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剣道袴
剣道袴には、前に五本の襞(ひだ)があります。 剣道をされた方々はご存知だと思いますが、これは「五倫五常」の道を諭したものとされています。五倫五常の道とは、 五つの基本的な人間関係を規律する五つの徳目 君臣の義・・・君臣は 義 を重んじ 父子の親・・・父子は 親 しみ 夫婦の別・・・夫婦は 別(分け合い) 長幼の序・・・長幼は 序 を守り 朋友の信・・・朋友は 信 じあうこと 五常とは、人が常に守るべき五つの徳目 「仁」・・・仁義・真実・まこと・誠意 「義」・・・正しいすじみち・義理・すじ 「礼」・・・礼儀 「智」・・・知恵・知恵・認識 「信」・・・信義・誠・確信・信ずる また、後ろの一本の襞(ひだ)は男子として二心のない誠の道を示したものです。 五倫五常の教えを理解し、厳しい修行を重ね、自然に礼儀作法が身につけ、高い精神的境地にまで至ったのが「武士」であり、「武士道」です。 拙稿、武士道とは(上)でも述べましたが、武士道は、わが国固有の思想であり、日本人の精神的特徴がよく表れています。わが国は古来、敬神崇祖、忠孝一本のお国柄です。そこに形成されたのが、親子一体、夫婦一体、国家と国民が一体の日本の精神です。日本の精神の特徴は、武士道において、皇室への尊崇、主君への忠誠、親や先祖への孝養、家族や一族の団結などとして表れています。そして、勇気、仁愛、礼節、誠実、克己等の徳性は、武士という階級を通じて、見事に開花しました。 しかし、明治維新によって近代化が進められていくに従い身分としての武士の消滅とともに武士道が廃れ始めました。 その時代に、武士道について、書物をまとめ、世界に紹介した人物がいます。それが、五千円札の肖像ともなっている新渡戸稲造氏(にとべ・いなぞう)です。 新渡戸氏が著書『武士道』を書くきっかけとなったのは、ベルギーの学者に日本のことを質問されことに始まります。 「あなたがたの学校では宗教教育というものがないというのですか」。新渡戸氏は返答に困りました。 教授は驚いて聞きました。「宗教がないとは! いったいあなたがたは、どのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」。と・・ キリスト教が文明の基礎となっている欧州では、道徳は宗教を元にしたものであり、宗教なしに道徳教育など考えられないのです。しかし、日本にはそれに代わるものがある、それは武士道だと新渡戸氏は思い至りました。そして明治32年、英文で『武士道』を書きました。原題は、“Bushido, the Soul of Japan”、つまり『武士道――日本の魂』だと・・
新渡戸氏は、本書で武士道こそ日本人の道徳の基礎にあるものだということを、欧米人に知らしめたのです。
新渡戸氏は武士の子でした。幕末の文久2年盛岡藩士(現岩手県盛岡市の家に生まれ、武家の家庭教育を受け、海外に出て活躍した国際的日本人でした。
名著『武士道』で新渡戸氏は、武士道を詳細に綴っています。まず新渡戸氏は、「武士道は、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華である」と説き起こし、武士道の淵源・特質、民衆への感化を考察しています。武士道とは、いろいろな徳から成っています。
以下、各項目から、内容の一部を抜粋します。
武士道の渕源」から 「武士道は『論語読みの論語知らず』的種類の知識を軽んじ、知識それ自体を求むべきで無く叡知獲得の手段として求むべきとし実践窮行、知行合一を重視した」
※「義」から・・「義は武士の掟の中で最も厳格なる教訓である。武士にとりて卑劣なる行動、曲がりたる振舞程忌むべきものはない」
※「勇、敢爲堅忍の精神」から・・「勇気は義の為に行われるのでなければ、徳の中に数えられるに殆ど値しない。孔子曰く『義を見てなさざるは勇なきなり』と」
※「仁、即惻隠(そくいん)の心」から・・「弱者、劣者、敗者に対する仁は、特に武士に適しき徳として賞賛せられた」
※「礼」から・・「作法の慇懃鄭重(いんぎんていちょう)は、日本人の著しき特性にして、他人の感情に対する同情的思い遣(や)りの外に表れた者である。それは又、正当なる事物に対する正当なる尊敬を、従って、社会的地位に対する正当なる尊敬を意味する」
※「誠」から・・・「信実と誠実となくしては、礼儀は茶番であり芝居である。…『武士の一言』と言えば、その言の真実性に対する十分なる保障であった。『武士に二言はなし』二言、即ち二枚舌をば、死によって償いたる多くの物語が伝わっている」
※「名誉」から・・・「名誉の感覚は、人格の尊厳ならびに価値の明白なる自覚を含む。… 廉恥心は、少年の教育において、養成せられるべき最初の徳の一つであった。『笑われるぞ』『体面を汚すぞ』『恥づかしくないのか』等は非を犯せる少年に対して正しき行動を促す為の最後の訴えであった」
※「忠義」から・・・「シナでは、儒教が親に対する服従を以って、人間第一の義務となしたのに対し日本では、忠が第一に置かれた」
※「武士の教育及び訓練」から・・・「武士の教育に於いて守るべき第一の点は、品性を建つるにあり。思慮、知識、弁論等、知的才能は重んぜられなかった。武士道の骨組みを支えた鼎足は、知・仁・勇であると称せられた」
※「克己」から・・・「克己の理想とする処は、心を平らかならしむるにあり」
以上のように、武士道は多くの徳によって成り立っており、高い精神性をもつものだったことを、新渡戸氏は説いています。
そしてそれが武士だけでなく、日本人全体の道徳の基礎となっていることを新渡戸氏は述べています。 当時、日本は明治維新を成し遂げ、アジアで初めての近代国家として、国際社会で注目されていました。しかし、当時欧米では日本人の精神面・道徳性についてはほとんど知られていませんでした。そうした欧米の知識人に向けて、新渡戸氏は、武士道こそが「日本の活動精神、推進力」であり、「新しい日本を形成する力」であることを伝えようとしました。そして、次のように書いています。 「維新回天の嵐と渦の中で、日本という船の舵取りをした偉大な指導者たちは、武士道以外の道徳的教訓をまったく知ることのない人であった。近代日本を建設した人々の生い立ちをひもといてみるとよい。伊藤、大隅、板垣ら現存している人々の回想録はいうまでもなく、佐久間、西郷、大久保、木戸らが人となった跡をたどってみよ。彼が考え、築き上げてきたことは、一に武士道が原動力となっていることがわかるだろう」と。力説されています。 それと同時にこの明治維新によって、社会的な階級としての武士は消滅したことも記しています。西洋文明や科学技術の導入によって、日本は新しい国に大きく生まれ変わりつつありました。しかし、新渡戸氏は、武士道は不滅であり、必ずや新たな形で生き続けることを確信していました。 「武士道は一つの独立した道徳の掟としては消滅するかもしれない。しかしその力はこの地上から消え去ることはない。その武勇と文徳の教訓は解体されるかもしれない。しかしその光と栄誉はその廃虚を超えて蘇生するにちがいない。あの象徴たる桜の花のように、四方の風に吹かれたあと、人生を豊かにする芳香を運んで人間を祝福し続けるだろう。何世代か後に、武士道の習慣が葬り去られ、その名が忘れ去られるときが来るとしても、『路辺に立ちて眺めやれば』、その香りは遠く離れた、見えない丘から漂ってくることだろう」と新渡戸氏は書いています。 現代日本では、武士道に現れたような道徳心は廃り、日本人から香り高い精神性は、消えうせたかに思われます。 武士道は、「日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華」と新渡戸氏は述べ、説いています。
武士道の精神を忘れ去ってしまったならば、日本人は精神的に劣化していくばかりでしょう。
21世紀において、日本が大転換の時を迎えている今、現世の我々は、新渡戸氏の言葉に耳を傾け、武士道に現れた精神的伝統を取り戻すべき時に立っていると思います。
四民平等・廃藩置県等の政策が断行され、武士階級の消滅とともに、それまでの武士道そのものは担い手がなくなりました。しかし、近代国家建設を進める過程で、武士の道徳は全国民のものになり、国民皆兵によって、それまでは武士だけのものだった「武」の役割が、国民に広く共有されました。国を護る、主君を護るという意識が普及し、武士道が国民の道徳となりました。これらは教育勅語や軍人勅諭に顕著に表れています。 大東亜戦争後、日本は連合国によって軍事的に武装解除され、さらにGHQの占領政策によって、精神的にも武装解除がされました。 GHQは武士道に関する書籍や映画等を禁じ、西郷南洲翁に関する本すら出版できなかったのです。 占領にともない、国民には国防の義務がなくなり、国防の意識すら奪われました。私は、こうして占領期から本格的に武士道の精神が失われ出し、戦後の占領憲法と日教組教育の下で、ますます失われています。 日本や日本的なものを守るという意識そのものが低下し、日本人は、北方領土、竹島、尖閣等の領土を侵されても鈍感になり、自国の文化を奪われても抗議すらできないような、無抵抗・無気力の状態になり下がっていると思います。武士道を失った日本人は、アメリカ・中国・韓国等の圧力に対して、自己を保つことすらできないで、右往左往しています。こうした状態が続けば、日本は亡国に陥り、日本人は荒海を漂流するに至るでしょう。 武士道精神の復活を実現するには、「精神の形」だけでなく、「この国の形」を論じる必要があります。 投稿文字数に限りがありますので、次回続きを述べてみたいと思います。 続く・・・
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転載
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拙稿、「日本人とは」でも述べていますが、武士は侍とも書きます。もののふともいいます。 またその語源は天孫降臨された皇祖ニニギノミコトより前に天孫降臨されたとされるニギハヤヒミコトを祖とし、大和朝廷では国の軍事氏族として活躍した、物部氏(もののべうじ)とされてます。
侍=その文字が示すとおり、もともと高貴な人に侍り、その身辺警護が仕事でした。役目柄、要人より華美な振る舞いは許されず、常に死を覚悟していなければなりませんでした。このことが質実剛健な精神構造を生み出し、支配階級となったあとも、「武士道」として武家社会の規範になっていきます。
武士という階級が為政者として台頭してきたのは、平安時代の後期、現在NHK大河ドラマの主人公「平清盛」が最初とされています。
12世紀末には、源頼朝が鎌倉に幕府を開きました。この時から約700年間、わが国では武士が政権を担う時代が続きました。戦士の階級が国を治めるという歴史は、シナや朝鮮には見られない、わが国独特のものです。それゆえに、この数世紀の間に武士が創りあげた生き方や価値観は、日本独自の思想といえます。それが、武士道です。
世界的にも類を見ない日本の武士の特徴を考えると、まず源氏が清和天皇を、平氏が桓武天皇を祖とするように、由緒ある武士は、皇室を祖先にもっています。皇室から分かれた貴族が、京の都を離れて地方の役職を任命され、そこで軍人として働くようになったのが、武士の由来です。それゆえ、源平の時代から徳川幕府最後の征夷大将軍徳川慶喜公まで、武士は天皇陛下に権威を感じ、それを侵すことなく、逆に自分の権力の拠り所として仰いできました。本来、皇室から分かれた貴族の出身であるところに、武士の第一の特徴があります。
武家政権の祖とされる、平氏・源氏の2つの氏族は、前にも述べていますが、どちらも天皇の後裔(こうえい)でした。だが、一度皇籍を離れ、臣下となった以上は、国全体の支配者にはなっても、天皇になることはできなかった。この原則は殆どの場合どの政権にも遵守されました。平清盛は平安末期の日本の権力者であり、白河天皇の落胤と目されていました。しかし、平氏の一員に迎えられて臣下となったため、不適格者となっており、あえて皇位を手に入れようとはしなかった。
戦国大名も、天皇の王朝に取って代わるなどという発想を度外視しただけでなく、天皇の王朝に皹を入れることも避けようとした。天皇のお墨付きを欲してやまない戦国大名は、誰もがそれぞれの天皇志望者を押し立てて皇統に亀裂を生じさせても全く不思議でなかったが、そのようなことはしなかった。朝廷の官位官職を手に入れようと、互いに張り合うようになった。修理大夫や衛門佐といった大いなる威厳を意味するこれらの官職は、天皇だけが授けうるものだったのです。 室町幕府の第3代将軍・足利義満は、天皇に取って代わって自分の王朝を開こうとした唯一の人物です。
強引な権力者となり、支配を国中に及ぼし、南北朝時代に幕を閉じた。将軍職を退いても太政大臣となり、国政を続、生母を亡くした後小松天皇の母代わりとして、皇族出身でない自分の妻の日野康子を「准母(じゅんぼ)」に指名したり、こうして、義満は天皇の継父に相当することとなり、死後「太上法皇(出家した太上天皇の尊称)」と呼ばれることができる資格を手に入れました。
応永8年、明国と国交を樹立し、明の皇帝から「日本国王」の称号を受領しましたた。これにより、征夷大将軍の地位にある人物が皇位に最も近づきました。しかし、応永15年の義満の死に、義満の野望は潰えました。後継者の誰一人として義満の野望を繰り返そうとはしませんでした。
義満の野望を妨げたのは、天皇でも征夷大将軍でもなく「ありえないことだ」という強力な暗黙の合意があったことです。
天皇は神々に位(神階)を、神社に格(社格)を付与し、高位の僧職者に位階と称号(僧位)を授与していた。将軍や国土にも、その健勝と繁栄を祈る存在であったのです。天皇は死者を神格化でき、また神格を取り消すことができる存在であったのです。
徳川家康は後水尾天皇に、豊臣秀吉が死後与えられていた神格を取り消すよう要望し、翌年、家康自身が死ぬと、天皇は彼の生前の要望を受け容れて、家康を神格化しました。家康が東照宮に、秀吉が豊国神社に祀られているのも、天皇陛下の存在なしにはありえないことなのです。
これらは王朝の簒奪を繰り返してきた世界各国のどこの国にもありえないことであり、自分の権力・精神の拠り所として仰いできました。 昨今論じられている、皇統、女性宮家が臣下によって論じられることなどありえないことでした。 武士はまた、土地に密着した為政者であることです。平安時代後期、辺境の防衛に当たった武士たちは、年月を経るうちに、その土地に定着し、自ら土地を開墾して、私営の田畑を営むようになりました。こうして開墾領主となった武士は、「一所懸命」に領地を守り、広げ、受け継ぎ、競合しながら、巨大な集団へと成長していきました。やがて、武士は、土地と領民を所有する為政者となりました。そして、皇室の伝統と、儒教の政治道徳に学んで、領地・領国の経営に努めたのです。 皇室から分かれた貴族の出身、戦闘のプロフェッショナル、土地に密着した為政者―――は、それぞれ尊皇・尚武・仁政という徳目に対応します。
こうした特徴と徳目をもつ武士たちは、平安後期から鎌倉・室町・戦国の時代を通じて、独自の倫理と美意識を生み出しました。江戸時代に入って、それが一層、自覚的に表現されることになりました。これが、今日いうところの武士道です。
わが国は江戸時代に、徳川家康が朱子学を幕府の教学としました。武士達は、外来の儒教を単に摂取するだけでなく、これを孔孟に戻って掘り下げて研究し、同時にこれに日本独自の解釈を加えました。武士道は、この日本化した儒教を中心に、理論化・体系化がなされ、江戸時代には幕藩体制の下、平和な秩序が確立され、戦闘者としての武士の役割は、無用のものとなりました。それゆえ、武士たちは、自己の存在意義を問い、武士のあるべき姿を強く意識するようになりました。武士道が思想として錬成されたのは、そうした背景があったからです。
冒頭に書いたように、武士道は、日本固有の思想であり、日本人の精神的特徴がよく表れています。わが国は古来、敬神崇祖、忠孝一本の国柄です。そこに形成されたのが、親子一体、夫婦一体、国家と国民が一体の日本精神です。日本精神の特徴は、武士道において、皇室への尊崇、主君への忠誠、親や先祖への孝養、家族的団結などとして表れています。そして、勇気、仁愛、礼節、誠実、克己等の徳性は、武士という階級を通じて、見事に開花し、向上しました。日本精神は、約700年の武士の時代に、武士道の発展を通じて、豊かに成長・成熟したのです。
明治維新は、武士道の発揮によって成し遂げられました。近代国家の建設の中で、身分としての武士は武士自らが幕を降ろしました。しかし、国民国家の形成を通じて、武士道は国民全体の道徳となりました。大東亜戦争後、武士道は、失われつつありますが、今なお日本精神の精華として、日本人の精神的指針たるべきものであり続け、今日も武士道の精神の復活が望まれているのです。
次回は武士道とは何かを考察してみたいと思います。 続く・・・
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日露戦争直前の『戯画 公園の各国児童』
(解説文)
朝日太郎(日本のこと) 「おい露助、清吉の油断に付込んで饅頭(満州のこと)を盗もうとは何事だ、さあ早く返してしまえ!」
露助 「つべこべ言うな、生意気な野郎だ。俺の身体の大きいのが見えんか」 仏次 「露助君、そっと僕にも分けてくれたまへ」 独一 「仏次君、君が貰ったら僕にも分けるんだよ」 米蔵 「これは面白い。露助のやつ強そうなことを言っているが、朝日にヤラレルんじゃないかな」 英子 「露助の顔の憎らしいこと、有夫サン、その艦を太郎さんに上げなさいよ」 有夫 「そうだ、早くやろう」(アルゼンチンより巡洋艦日進、春日を購入) 韓坊 「太郎兄ちゃん恐いよ」 清吉 「グウ・・」 ・・・・・・・・・
日本人がいちばん輝いていたのはいつごろであっただろうか。
高度成長期か、否。 それとも大東亜戦争を戦った時か、否。
それは日露戦争がはじまる前から終わる頃までだと思うのです。
日露戦争後は日本人にゆるみが感じられますが、その前までは全く違いました。
この日露戦争はロシアはもちろんチャイナも学校で教えない、というよりも歴史に“ない”のです。
そして肝心の日本でも大事な部分をほとんど教えていません。
先達が祖国の危機に瀕して勝つ望みの薄い戦にひとつになり勝ち抜いた栄光に満ちた時代を知ることなしに、どうして日本人として生きてゆく喜びを味わえるのだろうか。・・
東ヨーロッパのことわざにこういう言葉があります。
「ロシアの隣国になるほど不運なことはない」。
現在の日本に当てはめればロシアの他にチャイナ、韓国、北朝鮮というところでありましょう。
日本はいい国だが近隣国に恵まれない、まこと不運であります。・・
明治33年、ロシアの大軍が満州支配を目指して黒竜江を超えて南下します。
その時、ロシアは黒竜江の東岸であるブラゴウェシチェンスクにおいて、三千人の支那人を一人残らず駆り立てて、全員を黒竜江に突き落とすという大虐殺を行ったのです。
この時、ブラゴウェシチェンスクにいた帝国陸軍の石光真清の日記にはその状況がよく書かれています。
これを知った日本人は怒り、同じ東洋の民族がこんなにむごたらしく扱われている、それを黙って見ていられようかと国民感情は沸騰し、我が国危うしとして正義の戦としてロシアとの戦いを決意していくのです。
同じように現在までに、チャイナが内モンゴル、チベット、ウィグルにおいて大虐殺しておりますが、これを知った日本人は所詮他国の事よと国民感情は冷めており、それがやがて我が国に対して降りかかってくる危機感だとは全く感じていないのです。
当時、明治大帝ご自身による陸軍大演習の御統監、昭憲皇太后までもが軍艦に乗り込まれて海軍将兵の士気を鼓舞されたことをみても、日本の軍隊の強さが皇室のお心遣いの賜物であるといえます。
現在の日本では天皇陛下が自衛隊を直接鼓舞することは一切ありませんが、一旦緩急あれば命を惜しむことない自衛官にとってこのことがどれほど励みになるか、目に浮かぶほどであります。
明治天皇は戦争だけはお避けになりたかったのですが、
あえて決断を下さねばならなかった明治大帝の御気持ちが偲ばれるお言葉があります。
事乃一蹉跌を生ぜば 朕何を以てか祖宗に謝し、臣民に対するを得んと、すなわち涙さんさんとして下る
失敗することがあれば、我が高祖皇宗(御始祖と歴代天皇)の神霊に何とお詫びを申し上げ、我が子のごとく慈しむ国民に対してどうして顔向けが出来ようかと苦しみ、涙が流れるばかりである。
この戦より御食事がおすすみにならず、八年後に明治大帝は御隠れなるのですが、
明治大帝の御心労のほどが如何ばかりだったかが偲ばれます。
・・・・・・
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(「戦後引き揚げ者の記録」より)
戦後60有余年、今も日本に対して、「日本兵は侵略戦争をして、略奪、強姦、虐殺で多くのアジアの人たちを苦しめた」と言われています。
しかし、かつて植民地で多くの奴隷を持ち、その民族を愚民化し、掠奪と強姦を喜びとしてきたのは、今、日本を悪く言っている国々であります。
また、チャイナのように所謂「南京大虐殺」というでっち上げを声高に叫んで、当時、支那にいた多くの日本人女性が強姦、虐殺された済南事件や通州事件などは隠し、さらにはロシアの日本人女性400名余りが自決するに追いやった極めて悲惨な麻山事件も日本人には知られていません。
この「日本は侵略国家」というまやかしの言葉こそ、日本の被害を覆い隠す役割を果たしているのです。
第二次世界大戦でソ連軍はドイツ領に入ると率先して強姦を兵士にやらせました。
ドイツ全土で約200万人の女性がソ連軍に強姦されました。産院を兼ねた修道院ダーレムハウスでは修道女、妊婦、その付き添いの女性まですべてが犯されました。統計のあるベルリンでは13万人が犯され、9万2000人が市内の二つの病院で手当てを受けました。そのうち2万人が不法妊娠して中絶手術をしたが2000人が出産したとあります。
このソ連は、終戦間際から日本女性に対しても多くの強姦、虐殺をしてきました。(その一例が上の画像)
戦後、日本に進駐した米軍が最初に要求したのが女でした。
性の要求に対して花街などの女性が身を挺身して米国兵の相手をしていましたが、米兵は日本政府の用意した慰安所だけでは足りず、一般の民家に押し入って“女”を漁っていたのでした。
押し入った米兵は民家の家人をも暴行し、殺したケースもあり、米軍の占領期間に殺された日本人は2536人に上り、その中には強姦に絡むものが多かったといいます。
そして今、韓国では日本兵による性の奴隷として従軍慰安婦なる作り話が騒がれています。
しかし、韓国がベトナムに派兵した1965年〜1973年の間、韓国軍は残忍なやり方で女性をレイプしてから殺し、またライタイハン(ベトナムでの韓国兵によるレイプで出来た混血に対し「敵国の子」として迫害されてきた)という問題も起こし、ベトナムでは「韓国兵に会ったら死に出会ったも同然だ」という証言もあるのです。
アメリカに住んでいるヨーコ・カワシマ・ワトキンスさんが書いた「ヨーコ物語」という著書があります。ヨーコ・カワシマ・ワトキンスさんは11歳だった時、朝鮮半島で終戦を迎え、家族とともに日本へ引揚げる際に、多くの同胞が朝鮮人に襲われ、強姦され、虐殺される場面に行き合わせ、その事実を書いた本です。この本はアメリカほぼ全州の中学校で副読本として採用されていましたが、2006年に在米韓国人が「歴史の歪曲」「朝鮮人を残忍な民族のように偽って描いた」と騒ぎだし、その騒ぎはアメリカ全土に広がり、当時73歳だった彼女が記者会見に引きずり出され、怒号の中でつるしあげられ、謝罪を求められたのです。その後、この本は副読本から外されてしまいました。
現在、日本では敗戦直後の日本人避難民の対しての暴漢の多さはソ連人だと思い込んでいますが、実際は半分以上が朝鮮人であり、日本人に対してソ連軍よりひどいことをしてきたのは朝鮮人であり、その残忍さはこの本を読むとよくわかるといわれています。
しかし、この本は日本では出版されていません。韓国では売られていましたが都合の悪い部分は削られていました。
現在の日本のテレビ局の極端な韓国寄り、つくられた韓流、韓国人の強姦の多さ(通名で隠されている)、日本政府の韓国贔屓など、間違った韓国人への認識へのくさびとして、今の日本にこそ、過去の事実に学ぶべく、このような本を日本語に訳し、広く日本人に広めるべきであります。
(日本の学校で副読本にすべき「ヨーコ物語」)
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わが庭の そぞろありきも 楽しからず
わざはひ多き 今の世を思へば
※昭和五十八年年頭の御製です。
総ての臣民に対し、御慈しみの心をもって接せられ、私心(わたくしごころ)を一切現わされるこ との無い 畏くも昭和天皇陛下が「わざはひ多き世」と御詠みあそばされました。
俗に言う「災い」としては、「戦争」「天変地異」「不景気」などが挙げられますが、この御製を詠まれた当時、戦後四十年近くも 平和が続き、
今年3月に東日本を襲った東日本大震災ほどの大きな災害もなく、景気も好況を呈していました。
陛下にこのような御歌を御詠みいただく程の事件は、何も考えられません。
それにも拘らず「わざはひ」とお詠みになられたのは、天変地異や不景気などとは比較にならない 大きな「災い」である「精神の荒廃」について深く 大御心を痛められたが故と推察致します。
この荒廃の根本原因はマッカーサーが命じて作らせた占領基本法である現行憲法(と称するもの) です。
憲法は国の魂です。近年目を覆いたくなるような、政治の迷走、拝金主義に走った犯罪、尊属殺人など枚挙すればきりがありません。
すべて、個の尊重への偏重による占領憲法を原因としております。
清水澄(しみず・とおる)博士肖像、自決ノ辞
昭和22年9月25日、最後の枢密院議長となった清水博士は、熱海錦ヶ浦の断崖から身を投じられた。享年80歳でした。
大日本帝国憲法下の天皇陛下の忠臣として、自らの生涯を全うする決意であられた博士は、占領憲法発布の同年5月3日屈辱の日に意を決せられ、密かに上掲画像の「自決ノ辞」に認められ、自室の机の引き出しに隠されたのです。
発見された博士の亡骸は、モーニング姿の正装、左手に数珠を巻き、口を真一文字に結び、両手の拳はしっかりと腰に当てられ、まさに古武士の大往生の風貌であったと言われています。
占領軍は武力を背景とし、国際法の精神を無視し、占領者の都合のいい植民地憲法を速成させ、新憲法として押し付ける暴挙のでたのです。
昭和22年5月3日は、日本人による、日本人の為の「大日本帝国憲法」が、日本人の総意に基づくことなく廃止せられた屈辱、国辱の日であることを、やまと民族たる日本人は決して忘れてはならないでしょう。
終戦を境に、占領軍に媚びを売り、戦争には反対だった、我國の政治に疑問を感じていた、戦争に負けていい國になったなどと、臆面もなく宗旨替えする破廉恥な日本人、敗戦利得希望者が各界に声を挙げた。
敗戦利得者の多くは他界しているが、その後継者、追従者が今尚、生き続け一昨年政権を搾取しました。
戦後手中にした、敗戦利得を保持するため、今も政界、マスコミ界、学会、において活動し、国民を騙し、国益を損じているのです。
東宮御用掛、宮内省御用掛として、先帝陛下にお仕えされた清水博士には、占領憲法は耐え難いものであったことでしょう。
博士が予測されたとおり、かってのお国柄とは似ても似つかぬ国に変わり果ててしまった今日の日本。
本ブログの拙稿、「誇り高き日本一の町、岡山県奈義町」の中で、昭和44年「大日本帝国憲法復原決議を紹介しましたが、まだこの頃は戦前世代の方々が国を憂い、行く末を修正しようとされていました。
冒頭の先帝陛下の御製を賜った昭和58年には、世代変わりが進み、この異常な植民地、占領憲法を異常とさえ思わぬようになっていたのです。
わが庭の そぞろありきも 楽しからず
わざはひ多き 今の世を思へば
先帝陛下は、変わってしまったお国柄、民族の精神の荒廃を「わざはひ」と詠まれたものと推察することは容易です。
我々こころある臣民は、博士の遺志を継ぎ「大日本帝国憲法」を復原し、占領憲法の呪縛を解かねばなりません。
そして、敗戦利得者の後継、追従者を駆逐せねばなりません。
清水澄博士の墓(青山霊園)
最後に博士の大往生の折り、ポケットに入っていた遺書、辞世ともいえる
「われ楚の名臣屈原にならって自決し幽界より國體を護らん」
尊い御心を胸に刻みたい。
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