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サイタニのブログに竹田恒泰氏の女系天皇というものは存在しないこと、皇室の伝統ではないことを説明した文章を載せておられます。以下に転載して、現在行われている女性宮家が、女系天皇への道を開くもので、我が国の歴史(万世一系の天皇という国体)を断絶させる非常な危険なものである理由を明らかにしたいと思います。
竹田 恒泰 著 「皇族たちの真実」より
過去三回あった皇統断絶の危機
問題になるのが、残りの三例である。この三例は、皇統の危機であり、万世一系の危機であった。いずれも天皇に息子がいない上、近親に一人も男系男子がいなかった。
皇統の危機を先人たちはどのように切り抜けたのだろうか。
三例のうち一番古い例は第二十六代継体天皇、次が第一〇二代後花園天皇の例である。まずこの二例について説明する。 天皇家始まって以来の皇統の危機を繋いだのは継体天皇だった。継体天皇は先代の 武烈天皇から見ると十親等の隔たりがあり、「祖父同士がはとこ」という関係に当たる。現在の日常生活では従兄弟ですら疎遠になりがちで、はとことなると一度も会ったことがない場合が多いのではないだろうか。
しかも「祖父同士がはとこ」とはもはや他人と呼んでも差し支えないほどの遠縁である。武烈天皇には皇子がおらず、男の兄弟もいなかった。武烈天皇が崩御して天皇の後継問題が深刻化し、しばらく空位が続いた後に 三顧の礼で迎えられた男大迹王(おおどのおおきみ)が即位して継体天皇となったと伝えられている。継体天皇は応神天皇の男系の五世孫、つまり玄孫の子に当たるため、男系継承が守られたことになる。
だがこの時期に王朝の交代があったのではないかという説も存在している。しかし、それは応神天皇の五世孫であるという継体天皇の出自に疑いを示しているのみで、立証に至っていない、それどころか、継体天皇は仁賢(にんけん)天皇(武烈天皇の父)皇女の手白香皇女(たしらかのひめみこ)と結婚し、皇后としている。
しかも仁賢天皇の他の皇女である、春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)、 橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)も、それぞれ安閑(あんかん)天皇(継体天皇の第一皇子)、宣化(せんか)天皇(継体天皇の第二皇子)の皇后となつている。
したがって武烈天皇までの王朝と継体天皇からの王朝が別のものであると考えるのは不自然であろう。よって、継体天皇の即位は血筋の違う地方豪族が武力によって皇位を簒奪(さんだつ)したものではなく、祖先を同じくするふたつの皇統が、この婚姻によって再統合したと考えるべきである。私はこの時期に王朝交代はなかったとの通説は自然なものだと思う。
伏見宮家から即位 時代を下ること900年、室町時代の天皇家に二度目の皇統断絶の危機が訪れた。このときに皇統を繋いだのが後花園(ごはなぞの)天皇だつた。後花園天皇も先代の称光(しようこう)天皇から十親等の遠縁にあたる。皇子のなかった称光天皇が崩ずると父帝の後小松(ごこうまつ)上皇が伏見宮貞成(ふしみのみやさだふさ)親王の第一皇子彦仁(ひこひと)を御所に迎え入れ、践祚させた。 このときは皇統を巡り南朝と北朝で争いがあった時期であり、空位はなんとしても避けなければならないという切羽詰った事情があつたようだ。
後花園天皇は北朝第三代崇光天皇の男系の曾孫に当たるため、ここでもやはり皇位が全く別の家に渡ったわけではない。そもそも伏見宮自体が皇統を安定させるために創設された経緯もあり、また、もともと伏見宮家は、持明院統の正嫡の家柄であった。
皇位継承とは血のリレーであり、宮家とは血のリレーの伴走者であるとは評論家の大宅壮一の残した言葉であり、後花園蚕が皇統を繋いだことで、伏見宮は血のリレーの伴走者の役をよく果たしたことになる。
後桃園天皇崩御で皇統の危機
さらに時代が下ることおよそ360年、三度目の皇統断絶の危機が訪れた。江戸時代後期の安永8年(1779)10月29日、皇室は皇祖以来最大の困難に直面する。系譜上第一一八代に数えられる後桃園天皇が崩御したこの日、天皇が不在となったのだ。
本来であれば天皇の在位中に皇太子が立てられ、天皇崩御の日か、その翌日に皇太子が践祚して皇位が継承されるはずであった。しかし、後桃園天皇は幼い欣子(よしこ)内親王(後の新清和院(しんせいわいん))一人を残して22歳という若さでこの世を去ったため、皇太子となるべき皇子がいなかった。
そのうえ、天皇の近親に皇族男子が一人もいなかったため、皇位継承者不在のまま天皇崩御となり、空位が生じるに至った〔本書では現代の感覚でとらえることができるように、年齢を表記するときには数え年を使わずに満年齢で表記することにした〕。
空位が生じることは、とうてい許される事態ではない。そしてこれをこのまま放置すると、天皇家を断絶させることになる。このとき、空位を避けるために後桃園天皇の崩御はしばらく黙されることになり、その間にさまざまな策が検討された。朝廷において判断に苦慮した場合、常に先例を参考にしてきたことは既に述べたが、このときも、およそ2000年以上続く歴史を辿(たど)って皇位継承に関する先例調べが行なわれた。
既に説明した継体天皇と後花園天皇の二例が最も参考にされたことは言うまでもない。この時代、徳川幕府は絶大なる権力を持っており、皇太子を立てるにも幕府の承認を得る必要があった。朝廷は後桃園天皇がまだ存命であることにして、天皇の重体を伝え、世継ぎを誰にするか幕府と交渉を始めた。
男系維持へのこだわり
後桃園天皇が崩御したこのとき、天皇が残した子供は、崩御の年に生まれたばかりの皇女欣子内親王ただ一人だった。そのため、皇位継承の問題は深刻化した。通常、皇子がいない状態で天皇が崩御すると、天皇の兄弟、叔父、大叔父など、歴代天皇の男系の子孫が皇位を継承するのが通例となっていた。
後桃園天皇には弟の貞行(さだもち)親王〔「さだゆき」とも読む〕がいたが、宝暦10年(1760)に伏見宮を相続した後、明和9年(1772)、既にこの世を去っていた。
そのうえ、後桃園天皇の父桃園天皇は既になく、その兄弟もいなかった。もう一世代遡(さかのぼ)ると、桃園天皇の父、桜町天皇も既になく、その兄弟四方のうち、公遵入道(こうじゅんにゅうどう)親王と忠誉入道(ちゅうよにゅうどう)親王は健在であったものの、既に満57歳と満56歳という高齢だった。〔入道親王とは、親王宣下を受けた後に仏門に入った皇族のこと〕
しかも二人は仏門に降って僧侶となっており、いずれにも皇子はいなかった。つまり近親に皇位を継ぐことができる歴代天皇の男系の男子が一人もいなかったのである。
続き 男系維持へのこだわり
高齢の入道親王では次の世代を担う皇位継承者とはなり得なかった。この状況は皇統の危機が盛んに議論される平成の状況よりもさらに厳しいものである。
近親に男系男子が一人もいないのであれば、後桃園天皇が残した欣子(よしこ)内親王を女帝にすればよいと考える読者もいることだろう。欣子内親王は父親が天皇であるため、女子でありながらも男系であることに変わりがない。確かに我が国には、それまでも女帝が存在した歴史を有す。
欣了内親王が女帝となることについても問題がないかのようにみえる。しかし、その先のことを考えると、そう簡単な話ではない。もし 天皇の近親に高齢で子のいない二名の入道親王しか男系男子がいない状況で欣子内親王を女帝とした場合、皇統断絶の危機を何一つ解決したことにならない。
その女帝が末代となり、女帝の崩御で皇統断絶となるだけだ。女帝を立てるためには、条件が整っている必要がある。安易に女帝を立てることは、極めて危険なのだ。
八方十代の女帝 後桃園天皇が崩御したこのときも、女帝の先例が調べられた。皇統の歴史上、八方十代の女帝〔重祚(ちょうそ)、つまり一度退位した後に再び即位した女帝が二代あったのでこのように表現される〕が存在している。しかし、女帝となったのはいずれも、天皇の皇女など、男系の女子であり、女系たる女帝の子息が皇位を継いだことは一度もない。やはりここでも男系継承は確実に守られてきた。また、男系継承を確実なものにするため、女性は生涯独身を貫くこと、そして生涯出産しないことの不文律が存在していた。 女帝が即位後に結婚した例はなく、また同じく即位後に出産した例もない〔ただし、即位する前に皇后として出産した例はある〕。
ではなぜこのような不文律が成立していたかといえば、もし女帝の配偶者と女帝の子供がいたとすると、彼らの扱いは非常に難しく、皇位を巡って争いが生じることが予想されたからだと思われる。女帝の配偶者と女帝の子供はいない方がよかったと考えられていたのではないか。
また、後桃園天皇が崩御したときのように、皇位継承者がいない状況で仕方なく 女性が天皇になったことは一度もないことに注目しなくてはいけない。
女帝は、政治的緊張の緩和か、継嗣の成長を待っ目的で成立してきた。
それぞれの女帝がどのような背景で成立してきたか、簡単に概要を説明する。 注:今再び女性宮家なるおかしな話が出てきたが、皇室の事は皇室に任せるのが良いと思う。正しい歴史認識もなく、それ以上に2000年続いている本当の皇室の正しい歴史も知らない、者がとやかく言うものではない。「解(わか)らんもん(者)と知(し)らんもん(者)が話しても何もわからん」(サイタニ)
つづく |
天皇
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明治天皇陛下、昭憲皇太后陛下 御尊影
明日、11月3日は明治天皇陛下の誕生日、明治の天長節の日です。
明治天皇陛下は、僅か16歳でご即位され、剛毅果断の性格で進取の気象に満ちていました。この若き天皇陛下を中心として、時代は大きく転換してゆきました。慶応3年10月、徳川幕府十五代将軍、徳川慶喜公は大政奉還を行い、政権は700年ぶりに朝廷に返されました。これを受けて、明治天皇陛下は、同年12月、王政復古の大号令を発せられました。翌年の明治元年(1868)3月、天皇は、五箇条の御誓文をもって、国是としてお示しあそばされました。
その後のわが国の発展はめざましく、翌2年版籍奉還、4年廃藩置県、5年学制頒布、鉄道の開通、太陽暦の採用などが進められました。さらに、明治22年、明治天皇陛下は大日本帝国憲法を発布、翌23年には帝国議会を開設し、また教育勅語を下賜あそばされました。
こうしてわが国は、明治天皇陛下の下、僅か半世紀の間に、アジアで初めての近代化に成功し、文明開化、富国強兵、殖産興業、教育の普及、文化の向上など、欧米に伍した近代国家として躍進していったのです。 明治天皇陛下は6度にわたって地方御巡幸をされました。
まだ交通手段が発達していない当時ですから、馬車や船による旅行は、身体的に大きな負担だったことでしょう。しかし、天皇陛下は自分の目で国内各地の様子を見られ、また国民に接せられ、直接世情を知りたいという強い希望をもっておられました。御巡幸の旅は、2ヶ月の長期に及ぶこともありました。今日も各地に明治天皇陛下が巡幸された記念碑が建てられています。
明治天皇陛下は避暑避寒などはほとんどされなかったそうです。記録に残っているのは、わずかに東京・小金井に遠乗りして桜を賞でたとか、また多摩の丘陵の兎狩り、清流での鮎漁ぐらいと伝えられます。
我が身をいとうことなく、常に国家国民のために尽くす指導者としての明治天皇陛下の姿がうかがわれます。
明治の国難は、日清・日露戦争です。
新興国日本の「国家の威信」「国運」を賭けた戦いでした。
明治天皇陛下は、その間、常に国民の先頭に立たれ、国利民福のためひたすら尽力されました。そして出征兵士と苦労を共にするという考えから、炎暑の最中でも冬の軍服を着用しておられました。
日露戦争の際は、明治天皇陛下は非常な心労を続けられ、それがもとで健康を害され、明治45年7月30日、61歳で崩御あそばされました。
その御代は、ひたすらに「公」のために尽され「私」を省みない明治天皇陛下の生涯でした。
幕末から明治の時代は、欧米列強から独立を守るため、わが国が急速に変革を成し遂げねばならなかった時代でした。この変革に成功しえたのは、明治天皇陛下を中心に、国民が君民一体となって懸命の努力をした結果でした。
戦前は明治天皇陛下のご遺徳、偉業を讃え、偲ぶ日として明治節が制定され、国民が明治天皇を偲び、国民の精神を支える日でもありました。
戦後、文化の日と名前を変え、意味のない祝日になってしまいました。
声を大にして、「明治節」「明治の日」と呼びたいものです。
誇り高き日本国民でありながら、明治節、天長節さえも知らない国民が増えつつあるのを哀しく思い、また民族の行く末を危惧するものであります。
いつまで、戦後なのか? 誇りは何処へ行ったのか?
かっての誇り高き日本を取戻さんが為、かっての祝祭日への回帰を願ってやまず、国是「五箇条ノ御誓文」、億兆安撫国威宣揚の御宸翰(おくちょうあんぶこくいせんようのごしんかん)を今一度、熟読せられ、日本人としての誇り、矜持をもって欲しいと願うばかりです。
国是「五箇条ノ御誓文」
『五箇条ノ御誓文』(明治元年または慶応4年3月14日--原文) 五ケ条の御誓のあったその日、億兆安撫、国威宣揚の宸翰が宣布せられた。急変する時代、次々と打出される改革に、国民のとまどうことをおそれ、旧来の晒習を破り、天皇親ら艱難の先に立って、未曽有の時代を乗り切ろうとの御宣言である。その文の平明雄勁なる、格調高き中に叡慮の切々たる、まことに明治維新の精神が凝って、ここに千古の大文字となって宣言せられた。宸翰は、武門が政権を握ってから、表には朝廷を尊奉しながら実は敬して遠ざけ、天皇と国民の間の真情も隔てられて来たことを嘆き給い、
今般朝政一新の時に腐り、天下億兆一人も其の処を得さる時は、皆朕か罪なれは、今日の事、朕自身骨を労し心志を苦め、艱難の先に立ち、古列祖の尽させ給ひし蹤を履み、治蹟を勤めてこそ、始めて天職を奉して億兆の君たる所に背かさるへし。(現代語訳)
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日本の歴史上、皇室が最も衰微し貧窮の極みにあった時代の天皇が後奈良天皇です。この二代前の後土御門天皇の崩御では、大喪の礼を行う費用もなく、天皇のご遺体を40日あまりも放置せざるを得なかった程です。その次の後柏原天皇はそんな状況で、即位の礼を挙げる費用もなく、結局21年後にやっと本願寺の献金で即位の礼を挙げられました。その次が後奈良天皇でした。やはり即位の礼を挙げられたのは、践祚後10年たって周防の大内氏らの献金によってでした。 後奈良天皇の時代、御所の築地の壁は破れて穴が空き、その穴から人が出入りしたり、さらには天皇の水垢離をされる姿が外から見えるほどであったと言われています。 室町幕府は全く機能不全に陥っており、全国では疫病も流行り、洪水まで発生した時代です。天皇は、生活にも困窮されて、宸筆(天皇の直筆の書)を売って生活費の足しにしておられたというほどでしたが、この疫病を深く憂えられて、嵯峨天皇以来の慣習に習って、自ら紺紙に金泥で般若心経を写経されて、全国24カ国の寺や一宮(その地方で一番格の高い神社)など66カ所に納められたといいます。 その奥書には、「今ここ天下大いに疫し、万民多いに死亡にのぞむ。朕、国の父母として徳覆ふ能はず、甚だ自ら痛む」(今、世の中では疫病が大いに流行っており、沢山の人々が亡くなっています。私は国の父母として徳の足りないためにこれを防ぐことが出来ません。大変悲痛な思いです)と自省の言葉を書かれています。皇室自体の窮乏はなはだしい時に、国民の苦悩を憂えられ、御心悩は非常に激しいものであったようです。 また天文14年8月の伊勢神宮への宣命(せんみょう)では、大嘗祭がいまだに行われていないことや、世の中に公道が行われず、有徳の人がなく、下剋上の心がさかんで暴悪の凶族がはびこり、国の力の衰微していく様をお嘆きになって、皇室と民の復興を祈られています。大嘗祭とは即位後に行われる最初の新嘗祭のことで、一代一回限りの大祭ですが、この大嘗祭によって新天皇に天皇霊が降りてこられるとされ、大嘗祭を経ない天皇はいまだ完全な天皇ではなく、半天皇と言われています。前代の後柏原天皇の時も行う費用が工面できず、お嘆きになっており、そのまま即位から5年後に崩御されました。大嘗祭は天皇にとってこの上ない大切なお祭りですが、この後江戸中期まで200年近く、大嘗祭は中絶を余儀なくされることとなります。大嘗祭だけではなく、伊勢神宮の式年遷宮すらも行うことが出来ず、そのお嘆きの心は苦しいものであったようです。 災害のたびに、歴代の天皇は、責任をご自分に感じられ、神に不徳のお詫びをされ、民の平安を祈られました。この度の大震災でも、今上陛下がどれほど祈られたかが拝察できます。歴代の天皇で最もお祭りに熱心であると言われる今上陛下の、日本の国への危機感、焦燥感が伝わってくるようです。 震災後のビデオメッセージ、折に触れてのお言葉、そうした数々のお言葉から伝わる今上陛下の思いを、どれだけの政治家が受け止めていることでしょうか。特に現民主政権の国民の生活などほとんど考えもせずに、保身ばかり、見栄やパフォーマンスばかり、誠実さのかけらもない言動は、どれだけ悲痛な気持ちで見ておられることでしょう。
告日本国を書いたポール・リシャルは『日本の児等に』という詩の中で 建国以来一系の天皇、永遠に亙(わた)る一人の天皇を奉戴せる
唯一の民! 汝は地上の万国に向かって、人は皆一天の子にして、 天を永遠の君主とする一個の帝国を建設すべきことを教えんが為に
生れたり
と書いています。変わることなきただひとつの中心を持つ世界で唯一の国、日本国、その国民である私達日本人は、今こそ天皇陛下の無私の御心のもとに、心を一つにして、この国難を全力で乗り切るべきです。 万国に優れて統一ある民! 汝は来るべき一切の統一に貢献せん為に生れ、 また 汝は選士なれば、人類の平和を促さん為に生れたり。
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昭和天皇の御代のことです。その頃に参議院議長をしていた人に、重宗雄三という方がおられました。その方の奥様がお話になった逸話だそうです。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/47/5b30929057275994ceddb610072f3b09.jpg 或る時インドネシアの大統領が来日されました。国家の正式なお客様ですから、天皇陛下の御招待のパーティが開かれ、参議院議長夫妻もお招きに与りました。 重宗さんの奥様はその頃大変に痩せておられたそうです。だから洋服はあまりお召にならず、和服を召されました。この様な宮中の正式な場所では、一般の正装である黒の留袖ではなく、無地の色物を着ることになっています。それで奥様は無地の色物を準備しておられたのです。 するとそこへ御主人の重宗議長が入って来て、「お前、なんだ。今度は天皇様の御招待じゃないか、この種のパーティは初めてじゃないだろう、ずいぶんデラックスなパーティだ、いくら婆さんでもお前、そりゃ、あんまり地味すぎるぞ」と言われたのです。そう言いながらしばらく考えておられた議長は、突然に、 「あっ、いいのがある、あれがいい、あれだったらパアッとしていいから」 奥様は、御主人が何を言っているのかと思ったら、先日もらったダイヤの指輪をはめていけと言うわけです。 「この間もらった、こんなでかいの、あれがいい」 ところが奥様はそんなものをもらったこともないし、第一御主人から買ってもらったこともない。何を言っているのかと思ってよく考えてみたら「孫が誕生日にくれた大きなガラス玉の指輪のことでした」とこういうわけです。議長はそれをダイヤと間違えておられたらしいのです。 「あなた、あれはガラスですよ」 「ガラスか……」 ちょっとびっくりした様子でしたが、又しばらく考えて「いい、いい、はめていけ。まさかあの席上で天下の参議院議長の奥様がガラス玉をはめているなんて誰も思わんだろう」ということになったそうです。重宗夫人は素直な方でしたので、御主人の言うとおりにされたのでした。 さて、宮中でのパーティは、和食や中華料理はお使いにならないで、いつも洋食なんだそうです。和食の場合ならお茶碗やお箸は下から支えるように持ちます。だから指輪は下の方になります。ところが、洋食となるとフォークとナイフは上から押さえつけるように持つでしょう。つまり指輪が上に向くことになるのです。その上、素晴らしいシャンデリアの光で、その大きなガラスの指輪がピカっと光るわけです。 人間というのは面白いもので、ガラス玉ということを誰も知らないで自分だけが知っている。自分しか知らないんだけれど、自分がガラス玉だと強く意識するので、光るほど、恥ずかしくてたまらないのです。もしこれが、逆に本物だったら、ちょっとでも光ればウフフンとなります。重宗夫人は、ニセモノのガラス玉なのでもう恥ずかしくて、恥ずかしくて、小さくなっておられたというのです。そうしたらちょうどメインテーブルだから、天皇陛下がいらっしゃって、隣にインドネシアの大統領、それから皇后陛下、天皇陛下の向こうは大統領夫人という風に、交互にお座りになるわけです。そして重宗さんの奥様ははす向かいに座らされたというのです。 しばらくしたら、あまり光るものだから、天皇陛下が奥様の方、特に指輪を、お体を出されてのぞいていらっしゃるんだそうです。それで、奥様はもうなんとも言えない恥ずかしい気持ちになり、小さくなって御飯を食べました。そこでおひらきになったのです。そして、誰かと重宗夫人が話をしておられたら、そこへ天皇陛下がお近くへいらっしゃったので、恐縮して「本日は御馳走になりました」と深々と陛下の前に最敬礼をされたそうです。しばらくして頭をもたげたら、陛下は御身をのり出されて、問題の指輪をのぞいていらっしゃる。重宗夫人はあわてました。 そうしたら天皇陛下が、 「重宗さん、先ほど食事の時に、非常に光ったものだから、よく見たらあなたの見事なダイヤでした」 とおっしゃっておそばに来られ 「あの見事なダイヤをそばでゆっくり拝見させて下さい」とのお言葉があったというのです。奥様のおっしゃるには、「天皇陛下というお方様は絶対にごまかすことができないお方様です。どうしても嘘を言えないお方様です」ということでした。 これはすばらしいことです。このことを重宗夫人から伝え聞いた方が言っておられました。ここに日本の象徴があるのです。つまり無私というか、無我というか、この無私のお立場というものは、一切を身そぎ祓われた本当に美しいものなんです。本当に美しいものに対しては、よごれたごまかしの心は寄せ付けられない。嘘をつけない。だが一応ごまかしていいような相手だったら、「いやあ、大したものじゃありません」と逃げてしまえばいい、というのです。 ところが、ごまかせないお方様です。仕方がないから、畏れ多いことだったけれど、陛下のお耳元に近づいて、「陛下、まことにお恥ずかしいことでございますが、実を申しますとこれはダイヤではないんです。これはダイヤのニセモノでございます」と小さい声で申し上げたのだそうです。そうしたら、陛下がびっくりされて、大きなお声を出された。 「これニセモノですか!」 そこでとてもあわててしまって、冷や汗をかきながら、「ハイ、実を申しますとこれはダイヤじゃなくて、ダイヤのニセモノで、ガラス玉でございます」 陛下はしばらくじっと指輪を御覧になっていらっしゃいましたが、 「重宗さん、本物じゃありませんか」と、またおっしゃったということです。どうしてこう執着なされるのかと思いながら、「違うんです。これはダイヤじゃないんでございます。ダイヤのニセモノでございます。ガラスの玉でございます」と再び申し上げたら、とうとう終いにお笑いになって、 「あなた、本物じゃありませんか、これねえ、ガラスの本物でしょう」 とおっしゃったということです。このおはなしを重宗夫人から聞いたある方は、涙がぼろぼろ出てきたと言っておられました。胸がつまるような気持ちになったそうです。“ああ、すばらしいなあ、本物だけを生きるというお方は、本物だけをみられるのだ”と思ったというのです。いわゆる偽物というのは無い。それは比較対照する時に感じられる仮定に過ぎないのであり、一つ一つ見ていったら、凡ては生え抜きの本物だというのです。 こどもの教育でも、失敗するのは、兄弟がいると、「姉ちゃんと比べてお前は何だ」とか、「お前は兄貴のくせに弟を少し思ってみたらどうか」と、こう比較の中で考える。それだから本来のその子の個性の本物が何処かへくらまされてしまう、というのです。 昭和天皇は、そういえば、植物の研究をよくされましたが、その時お付きの方が、何かの折にお庭の草のことで、これは雑草で、というようなことを言われた時に、雑草というものはないとおっしゃったというお話を聞いたことがあります。天皇というお方が、いかに無私公平の心で、凡てのものを見ておられるのかということが、ほんとうにこのお話をきいて、しみじみと感じたものです。これは今上陛下におかれても、同じ御心であろうと思います。 |
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■御所を廻る数万の人々■
それは、天明7(1787)年6月7日に始まった。京都の御所の築地塀の周りを廻る人々が現れた。ある記録によれば、どこからか老人が来て、御所の周囲12町(1300メートル)を廻る「御千度(おせんど)」をしたのが、発端だという。 7日には50人ほどの程度であったが、次第に数を増し10日には1万人もの老若男女が集まって塀の周りを廻った。その人数は、18日前後の数日間にピークを迎え、一日7万人に達したという。 人々は南門にたどり着くと、その少し低くなった柵の垣根から、銭を南門前面の敷石に投げ入れ、その向こうにある紫宸殿に向けて手を合わせた。現代の初詣と同じ光景である。 噂は大阪や近国にまたたく間に広まり、大阪から伏見までの淀川を行く船の業者は、運賃を半額にした「施行船」を仕立てて、客を運んだ。沿道では参拝者に茶や酒、食事が振る舞われた。 暑さの厳しい頃なので、御所では築地塀の周囲の溝に、冷たい湧き水を流して、手や顔を洗えるようにした。後桜町上皇は、3万個のりんごを配らせたが、昼前になくなってしまったという。隣接する有栖川宮家、一条家、九条家、鷹司家は、茶や握り飯を配った。菓子や、酒、トコロテン、瓜などを売る露天商が5百人ほども出た。 人々は御所、すなわち天皇に何を祈ったのか。当時の資料では「飢渇困窮につき祈誓」「米穀不自由につき」「米穀段々高値になり」などと記している。天明の飢饉で米価が高騰し、差し迫った生活苦からの救済と、五穀豊作を祈願したのである。 米価が高騰し、餓死者まで出るという困難な事態に、人々は、幕府の京都所司代や京都町奉行所に繰り返し嘆願した。ところが、これらの役所はいっこうに救済策をとらなかった。 前月5月には、怒った大坂の町民が数十軒の米穀商人の家を襲った。堺、播磨、紀伊でも同様の打ち壊しが起こった。そして5月19日から5日間、将軍のお膝元の江戸でも数百人が鉦かね)や太鼓を打ち鳴らし竹槍で武装して、騒擾を起こした。 江戸時代で最悪と言われる天明の大飢饉だが、いずれの地においても、幕府は有効な施策をとっていなかった。幕府の威光は地に落ちた。もはや幕府に頼んでも埒(らち)が明かないと悟った人々は、御所千度参りという形で、天皇に救済を訴えたのである。 ■光格天皇の幕府への前例なき申し入れ■ 光格天皇は、これを見て、すぐさま行動に移った。御所御千度参りが数万人の規模に達した6月12日、関白・鷹司輔平を通じて、対幕府の窓口である武家伝奏に、幕府方の京都所司代に対して窮民救済に関する申し入れをするよう、命じた。 世上困窮し、飢渇死亡の者数多これあるのよし、内院(天皇と上皇)ははなはだ不憫に思し召され、、、 賑給(しんごう、古代の朝廷が毎年5月に全国の貧窮民に米や塩を賜った儀式)などはできないか、関東から救い米を差し出して貧窮を救うことはできないか、との申し入れであった。 朝廷が江戸幕府の政治に口を出す、などという事は、まさに前代未聞の申し入れであった。 江戸の幕府は、申し入れ以前から米500石(7.5トン)を救済手当てに使っても構わないと京都所司代に指示を出していたが、朝廷からの申し入れを受けて、さらに千石(15トン)の救い米放出を命じ、これを朝廷に報告した。 この年の11月に挙行された大嘗祭では、光格天皇の次の御製が世上に流布し、評判となった。 身のかひは何を祈らず朝な夕な民安かれと思うばかりぞ 飢饉に対して手をこまねいて民の打ち壊しに見舞われた将軍と、ひたすらに万民の安寧を祈り、幕府に救済を命ずる天皇と、鮮烈なコントラストが万民の目の前に明らかになった。 尊皇倒幕の大きなうねりは、ここから始まった。 光格天皇は9歳という幼少で、閑院宮家という傍系から、はからずも皇位についた方だった。閑院宮家は宝永7(1710)年に新井白石の意見により、皇位継嗣の安定のために創設された宮家であった。東山天皇の第6王子直仁親王が初代であり、その3代目の第6王子が佑宮(さちのみや)、後の光格天皇であった。皇位につく可能性はほとんどないため、わずか2歳にして、いずれ出家し聖護院門跡を継ぐことが予定されていた。 佑宮が9歳の時に、運命は急転した。当時の後桃園天皇が、病気のために急逝してしまった。わずか22歳の若さであり、子供もその年に生まれた女子しかいなかった。朝廷は幕府と秘密裏に交渉して、佑宮を後継とした。後桃園天皇の死から一月も経たないうちに、佑宮は御所に連れてこられ、新天皇となった。まさに青天の霹靂の即位であった。 傍系から幼少にして皇統を継いだために、朝廷や幕府の中には、光格天皇を軽んじる向きがあったという。それを案じたのか、先々代の後桜町院(*)は天皇に学問を熱心にするよう勧めた。光格天皇もその期待に応え、熱心に学問に励んだ。傍系として軽んぜられている、という事を幼少ながら感じ取っていたのであろう。理想的な天皇像を追い求め、それを立派に演じよう、という志をお持ちだったようだ。 *先代・後桃園天皇の伯母。後桃園天皇は父・桃園天皇が亡くなった時、まだ5歳だったため、成長するまでの中継ぎとして皇位についた。 御所御千度参りが起きた天明7(1787)年には、光格天皇は数え17歳。関白として九条尚実がいたが、老齢にして数年前から病気となっていた。この頃には、近臣の補弼を得ながら、自ら朝廷の中心となって、政務を取り仕切っていたようである。この点も、ここ数代の天皇とは異なっていた。 ■天下万民への慈悲仁恵のみ■ 寛政11(1799)年、後桜町上皇から与えられた教訓への返書に、光格天皇は次のように書いている。 仰せの通り、身の欲なく、天下万民をのみ、慈悲仁恵に存じ候事、人君なる物(者)の第一のおしえ、論語をはじめ、あらゆる書物に、皆々この道理を書きのべ候事、すなわち仰せと少しのちがいなき事、さてさて忝なく存じまいらせ候、なお更心中に右のことどもしばしも忘れおこたらず、仁恵を重んじ候はば、神明冥加にもかない、いよいよ天下泰平と畏(かしこまり)々々々入りまいらせ候・・・ (仰せの通り、自身の欲なく、天下万民への慈悲仁恵のみを思うことは、君主たる者の第一の教えであると、論語をはじめ、あらゆる書物に、みなこの道理が書かれていることは、仰せと少しの違いもなく、さても有り難く存じます。さらに心中にこの事をしばしも忘れ怠ることなく、民への仁恵を重んずれば、神のご加護も得られて、いよいよ天下泰平と、つつしんで承りました) 無私の心で、ひたすらに天下万民の幸福を祈ることが、皇室の伝統であり、光格天皇は学問を通じて、それを強く意識していた。「身のかひは何を祈らず朝な夕な民安かれと思うばかりぞ」という御製も、ここから出たものである。 ■ロシア軍艦の来襲■ 天明の飢饉による各地での打ち壊しとともに、幕府の権威をさらに失墜させた事件が起きた。文化3(1806)年のロシア軍艦の北辺からの攻撃であった。 寛政4(1792)年に来日したロシア使節ラックスマンに対して、幕府は通商許可をほのめかしていたが、文化元(1803)年に来訪した使節レザノフには、全面的な拒否回答を行った。 これに怒って、ロシア軍艦が文化3年9月に樺太、翌年4月に樺太と択捉(エトロフ)、5月に利尻の日本側施設、船舶を攻撃し、幕府は東北諸大名に蝦夷地出兵を命ずるなど、軍事的緊張が一気に高まった。江戸ではロシア軍が東海地方から上陸するとか、すでに東北地方に侵入した、との噂が立っていた。また、外国との戦争で、わが国開闢以来の敗北を喫したことは、日本国の大恥だと、幕府を批判する言動も登場した。 ロシアとの本格的な戦争に備え、幕府は諸大名に大規模な軍事動員を覚悟しなければならない情勢となった。そのための布石であろう、幕府は進んで朝廷にこの事件を報告した。いざという時には、朝廷の権威を借りて、国家一丸となって戦う体制を作ろうと考えていたのかも知れない。朝廷に報告するのは、初めての事であった。この先例が根拠となって、後に幕府が外国と条約を結ぶ場合は、朝廷の勅許がいる、との考え方が広まっていく。 この時期に、光格天皇は石清水八幡宮と加茂神社の臨時祭再興に熱意を燃やしていた。この二社は、伊勢神宮に継ぐ崇敬を朝廷から受けていた。石清水臨時祭は、天慶5(942)年に平将門・藤原純友の乱平定の御礼として始められたが、永享4(1432)年に中絶されたままであった。加茂神社は皇城鎮護の神を祀り、国家の重大事には、かならず皇室から奉幣、御祈願があった。しかし、こちらの臨時祭も応仁の乱(1467-1477)後に中断していた。 光格天皇は早くから、両社の臨時祭再興を願っていたが、ロシア軍艦の襲撃のあった文化3年から幕府との交渉を本格化させた。開催費用がネックとなったが、幕府の老中は「禁中格別の御懇願」と光格天皇の熱意を受けとめた。その結果、文化10(1813)年3月、石清水臨時祭が約380年ぶりに挙行され、翌年11月には加茂神社臨時祭も約350年ぶりに再興された。 この石清水八幡宮と加茂神社には、幕末に次々代の孝明天皇が将軍家茂を同道して、攘夷祈願のため行幸されている。 こうした国家護持祈願に立つ天皇の姿は、危機の中で国を支えているのは皇室である、と改めて人々に印象づけたであろう。 こうして、内憂外患に十分対応できない幕府の威光が低下する一方、光格天皇の努力により朝廷の権威は徐々に増していった。この傾向を学問的にも定着させたのが「大政委任論」だった。 本居宣長は天明7(1787)年に執筆した『玉くしげ』の中で、「天下の御政(みまつりごと)」は朝廷の「御任(みよさし)」により代々の将軍が行う、すなわち国土と国民は天皇が将軍に預けたものであって、将軍の私有物ではない、と主張した。大坂の儒者・中井竹山、後期水戸学の祖・藤田幽谷も、同様の論を展開した。 学者・思想家だけでなく、老中首座・松平定信は、天明8 (1788)年に当時16歳の将軍・徳川家斉に対して「将軍家御心得十五カ条」を書いて、同様の主張をしている。 六十余州は禁廷より御預かり遊ばされ候事に御座候えば、かりそめにも御自身の物に思し召すまじき御事に御座候。 この論は、委任された大政を幕府がしっかり果たせない場合には、それを朝廷に奉還すべき、という主張に発展する。幕末の「大政奉還」論がここに兆していた。 ■約900年ぶりの「天皇」号復活■ 天保11(1840)年11月、光格天皇は在位39年、院政23年という異例の長きにわたった70歳の生涯を終えた。この間に、天皇の権威は大きく向上した。 「光格天皇」との称号は、崩御後に贈られたものである。これは当時の人々を驚かせた。江戸時代、天皇のことは通常「主上」「禁裏」などと称し、そもそも「天皇」とは馴染みのない呼称だった。また第63代の「冷泉院」から先代の「後桃園院」まで「院」をつけるのが通常であり、「天皇」号の復活は、57代約900年ぶりのことであった。皇室伝統の復活に捧げられた光格天皇の御生涯を飾るにふさわしい称号であった。 日本近世史を専門とする藤田覚・東京大学文学部教授は、もし江戸時代中期にペリーの黒船がやってきたならば、そもそも幕府が条約勅許を朝廷に求めることもなかったろうし、外様大名や志士たちが攘夷倒幕のために、尊皇を持ち出すこともなかったろう、と述べている。 その場合、幕府と外様大名の間で長く内戦が続き、日本が植民地化されていた可能性が高い 光格天皇の孫にあたる孝明天皇が、幕末に尊皇攘夷のエネルギーを結集し、明治天皇が、王政復古のもと近代国家建設の中心となった。9歳から70歳まで「朝な夕な民安かれ」と祈り続けた光格天皇が、その基を作られたのである。 |





