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JR常磐線の南千住駅を降り西に少し歩くと、賑やかな商店街に出る。その通りはかつての奥州街道で、通り沿いの鉄道高架線そばに、今は本堂が鉄筋づくりになっている回向院の建物を目にする。寺は周囲に住宅街が押し寄せ、かろうじて、その体を保っているといった風に建っている。
以前は、寺域もかなりりあり、その背後には、広大な野ざらしの地が広がっていたであろうことなど想像もできない変わりようだ。
この寺の開基は古く、寛文七年(1667)といわれる。当初、この寺は行路病者の霊を弔うために建てられたものであった。回向院はもうひとつ本所にもあるが、本所の回向院が手狭になったために、新たに開かれたのがこの寺だった。
この地は、江戸期、小塚原と呼ばれる刑場地として知られ、江戸開府から明治に至るまでの二百数年間、ここで処刑された者は、じつに、二十五万人を数えるといわれている。従って人も近づかないところであった。
そもそも小塚原の名の起こりは古く、遠く平安の時代にさかのぼる。
言い伝えによれば、源氏の頭領、源義家が、奥州征伐の帰途、賊の首四十八体をこの地に埋葬したことからその名がついたという。その塚を古塚原とも骨ケ原とも書いたといい、現在の南千住一帯をそう呼ぶようになった。
時は下り、江戸の末頃になると、国事犯として扱われた刑死者は、みな、この寺に埋葬されるようになる。それを物語るかのように、今は狭くなってしまった墓地内に、歴史に名を残す刑死者の墓を見つけることができる。
そのひとつ、墓地の中央、ブロック塀で四角に区切られた墓域に、いかにも、それと分かる墓碑が並んでいるのを発見する。いかにも、というのは、肩を並べるように建つ墓列が、ひとつの意志を表しているかのように見えるからである。
今にも消え失せそうな、墓石に刻まれた死者の名をなぞるように読み取ってゆく。
吉田松陰、頼三樹三郎、有村次左衛門、関鉄之介、・・・居並ぶ墓碑名をつなげてゆくと、そこにひとつの歴史の記憶がよみがえってきた。墓石のわきに万延元年の没年を刻むものもある。間違いなく、それは安政の大獄にかかわる関係者たちの墓である。
* * *
なかでも私の目をひいたのは、桜田門外の変で、井伊直弼殺害に加わった者たちの名である。
あの時、大老襲撃に加わった者は、総勢十八名であった。そして、ほとんどの者が捕まるか、討ち取られてしまったのである。
事件の顛末は次のようなものであった。
万延元年三月三日。その日は上巳の節句にあたり、慣例により、各大名が将軍に拝謁する日と決められていた。大老井伊直弼も当然登城するはずだった。
水戸藩脱藩の浪士たちは、その日を千載一遇の機会ととらえ、井伊直弼襲撃の日と決めていた。
例年ならば、桜が開花する時期でもある。が、その日は、生憎、明け方からの雪が降り積もって、見渡す限りの銀世界になっていた。
井伊直弼が登城する時刻は遅くとも五ツ半、今の午前九時頃と思われた。水戸脱藩士たちは、この日を待って、昨夜来から品川の妓楼、相模屋に止宿していた。
この妓楼は、土蔵造りであったことから、通称、土蔵相模と呼ばれ、尊王攘夷運動に奔走する浪士がよく利用する妓楼だった。
実行班に選ばれた者は、関鉄之介をはじめ、佐野竹之介、大関和七郎、森五六郎、海後嵯磯之介、稲田重蔵、森山繁之介、広岡子之次郎、黒沢忠三郎、山口辰之介、増子金八、杉山弥一郎、斎藤監物、蓮田市五郎、広木松之介、鯉淵要人、岡部三十郎、有村次左衛門 ら十八名であった。有村を除けばすべて水戸藩を脱藩した浪士である。
彼らは、前夜、ほとんど寝ずの状態で、大老襲撃の打ち合わせを積み重ね、悲憤慷慨して酒を呑み交わすうち夜を明かした。
朝になると、いつの間にか積もったのか、外は銀世界になっていた。が、彼らはその雪を、計画が成就する吉兆と受け止め、互いに喜びあった。
やがて、彼らは気取られないように、三々五々、宿を出た。めざすは、あらかじめ決めておいた集合場所である愛宕山だった。そこには薩摩藩からただひとり参加した有村次左衛門が待っていた。
一同は愛宕権現に功が達せられることを祈願したあと、新橋を通り、左に道をとって桜田門に向かった。
桜田門近くの濠端に近づくと、雪の日にもかかわらず、すでに人の影があった。大名行列を見物する人を当てこんだ傘見世と呼ばれる屋台も出ていた。
彼らは、その見物人にまじって、鑑を手にしたり、屋台にたむろしたり、ある者は濠の鴨を見物するふりをしたりして時を待った。
そうこうするうちに、ついにその時がやって来た。彦根藩邸の赤門が開かれ、長い行列が静々と現れたのである。
行列はきざみ足で堀端のサイカチ河岸をこちらに向かって進んで来る。その数六十名ほどの供回りを従えての大規模な行列だった。いずれも赤合羽に身を纏い、かぶり笠を被っている。
手はずのとおり、十八名の男たちは、それぞれの配置についていた。彼らの装いは、合羽姿の者、羽織りを着る者とさまざまであった。
雪の降る見通しの悪い日であることもあって、互いに鉢巻きし、襷をかけること、合言葉を交わし合うことなどが取り決められていた。
佐野、大関、海後、稲田、森山、広岡らは濠側を歩いていた。一方、黒沢を先頭に、有村、山口、増子、杉山らは杵築藩主松平大隅守屋敷の塀ぎわを行く。さらに、斎藤、蓮田、広木、鯉淵、岡部らが後攻めとしてその後方についた。そして、ひとり関鉄之介が全体の指揮をとるべく濠側に立っていた。
行列の先頭が、濠沿いから、今まさに桜田門方向に向きを変えようとする時であった。
襲撃のきっかけをつくったのは桜田門辻番所のそばに潜んでいた森五六郎だった。
森が下駄をぬぎ捨て、雪中を駆け足で、あたかもなにかを直訴でもするように行列に近づいた。そして、やおら饅頭笠をはねあげると、羽織りを脱ぎ捨てた。すると、中から白鉢巻きに十文字の襷姿が現れた。森はただちに抜刀すると行列に襲いかかった。
その時、銃声が一発、鳴り響いた。それは全員が行動に移すための合図の銃声だった。黒沢が撃ったものだった。
ついに、襲撃がはじまったのである。
行列は千々に乱れて、すぐさま乱闘となった。襲いかかる者、それを防ぐ者。
襲撃の側が左右から押し寄せたので、襲われた方は狼狽した。
しかも、井伊家側の供廻りは、雪の降るこの日、刀身が湿気ないように、皆、鞘を袋で覆っていたため、すぐさま抜刀できないのが致命的であった。
慌てたのは襲われた井伊側ばかりではなかった。襲撃側の浪士たちにとっても、前日決めた段取り通りに事は運ばなかった。
敵味方、間違わないようにと取り決めた白鉢巻き、白襷姿の装いは守られなかった。雪の降りしきる中、味方同士、刃を切り結ぶ者がいた。
狂気の眼は、冷静な判断を失わせていた。間合いをとって斬り合うなどということはなく、身体をぶつけ合い、鍔ぜり合いをしながら斬り結んだ。そのため、指が取れ、耳を切り裂かれるといった者が多く出た。
乱闘のさなか、いつの間にか直弼の駕籠が地上に放置されていた。駕籠の陸尺が恐怖のあまり逃げ出したのである。それを目ざとく見つけた稲田が、深手の身体であるにもかかわらず、よろけながら近寄り、太刀を両手で支え、駕籠をぶすりと刺し貫いた。
これを見た海後がつづいて刺す。さらに佐野が。ついに、有村が業を煮やして、駕籠をかき開け、井伊直弼の襟首をつかんで引きずり出す。この時、すでに、直弼は虫の息であったという。
有村は直弼の首をかき取り、それを刀の先に突き刺して、ふり絞るような声で何かを叫んで、歓声をあげた。直弼の首級をあげた後も闘いは散発的につづいたが、戦闘はわずか10分ほどで終わった。白い雪があちこちで真っ赤に染まる中に、斬り倒された者が、点々と横たわっていた。
この戦闘の結果、浪士側の犠牲者は、その場で斬り倒された稲田をはじめ、重傷を負って、その後、自栽あるいは絶命した佐野、広岡、有村、山口、鯉淵、斎藤、黒沢ら八名に及んだ。また、大関、森山、杉山、蓮田、森ら五名は、襲撃の後、斬奸状を携えて自首。残りの者は逃亡した。一方、彦根藩側の犠牲者は、井伊直弼ほか、八名が死亡、十名が負傷した。
要撃側の人間はほとんどが下中級の、次、三男の青壮年であった。開国か攘夷かで国論が二分されていた幕末の社会にあって、彼らもその対立の波に呑まれていったのである。
時の幕府は、大老井伊直弼を中心に開国政策をおし進め、対立する尊王攘夷論者の徹底的な粛清を計った。世にいう安政の大獄である。
水戸藩はその尊王攘夷論の牙城であった。 朝廷は水戸藩に勅命書を下し、攘夷の実行と幕政改革を求めた。これに対し、井伊直弼は強権をもって水戸藩の弾圧にのぞんだ。
この井伊の措置に反発した一部の水戸藩士たちは、井伊を倒すことで、政治の流れを変えようと試みた。彼らは脱藩し、大老打倒の行動を起こしたのである。
この出来事のあと、幕末の社会は、血なまぐさいテロが続発し、やがてそれは幕府崩壊への道を加速させていったとも言われている。
こうした流れが、桜田門事件がもたらした、必然の結果であったかどうかは定かではない。が、力をもって現状を変革できるという期待感を、特に、尊王攘夷を信奉する武士たちに抱かせたことは間違いないことだった。
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回向院には、現在十六の墓碑が建てられている。なかに大老襲撃には参加していなかったが、計画の首謀者である金子孫次郎の墓がある。彼は事件発生後、四日市で捕縛され、処刑されている。あと、大関、森、森山、杉山、蓮田ら五名の自首した者と関、岡部ら逃亡ののち捕まった者たちの墓がある。
彼らはいずれも死罪を申し渡され、断首されている。墓碑の数からすると、襲撃参加者で処刑された者は七名となる。金子を含めて八名である。が、このほかに戦闘で死亡した者たちの墓が八基つくられている。彼ら八名の遺体は、事件後、塩漬けにされたあと、首を斬られ小塚原に打ち捨てられたのである。 十八名の参加者のうち、逃亡した広木松之介は二年後、同志のほとんどが死に絶えたことを知って絶望し自刃した。残る増子金八、海後嵯磯之介の二人は、明治の時代まで生き延びた。
今、桜田門事件のあった辺りには、過去の面影は微塵もない。旧彦根藩邸には現在憲政記念館が建ち、乱闘のあった警視庁前の通りは、広く拡張され、車の往来がひきりである。通り沿いには近代的な建物が林立し、その反対側には静まりかえった濠と、皇居の緑のかたまりを望むばかりだ。
とはいえ、その地に、ひとつの歴史的出来事の記憶が深く刻み込まれていることには変わりない。
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