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明日香村幻想

晩秋の11月のある日、ローカル色あふれる飛鳥駅に降り立つ。朝の光が満ちる前の、夜明け間もない時刻であった。爽やかな風が頬をなでて過ぎる。
駅を出て周囲を見渡した時の最初の印象は、この地が想像していた以上に山勝ちだ、ということだった。早速、昼下がりののどかな田園風景の中を東に向かって歩きだす。辺り一帯に雅やかな色香が漂う。
陽はようやく山の端から離れ、朝の光が東の方角から満ちあふれてきている。私は歩きながら、古代人が東の方角に特別の意味を認めていた理由が分かるような気がした。東が日に向かう方向であり、それ故に生命あふれるものたちが住まう地としてとらえられていたことを実感した。飛鳥の地はまさに古代人が「東に美しき地はあり」として選びとった場所としては最適な地であったといえる。古代人は「日の向く方向」にこそ彼らが求める常世があると考えた。
秋の色づいた清澄な大気は、歩いているだけでも快い気分を高めてくれる。周囲にはなだらかな山並みがうねうねとつづいている。やがて左手にこんもりとした小山が見えてくる。それは天武、持統帝の墳墓であった。一帯がすでに古代の遺跡のただ中にあることを知る。こんもりとした雑木に包まれた御陵は、辺りの景観を圧して、ひときわ気品がみなぎる。それがただの小山ではなく、歴史をたずさえた霊のこもるひとつの記念物であることを感じさせる。そのような目で眺めると周囲の小丘がみな古墳のように見えてくるから不思議だ。            
              * * *
飛鳥の里をさらに東行すると飛鳥川に出会う。
飛鳥川は明日香村のほぼ中央を南北に流れる川で、『万葉集』にもしばしば登場するほど重要な意味をもっていた。古今集にも、「世の中はなにか常なるあすか川昨日の淵ぞ今日は瀬となる」と詠われているように、渕瀬常ならぬ川として飛鳥人には受け止められていたのである。
そもそも川というものは、その絶えざる流れゆえに、我々には無常と断念を象徴するものとしてイメージされてきたのである。飛鳥川の源は飛鳥の南方、高取の峰々に発し、栢森、稲淵の谷合いを流れ、祝戸で冬野川と合する。
さらに明日香村の中央を縫い、藤原京跡を経て大和川に注いでいる。現在みる飛鳥川は“瀬瀬のうちなびく”かつての激しく流れる川の面影はなく、流れもゆるやかで、水も濁り、歴史を積み重ねた川といった様相ではない。古代の飛鳥人は、この川を遠い山奥の霊界からはるばる流れ下る神霊を運ぶ川としてとらえていた。そうした神聖なトポスに、飛鳥人は多くの重要な建造物をうち建てたのである。
              * * *
現在の明日香村の中心地にあたる岡集落。飛鳥川を西に見るこの集落の北はずれに飛鳥板蓋宮跡と伝えられる旧跡がある。
西暦645年の、いわゆる大化の改新クーデターの現場になったところである。中大兄皇子と中臣鎌足が時の権力者蘇我入鹿を倒し、政権の転覆を図ったあの有名な出来事である。かつてそこには板蓋宮大極殿が置かれていた。皇極4年6月12日のことである。
その日は朝から曇が重く垂れ込め、今にも雨が降り出しそうな日であったという。
大極殿ではこの日、皇極天皇を迎えて、貢物献納式が行なわれる予定になっていた。それは三韓から寄せられた貢ぎ物を天皇に差し上げる儀式であった。式は予定通り進んでいった。だが、大極殿の中はいつもとは少し違う、どこか殺気を含んだ雰囲気が漂っていた。
そうした中、蘇我石川麻呂が表文を読み上げ始めた。石川麻呂の声はかすかに震えているようであった。彼はあらかじめ、この日の謀りごとを知らされていたのである。
その時である。中大兄皇子の大声と共に刺客が式場の中になだれ込んで来たのである。式場は悲鳴の声とともに混乱の渦に包まれた。 突然の出来事であった。見れば蘇我入鹿が長槍で頭と肩を刺され、鮮血を浴びて式場の傍らに倒れている。
時の権力者が誅殺されたのである。それは一瞬の出来事であった。その場に居合わせた人々は皆、これから起こるであろう出来事を直感的に察知し、事の重大さに恐懼した。蘇我氏側の反撃があるであろうことは火を見るよりも明らかであった。それをいちばん強く感じ取り、それへの備えをしていたのはほかならぬ中大兄皇子その人であった。
この出来事が起こる少し前、皇子はすでに飛鳥寺に多数の手兵を集めていた。飛鳥寺は飛鳥板葺宮からほど近い地にある蘇我氏の氏寺である。蘇我入鹿の祖父にあたる馬子が、推古14年(606)に造営した寺だ。建立当時、塔を中心に東西北の三方に金堂が建つ独特の伽藍であったという。
後年のことになるが、中金堂に飛鳥大仏の名で呼ばれた釈迦如来像が安置された。寺域は今見る飛鳥寺の四倍というから、かなりの広さであったのであろう。
甘橿の丘を間近に見る飛鳥寺は、のどかな田園の中に建っている。時折、観光バスでやって来た団体客が一塊りになって寺を徘徊するが、それもいっときで、またもとの静かな静寂が戻る。
境内を抜け、甘橿の丘を望む寺の裏手に出ると、そこには蘇我入鹿の首塚と呼ばれている五輪塔がぽつりと立っている。鎌倉時代になって建てられたものであろう。
蘇我入鹿が誅殺された現場−板蓋宮大極殿跡は現在は史跡公園になっている。そこは北方向を除き、三方を小丘に囲まれた見晴らしのいい野っ原で、ほぼ真北に天香山を望み、西に飛鳥川が流れ、そのほとりには甘橿丘のこんもりとした山影を視野に収めるという場所である。
今そこに立ってみても、かつてそこに大極殿が建っていたなど想像もできない。山間の田舎びた野面の盆地風景が広がるばかりである。
不思議なことだと思う。遠い昔の出来事とはいえ、これほどまでに様変わりして、ただの草原に帰ってしまっている場所があるということが。
過去はとうの昔に消え去ってしまって、今この世に生きる人は誰ひとりとして、かつてのこの地のありさまを目にした者はいない。それ故にと言えるかも知れない。その地に埋め込まれた過去の記憶が、さまざまな想像と憶測をからめて、色とりどりの形をなしてよみがえってくる。 
一説によれば、中大兄皇子が蘇我入鹿を倒したといわれる、いわゆる大化の改新というものは、実際はなかったのだ、という。そうなると蘇我氏の排除というものは、血生臭い出来事によってではなく、もう少し政治的な陰謀のなかで行われたことになる。『日本書紀』」に記録されているような宮殿内でのクーデターが語り伝えられているは、正が邪を討伐するという、ただの勧善懲悪物語りだったのか。それはあくまで日本史の正史の中ででっちあげられた出来事なのではなかったのか。
のどかな陽が満ちる野面に立って歴史の虚実を想っていると、複雑な思いがこみ上げてくる。
古代王朝が置かれていた頃、この地は権力争いが生臭く渦巻いていたのである。だが、それらのことがまるで嘘のように、今そこは平和なたたずまいに包まれている。  

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