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両国国技館で行われた、東洋・太平洋バンタム級12回戦は、WBC世界1位の岩佐選手がチャンピオン椎野選手を完封。 前に出て迎撃にまわらされた椎野選手の打ち終わりにカウンターを合わせポイントを稼ぐ展開。 5ラウンド終盤、岩佐選手左ストレートがカウンターでジャストミート。 ダウンを奪いバンチをまとめストップを呼び込んだ。 一ファンの身勝手な戯言だが、今も自分は椎野選手がバンタム級最強と感じている。 リベンジが得意な無類のパンチ力を誇る椎野選手だけにしっかりと怪我を治し、リングに戻ってきてほしい。
しばし戦士の休息を。 村田選手の2戦目は相手の芯でもらわない柔らかさとセンスに手を焼く展開。 退路を塞がず追いかけっこ、狙いすぎ、的になって被弾し、会場がざわめくシーンが繰り返された。 が、長いレンジでのリードと、至近距離で右にダッキングし顔を隠す相手への左フック起こしで展開を変えた村田選手の強打が、芯で相手を捉え始め、テーマを絞った5ラウンド中盤から試合は急展開。村田選手の強打にダメージの蓄積が足を止め、最終8ラウンドにサンドバック状態でフィニッシュ。ストレスの溜まった観客の溜飲を下げた。 雑音が聞こえようが、得手の特化が世界の趨勢。 これまで、日本のミドルウェイトチャンピオンは、海外のミドル級の8回戦ノーランカーに遊ばれるレベルだった。
村田選手はそういう意味において、日本の歴史始まって以来初の、世界のミドルウェイトに、
伍して切り開く唯一無二のタレントだ。
これまでのプロ・ミドル級は、東洋では一番でも、北中米と相まみえた瞬間に敗北が待っていたものだった。
唯一の勝利は竹原さんのタイトル奪取劇のみ。
世界戦線に躍り出る途上に、世界のタレントと伍すということは、
それだけであり得ない価値を持つ。
そこで登りつめたのなら、その足跡は日本プロボクシングの歴史上、
前人未到の快挙だ。
まるで彼がミドルウェイトにおいてオリンピックチャンピオンになったように。
いや、それ以上に。
力みが抜けた終盤の速いバンチと手数は、村田選手のタレントの披瀝。 これが常に出れば、やはり時代は彼を求めてしまうと感じた。
恐るべきは井上尚哉選手。 手数、パワフルさ、試合運び、そしてディフェンスのセンス。 あらゆるエレメントで、会場中の数多の観客たちの期待を凌駕した試合。 口々から発せられた、お〜、ほ〜っという母音のどよめき、波が彼の非凡さを強く印象付ける希有な状況を作り上げた。 こんな会場の雰囲気は生まれて始めて。 |
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人生はままならない。
そう感じる瞬間が多いのが、人という種の特徴だ。
なぜなら、君が自分を知る時に、
どうしても君は他者という鏡に映った自分の姿を、
追い求めてしまう。
それはそれで仕方ない。
人は自分の姿を、他者を通して確認するしか術がないと錯覚しやすい動物だから。
それが全てになってしまうと、
人の鏡に反射した自分の姿、
いわゆる“評価”と呼ばれるものに、
囚われる。
勝負に負けた時、
失敗した時、
叱責された時、
負のそれを突き付けられ、時には人が、
離れていくだろう。
けれど、僕は君に伝えたい。
その時に何を選ぶか?
結果として何を捨て、何を生かすか?
そしてどう歩くか?
今思い通りいかない状態にあるからこそ、
それらの選択が最も大切で、君にとっての真価が問われることとなる。
だから、あえて言うけれど、
悪いときこそ、生かし時。
悪いときの所作ほど、今後の君にとって、最も大切である、ということだ。
腐ってもいい、
泣いてもよいだろう。
ただし、自分をぞんざいに扱ったり、蔑むことだけは、してはならない。
そして、物も人も、
負けた後、失敗して離れていってなお、
残ったもの、寄り添ってくれる人が、本物だ。
君はもう、知っているはずだね。
実は評価は所詮、人が発したセルフィッシュなもので、
君が感じた君と、ズレがあることを。
そして君が望んだ君とも、ズレがあることを。
そうして君が君の実態を掴むことができれば、
賞賛さえ実は、君に向けて発せられたものではないことに、
気付くだろう。
大切で肝心なことは、君が君自身を認めて褒めることに他ならず、
他人のそれは実は、君という名を借りた他人自身の思惑でありエゴに他ならない。
多くを語りすぎました。
繰り返そう。
人の期待を失った時の身の処遇にこそ、
真価が問われる。
君を生かせるのは君だけ、
そう、君の選択と積み重ねのみ。
そして思うようにいかなかった今こそ、正念場。
さあ、かけがえのない自分を労り、
かけがえのない自分を労い、
ご苦労さんと言って歩き出しましょう。
そこに至るために、逡巡し、涙を流し切った後に。
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同じく3日間酒も抜いていたので、即回って黄泉の国へ。 何事も少し離れてみると、また新鮮さが蘇ります。 それにしても美味かった。 |
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損得のみで物事を選択し続け、それを行動選択の基準とし続けると、いづれ人間が腐る。
得のみを得ようとし続ければ、際限のない人の欲に点火し加速し続けるからだ。 得を徳に変えるには、損得勘定を抜きにパブリックな精神というエッセンスがそこに、どうしても必要となる。 動機は利己の昇華で、パブリックな精神というエッセンスを盛ると利他が働き、結果の可否に係らず、関わり自体が達成感や充実感を伴って、いづれこちらに還ってくるのだ。 そしてそのサイクルが、物を見る目を肥やす。 だから、損得のみで、物事を選択し続けてはいけない。 たとえば単純な情けでもよい。 同情でもよい。
人の痛みから発現した感情には自ずと、パブリックな精神が宿る。
そうして感じるそう在ることのすがすがしさ。 至るは心の快晴。 それを味わえば、生きていく上での一つの、ブレない尺度にそれ自身がなるから。 そんな関わりの連綿にこそ、尊徳が宿る機会が生まれる。 物も人も、生かすは人なり。
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週4は蕎麦をいただいている。 そういえば、ラーメンより圧倒的に蕎麦割合が高い。 馴染みの蕎麦屋さんは手打ちで、夏はせいろ、冬は種物を中心に楽しませてもらっている。 こう書きながら今宵も、蕎麦屋さんの指定席に座ったところだが。 昨夜は台変わりでカレーをいただいた。 大汗をかいたが、豚肉とネギが出汁の効いたカレーと共に腰のある蕎麦に絡まって口腔いっぱいに広がり、これまた、堪らない旨さだった。 これから寒くなると、鴨南蛮蕎麦の頻度も高くなる。 鴨出汁はこの上なく香りが豊かで、蕎麦をすするよりは、汁をレンゲで運ぶ回数が上回る。 江戸っ子が台なしをぬる燗のアテにしたのも、あながち頷ける。 昨夜はまた、大将から興味深い話しを伺った。 ざる蕎麦ともり蕎麦の違いだ。 むかし返しは醤油と砂糖を寝かすのが通例だったそうな。 味醂は庶民には高嶺の花で、味醂を加えて寝かせた、いわゆる御前返しを出汁で割って供され、竹ざるに乗せた蕎麦をつけていただいたのが、ざる蕎麦と呼ばれ、もり蕎麦と区別されていたそうな。 なるほど、 連綿と伝承されてきた食の奥行きを感じさせられる話し。 大将から話しを聞いて、今宵食べる蕎麦は自ずと決まった。 「せいろを斤で」 そして、程なくまいりましたよ。 良い色艶です。 では、 お先に。 |


