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体外時計に対して体内時計があるようだ。
体外時計が、国際世界時のルールである協定世界時の基準によって計られている日本標準時を指す、物理的に存在する時を測定する時計とすれば、体内時計は松果体が受けた刺激により、メラトニンが放出され睡眠を促す、生来生物が持っている覚醒と睡眠のサイクルが示す時計的働きと言えよう。 同じように体外時間と体内時間があると感じた。 本来誰にでも平等であり、等間隔である身体の外を流れ体外時計が刻んだ結果としての体外時間。 しかし、均等なはずの時を測定した結果が体内時間においては一秒なり十秒が、同じ間隔とは、到底思えない事が、ままある。 ダウンした時のワン・カウントや、岩場で足を滑らせた時の一秒はまるで、 スローモーションの再生動画の中にいるようだ。 そして体内時間の間隔は、同じダウンでも、全く均等には働かない。 同じダウンでも、倒れかたによっては一秒が十秒になったり、一秒が0.1秒になったりする。 この体内時間の不均等な働きの、不思議さ。 これこそ、ヒトが言語脳を遺伝的変異により獲得し、その結果として記憶や意識という働きを獲得した故の特徴だと言えるのではあるまいか。 本能と呼ばれる遺伝子の設計図に従い、 条件反射という唯一の行動選択の原理によって時を重ねる他種よりも、
言語による選択が可能となったヒトは、 爆発的な力を獲得し食物連鎖の頂点に君臨した。 だが、良いことばかりではない。 同種殺戮や他種絶滅の規模は、他種とは比べものにならない程大きい。 全くもって厄介な進化だ。 体内時間がヒトに、豊潤な思い出を積み重ねをもたらすように、せめて他種に対しても多種多様な在り方を保証する豊潤な種でありたいものだ。 私たちの生活上では、無意識的な行動の積み重ねの時間の方が、意識化された時間の積み重ねよりも、長い。 常に覚醒した状態でいることは、生物である限り不可能だ。 だから情動がもたらす諸行が理性による抑止を上回り、血を多く見てしまう結果となるのであろう。 それがヒトの宿命ならば、いっそ発想を転換し徹底してみたらどうだろう。 範とすべきは他種であり、尊ぶべきは自然なのだ、と。 その徹底こそが、共存共生を可能ならしめ、共栄を実現する道だと思う。 |
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オリンピックチャンピオン&ゴールドメダリスト
村田諒太選手のプロ・デビュー戦が発表された。 対戦相手は東洋・太平洋チャンプの柴田選手(ワタナベ)。 八王子中屋ボクシングジムの戦士達とは二勝一敗と、中屋戦士が勝ち越してはいるが、距離感とフットワーク、スピードに秀でた好敵手だ。 村田選手の苦戦を占うメディアもあるが、それは村田選手の過小評価がすぎると、言わざるを得ない。 現プロで村田選手と比肩するキャリアを持つ選手を捜すと、真っ先に挙げられる選手が、 “ゴッド・オブ・ウォー” 現WBA世界ミドルウェイトの覇者にしてカザフの英雄、ゲンナジー・ゴロフキンだ。 ゴロフキンは世界選手権金、アテネ五輪銀。 ちょうど世界選手権銀、五輪金の村田選手とは逆の戴冠劇だが、アマでは300戦以上闘って僅かに5敗と、その勝率は突出している。 身長は低いが、長いリーチと広い肩が幻惑の要で、長距離砲の射程の長さはミドルウェイトの上位ランカーと比較しても、一二を誇る。 下からの軌道の、長く強く速く多種のパンチは対応困難な必殺無二の武器だ。 そのファイトスタイルも、万能型の攻撃的ストライカーで、プレスで手を出させスピードの緩急を自在に駆使しながらの効かせて連打し早々にフィニッシュするスタイルは、村田選手に非常に近い。 ゴロフキン選手は1ラウンド、プレスをかけずにベストショットをほおって相手の反応を確かめるのが通過儀礼だが、村田選手がデビュー戦の立ち上がり、どの位時間をかけるかで、決着のラウンドは異なってくるだろう。 ボクシングは何が起こるかわからないが、 余程コンディショニングに失敗しなければ、村田選手の勝利は不動だと感じている。 自分として見てみたい要素が2つある。 1つは、村田選手の肩の入れ具合と回転の速さ。 次に出入りの速さだ。 ロンドン五輪時は、ガードで適正距離をつくり、強打でねじ伏せる結果、打点の距離をコントロールする必要が、さほどなかった。 だが、プロの舞台で世界の強豪と伍してゴロフキンをねじ伏せるには、 肩を入れ射程を伸ばす必要性と肩を入れる分落ちる回転の速度を補うトレーニングと、リーチの長い選手と打点でイーブンにもっていく為に出入りの速さを磨く必要が生じる。 そのモデルチェンジさえ成せば、 傑出した対応力と類い希なパンチ力は世界広しといえど、村田選手に比肩する選手は見当たらない。 対ゴロフキン選手に限れば、下からくるあらゆる長いパンチの軌道を、マス・スパーで身体に刻み、見なくとも反応できるトレーニングと、対動時のパンチ精度を上げる取り組みが不可欠だ。 さて、8月25日の日曜日、有明コロシアムでのデビュー戦。 もちろん録画をセットしつつ、五輪ではそのポテンシャルの半分で金メダルを獲得した村田選手の初陣は、間近でライブで、楽みたい。 |
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匂いについて、特に我が国は敏感なようだ。
Yahoo!の表の記事にも、香か臭の類の記事は、日を置かず掲載されている。 原因物質には相応の効能がある。 寝るときにラベンダーの精油をチョンとやられると、心なしか眠りも深い。 ハーブに水をやれば芳香のお返しをいただき、生花を愛でていれば初夏の香が漂う。 時間がある朝、コナの豆を挽くと立ち上るコーヒーの香に包まれ、山火事後に辺りを包んだコーヒーの放香に想いを馳せる。 香のバラエティーは生活を豊かに彩る。 だが一方で、臭いについての記事も多い。 腋臭だの加齢臭だの、暇がないぐらいだ。 渡航経験が豊富な方ならお分かりであろうが、世界は更に、匂いに満ちている。 例えば南米で、一々腋臭に嫌悪を表明していたら、命がいくつあっても足りないだろう。 島国で単一民族化された日本の、これは哀しき性なのかもしれない。 “体臭”という漢字にも、臭が使われている位だし。 切り口を変え、生物という視点からヒトを見ると、ニオイは他種と同様に個性以外の、何物でもない。 そしてそれは、あらゆるヒトに機能する、普遍原理だ。 個体を識別する匂いであると共に、絆を強化しえる匂いでもある。 寝床を共にし刷り込めば、臭いが匂いへ、さらに匂いが香に昇華し、情動の発動装置として機能するまでに関係が育つ。 成熟したオトナなら、それは楽しみ以外の、何物でもない。 また切り口を変えてみよう。 ヒトは生物としての種である限り、自ら放つ匂いからは逃れられない。 それは裏を返せば、膨大な潜在購買層数といえる。 これ以上のマーケットはない。 故に企業は体臭に、臭という悪しきレッテルを張り、商品価値を高めるのだ。 甚だ迷惑な話だ。 踊らされデオドラントに精を出すお子ちゃまオトナも、お子ちゃまオトナだが。 更に切り口を変えてみると、企業が巨額の収益獲得に成功している社会の土壌は、身体という自然よりも脳という意識に偏重した脳化社会と言える。 だから香も、加工され、精製される販売される。 実感出来ないとヒトはそれを軽んじる。 身体が実感できない脳化社会では、自殺やネグレクトが後を絶たない。 ヒトは匂うのが当たり前で、それは本来疎まれるモノではなく、それ自体貴重な情報であり、ある時はモノサシにも成り得る。 企業の戦略としてのプロパガンダーに乗る前に、人としてのバランスを整え、身近な自然の香を愛でる生活を、まず楽しんでみたいものだ。 デオドラントが真に必要なジャンルはむしろ、香りではない気がするが。 |
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易きにながれる、
とか、 働かざる者食うべからず といった語り伝えは、警句としては重要だ。 前者には人のサガが現れているが、後者には具体性がある。 当たり前だが、働かないで食えれば、それにこしたことはない。 だが最低限食えるだけでは、楽しみや遊びの余地がない。 子等に綺麗な服の一つも着せられないし、 学業を継続させてやることもできない。 だから汗水たらして、働く。 昨今問題になっている生活扶助費の切り下げは、その余地の範囲が争点なのであろう。 最低限の生活保証でなければ、易きにながれ、就労意欲など出ない。 社会に対しては、弾き出された不安感と疎外感で一杯だから尚更であろう。 故に例外なく社会復帰の為の一時しのぎのカリキュラムが、公的な生活保証の理想的な在り方なのだと思う。 現社会構造に食わせる余地そのものが枯渇した。 「生活保護の増加。雪だるま式に膨れ上がった借金財政を支える基盤がニート率の高い少子化社会で、一部の世代が超高齢化社会のリタイア層を食べさせる為に更に多くの年金を捻出しなければならない」 例えばこの状況を入試問題として出題すれば、解答は言わずもがなだ。 小さな政府による社会保証偏重への構造改革か、無収入保証の廃止と雇用拡大への構造改革か、 いずれにしても、打てる選択肢は少なく似通う。 だが肝心の構造改革には痛みを伴い、痛みを強いると選挙に負けてしまう。 考えれば考えるほど、頭が痛くなる、由々しき事態だ。 強力な牽引力と計画と理論に裏打ちされた実践が、必要だ。 |
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理性を眠らせる手口やパターンは酷似する。
負荷をかけ涙の浄化作用も利用し、判断停止に追い込み判子を押させ契約関係を成立させる。 押させたら精神的な依存関係を継続させるため、状態と関係を刷り込み続ける目的で、コトバや刺激を絶えず与え続ける。 一旦支配関係が成立すれば大家は絶えず、店子である “コントロールされる、金の成る木” に発信し刺激し続ければ良い。 そこに精神的な依存関係があれば、手変え品換えネタは無尽蔵だ。 店子が永続的な財布を持っていれば、なお良いだろう… といった原理を利用したセミナーや会員制倶楽部は跡を絶たない。 何故跡を絶たないのかというと、経験や知恵の伝承力は、眼前に繰り広げられる体験より力が弱いからなのだろう。 だから類似した手口は、繰り返される。 人にとって、産まれた時に世界も産まれ、没する時に世界も没する。 先人の知恵は学びに相応の時間を用意してあげなければ、智慧に昇華しない。 だから義務教育の充実は、重要だ。 洗脳は抑圧を解放する力も兼ね備えている。 内向的な人間がある日、劇的に変わったとしたら、周りから見れば良くも悪くもあるだろうが、 問題はそんなことよりも、支配関係による経済的・物理的な損失であろう。 対価に見合った技能や資格の継続性が得れず、完結しないセミナーは要注意であろう。 駅まで歩いていたら、途中にある、神社の境内の、集会所の二階から、集団による大声の唱和が聞こえていた。 唱和というよりも、絶叫に近い。 今朝は訓示の唱和。 朝、早起きして声を出す。 それはそれで気持ちよいだろう。 だが、集団で訓示を絶叫するとなると、跡がコワい。 ついつい近所の気の弱いおじさんが、戦時下になったら憲兵になって傍若無人に理不尽な権能を行使した…なんていう話を思い出す。 これも調べてみたら、どの国でも起きてきたパターンだった。 制服が人間性を奪い統一的な目的を遂行する集団を形成する。 そこには必ず司令塔が居るわけで、その司令塔の生活振りを見れば、目的は一目瞭然だ。 我も共に絶叫するか、解毒薬を配るかは、我に不遇を与えた世に対する呪詛の度合いであろう。 ルール化されれば逆らえない。 早朝訓示の絶叫という刺激を受けツラツラ考えてみて、所属する社会について今、何が最も大切か、再考し実感した。 自由な発言を保証する社会的成熟度だ、自由と無責任は表裏だから、定義は難しいが。 何よりも、自由にモノが言える今は実は、歴史的に見ても地域的にみても相当に稀少であることを、今一度肝に銘じたい。 |


