柱の女神であり、これは須佐之男命の剣より生れた神なので、須佐之男命の子供であるということになりました。
天照大御神が御首に巻いた八尺瓊の勾玉(やさかにのまがたま)の五百津の御統(みすまる)の珠を須佐之男命にお渡しになり、須佐之男命が天の真名井ですすぎ、それを噛み砕いてふきすてられた霧になりませる神が正勝吾勝勝速日天の忍穂耳尊(まさかあかつかちはやびあめのおしほみみのみこと)で、この方が第一代の天津日嗣の御子です。
この方が地上に降臨する予定だった時に、御子が生れたので、その御子、天邇岐志国邇岐志 天津日高日子番能邇邇芸命(あめにぎしくににぎしあまつひだかひこほににぎのみこと)が降臨されることになったのです。ニニギノミコトから数えて4代目が神武天皇です。以来ずっと男系で継承されています。
つまり天照大御神の御統の珠(魂)を受けて須佐之男命がそれを噛み砕いて唾きと混ぜて吹き棄てられたというのは、魂は天照大御神から頂き、身体は男性である須佐之男命から頂いたといえるのではないでしょうか。だから男の御子を天照太御神の御子と認められて、それ以来の男系一系がずっと続いているのです。
この男系が途絶えたならば、それは天照太御神の魂を受け継ぐという形が崩れることになり、もはや天皇という神事の世界の神話が崩れることになるのではと思います。日本の天皇は単なる遺伝的血統ではなく、その継承も、神話から由来する神事であると思います。だから単に血筋ではいけないのであって、男系ということが絶対に必要なのだと思います。 転載開始 竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より
なぜ男系継承にこだわったか
男系継承による「万世一系」は口に言うのは容易(たやす)くとも、これを少なくとも1500年以上、場合によっては2000年以上といった長きにわたって、一度も途切れさせることなく繋いできたことは、困難の極みであり、これは先人たちの並々ならぬ努力の賜物だといえる。
我々の祖先がどれほどまで皇位の男系継承にこだわり続けてきたか、お分かりいただけただろう。では、先人たちはなぜ、皇位の男系継承に執念ともいうべきこだわりを貫き通してきたのか、その理由について現在の皇室制度改革議論における視点を含めて述べることにする。
世界最古の家柄 なぜ、男系にこだわらなければならないのか。その最たる理由は、皇統の男系継承は2000年の伝統があるからということに尽きる。これだけ長い間育まれ、そして守られてきた伝統的慣習を簡単に変更するというのであれば、それは先祖に申し訳ないことであると考えなくてはならない。
「皇統はなぜ男系により継承されなければならないのか。女系ではいけないのか」という設問に出会うことがあるが、この設問は的を外したものであるといわざるを得ない。なぜなら、男系により継承されてきたものを 天皇家というのであり、皇統が女系により継承されたとしても、それは 天皇家とはいえないからだ。
分かりやすくいうと次のようになる。たとえば、世界最古の木造建築は法隆寺であるが、老朽化が著しいからといって鉄筋コンクリートで立て替えたとしたら、それはもはや法隆寺ではない。鉄筋コンクリートが悪いのではなく、法隆寺に鉄筋コンクリートはふさわしくないということである。
これと同様に、天皇家は男系により継承される世界最古の家柄であるが、男系継承が困難だからといって女系天皇が即位したとしたら、それは 天皇ではなく、皇統は断絶したことになる。
諸外国には女系の王を立てる国があるがこれを批判しているのではない。女系が悪いのではなく、天皇家に女系天皇はふさわしくないということである。したがって、皇位の男系継承は、それが既に2000年続く伝統的慣習というだけで、守らなければいけないことの十分な理由になる。
本来男系を守り抜くことは困難なことであるにもかかわらず、これだけ長く繋げてきたということは、それだけで男系継承には価値があるのだ。そして、伝統というのは、何か必ず忌みがあるから継承されてきていることは既に述べた。先人たちがこれほど長い間大切にしてきたものであるなら、その理由に関わらず、先祖に敬意を表して継承していくべきだろう。
しかし、だからといって先祖が男系継承にこだわった理由を全く述べないのは適切さに欠けるので、本書では男系継承の意義について、重要と思われる点をいくつか述べることにする。
血を受け継ぐ人、受け継がない人
先人たちが男系継承にこだわった最大の理由は、男系こそが「皇祖の血を受け継ぐ人」であると観念してきたからである。これを理解するためには、まず「血を受け継ぐ」ことの意味を知らなくてはいけない。それは、「なぜ 天皇は尊いのか」という問いに答える ことで明らかになる。読者はこの問いにどのように答えるだろうか。
天皇は頭がよいから尊いのか、天皇は容姿が優れているから尊いのか、それとも 天皇は人気があるから尊いのか、全て否である。もちろん、歴代 天皇の中には大変優秀な方も多数いらっしゃったことは事実である。しかし優秀さなどは 天皇の本質ではないことも事実である。もし頭がよい人を 天皇にするべきなら、東京大学を主席で卒業した人を天皇にすればよいし、容姿が優れていて人気がある人を 天皇にすべきなら、一番売れている芸能人を 天皇にすれば済む話である。しかし、そのように選ばれた 天皇は決して尊くはない。
では、なぜ天皇は尊いのか。それは皇祖、つまり初代天皇の血を受け継いでいるからである。歴代の 天皇は、皇祖の血を受け継いできている。それゆえに 天皇は尊いのである。東京大学に入ろうと思ったら、試験をパスすればよい。総理大臣になろうと思ったら選挙で当選し、首班指名を受ければよい。しかし、いかに才能があろうとも、人気があろうとも、聖人君子であろうとも、皇統に属する男系の子孫でない限り決して天皇になることはできない。だから 天皇は尊いのだ。
このように、日本では古来より 天皇の男系の男子が皇祖の血を受け継ぐと観念されてきたことで、皇位の男系継承が伝統的慣習になったのである。そして、血を受け継いできた期間が長ければ長いほど、天皇は尊くなる。もし今が古代で、建国から数百年しか経過していないとしたら、その長さは他の王朝の長さとさほど違いがないので、唯一の存在ではなかったかもしれない。
しかし、「初代天皇が誰であるか」といった歴史学的な議論があるにせよ、 日本の 天皇はおよそ2000年以上、また少なくとも1500年以上万世一系を保ってきた。これだけの長きにわたって一っの血筋を保ってきた君主を戴(いただ)くのは、世界広しといえども、日本の 天皇家だけである。
次の理由として、日本の社会は男系社会であるという点が挙げられる。男系社会というと、それは女性差別であると考える読者もいることだろう。しかし、「家が男系により継承される」というのは日本の伝統的な文化であり、決して女性差別ではない。
これは過去の遺物ではなく、また皇室独自の価値観でもない。むしろ男系継承は現代社会に深く根ざした価値観であり、現代人の生活習慣に溶け込んでいる。あまりにも身近であるためにかえって意識することがないのかもしれない。 例えば、現代の日本では男女同権で、女性が結婚後も旧姓を名乗ることも法律的に認められている。しかし、九割以上の女性は結婚後に夫の姓を名乗っている。
この事実は、女性が結婚によって夫の家に入り、その姓を名乗ること、つまり「家は男系によって継承される」という価値観は、多くの日本人にとって違和感がないことを意味する。
継承者がいなくて困っているのは現在の皇室だけではない。伝統芸能の家、代々続く老舗などでは男子がいなければ同じ苦悩を抱えている。そしてその悩む姿は日本社会では自然な姿である。
男系継承という考え方は、現代とは縁もない遠い昔の理論ではなく、また皇室独自のものでもない。まさしく長い間日本の社会に深く浸透した価値観である。
平成17年11月24日に「皇室典範に関する有識者会議」は、皇位継承はこれまでの男系継承に替わって第一子優先にすべきであると結論したが、男女の別なく第一子に家を継がせるという価値観は、むしろ現代日本には馴染みのない価値観であり、違和感があると私は思う。
男系と女系を区別することで、家の領域がはっきりし、誰がどの家に属しているかが明確になることは既に述べたが、これを崩してしまうと、本家も分家も、はたまた女系の他家までもが同じ位置づけになってしまう。
すると 天皇の近親者の数が何倍にも膨れ上がることになる。時代が下るにしたがって 天皇の家族が無限に増大してしまうことになる。そうなると皇室自体が一般の家と変わりがないことになる。そしてそれは男系により継承されてきた世界最古の家柄である 天皇家の断絶を意味するととらえるべきだ。 次に女性天皇の困難性について考えたい。我が国の歴史には八方十代の女帝の歴史が刻まれているが、いずれも中継ぎ役としての特殊な例であり、歴史的に皇位は男性が継ぐべきだとされてきた。女性が 天皇となった場合の不都合を、現代の視点を盛り込んで述べる。
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サイタニのブログの竹田恒泰著「皇族たちの真実」よりの、つづきです。
直系や近親に男系男子がない場合、たとえ遠くとも、傍系から男系男子を皇位継承者にする方法が取られるのが、不変の法則でした。
これはある意味、直系に於いて、皇位継承の皇子が幼少に無くなる、或いは若くして亡くなることなどが続いていたりする場合も多いようですから、これによってある種の遺伝的なもの、あるいは体制的なものなどが、傍系に移ることで、刷新されて、健全化する効果があったのではと、私は思います。 光格天皇は、傍系として軽んぜられているという事を幼少ながら感じ取っておられたらしく、理想的な天皇像を追い求め、それを立派に演じよう、という志を強くお持ちだったようです。光格天皇を案じた先々代の後桜町院は天皇に学問を熱心におすすめになり、その助言に従って、光格天皇はよく努力されました。一七歳では近臣の補弼を得ながら、自ら朝廷の中心となって、政務を取り仕切っておられたようです。この点も、この時代の数代の天皇とは異なっていました。
そして、この光格天皇の理想の天皇像を追求され、時には幕府にも意見を言われる姿勢が、多くの庶民の間で、天皇の権威を高めてゆき、後の大政奉還の基を築いたと思われます。
先帝の皇女を皇后に
光格天皇のように傍系から践祚した例は、一二四回繰り返されてきた皇位継承のドラマの中でも継体天皇、後花園天皇、そして光格天皇のわずか三例しか存在していない、いずれも皇室にとって危急存亡の秋であった。
ここで極めて重要な点を指摘しなくてはいけない。崩じた後桃園天皇の皇女欣子内親王が光格天皇の皇后とされたことである。これは、閑院宮出身の光格天皇と先帝との血縁を濃密にするための措置にほかならない。
新帝は閑院宮から擁立されたが、天皇家を置き去りにすることはなかつたのだ。皇位継承者が不在という局面で傍系から天皇を擁立したことは、皇位を男系継承させ、最も重要な伝統を守ったことになるが、一方で新帝と先帝が遠縁であるという問題を生じさせた。しかし、先帝の皇女が新帝の皇后になることにより、新帝と先帝との間の血縁を一挙に近づけることに成功した。
この方策にはモデルがあり、その先例に従ったものだった。それは継体天皇の例である。皇統断絶の危機の一つとして既に示した武烈天皇から継体天皇への皇位継承のとき、傍系の継体天皇は、武烈天皇の姉で仁賢天皇皇女に当たる手白香皇女を皇后としたことは既に述べたが、光格天皇が欣子内親王を皇后としたのは、この先例に従ったものだった。
ちなみに、手白香皇女は後に継体天皇の嫡子たる欽明天皇を出産したことも注目すべきである。それにより現在の天皇家の血筋は手白香皇女を通じて仁賢天皇以前から、また継体天皇の父系を通じて応神天皇以前から繋がっていることになるからだ。
祐宮が選ばれた理由 安永8年当時世襲親王家は四家あり、その中に多数の男子皇族がいた。誰を天皇にするべきかの選考を行なうに当たり、継体天皇を先例とし、先帝の皇女との婚姻が前提、もしくは優先されたと考えられる。すると侯補者はおのずとわずか数名の若年皇族に絞られることになる。
安永8年生まれの先帝の皇女との婚姻を考えると、年齢的に釣り合っている必要があり、また未婚者で、かつ宮家を継承する予定がないことが望ましい。またその頃、宮家の当主とならなかった男子皇族は出家して門跡寺院の門跡となることが慣習であったが、門跡を継いだ入道親王を還俗させるよりは、いまだ門跡を継いでいない若い皇族の中から候補者を選ぶことが優先されたと考えられる。安永8年に御桃園天皇が崩御した時の未だ門跡を継いでいない皇族男子は八方あった。
嘉禰宮(後の貞敬親王(さだよししんのう))は伏見宮当主を、また美仁(はるひと)親王は閑院宮当主をそれぞれ継承する予定があったため、この二人は候補から外されたのではないだろうか。
また、当時は幼児の死亡率が高いため、少なくとも5歳程度に育っていた方が安心できたと思われる。よって特に幼少の佳宮(よしのみや)、艶宮(つやのみや)、健宮も早い段階で候補から外されたと思われる。
すると、残るは閑院宮の公延(こうえん)入道親王、祐宮、そして寛宮の三方となるが、その中で祐宮が選ばれた理由は明確ではない。推論するに、公延入道親王は明和4年一1767)に仏門に入って以来だいぶ時間が経過していたことが懸念され、年齢的な問題で候補から外されたのではないだろうか。
また寛宮は安永8年3月に召し返しになっているものの、安永2年(1773)にいったん梶井門跡を継いでいることが関係しているように思われる。すると、祐宮は門跡を継いでいない皇族の中で適齢であり、この条件を満たすのは祐宮一人だったことになる。
祐宮以外の侯補は既に門跡となっていたか、もしくはそれが正式に決まっていた。祐宮は将来聖護院門跡を継ぐことが予定されていたものの、その正式な手続きを済ませていなかったことが強く影響したとみえる。
ちなみに、聖護院門跡は後に弟の寛宮が継ぐことになる。さらに、祐宮が最終侯補とされたのは、四つの世襲親王家のうち、最も新しい宮家が閑院宮であったことが大きく作用している。つまり閑院宮は 天皇家から最も近い血筋を引いているのだ。したがって、初めから閑院宮は最有力侯補であったと思われる。このように、傍系から即位する皇族として祐宮が選ばれたことには必然性があった。
近代への礎を築く
現代人の感覚では、時の 天皇の直系が皇位を継ぐべきだととらえるだろう。しかし、生前譲位や年少天皇が認められない時代や、嫡系継承よりも兄弟継承を優先した時代もあり、皇位継承の方法は時代によって大きな違いがあったことは事実である。
だが男系継承の掟(おきて)だけはいかなる場合にも変えられることはなかった。歴史的に皇位継承の順位は大まかには次のとおりである。
1、嫡系男子2、庶系男子 3、男系の傍系の男子 4
中継ぎ的に男系の女子生まれる順序などにより、庶系男子が嫡系男子を差し
置いて即位した例もあるが、基本的にはこのとおりである。
直系や近親に男系男子があればそれに越したことはないが、ない場合、たとえ遠くとも、傍系から男系男子を皇位継承者にする方法が取られてきた。これが不変の法則なのである。
続く 近代への礎を築く
光格天皇が践祚したこのとき、表面上は空位がなかったかのように繕(つくろ)われたが、実際は先帝崩御から新帝践祚までの約一か月間、天皇が不在であったことになる。このように傍系から 天皇を擁立させたということは本家が途絶えたことを意味する。
祐宮は傍系であるも、東山天皇の曾孫に当たるため、前出の二例と同様に皇位が異なった家系に移ったわけではないが、光格天皇への皇位継承は綱渡り的な荒技であったことは事実である。
傍系から即位した光格天皇は、皇統を繋いだだけでなく、我が国の近代への礎を築く天皇となるそのため、光格天皇の即位は極めて重要な意味を持っといわなければならない。
光格天皇は安永8年に8歳という幼さで天皇の位に就き、後に譲位するまでの38年間在位した。この在位期間は 昭和天皇の64年、明治天皇の46年に次いで三番目の長さに当たる。
光格天皇は譲位後も更に23年間院政を敷いたため、通算62年間君臨したことになり、その長さは実質的には昭和天皇に匹敵する。光格天皇は歴代の天皇の中でも特に理想的な天皇像と君主意識を明確に持ち合わせた天皇であつた。幕府の勢いに陰りが見え始め、維新への足音が聞こえ始めた時期である。
そして孫の孝明天皇が日本史上極めて重要な時期に 天皇として大活躍するための確固とした基盤は、既に光格天皇がつくり上げていた。
光格天皇は間接的ではあるが、後の明治維新に多大なる影響を与えたのだ。 光格天皇が崩御したとき、後に孝明天皇となる孫の統仁(おさひと)親王は満9歳でああったが、光格天皇の気概は確実に孫に受け継がれていた。 また光格天皇は崩御の後にその功績を称えて「光格天皇」という天皇号が贈られたことには注目すべきである。当時は 天皇が崩御すると院号が贈られるのみだったのだが、数百年ぶりに天皇号が贈られたことで日本中が驚かされた。
天皇号が贈られることの意味は、このようにさらりと書いてしまうと分かりづらいが、実はこのことは朝廷にとって、いや日本の歴史にとって大事件であった。
先帝が崩御あそばされた後に「昭和天皇」と天皇号が贈られたことは読者もよく知っていることだろう。このように天皇が崩御した後に「何々天皇」という天皇号が贈られるのは現在では制度として確立しているが、光格天皇が崩御した時代は、天皇は崩御後「何々院」と称されるのみであった。
例えば後鳥羽上皇が「後鳥羽院」、白河上皇が「白河院」といった具合であり、「何々天皇」と称されることはなかった。遡(さかのぼ)れば平安時代中期の 村上天皇以前は天皇号が贈られていた。しかしその習慣は以降約900年間の長きにわたって中断されていた。
光格天皇に天皇号が贈られたことは、その偉大さを象徴するものであり、光格天皇の人生の総決算となった。 |
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昨日は天皇誕生日でした。私も国旗日の丸を掲揚しましたが、パッと見た感じで、うちの町内で日の丸を揚げているところはほかになかった気がします。
日の丸を掲げたいと思う人はいるのかも知れませんが、ほとんどの家が掲げていない中で掲げるのは気おくれがして、できない人もいるのでしょう。
とはいえ、揚げている家がないのは寂しいものです。
祭日に国旗を掲げることは本来あたり前のことでした。この慣習を復活させるには、勇気を持って少数の人が揚げ続ける運動をするしかないと思います。
ところで、今日これほど内外に問題が山積している中、国民が心を一つにして日本を復興させ国家のゆく道を明るいものに盛り上げる努力をするための、その精神的支柱とも言うべき御存在があるとすれば、天皇陛下を於いてほかにありません。
その天皇陛下のお誕生日をお祝いする日に、国中に日の丸が飜えらないなどおかしいのではないでしょうか。私たちは、二千年の歴史の始まりから万世一系の天皇陛下を戴く日本人です。その日本人が、国旗日の丸を家々の玄関に掲げないのはおかしいと思います。
国民として日の丸を掲げにくい雰囲気を創り上げてきたのは、日教組であり、左翼言論人たちです。愛国心を悪いもののように教え、天皇陛下を尊崇することを冷ややかな目で見るようなそんな進歩的文化人を多くもてはやしたマスコミの責任です。 日本の敗戦後の占領下で、マスコミは占領軍によって利用され、占領軍の意を受けた機関となりました。以来共産主義者や、占領軍や戦後の時代に阿(おもね)る進歩的文化人たちで牛耳られ、その時の体制がいまも続いています。
松浦光修先生のコラムに、今上陛下が戦後ずっとそうした占領体制と戦ってこられたことが書いてあります。以下にその一部を転載いたします。
転載開始
「仁者に敵なし」 今上陛下の“戦い” コラムはまだまだ続きますが、転載はここで終わりにします。
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