久保木牧師のきらきら探訪〜ゆるりと生きる〜

オカリナ奏者で鹿児島在住の牧師が描くきらきらした日常。ぼちぼち更新していきます。
オカリナ奏者として幾度もコンサートをさせていただいている。

本番前は独特の緊張があるし、
あのフレーズどうしても苦手だな、と思ったり、
ケアレスミスをしやすい箇所があったりする。

「練習は裏切らない」という言葉が個人的には好きだし、
事前の練習がしっかりできるに越したことはない。
本番でパニックになっても、練習がしっかりできていると
頭はパニックでも手は勝手に動く、という体験は幾度もしている。

しかし、いつもがいつも練習がばっちりというわけでもない。

先日は、テレビで、アーモンドチョコを食べると
頭がよくなる(正しくは、その人の能力の目いっぱいまでいきやすいのであって
その人の壁を超えるということではないらしい)というをの観て
実際食べてみると、感覚が冴えて、ミスしにくようにも感じたこともある。

今日のコンサートは、
前日にもコンサートがあったことでも、集中力を使い切り、
そのさらに前日は執筆原稿の締切日でもあって
精魂尽き果てる思いで書いたので、こちらでも疲労もたまった状態。
こういうときに追い込んで練習してしまうと、本番の集中力が心配という状況でした。

こういう場合、本番前に
下手に必死に練習しても、練習する割に、空回りし、
ミスタッチばかりを繰り返し、失敗するイメージが強化されてしまうことがある。

不安を感じている自分をしばし味わう。
何を大事にしているから、不安なんだろう?と思いめぐらすと
良い演奏をして聴衆に「受け入れられたい」「認められたい」というニーズが
あることに気づく。

「受け入れられたい」「認められたい」
         ↓
練習不足だから不安
         ↓
緊張感が高まり、体がこわばりだす
         ↓
ミスをしやすい状態になるのに
さらにどうにかしないとと焦り、さらに体がこわばりだす

という自分の状態を確認することができた。

ここからは今わたしが学んでいる非暴力コミュニケーションの話になるが
ニーズは他の手段や他の人からでもある程度埋められる、ということが言われる。

つまり、わたしのニーズである
「受け入れられたい」「認められたい」は
良い演奏や聴衆によらなくても満たされる。ということなのだ。

と言っても、本番前に周囲にいる人に
「受け入れて!」「認めて!」とすがりついても事はややこしくなる。

あとは神の前で静まるのみ。

「神さま、あなたはわたしがどれだけ失敗しても認めてくださるし、
受け入れてくださいますね」
とゆっくりかみしめながら語り、
父なる神にあたたかく抱擁されていることを思いめぐらし
実感していく。

「神さま、あなたはわたしがどれだけ失敗しても認めてくださるし、
受け入れてくださいますね」
とゆっくり語り、実感していくプロセスを5回繰り返す中で
不安は少しずつ消えていき、体のこわばりもほぐれていった。

さあ、本番。失敗したっていい。
ただ、美しさを、感動を表現していこう!と思えると
ワンフレーズ、ワンフレーズに余裕が生まれ、
ミスから自由になっていく。

自分でも集中力を途切れさせることなく、最大限の力が発揮でき、
充実した疲れをもって演奏を終えることができた。

本番を繰り返す中で、本番前の緊張感や不安との自分なりの向き合い方が
さらに見えてきている気がしている。


ちなみに、本番前の猛練習が悪い、というつもりはない。
つまり、今回の私のケースで言うなら、
猛練習の結果、
これで聴衆に「受け入れられる」「認められる」という実感が得られたなら、
不安や緊張から自由になったかもしれない。
それもひとつの道だし、選択肢。

あとは、自分のコンディションと相談、ということなんだと思う。

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2018年5月22日に非暴力コミュニケーションのトレーナーで
合気道も実践しておられるディビッド・ワインストック氏のワークショップに参加した。

ワインストック氏のワークショップに参加しながら
彼が伝える五要素(地・水・火・風・空)のシェイプ・シフティングを
キリスト教的に消化して、祈り、思い巡らしていくと
大変豊かなものになるように思えたので、
以下、簡単にメモを残しておきたい。

主に信頼し、善を行え。
この地に住み着き、信仰を糧とせよ。旧約 詩編37・2

いろんなことに心奪われて、地に足がついていないことがある。
神からの天からの恵みも地があってこその収穫であったりもする。
今の自分にできることを地に足をつけて歩む。
神が大地を通して与えてくださる恵みへの感謝。
それらを祈り、思い巡らす。

最も大切なこととしてわたしがあなたたちに伝えたのは
私も受けたものです。新約 Ⅰコリント15・3

キリスト者として大きな流れの川の中にいる。
背にした川上には
天地創造から始まって、旧約のストーリー、新約のストーリーがあり、
教会の歴史があり、今のわたしまで信仰のバトンが渡されている。
川下に向かって未来があり、その先には新天新地、すべてが完成し、
すべてがプラスに変わった世界がある。

目の前の出来事に失望し、落胆しやすいが、
背にはどれだけ多くの神の物語があっただろうか。
身近のところで、親しくしつつも先に召天した信仰の先輩たちの姿があり、
今も横には多くの信仰の仲間がいる。

直近の目先の未来に失望することはあっても
川下の行きつく先には神が完成させる世界がある。

問題を目の前にしながらも、
どの聖書のストーリーを自分のストーリーとして受け止め、力を得るだろう?
どの聖書の言葉をしっかりと握るだろう?
主イエスが共にいること、
存命か否かに関わらず、たくさんの仲間が周囲にいる。

困惑の中にいるとそれらは見えなくなりやすいが
改めて、大きな川の流れの中にあって、
聖書のストーリーを、聖書の言葉をしっかりと握りたい。
主イエスと信仰の友たちが周囲にいることに力づけられ、
未来の完成から目を離さないでいたい。
それらを祈り、思い巡らす。

炎のような舌が分かれ分かれに現れ、
一人一人の上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、
霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
新約 使徒言行録2・3−4

川の流れの中で、神の物語からの力を得たなら
炎のような舌(言葉)をもって語りだすことになる。

言葉に力がないなら、川の流れの中で力を得ることが不十分なのかもしれない。

心を燃やし、言葉を語る。生き方をもって表現する。

それらを祈り、思い巡らす。

イエスはその話している言葉を聞き流して、
会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。
新約 マルコ福音書6・36(口語訳)

キリスト者は時にまじめになんでも受け止めすぎるかもしれない。
非難や侮辱までも。
しかし、イエスは聞き流したことをこの個所は告げる。

相手の話に耳を傾け、謙遜に学ぶ必要もあるが
不用意に何でも飲み込み、受け入れるものではない。

火のように信仰を表現すれば、
反発として非難や侮辱があってもおかしくはない。

馬耳東風。
右から左に聞き流す。
あなたを非難する言葉、侮辱する言葉は
風が吹き抜けるように、もう遠くへ行ってしまったことを
幾度も味わう。

それをイメージしながら、受け流す練習をする。

力を捨てよ、知れ わたしは神。旧約 詩編46・11

地では大地を意識し、水では創造から新創造まで意識し
火では信仰の表現を意識し、風では受け流すことを意識した。
「空」では自分が積極的に動くことをやめ、
立ち止まろう。

何もせず、ただ神の前にいる。

それもまた祈りである。

キリスト者の中には
この五要素(地・水・火・風・空)を仏教的なものとして忌避する人もあるだろう。
それはそれで尊重したい。
私自身は、五要素(地・水・火・風・空)の仏教的な意味は基本的に知らないし、
盛り込むつもりもない(知りもしないのにわかった風なことも書けないし…)。
キリスト教的な意味合いのみで十分豊かなものがあると思い、
シェアさせていただいた。

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信仰は夜、成長するのです。(英隆一朗著『道しるべ』70頁、新世社)

【アクティブ・ホープについて】
最近、ジョアンナ・メイシー著『アクティブ・ホープ』を
改めて読み直した。
非暴力コミュニケーションを学んでいる人たちの中に、
この『アクティブ・ホープ』を推している人たちがそれなりにいる。
この本では、絶望のワークショップとかつながりを取り戻すワークショップと
呼ばれたワークショップの実践法が書かれている。
実際のワークショップでは
絶望をコミュニティでわかちあうことが実践されるようだ。

非暴力コミュニケーションの本の監訳者である安納献さんは
「怒りや嘆きや絶望の奥にはものすごくたくさんのエネルギーが埋まっているということ。そして、その嘆きを静かに受け止めてくれるコミュニティーがあると、そのエネルギーを前に進むエネルギーに変わるということ。」
と語っているけれど、
我々は、怒りや嘆きや絶望の奥にあるものすごくたくさんのエネルギーを
どれだけ前に進むエネルギーにしているのだろうと思わされている。

【アクティブ・ホープはすでに周りにあるのでは】
と書くと、『アクティブ・ホープ』は斬新すぎて
ともすると、何か危険なものでもあるかのように
思う人もいるかもしれないが
個人的には、何かとりわけ新しいことが書いてある、というよりも
べてるの家であるなら「安心して絶望できる人生」
脳性まひを持ちつつ小児科医としてご活躍の熊谷晋一郎さんの言葉なら
「希望は絶望をわかちあうこと」
といった方向性のことかなと理解している。
べてるの家なら、仲間たちと安心して絶望できることが
前へ進む推進力となっているわけだから。

ただ、『アクティブ・ホープ』という本のよくできているなぁと感心するのは
「安心して絶望できる人生」「希望は絶望をわかちあうこと」という道に
向かうための詳細なステップが
グループワークで行うと効果抜群のような設問を含め、
適切に描かれているように思う。

【キリスト教におけるアクティブ・ホープとは?】
つらつらと書いてしまったのだが、改めてこのような絶望について、
キリスト教ではどのように述べられてきたのだろう?と思いを巡らしていくときに
十字架の聖ヨハネの「暗夜」について思い出した。

カトリックの聖人にはうといわたしだが、冒頭の英隆一郎神父の文献で
十字架の聖ヨハネを知ることになった。
具体的な書籍については今後、読んでいきたいが、ネット上で知り得たことを
多少紹介してみたい。

「夜」とは神へと向かう人間の霊的歩み、その過程を指します。神との一致への道全体が「夜」と呼ばれています。また「夜」とは、神との一致、すなわち聖性へとたどり着くために、人間が通らなければならない浄化と剥奪をも指します。なぜなら、神との一致を妨げるのは、富への執着と欲望であるからです。


特に「絶望」とか「アクティブ・ホープ」という言葉が使われているわけでもない。
しかし、ここで描かれる「夜」とは浄化や剥奪をもたらすものであるなら、
ある意味の断念、絶望を含んでいると言えるだろう。
富への執着や欲望を手離さなければならないのだから。

しかし、それはまた神との一致、聖性へと向かうという意味で
その夜は、能動的な希望、アクティブ・ホープであると言える。
また聖人がこのような文献を残し、分かち合い、
カルメル会という修道会の霊性が改革され、継続されていること自体が
絶望を分かち合いながら前へと推進していくコミュニティの実際を
表しているように思う。

信仰をもって神に近づけば近づくほど、近くなっているにも関わらず、目には闇しか感じられなくなります。これが、この浄化のメカニズムです。神に近づいているにもかかわらず、理性には、その逆の印象しか感じられないというパラドックスが起こるわけです。


ここで描写される夜は、
神に近づけば近づくほど、闇しか感じられなくなることである。
神に近づくなら光の真っただ中に入るイメージを持ちやすいかもしれない。
しかし、深い絶望の入っていくことが、実は神に近づいている道だと告げる。

主イエスの言葉で言うなら
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という
十字架上の絶望の叫びは、復活の道への始まりでもあったのだ。

また、この聖書箇所はさまざまな解釈がなされるし、
主イエスが絶望したはずがない、という見解もある。
むしろ、わたしはその多様な解釈をそれぞれ大切にしたいと思うのだが、
主イエスは絶望もしたのだと思う。
そして、絶望を正直にわかちあったのだ。
希望は絶望をわかちあうことだから。
十字架上で安心して絶望したんじゃないだろうか。

目には闇しか見えなくても、父なる神に近づいていたようにも思う。
十字架体験とは、父なる神と最も隔絶した体験でもあると共に
かなり父なる神に近づいた闇の体験でもあるように思うのだ。

【マザー・テレサの暗夜】
先ほど引用した片山はるひさんの連載文献は
十字架の聖ヨハネから始まってリジューの聖テレーズ、そしてマザー・テレサへと
話が展開していく。
近年、マザー・テレサが死に至るまでの48年間、「暗夜」を通り続けたことが
報道されると共に、書籍化された。
片山はるひさんは
「暗夜」というマザーテレサの霊性の真の深みは、遡って16世紀のカルメル会士、十字架の聖ヨハネの教えに照らしてでなければ、本当に理解することができない
と語っている。
マザー・テレサにも「暗夜」という絶望があった。
しかし単に絶望しただけの人なら、あれだけの働きができるわけがない。
マザー・テレサも死に至るまでの48年間「暗夜」という絶望の奥にあるエネルギーを
前に向かう推進力にした人なのだと思う。


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牧師の副業を考える

先日、若い牧師から「牧師の副業をどう考えますか?」と質問を受けた。

その際、あれこれ答えたのだが、改めて自分の考えをまとめてみたい。

時給数百円のアルバイトを続けるのはふさわしい?
個人的には、時給数百円のバイトを長期ですることは
(いろんな諸事情もあるので一概に否定もできないだろうが)
避けるに越したことはないと思っている。

例えば、時給800円のバイトを5時間して、4000円稼いだとして、
夕食の準備がおっくうなので、外食にして、
自分へのささやかごほうびとしてコンビニでデザートも買って
1000円を使っちゃうと
バイトに行く時間も足せば5時間半ほどで4000円の収入のはずが
実質は3000円になる。
拘束時間5.5時間で換算すれば、時給545円程度ということだ。

牧師の仕事そのものにそれなりにストレスがある。
なお、長時間の数百円のバイトで稼げたようで疲れもたまり、
さらにストレスが増すことで支出が増えて
さほど実入りがない、ということが起こり得る。

牧師の仕事はそれなりに時間を必要とする。
説教の準備も心身ともにリラックスできているに越したことはない。
副業を持つなら、時給換算して数千円以上になる専門性を
早いうちに投資して
身に着けるほうが良いように思うのだ。

また歳を重ねるほどに副業の専門性が深まっていく方が望ましいように思う。
なぜなら、加齢と共に体力や回復力は衰えるのだ。
時給数百円の仕事をいつまでも若い頃と同じように続けつつ
牧師をすることには無理が出てくるように思う。

副業が無理な牧師もいるだろう
牧師をしつつ副業を持つことが器用にこなせる人もいるだろうが、
これにはある程度のバランス感覚が必要なように思う。
副業をしようとしたら、本体の牧師の働きがままならない人もいると思う。

また雇われた場合に日曜出勤だってあり得るし、
葬儀の司式の必要があっても休めないこともあるだろう。

となると、自営業なり、上司にある程度の理解の得られる職場であったり
それなりの人間関係力がないと
牧師を続けながら副業を持つことが困難なケースを往々にあり得るのだ。

教会の献金収入が少なく、牧師が副業をもたざるを得ないとしても
それを全員に強いるには無理があり、
副業を持つことが厳しい牧師の経済が守られる環境もまた求められると思う。

キリスト教界内で花開かせていく専門性も必要なのでは
ここからは先の質問者には応えていないことなのだが
副業はセキュラーの世界だけでもないようにも思っている。

例えば、キリスト教の結婚カウンセリングに特化して
超教派的に働ける牧師がいてもいいと思う。

キリスト教的なビジネス・コーチングができる牧師が
超教派的に働ける環境もあってもいい。

他にも、家族セミナー、依存症へのアプローチ、
精神科と教会をつなぐ働き人など。

そして、こうした働きをボランティアとして捉えるのでなく、
有償でプロを育てていく土壌が必要なように思う。

遣わされた教会の経済力ゆえに副業をせざるを得ないにしても、
セキュラーで働く専門性を磨くことに力を注ぐ、というベクトルだけでなく、
地方の一教会だけではニーズが小さいことも
超教派となればそれなりに大きなニーズになることに
アプローチできる専門性を育てていくことも必要なのではないだろうか。

国外宣教師を支えるように、経済的に力の弱い教会に遣わされた牧師を
支えるシステムがあってもいいのでは
国内でもKGKの主事はやっているみたいだが(違っていたらすみません)
国外に派遣された宣教師が帰国して
支援者に活動報告をし、献金を募っている。
デプテーションって呼ばれたりしているようだ。

ちなみに、わたしが所属している日本ナザレン教団で
被援助教会の牧師が、ナザレン教団から援助を受けることがあっても
(正確には、派遣された教会に援助しているのだが)
個人に献金支援を募ることはない。
(いろいろややこしいことが起こることが想定されているので
現状のようになっているのだろう。)

ふるさと納税みたいなものかもしれないが、
自分の所属していない教会に献金し、支援し、
また支援を受けたら、活動報告をする、というような関係性があっても良いかと思う。

デプテーションも実際に足を運ぶのが一番だろうが
それだけでなく、
今ならスカイプを使って支援者対象に活動報告会をしたり、
聖書研究会を定期的に開催する、というのは
住む場所を問わず行うことができる。
クラウドファンディングのリターンでもないが、
支援者は献金をし、リターンとしてウェブ聖書研究会に出席できるとか
自分の悩みや祈りの課題をしばし話して祈り続けてもらえるとか
そういう関係性を築くことができれば
赴任教会内の経済としては牧師給が充分に出ないとしても
赴任教会外の活動という意味では副業であるかもしれないけれど
牧師としての専門性を生かしたまま収入は確保できる、
ということもあり得るのでは、と思う。

牧師以外に専門性が持てる人もいるだろうが、
あくまで牧師だけしかできない人の特性を生かすことも可能なように思う。

もちろん、うちの教会員に手を出すな、という牧師がいるのは
想像に難くない。
いろんな混乱や問題も起こるかもしれない。

しかし、日本の現状として
一教会、一牧師であるゆえ、
年齢も価値観も大きく違った牧師しかいないこともある。
自分の所属教会への不満を募らせるような牧師との付き合いは
いかがかと思うが、
比較的、年齢や価値観の近い牧師とネットを通じて
聖書を学べたり、祈ってもらえたりするような関係性を
著しく否定するのもどうなのかなぁ〜と。

そういうことが教会の硬直化を生んでる要素もあるんじゃないかと
思っている。

一億総中流後の格差社会・経済縮小の日本社会の中で
一億総中流で、キリスト者がそれなりに献金できた時代ではなくなり、
格差が広がる格差社会になるだけでなく
団塊の世代が定年を迎え、労働人口が減少していく経済縮小社会に
日本はなりつつある。
とは言え、格差社会である、ということは
高収入の人がいるのも事実なのだ。
だから、牧師によってはそうした高額収入者(他教会員)から支援を受ける、
という選択肢もあって良いようにも思う。

しかし、みんながそういうわけにはいかないだろうし、
赴任教会の献金収入だけでは牧師が生活していくのは困難なケースの只中に
置かれることは十分に起こり得る。

それでも副業を持たないのも選択肢の一つだろうし、
副業もさまざまな形体があるだろう。
そして、牧師の経済を支えるシステムも多様なものであってよいように思う。
というか、これからの時代、
単一のシステムでは支えきれないように思えてならない。

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敵を愛する道

前回書いた「感情・ニーズ・神の国」の続編。
自分なりに聖書とNVC(非暴力コミュニケーション)を対話させた中で
鹿児島ナザレン教会の入門講座で話したものです。

【くびきは負いやすく、その荷は軽い】
一枚の絵を見ていくところから始めましょう。※
福音書に描かれるクレネ人シモンが主イエスの十字架を負う場面を
絵にしたものですが。この絵を味わいながら、2つの聖書の言葉を
見ていきたいと思います。

わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。マルコ福音書8・34−35

主イエスは「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と
おっしゃっています。
とは言え、聖書を見ていくと文字通り十字架を背負った人物は
主イエスとクレネ人シモンの二人だけです。
もちろん、神さまからのさまざまなミッションを背負ったキリスト者は
数知れないわけですが…。

さて、背負うイメージを主イエスが語るもう一つの言葉を見ていきましょう。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。マタイ福音書11・28−30

くびきとは、牛などの家畜を二頭並べて
荷物を運んだり、畑を耕したりする際に
それぞれの首につけるものです。

主イエスのくびきは負いやすい、と聖書は告げます。

荷物を運ぶにも背負い方で運びやすさが変わります。
くびきも似たところがあって、
上手なくびき職人は首が擦れないように上手にくびきを作って
負いやすいんだそうです。

そしてまた、主イエスと共に背負う荷は軽い、ともここは告げています。

とは言え、わたしたちは人生で多くの荷を背負いやすい者、
重荷を背負って生きている者でしょう。

でも、本当にそこまで背負う必要があるのか。

確かに1年がかりで大きなことをしないといけないこともあるのでしょうが
1年分を背負うのか、今日やろうとすることだけを背負うのか、
今日できもしないことまで背負ってしまって
人生の重荷で苦労しているのかもしれません。

わたしたちは人生の重荷を主イエスの前に降ろすのです。
そして、何を背負うか吟味して、主イエスといっしょにくびきを負い、
軽い荷を負って生きていくのです。

いろいろ重荷があると大変で全部の荷を降ろし、投げ出したくなるときも
あるでしょうけれど、
会社で「あなたはなぁ〜んにも背負わなくていい」と言われ
家庭でも「あなたは何もする必要がない」と言われ続けてたら
これはこれで苦しいのです。

重荷も苦しいけれど、何も背負わないのも苦しいのです。

だから、主イエスと一緒にわたしたちは軽い荷を背負うのです。

上述のイラストが興味深いのは
単に主イエスと共に背負っている、というだけでなくて、
心臓(ハート)が赤く描かれて
これ、誰の心臓か、というと、主イエスの心臓(ハート)にも見えるのですが
よくよく見ると、シモンの心臓(ハート)の位置でもあります。

それがこのイラストの面白さで
主イエスの心が見えていますか? との問いかけにも見えますし、
主イエスの心とわたしの心をひとつにしてますか?との問いかけにも見えます。
主イエスの心臓のビートにわたしたちの心臓のビートを合わせていますか?
神のテンポ、リズムに合わせていますか?との問いかけにも見えます。

いろんな味わいのあるイラストです。

【何を背負うのか?…手段とニーズを分ける】
さきほど、Aさんが自分の体調がすこぶる悪く
自分の自由を大切にしたい中、
ベッドで普段の向きとは違う寝方としているワンちゃんを払いのけると
ワンちゃんはAさんを軽く咬んできたので腹が立った、
という話をしてくださいました。
きっとワンちゃんも好きなように寝る自由が損なわれて
腹が立って飼い主のAさんを咬んだのでしょう。
(実際の場で話された話を一部改変しております。)

お互い“自由を大切にしたかったのです。
“自由”が双方の求め、ニーズだったのです。

これは
「わたしも自由を大事にしたかったし、お前も自由を大事にしたかったんだね」
と共感できることです。

しかし、「払いのける」という手段がワンちゃんには気に入らなかったし、
「咬みつく」という手段がAさんには歓迎できることではありませんでした。

まあ、相手がワンちゃんでないにせよ、
また文字通りでないにせよ、
わたしたちは誰かから咬みつかれることはあります。
そう考えると、自分たちの普段の生活とも重ね合わせられるでしょう。

しかし、わたしは言っておく。
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
マタイ福音書5・44

敵を愛する、と言っても、
「わたしに咬みついてきたアイツ」と思って見ると
正直愛するのは困難です。

どうしても
「わたしに咬みついてきたアイツ」=敵
とレッテルを貼りやすいでしょう。

というよりも、
自由をニーズとしていた、大切にしていたのに
咬みつくという悲劇的な手段を使った相手 と見るなら
見え方が変わるのを感じると思います。
相手を愛しやすくなるでしょう。

このように、ニーズ手段を分ける、ということが大切です。

つまり、ここでは
ニーズ=自由
手段=Aさん「払いのける」/ワンちゃん「咬みつく」
ということです。
手段はマズかったとしても、
Aさんが自由を求めること、ワンちゃんが自由を求めることは
何も悪いことではないし、
敵というレッテルを貼る必要もないことなのです。

わたしたちが主イエスといっしょに背負うときでも
「わたしに咬みついてきたアイツ」を愛する のは重荷でしょう。
わたしの自由と相手の自由を同じくらい大切にすることは
なんだろうと思いながら、できることをすることこそ
主イエスといっしょに背負う…
これが負いやすいくびきであり、軽い荷を背負うことであり、
敵を愛す、と言いますか、
敵というレッテルをはがして、その相手を愛することになります。

悲劇的な手段まで背負う必要はないのです。

【嘆くことの大切さ と 嘆きから喜び祝うことへ】
詩編13編を見ていきます。
いつまで主よ、
  わたしを忘れておられるのか。
いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。2節

ここでは嘆きが祈られています。

自由なり、ニーズが満たされなければ
さめざめと嘆きたいのです。

誰をも責めることもなく、ぜひ嘆いてほしい。

自分なり、他の誰かなりを責めたほうが手っ取り早いんですけどね。

そうやって犯人探しをして犯人を責めるよりも嘆く。

詩編は嘆きの詩編と呼ばれる、嘆いた祈りが多いのです。
だから、わたしたちは同様に嘆きたい。

しかしまた嘆きの詩編で、嘆いたままで終わるのは1つだけなのです。
この詩編13編も最後の6節は
あなたの慈しみに依り頼みます。
わたしの心は御救いに喜び躍り
主に向かって歌います。
「主はわたしに報いてくださった」と。

嘆いた後は、喜び躍るのです。主の報い、救いを信じるゆえに。

犯人探しをして、犯人を責めるよりも
思いっきり嘆いて、スッキリしたら、
全能の神である父を信じて、喜び躍るのです。

もちろん、この13編は嘆く→喜び躍るが1回周期で終わりますけど、
他の詩編だと、嘆く→喜び躍る、嘆く→喜び躍る、嘆く→喜び躍る
と幾たびも続くこともあります。

一度喜び躍れたら、嘆いた原因がきれいさっぱり解消できるわけでもない。
もちろん、いつまでも嘆くだけでもくたびれる。
救いを信じて喜び躍る。
しかしまた嘆く。そしてまた喜び躍る。
そうした繰り返しの中で、嘆きが喜び躍ることへと明確にシフトしていくのです。


もちろん、日々の生活は嘆きたくなるだけのことばかりではないのです。
感謝に沸くこともあります。
それもまた喜び躍りたいのです。

わたしたちは嘆いても、喜び躍ることができます。
それだけでなく、感謝なことも喜び躍ることができます。

【まとめ】
わたしたちは何を背負って生きているでしょうか。
相手の手段にいきり立ち、それをも背負っているかもしれません。

そうでなく、咬みついてきたのはさておき、
自由を求めてたんだよね、あの人は…、と見れるなら
背負い方も変わります。

相手が咬みついてきたことをいつまでも恨む、というよりも
主の前に素直に嘆きたい、嘆きぬきたいのです。

主はわたしたちと一緒にくびきを負って歩んでおられます。
「そうか、咬みつかれて、腹が立ったのだね。自由を大事にしたかったんだものね」と
共感する主イエスがおられます。

この主イエスとくびきをいっしょに負って、軽い荷を負うのです。

「自分の自由も大切しながら、相手の自由も同じくらい大切するって
どうすることですか?イエスさま」
と尋ねながら、主イエスと一緒に歩むのです。

重い荷を負うのは主イエスの心が見えてないことになります。
主イエスのハートのビートに合わせて
主イエスと一緒に軽い荷を負うのです。

時にしっかりと嘆きながら、そしてそのあとは喜び躍って。


※このイラストはMt.Zion Lutheran churchのサイトにあったものを
 掲載しています。

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