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憲法

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主権について、その法的な定義を調べてみました。
「最高かつ独立なる国家の権力。最高とはその内部に対する関係上、全ての個人又は団体がこれに服従せざるべからずを謂(い)い、独立とは外部に対する関係上、如何なる権力によりても制限せられざるを謂(い)い、唯一にして分つべからず、侵すべからざるもの」とあります。

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 日本国憲法下においては、主権は国民にあります。だから国民は自己の権利が侵害されたとして、国家を訴えることができます。現行憲法のもとでは、国民と国家とは敵対関係にあり、国民に主権があるということは、国家には主権がないということなのです。

   明治の帝国憲法においては国家は治者であり、国民は被治者でした。しかしいまは占領憲法によって、権利の所在が逆転したのです。国民が統治権者であり、国家は被治者となったのです。このような逆転を生ぜしめたのは、占領憲法前文における「ここに主権が国民に存することを宣言し」という宣言です。これによって主権は国民にあり、国家にはないことになったと言えます。
    日本国憲法を丹念に読んでも、「なにものにも内部的にも外部的にも侵されない唯一最高独立の国家主権」というようなものは、どこにも見つかりません。国家権力についての関係条文はすべて「してはならない」とか「永久に放棄する」とか「これを認めない」とかいうふうに国権を束縛する禁止命令文でほとんどの条文が結ばれています。

    例えば家永教科書裁判というものがありましたが、その裁判においては、その禁止命令文のうち第
19条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」及び第21条の「検閲は、これをしてはならない」の禁止条項に国家が触れているということで訴訟が起こされました。第二次訴訟の一審などは、家永側が全面勝訴しました。最終審では教科書検定制度は合憲であるとされましたが、国の裁量権を逸脱した部分があったとかで、国が賠償を命じられました。

これなども国が幼い国民を教育するにあたって、健全な精神に育つようにいろんな配慮をして教育することは本来なら国家の権利です。たとえ事実だとしても、その教え方には年齢の配慮等、様々な工夫がされるべきで、子どもの心に傷を負わせるような教え方はすべきではありません。これは言論出版の自由を制限することとは関係の無い話で、将来国を担っていく国民を育てる上には、絶対必要なことなのです。

しかし戦後は、共産主義思想を持った人間が、革命の戦士を育てるためにと教育者となることを選択したという話も聞きましたし、日教組などの左翼思想の教育者は、「日本は悪い国である。軍国主義でこんな悪いことをした」と教え、自分の国を軽蔑して尊敬せしめないような事柄を植えつけ、日本の古来よりの伝統も風習も、いかにもつまらないもののように、劣った風習のように、非民主主義的な間違ったもののように教えました。

    それらが実って、若者の過激なものは、暴力革命をめざして破壊活動を行うようにすらなりました。「日本の国は破壊した方がいい、こんな悪い国なんか。」と思わせるような教育、特にそのように考えさせるような教科書が使われてきたからです。

数年前、日本で殺人を犯した中国人が、日本人は悪い人間たちだから殺しても構わないと思ったと言っていた事がありましたが、反日教育で育てられた中国人にそのように考える人間が出てくるように、日本の国が悪い国だと教育されて育った日本人が、日本の国を愛さないようになるのは当然であります。

    言論の自由、思想の自由というものはあっても、幼い国民の心に、「自国嫌悪」の潜在意識的傷痕をつくることは、許しがたい行為だと思うのであります。しかし、国家は、その自由を規制する権利を有しないので、国家を愛さないように仕向ける教科書を、ずっと使い続けねばなりませんでした。

   新しい歴史教科書が現れるまでは、教科書の記述は、事実をしっかり検証していないものまで、占領軍や韓国などの主張のままの歴史が載せられていました。いまでも多くの教科書は、占領軍、つまり連合国側の主張に基づいた歴史認識が使われています。新しい歴史教科書でさえ、そうした歴史認識をある程度用いないと検定に受からないほどに、日本の国家の検定でありながら、日本の国はがんじがらめに規制されて、名誉を回復することも出来ない状態なのです。

さて、現行占領憲法が国家側にとって、禁止条項に満たされているのに対して、国民側は国家の主権者としていろいろな権利が保障されています。第一条には、天皇の地位は、「主権の存する日本国民の総意に基く」とあり、天皇の地位に対しても生殺与奪の権を持つことが保障されています。第一九条には「思想及び良心の自由」が保障され、従って反国家的反社会的思想を持つ自由も保障されています。第二一条には、「集会、結社及び言論の自由、出版その他一切の表現の自由」と「通信の秘密」が保障されており、第二二条には居住移転の自由、外国への移住、日本人であることをやめる自由、第二三条には学問の自由、第二四条にはセックスの自由、第二五条には、すべての国民は健康で文化的な生活を営む権利、第二六条には教育を受ける権利、第三八条では犯罪者といえども、自己に不利益な供述をしなくても良い権利が保障されています。

まだ他にもいろいろありますが、国家には、禁止条項や束縛条項があって、ガンジガラメに縛られているのに対して、国民には無数の侵されない権利と自由が保障されているのです。だから裁判で国家と国民がこの現行憲法の土俵の上で、法文を盾にして争うならば、殆どの場合国家が敗訴するのは当然のことなのです。

現行憲法において、国家には、国内的関係において、「最高にして独立不可侵の主権」というものは存在していないと言えると思います。国家は国民の福利のための道具であり、信託組合として存在し、その運営は、つまり国政は、国民が運営を信託した代表者がやると憲法前文には書いてあります。国家の権威は国家自身から由来するのではなく、「その権威は国民に由来する」と書かれているのであって、国家に主権があるかのごとく思うのは錯覚なのです。

さらに対外的な関係においては、憲法前文の、「日本国民は、……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した」という宣言があり、憲法第九条には、「武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。━━前項の目的を達するために、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と武力の行使、戦力の保持、交戦権の放棄を規定して、対外的にも「国権の発動」をガンジガラメに縛ってあるのであります。

     このガンジガラメの縛りの法の網の目をくぐるように、自衛隊が作られましたが、「自衛権は国家当然の生存権利として存在する」という苦しい弁明で、無理やりな憲法解釈の下にあります。だから長沼ナイキ基地裁判のように、札幌地裁の一地方判事が、自衛隊違憲判決を出すようなこともありえるのです。しかも自衛隊には交戦権が認められていないのですから、どこまで祖国防衛ができるか疑問です。

 このように日本国憲法下では、日本国家は「最高にして独立不可侵の権利」という主権を対内的にも、対外的にも持っていないのです。これが現状です。

  一つの団体が生存を全うし、発展と隆昌を得るには、その団体員の意思統一が必要であり、その関係事項に対して統一見解を各員が持つことが必要であるのは、政党でも商社でも当然のことなのです。いわんや海外の侵略(直接的な侵略だけでなく、間接的な侵略すなわち思想や教育による侵略も含む)から、自国を守るために強固なる団結を必要とする国家が、国家観や国家の歴史について、国民がバラバラの見解を持って、国家の崩壊すら導くような教科書を、思想の自由の下に、横行させる以外に仕方のない状態であるのが、現行憲法下の日本国家なのです。


  日本国憲法は、アメリカの共産主義者の中のフランクフルト学派が、日本弱体化を目的として、ルカーチの理論に基づいて、日本において革命を起させるためにつくったものであることは、今では1995年に公表されたヴェノナというアメリカがソ連のスパイの通信を傍受して暗号解読した資料によって明らかになっています。
かつて武藤貞一氏は、主権がバラバラの国民各自にある日本の戦後の体制を、「糸の切れた無数の凧が勝手放題に空中に舞っているようなものである。この状態は無重力の宇宙に似ている」と形容した。宇宙船で宇宙に行くと、飛行士も、その中で使うあらゆる道具も、水も食物も、フワフワと漂ってあちらこちらに行ってしまう。地球の中心へと引っ張る引力のない世界では、すべてのものは安定せずにばらばらになってしまうのである。

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昨今、百歳を超えた高齢者の所在が不明であるとか、若い母親が、育児放棄の末に幼い子供をマンションに放置して餓死させたという事件は、現代人がこれほど都会でひしめき合っているように見えながら、家族や地域のつながりの切れた孤独な個人が、まさに武藤氏の言う糸の切れた凧のように、バラバラに存在しているのだということを痛感させられる。
戦後、日本の家族は核家族になり、更にはその核家族さえ今はいとも簡単に瓦解
してしまう。「家」という概念がなくなったからである。家というのは建物のことではない。祖先と個人の一体感のことである。自分の命が悠久なる幾千万の祖先の恩恵を受けながら命をつないできて、今ここに自己として集約しているのだという気持ちがないから、いま生きている自分だけのことしか考えない。個人の権利の前には、祖先を無視し、親を無視する。自由に恋愛する権利、自由な性交渉の権利、そこに親が口をはさむ権利はない。なぜなら憲法にはっきり結婚は両性の合意に基くと規定されているからである。そしてまた合意が壊れれば、解消するのも簡単である。個人の快楽追求の権利は基本的人権として、最大限に憲法で保障されているのである。
 いま生きている個人の権利だけを優先するのは、国家の運営においても同じである。日本という国を作り上げ、国を守りぬき、ここまで発展させてきた先人への感謝やその歴史の継承などほとんど顧みることのない政治が続いている。国への求心力を失った国民は、自己の権利をめぐって、国を相手取って訴訟を起こし、国と国民は対立する概念となった。
 主権者である国民はまた、思想信条の自由を保証され、集会、結社の自由も保証されている。この考え方を多くの人は当然だと思われることであろう。ところが、アメリカのような自由主義国では、その体制に反逆する共産主義政党を非合法化している。韓国でも同様である。そして共産主義国家は、一党独裁で、かつてのソ連や、現在の中国も、共産主義に刃向かういかなる勢力も許さず断固として弾圧しているのである。つまり今の体制を覆すような思想活動を許していないのである。しかし日本では、思想信条の自由を最大限に認め、その今ある自由を奪うであろう革命、国家転覆を目指す思想活動すら自由であるとされているのである。
オーム真理教がサリン事件を起こした時でさえ、破防法は適用されず、いまだにオーム真理教の後継の組織は解散を命ぜられることなく続いている。
またかつての学生運動が盛んであったときは、全学連はあきらかに革命を目指していた。全学連の指導者たちのバイブルであった『日本革命の根本問題』には、日本革命は武力革命であると宣言し、その革命の手順が書いてある。第一に自衛隊を内部から麻痺させ、第二に全国主要街道をバリケードで封鎖し、第三に首都東京で市街戦を展開する。・・・・・・などと書いてある。しかしそれにも拘らず、現行憲法で保障された集会、言論、結社、表現の自由を盾にとって、取り締まることの方が違憲であるという判決うけるごとき有様なのである。学生が東大の安田講堂を占拠しても、その学生の一人も退学処分を受けることもなく、学問の自由という名目のもと、大学が要請しなければ警察も大学に踏み込むことすら出来なかった。しかも当時その大学には多くの税金が投じられていたのだ。
 幸い革命などというものはおこらなかったが、もしそうした暴動が発生した場合は、都道府県知事は自衛隊出動による暴動鎮圧も要請できるようになっているが、当時の美濃部都政では、自衛隊はおろか、警察機動隊の増員にすら真っ向から反対した。
 ここに地方選挙の重要性が顧みられるのである。地方の知事など、革新であろうが保守であろうが、その地方の住民の福利を増進してくれたらそれで良いという考えで、知事選挙に臨んでいると、国家的な非常事態を生じたとき、革命のような暴動を自衛隊に阻止してもらうことが出来ないかも知れないのだ。むしろ思想の親和性によってはそれを幇助するような知事がでる可能性すらあるのだ。
 このような国と地方の対立、国と国民の対立、みなバラバラに権利を主張する日本の現状、これが日本国憲法が定めた国民主権の実態なのである。
 古来より日本は、国家の帰趨すべき中心引力として天皇を戴いていたのである。戦後この引力たる天皇を、政治の圏外に追放してしまったから、落ち着いて安定すべき中心がないのである。もともと一人ひとり意見の違う国民が主権者ということは、頭がいくつもあるヤマタノオロチのように国家の意思がいくつもあるということなのである。暫定的に多数決で意志を決めてはいても、その意志は常に移り変わって安定しない。
 明治の帝国憲法は古来よりの日本の歴史と伝統を近代的な憲法の中に美しく融合させた憲法として、当時世界でも絶賛されたという。日本では古来から天皇が国の重心としての役割を果たしていたため、国家的な危機や変革の時に、国民を一つに帰一させ、国家の内乱や分裂を防いで、外国に侵略されて植民地になることもなく来た。
 国家の統治の大権は常に天皇にあり、幕府も帝国議会や内閣も天皇よりその権限を委託されたのである。一人ひとり考えも本来違う国民が、天皇という中心を持つことで、日本人は、ひとつの家族のようにまとまってきたのである。歴代の天皇が、常に無私の心で国民を大切にいつくしまれてきたことは、歴史を調べればそれが決して嘘ではないことがわかる。だからこそ、どんなに貧窮されても続いてきたのである。日本の天皇は、祈る君主であり、祈りこそ最大の役目であった。それが西欧の君主との絶対的な違いであり、西洋の民主主義が、君主から民衆の権利を獲得することで発展した歴史と、日本の歴史との違いを、はっきり認識すべきなのである。西洋と日本との人間観の違い、世界観の違い、自然観の違い、そうしたものがあって、それぞれの歴史があるのである。西洋の歴史を、そっくり日本の歴史に当てはめて、西洋と同じ用語で、日本の歴史を語ることは、日本の国、日本の歴史の個性を無視し、間違った認識に陥らせることになると思うのである。
日本国憲法の前文を読まれたことがおありでしょうか。日本国憲法は日本の終戦の翌年、昭和21年の113日に公布され、2253日より施行されました。ハーグ条約 陸戦法規43条に「勝ち組が被占領地に到達したときは、その国の法律を変えてはならない」とあります。しかし、占領軍は、この憲法を日本が受け入れなければ、「天皇の人体(Person of Emperorという語を使ったという)もどうなるかわからぬ」と脅したといいます。しかもそのように脅しながら、「しかし一国の憲法はその国の国民が定めるのであるから自分でよく考えて、このアメリカ草案の憲法に基づいて日本国憲法を改正するかどうか、ちょっとお庭を20分間ほど散歩してくるからその間に考えて返事をしなさい」と言ってホィットニー准将は散歩に出ていったといいます。

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つまり、もし受け入れなければ、天皇の命は保証しないけど、決めるのはあくまで日本国民なのだから強制はしないから、20分間よく考えてから返事をしなさい。というもので、例えれば、強盗が押し入って、その家の子供を人質に取り、子供を殺されたくなければ、有り金全部出せ。でも強制はしたくないから、お金を出すかどうか決めるのは、お前が自分で判断しろ。五つ数えるまで待ってやる。と言っているのと同じではありませんか。
そしてそのようにして受け入れた日本国憲法がいかなるものであるかを端的によくあらわしているその前文は次のようなものです。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦 争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法 は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われ らの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
 
これを読んで、ああ素晴らしいことが書いてある、崇高な精神だなあと思われたでしょうか。崇高と書いてあるからと言って、その中身が崇高であるとは限りません。当時の日本は、敗戦国として、占領期間中であり、占領している連合軍は、勝者として、敗者である日本を悪者に仕立て、勝者が敗者を裁くという明らかに国際法違反のような東京裁判を行ない、戦犯を処刑したりしています。東京裁判は、さすがに連合国でも間違っていたということで、歴史の汚点としての評価と共に、サンフランシスコ講和条約では、東京裁判での戦犯の全員は無罪であるという判定が連合国で確定され、処刑された東條首相も含めて全員が無罪になっています。

とにかくこのように敗戦国の日本は、武装も解除され、勝者の意のままに国際法違反であるにもかかわらず、憲法を押し付けられたのでした。押し付けられた憲法でも中身がよければそれでイイではないかという方もいます。ほんとに中身が良いのでしょうか。
二段目の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われ らの安全と生存を保持しようと決意した。」というところを読んでみてください。これは、言い換えれば、「敗戦国である日本は、とても悪者でした。二度とあなた方に刃向かうことはありません。あなた方連合国は全て平和を愛する国であり、公正と信義を重んずる国であり、われわれ日本は、あなた方が公正で信義ある扱いをしてくださると信じて、あなた方に自分たちの生命と安全を全ておまかせします。」ということなのであります。
つまり連合国に対しての、「わるうございました二度と刃向かいません。命も安全もあなた方次第です。」という詫び証文であるのです。これが独立国の憲法と言えるでしょうか。本来なら、サンフランシスコ講和条約で日本が独立を果たしたときに、占領基本法として破棄しているべきものだったのです。それをいつのまにか人類普遍の真理とか、人類の理想とか、さも立派なもののように洗脳され続け、いまだに憲法として大事に守っているのは、本当は、独立独歩の主人公としての自覚を持つ国ではなく、ご主人様の顔色を常に伺う奴隷根性の国としての道を歩いているのです。

日本のまわりに、本当に公正と信義を重んじる国がどこにあるでしょう。ロシアは日本がポツダム宣言を受諾したあとに、不可侵条約を破って樺太千島に侵略してきた国です。北朝鮮は言うまでもありません。韓国は日本の占領中に竹島を占拠しました。中国は、ご存知のように、チベット、ウイグルに対して大虐殺をおこなっています。欧米だって、戦前日本が国際連盟で、人種差別撤廃条約を提案したときに、彼らはみな拒否したのです。アメリカで黒人差別が法の上でなくなったのは1964年の公民権法制定によるものであり、戦後ほぼ20年経ってもまだ黒人差別は続いていたのです。現実には、公正と信義を重んじない国がほとんどであるにも拘らず、それらの国に生命と安全を委ねることが、独立国の正しい取るべき道でしょうか。

実際には、日本は戦後日米安保と、実戦はほとんどできないに等しい自衛隊によってかろうじて国を守ってきました。アメリカにノーと言える国とかいう言葉がありましたが、命を委ねている国に、ノーと言えるわけがありません。中国や韓国に対しても日本は譲歩ばかりしてきたではありませんか。どんなに正しい主張をしても、最終的には武力行使の出来ない国だと思われている限り、相手は一方的に主張を押し付けてきます。国益の対立というのは、そういうものです。島国の中で、国民全部が家族のように暮らしてきた日本人同士が、譲りあって生活してきたのと、国と国の関係は全く違います。各国の国の代表は、少しでも自国の有利になるように、けっして譲ることはありません。常に利害を天秤にかけて、相手の出方による不利と、もっとおし強く出た時の利益などのバランスの上に外交を行っているのであり、友愛などの精神が入り込む隙などないのです。

日本を真の独立国にするためには、日本国憲法(本来は占領基本法)を破棄し、法的には正統である明治憲法を復元した上、現代の実情に合わせてこれを改正することこそ、法治国家日本の唯一法的に正しいやり方です。

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昭和天皇御在位50年奉祝のころの冊子に、次のような記事がありましたので、要約して紹介したいと思います。
 

天皇皇后両陛下(昭和天皇御夫妻)がご訪米された直後、米国に行って直(じか)にアメリカ人の反応を調べてきた中尾栄一氏が、日本の天皇陛下に対してもてなした待遇が空前のものであった様子を、詳しく伝えてくれています。


 
ワシントンではヘリコプターが何機も夜中じゅう警戒に飛んだのだそうですね。あんなことは初めてだそうですが、照明をつけて針一本落すのも拾う姿でわかるというのです。それからセキュリティ・サービス(要人警護)さんも、前と後ろにこうやって、たえず派手な服を着てピストルを構える、これが徹底していたというのです。
 エリザベス女王のときと較(くら)べていましたがとても問題ではなかったと言っていました。ともかくニューヨークの交通情報でそれを知らせる、唯今、日本の天皇陛下が高速道路をお通りになっているので、交通を遮断すると、それを誰も文句を言わなかったというのです。
 普通だったら、三千万ドルもなけなし(赤字財政)のニューヨークの市で、護衛のためにだけ使い、そんなことをしたらクレームがつくというのです。相当新聞投書があるというのですが、それが全然ないというのです。これは驚いたと言っていました。しかも、アメリカ人が何千メートルも待たされて、高速道路は天皇陛下が通るだけで通れないで、そんなことでも文句は全然出なかったということは驚くべきことだ。
 中尾氏は、このほか、「ジャパン・アンド・アメリカン・フレンド・アクト」(日米友情法)が、陛下が行かれたために三日間で議会を通った(半年はかかるもの)ことや、警備に当たったものがその任務を遂行できたことの栄誉をどれほど誇らしく思っているかなど、報告しているなかで、彼らアメリカ人が、陛下が歩まれる姿を見て、「歴史が歩いているという実感を受けた」という告白を諸方で耳にしたということです。
 二百年祭を迎えようとしていた米国にしてみれば、二千六百年以上も続いている歴史をそのまま背負って来られたディグニティ(威厳)というものに対して較べ得るものを持たないのですから、そこに冒(おか)しがたいものを感じ、“歴史”の重みに圧倒されたともいえるでしょう。ここで“歴史”を単に時間の経過と考えるならば、二百年も三千年も「量」の差にすぎなくなり、そこには、ただもの珍しさに対する関心しか人々の心には湧かなかったでしょうし、また、その印象しか残らなかったでありましょう。
 しかし事実は、もっとほかの要素があったことを物語っています。あの“歓迎”は、無意識のうちに、「質」の相違に対する“畏敬”の表情となって表れていたと思います。
 「歴史が歩いている」というのは、彼ららしい巧みな表現であります。ここにいう“歴史”とは、従って単なる自然の、変化流転の時間的経過のみを指しているのではないでしょう。一つの目的意思を持ち、それに向かって進むとき“歴史”が生まれ、“歴史”が刻まれます。個人でいうならば“志”を立てて歩みはじめたとき、その人の“歴史”が立派に始まったといわれるように、一国の歴史は、建国の理想がうち立てられたときにはじまることは、いうまでもありません。その理想を二千六百四十年、ご皇室を中心に日本民族は歩み続けてきたのです。したがって、「歴史が歩む」ということは、「建国の理想が歩んでいる」ということを意味するのであります。天皇陛下のお姿はまさに、そのとおりです。日本民族の統合の“象徴”であるゆえんもここにあります。
 昭和天皇はこの年のお歌会始に
     
          わが庭の宮居に祭る神々に世の平らぎを祈る朝々

と歌われました。このお歌の精神こそ、歴代天皇のお心であり、建国より代々受け継がれてきた建国の理想ともいうべきものです。初代神武天皇は、「皇都経営の詔」において「八紘を掩いて宇と為む」(はっこうをおおいていえとせむ)と言われました。『みことのり』や『日本紀年の研究』の著者である森清人博士は、『日本新史』のなかでその崇高な精神を国連憲章を先取りしたものとして、次のように解説しています。
 広い天の下(あめのした=世界)が、一家族のように仲むつまじく、平和になることを、この国の建国者たちは、切望し祈念している。(中略)国連憲章の理想が、争いなき平和な「一つの世界」の顕現にあることは、その前文に「われら善良な隣人として互いに平和に共存し全世界の平和及び安全を維持するために、我らの総力を合わせる」とあるのでもわかる。
 尚、これについてエール大学神学部長のパール・S・ビース博士は、その著『日本古典の精神』の中で、「人類は五千年の歴史と二度の世界大戦の惨禍を経験した結果、“一つの世界”を理想とする国連憲章をむすんだが、日本の建国者は、二千年も前の建国当初に、世界一家の理想をのべている。これは人類文化史上、注目さるべき発言であろう」
 このように森博士はビース博士の驚きを紹介していますが、このビース博士の驚きに似たものを、トインビーが残しています。昭和42年に二度目の来日であこがれの伊勢神宮を再訪問したトインビーは、神楽殿の休憩室において、求められるままに、毛筆で記帳しました。
 「この聖地において、私はあらゆる宗教の根底的な統一性を感得する。アーノルド・トインビー1967年11月29日」
 トインビーが感じた天照大神は、全世界、全宇宙に光を照り徹らせる神であり、仏教の根元のベェローシャナ仏と同じ徳をもつものであり、人類が根元の世界に仰ぐ共通の中心者の本質をそなえておられるのであり、その天照大神の子孫といわれるお方を、「天皇」と仰いで、国の歴史を始めた民族性が、ビース博士を驚かした八紘一宇の精神として建国の理想に結実したと言えるでしょう。

 ルソーは『社会契約論』において、現在生きている人々だけが契約をかわして、それに基づいて社会や国家が変革されることを是としました。それは人間を動物視して、互いの利益打算に基づいて契約社会を持ったという国家成立観です。
それに対して、エドモンド・バークは『フランス革命についての省察』という名著の中で、痛烈な批判をしています。
「社会は、まさしくひとつの契約である。たんなる偶然的な利害の諸対象についての従属的諸契約は、すきなように解消していい。しかし国家は」とバークは言うのです。
しかし国家は、胡椒やコーヒーやキャラコやたばこの貿易や、その他このような低級な事業における、合同事業協定とかわりなく、小さな一時的利益のためにつくられ、当事者のきままによって解消されるべきものと、みなされてはならない。それはちがった尊敬をもって、みられるべきである。なぜなら、それは、一時的でほろびゆく性質の粗野な動物的存在のみに役立つものごとにおける、合同事業ではないからである。
すなわち、一時的でほろびゆく性質の粗野な動物、たとえば夏バエの如き存在であってはならないというのです。今生きている人々だけが交わす契約で事足れりとするのは、人間が夏バエのような存在になってしまうではないかというのです。ひと夏ごとに死ぬハエには、先祖から継承するものもなければ、子孫に伝えるものもない、断絶の連続なのです。
他にかけがえのない、“民族独自の文化”を死守し発展せしめるための、真のナショナリズムをこそ、われわれは蘇らさなければなりません。われわれの生活を支えている最も重大な根本的なものを、見失っている現代日本の大衆社会に迎合している夏バエのごとき“異民族”を思わせる革命勢力の増殖を赦してはならないと思うのであります。

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国の個性

 国家の三要素は領土、国民、主権であるといわれる。領土があって、その上に国民が住んでいるだけでは国家ではない、その国民を統合する主権というものがあって初めて国家と呼べるのである。では主権とは何かといえば、国家の持つ生命あるいは魂とでも言えるのではなかろうか。

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 かつて兵庫県神社庁主催で、神戸市文化ホールで行われた「昭和天皇の御即位50周年祝賀式」において皇學館大学の学長であられた佐藤通次博士が講演された中に次のような話がある。
佐藤通次博士は「独和言林」というドイツ語辞書の編纂に精魂を使い果たして“神経性狭心症にかかって半病人の状態になった時に、日本古来の武道・芸道に正身正息の道がちゃんと立っていることを発見して、それに従って、人体の中心である気海丹田に力を籠めて姿勢を正して正身正息を熱心に行じているうちに健康を回復し、爾来40年間今日にいたるまで健康を維持した体験をのべられ、次のごとく話されたという。
「それと共に、私には自然発生的に哲学が芽生えてきました。それも『国体』のことを思う哲学です。『国』というものも生命体ではないか?人がそれぞれ個の生命体であるならば『国家は超個の生命体』である。ひとしく生命体であるならば、個の人に全身統一の座が立つように、国家にも統合の座が立たなくてはならぬ。その座は、わが日本においては『天つ日嗣・高御座』(すなわち皇位)として、歴史的に与えられている!かく考えることにおいて、わたくしは確信的な尊皇者となりました。この尊皇は、私が身を以て得た真理ですから、その後の敗戦などによって豪もぐらつくことなく、今日に到っています。」
国家が生命体であるならば、すべての生命にはみな個性があり、その個性こそが、その生命の存在意義とも言えるであろう。桜の花には桜の個性があり、梅の木には梅の個性がある。同じ土に植えて同じ肥料を与えても、桜には桜の花が、梅には梅の花が咲く。国家にもそれぞれの個性があり、その国家成立の国家理念があって、その国家理念は、意識的無意識的に、その国家のあり方、文化、国民の生き方に影響を与えるものであろう。アメリカにはアメリカの国家理念、イギリスにはイギリスの国家理念、中国には中国の国家理念、インドにはインドの国家理念がある。そして日本には日本の国家理念がある。
国民国家、民族国家という場合には、この国家理念は、神話の形で示されることが多い。同じ民族であるという意識は、共通の「民族起源」の認識、共通の「宗教」心意、共通の「民族性格」であるが、神話にはこれらがすべて含まれており、この国家理念が民族を秩序ある姿に統合して国家を形成することができると言えるだろう。
 そして佐藤博士の言われるように、国家には統合の座がある。国民を秩序ある姿に統合する国家理念の行きた表現身が必要であり、日本においては天皇こそ、これに当たられるのである。昭和天皇が訪米されたとき、『シカゴ・デーリー・ニューズ』紙のダッドマン編集担当副社長が、「天皇のご訪米で初めて日本そのもののアイデンティティ(本当の正体)を見つけた感じがした」と言ったと書かれていたが、まさに「国民統合の象徴と」と現憲法にもうたわれている「天皇」のお姿にわれわれは、「国家理念」をつぶさに拝することができるのである。
 昭和天皇が訪米されたとき、あるアメリカ人はかつて、若き日の昭和天皇が馬に乗っている姿の写真を見たことがあり、ナポレオンのように威張って命令を下す専制君主のイメージを持っていたが、実際のお姿を見て、非常に心優しい誠実な人格のお方だということがわかったと言っていた。別のアメリカ人は陛下のお顔を見ただけで、あの人は正直な人だと言った。分かる人には直ぐわかるのである。それは、日本の天皇が、古来より、常に神に国安かれ民安かれと祈られることを最も大切なお役目として生きてこられたことで、その御精神が身にまとわれる雰囲気となって表れているからだと思う。人は常に心に抱く思いによって、長い間にその表情、雰囲気にその精神の形を刻んでいく。まして天皇は歴代そのようなお心で過ごされてきて、皇室そのものの精神となっている。そうした中でお生まれになり、お育ちになった天皇がまとわれる雰囲気に日本の“まこと”があらわれずにはいないと思うのである。唯物論者は、祈りに何の力があるかと言うだろうが、真剣な祈り、真剣な思いは現に古来からの日本人を天皇を中心に心を一つにして、いざという時の国難に当たらせてきた。
 室町時代は非常に皇室が貧窮した時代であるが、三条実隆公の日記に、正月の元旦祭に天皇が水ごりをなさるのだが、その水ごりをなさるときにお囲い申し上げる布がない、しかも御所の塀が破れていてそのご様子が、外から見える、そういう状況で、あの冷え切った京都の正月に天皇が水ごりをされて祈られるということが書いてあるという。そのような真剣な祈りを捧げられる代々の天皇を日本国民は戴いているのである。日本の国家理念というものが、神意の体現者であられる天皇に中心帰一するというものであることは、神話を見れば明らかである。そして古来より日本人はその国家理念のとおりに生きて来たのである。林武画伯が、ものにはすべて中心があると言われ、その中心を掴むとすべてのものが調和し、物事が整うと言われた。絵画においても、そうであると。その中心が不動であることが、末端の全ての柔軟で大胆な動きを支えるのである。明治維新の本来なら倒幕による革命のような政変において、国内が内戦状態になることなく一気に新体制に移行できたのも、大東亜戦争に敗戦した後に、内乱状態になることなく終戦後の体制に移行できたのも、天皇を中心として国民がまとまっていたからこそである。こうした日本人を誰かが、被統治能力が高い国民といっていたが、その能力を支えているのは天皇の存在なのである。
 こうした国家理念を無くして、日本人ではなく、地球市民であろうとする人々がいるが、それはまるで、リンゴやバナナが、リンゴであることをやめ、バナナであることをやめて、果物であろうとするようなものである。果物というだけの果物などないのである。みな具体的にはリンゴであり、桃であり、バナナであるのであって、その個性を通してしか果物ではないのである。
 大和という国号は多くのものを一つにまとめるという意味であり、やまとの“や”という音霊は、弥々(いよいよ)多く、という意味であり、まとは的であり中心にひとつにまとめるということである。
 神武天皇が建国されたときに、「六合(りくごう)を兼ねて以て都を開き、八紘(はっこう)を掩(おお)いて宇(いえ)と為す」と言われた。この八紘の紘というのは、冠を固定するための緒(ひも)のことで、八方の緒を顎の下で結び合わせるようになっていたその緒を紘といった。緒は玉の緒を意味しており、八方の人々の魂を一つに結びあわせてひとつの家族のようにするということである。
 ところで古事記には天鳥船神と建御雷神が大国主命の国土を天孫に奉還するように談判に行かれたときに、「汝がうしはける葦原中国(あしはらのなかつくに)」という言い方をされた。この“うしはく”という言葉は、支配するという意味の言葉で、うしは主人(うし)のことで、はくは履くと同じ語原であり、別のものがうまく乗っかって我が物顔に自由にうごかすことである。これはいわゆる覇道である。それに対して、日本天皇の御統治は『ウシハク』とは言わないで、『しろしめす』と申し上げるのである。人間の体において、脳髄が、体の細部に至るまで、神経が張り巡らされているように、自分の体のごとくに、知り尽くされるように治められること、これを皇道というのである。
 

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