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医師による不同意堕胎被疑事件判決
中央大学名誉教授 眞田芳憲
去年の8月9日、妊娠中の交際相手出会った看護士に薬剤を投与して流産させたとして不同意堕胎罪に問われた元東京慈恵会医科大学附属病院医師に対し、東京地方裁判所は懲役3年、執行猶予5年の判決を言い渡しました。
裁判長は判決の中で、「生命を尊重すべき医師がその立場を利用し犯行におよび、強い社会的非難を免れない」と述べると共に、一方、「勤務先を懲戒解雇され、医師免許を返上する意向を示している」などを理由に執行猶予を付したと述べています。
不同意堕胎罪の先例は、さほど多くありません。数少ないこの種の事件として、昭和36年、山形地方裁判所新庄支部で審理された不同意堕胎被疑事件があります。この事件は次のようなものでした。
内縁の妻と同姓の後、まもなく懐胎の事実を知った夫たる被告人は、3年ぐらいは子どもを産まないで夫婦共稼ぎを決めたいたこともあって、妻の懐胎を極度に不快に思ったこと、さらに被告人の母と妻との折り合いも悪くなっていたことなどから離別を考えるにいたり、妻の出産は離別を困難にするものと考え、妻に堕胎を勧めていました。他方、妻は子供が欲しいことと、出産をすれば入籍してもらえると思い、被告人の勧めを頑強に拒否していました。そこで、被告人は入籍手続きに行くと偽って妻を連れ出し、産婦人科医院に同伴し、医師に人工妊娠中絶を依頼します。診察室で被告人と妻との間に騒動が起きましたが、妻は「堕胎すれば籍を入れる」との被告人の言葉を信じて中絶手術を受け、帰宅したものの、10日ほど経て離別させられてしまいました。
この事件を審理した山形地裁新庄支部は、「被告人が医師と共謀の上、妻の承諾を得て堕胎させた」と認定し、業務上堕胎の罪の判決を言い渡しました。しかし、この事件は仙台高等裁判所に控訴されます。仙台高裁は、被告人と医師との共謀による業務上堕胎の事実認定は誤認に基づくものであり、ひいては法令の適用を誤ったものとして原判決を破棄しました。そして、不同意堕胎罪の罪によって処罰されるべきものとして、被告人に懲役6ヶ月、執行猶予2年の判決を言い渡しました。
それにしても、医院診察室での当事者の言動は異常なものでした。交際の事実認定によれば、「(妻は中絶を強いられる)事情を察知して手術台から逃げ出したので、被告人は『堕胎しなければ別れる、堕胎すれば必ず入籍する』と偽って妻に堕胎を強い、事情を知らぬ看護婦と共に妻の手を引っ張って診察室に連れ込み、遂に妻をして堕胎やむなしと観念させた上」医師による中絶手術によって堕胎せしめたというのです。
先の不同意堕胎被疑事件もそうですが、本件においても妻の人間としての尊厳、女性としての人間の尊厳、さらには胎児のいのちの尊厳は無視されています。いや無視されているというよりは、剥奪されていると言わねばなりません。診察室での高度の職業人としての医師の責任、医師である前に人間としての道義的責任もとわれるべきではなかったでしょうか。
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堕胎は女性にとって、精神的にも肉体的にも大きな傷を残します。近年親子間の葛藤からいろんな事件に発展するケースが、時々ニュースを騒がせますが、こうした親子間のさまざまな問題、あるいは子供の非行、閉じこもりなど、そのような相談を受ける方が、調べたところ、その人が知る範囲では、そのような家庭において、たいていが母親が過去に人工妊娠中絶をしたことがある場合がほとんどであるという話をされたことがあります。
結婚して今はまだ夫婦だけの生活を楽しんで、とか、今は共稼ぎでお金を貯めることに専念してお金がたまったら子供をつくろう、とか、そういう考えで、せっかく授かった子供を安易に堕胎して、そして何人目かで子どもを生んだとすると、その母親には、子供は授かりものという意識よりも自分が作った子供という自己所有の意識が勝るのではないかと思います。子供を自分の物という意識は、子供を時には過保護に、時には苛立つと虐待に近いこともしたり、子どもを自分の考えのとおりに支配したいという気が起こるのではないでしょうか。また以前の記事にも書きましたが、渡部昇一氏が、鬼のように角の生えた母親の絵を書く子どもの母親は、勉強しない子を叱るときに、意識の底に、「なんで勉強しないの。そのために私は二人も堕したのに」という気持ちがあって、それが雰囲気に出て来て子供はそれを敏感に感じるのでは、と。あるいは素直に霊魂の存在を認めるとすれば、背後に堕胎された兄弟の霊を感じ取るのではと言われていました。
そうした子供は、たとえ、自分より前に本当は兄弟がいたということは知らなくても、自分ももしかしたら殺されていたかも知れない。あるいは、兄弟は死んでいるのに、自分だけ生きていることの後ろめたさ、そんなものを無意識に感じているのかも知れません。人間は表面の心は何も知りませんが、意識の底は多くの人間の意識と繋がって、ほとんどすべてのことを知っているという説もあります。表面の意識が目指すものと、そうした潜在意識の目指すものが違っている場合も多く、表面の意識が幸せを求めているのに、潜在意識は贖罪のための不幸を求めているという場合も多いという精神分析の話もあります。こうした話は、信じられない人もいるでしょうが、それを否定する根拠もないのですから、分からないことです。
よく戦争中の残虐行為や、残虐な事件の話を聞きますが、そんな話は、聞くだに耳を塞ぎたくなるような身震いする話です。ところが、胎児の堕胎というのは、時にはそれ以上の悲惨な虐殺です。昔は、掻爬と言って子宮内に器具を入れて、胎児の柔らかい体をズタズタにして掻き出す方法が取られていました。胎児は狭い子宮を逃げるように動き、時には声をあげる場合もあるといいます。最近では吸引という方法が取られるようです。しかし最後はやはりずたずたにされて、トイレに流されるという話を聞きました。
これが人間の生命に対する行為と言えるでしょうか。そこにはまったく胎児の生命への畏敬の念はありません。
そして自分たちの生活が乱されなかったという満足、つまり経済的安定やあるいは世間体が保たれたという安心感で、平気な何食わぬ顔で明日からの生活をつづけていく、これでは、よくあるニュースの殺人犯が、殺人を犯した後もまったく普通に生活して気付かれなかったと報道しているのとそっくりではないですか。
これがほんとに民主主義で、幸福を追求する権利というものなのでしょうか。胎児は母親の胎内に出来たただの物質的な肉塊だと言えるのでしょうか。私たちはみな胎児の時期があったのです。もしその時堕胎されていたら、いない人間です。胎児も同じ人間ではないでしょうか。
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胎児と生命尊重
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遺伝子工学博士の話
生命科学の立場から 「子供は誰のものか?」
人々の生き方や考え方にもさまざまな問題があり。たとえば、夫を亡くした
女性が、冷凍保存しておいた夫の精子を使って、夫の死亡後に人工受精を
受けて子供を出産したケース技術的には何の問題もない。
子供は健全に生まれ、健全に育っていくでしょう。法的にも現段階では明確な
規定はない。個人的には「愛する夫の子供がほしいという気持ち当然」であり、
良いことと受けとめる人もいます。
一方でそういう子供の相続など法律問題がどう扱われるか?いわば、問題
含みだというこですが、こういう議論を見るにつけ、私は生命というものに
対する見方のズレが生じてきている、という気持ちが拭えません。
どういうことかというと、子供は親の所有物ではないということです。また、
私たちは「子供をつくる」と軽々しくいいますが、子づくりに関して両親は
いったい何をしたか、男も女も、ただ「受精のお手伝い」をしただけだからです。
生まれてきた子は、自己のもつ遺伝子の一刻も休みない働きによって成長を
遂げていく、こうした生命の営みを見るかぎり、子供は人間業を越えた大自然
サムシング・グレートの偉大な働きの結果といわざるをえない。
人間は「私たちがつくった」という顔をしているだけなのです。子供は、その
両親がつくった親の所有物などでなく、サムシング・グレートからの預かり
ものである。あくまでサムシング・グレートが主役であり、両親は脇役である。
こういう事実を私たちは再認識する必要があると思うのです。戦後日本人は
口では「人の生命の尊さ」を唱えながら、現実は自分達の欲望のままに
、むしろ生命を粗末に扱ってきたのではなかったか。そうでなければ、
一年間に失われる胎児の生命が届け出数だけで35万人などとならない
でしょう。戦後からいままでに葬り去られた胎児の生命は、6700万人と
いわれ、この数字は過去百年間に世界中に起こったすべての戦争の
犠牲者の数にほぼ匹敵するのです。
これは日本人の生命観が変わってしまい、「子供はつくるもの」という
意識が強くなったからです。生命科学の現場にいて、つくづく感じることは、
細胞一個でも生きている基本的な仕組みについて、肝心なことはまだ
わかっていない。
それほど生命は不思議で素晴らしいものだということです。同時に自分の
遺伝子を使って、自分のコピーをつくりたいとか、死んだ夫の精子で子供を
つくるなどは人間のエゴ、奢りのようなものを感じざるをえないのです。
生命は、宇宙、地球、サムシング・グレートが、膨大時間を費やして
つくり出した最高傑作です。人間の知恵や工夫でできたものではない。
そのことをけっして忘れずに謙虚な気持ちで接することが大切であると思います。
※ サムシング・グレート、(神・仏)
一般の宗教と間違えられないように博士が命名されてました。
連載 「私の日本憲法論」
占領憲法の非真理性とその影響
国民の権利の根拠はどこにあるか
だいたいこの占領憲法が国家の権利に優先して個人の権利が
一層尊重されているのは、いかなる根拠によるものだろうか。
権利、権利、と個人の飽くなき欲望の満足を主張して互いの欲望の
主張が衝突するところに闘争が起こるのであり、予想した欲望が
充足されない時、欲求不満が起こり、政府を怨み、国家を憎む不逞の
国民を産みだすにいたるのであります。
私の尊敬している一燈園の故西田天香師は「許されて生きる」とか
「お光、に生かされて生きる」という語をよく使われたものであります。
お光、というのは、神、または、仏、の別名で、一宗一派の宗教に
使う文字を故意にさけて、こうした通宗教的名辞を用いられたもので
あると思うが、
人間が地上に生まれて来たのは、自分の力で自己主張して生まれて
来たのでなく、「生まれる」という受身の語がおのずから示すが如く、
生まれて来た(IWasbon)のである。
人間はその出生の根源が自分の力でなく、われを産み給うた神の力に
よるのである。したがって、根源的に、人間には何の権利もないのである。
「自分」から出て来たものは何一つなく、神の力によって生まれ、父母の
恵みによって生かされ、大自然と衆生との御恩によっていろいろの生活の
必需物を供給されて、その生存を維持しているのである。
「これだけは誰の世話にもならない、本来自分のものだ」というものは
どこにもないのであります。
それなのにどうして、占領憲法の第二十五条のように
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
などと、そんな権利を主張する根拠があるのだろうか。
これは権利なのではなく、「そのような健康で文化的な生活を創造するの
義務を負う」でなければならないのであります。
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少子化と言われはじめて、もうずいぶん経ちますが、その一方で毎年27万の胎児の生命が失われているのをご存知でしょうか。そのうち十代の中絶件数は約二万七千件、実数はその二倍とも言われ、戦後六十余年に葬り去られた生命は七千三百万にのぼるといわれます。 児童権利条約には、「児童は出生の前後において、適当な法的保護および世話を必要とする」と書かれています。いつから胎児は人間か、すなわち堕胎の殺人罪を妊娠何ヶ月とするか、これは各国で、いろいろ規定されています。しかし、カトリックでは、終始一貫、受胎の瞬間をとって生命の始まりとしています。受精した卵は顕微鏡的な存在ですが、将来のすばらしい全情報量をその瞬間、確実に受け渡されているのです。 またカトリックでは堕胎を神の目から見れば、普通の殺人より重い罪との考えて、号天罪と呼ぶのだそうです。堕胎はその生命を宿した母が自ら殺すのだから、子供としてはどこにも訴えるすべなく、誰も泣いてくれる者もなく、その正義はいかなる意味においても回復されない。その流された生命は直接天に訴えるより仕方がないからだそうです。 来日されたマザー・テレサは、こういわれました。 「日本は大変美しい国です。大変多くのものを神により与えられました。皆様 の持っていらっしゃるものを持っていない国は沢山あります。しかし、何故日本という国は、まだ生まれないたった一つの小さな生命を恐れるのでしょうか。も う一人食べさせなければいけない、教育させなければならない、自分に不都合なことがある、そういう理由で、親がわが子を恐れて、殺すことができるのでしょ うか。こんなに物があふれている国で、何故そういうことをするのですか。 中略 皆様は勇気を持って優生保護法と闘い、同時に養子縁組がより簡単になるように努力して頂きたいと思います。・・・略」 日本で親の意思一つで、簡単に胎児の命を奪うことが出来るようになったのは、昭和23年7月13日に公布された優生保護法という法律以来です。それまでの日本では、昭和15年に制定された国民優生法という法律がありましたが、これは遺伝的疾患を有する者の増加を防ぐのが目的であり、厳重なる手続きを経て生殖を不可能ならしめる優生手術(不妊手術、及び、妊娠中絶)を行う事を認める法律となっています。 ところが、日本が大東亜戦争に負けて占領軍が日本を席巻すると、GHQは「国民優生法」を改竄・廃棄して、母体保護に関する条文を追加した「優生保護法」を昭和23年7月13日に制定し、翌24年6月1日施行させました。もっとも形の上では日本の国会で日本人が提出したようにカモフラージュされています。 それは、今では母体保護法という法律に変わっています。母体保護法は、優生保護法をさらに先鋭に、簡単に堕胎できるように、胎児の生命も尊厳も何も考慮せず、ただ人工中絶の手順のみの規定になってしまっています。 これは、胎児を生命と思わず、手術を金儲けの手段と考える 産婦人科医師会や、ジェンダーフリーを叫ぶ女性団体からの要求により改定されました。 渡部昇一氏が、いつか書いておられました。「子どもたちにお母さんの絵をかかせたら、角の生えた画を描いた子どもが何人かいた」と言う話を。「昔はお母さんの頭からは後光がさしたように感じられたのに」と。後光は、仏像、仏画やキリストの画像等の後ろに、いろいろな形で描かれているが、なぜ今の子どもは逆に母の頭に角を見るのか、感じるのか。お母さんが子どもを叱るとき、一つには堕胎の問題があるのでは、とおっしゃっています。 戦後「少なく産んで良く育てる」の流行もあり、計画以上に妊娠したとき簡単に堕してしまいます。そして子供に「勉強しろ」と叱るとき「そのために私は三人も堕しているのに…」という思いが意識のそこにあるのかもしれない。「あるいはもっと素朴に霊魂の存在を信ずるならば、そのときの母親の背後には恨みを呑んで葬られた嬰児の姿がでるのでは…」と述べておられます。また流産児と青少年問題を研究したある人が、十代の犯行で本人取材をした結果、「母親に殺意を持ち、死ねと言ったり、殺そうとしたりする子は、親に殺された胎児のあの世からの最も強烈なシグナルである」と述べています。 戦後近代民主主義の蔓延による個人主義=利己主義が家の崩壊をもたらし、「教育勅語」の廃止や日本弱体化政策により「親に孝に夫婦相和し兄弟に友に…」の伝統美風が希薄となり、唯物拝金思想はますます盛んになりました。 万物の霊長として、天文学的な確率で受胎し、神秘な力により成長する無限の可能性を持ったお腹の赤ちゃん、その赤ちゃんが経済的理由で、富と引換に殺されてゆく現代、これほどの、天への冒涜、神への冒涜があるでしょうか。 古来より、山上憶良も「白金も 黄金(こがね)も玉も なにせむに 優れる宝 子に及(し)かめやも」と歌ったほどに、そしてそれが万葉集に載るほどに、日本人はこどもを慈しむ民族でした。 戦後優生保護法が施行されるまでは、堕胎は罪でした。今も堕胎罪は残っていますが、まったくの空文化しています。胎児は一体誰が守ってくれるのでしょうか。母親が守らないで殺そうとする現代、胎児の悲しみは誰が感じてくれるのでしょうか。 母体保護法があるのなら、胎児保護法も制定すべきです。胎児を殺す人にとって、胎児は母親のお腹に出来た肉腫のようなものだとでも言うのでしょうか。単なる邪魔な物質にすぎないのでしょうか。誰もかばうことは必要ないのでしょうか。 古事記ではイザナギノミコトが黄泉比良坂で、千引岩を黄泉の国との境においてイザナイザナミノミコトと対峙されたときに、イザナミノミコトが「愛しき我が那勢命(うつくしきあがなせのみこと)かくしたまわば、汝(みまし)の国の人草一日に千頭絞り殺さむ」といわれました。そうするとイザナギノミコトは「愛しき我が那邇妹命(うつくしきあがなにものみこと)、汝(いまし)然したまわば、吾は一日に千五百の産屋立ててむ」と言われ、日本の人口はますます増えるというふうに宣言されました。そうならないのは、本来生まれるべき赤ちゃんを殺しているからです。 赤ちゃんは授かりものだと、昔の人は思っていました。しかしジェンダーフリーを叫ぶ女性団体は、「産む産まないは女性の権利」と言って、胎児を殺す権利が女性にあると言います。本当にそうでしょうか、生まれる前の胎児には、生存の権利はないのでしょうか。 流された七千三百万の胎児には、七千三百万のそれぞれの人生があったはずです。その人生を奪われた悲しみを、どうか感じて、日本においてこれ以上その悲しみを増やさないように母体保護法の改正、胎児保護法の制定にご協力ください。 |

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