久保木牧師のきらきら探訪〜ゆるりと生きる〜

オカリナ奏者で鹿児島在住の牧師が描くきらきらした日常。ぼちぼち更新していきます。
さて、前回は「自分の感情に責任を持つ」ということを書きました。
心の柔軟性が欠けていた場合、相手の言動で傷つきやすくなることを書きました。

キリスト教の福音で大切なことの一つは罪の赦しです。
罪の赦しで明確なのは、加害者だけが赦されるということです。

人間だれしも、迷惑をこうむっているという意味では
どこかは被害者の面もあるでしょうし、
他人に迷惑をかけているという意味では
どこか加害者の面があるでしょう。

被害者意識にとどまっていると、罪の赦しはわかりません。
「あぁ、自分には罪びと、加害者の側面もあるな」とわかってこそ
罪のゆるしがわかります。

被害者意識に生きるというのは、他人のせいにして生きる、ということです。
加害者意識に生きるというのは、自分のせいだなと自覚している、ということです。

前回の記事で書いた、
「タケシから『お前はダメなやつだ!』と言われて、わたしは傷ついた」と
太郎さんが言ったケース。

太郎さんは被害者意識で、他人のせいにしています。
これでタケシさんの態度が変わらなかったら、
太郎さんはずぅーっと苦しみ続けます。
これが「自分の感情に責任を持つ」ことができていないケースです。

しかし、心に柔軟性があれば、タケシがわかってくれないなら、
ジローやゴローにわかってもらえたら、それでいいよね、と思えたら、
太郎さんは(タケシさんという)他人のせいにして生きているのではありません。

タケシさんに自分の気持ちを依存させた自分のマズさに気づいて
軌道修正する柔軟性があれば、
傷つくことはありません。
これが他人のせいにするのでなく、自分のせいにして生きる、ということです。

聖書では、アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べた後、
アダムはエバのせいにして、エバは蛇のせいにしました。
その結果、両者の関係性はマズくなってしまいます。
これが罪の現実です。

「誰のせいでもなく、わたしが食べました」と言えたら、
どれだけ良かったことでしょう。

またのちに、アダムとエバの子、カインとアベルでは
カインがアベルを殺してしまいます。
カインは自分が認められなかった怒りを自分のせいにするのでなく、アベルのせいにして殺してしまうのです。

他人のせいにする(被害者意識)のでなく、自分のせいにする。
もっと言うと
十字架に基づいた自分のせいという意識(赦された加害者・罪びと という意識)
大切だと思います。

「そうは言っても、他人のせいにしちゃうよ〜」という声が聴こえてきそうです。
他人のせいにすると、ある意味、楽です。自分が変わらなくていいのですから。
でも、相手の態度次第のままですから苦々しさは続きます。

ただ、そんなふうに
他人のせいにするあなたを愛し、抱きしめ、ゆるしておられる神のふところで
ゆったりと憩いたいのです。

ゆるしがわからないと、加害者であることは認めにくいです。
ゆるしてもらえるから、加害者であることが自覚しやすい。
それで、自分のせいにできる。
他人のせいにして、自分の感情に責任を持たないことから
自分のせいにして、自分の感情に責任を持つことができる。

ほんのちょっとの変化かもしれないけれど、
他人のせいにすることから、自分のせいにシフトしていけたら
他人の言動に振り回されることから少しずつ自由になっていきます。
そうやって、他人から傷つけられることから自由になっていくのです。
NVC(非暴力コミュニケーション)について
幾人かの牧師でクローズドの学びを続けています。

NVCのいう「他人から心を傷つけられることがない」ということが
話題になりました

NVCでは「自分の感情に責任を持つ」ということが言われます。

たとえば
「タケシから『お前はダメなやつだ!』と言われて、わたしは傷ついた」と
太郎さんが言ったとします。

太郎さんは
尊敬してほしかったか、わかってもらいたかったか、受け入れてもらいたかったか、
おおよそそんな思いがあったのでしょう。

仮にここでは太郎さんはタケシさんから「わかってもらいたかった」とします。

ここで心の柔軟性が問われる話で
心がカタくて「タケシにわかってもらいたい!」ということから離れられないと
心は傷つきます。

しかし、心に柔軟性があると傷つかないのです。
太郎さんは確かにわかってもらいたいですし、
それはタケシからだと良いんだけど、
タケシじゃなくても、ジローからでも、ゴローからでも良いや、と思っていて
実際、ジローさんなり、ゴローさんにわかってもらえたら、傷つきません。

まぁ言ってみれば、転んだときに、体がカタいと怪我しやすいですけど、
柔軟性があれば怪我しにくい、というのに似ています。

で、心がカタくて「タケシにわかってもらいたい」にロックオンしちゃっているのは
「自分の感情に責任を持つ」ことができていません。
「自分の感情の責任」をタケシさんにしてしまい、
タケシさんの態度でたちまち心が傷ついてしまいます。

この理解は、キリスト教の罪理解にも通じるところがありますので
次回、その辺について書きたいと思います。

※わたしはNVC(非暴力コミュニケーション)の公認トレーナーでも
 なんでもありません。
 正確に知りたい方は、マーシャル・ローゼンバーグの著書や
 NVCの公認トレーナーから学んでいただければと願います。

「信仰継承とは何だろう?」、
十数名の信徒による献金で、牧師一家の経済を保証しようとし、
会堂を建てて維持管理しようとする“教会の在り方”まで
継承させようとすると、どうも無理があるように思うのだ。

古本屋も限られた中、本を定価で買うのが当たり前だった時代から
アマゾンで古本があれば、もっと安いものを買おうすることが
ある種、当たり前になった時代に
若者に定額の献金をし続けることを望むのはどこか無理があるように思うのだ。
定額でお金を出し続けることに対し、年配の方よりも
若者たちのほうがシビアだし、
実際そうやってより安いものを選択しやすいのが現代と言える。

最近、アマゾンプライムでわたしは映画を観ることがある。
年会費3900円を払えば、あとは無料で多くの映画を観ることができる。
リアルでもTSUTAYAのレンタルなら旧作を110円でレンタルできる。

映画を観ながらふと思う。
この映画、製作費はいくらだろう?何千万円?何億円?
多くの大人が汗水流して作った2時間の作品を
アマゾンプライムなら無料で、
TSUTATAの旧作で110円(百均の商品を1つ買うのとほぼ変わらない値段!)で
観ることができる。
礼拝で30分の説教をする。4週合わせて2時間分。
じゃあ、それはこれらの映画に比べて、
若者たちが時間を割くに充分なものとして発信できているだろうか。
仮に映画並みだとしても、月定献金は110円?
(もちろん、説教鑑賞代じゃないけど…)。
年間の献金総額を3900円以上にできるだけの
鑑賞に耐えるだけのものであるだろうか。

若者がちゃんと月定献金をしない、という話をそれなりに聴く。
しかし、月定献金をはじめたときの経済観念が
世代ごとでずいぶん違うように思うのだ。

もちろん、キリストがささげた犠牲の大きさ、
そこから与えられる永遠の命、罪の赦し、驚くべき希望、
正義や公正、神の家族のつながり、
そうしたものの尊さをアマゾンプライムの3900円や
TSUTAYA旧作110円と比べるな!と言われればそのとおりだ。

しかし、それより価値あるものとして若者に伝わるように
どれだけプレゼンテーションされているだろうか。
youtubeで大量に流される無料の面白い動画よりも
魅力的なものとして届けられているだろうか。
結局、無料もしくは格安コンテンツの嵐の中、
教会の発信は若者が時間を割いてでも受け取りたいと思えるものを
発信しきれていない現実があるように思う。

本が売れた時代、
本がもたらす情報、知識に人々は代金という対価を払うのが当たり前だった。
しかし、本が売れないネットの時代、
情報は原則、無料で手に入るもの、
youtuberをはじめ情報発信者は情報そのもので収入を得るのでなく、
情報発信時の広告収入で生活している。
手に入る情報、知恵、知識にお金を出すことは
かつてほど当たり前なものではない。

その意味でも、牧師が説教を発信することに対して対価を払う意味を
若者たちは見いだしにくい時代を迎えていると思う。
仮に若者たちが福音を理解し、全身全霊をささげて神に従うとしても、
牧師が地域に在住することをこれまで同様に求めるかというと、
ちょっと違ってくるんじゃないかと思うのだ。

そんなわけで牧師は大切な働きなのだから経済的に支える姿勢が大切だと
若者に伝えたところで
これまでと同様に受け止めることができるかというと
どうも若者たちはそれに対し困惑しやすい社会的背景を
生きているのではないかと思えてならない。

日本経済の縮小とネット時代の情報の共有の時代ゆえ、
若者の消費傾向は、所有からシェアに移行していると言われている。
庶民が持っているお金が少ないのだし、ずっと持ち続ける必要もない。
情報の共有ができるなら、必要な時だけ借りればいいわけだ。

そういう時代に、
一教会として(週に数時間しか使わない)会堂を所有し、
(週に数時間しか会わない)一牧師を教会に居住させ(所有?す)ることが
継承すべきことかというと、若者たちは疑問を呈するようにも思う。

いくつもの教会が同じ会堂をシェアし合い、牧師をシェアしあい、
結果として(数十名の信徒ではなく)複数の教会で
合わせて数百人の信徒で一牧師の生活が成り立つような時代になる、
ということもあり得るかもしれない。

わたしは将来、そうであるべきと言うつもりはない。
しかし、ある意味、
それが抗うことのできない現実になり得るのかなと思うのである。
「教会に説教者がいなくても、youtubeで説教を聞いた後、
感想なんかをシェアする時間が持てたらといいと思うんですよ」
ある大学生のキリスト者と話していたとき、そんな主旨の発言があった。
(自由に発言できる雰囲気の中の発言なので、
この上述の発言に苦情を入れないでくださいね〜)

ネットの時代が来る前、
長距離電話の費用も高く、県外に電話は気軽にできるものでもなかった。
書店にない本を注文しても、本屋に届くのに1か月ほどかかった。
商品を買う際も価格の比較が困難で、
住んでいる地域での価格で買うしかなかった。

そうなると、
その地域に牧師がいる意義はとても大きい。
高額な電話代をかけないまま、そばですぐに相談できる存在は心強い。
youtubeで説教を聞くなんてできないのだから、
リアルに牧師がいることはありがたい。
専門書を入手することも困難だし、
手に入れる情報もネットがなければ限られるため
神学教育を受けた牧師がそばにいることはありがたい。
そういう牧師が遣わされた地域で居住できるよう
衣食住が整えられ、会堂があるに越したことはない。

しかし、ネット時代で、動画チャットを含め双方向通信が
世界中のどこからでもできる場合、
その地域に牧師がいる意義は以前よりも小さくなる。
相談も動画チャットでできる。
説教はyoutubeや動画チャットからのライブ中継でも成り立ち得る。
ネット上の情報も豊富であり、専門書もアマゾン等で注文すれば数日内に届く。
その場合、牧師がその地域に居住する意義は低くなっているように思う。

ネット以前の20世紀の日本の教会の場合
経済成長の真っただ中、老後の不安も感じず、大胆に献金ができた。
しかし21世紀の日本は団塊の世代は定年を迎え、労働人口は減り、
景気が良いとしても先行き不安で企業は内部留保し、庶民にまでお金は回らない。
庶民も将来を心配し、献金も控えたくなる。
長年、教会に通い、献金してきた人はこれまでの傾向を
維持しようとするかもしれないが
もし、今、キリスト者になった場合に、
かつてのキリスト者同様に大胆に献金できるかというと
そもそもの経済的な背景が違うことになる。

そうしたことを考えると、
信徒数十名の教会で
一牧師家庭を迎え入れることにしてきた20世紀後半の教会の在り方が
21世紀にも引き継がれることは困難なように思う。

アマゾンの登場で、地域の書店は潰れていっている。
キリスト教書店も存続の危機にある。
しかし、どうもそれは書店だけのことではないような気がしている。
地域の書店が不要とされていっているように、
地域に牧師が在住することが不要とされていくようになるかもと思うのだ。

もちろん、本を手に取れる書店が必要だという声と同じく
リアルに牧師がいる状況が必要だという声もあるだろう。
その思いを否定したいと思わないし、むしろ、尊重したい。
しかし現に書店が衰退していっているように、
リアルに牧師が必要とされる状況も減退していく流れは
否めないように思うのだ。

(ベテランの信徒はこれまで同様、リアルな地域在住の牧師を必要とするのだろう。
しかし若者の信徒が同様に必要とするか?というのが本稿の趣旨と言える。)
オカリナ奏者として幾度もコンサートをさせていただいている。

本番前は独特の緊張があるし、
あのフレーズどうしても苦手だな、と思ったり、
ケアレスミスをしやすい箇所があったりする。

「練習は裏切らない」という言葉が個人的には好きだし、
事前の練習がしっかりできるに越したことはない。
本番でパニックになっても、練習がしっかりできていると
頭はパニックでも手は勝手に動く、という体験は幾度もしている。

しかし、いつもがいつも練習がばっちりというわけでもない。

先日は、テレビで、アーモンドチョコを食べると
頭がよくなる(正しくは、その人の能力の目いっぱいまでいきやすいのであって
その人の壁を超えるということではないらしい)というをの観て
実際食べてみると、感覚が冴えて、ミスしにくようにも感じたこともある。

今日のコンサートは、
前日にもコンサートがあったことでも、集中力を使い切り、
そのさらに前日は執筆原稿の締切日でもあって
精魂尽き果てる思いで書いたので、こちらでも疲労もたまった状態。
こういうときに追い込んで練習してしまうと、本番の集中力が心配という状況でした。

こういう場合、本番前に
下手に必死に練習しても、練習する割に、空回りし、
ミスタッチばかりを繰り返し、失敗するイメージが強化されてしまうことがある。

不安を感じている自分をしばし味わう。
何を大事にしているから、不安なんだろう?と思いめぐらすと
良い演奏をして聴衆に「受け入れられたい」「認められたい」というニーズが
あることに気づく。

「受け入れられたい」「認められたい」
         ↓
練習不足だから不安
         ↓
緊張感が高まり、体がこわばりだす
         ↓
ミスをしやすい状態になるのに
さらにどうにかしないとと焦り、さらに体がこわばりだす

という自分の状態を確認することができた。

ここからは今わたしが学んでいる非暴力コミュニケーションの話になるが
ニーズは他の手段や他の人からでもある程度埋められる、ということが言われる。

つまり、わたしのニーズである
「受け入れられたい」「認められたい」は
良い演奏や聴衆によらなくても満たされる。ということなのだ。

と言っても、本番前に周囲にいる人に
「受け入れて!」「認めて!」とすがりついても事はややこしくなる。

あとは神の前で静まるのみ。

「神さま、あなたはわたしがどれだけ失敗しても認めてくださるし、
受け入れてくださいますね」
とゆっくりかみしめながら語り、
父なる神にあたたかく抱擁されていることを思いめぐらし
実感していく。

「神さま、あなたはわたしがどれだけ失敗しても認めてくださるし、
受け入れてくださいますね」
とゆっくり語り、実感していくプロセスを5回繰り返す中で
不安は少しずつ消えていき、体のこわばりもほぐれていった。

さあ、本番。失敗したっていい。
ただ、美しさを、感動を表現していこう!と思えると
ワンフレーズ、ワンフレーズに余裕が生まれ、
ミスから自由になっていく。

自分でも集中力を途切れさせることなく、最大限の力が発揮でき、
充実した疲れをもって演奏を終えることができた。

本番を繰り返す中で、本番前の緊張感や不安との自分なりの向き合い方が
さらに見えてきている気がしている。


ちなみに、本番前の猛練習が悪い、というつもりはない。
つまり、今回の私のケースで言うなら、
猛練習の結果、
これで聴衆に「受け入れられる」「認められる」という実感が得られたなら、
不安や緊張から自由になったかもしれない。
それもひとつの道だし、選択肢。

あとは、自分のコンディションと相談、ということなんだと思う。

開く コメント(0)

[ すべて表示 ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事