八犬伝の四方山話

ワン達から飛行機まで幅広く私の趣味を書いちゃいます(^^;...

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元台湾総統 李 登輝

親日国家として台湾という国がある。
政治的な理由で、田中角栄だ国交を経ってしまった国家
その中でも一番の親日家だった元総統が寄稿してくれた。
以下Facebookより転載。かなり長いですからお暇なときにどうぞ。

                        
【李登輝元総統】「日台の絆は永遠に─台湾人の英霊に祈る。(上)
元台湾総統 李 登輝
◆はじめに
 台湾の学生が立法院を占拠するという出来事が起こってから、1カ月余りが経った。台湾の将来を担う学生が警察に殴打される映像をみたとき、私の心は激しく痛んだ。これらの問題に対し、私の立場は一貫している。指導者は引き続き彼らの声に耳を傾け、人民の苦しみを理解すると同時に、具体的かつ誠意をもって解決の道を探るべきである。
本稿は、台湾の学生が立法院を占拠する前に編集部の求めに応じてまとめたものである。そのため、現在台湾で起こっている問題について、直接答えたものではない。しかし、台湾にどんな問題が起ころうとも、「日台は生命(運命)共同体」「日台の絆は永遠のもの」という私の主張に変わりはない。失われた部分も多いとはいえ、日本社会はまだまだ社会的規範を維持している。東日本大震災の際の節度ある行動は、記憶に新しい。台湾にとって日本は、依然として偉大な兄なのである。
◆映画『KANO』のこと
 3時間5分の上映時間のあと、私は泣いていた。隣には長年連れ添った妻がいた。映画『KANO』のことである(2015年・日本公開予定)。KANOこと嘉農は正式名称を嘉義農林学校といい、1931年、台湾代表として甲子園に初出場、準優勝を果たす。映画はこの史実を基にしている。当初は弱小だったチームを生まれ変わらせたのが近藤平太郎監督である。映画では日本の俳優、永瀬正敏さんが演じていた。日本人、本島人(台湾人)、そして原住民からなるチームを一つにまとめ上げた近藤監督は、指導者として立派な人物であると思う。
台湾人が好んで用いる言葉に、「日本精神(リップンチェンシン)」というものがある。これは日本統治時代に台湾人が学び、日本の敗戦によって大陸から来た中国人が持ち合わせていない精神として、台湾人が自らの誇りとしたものである。「勇気」「誠実」「勤勉」「奉公」「自己犠牲」「責任感」「遵法」「清潔」といった精神を表す。『KANO』をみて、私はあらためて妻と「日本の教育は素晴らしかったね」と語り合った。『KANO』のおかげで、かつての自分や家族のことにしばし思いを馳せることができたのである。
『KANO』は台湾で大ヒットしているが、「日本の植民地時代を美化しすぎている」という批判も起きた。しかし、台湾が中国に呑み込まれようとしている現在、台湾人が顧みるべきは、この映画で描かれているような「日本精神」である。この「日本精神」に触れることを通して、台湾人は中華思想の呪縛からあらためて脱し、「公」と「私」を区別する武士道的な倫理に基づいた民主社会を確立しなければならない。だから私は映画館を出たあと、記者たちにいったのだ。 
「台湾人はこの映画をみるべきだ!」
◆「なぜ台湾をお捨てになったのですか」
 映画に登場する嘉農高校の遊撃手(ショート)の陳耕元氏(日本名:上松耕一)は実在の人物で、台湾原住民のプユマ族の出身である。1993年、作家の司馬遼太郎さんが台湾を訪れた当時、総統を務めていた私の紹介によって、司馬さんは陳耕元選手の次男、健年氏に会っている。陳健年氏はのちに台東の県長(知事)を務めた人物である。
司馬さんは、この陳健年氏の家族と会食の機会をもった。陳耕元選手の夫人で、健年氏の母にあたる蔡昭昭さんも一緒である。司馬さんの『街道をゆく 台湾紀行』「千金の小姐」によれば「1921年生まれ」とあるから、彼女は現在91歳の私より2歳年上ということになる。司馬さんと会ったとき、すでに70歳を超えていた。
宴が終わるころ、司馬さんは彼女から二度も「日本はなぜ台湾をお捨てになったのですか」と問われ、答えに窮してしまう。「たずねている気分が、倫理観であることは想像できた」と司馬さんはお書きになっている。
今日、台湾が世界一の親日国であることを否定する人は誰もいないだろう。日本統治を経験したいわゆる日本語世代のみならず、若者のあいだでも親日家は多い。しかし、こうした台湾人による日本への思いは、長いあいだ「片思い」にすぎなかったのかもしれない。2011年の東日本大震災時、多額の義援金を日本に寄せたことによって、台湾人による「片思い」の時代は終わった。だがそれにしても、日本の敗戦によって台湾が辿ることになった苦難を思えば、日本人の台湾に対するそれまでの態度は冷淡であったというほかない。とくに日本統治を経験した日本語世代のなかには、了解できないわだかまりを抱えている者がいるのも確かである。
本原稿では、私が「日本人」として生きていた時代のことを語ってみたい。戦前の歴史は、戦後や現代の日台が直面する問題とやはりつながっていると思うからだ。
◆「いかに生きるべきか」という悩み
 1923年(大正15年)1月15日、私は台北の北部にあたる淡水郡の三芝庄に生まれた。日清講和条約によって台湾が清国から日本に割譲されてから、28年が経っていた。
警察官であった父の転勤にしたがい、私は公学校(小学校)時代に4回の転校を経験した。そのため友達がなかなかできず、独りで読書やスケッチをするのが好きな、ひどく内向的で我の強い子供になってしまった。学校で友達と喧嘩することもあったが、弟だからといって私をかばわず、逆に相手を慰めて私の悪いところを叱ってくれたのが、2歳上の兄・李登欽である。
公学校4年生のとき、台北への修学旅行があった。その前夜、私はなかなか言い出せなかった頼みを父に恐る恐る言ってみた。「父ちゃん、台北で小学館の『児童百科事典』と数学の本を買いたいんだけど」。当時の金で4円はしたと思う。下級公務員の月給が3円という時代だ。父からは「こんな夜に頼まれても、そんな大金はすぐ用意できない」といわれ、私は諦めるしかなかった。
その翌日、私はバスに乗り出発を静かに待っていた。すると、窓をコンコンと叩く音がする。見ると、父ではないか。「父ちゃん、どうしたんだい?」。こう尋ねると、「おまえが本を買うための金を持ってきたんだ」と答える。父は親戚中を回り、お金を集めてきてくれたのである。そのときの天にも昇るような嬉しさは、いまでもはっきり思い出すことができる。この話をある本に書いたとき、自分も同じようなことがあったと、たくさんの日本人が手紙をくれた。当時の日本の教育熱を物語っていよう。
父が買ってくれた百科事典を私は隅から隅まで読んだ。すると「自分は何でも知っている」「級友たちは大したことはない」という驕りの気持ちが生じてきてしまった。知識を蓄えることによって、肥大化した自我意識が私を苦しめるようになったのである。
公学校高学年になっても、母は私を膝に乗せて話すほど溺愛していたが、私の脳裏には次第に「堕落」という言葉がよぎるようになった。そこで両親に「こんな田舎の学校にいては中学校に進めないから、淡水の街に行かせてくれ」と頼み、自宅から15km離れた淡水公学校に転校することになったのである。私は先生や友人の家で下宿生活を送り、「居候3杯目にはそっと出し」という悲哀を舐めながら、自己形成に努めた。
淡水公学校を卒業した私は、淡水公学校高等科に進んだ。その後、台北市国民中学に入学したが、1年生のときにチフスにかかってしまい、半年間、学業の休業を余儀なくされた。私の将来を心配した校長の松田先生は、プロテスタント系私立学校の淡水中学校の2年生に編入する手続きをとってくれた。
このころになると、「私は誰か」「人間とは何か」「いかに生きるべきか」という疑問がますます私を悩ますようになった。救いとなったのは兄・李登欽の存在である。兄は地域の青年団に入っていた。青年団の活動の一つに座禅を組むというものがある。私は兄の影響で鈴木大拙などの本を読むようになり、座禅を組んで苦行に身を晒すことで自我を克服しようとした。
便所掃除のような人の嫌がる仕事も率先してやった。朝6時に学寮の起床の鐘が鳴るや、朝食時間の7時までの約1時間のあいだ、便所掃除をするのである。こういった修練を学校時代に積んだことは、のちに指導者となった際、貴重な経験として生きた。
中学生のころ、私は絵描きになることを夢見ていた。水彩、油絵、版画。どれも一生懸命に取り組んだ。これをジュディ・オングさん(台湾出身の歌手)に話したら、彼女が制作した大きな版画をプレゼントされたことがある。
絵描きになるなら学歴は必要ないと考えていたが、あるとき受験勉強の本に出合う。この本には「しっかり勉強したいなら、旧制高校から帝国大学に進みなさい」という受験生に対する励ましの言葉が書いてあった。素直にこれを受け止めた私は、旧制台北高等高校(文科甲類)を受験することになった。試験は当然、日本語で行なわれたが、小学生のころから日本語の百科事典に親しみ、中学生時代には『古事記』や『源氏物語』、『玉勝間』といった主要古典はもちろん、夏目漱石の全集を愛読していた私にとって、国語や漢文の試験はまったく苦にならなかった。台湾人の私が両科目の試験で満点を取ったことで、先生たちも驚いていたようだ。
日台の絆は永遠に─台湾人の英霊に祈る(中)
元台湾総統 李 登輝
◆新渡戸稲造との出会い
台北高校の一クラスの定員は40人。そのうち台湾人の生徒は3人か4人だったと記憶している。在学中、とくに差別を感じたことはない。むしろ先生からはかわいがられたほうだと思うし、級友たちも表立って私におかしなことをいう者はいなかった。自由な校風の下、私は級友たちとの議論を楽しみ、大いに読書に励んだ。
本を読むには時間がかかる。そこで私はノートにどんな分野の本を読んだか、いつまでに読むかを逐一メモしていた。哲学、歴史、倫理学、生物学、科学。ほんとうに、ありとあらゆる分野の本を読んだ。高校を卒業するまでに、岩波文庫だけで700〜800冊はもっていた。私の人生観に影響を与えた本は多いが、1冊を選ぶとするならば、19世紀の英国の思想家、トーマス・カーライルの『衣裳(衣服)哲学』を挙げる。しかし、カーライルの英文は格調が高すぎて、読み進めるのがなかなか難しかった。そんなとき、台北の図書館で新渡戸稲造の『衣裳哲学』についての講義録に出合った。これに大いに助けられ、またその内容に感銘を受けた私は、『武士道』を座右の書とするようになる。京都帝国大学で私が農業経済学を学んだのも、農業経済学者であった新渡戸の影響を受けたことが理由の一つである。
新渡戸は『武士道』のなかで、「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」を武士の徳目
として挙げている。しかし『武士道』でなにより重要な点は、それらの実践躬行を強調していることであろう。一回しかない人生をいかに意義あるものとして肯定するか。そのために「私」のためではなく、「公」のために働くことの大切さや尊さについて『衣裳哲学』や『武士道』から学び、若き日の私は救われたのである。
◆「決戦下の学徒として」
 学問好きが高じて私は最終的には歴史の先生になるつもりでいたが、戦争の余波は台湾にも及んでおり、私は台北高校を半年間繰り上げて卒業することになった。卒業まであと少しというとき、私は『台湾日日新報』の取材を受けることになった。同紙は日本統治時代の台湾で最大の発行部数を誇っていた新聞で、1943年(昭和18年)6月28日発行の同紙に私のインタビュー記事が掲載された(現在、台湾の大学の図書館などで、記事が検索、閲覧可能である)。
<“決戦下学徒の決意”といふ問に答へ、臺北高校3年文科の本島人学生岩里君は左の如く語つた。
決戦下の学徒として僕達の切實の感情は何と言つても大東亞戦に勝ち抜くと云ふことだ。学問をするといふことが要するに國家目的の為であつて、これまでのやうな学問の為の学問といふ考へ方は絶対にあり得ないと思ふ。
学園内のこれまでの弊衣破帽の風も現在としては一時代の遺物とも言ふべきもので、吾々には新しい立場が必要だと言ふことは痛感してゐる。唯高校生は内省的な傾向が強いので外部に余りはつきり自己の立場を示すことがないが、外部に於てはさうした氣持は相当強いと思ふ。
今や臺湾にも陸海軍の特別志願兵制度が施行され、私も大学の法科を出たら志願をしたいと父母にも語つてゐるのであるが、軍隊の制度は吾々が自己の人間を造る所であり、色々と苦しみを忍んで自己を練磨し明鏡止水の窮地に至るに是非必要な所だと信じてゐる。近くに内地に行くこととなつてゐるが内地に行つたら日本文化と結びつきの深い禅の研究をしたいと思ふ。
過渡期の知識層といはれる面に一番欠けてゐるものは力であり、指導力であつて現在でも國民をひきづつてゐるのは哲学でも理念でもなく、國民の氣力であり学問はその國民の氣力に立遅れた感があるが國民の力の原動力となる学問が必要だ。
現在の哲学が軍人に讀まれてゐぬといふ所に現代の学問の危機があるのではないだらうか。本島では大東亞戦の認識がまだ最末端まで徹底してゐない所がある。さう言ふ人達に對する啓蒙は私としては本島人に對する義務教育が一番有効に働くものではないかと思ひ義務教育の施行された事は尊い有難いことだと思つてゐる。結局教育と徴兵制が本島人が日本人として生まれ変わつて行く大きな要件ではないかと思ふ。>
1行目に岩里君とあるが、これは私の日本名である。当時は岩里政男と名乗っていた。また、「決戦下の学徒として僕達の切實の感情は何と言つても大東亞戦(大東亜戦争)に勝ち抜くと云ふことだ」とあるが、実際に私は京都帝国大学に入学後、学業をわずか1年2カ月ほどで切り上げ、陸軍に入隊した。召集ではなく、自分の意志で志願したうえでのことである。
私がクリスチャンになったのは戦後のことであり、当時は日本の教育の影響で徹底した唯心論者であったが、「死」がどういうものか、わかっていたつもりである。「武士道とは死ぬことと見つけたり」。『葉隠』の精神そのままに、国のために戦って死んでも惜しくはないと考えていた。日本統治時代の教育を受け、志願兵となった当時の台湾人青年にとって、それはごく普通の感覚であった。
大阪師団配属後、私はすぐに台湾・高雄の高射砲部隊に派遣された。一歩兵として最前線をさまよい、少年期から私を悩ませてきた生と死の問題に決着をつけるつもりだったが、学徒兵であった私の希望は受け入れられなかった。高射砲部隊というのは爆撃がなければ暇なもので、日本では禁書だったレマルクの『西部戦線異状なし』などを読んでいた。
◆「帝國海兵としてお役に立つ」
 先の記事にも触れられているが、1943年に台湾で海軍の特別志願兵制度が発表された際、入隊希望者が殺到した。私の兄は晴れて第1回目の志願兵となる。次に紹介するのは、『台湾日日新聞』(昭和18年9月22日付)に掲載された兄(日本名:岩里武則)のインタビュー記事である。
<岩里武則君(22)臺北市下奎府町4丁目=武則君は大正10年臺北州三芝庄新少基隆に出生、淡水で高等小学校卒業後家業を手伝つてゐたが昭和17年8月台北州巡査を拝命、北署管内太平町3丁目の派出所に勤務する明朗溌剌な青年巡査であるが、海兵第一番乗りの喜びを下奎府町の自宅に訪へば武則君は妻女奈津惠さん(22)、愛兒美智子ちやん(4つ)、憲昌ちやん(2つ)の前で感激の面持で次の如く語つた。
私が海軍特別志願兵を受験した時から必ず合格すると信じてをりました。しかしそれが本當に實現してこんなに嬉しいことはありません。勿論銃後にあつて治安保護の戦士としてお國に盡すこともご奉公ですが、出來る事なら第一線でお國のために華華しく活躍したいと思つてをりましたがそれが本當になりました。しかも無敵帝國海軍の一員として名譽ある軍艦旗の下で米英撃滅に働くことが出來るのです。自分としてこんな感激に浸つた日は今日までありません。これからは立派な帝國海兵としてお役に立つ日の一日も早く來ることを願ふばかりです。>
1944年、高雄から程近い左営の海軍基地に初年兵として配属された兄は、日曜の休みに私を訪ねてきてくれた。そして2人で一緒に記念写真を撮ったのが、生前に会った最後となった。
そのとき、兄が私に言い残した言葉は「南方のある港に駐在になる。おまえも近く日本に行くだろう。会うのは今日が最後だな」ということだけだった。南方というのはフィリピン・マニラのことである。しかし軍機に触れるという理由で、兄は私に具体的な行き先を告げなかった。
当時、兄は最優秀の巡査として、台湾でいちばん大きな派出所に勤めていた。そんな立場をなげうっての出征である。しかも、若い妻と幼い子供を残して行くのである。いったい、どんな気持ちだったのか。兄の戦死から70年経ったいまでも、私の心の整理はついていない。だが、「立派な帝國海兵としてお役に立つ」と語った兄の気持ちに偽りはなかったと思う。兄も私もほんとうに若かった。国のために立派に戦って死ぬという理想に燃えていた。いま言えるのは、それだけである。
◆東京大空襲で奮闘
 高雄で兄と別れたあと、私は輸送船に乗って台湾・基隆を出発した。潜水艦の雷撃を避けるため、輸送船は中国大陸、そして朝鮮半島沖の浅瀬を進みながら、日本をめざした。門司港(福岡県)に着いたのは、基隆を発ってからじつに21日後のことだった。
1945年2月、私は千葉県稲毛にあった陸軍高射学校に入り、いわゆる予備士官教育を受けた。早速、3月10日には大きな戦いが待っていた。東京大空襲である。帝都に侵入するB-29の大編隊に対して、われわれの部隊は高射砲を撃ちまくった。台湾の防空戦で実戦慣れしていた台湾出身者は、日本人幹部候補生が慌てるなか、大いに奮闘した。焼夷弾の破片が私の鼻をかすめたが、軽傷で済んだのは幸いであった。この戦闘では高射学校直属の小隊長が戦死。私はたちまち飛び出して、代わりに指揮を執った。
翌日、軍命で東京東部に出動し、被爆地の整理、被災者の救済に当たった。現場をみて指揮する大切さを知り、このときの経験が1999年の台湾大地震で役に立った。
その後、私は名古屋の部隊に配属になったが、この地域も米軍による空襲が激しかった。米軍が最後に名古屋を爆撃に来た日の戦闘では、付近の工場を片っ端から爆撃していったが、いま思い出してもほんとうに悲惨な光景だった。すでに米軍の爆撃で名古屋城一帯は焦土と化しており、われわれはお城の裏にテントを張って野営をしていた。
8月15日の玉音放送はたしかに聞いたが、音が小さすぎて内容がよくわからなかった。あとで日本が降伏、戦争が終わったと聞き、正直、ほっとしたのを覚えている。これから日本がどうなるのか、そのときはまったく見当もつかなかった。2、3日後、京都に帰りたいと申し出てみたら、あっさり許可が下りた。京都帝国大学に戻ってみたら、数日後に通知が出て、退職金を取りに来いという。日本で1年は暮らせるぐらいの額の金はあったと思う。しかし、すでに故郷の祖父からは「早く帰れ」と矢のような催促が来ていた。私も故郷のことが心配でたまらなかった。
京都周辺では台湾人による帰国準備があまり進んでいなかったが、同じころ東京では、台湾の友人たちが集まって浦賀から帰国する計画を進めていた。そこで私は東京に向かい、新橋駅近くにあった台湾出身の陳さんの家に住ませてもらい、出発の船を待つことにした。辺り一面焼け野原のなか、陳さんの家だけがポツンと建っている状態だった。
1946年4月、故郷の三芝庄に無事帰ることができた私は、祖父母や両親と再会したが、兄の行方についてはまったくわからずにいた。しかも、使用人として雇っていた親戚の女の子が不思議なことをいう。軍刀を持った血まみれの兄が蚊帳の外に立ち、兄嫁が大事に育てた子供たちを見ていたというのだ。その使用人の女の子は実家に帰ってしまったが、程なくして亡くなったと聞いた。
 私は、兄が家に来たのは戦死した日ではないかと思った。どうしても兄にもう一度会いたかった私は、毎晩、寝ずに兄の霊が現れるのを待っていた。72kgあった体重はみるみるうちに60kgまで痩せてしまった。しかし、いくら待っても兄の霊は現れない。心労からか、半年も経たないうちに母は癌で亡くなり、祖父までもが肝臓を悪くして死んでしまった。父は95歳の天寿を全うしたが、遺骨が還らないことから、兄が死んだことを最期まで信じなかった。父が兄の墓を建てなかったため、私の家族は兄の霊を弔うこともできなかった。
日台の絆は永遠に─台湾人の英霊に祈る(下)
安倍総理へ3つのお願い
大東亜戦争に出征して散華し、靖国神社に祀られている台湾人の英霊は2万8000柱。現在、このことを多くの日本人が知らないのは残念である。
もし、先の戦争における台湾人の死を無駄にしないために、日本は何をすべきかと問われれば、私からは次の3つのことをお願いしたい。
1つ目は、昨年4月に締結された日台漁業協定に従い、尖閣諸島周辺における日台間の漁業権の問題を円滑に解決することである。この協定は安倍総理のリーダーシップによって結ばれたもので、私は高く評価している。「水面下で私が反対派を説得した」という論文も目にしたが事実無根で、私はいっさい何もタッチしていない。ひとえに安倍総理の決断のおかげだ。実務レベルではまだまだ解決すべき課題は多いだろうが、引き続き安倍総理の指導力に期待したい。
2つ目は、中性子を使った最先端の癌治療技術を台湾の衛生署を通じて台湾の病院に売ってもらうことである。前ページに掲載したのは、1943年、私と両親、兄の家族が一緒に写った集合写真である。兄の嫁やその子供たちを含め、現在でも生きているのは私だけだ。戦死した兄を除くと、ほとんどが癌で亡くなっている。日本と同じように、台湾でも死因の1位は癌である。日本がこの技術を台湾の病院に売らないのは、中国への技術流出を恐れている事情があるのかもしれないが、私、李登輝がそのような事態が起きないよう責任をもつ。
3つ目は、「日本版・台湾関係法」の制定である。1979年、アメリカは国内法として台湾関係法を定めて台湾との関係を維持し、中国を牽制した。しかし日本では、72年の日中国交正常化にともなう日台断交以来、台湾交流の法的根拠を欠いたままである。
近年、私は台湾に来た日本の国会議員に必ず「日本版・台湾関係法」の制定について尋ねるようにしている。すると、反対する人はほとんどいない。しかし一部には、中国が反対するから難しいと囁く人がいる。中国が口を出す権利がいったいどこにあるのか。台湾は中国の一部ではない。台湾は台湾人のものである。
日本が中国の対応を恐れて台湾との義を軽んじることは了解できない。歴史的経緯を顧みれば、台湾の未来について日本にも一定の責任があると考えるのは当然であろう。安倍総理はしっかりとした国家観の持ち主であるようにみえる。直接、お会いして頼むわけにはいかないので「日本版・台湾関係法」の制定についてはこの誌面を通じて深くお願いすることにしたい。
ちなみに、72年の日台断交は、前から予想していたこともあり、当時の私は淡々と受け止めた。そのころは政務委員として農業問題を担当しており、台湾の農民のことで頭がいっぱいだったこともある。ただ国民党政府は2.28事件(1947年2月28日、台北市で闇タバコを販売していた女性への暴行事件を機に、台湾全土に広がった騒乱。以後、約40年にわたり、台湾は戒厳令下に置かれた)で多くの台湾人を虐殺した張本人であり、心のなかではけっして支持していなかった。戦後のある時期、私は仲間数人と古本屋を開いて生計を立てていたが、そのうち一人を2.28事件で失っている。遺児である息子が父の面影を求めて会いに来たのは、総統を辞めてからのことだった。
1994年に司馬さんが再び台湾に来て、私と対談したときのことである。どんなテーマがいいか、妻と相談したら、「台湾人に生まれた悲哀」にしようということになった。400年以上の歴史をもつ台湾の人びとはいま、自分の国ももっていなければ、自分の政府ももっていない。国のために尽くすことすらできていない悲哀を抱えている。そんなことを司馬さんに話した。いまでも台湾は国連に加盟できていない。中華民国なのか、台湾なのか、国号の問題もある。私は総統時代に台湾の民主化のために全身全霊で取り組んだが、いま再び国は混乱に陥っている。ただ、若い学生を中心に、真の民主化を望む声が全土に満ちているのは、台湾の未来にとって希望であるとも感じている。
台湾のために十字架を背負って
 昨年、私は大病を患い、いよいよ生命の残り時間を意識するようになった。だからであろうか、兄のことを思い出す機会が増えた。なぜ、兄は妻と幼い子を残して、死ななければならなかったのか。どんな顔をして死んでいったか。なぜ死んだのが兄で、私ではなかったのか。そんなことを思い、ふと夜中に目が覚めて涙を流すことがある。両親を慕う気持ちよりも、兄を慕う気持ちのほうがずっと強いのは、自分でも不思議である。ほんとうに仲がよい兄弟であったと思う。
兄の霊がいまどこにいるか。いくら考えても、簡単には答えは見つからない。あなた方日本人は、この霊魂の問題をどう考えるのか。米国のアーリントン国立墓地とは異なり、靖国神社には遺骨はない。あるのは魂だけである。これは世界でも特異な例ではないか。「神道は心の鏡」(新渡戸稲造『武士道』)という。ならば兄の霊はいま日本人の心の中にいるというべきかもしれない。靖国神社に兄を祀ってくれて、ほんとうに感謝している。
私は今年で91歳になった。台湾のためなら、もういつ死んでも構わないと思っている。結局、「生」と「死」というものは表裏一体の関係にある。一回しかない生命をどう有意義に使うか。「死」をみつめて初めて、人間はそれが理解できる。これは私の確信である。しかし、確信は行為に移さなければ、何の役にも立たない。
なにぶん老齢の身である。身体はなかなかいうことを聞いてくれない。まことに情けない限りだ。しかし、台湾こそ私の生きる国なのだ。台湾のために十字架を背負って、誰を恨むことなく、牛のように一歩一歩、国土を回り、果てる所存である。

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