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桜田門外の変

 JR常磐線の南千住駅を降り西に少し歩くと、賑やかな商店街に出る。その通りはかつての奥州街道で、通り沿いの鉄道高架線そばに、今は本堂が鉄筋づくりになっている回向院の建物を目にする。寺は周囲に住宅街が押し寄せ、かろうじて、その体を保っているといった風に建っている。
 以前は、寺域もかなりりあり、その背後には、広大な野ざらしの地が広がっていたであろうことなど想像もできない変わりようだ。 
この寺の開基は古く、寛文七年(1667)といわれる。当初、この寺は行路病者の霊を弔うために建てられたものであった。回向院はもうひとつ本所にもあるが、本所の回向院が手狭になったために、新たに開かれたのがこの寺だった。
 この地は、江戸期、小塚原と呼ばれる刑場地として知られ、江戸開府から明治に至るまでの二百数年間、ここで処刑された者は、じつに、二十五万人を数えるといわれている。従って人も近づかないところであった。 
 そもそも小塚原の名の起こりは古く、遠く平安の時代にさかのぼる。
 言い伝えによれば、源氏の頭領、源義家が、奥州征伐の帰途、賊の首四十八体をこの地に埋葬したことからその名がついたという。その塚を古塚原とも骨ケ原とも書いたといい、現在の南千住一帯をそう呼ぶようになった。 
時は下り、江戸の末頃になると、国事犯として扱われた刑死者は、みな、この寺に埋葬されるようになる。それを物語るかのように、今は狭くなってしまった墓地内に、歴史に名を残す刑死者の墓を見つけることができる。 
そのひとつ、墓地の中央、ブロック塀で四角に区切られた墓域に、いかにも、それと分かる墓碑が並んでいるのを発見する。いかにも、というのは、肩を並べるように建つ墓列が、ひとつの意志を表しているかのように見えるからである。
 今にも消え失せそうな、墓石に刻まれた死者の名をなぞるように読み取ってゆく。
 吉田松陰、頼三樹三郎、有村次左衛門、関鉄之介、・・・居並ぶ墓碑名をつなげてゆくと、そこにひとつの歴史の記憶がよみがえってきた。墓石のわきに万延元年の没年を刻むものもある。間違いなく、それは安政の大獄にかかわる関係者たちの墓である。
  * * *
 なかでも私の目をひいたのは、桜田門外の変で、井伊直弼殺害に加わった者たちの名である。
 あの時、大老襲撃に加わった者は、総勢十八名であった。そして、ほとんどの者が捕まるか、討ち取られてしまったのである。
事件の顛末は次のようなものであった。
 万延元年三月三日。その日は上巳の節句にあたり、慣例により、各大名が将軍に拝謁する日と決められていた。大老井伊直弼も当然登城するはずだった。
 水戸藩脱藩の浪士たちは、その日を千載一遇の機会ととらえ、井伊直弼襲撃の日と決めていた。
 例年ならば、桜が開花する時期でもある。が、その日は、生憎、明け方からの雪が降り積もって、見渡す限りの銀世界になっていた。 
井伊直弼が登城する時刻は遅くとも五ツ半、今の午前九時頃と思われた。水戸脱藩士たちは、この日を待って、昨夜来から品川の妓楼、相模屋に止宿していた。
 この妓楼は、土蔵造りであったことから、通称、土蔵相模と呼ばれ、尊王攘夷運動に奔走する浪士がよく利用する妓楼だった。
実行班に選ばれた者は、関鉄之介をはじめ、佐野竹之介、大関和七郎、森五六郎、海後嵯磯之介、稲田重蔵、森山繁之介、広岡子之次郎、黒沢忠三郎、山口辰之介、増子金八、杉山弥一郎、斎藤監物、蓮田市五郎、広木松之介、鯉淵要人、岡部三十郎、有村次左衛門 ら十八名であった。有村を除けばすべて水戸藩を脱藩した浪士である。
 彼らは、前夜、ほとんど寝ずの状態で、大老襲撃の打ち合わせを積み重ね、悲憤慷慨して酒を呑み交わすうち夜を明かした。
 朝になると、いつの間にか積もったのか、外は銀世界になっていた。が、彼らはその雪を、計画が成就する吉兆と受け止め、互いに喜びあった。
 やがて、彼らは気取られないように、三々五々、宿を出た。めざすは、あらかじめ決めておいた集合場所である愛宕山だった。そこには薩摩藩からただひとり参加した有村次左衛門が待っていた。
 一同は愛宕権現に功が達せられることを祈願したあと、新橋を通り、左に道をとって桜田門に向かった。
 桜田門近くの濠端に近づくと、雪の日にもかかわらず、すでに人の影があった。大名行列を見物する人を当てこんだ傘見世と呼ばれる屋台も出ていた。 
 彼らは、その見物人にまじって、鑑を手にしたり、屋台にたむろしたり、ある者は濠の鴨を見物するふりをしたりして時を待った。 
 そうこうするうちに、ついにその時がやって来た。彦根藩邸の赤門が開かれ、長い行列が静々と現れたのである。
 行列はきざみ足で堀端のサイカチ河岸をこちらに向かって進んで来る。その数六十名ほどの供回りを従えての大規模な行列だった。いずれも赤合羽に身を纏い、かぶり笠を被っている。
 手はずのとおり、十八名の男たちは、それぞれの配置についていた。彼らの装いは、合羽姿の者、羽織りを着る者とさまざまであった。
 雪の降る見通しの悪い日であることもあって、互いに鉢巻きし、襷をかけること、合言葉を交わし合うことなどが取り決められていた。
 佐野、大関、海後、稲田、森山、広岡らは濠側を歩いていた。一方、黒沢を先頭に、有村、山口、増子、杉山らは杵築藩主松平大隅守屋敷の塀ぎわを行く。さらに、斎藤、蓮田、広木、鯉淵、岡部らが後攻めとしてその後方についた。そして、ひとり関鉄之介が全体の指揮をとるべく濠側に立っていた。 
 行列の先頭が、濠沿いから、今まさに桜田門方向に向きを変えようとする時であった。 
 襲撃のきっかけをつくったのは桜田門辻番所のそばに潜んでいた森五六郎だった。
森が下駄をぬぎ捨て、雪中を駆け足で、あたかもなにかを直訴でもするように行列に近づいた。そして、やおら饅頭笠をはねあげると、羽織りを脱ぎ捨てた。すると、中から白鉢巻きに十文字の襷姿が現れた。森はただちに抜刀すると行列に襲いかかった。
 その時、銃声が一発、鳴り響いた。それは全員が行動に移すための合図の銃声だった。黒沢が撃ったものだった。
 ついに、襲撃がはじまったのである。
 行列は千々に乱れて、すぐさま乱闘となった。襲いかかる者、それを防ぐ者。
 襲撃の側が左右から押し寄せたので、襲われた方は狼狽した。
 しかも、井伊家側の供廻りは、雪の降るこの日、刀身が湿気ないように、皆、鞘を袋で覆っていたため、すぐさま抜刀できないのが致命的であった。
 慌てたのは襲われた井伊側ばかりではなかった。襲撃側の浪士たちにとっても、前日決めた段取り通りに事は運ばなかった。
 敵味方、間違わないようにと取り決めた白鉢巻き、白襷姿の装いは守られなかった。雪の降りしきる中、味方同士、刃を切り結ぶ者がいた。
 狂気の眼は、冷静な判断を失わせていた。間合いをとって斬り合うなどということはなく、身体をぶつけ合い、鍔ぜり合いをしながら斬り結んだ。そのため、指が取れ、耳を切り裂かれるといった者が多く出た。
 乱闘のさなか、いつの間にか直弼の駕籠が地上に放置されていた。駕籠の陸尺が恐怖のあまり逃げ出したのである。それを目ざとく見つけた稲田が、深手の身体であるにもかかわらず、よろけながら近寄り、太刀を両手で支え、駕籠をぶすりと刺し貫いた。
 これを見た海後がつづいて刺す。さらに佐野が。ついに、有村が業を煮やして、駕籠をかき開け、井伊直弼の襟首をつかんで引きずり出す。この時、すでに、直弼は虫の息であったという。
 有村は直弼の首をかき取り、それを刀の先に突き刺して、ふり絞るような声で何かを叫んで、歓声をあげた。直弼の首級をあげた後も闘いは散発的につづいたが、戦闘はわずか10分ほどで終わった。白い雪があちこちで真っ赤に染まる中に、斬り倒された者が、点々と横たわっていた。
この戦闘の結果、浪士側の犠牲者は、その場で斬り倒された稲田をはじめ、重傷を負って、その後、自栽あるいは絶命した佐野、広岡、有村、山口、鯉淵、斎藤、黒沢ら八名に及んだ。また、大関、森山、杉山、蓮田、森ら五名は、襲撃の後、斬奸状を携えて自首。残りの者は逃亡した。一方、彦根藩側の犠牲者は、井伊直弼ほか、八名が死亡、十名が負傷した。
 要撃側の人間はほとんどが下中級の、次、三男の青壮年であった。開国か攘夷かで国論が二分されていた幕末の社会にあって、彼らもその対立の波に呑まれていったのである。 
 時の幕府は、大老井伊直弼を中心に開国政策をおし進め、対立する尊王攘夷論者の徹底的な粛清を計った。世にいう安政の大獄である。
 水戸藩はその尊王攘夷論の牙城であった。 朝廷は水戸藩に勅命書を下し、攘夷の実行と幕政改革を求めた。これに対し、井伊直弼は強権をもって水戸藩の弾圧にのぞんだ。
 この井伊の措置に反発した一部の水戸藩士たちは、井伊を倒すことで、政治の流れを変えようと試みた。彼らは脱藩し、大老打倒の行動を起こしたのである。
 この出来事のあと、幕末の社会は、血なまぐさいテロが続発し、やがてそれは幕府崩壊への道を加速させていったとも言われている。 
 こうした流れが、桜田門事件がもたらした、必然の結果であったかどうかは定かではない。が、力をもって現状を変革できるという期待感を、特に、尊王攘夷を信奉する武士たちに抱かせたことは間違いないことだった。
                  * * *
回向院には、現在十六の墓碑が建てられている。なかに大老襲撃には参加していなかったが、計画の首謀者である金子孫次郎の墓がある。彼は事件発生後、四日市で捕縛され、処刑されている。あと、大関、森、森山、杉山、蓮田ら五名の自首した者と関、岡部ら逃亡ののち捕まった者たちの墓がある。
 彼らはいずれも死罪を申し渡され、断首されている。墓碑の数からすると、襲撃参加者で処刑された者は七名となる。金子を含めて八名である。が、このほかに戦闘で死亡した者たちの墓が八基つくられている。彼ら八名の遺体は、事件後、塩漬けにされたあと、首を斬られ小塚原に打ち捨てられたのである。 十八名の参加者のうち、逃亡した広木松之介は二年後、同志のほとんどが死に絶えたことを知って絶望し自刃した。残る増子金八、海後嵯磯之介の二人は、明治の時代まで生き延びた。
 今、桜田門事件のあった辺りには、過去の面影は微塵もない。旧彦根藩邸には現在憲政記念館が建ち、乱闘のあった警視庁前の通りは、広く拡張され、車の往来がひきりである。通り沿いには近代的な建物が林立し、その反対側には静まりかえった濠と、皇居の緑のかたまりを望むばかりだ。
 とはいえ、その地に、ひとつの歴史的出来事の記憶が深く刻み込まれていることには変わりない。

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明日香村幻想

晩秋の11月のある日、ローカル色あふれる飛鳥駅に降り立つ。朝の光が満ちる前の、夜明け間もない時刻であった。爽やかな風が頬をなでて過ぎる。
駅を出て周囲を見渡した時の最初の印象は、この地が想像していた以上に山勝ちだ、ということだった。早速、昼下がりののどかな田園風景の中を東に向かって歩きだす。辺り一帯に雅やかな色香が漂う。
陽はようやく山の端から離れ、朝の光が東の方角から満ちあふれてきている。私は歩きながら、古代人が東の方角に特別の意味を認めていた理由が分かるような気がした。東が日に向かう方向であり、それ故に生命あふれるものたちが住まう地としてとらえられていたことを実感した。飛鳥の地はまさに古代人が「東に美しき地はあり」として選びとった場所としては最適な地であったといえる。古代人は「日の向く方向」にこそ彼らが求める常世があると考えた。
秋の色づいた清澄な大気は、歩いているだけでも快い気分を高めてくれる。周囲にはなだらかな山並みがうねうねとつづいている。やがて左手にこんもりとした小山が見えてくる。それは天武、持統帝の墳墓であった。一帯がすでに古代の遺跡のただ中にあることを知る。こんもりとした雑木に包まれた御陵は、辺りの景観を圧して、ひときわ気品がみなぎる。それがただの小山ではなく、歴史をたずさえた霊のこもるひとつの記念物であることを感じさせる。そのような目で眺めると周囲の小丘がみな古墳のように見えてくるから不思議だ。            
              * * *
飛鳥の里をさらに東行すると飛鳥川に出会う。
飛鳥川は明日香村のほぼ中央を南北に流れる川で、『万葉集』にもしばしば登場するほど重要な意味をもっていた。古今集にも、「世の中はなにか常なるあすか川昨日の淵ぞ今日は瀬となる」と詠われているように、渕瀬常ならぬ川として飛鳥人には受け止められていたのである。
そもそも川というものは、その絶えざる流れゆえに、我々には無常と断念を象徴するものとしてイメージされてきたのである。飛鳥川の源は飛鳥の南方、高取の峰々に発し、栢森、稲淵の谷合いを流れ、祝戸で冬野川と合する。
さらに明日香村の中央を縫い、藤原京跡を経て大和川に注いでいる。現在みる飛鳥川は“瀬瀬のうちなびく”かつての激しく流れる川の面影はなく、流れもゆるやかで、水も濁り、歴史を積み重ねた川といった様相ではない。古代の飛鳥人は、この川を遠い山奥の霊界からはるばる流れ下る神霊を運ぶ川としてとらえていた。そうした神聖なトポスに、飛鳥人は多くの重要な建造物をうち建てたのである。
              * * *
現在の明日香村の中心地にあたる岡集落。飛鳥川を西に見るこの集落の北はずれに飛鳥板蓋宮跡と伝えられる旧跡がある。
西暦645年の、いわゆる大化の改新クーデターの現場になったところである。中大兄皇子と中臣鎌足が時の権力者蘇我入鹿を倒し、政権の転覆を図ったあの有名な出来事である。かつてそこには板蓋宮大極殿が置かれていた。皇極4年6月12日のことである。
その日は朝から曇が重く垂れ込め、今にも雨が降り出しそうな日であったという。
大極殿ではこの日、皇極天皇を迎えて、貢物献納式が行なわれる予定になっていた。それは三韓から寄せられた貢ぎ物を天皇に差し上げる儀式であった。式は予定通り進んでいった。だが、大極殿の中はいつもとは少し違う、どこか殺気を含んだ雰囲気が漂っていた。
そうした中、蘇我石川麻呂が表文を読み上げ始めた。石川麻呂の声はかすかに震えているようであった。彼はあらかじめ、この日の謀りごとを知らされていたのである。
その時である。中大兄皇子の大声と共に刺客が式場の中になだれ込んで来たのである。式場は悲鳴の声とともに混乱の渦に包まれた。 突然の出来事であった。見れば蘇我入鹿が長槍で頭と肩を刺され、鮮血を浴びて式場の傍らに倒れている。
時の権力者が誅殺されたのである。それは一瞬の出来事であった。その場に居合わせた人々は皆、これから起こるであろう出来事を直感的に察知し、事の重大さに恐懼した。蘇我氏側の反撃があるであろうことは火を見るよりも明らかであった。それをいちばん強く感じ取り、それへの備えをしていたのはほかならぬ中大兄皇子その人であった。
この出来事が起こる少し前、皇子はすでに飛鳥寺に多数の手兵を集めていた。飛鳥寺は飛鳥板葺宮からほど近い地にある蘇我氏の氏寺である。蘇我入鹿の祖父にあたる馬子が、推古14年(606)に造営した寺だ。建立当時、塔を中心に東西北の三方に金堂が建つ独特の伽藍であったという。
後年のことになるが、中金堂に飛鳥大仏の名で呼ばれた釈迦如来像が安置された。寺域は今見る飛鳥寺の四倍というから、かなりの広さであったのであろう。
甘橿の丘を間近に見る飛鳥寺は、のどかな田園の中に建っている。時折、観光バスでやって来た団体客が一塊りになって寺を徘徊するが、それもいっときで、またもとの静かな静寂が戻る。
境内を抜け、甘橿の丘を望む寺の裏手に出ると、そこには蘇我入鹿の首塚と呼ばれている五輪塔がぽつりと立っている。鎌倉時代になって建てられたものであろう。
蘇我入鹿が誅殺された現場−板蓋宮大極殿跡は現在は史跡公園になっている。そこは北方向を除き、三方を小丘に囲まれた見晴らしのいい野っ原で、ほぼ真北に天香山を望み、西に飛鳥川が流れ、そのほとりには甘橿丘のこんもりとした山影を視野に収めるという場所である。
今そこに立ってみても、かつてそこに大極殿が建っていたなど想像もできない。山間の田舎びた野面の盆地風景が広がるばかりである。
不思議なことだと思う。遠い昔の出来事とはいえ、これほどまでに様変わりして、ただの草原に帰ってしまっている場所があるということが。
過去はとうの昔に消え去ってしまって、今この世に生きる人は誰ひとりとして、かつてのこの地のありさまを目にした者はいない。それ故にと言えるかも知れない。その地に埋め込まれた過去の記憶が、さまざまな想像と憶測をからめて、色とりどりの形をなしてよみがえってくる。 
一説によれば、中大兄皇子が蘇我入鹿を倒したといわれる、いわゆる大化の改新というものは、実際はなかったのだ、という。そうなると蘇我氏の排除というものは、血生臭い出来事によってではなく、もう少し政治的な陰謀のなかで行われたことになる。『日本書紀』」に記録されているような宮殿内でのクーデターが語り伝えられているは、正が邪を討伐するという、ただの勧善懲悪物語りだったのか。それはあくまで日本史の正史の中ででっちあげられた出来事なのではなかったのか。
のどかな陽が満ちる野面に立って歴史の虚実を想っていると、複雑な思いがこみ上げてくる。
古代王朝が置かれていた頃、この地は権力争いが生臭く渦巻いていたのである。だが、それらのことがまるで嘘のように、今そこは平和なたたずまいに包まれている。  

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山里の原風景といったものがあるとすれば、そのひとつに秩父山塊の奥に位置する栃本をあげることができそうである。
栃本は、中山道と甲州路を結ぶ脇街道--旧秩父甲州往還のほとりにある。現在の地番でいうと、秩父郡大滝村大字大滝字栃本となる。 
そこは白泰山から東に重々と連なる山稜の南斜面にあり、村の南側は深く切れ込んだ荒川がV字谷をなしている。かつてそこは、宿場もあり、関所のある場所として重要な役割を果たしてきたところであった。最盛期、栃本の賑わいはどれほどのものだったのだろうか。旅人が行きかう街道は、つねに活気に満ちあふれていたのだろう。それが、今は、山深く分け入った奥所にある、ひっそりと息づく山村に変わり果てている。
満々とした秩父湖の水面を左手に眺めながら、さらに行くこと数キロ、前方の街道沿いに、肩を寄せ合うように建ち並ぶ低い家並みが見えくる。栃本の集落である。
今でこそ、屋根はトタンで葺かれ、そこらにある民家とさほど変わらぬ造りになっているが、かつては、栗の柾目板を葺いた屋根であった。それでも、内部に入ると昔のままの造りの家もあるという。歴史的には、これらの民家は、秩父甲州往還の宿場の旅籠として使われてきたものであった。それが、今の世の要請に答えて、山里の民宿としてよみがえっている。
それにしても、初めてこの地に足を踏み入れた時の印象は鮮明であった。尾根側から谷に向かって、急激に崩れ落ちるような地形。それを目にした時、私は軽いめまいのようなものに襲われたものである。
その体験は、ちょうど、傾きながら滑空する飛行機の窓から外界を眺めた時と似ていた。視線がぐんぐんと斜面を転がり落ち、左手の荒川の谷底に吸い込まれてゆくのであった。 やはりこの地は山深いのである。こんな辺鄙な場所で生活するには、いろいろと不便がともなうことだろうし、苦労もあることだろう。今は村営のバスが山ふもとの三峰口から出ているとはいえ、不便さは一向に解決していないのである。
             * * *
 旧秩父甲州往還は、その名が示すように、中山道の熊谷宿から、寄居、秩父、大滝村とたどり、雁坂峠を越えて甲州へと通じる街道であった。 とりわけ、秩父の山中に入ってからの、栃本〜雁坂峠間の四里四丁の険阻な道は難所とされ、旅人は大いに難儀したという。 この街道、じつは栃本を通り過ぎたところで、二手に分かれる。左すると、前記の雁坂峠越えの甲州路であり、右すると、十文字峠を越えて信州側に抜けることができた。
いずれの道をめざす旅人も、とりあえず栃本で旅装を解き、そこで一泊したあと、甲州あるいは信州に旅立ったのである。
そもそもこの街道が開発されたのは、戦国の世の武田信玄の時代である。信玄は、このルートを甲州と武蔵を結ぶ最短距離の道として着目し、軍用道として街道の一層の整備に力を注いだ。以来、秩父甲州往還は、武州、上州、甲斐、駿河を結ぶ重要路になったのである。
この往還道は、江戸時代になってからも、文物の交流ルートとしてだけではなく、三峰詣、善行寺詣、身延山詣、秩父札所めぐりなどの庶民の巡礼道として栄えた。
さらに、明治になってからは、生糸が交易の中心になったこともあり、繭を扱う商人の行き来がさかんになった。秩父でとれた繭は、山梨県側の川浦に運ばれ、そこから、塩山に送られたという。そして、帰りは、馬の背に米が積まれたのである。
                * * *
ところで、この栃本に関所が設けられたのはいつ頃のことなのだろうか。記録によれば、竹田信玄が勢力を張っていた天文年間から永禄年間の頃であるとされている。永禄12年には、信玄が小田原北条を攻めるためにこの街道を使って秩父に侵入している。 
時代は下って、江戸幕府が開かれたのちの慶長19年になって、関東代官頭の伊奈氏がこの関所を整備。それ以来、関所は、幕藩体制の防備の拠点という重要な役割をになうことになる。
幕府がここに、代々世襲の関守を常駐させ、つねに厳重な警備を怠らなかったというのも、そうした役割に重きをおいたためであった。栃本の関所が、中山道の松井田の関、東海道の箱根の関とともに、関東三関のひとつに数えあげられたのも、こうした位置づけがあったからこそである。実際、この関所の関守として、代々この職務を世襲したのは大村氏といった。大村氏は明治二年にここが廃止になるまで、十代、二百五十年という長い間にわたって世襲している。
当時の関所のあらましは、東西に関門を置き、街道の両側に木柵と板矢来を配するといったものものしいもので、関所は大村氏の家宅もかねていたのである。
現在見る建物は、天保15年(文政6年焼失後再建)の建築で、外観は木造平屋建て、切妻造り、瓦葺き、間口約13メートル、奥行9メートルという規模で、一見するとふつうの民家風の造りである。が、内部をのぞくと、東妻側に、番士が座る十畳の上段の間の張り出しがあり、西寄りには、板敷き玄関、それにつづく十畳の玄関の間がしつらえてあり、この建物が関守屋敷であることを改めて知らされる。
関所には三道具、十手、捕縄が常備されていたといわれ、通行手形をもたない違法な旅人はすぐに捕らえられたのである。 
この関所の往来が許可されたのは、明け六つから暮れ六つの間であったといい、江戸初期の寛永二十年の記録によると、ここを一日百人をこえる通行人が行き来したという。実は、関所の置かれた大滝村の重要性は、そこが交通の要衝であったということばかりの理由ではなかった。
江戸幕府は、この地域の原生林から採れる材木に目をつけていた。原生林は御林山と呼ばれ、当時、この一帯は〃東国第一の御宝山〃と称されていたところであった。その広さは、実に東西二十里、南北四里にも及んだといい、大血川の上流地域から中津川の南西部にひろがる地域である。
幕府がここに関所を設けた本当の狙いは、この地域からの原木の盗伐を監視するのが目的であったからだと言われている。
ところで、奥秩父の原生林と呼ばれる、この地の森林相は、どんな樹木からなっているのだろうか。よく知られているものを数えあげただけでも、ブナ、ミズナラ、カバノキ、シデ、カエデ、シラビソなどその種類は多い。こうした豊富な樹木を、幕府は建築材として伐採し、その一方で、山の一部は、地元の村民に伐採権として授けられた。それは百姓稼ぎと呼ばれたもので、地元の村人たちは、この山から伐れた材木を、一定の目的に限ってなら使える権利を認められていたのである。伐採された木材は、筏師の手によって、荒川の激流を下り、江戸の町に運ばれた。
明治になって御用林は官林となるが、明治12年の取り調べ書によると、官林は七万二七八七町歩、村人の稼山が四万三六七二町歩余と記されている。意外に、稼山の持ち分が多かったことが知れる。
               * * *
それにしても、栃本の景観はそこを訪れる人に、自然の苛酷さを改めて感じさせる迫力をもっている。斜面にへばりつくように建つ民家のたたずまいといい、急峻な斜面を利用してつくられている田畑といい、こうした地形に足を踏みしめて生きなければならない、村人の日々の生活の計り知れない困難さを思う。
とはいえ、元禄3年(1690)の記録によれば、すでに村内の人口は千八百余りに達していたという。当時は、農作物といえば、田は一枚もなく、麦や粟、稗、豆類、そば、芋などがわずかに採れるだけで、あとは、幕府から与えられた御林山の一部(稼山)を村人が共同使用して、そこからの林産物や山の幸で生計を立てるといった状態であった。
そういえば、この地には、土地の人が〃さかさっぽり〃と呼ぶ、独特の耕地農法がある。傾斜の強い斜面に畑地をつくらざるを得なかった農民たちが考え出した耕法で、それは畑地を耕すのに、斜面の上から下に向かって鍬を入れてゆくという方法なのである。 
常識的には、こうした地形では、下から上に移動しなければ、身体の安定がつくれないものである。それを、逆に、上から下に移動しながら、耕作するというのである。逆さ掘りと呼ばれるゆえんである。実際、下から上に移動しながら、土を掘り返してみると、土が下方に転がり落ちて、作業にならない。それでなくとも、石ころのまざりあった、いかにも地味の悪そうな耕地である。
そこで、身体を斜面下方に向け、インガと呼ばれる八尺ほどもある柄の長い鍬を使って、土を掘り起こすという耕法を考え出したわけだ。身体の安定感を欠いたこの作業は、さぞかし、重労働であるにちがいない。第一、農作業に時間がかかる。 
そういえば、街道脇に、一本の形のいいトチの古木を見つけた。それは、若葉を陽に輝かせながら存在感ある風貌で立っていた。あたかも栃本の名の由来を語る生き証人のように、その大木はどっしりと立ち尽くしていた。まさに栃本は秩父最奥の耕地なのである。
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