久保木牧師のきらきら探訪〜ゆるりと生きる〜

オカリナ奏者で鹿児島在住の牧師が描くきらきらした日常。ぼちぼち更新していきます。

牧師の副業を考える

先日、若い牧師から「牧師の副業をどう考えますか?」と質問を受けた。

その際、あれこれ答えたのだが、改めて自分の考えをまとめてみたい。

時給数百円のアルバイトを続けるのはふさわしい?
個人的には、時給数百円のバイトを長期ですることは
(いろんな諸事情もあるので一概に否定もできないだろうが)
避けるに越したことはないと思っている。

例えば、時給800円のバイトを5時間して、4000円稼いだとして、
夕食の準備がおっくうなので、外食にして、
自分へのささやかごほうびとしてコンビニでデザートも買って
1000円を使っちゃうと
バイトに行く時間も足せば5時間半ほどで4000円の収入のはずが
実質は3000円になる。
拘束時間5.5時間で換算すれば、時給545円程度ということだ。

牧師の仕事そのものにそれなりにストレスがある。
なお、長時間の数百円のバイトで稼げたようで疲れもたまり、
さらにストレスが増すことで支出が増えて
さほど実入りがない、ということが起こり得る。

牧師の仕事はそれなりに時間を必要とする。
説教の準備も心身ともにリラックスできているに越したことはない。
副業を持つなら、時給換算して数千円以上になる専門性を
早いうちに投資して
身に着けるほうが良いように思うのだ。

また歳を重ねるほどに副業の専門性が深まっていく方が望ましいように思う。
なぜなら、加齢と共に体力や回復力は衰えるのだ。
時給数百円の仕事をいつまでも若い頃と同じように続けつつ
牧師をすることには無理が出てくるように思う。

副業が無理な牧師もいるだろう
牧師をしつつ副業を持つことが器用にこなせる人もいるだろうが、
これにはある程度のバランス感覚が必要なように思う。
副業をしようとしたら、本体の牧師の働きがままならない人もいると思う。

また雇われた場合に日曜出勤だってあり得るし、
葬儀の司式の必要があっても休めないこともあるだろう。

となると、自営業なり、上司にある程度の理解の得られる職場であったり
それなりの人間関係力がないと
牧師を続けながら副業を持つことが困難なケースを往々にあり得るのだ。

教会の献金収入が少なく、牧師が副業をもたざるを得ないとしても
それを全員に強いるには無理があり、
副業を持つことが厳しい牧師の経済が守られる環境もまた求められると思う。

キリスト教界内で花開かせていく専門性も必要なのでは
ここからは先の質問者には応えていないことなのだが
副業はセキュラーの世界だけでもないようにも思っている。

例えば、キリスト教の結婚カウンセリングに特化して
超教派的に働ける牧師がいてもいいと思う。

キリスト教的なビジネス・コーチングができる牧師が
超教派的に働ける環境もあってもいい。

他にも、家族セミナー、依存症へのアプローチ、
精神科と教会をつなぐ働き人など。

そして、こうした働きをボランティアとして捉えるのでなく、
有償でプロを育てていく土壌が必要なように思う。

遣わされた教会の経済力ゆえに副業をせざるを得ないにしても、
セキュラーで働く専門性を磨くことに力を注ぐ、というベクトルだけでなく、
地方の一教会だけではニーズが小さいことも
超教派となればそれなりに大きなニーズになることに
アプローチできる専門性を育てていくことも必要なのではないだろうか。

国外宣教師を支えるように、経済的に力の弱い教会に遣わされた牧師を
支えるシステムがあってもいいのでは
国内でもKGKの主事はやっているみたいだが(違っていたらすみません)
国外に派遣された宣教師が帰国して
支援者に活動報告をし、献金を募っている。
デプテーションって呼ばれたりしているようだ。

ちなみに、わたしが所属している日本ナザレン教団で
被援助教会の牧師が、ナザレン教団から援助を受けることがあっても
(正確には、派遣された教会に援助しているのだが)
個人に献金支援を募ることはない。
(いろいろややこしいことが起こることが想定されているので
現状のようになっているのだろう。)

ふるさと納税みたいなものかもしれないが、
自分の所属していない教会に献金し、支援し、
また支援を受けたら、活動報告をする、というような関係性があっても良いかと思う。

デプテーションも実際に足を運ぶのが一番だろうが
それだけでなく、
今ならスカイプを使って支援者対象に活動報告会をしたり、
聖書研究会を定期的に開催する、というのは
住む場所を問わず行うことができる。
クラウドファンディングのリターンでもないが、
支援者は献金をし、リターンとしてウェブ聖書研究会に出席できるとか
自分の悩みや祈りの課題をしばし話して祈り続けてもらえるとか
そういう関係性を築くことができれば
赴任教会内の経済としては牧師給が充分に出ないとしても
赴任教会外の活動という意味では副業であるかもしれないけれど
牧師としての専門性を生かしたまま収入は確保できる、
ということもあり得るのでは、と思う。

牧師以外に専門性が持てる人もいるだろうが、
あくまで牧師だけしかできない人の特性を生かすことも可能なように思う。

もちろん、うちの教会員に手を出すな、という牧師がいるのは
想像に難くない。
いろんな混乱や問題も起こるかもしれない。

しかし、日本の現状として
一教会、一牧師であるゆえ、
年齢も価値観も大きく違った牧師しかいないこともある。
自分の所属教会への不満を募らせるような牧師との付き合いは
いかがかと思うが、
比較的、年齢や価値観の近い牧師とネットを通じて
聖書を学べたり、祈ってもらえたりするような関係性を
著しく否定するのもどうなのかなぁ〜と。

そういうことが教会の硬直化を生んでる要素もあるんじゃないかと
思っている。

一億総中流後の格差社会・経済縮小の日本社会の中で
一億総中流で、キリスト者がそれなりに献金できた時代ではなくなり、
格差が広がる格差社会になるだけでなく
団塊の世代が定年を迎え、労働人口が減少していく経済縮小社会に
日本はなりつつある。
とは言え、格差社会である、ということは
高収入の人がいるのも事実なのだ。
だから、牧師によってはそうした高額収入者(他教会員)から支援を受ける、
という選択肢もあって良いようにも思う。

しかし、みんながそういうわけにはいかないだろうし、
赴任教会の献金収入だけでは牧師が生活していくのは困難なケースの只中に
置かれることは十分に起こり得る。

それでも副業を持たないのも選択肢の一つだろうし、
副業もさまざまな形体があるだろう。
そして、牧師の経済を支えるシステムも多様なものであってよいように思う。
というか、これからの時代、
単一のシステムでは支えきれないように思えてならない。

この記事に

敵を愛する道

前回書いた「感情・ニーズ・神の国」の続編。
自分なりに聖書とNVC(非暴力コミュニケーション)を対話させた中で
鹿児島ナザレン教会の入門講座で話したものです。

【くびきは負いやすく、その荷は軽い】
一枚の絵を見ていくところから始めましょう。※
福音書に描かれるクレネ人シモンが主イエスの十字架を負う場面を
絵にしたものですが。この絵を味わいながら、2つの聖書の言葉を
見ていきたいと思います。

わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。マルコ福音書8・34−35

主イエスは「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と
おっしゃっています。
とは言え、聖書を見ていくと文字通り十字架を背負った人物は
主イエスとクレネ人シモンの二人だけです。
もちろん、神さまからのさまざまなミッションを背負ったキリスト者は
数知れないわけですが…。

さて、背負うイメージを主イエスが語るもう一つの言葉を見ていきましょう。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。マタイ福音書11・28−30

くびきとは、牛などの家畜を二頭並べて
荷物を運んだり、畑を耕したりする際に
それぞれの首につけるものです。

主イエスのくびきは負いやすい、と聖書は告げます。

荷物を運ぶにも背負い方で運びやすさが変わります。
くびきも似たところがあって、
上手なくびき職人は首が擦れないように上手にくびきを作って
負いやすいんだそうです。

そしてまた、主イエスと共に背負う荷は軽い、ともここは告げています。

とは言え、わたしたちは人生で多くの荷を背負いやすい者、
重荷を背負って生きている者でしょう。

でも、本当にそこまで背負う必要があるのか。

確かに1年がかりで大きなことをしないといけないこともあるのでしょうが
1年分を背負うのか、今日やろうとすることだけを背負うのか、
今日できもしないことまで背負ってしまって
人生の重荷で苦労しているのかもしれません。

わたしたちは人生の重荷を主イエスの前に降ろすのです。
そして、何を背負うか吟味して、主イエスといっしょにくびきを負い、
軽い荷を負って生きていくのです。

いろいろ重荷があると大変で全部の荷を降ろし、投げ出したくなるときも
あるでしょうけれど、
会社で「あなたはなぁ〜んにも背負わなくていい」と言われ
家庭でも「あなたは何もする必要がない」と言われ続けてたら
これはこれで苦しいのです。

重荷も苦しいけれど、何も背負わないのも苦しいのです。

だから、主イエスと一緒にわたしたちは軽い荷を背負うのです。

上述のイラストが興味深いのは
単に主イエスと共に背負っている、というだけでなくて、
心臓(ハート)が赤く描かれて
これ、誰の心臓か、というと、主イエスの心臓(ハート)にも見えるのですが
よくよく見ると、シモンの心臓(ハート)の位置でもあります。

それがこのイラストの面白さで
主イエスの心が見えていますか? との問いかけにも見えますし、
主イエスの心とわたしの心をひとつにしてますか?との問いかけにも見えます。
主イエスの心臓のビートにわたしたちの心臓のビートを合わせていますか?
神のテンポ、リズムに合わせていますか?との問いかけにも見えます。

いろんな味わいのあるイラストです。

【何を背負うのか?…手段とニーズを分ける】
さきほど、Aさんが自分の体調がすこぶる悪く
自分の自由を大切にしたい中、
ベッドで普段の向きとは違う寝方としているワンちゃんを払いのけると
ワンちゃんはAさんを軽く咬んできたので腹が立った、
という話をしてくださいました。
きっとワンちゃんも好きなように寝る自由が損なわれて
腹が立って飼い主のAさんを咬んだのでしょう。
(実際の場で話された話を一部改変しております。)

お互い“自由を大切にしたかったのです。
“自由”が双方の求め、ニーズだったのです。

これは
「わたしも自由を大事にしたかったし、お前も自由を大事にしたかったんだね」
と共感できることです。

しかし、「払いのける」という手段がワンちゃんには気に入らなかったし、
「咬みつく」という手段がAさんには歓迎できることではありませんでした。

まあ、相手がワンちゃんでないにせよ、
また文字通りでないにせよ、
わたしたちは誰かから咬みつかれることはあります。
そう考えると、自分たちの普段の生活とも重ね合わせられるでしょう。

しかし、わたしは言っておく。
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
マタイ福音書5・44

敵を愛する、と言っても、
「わたしに咬みついてきたアイツ」と思って見ると
正直愛するのは困難です。

どうしても
「わたしに咬みついてきたアイツ」=敵
とレッテルを貼りやすいでしょう。

というよりも、
自由をニーズとしていた、大切にしていたのに
咬みつくという悲劇的な手段を使った相手 と見るなら
見え方が変わるのを感じると思います。
相手を愛しやすくなるでしょう。

このように、ニーズ手段を分ける、ということが大切です。

つまり、ここでは
ニーズ=自由
手段=Aさん「払いのける」/ワンちゃん「咬みつく」
ということです。
手段はマズかったとしても、
Aさんが自由を求めること、ワンちゃんが自由を求めることは
何も悪いことではないし、
敵というレッテルを貼る必要もないことなのです。

わたしたちが主イエスといっしょに背負うときでも
「わたしに咬みついてきたアイツ」を愛する のは重荷でしょう。
わたしの自由と相手の自由を同じくらい大切にすることは
なんだろうと思いながら、できることをすることこそ
主イエスといっしょに背負う…
これが負いやすいくびきであり、軽い荷を背負うことであり、
敵を愛す、と言いますか、
敵というレッテルをはがして、その相手を愛することになります。

悲劇的な手段まで背負う必要はないのです。

【嘆くことの大切さ と 嘆きから喜び祝うことへ】
詩編13編を見ていきます。
いつまで主よ、
  わたしを忘れておられるのか。
いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。2節

ここでは嘆きが祈られています。

自由なり、ニーズが満たされなければ
さめざめと嘆きたいのです。

誰をも責めることもなく、ぜひ嘆いてほしい。

自分なり、他の誰かなりを責めたほうが手っ取り早いんですけどね。

そうやって犯人探しをして犯人を責めるよりも嘆く。

詩編は嘆きの詩編と呼ばれる、嘆いた祈りが多いのです。
だから、わたしたちは同様に嘆きたい。

しかしまた嘆きの詩編で、嘆いたままで終わるのは1つだけなのです。
この詩編13編も最後の6節は
あなたの慈しみに依り頼みます。
わたしの心は御救いに喜び躍り
主に向かって歌います。
「主はわたしに報いてくださった」と。

嘆いた後は、喜び躍るのです。主の報い、救いを信じるゆえに。

犯人探しをして、犯人を責めるよりも
思いっきり嘆いて、スッキリしたら、
全能の神である父を信じて、喜び躍るのです。

もちろん、この13編は嘆く→喜び躍るが1回周期で終わりますけど、
他の詩編だと、嘆く→喜び躍る、嘆く→喜び躍る、嘆く→喜び躍る
と幾たびも続くこともあります。

一度喜び躍れたら、嘆いた原因がきれいさっぱり解消できるわけでもない。
もちろん、いつまでも嘆くだけでもくたびれる。
救いを信じて喜び躍る。
しかしまた嘆く。そしてまた喜び躍る。
そうした繰り返しの中で、嘆きが喜び躍ることへと明確にシフトしていくのです。


もちろん、日々の生活は嘆きたくなるだけのことばかりではないのです。
感謝に沸くこともあります。
それもまた喜び躍りたいのです。

わたしたちは嘆いても、喜び躍ることができます。
それだけでなく、感謝なことも喜び躍ることができます。

【まとめ】
わたしたちは何を背負って生きているでしょうか。
相手の手段にいきり立ち、それをも背負っているかもしれません。

そうでなく、咬みついてきたのはさておき、
自由を求めてたんだよね、あの人は…、と見れるなら
背負い方も変わります。

相手が咬みついてきたことをいつまでも恨む、というよりも
主の前に素直に嘆きたい、嘆きぬきたいのです。

主はわたしたちと一緒にくびきを負って歩んでおられます。
「そうか、咬みつかれて、腹が立ったのだね。自由を大事にしたかったんだものね」と
共感する主イエスがおられます。

この主イエスとくびきをいっしょに負って、軽い荷を負うのです。

「自分の自由も大切しながら、相手の自由も同じくらい大切するって
どうすることですか?イエスさま」
と尋ねながら、主イエスと一緒に歩むのです。

重い荷を負うのは主イエスの心が見えてないことになります。
主イエスのハートのビートに合わせて
主イエスと一緒に軽い荷を負うのです。

時にしっかりと嘆きながら、そしてそのあとは喜び躍って。


※このイラストはMt.Zion Lutheran churchのサイトにあったものを
 掲載しています。

この記事に

感情・ニーズ・神の国

感いう贈り物
今、わたし久保木が学んでいる非暴力コミュニケーション(NVC)を
聖書と対話させつつ、鹿児島ナザレン教会の入門講座(2017年7月19日・20日)で
わたしなりに話したものを掲載します。
NVCを正確に理解しようと努めていますが、至らぬ点があるかもしれませんので
その点はご了承いただかえればと願います。


【感情という贈り物】
家族に対して感情的になってしまった、
という話を最近、身近な人から聞くことが幾度かあったので
感情について話したほうがいいかなぁ〜と思って、話したいと思います。

まず、最初にお伝えしたいことは
感情は神さまからの贈り物ってことです。

「感情的になるな」と言われると、感情を否定的なものと思いたくなるかも
しれないですけど、やっぱり感情は神様からの贈り物だと
わたしは伝えたい。

怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。
日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。
悪魔にすきを与えてはなりません。
新約聖書 エフェソの信徒への手紙4・26−27

と聖書にあるわけで、
怒る、という感情自体は罪じゃないんです。

日が暮れるまで怒ったままでいてはいけない、というほど
怒るに囚われてしまう、振り回されてしまうと
攻撃的になってしまいがちですし、
それこそ悪魔にすきを与えてしまうのでしょう。

でも、感情自体は素晴らしい贈り物で
それに囚われ、振り回されないようにもしたいですが、
また逆に、麻痺、無視してしまうこともあります。

世間で働いていたら、いちいち自分の感情を現していたら
仕事にならないところもあります。
それが習慣化されちゃうと、
仕事じゃないときまで、感情を現せなくなる、
それはそれで、感情の素晴らしさを味わえなくなるかな、と思います。

【話せばわかる? 感情と思考】
生まれたばかりの赤ちゃんにも感情があり、
今まさに死のうとしている人にも感情がある、
それを感じた経験があるんじゃないかと思います。

それに対して、思考、考え方は
赤ちゃんにどの程度あるか、
高齢で死をまさに迎えんとしている人にどの程度あるか、
と考えさせられます。

どんな立派な学者で合った人でも、
いろんな衰えの中、死を目の前にしてまで
難しい思考をしてないことがそれなりにあるでしょう。

「話せばわかる」と言ったりします。
とは言え、お互いの考え方、思考について話しても
お互いの思考の違いばかりが明確になるのかもしれません。
そして、自分の考え方が絶対だと思えば思うほど
自分の考え方と違う人を間違った人としてしまうのかもしれません。
お互い、間違っていると指摘し合うなら、
「話せばわかる」から遠ざかってしまいます。
もちろん、お互いの思考、考え方を尊重できるのなら
それはすばらしいのですが…。

もし「話せばわかる」を感情に焦点を当てるなら
「あのとき、わたしはこんな感情だった、こんな気持ちだった」と
分かち合うほうが、
「あのとき、あなたはそんなふうに感じてたんだ」と
わかりあえるように思うのです。
(ここでの感情は「相手への攻撃性を含んだ感情表現」は含んでいません)

思考、考え方を軽んじるわけでもないのですが、
感情にこのたびはその意味でも焦点を当てていきたいと思います。

【感情のきっかけになるもの…ニーズ】
感情は煙のようなものです。
“火のない所に煙は立たぬ”と言われるように
感情という煙が立っているなら、そこには火があります。

あなたが、今、休息を大事にしたい、休息のニーズがあるとします。
これが火元です。
休息を大事にしたいのに、休めない邪魔が入ると
怒りという感情が煙として出ているということです。

実際、休息をとれているなら、安らいだ感情かもしれません。

いずれにせよ、休息のニーズがある、休息を大事にしているから
生まれて来た感情です。

逆に、今、休息がどうでもいいことでしたら、
休めない邪魔が入っても怒らないでしょう。

怒りにしろ、別の感情にしろ、あなたにとって感情という煙が立ち上るなら
あなたにとって大事なこと、必要なこと、ニーズが
満たされたか、満たされなかったかでその感情が現れている、
ということになります。

【怒るきっかけとなったニーズを推測してもらう】
では、ちょっとわたしのケースを話します。
小学5年の息子に、夜遅いから、もう寝るように勧めたのですが
それを聞かずに、漫画を読み続けていました。
15分後には寝ましたけど、それまでわたしには怒りの感情がありました。

それで、みなさんの手元にあるニーズカードから
わたしが何を大切にしたいから、必要としてたから
怒ったのか、推察していただけますでしょうか。

(「尊敬」「わかってほしい」などのカードが出される)

推察して、カードを出してくださり、ありがとうございます。

「尊敬」…
わたしは「尊敬」のニーズが満たされないから、怒った。

「わかってほしい」…
わたしは「わかってほしい」というニーズが満たされないから、怒った。

ということで、わたしの怒りの源泉、火元を見ることができます。

【わたしのニーズを満たすのは誰か】
さて、考えていきたいのは
息子にわたしの「尊敬」のニーズを全部満たしてもらおう、とすると
どうなるでしょうか。
息子にわたしの「わかってほしい」というニーズを全部満たしてもらおう、とすると
どうなるでしょうか。

おそらく、息子は病気になるか、不良少年になるでしょう。

どんなラブラブカップルでも、お互いのニーズをお互いだけで満たそうとするなら
そこには無理が生じます。

特別な関係だから、家族だから満たしてもらおうとすることはあるでしょうし
それを優先することあるでしょうが
毎度毎度、全部をその人に満たしてもらうことにも限界があることも
難しさがあるのはおわかりだと思います。

わたしの尊敬のニーズは息子以外でも満たされるし、
わたしのわかってほしいニーズは息子以外でも満たされるのです。

あなたがたの天の父は、これらものがみなあなたがたに必要なことを
ご存じである。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
新約聖書 マタイ福音書6・32−33

この聖書箇所が告げるのは、
天の父である神は、わたしたちの必要(ニーズ)を知っているってことです。
そして、神の国と神の義を何よりもまず求めるなら
わたしたちは自分の必要(ニーズ)が満たされるのです。

【神はどのようにニーズを満たすか】
さて、私がお腹がすいていたとしますね。
神さま、食べ物をください、と祈ったら、どうなるか?
空を見上げていたら、天から食べ物が降ってくるか、というと
おそらくそうじゃないのです。

スーパーで食べ物を買ってきたり、
畑の収穫物をいただいたり、
それらを食べるときに
神さまからいただいた食べ物として
キリスト者は感謝の祈りをささげます。

神さまはわたしたちのニーズを知っておられるし、
そのニーズを満たす方ではあるけれど、
そのニーズは人やモノなどを通して満たされていくのです。

で、聖書は何よりもまず神の国と神の義を求めなさい、と告げます。

わたしたちはどうしても人の国と人の義を求める、と言いますか
自分の都合の良い世界になってほしい、
自分の都合の良い正義を求めてしまいがちです。

それで、「ひもことば」に囚われてしまうかもしれません。

「ひもことば」とは
ひ…人
も…物
こ…行動
と…時と
ば…場所
のことです。※

自分の都合で
あの人がこうしてくれたら、わたしのニーズは満たされる
あの物があれば、わたしのニーズは満たされる
あの行動さえしてもらえれば、わたしのニーズは満たされる
このタイミングでこそ、わたしのニーズは満たされる、
あの場所でこそ、わたしのニーズは満たされる、
と考えやすいのです。

で、その通りになるかというと、
そうもならないので、満たされない思いになるわけです。

ひもことば…人・物・行動・時と場所 に縛られちゃってるかもしれません。

わたしが息子にこそ、自分のニーズを満たしてもらおう、とすると
ある意味、息子に暴力を振るっているような状況とも言えるでしょう。

何よりもまず、神の国と神の義を求める、とは
神のやり方に委ねる、ということですし、
自分で決めてしまいやすい「ひもことば」から自由になる、
ということでもあります。

神さまは多様なやり方で、わたしたちのニーズを満たしてくださるのです。

【まとめ…神の招き】
わたしたちが感情を表しているとき
何かしら、大切にしたいニーズがあるのです。

で、注意したいのは、そのニーズを特定の誰かに満たしてもらおうとしながら
満たしてもらえない状態になっているかもしれません。

神の国と神の義を何よりもまず求めていく中で
必要(ニーズ)は満たされていきます。

「ひもことば」に囚われることから自由になりたいですし、
主イエスは、「ほ〜ら、天の父があなたたちの必要を満たすのだから、
安心して、神の国と神の義を何よりもまず求めなさい」と
招いておられます。

私たちはその招きに応えていきたいし、
その中で実際に必要(ニーズ)が満たされていくのを体験していくことに
なるのです。






※「ひもことば」はそもそも三村修牧師にニーズでないものとして
 PLATOを教えていただいたことがきっかけなのですが
 P…person
 L…location
 A…action
 T…time
 O…object
 これをどうやってもすぐさま思い出すことが、英語が苦手なわたし久保木には
 できないので日本語で思い出しやすいものを編み直そうとして、考えたものです。





この記事に

そもそも6月23日(金)にアップするつもりでしたが、
沖縄慰霊の日に合わせて、
沖縄基地問題を描いた映画『戦場(いくさば)ぬ止(とぅどぅ)み』の鹿児島上映会の
映写責任があったので、この日の昼と夜の2回の上映会をやっている間に
アップし損ねてしまい、
本日25日(日)にアップしようとしたら、データが消えておりました(驚き&嘆き)!

気を取り直して、書き直します。
というか、沖縄の課題を目の当りにしたら、書き方が変わるので
書き貯めてたのは消えて正解だったのかもです。

姜尚中さんが昨年2016年のアエラ5月16日号に
本土では、「日米安保があったから平和な時代があったんだ」
「いや違う、平和憲法があったから平和が続いたんだ」という
議論がありました。
そこでは完全に「沖縄」が抜け落ちている。
と言っていますが、その通りだと思います。

第二次世界大戦中の沖縄地上戦で県民の四分の一が死んでしまうという犠牲、
本土変換時には沖縄50%、本土50%だった米軍基地割合は
現在沖縄74%、本土26%と、沖縄へのしわ寄せ。

ベトナム戦争時は、沖縄から出兵し、攻撃に行く、
アメリカの軍事拠点にさせられた沖縄。

9・11の直後で、沖縄にテロの危険があるとき
関東のとある高校が毎年、沖縄に修学旅行に行っていたのを
とりやめたとき、ある沖縄の牧師は
「テロの危険があるから、関東から修学旅行に来ないのはわかります。
しかし、沖縄にいる高校生の安全はどうなのかを高校生たちで
話し合ってください」
という主旨の発言をされた、という逸話は忘れられない。

沖縄の米軍基地は、世界から見て
とりわけ東アジアにおいて軍事的脅威なのだし、
テロも起こりやすいのかもしれない。
しかし本土にとってその危険は対岸の火事になっている。

第二次大戦後の平和は
九条が守った、とも言えるかもしれないが、
日米安保による脅威とそのための沖縄の犠牲があったことも否めない。

テロと向き合う『神の物語』第6幕 新天新地
また、わたしは、天と地と地の下にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。
「玉座に座っておられる方と小羊とに、
 賛美、誉れ、栄光、そして権力が、
 世々限りなくありますように。」
四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。
ヨハネ黙示録5・13−14

感動的な舞台を観たあと、素晴らしい演奏を聴いたあと、
わたしたちはたたえずにいられなくなる。
いい加減な舞台、下手な演奏のあと、
上司の顔を立てるために仕方なく拍手するのとは全く違う。

この世界の最後は、玉座に座っておられる方である父なる神と
小羊なる主イエス・キリストをたたえずにはいられなくなる。

しかも、そこではだれも排除されていない。
すべての被造物、神に造られた者がたたえずにいられなくなる。

第6幕に至るまでは、
神に造られた者どうしでも争いがあった。憎しみがあった。
損失があり、悲しみがあった。

それらすべての損失を埋め合わせて余りある世界が完成する。
あのときの苦しみに囚われる必要もない完成した世界がやってくる。

そのとき、争いもなく、憎しみもない。
すべてを導く父なる神と主イエス・キリストを
たたえずにいられなくなる。

テロと向き合う『神の物語』第5幕 教会

僕らは、この第5幕を生きている。
先に第6幕を観たのは、この6幕に向かう物語を生きているからだ。
第1幕〜4幕の流れを引き継ぎ、
5幕の教会の物語の中を僕らは第6幕に向かって生きている。

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。
そのことによって、わたしたちは愛を知りました。
だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
世の富を持ちながら、兄弟が必要な物を事欠くのを見て
同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内に
とどまるでしょう。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。
なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。
ヨハネの手紙一3・16−17、4・18

テロとは英語のterror=恐れ から来ている。
経済の格差に苦しみ、追い込まれ、
そんな中で、民族の絆だったり、宗教の極端な解釈によって連帯が生まれ、
人々を恐怖に陥れる暴力が多発している。

本当は、殺すよりも生産的に何かを生み出し、社会貢献し、
収入を得て、家族のもとに帰れたなら、どんなに素晴らしいことだろう。

しかし、イスラム国の温床となったことを例にするなら
イラク戦争で、家族が殺され、
仕事もない状態、
アメリカによる傀儡政権下で、政治的な腐敗が進行しつつ
一部の人は甘い汁を吸いつつ、
自分たちには還元されない。
そんな中で、宗教的に極端な教えが吹き込まれるなら
テロリストも生まれてきてしまう。

主イエスの山上の説教にある非暴力に魅かれたガンジーだが
キリスト者を見て、キリスト者になるのを止めたそうだ。

問われるのは、主イエスに愛されたことを知っているにもかかわらず
世界にいる同胞が事欠くのを見て分かち合わない現実。
そんなキリスト者たちを見て、
ムスリムに愛が伝わるだろうか。

先進国はテロにも脅えているだろうが
所有欲が満たされないことにも脅え続けている。
神の完全な愛が恐れを締め出すのに。
ぼくだって、脅え、怖れを持った一人だ。

でも、教会は真に教会になるチャレンジを受けている。

主イエスの愛を知った者として、
必要に事欠き、テロリストにならざるを得ない状況の人々に
見返りを求めずに必要を満たそうとすることを。

でも、自分の所有を失うことをぼくらは恐れてしまう。
だから、ぼくらは共に集い、神の全き愛を味わい尽くすように招かれている。
それが教会。
その教会の物語を生きる。

全き愛を味わい続けるなら、そこに恐れはない。
平安がある。平和がある。
そこに分かち合いがある。
相手の必要を自分の必要と同じくらい満たそうとする。
(それはイスラム国の状況に生きる人たちに対して、
はたまた本土にいる者たちにとって沖縄に生きる人たちに対しても)

ゴールは、共にたたえずにいられない世界(第6幕)。

そこに向かって教会は恐れを排して、全き愛を味わい生きていく。

川向さんがトークイベントに合わせて
さらにブログ記事を更新してくださった。

この記事に

2017年6月26日(月)の大阪でのトークイベントでの対論者の一人
川向さんがトークイベントに向けてかな〜りガチなブログを
書いておられる。

『テロ(戦争)と聖書と神』のための基本理解(1

『テロ(戦争)と聖書と神』のための基本理解(2)


ヒトラー暗殺計画に関わったボンヘッファーをどう理解するかは
わたし自身としては
ハワーワスのキリスト教倫理からの影響が大きいのですが
その辺もイベントの中で話せればいいかもと思っています。

川向さんが「テロ(戦争)」と表記しているのも
とても興味深い。
9・11より前はテロとの対決は戦争ではなかった。
刑事事件への対応だった。
9・11以降、テロとの戦争になったのだが、
テロとの戦争が終結できるのか、その辺は今回の本文にも記載しています。

あと、川向さんが、
(3)で「聖書(聖典)」について書かれる予定のようだが、
息子さんは大学でイスラム文化を学んでおられるようで、
川向さん本人もコーランを読んでおられるようなので
その辺の造詣に関して、どのように発信されるのか
非常に興味深く思っています。

川向さんは
昨今のテロも含め、イスラム圏との文明の衝突のような現実の中での
研究心であって(だと思う)
きちんとキリスト教に軸足を置いておられる方であることは
誤解がないように、一応、書いておきます。

トークイベントで、わたしは
国際情勢の分析は、佐藤優、伊勢崎賢治の影響があり
神学的には、S・ハワーワス、
あとは非暴力コミュニケーションから得ていることを
自分なりにまとめて
テロと聖書と神 というテーマで語るような感じになるかなぁと。

さて、以下、本文です。

テロと向き合う『神の物語』 第3幕 イスラエル
ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことはなく、それぞれが必要な分を集めた。出エジプト1618
 
支配しようとしたり、出し抜いたりしている人類に対し、
神は弱小民族イスラエルを通して救いの予告編を見せようとする。
 
モーセによってエジプトの奴隷生活から脱出したイスラエルの民は、
荒野での生活をスタートした。
荒野にある食べ物を多く集める人もいれば、少なく集める人もいた。
しかし、この荒野の生活では、みんなの必要が満たされたのだ。
 
現代でも多く稼ぐ人もいれば、少なく稼ぐ者もいる。
しかしここから先はイスラエルの民の荒野とは違う。

現代の地球上の貧しい人36億人の資産合計と
世界のお金持ちのトップ68名の合計資産が同額なほどの格差がある。

貧困のために飢餓で死んでいく人たちも多くいて、
みんなの必要が満たされているとはとても言い難い。

ざっくりとした言い方にはなるが、
中東の石油をはじめ利権を手にしていく金持ちと
貧困に苦しむ中東の人々がいる。
貧しさ中にある中東の人たちの中には
イスラムの教えの極端な解釈によって不満を爆発させ、
テロに向かう。
問題はテロリストの存在?お金持ちが分配しないこと?
あなたはどう思うだろう? 
 
みんなの必要が満たされた荒れ野の生活にどうやったら向かえるのだろう。
モーセ率いるイスラエルの民の姿から救いの予告編を聖書は語りつつ、
貧富の差のあるピラミッド社会から脱出するように神は僕らを招いている。
 
テロと向き合う神の物語 第4幕 イエス
主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。
それは、主の貧しさによって、
あなたがたが豊かになるためだったのです。Ⅱコリント89
 
これまでの振り返りにもなるが、
アダムとエバは神のようになろうとした。
でも、結果は恥を隠し、責任転嫁し合い、
どっちが上か下かのパワーゲームに迷い込んだ

人類は今も似たような物語を生きて、
貧富の格差の中で、金持ちはテロにおびえている。
テロとの戦争で9・11後、
アフガンを攻撃したものの15年経っても未だにテロリストを撲滅できず、
アメリカ史上最長の戦争は継続したままだ。
米軍はアフガンに駐留し続け、撤退できないが、
アメリカの経済力は落ちる一方。
テロは怖いが押さえきれていない。
 
主イエスは金持ちに生まれることできたが、
貧しい中に生まれた。

貧しい家庭で生まれ育ち、貧しく生き、貧しく死んでいった。

ちらが上か下かのパワーゲームには乗らず、
自分を捕らえ、殺そうとする人たちに対して
12軍団以上の天使たちを呼んで戦争もできただろうがそうはしなかった。
 
しかも世間が箸にも棒にも掛からぬ人だと言いそうな人たちを弟子にした。熱心党というテロリスト集団出身と思しき者も弟子にした。
世間は無駄な人と呼ぼうが、
そもそも無駄なんてなく、無駄な人はいないから。
彼らと力を合わせて生きることを望んだ。
 
神がその気になれば、
新ローマ帝国を樹立して、主イエスが皇帝になり、
軍事的な王になることもできただろう。
しかし、神はその道を選ばなかった。
むしろ主イエスは貧しくなった。
 
とは言え、僕らが主イエスのように貧しく歩んでも、
無駄に死んだように思えることもあるだろう。

しかし無駄に死ぬなんて存在しない。
そもそも神が造った世界に無駄はなく、
復活に向かうことを主イエスを身をもって示したのだ。

戦争やテロでは、誰かを無駄な人として殺してしまう。
しかし、イエスは一人ひとりを大切な存在として愛した。
誰かを殺そうとするよりも
無駄な人はおらず
一人ひとりを大切な存在として見つめられることはどれだけ豊かだろう。

十字架と復活を通してピラミッド社会を抜け出す道を造り、
「わたしについて来なさい」と僕らを真の豊かさに招いている。
 
変革は辺境の地から、草の根から起こる。
世界の中心地ローマではなく、属国の僻地イスラエルから。
強さからでなく弱さから。

この記事に

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