久保木牧師のきらきら探訪〜ゆるりと生きる〜

オカリナ奏者で鹿児島在住の牧師が描くきらきらした日常。ぼちぼち更新していきます。
2017年6月26日(月)の大阪でのトークイベントでの対論者の一人
川向さんがトークイベントに向けてかな〜りガチなブログを
書いておられる。

『テロ(戦争)と聖書と神』のための基本理解(1

『テロ(戦争)と聖書と神』のための基本理解(2)


ヒトラー暗殺計画に関わったボンヘッファーをどう理解するかは
わたし自身としては
ハワーワスのキリスト教倫理からの影響が大きいのですが
その辺もイベントの中で話せればいいかもと思っています。

川向さんが「テロ(戦争)」と表記しているのも
とても興味深い。
9・11より前はテロとの対決は戦争ではなかった。
刑事事件への対応だった。
9・11以降、テロとの戦争になったのだが、
テロとの戦争が終結できるのか、その辺は今回の本文にも記載しています。

あと、川向さんが、
(3)で「聖書(聖典)」について書かれる予定のようだが、
息子さんは大学でイスラム文化を学んでおられるようで、
川向さん本人もコーランを読んでおられるようなので
その辺の造詣に関して、どのように発信されるのか
非常に興味深く思っています。

川向さんは
昨今のテロも含め、イスラム圏との文明の衝突のような現実の中での
研究心であって(だと思う)
きちんとキリスト教に軸足を置いておられる方であることは
誤解がないように、一応、書いておきます。

トークイベントで、わたしは
国際情勢の分析は、佐藤優、伊勢崎賢治の影響があり
神学的には、S・ハワーワス、
あとは非暴力コミュニケーションから得ていることを
自分なりにまとめて
テロと聖書と神 というテーマで語るような感じになるかなぁと。

さて、以下、本文です。

テロと向き合う『神の物語』 第3幕 イスラエル
ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことはなく、それぞれが必要な分を集めた。出エジプト1618
 
支配しようとしたり、出し抜いたりしている人類に対し、
神は弱小民族イスラエルを通して救いの予告編を見せようとする。
 
モーセによってエジプトの奴隷生活から脱出したイスラエルの民は、
荒野での生活をスタートした。
荒野にある食べ物を多く集める人もいれば、少なく集める人もいた。
しかし、この荒野の生活では、みんなの必要が満たされたのだ。
 
現代でも多く稼ぐ人もいれば、少なく稼ぐ者もいる。
しかしここから先はイスラエルの民の荒野とは違う。

現代の地球上の貧しい人36億人の資産合計と
世界のお金持ちのトップ68名の合計資産が同額なほどの格差がある。

貧困のために飢餓で死んでいく人たちも多くいて、
みんなの必要が満たされているとはとても言い難い。

ざっくりとした言い方にはなるが、
中東の石油をはじめ利権を手にしていく金持ちと
貧困に苦しむ中東の人々がいる。
貧しさ中にある中東の人たちの中には
イスラムの教えの極端な解釈によって不満を爆発させ、
テロに向かう。
問題はテロリストの存在?お金持ちが分配しないこと?
あなたはどう思うだろう? 
 
みんなの必要が満たされた荒れ野の生活にどうやったら向かえるのだろう。
モーセ率いるイスラエルの民の姿から救いの予告編を聖書は語りつつ、
貧富の差のあるピラミッド社会から脱出するように神は僕らを招いている。
 
テロと向き合う神の物語 第4幕 イエス
主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。
それは、主の貧しさによって、
あなたがたが豊かになるためだったのです。Ⅱコリント89
 
これまでの振り返りにもなるが、
アダムとエバは神のようになろうとした。
でも、結果は恥を隠し、責任転嫁し合い、
どっちが上か下かのパワーゲームに迷い込んだ

人類は今も似たような物語を生きて、
貧富の格差の中で、金持ちはテロにおびえている。
テロとの戦争で9・11後、
アフガンを攻撃したものの15年経っても未だにテロリストを撲滅できず、
アメリカ史上最長の戦争は継続したままだ。
米軍はアフガンに駐留し続け、撤退できないが、
アメリカの経済力は落ちる一方。
テロは怖いが押さえきれていない。
 
主イエスは金持ちに生まれることできたが、
貧しい中に生まれた。

貧しい家庭で生まれ育ち、貧しく生き、貧しく死んでいった。

ちらが上か下かのパワーゲームには乗らず、
自分を捕らえ、殺そうとする人たちに対して
12軍団以上の天使たちを呼んで戦争もできただろうがそうはしなかった。
 
しかも世間が箸にも棒にも掛からぬ人だと言いそうな人たちを弟子にした。熱心党というテロリスト集団出身と思しき者も弟子にした。
世間は無駄な人と呼ぼうが、
そもそも無駄なんてなく、無駄な人はいないから。
彼らと力を合わせて生きることを望んだ。
 
神がその気になれば、
新ローマ帝国を樹立して、主イエスが皇帝になり、
軍事的な王になることもできただろう。
しかし、神はその道を選ばなかった。
むしろ主イエスは貧しくなった。
 
とは言え、僕らが主イエスのように貧しく歩んでも、
無駄に死んだように思えることもあるだろう。

しかし無駄に死ぬなんて存在しない。
そもそも神が造った世界に無駄はなく、
復活に向かうことを主イエスを身をもって示したのだ。

戦争やテロでは、誰かを無駄な人として殺してしまう。
しかし、イエスは一人ひとりを大切な存在として愛した。
誰かを殺そうとするよりも
無駄な人はおらず
一人ひとりを大切な存在として見つめられることはどれだけ豊かだろう。

十字架と復活を通してピラミッド社会を抜け出す道を造り、
「わたしについて来なさい」と僕らを真の豊かさに招いている。
 
変革は辺境の地から、草の根から起こる。
世界の中心地ローマではなく、属国の僻地イスラエルから。
強さからでなく弱さから。

この記事に

このたび、2017年6月26日(月)に大阪にて、
『焚き火を囲んで聴く神の物語』出版記念トークイベント
「テロ」と「聖書」と「神」で、しゃべることになりました。

自分なりの整理も含め、聖書を全6幕『神の物語』として読むとき
テロをどんなふうに語れるだろう?ということで書いていきます。

テロと向き合う『神の物語』 第1幕 創造
神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。創世記131
 
神が造ったこの世界について考えてみる。

動植物は呼吸して二酸化炭素を出し、
植物は光合成して酸素を出し、循環する。

植物を草食動物が食べ、肉食動物が草食動物を食べ、
動物のフンや死骸は植物の肥やしとなる。

神がお造りになった世界に無駄なものはなく、極めて良い世界。
それに対し、テロは誰かを要らないから殺そうとする。
そもそも神はそんな世界を造らなかった。
みんなが必要で、極めて良かったのだ。
 
 
テロと向き合う『神の物語』 第2幕 堕落
それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものになることを神はご存じなのだ。創世記35
 
最初の人類として聖書が描くアダムとエバは
神のようになろうと善悪の知識の木の実を食べた。

とは言え、それはアダムとエバだけの物語じゃない。
ちょっとあの人よりも偉くなろうとする僕らの物語でもある。

恥になりそうなところは隠し、責任転嫁して、
悪いのは他のヤツで、自分をよく見せようとする。
それは木の実を食べたあとのアダムとエバのようだ。

協力するために与えられた力を、
支配したり、出し抜いたり、やっつけるための力として使う。
そのひとつの現われがテロ。
でも、僕らはテロはしなくても、
支配や出し抜いたり、やっつけようとしたりすることがある。

ただそれにも関わらず、
主なる神はぼくたちを見捨てず、共に歩もうとし続けておられる。
そんな神の愛に心揺さぶられる。


第3幕、第4幕を6月19日(月)、第5幕、第6幕を6月23日(金)に
アップする予定です。
ぼちぼちお読みいただけるとうれしいです。
関西の方は、トークイベントに来ていただけるとうれしいです。

この記事に

女優 清水富美加さんが幸福の科学へ出家することについて思うことを
一牧師の視点として書きたいと思います。

1)信仰が生活に現れていない違和感
1月19日に、「女優・清水富美加の可能性  守護霊インタビュー」に関連し、
清水富美加さんについて語る動画がアップされました。

それを知ったチーフマネジャーが、清水に「知ってる?」と確認。

すると清水が「実は信者です」と告白した、という。

両親が信者で、清水も幼少の頃から信仰していたが、
マネージャーは08年のデビューからその日まで、
全く知らなかったとそうな。

信仰もいろいろあるでしょうが、
出家するともなれば
その信仰者としての生き方が日々の歩みの中ににじみ出て来るものだと
思うのです。
にじみ出てこなくても、自分が信者であることの表明くらいは
マネージャーにあっても良さそうなのですが
マネジャーはデビューから8〜9年ほど一緒に過ごす中で
全く知らなかったことに驚かされました。

まぁ、マネージャーがよほど清水さんに無関心だったが、
清水さんがよほど信仰が生き方ににじみ出てなかったか
いずれかなのでしょうけど。

2)スピードに対する違和感
1月19日以降に、清水さんが信仰を表明し、
2月12日ごろ引退のニュースが流れ始めました。
しかもドクターストップがかかったとのこと。
今責任を持っている仕事も放りだしての引退のようですが
(もちろん、今後、対応が変わり、仕事をまっとうすることもあるかもしれませんが)、
しっかり、暴露本を2月17日に出版できるほどのようです。

そもそも所属していた事務所レプロと対立関係になっている中での
暴露本で、どれだけ裏をとった上での出版なのだろう、という問題性も
感じます。

なにより、清水さん本人が疲労困憊しているのなら、
そのケアが優先されるべきで、
今の彼女の言葉を切り取って商品として出すことにも違和感があります。

清水富美加さんの人格を大切にしているよりも
本という商品を売り、自らの宗教団体を知らしめることを優先しているように
思えます。

話題のあるうちに売りたい気持ちもわからなくもありませんが
清水さんのケアを尊重するなら、
もっとゆっくりとそのプロセスを大切にしてほしいように思います。

キリスト教の世界でも
わたしとしては、信者になって間もない人とか
牧師になって間もない人に、
あまり強烈なスポットライトを当てないでほしいと思っています。

その人がいかに素晴らしくメディア受けする人であっても
スタートのよちよち歩きのときはよちよち歩けるようにして
ちょっと転んだり、失敗したりが安心してできる環境が備えられる方が
ふさわしいように思います。

3)小事に忠実でない違和感
幸福の科学の広報担当者はこんなことを言っているそうです。
「宗教には大きな善、小さな善という考え方がございます。
…確かに、身の回りの方の期待、自分に与えられてる責任を
放棄することは一見、悪いことに思えますけど、
1日も早く、1人でも多くの方が救われる、そちらの善を取る
という考え方なんです。
それを実践したのは、仏教的の開祖・釈尊です。
…決してそういうことをしていいというわけではないですが、
より大きな善を実現するためには、
今現在において不義理に見えることもやらざるを得ないということです」

釈迦が本当にそう言っているのか、
言ったとしても、今回の清水さんの行動に当てはめて良いのか
その辺はよくわかりません。

聖書では
小事に忠実な人は、大事にも忠実である。
そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。
とあります。

言うならば
小さな善に忠実な人は大きな善にも忠実であり、
小さな善を軽んじる人は、大きな善も軽んじる、
ということでしょう。

もちろん、わたしども牧師の世界で
牧師になるにあたり、
いろんな仕事の責任を放棄したまま逃げるように仕事をやめて
牧師の世界に入った、という人もいるにはいます。
でも、教団の広報責任者がそれを肯定的に発言し、正当化することもないように
思います。

もちろん、現実に辞める、というのは簡単にいかないこともあるでしょうから
いつもがいつもきれいに辞められるわけでもないでしょう。

とは言え、
大きな善のために辞めて、いろいろ関係各所に迷惑をかけた状態のまま
暴露本を出すって…。

そりゃ、仮に問題もある事務所だったにしても
いろいろお世話になった部分もあったでしょうに、
そんな暴露本を出したら、しこりばかりが残るように思えます。


最後に…宗教ってヤバいの?
芸能事務所にいようと、宗教団体にいようと
いずれにしても、彼女が大人の都合に利用されているようにも
見えなくもありません。

信仰が生活ににじみ出ず、
本人の歩幅、テンポと違う速いスピードで
動いているように思えます。

ゆっくりと自分の頭で考え、
失敗したり、試してみたりしながら、
またそうした失敗を受け入れてくれる仲間に囲まれながら
清水さんの歩幅で歩いていけないものだろうか、
と思っています。

宗教はヤバい、と今回の件で思う人もあるでしょう。
でも、それはインターネットを使った犯罪があるから、
インターネットのすべてがヤバい!
とは言えないことに似てるかなと思います。
ネットが何がヤバくて、何がヤバくないかを見分けていこうとするように
宗教ってどうなのか、今回の件も含め自分の頭で考えて
見分けていってほしいと思っています。

この記事に

今回はこの連載の最終回として、
S・ハワーワスのキリスト教倫理から、「沈黙」における”踏み絵”を
考えたいと思うのです。

ハワーワスは、行為よりも、「行為者」を形成する物語に注目します。
踏み絵を踏む/踏まない…という行為よりも
その行為をした人がどんな性格・人格であるか、
その人の性格・人格が形成されるうえで、どんな物語に生きているか
そこに着目しているわけです。

つまり、「沈黙」で描かれるような迫害が押し寄せて来たとして
(もちろん、それに限らず、遠藤本人が語っているような、
人生の中の踏み絵があるわけで…)
踏み絵を踏むか、踏まないか、という行為よりも
その人の人格・性格(とそれを形成する物語)に着目するわけです。

踏むか、踏まないか、よりも、
何者であろうとしているのだろうか?
ということです。

踏むか、踏まないか、だけでは視野が狭すぎるように思うのです。

ヒトラー暗殺計画に関わった神学者 D・ボンヘッファーの行為を
「人を殺そうとするなんて、十戒に反していてとんでもない!」と
キリスト者としてあるまじき行為とするのか、
彼の人格とキリスト者としてどんな物語を持ち、どこに向かいたかったのか、
ということを抜きに考えて良いのか、
とわたしたちは問われていると思うのです。

踏み絵を踏むか否かも、同様の課題があるように思います。

東方敬信氏は、ハワーワスのキリスト教倫理について
以下のようにまとめています。

キリスト者は、その共同体を形成してくれた独自の物語、
イスラエルの歴史とイエスの生涯と弟子たちの服従の物語を持っているので、
世界と区別されるべきである。
ハワーワスが福音書のイエス物語を解釈すると、
キリスト者は、「赦された者の生を生きることができる、
聖化された平和の民であることを求められる」ことになる。
したがって、キリスト者の特徴は、平和であり、
その性格と行為あるいはジェスチャーは、ノン・ヴァイオレンスが中心になる。

ちょっと(だいぶ?)難しい話になってしまったかもしれませんが
キリスト者は神の民の一員で、非暴力が中心の平和を生きる者であり、
イスラエルから主イエスの弟子に至る服従の物語の
延長線上にいて平和の完成に神が至らせることを信じて歩む者ということでしょう。

その中で、踏み絵を踏まずに済むに越したことはないでしょう。
愛するものや憧れを踏むことが
やむを得ないことであったとしても、
誰がそれを推奨することができるでしょうか。
何よりも、殉教が起こらない社会、踏み絵を踏まされる状況にならない社会を
目指していきたいと思います。

ある意味、相反することを併記して、本論を閉じたいと思います。

1)踏み絵を踏むか/踏まないか、それはそれぞれの置かれた状況があり、
その人の性格・人格があって、十把ひとからげに論じることができるだろうか、と
思わされます。そしてまた神の愛は踏み絵を踏まない者だけでなく踏んだ者へも
間違いなく注がれることを信じます。

2)しかしまた、やがて平和がキリストによって完成させられる物語を信じて、
それを信じて歩んだ信仰の先達の列に並びながら
非暴力で平和を獲得する道へと主イエスを信頼して進みたいと思います。
また、行為よりも、人格・性格に着目する者でありたいと願います。

ある人は上記1)と2)は相反すると言うかもしれません。
別の人は1)と2)は重なり合うと言うかもしれません。

小説「沈黙」を読んで、私自身は安易な答えは出せない思いです。
ある意味、相反するかもしれない、しかしまた重なり合うかもしれない、
1)と2)の両者を併存させながら、
今の時代にもあり得る”踏み絵”に向き合っていければと願います。

この記事に

遠藤周作著「沈黙」を読んで、
これって、踏み絵を踏むか、踏まないかを問うているというよりも
踏み絵を踏んだ者への救いを描きたかったんだろうなぁとも
思っています。

チースリック師が『キリシタン史考』の中で
―遠藤氏はチースリック師をキリシタン史の先生として常々尊敬していたのです―
こう書いています。
「遠藤周作氏はその『沈黙』を書く前に
 わたしに言ってように、
 ”背教した司祭の心理を探ってみたい”という心理的なねらいもあったばかりでなく
 彼らの背教を他人を救うためにささげた自己犠牲のように見て、
 それを一種の英雄的行為として解釈しようとしていた」
と述べ、
「彼を救いたいことは確かである」と結んでいます。
つまり、救いたかったのです。
(粕谷甲一著「殉教ところびを越えて」女子パウロ会、47ページ)

うーん、これは興味深い論述です。

というのも、「沈黙」をさら〜と読んでいくと
ロドリゴは英雄的なキリスト教イメージが崩れていきながら、
転んでいく様を描いているようにも読めるのですが
やっぱり遠藤氏の中に、英雄的な憧れが
転んだロドリゴに別の形で投影されている、ということですね。

この粕谷神父は、遠藤氏と直接面識もあったようで
そのやりとりも著書に書いていたりして、それも面白かったのですが
まあ、それよりも

殉教者とは超人間的な英雄ではない。
強い人間が殉教して、
弱い人間がころぶというのではなく、
自分の弱さを知って、まったく自分をあてにせず、
神の力にゆだねる人です。
(前掲書、カバーに記載。カバーには本文よりって書いてるけど、
本文の中のどこかにあるかが見つけられないのです。)

という粕谷神父の言葉が印象的で、
この辺が遠藤のいう、強い人が殉教、弱い人がころぶ、
というのと、粕谷神父は全然発想、立脚点が違うなぁと
思っています。

実際、どれだけ弱さをもった人が殉教に至ったのか、
粕谷神父はいろんな事例をあげながら、記述を進めています。

殉教者もころんだ人も英雄としようとした遠藤氏、
殉教者もころんだ人も英雄じゃないよ、と告げる粕谷神父。

どっちが正しいというよりも、
それぞれの味わい深さを感じています。

その味わいとは、
踏み絵を踏んで、ころんだ者への限りないやさしさでもあり、
踏み絵を踏まず殉教した者を英雄視することからの解放でもあり、
人の力を越えてすべてを導く神への信頼、
といったところでしょうか。

この記事に

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