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大日本帝国憲法の告文(つげぶみ)は、神へ明治天皇が誓われたものですが、その後に、勅語が続きます。この勅語は歴史的仮名遣い及び正仮名正漢字で書かれておりますが、今回はこの勅語を私達にもすぐに理解できるように、現代仮名遣いと平仮名で書いて見ました。
大日本帝国憲法発布の勅語
朕国家の隆昌と臣民の慶福とを以て中心の欣榮(きんえい=喜びと光栄)とし、朕が祖宗に承くるの大権に依り、現在及び将来の臣民に対し此の不磨の大典を宣布す
惟(おも)うに我が祖、我が宗は我が臣民祖先の協力輔翼(ほよく=たすけること)により我が帝国を肇造(ちょうぞう=はじめてつくる)し、以て無窮に垂れたり(=永遠に後世の者に表し示した)
此れ我が神聖なる祖宗の威徳と並びに臣民の忠実勇武にして国を愛し公に殉(したが)い以て此の光輝ある国史の成跡(過去の実績)を貽(のこ)したるなり
朕我が臣民は即ち祖宗の忠良なる臣民の子孫なるを回想し其の朕が意を奉体(承って心にとめ、実行する)し朕が事を奨順(しょうじゅん=たすけしたがうこと)し、相與(とも)に和衷協同(心を同じくして力を合わせる)し、益々我が帝国の光栄を中外(=国内外)に宣揚し、祖宗の偉業を永久に鞏固(きょうこ=つよくかたいこと)ならしむるの希望を同じくし、此の負擔を分つに堪うることを疑わざるなり
意訳
(私は国家の隆昌と臣民の喜び幸せとを以て、一番の喜びと光栄とし、私が歴代の先祖から受け継いだ大権によって、現在及び将来の臣民に対してこの不磨の大典を宣布します。
思うに我が歴代の祖先は、わが臣民の祖先の協力と助けによって、我が帝国を創造され、永遠に後世の者に示されました。
これは私の神聖なる歴代先祖の威徳と、並びに臣民の忠実勇武によって、国を愛し公にしたがい、それによってこの光輝ある国史の実績を遺されました。
私は、我が臣民はすなわち歴代先祖の忠良なる臣民の子孫であることを思い起こしましたが、其の私の思いを承けて心に留めて私の事をよく助け従い、相共に心を同じくして力を合わせ、益々我が帝国の光栄を国内外に宣揚し、歴代先祖の偉業を永久に固く強くする希望を一緒に持ち、この責任の負担を分かち持つことに堪え得ることを疑いません。) 少し難しい言葉が使われてはいるものの、読めばだいたい意味がわかります。この勅語の文章に込められた、日本の国の長い歴史が持つ君民同治の国柄の美しさと、それに対する誇りとそれを受け継ぐ責任と希望が、ひしひしと伝わってくるような感じがします。
この勅語を読んだあと、現代の日本国憲法の前文を読むと、どこに日本が日本の国であるための歴史伝統に培われた日本らしさ、そして誇りが書かれてあるのかと思います。
「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受す る。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」 この部分は日本の国が今回の戦争を起こした悪玉であると決め付ける文面であり、アメリカのような人工的にできた契約国家と同じように、国民主権を宣言し、人類普遍の原理として、日本の歴史を一切否定したものです。そしてこの憲法を絶対のものとして、ほぼこれに反することを許さない、と言って、ほとんど改正を許さないような縛りをかけています。 さらに、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」の部分に及んでは、完全に日本民族は永久の悪玉であり、日本さえ武器を持たなければ世界は平和であるとして、平和を愛する諸国民にその安全と生存をゆだねさせる詫び証文となっています。
この憲法前文から、日本人はどんな誇りを感じることができるでしょうか。戦前までの君民同治の歴史は全て間違いだと言っているに等しい文章であり、また戦争の詫証文であり、諸国民に安全と生存をゆだねる奴隷的地位を受け入れるという証文です。
大日本帝国憲法では、次に上諭と呼ばれる文章があります。これは戦前、法律などを公布する時に、冒頭に付し、天皇の裁可を表示したものです。此の上諭の文章も、同様に、現代仮名遣いと平仮名で書いてみます。
朕祖宗の遺烈(=先人が残した功績)を承け、萬世一系の帝位を践み、朕が親愛する所の臣民は即ち朕が祖宗の恵撫滋養(=恵み愛し慈愛を持って持って養育する)したまいし所の臣民なるを念(おも)い、其の懿徳良能(いとくりょうのう=大きい立派な徳と生まれつき備わっている才能)を発達せしめむことを願い、又其の翼賛により與(とも)に倶(とも)に(=一緒にの強調)国家の進運を扶持(=たすけること)せむことを望み、乃(すなわ)ち明治十四年十月十二日の詔命を履践(りせん=実際に行うこと)し、茲(ここ)に大憲を制定し朕が率由(したがうこと)する所を示し、朕が後嗣(こうし=世継)及び臣民及び臣民の子孫たる者をして永遠に循行(じゅんこう=命令に従って行う)する所を知らしむ 国家統治の大権は朕が之を祖宗に承けて之を子孫に伝うる所なり
朕及び朕が子孫は将来此の憲法の条章に循(したが)い、之を行うことを愆(あやま)らざるべし
朕は我が臣民の権利及び財産の安全を貴重し、及び之を保護し、此の憲法及び法律の範囲に於いて其の享有を完全ならしむべきことを宣言す
帝国議会は明治二十三年を以て之を召集し議会開会の時を以て此の憲法をして有効ならしむるの期とすべし
将来若し此の憲法の或る條章を改定するの必要なる時宜を見るに至らば朕及び朕が継統の子孫は発議の権を執り之を議会に付し議会は此の憲法に定めたる要件に依り之を議決するの外、朕が子孫及び臣民は敢えて之が紛更(ふんこう=かき乱してむやみに改める)を試みることを得ざるべし 朕が在廷の大臣は朕が為に此の憲法を施行するの責めに任ずべく朕が現在及び将来の臣民は此の憲法に対し永遠に従順の義務を負うべし
御名御璽
明治二十二年二月十一日
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憲法
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大日本帝国憲法発布式
大日本帝国憲法は、明治天皇が天照大御神を始めとする皇祖皇宗の御神霊に向かって誓われて、始められた憲法です。だから、大日本帝国憲法は、まずはじめに告文(つげぶみ)という神々への誓いの文章があります。
これは憲法本文の上位に位置するものであり、明治天皇が、皇祖皇宗の神々に誓われたものです。
その内容は、この憲法が、古来より、ずっと伝えられてきたいわば不文の我が国のあり方を今の世に合わせて、条文として明らかにすることによって、国民(臣民)の子孫までそのあり方に従い、国民(臣民)が皆力をあわせて協力しあうように、永遠に守っていき、国の統治の基礎を強固にし、日本の国民(臣民)の喜びと幸せを増進するためにこれを制定するのであることを、神々に申し上げられます。
そしてこの憲法が、古来よりずっと伝わってきた精神を今の世に文字に表したものであり、神霊のお助けを得て、できたものであることを感謝され、明治天皇みずからが率先してこの憲法を履行され、遵守されることを誓われ、御神霊にそれを御覧になってくださいとお願いされるものです。
我国の天皇陛下の行われる政治は、古来より、常に祭りごとであり、神々の御心に沿い、その神意を実現するために行われるものであり、よって、大日本帝国憲法も、そういう厳かな敬虔な気持ちで作られ練られ、発布へと至ったものです。
これは明治のはじめの五箇条の御誓文の精神に基づくものであり、この五箇条の御誓文も神々への誓いでありました。昭和天皇がわが国の近代民主主義の始まりは五箇条の御誓文にあると言われたように、これが我が国固有の民主主義なのです。
わが国の天皇は、歴代、常に私心を排して、国のため民のためにと常に正しいあり方を行なうことを真剣に考えられ、そのために神々に誠心誠意祈られ、誓われて物事を決められます。
その伝統の上に、大日本帝国憲法が作られ交付されました。この告文のあとに、国民に向けた憲法発布の勅語があります。このように厳かな威厳に満ちた始まりの憲法を、日本国民は誇らしく、大切に守って来ました。
終戦により、占領軍に日本弱体化のアメリカ製のにわか粗製憲法を押し付けられるまで、この神代の時代からの日本のあり方に従った我が国固有の憲法は、民主的で、しかも日本文化の真髄の馨る美しい憲法として、国家のあり方を決定させてきました。
大日本帝国憲法の告文を読みやすくするためにひらがなでの現代仮名遣いで書いて見ました。
大日本帝国憲法
告文(つげぶみ)
皇(すめら)朕(わ)れ謹み畏み
皇祖
皇宗の神霊に告げ白さく皇朕れ天壌無窮の宏謨(こうぼ=雄大な方針)に
循(したが)い惟神(かんながら)の宝祚(=皇位)を
承継し旧図(きゅうと=古くからの計画)を保持して
敢えて失墜すること無し
顧みるに世局の進運に膺(よ)り人文の発達に随(したが)い宜しく
皇祖
皇宗の遺訓を明徴にし典憲を成立し条章を昭示し
内は以て子孫の卒由(=したがうこと)する所と為し
外は以て臣民翼賛の道を広め永遠に遵行せしめ
益々国家の丕基(ひき=天子が国を統治するという大事業の基礎)を
鞏固にして八州民生の慶福を増進すべし
ここに皇室典範及び憲法を制定す
惟(おも)うに此れ皆
皇祖
皇宗の後裔(こうえい=子孫)に貽(のこ=遺)したまえる統治の
洪範(こうはん=模範となる大法)を
紹述(=前人の後を受け継いで述べ行なうこと)するに外ならず
而して朕が躬(みずから)に逮(およん)で[=私の時代になって]
時と倶(とも)に挙行することを得るは洵(まこと)に
皇祖
皇宗及び我が
皇考(天皇の亡父=孝明天皇)の威霊に
倚藉(いしゃ=頼ること)するに由らざるは無し
皇朕れ仰ぎて
皇祖
皇宗及び
皇考の神祐を祈り併せて朕が現在及び将来に臣民に率先し
此の憲章を履行して愆(あやま=踏み外れる)らざらむことを誓う
庶(こい)幾(ねがわ)くば
神霊此れを鑒(かんが)みたまえ[御覧ください]
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国際派日本人の情報ファイルの記事の抜粋です。現憲法を無効宣言して、一時的に帝国憲法を復活させ、その帝国憲法の改正の手続きに則って、わが国の国体にふさわしい真憲法をつくろうと提案される、「天下の無法松」氏が、次のように述べています。ところで、憲法審査会だったかの西田昌司議員の発言の動画があり、簡潔でわかりやすい意見を述べておられますので、ぜひ御視聴ください。短いですので、すぐに見られます。 西田昌司「憲法の正当性と国の成り立ちの関係」 2011.11.28」 - 西田議員のおっしゃるように、憲法を審議する前に、われわれは自分自身がどういう国民であるか、日本人とは何なのかを、日本人であることの根っこの部分をまず知ることが必要ではないでしょうか。そして憲法とは、そうした国民としての深い記憶や意識から延長した部分がないならば、国家の基本法とは言えないのではないでしょうか。 |

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かつて日本は美しかったかつて日本人は清らかで美しかった。かつて日本人は親切で心豊かだった。からの転載です。国民主権は傲慢思想だった。
私は子供の頃、日本で誰が一番偉いか?というような冊子を読んだ覚えがあり、最終的に国民主権だから国民が一番偉い、というようなことが書いてあったと記憶しています。昭和22年に文部省が「あたらしい憲法の話」を中学一年生用に発行しています。これには「国では誰が『いちばんえらい』といえるでしょう」の問いに「民主主義の憲法ですから」「国民全体が一番えらいといわなければなりません」「主権はとうぜん日本国民にあるわけです」と書かれており、私が読んだ冊子もこの流れを汲んでのものでしょう。 ルソーが理想とする国は実は存在した。日本である
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日本国憲法第九条の最初の案文は、日本占領軍最高司令官ダグラス・マッカーサー自身、ペンを執ってこれを草したものである。「国家の主権的権利としての戦争を廃止する。日本国は、国家の紛争解決のための手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する」という案文は、明らかに、最初の起草者たる占領軍最高司令官に、自衛の手段としての戦争をわが日本に禁止する意図が在ったことを立証するものであらねばならない。
九条前段の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とある条文に拠って、「これは国際紛争解決のための手段としての戦争、或いは武力行使をこそ禁止するものではあれ、それ以外の目的のための武力行使は、これを禁ずるものではない」と主張された人々もあったようだ。現にまた、そのような解釈がおこなわれていることも、充分に承知している。 この条文によるならば、「国権の発動たる戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」は、ともに国際紛争解決の手段としては、これを放棄するのである。その放棄は、「国際紛争を解決する手段としては」という但し書きを伴う条件付き放棄だ。したがって、国際紛争解決のため以外の目的のためにこれを行うにおいては、戦争も、武力行使も、一向に違憲ではないという解釈も、当然生じうる道理である。 第九条のに本文が意味するところはまさしく、その通りとも言えよう。だが、日本国憲法は、祖国の文字文章をもって起草されたものではない。この憲法は、その最初の段階において、英文をもって草されたのだ。 異邦の言語で起草された憲法 少なくとも虚心坦懐にこれを読む限り、さきに述べたような日本文の意味は、この英文からは出て来ない。 Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes. 尋常の感覚をもってこれを読むならば、接続詞andによって結ばれた2つの句、war as a sovereign right of the nation と、the threat or use of force as means of settling international disputes とは、文法的に同格であって、ともに renounce (放棄する)という他動詞の目的をなすものだ。 すなわち、日本国民は、正義と秩序に基く国際平和を衷心より希求するがゆえに、「国の主権的権利としての戦争」を放棄し、また「国際紛争解決の手段としての武力による脅威または武力の行使」を放棄するのであって、「国家の主権的権利としての戦争」および「武力による脅威または武力の行使」を国際紛争解決のための手段としては放棄するのではない。 したがって、この一条は、前段と後段の日本文のあいだに、甚だ奇妙な喰い違いが見られるのだ。――戦争の放棄は、第一項では、日本文に従うならば条件つきの放棄である。だが、第二項では、無条件でこれを放棄しているのだ。 同じく一つの条章のなかで、第一項は条件つきの戦争放棄を規定し、第二項は無条件の戦争放棄を宣言する。かりそめにも国の基本法において、このような矛盾撞着が許されるのか? 繰り返していう。英文に従うならば、放棄されるものは「国の主権的権利としての戦争」であり、また「国際紛争解決のための手段としての武力行使」である。決して、これらのものを「国際紛争解決のための手段」としてのみ、条件付きで放棄するのではない。 放棄は、無条件の放棄である。そうでなければ「永久にこれを放棄する」という強烈な語勢は出て来ない。 そして、禁止さるべき「国の主権的権利としての戦争」の中には、草案執筆者の意図に従うならば、自衛のための戦争を包含していたのである。 没却し得ぬ制定の事情 およそ法の条章を解釈するにあたっては、いろいろの態度があろう。その成立の歴史的事情、政治的背景を一切顧慮することなく、ただ条文のうえにあらわされたところだけを、論理的に分析、解釈する態度も、もとよりあり得ることである。 だが、国家・民族の存亡の運命にも重大な影響を及ぼし得るこのような基本法の、このように重要な条文を解釈するにあたって、この制定の歴史的事情をことごとく無視し没却することは、果たして正しいか?如何に故意に無視してみたところで、出生の歴史的事情は本質的にこの憲法の性格を決定し、機能を左右せずにはやまない。 実証された非現実性 これは、反対の立場より見るならば実に、日本国憲法の「非現実性」を立証するものなのである。世界の憲法に他に例を見ぬ、憲法と現実の遊離背反を、われわれは此処に見る。 不幸にも、日本国民は早くもこの矛盾に慣れてしまった。だが、これを放棄することは、自衛隊のために悲しむべきことであるばかりではない。これはやがて、国民の間に国法軽視の警戒すべき風潮を生むのだ。ひいては、国法を無視して顧みぬ禍いの因を醸成するに到ろう。 たとえまた、この憲法の解釈を曲げて日本国憲法が自衛の戦争を認めることを確認し、自衛隊の存在が憲法に背反するものに非ざることを強弁してみても、禍はなお終わらない。国内の左翼勢力はもとより言わず、彼等を支持する国外の勢力は、あくまでもこの規定を根拠として日本の自衛措置を攻撃し、日本が自身の安全のために採るあらゆる集団安全保障の方法に執念深く反対し続けるであろう。 すでに国会の批准を経た安全保障条約さえも、違憲の存在として、「即刻に廃棄せよ」と主張する。彼らは、東西対立の続く限り、彼らが世界革命の野望を放棄せざる限り、必ず、米国の占領政策が残したこの重大な過誤を利用して、日本がとろうとする一切の防衛の努力を拒否するであろう。 占領軍の残した日本国憲法は、かくて、永く国論の分裂と、これに乗ずる外国勢力の内政干渉の禍根を残すのである。 陸海空軍その他の「戦力」とは? 自衛隊が「戦力」であるか否かという論議も、われわれには、甚だ滑稽に思われる。 現に存在するこの国に自衛隊というものが、陸・海・空の三部門を含む軍隊であることは疑いをさしはさみ得ぬ事実である。その前身である保安隊、警備隊はもとより、朝鮮戦争の勃発とともにあわただしく設けられた警察予備隊すらも、その本質は軍隊であった。 だが、この憲法が保有を禁じているのは、そのような武力だけではない。 In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. すなわち、第九条後段の規定は、陸・海・空三軍の保持よりも先に、他の一切のウォー・ポテンシァルの保有を禁じているのだ。 それならば、その言うwar potentialとは、何であろうか? 日本語で普通にいう「戦力」という語が表す概念は、war potentialとは甚だしく相違するのである。 対戦前の旧時代の軍事常識に立って考えてみても、たとえば商船隊のごときいわゆる「予備海軍」であって、何者がこれを見ても、厳然たる戦力要素であることは疑うべくもない。 重化学工業、重工業、精密機械工業――いずれも、もとよりウォー・ポテンシァルである。交通・通信の能力もまた同様。まして、超総力戦の時代とも言うべき今日、ウォー・ポテンシァルは、人間のほとんどあらゆる営為、あらゆる能力を包括すると考えなければならない。食糧生産の組織も、国民結合の原理も。――教育機関も、漁船隊も広報宣伝の機構も、ことごとく広義のウォー・ポテンシァルに他ならない。 そもそも、日本国憲法第九条における戦力放棄規定の根底となったものは先に述べた「ポツダム宣言」の降伏条件にあらわれた「武装の完全なる剥奪」である。この降伏条件は、第一に「国軍の解体」である。そして第二には、かりそめにも戦争のための再武装を可能ならしめ得べき一切の工業力を奪うことであった。これは、ワイマール憲法における第178条の規定と本質を同じくするものである。 このドイツ戦後憲法は、上の条項において、「ベルサイユ条約規定の効力は、この憲法によって妨げられるものではない」ことを規定している。結局は、敗戦の結果を恒久化して、永くドイツを再び起つ能わざる隷従の境遇につなぎ留めようとしたもの。当時のドイツ国民が、いかに遣るかたない屈辱の思いと悲憤の念をもってこの一条の規定を見つつあったかは、われわれが今も記憶するところだ。 憲法制定の記念日に、国民の多くは故意に黒布を竿頭に垂らした弔旗を門に掲げた。憲法に対する非難攻撃のあまりの激しさに堪えかねて、ドイツ国会はついに「憲法擁護法」を制定して、憲法に対する国民の非難を厳しい罰則をもって抑圧するに到った。 その下において生くる能わざる憲法 交戦者としての国の権利を否認し、自衛の力たり得べき一切のものの放棄を命令し、あらゆる侵略の前に自ら衛るための最後の措置さえも、その国民に拒む。これを国家自滅の憲法と呼ぶことは、不当であろうか? およそ法は、国家の存立を保持し、民族をして生き得しめんがためにこそ存在するものではあれ、国家の生命を枯渇せしめ、民族の存在を抹殺せんがためにあるのではあるまい。 自衛と戦力の問題のほかにも、日本国憲法は幾多の疑問を包蔵している。 国会をもって国権最高の機関とする制度と、議院内閣制度の併用は、この憲法の規定するところである。 これは、当然の結果として、数の横暴を許すに到るのである。多数党専制の危険は、実にこの憲法の欠陥に胚胎すると言って差支えあるまい。まして現在の日本は、相背馳する世界観を抱く二つの勢力が真っ向から対立し、仮借ない闘争を展開する争いの場である。多数党は「数」の威力のみに頼って少数党を圧服しようと試み、少数党派民主主義の鉄則を一切無視して、暴力に訴えても多数党の主張を阻止し、爆砕しようとする。 数において明らかに敗れながら、なお一切の決議を否認し、自党の反対にもかかわらずなお成立した法案は、あくまでもこれを拒んで、その成立を否定する。このような宥和なき対立を国会に持ち込み、民主主義の名において仮借なき闘争を展開するのである。しかも、これを調整すべき何らかの方法をも、日本国憲法は規定していない。 日本崩壊の禍因を内包する「トロイの木馬」 この憲法はまた、その国会に二院制度を規定している。それにもかかわらず、この憲法によれば、上院は何らその特殊性を発揮できるようにはなっていない。――上院もまた、下院と全く機能を同じゅうする。結局は、同一のものを二つ併せ並べたに過ぎない。 果たせるかな、参議院もまた、組合のボスと官僚の古手の集合所となり果てた。国会は、こうして両院を挙げて、暴力と破壊の場と化し去ろうとする。 いずれにしても、これは日本崩壊の禍因を内包する「トロイの木馬」として日本にあたえられたものであった。 日本国憲法はこの意味でも、さきに言及したワイマール憲法と共通するものを持っているのだ。 フーゴー・プロアスによって起草されたこのドイツ憲法は、実に、ドイツの徹底した共産化と、やがてこれに続いたナチズムの勃興の原因を、深くその本質の内に胚胎していたのである。 |



