「クズ」になる薬 by 細谷 知司

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休止のお知らせ

諸事情により更新をストップしていましたが、正式に休止を宣言します。
ただ今別ブログ立ち上げによる再スタートを準備しており、その際には改めて本ブログにてお知らせします。
ご迷惑をおかけしており申し訳ありませんが、ご理解いただけましたら幸いです。

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世界と「世界」

「誰もが自分の視野の限界を、世界の限界だと思い込んでいる」
 アルトゥール・ショーペンハウアー
 
この命題について語る際には世界と「世界」との使い分けが必要だ。
「世界」は私たちの認識そのものでしかなく、したがって有限の宿命を纏っている。
想像力の働きによって己の視野よりもいくらかは限界の幅を増やせるかもしれない。
だが、基本的にはほとんどイコールなのだと考えてよい。
だから問題を「世界」というカッコ書きに閉じ込めてしまうのならば、ショーペンハウアーの言は必ずしも適切ではないということになる。
 
他方、世界については己の視野という限界からはかなり先にあるのだと思う。
「思う」としか書けないのは私が「世界」の外に出ることができないからであり、それが有限なのか無限なのかさえも確かめることができない。
己の視野の限界を世界の限界だと思い込む理由は、カッコ書きの「世界」との使い分けができないというまさにその一点にのみ存在する。
私たちの認識が極めて限定的であるという自覚。
そうした自覚の欠如によって人は世界を「世界」に近づけるという愚を犯すのだ。
 
どうしたらそのような愚を減らすことができるのかと考えてきた。
想像力も大切な武器には違いないが、それも「世界」の内部の出来事ゆえに自ずから限界がある。
私がその次に思うのは言葉だ。
「世界」は認識であり、認識は言葉である。
だからこそ言葉を広げることで認識が、「世界」が、広がっていく可能性があると私は考えている。
 
本を読む理由を訊ねられたら、「言葉を覚えるためだ」と答えるようにしている。
色に「紺瑠璃」と「瑠璃紺」があり、私に識別はできないがれっきとした別個の色である。
言葉を知らなければどちらも「紺色」で済ませていた。
たった二つの言葉を知るだけでも、「世界」の色にわずかな広がりが生まれる。
あるいは、「世界」の見え方が少しだけ違ってくる。
 
他者が語った言葉は世界に属している。
時として自らが語る言葉さえ、私にとって他者として現れる場合がある。
そうした言葉を「世界」へと取り込むことによって、その内奥に広がりを持たせること。
もしかしたらそれが私が語り続ける理由なのかもしれない。
「世界」を世界から極力遠ざけておくために。

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再生

この一週間のことを、どうやっても上手く説明することはできない。
おそらく、今もこれからも、誰かに語ることはないだろうと思う。
ほんの少しだけ戯れの質が違っていたら、こうして再び書くことも叶わなかったかもしれない。
私は大きな力に救われ、あるべき場所へと帰還した。
ここを離れることは二度とない。

以前にも書いたが、子供の頃に死んでいてもおかしくなかった。
いや、本当はどこかへ消えた車の玩具の代わりに私が飛んでいたはずなのだ。
しかし私は留まった。
正確に言えば、私の肉だけがこの世に留まった。
魂は抜け殻となった肉の周りを回転する哀しい浮遊物の役割を果たし続けた。

あれから半世紀近い時が流れた。
今回の帰還によって、浮遊していたものがその哀しい回転をやっと止めることができたように思う。
その間、多くの大切なものを傷つけてきた。
そのことを考えると今でも胸が激しく搔きむしられる。
だが、致命的な傷は何とかギリギリのところで止めることができた。

無論、止めたのは私自身の力ではない。
私を救った大きな力が、私にこれ以上の傷をつけさせないよう計らってくれたのだ。
そのことによって私は二重に救われた。
失われたはずの命が体の中に戻り、常にあった乖離の感覚が遠くに感じられる。
あるいは、再生。

そして滅私ということを想う。
煩悩に塗れ、我が身への執着から逃れることなど本当には思っていなかった日々のこと。
ようやくそうした地平にも別れを告げられそうな気がする。
何のために自分が生きているのか、これから生きていくのか。
私は大きな力によってその答えを教えられた。

次に動くときまで、しばし熟成の期間に入る。
だが、以前のように地下室へと戻るのではない。
いわば私は蛹となり、来るべき真の羽ばたきへと備えるのだ。
何のために羽ばたくのかを悟った今、もはや地上を蹴り上げることに怖れはない。
その瞬間が降りてくる日のことを、私は静かに待ち続ける。


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食事

都議選の結果は危惧した通りだったのであまり書きたくはない。
選挙に勝つことだけを目的とした集団がそう遠くない将来に瓦解するであろうことは容易に想像がつく。
どのように壊れていくのかはわからないが、結果は間違っていないだろう。
既視感に少しだけうんざりする。
選挙が風であることは否定しないものの、常に強風が吹くのは如何なものかと思わずにいられない。

14歳の若き天才棋士の連勝が止まった。
率直に言って止まってよかったと思う。
どんなに天才であっても負けない棋士などいないし、選挙と同様この国の誤った好奇に晒される時間は限りなく短いに越したことはないからだ。
いくら人間ができているといっても所詮は中学生だ。
喧騒が終わり平穏な日常が戻ることを願ってやまない。

メディアが報道した内容のほとんどは食事のメニューだった。
それが本当に必要なことであるならば、あらゆる取材対象が何を食べたのかを克明に報道すればよい。
将棋は一般人にはわからないから…という気持ちがメディアの中にもあるのかもしれない。
だが、そのわかりにくさを大衆にわかりやすく伝えることこそメディアの役割ではないのか。
今回の報道姿勢は将棋に対して冒涜的だっただけではなく、自らの意義の放棄にも等しいと感じた。

もっとも、そんなことを感じるのは今に始まったことではない。
本質的な問題をスルーし、その時々で食いつきのよさそうなことだけを報道する。
だから某野党党首の国籍問題や某都議選候補者の金銭問題がまったくなかったことにされる。
そして馬謖を斬った諸葛亮の涙に想いを馳せる。
恥じ入るのは常に己に対してなのだと言われているような気分に襲われる。


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馬謖

安倍晋三が子飼いの某防衛大臣を罷免できずにいる。
そこに苦悩があるのか、ただの開き直りしかないのか、私にはわからない。
日本会議界隈の人たちが絡んでいるから身動きが取れないのかもしれない。
だが、いずれにせよ罷免できない事実に変わりはない。
その間にも波間を漂うのが得意な人たちが支持を伸ばすかもしれない。
だとするとこの問題は二重の意味で罪が重い。
 
命に背いて戦に敗れた馬謖を斬るに当たって、諸葛亮が流した涙の意味には二説ある。
ひとつには優秀な愛弟子であった馬謖を斬ることそのものへの痛み。
もうひとつは劉備の警告を無視し彼を重用した己の不明に対する恥じの気持ち。
もしも安倍晋三が某大臣を罷免するのだとしたら、どちらの想いが胸に去来するのか。
あるいは、どちらの想いが先に立って斬ること叶わずに時を過ごしているのか。
 
戦に例えるのは時代錯誤かもしれない。
だが、三国志の英雄も現代の政治家も臣下(国民)の命を握っていることに変わりはない。
ましてや、国としての最重要課題である国防を担う部署のトップなのだ。
少なくとも私には規律を優先しない理由がわからない。
ないしは、そうしない理由を何に求めてよいのかがわからない。
無知、無恥、あるいは、驕り…
 
この期に及んでの「職責を果たしたい」宣言。
それは別れ間際に「捨てないで」と叫ぶ恋人の一方のように思えてならない。
斬ると一人の(優秀とは口が裂けても言わない)後継者候補を失う。
斬らねば多くの支持者の心を失う。
私なら迷わず後者を選ぶ。涙は流すかもしれない。
斬るなら一思いにいく方が、斬られる方も痛みが少ないのだが。


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